久遠

 頭の上に太陽、耳の中には蝉時雨。
 足元の影は短く、陽光を照り返したアスファルトは紺色なのに白く映る。
 陽炎が揺らぎ、世界が波立つ。思考が一瞬停止して、自分が今何処に居るのかも分からなくなった。
 踏ん張ろうとした膝が笑う。
 あ、やばい。そう思った頃にはもう遅くて。
 意識はそこで途切れた。
 

 笛の音、複数の同じ掛け声。重なり合う音色、頭の中で目まぐるしく反響して五月蝿いくらいに。
 蝉の声は遠くなった、けれど人のざわめきが今度は近くなり、瞼を持ち上げたのに真っ白い視界に困惑して綱吉は長い息を吐き出した。
 山形だった胸が凹み、また膨らむ。自発呼吸は落ち着いている、乱れていた脈も。けれど相変わらず瞬きをしても変化のない視界の原因は分からず、眼病を患っただろうかと脈絡もなくそう思った。
 と、耳元微かにものが動き擦れ合う音が。
「……?」
 何かを囁かれたような気がしたが、まだ機能が正常に戻っていないのだろうか、音を拾いきれない。遠く響く声は聞こえるのに、奇妙なこともあるものだ。思考回路を繋ぐ脳細胞も途中で道に迷って変な方向に繋がろうとしているらしい、まとまりない考えがとめどなく溢れては消えて行き、集中できない。
 軽い、硬い足音。僅かに遅れて、爆発気味の髪に何かが触れる感覚が微かに。
「気がついた?」
 三秒の間をおき、前髪を掬い上げた手が一緒に白い背景を綱吉の視界から取り除いた。湿った感触が頬を擦り、張り付いていたものは引っ張られて、剥がれて行く。
 タオルだ。
「え……」
 瞳は定まらない。明るさに慣れたと思っていたけれど、それはタオルがある程度の光を遮ってくれていたお陰だった。直接網膜に飛び込んできた天井光は、今の綱吉には強すぎた。構える余裕もなかった所為で再びタオルなしでも世界は白い輝きの中に落ちて、低く呻いて喉を痙攣させた彼は前歯で唇を噛み、頭を仰け反らせて後頭部を柔らかなクッション地へと押し付けた。
 閉ざした瞼はきつく、力がこもり、逆に痛いくらい。露になった年齢の割に幼い喉仏がヒクリと揺れ、タオルの下辺を中空に彷徨わせた人物もまた息を呑んで動きを止める。もう一声かけてからにすべきだったかと、湿ったタオルを縦に伸ばした彼は自分の行動の軽率さを悔いた。
 もう一度被せてやるべきか、と迷う。しかしそれは既に、長時間綱吉の顔上半分を覆っていた所為で体温が移り、濡らした当初の冷たさは彼方へと消え去ってしまっている。生温く、部分的に乾きだしているそれを再び肌に付着させるのは、下手をすれば気持ち悪さを増長させかねない。
 彼は諦めた風に肩を落とすと、だらしなく垂れ下がるだけだったタオルをまず真ん中で折り、更に二度畳んで脇のテーブルへ置いた。
「ぁ……?」
 再び大きく聞こえた衣擦れに、綱吉は口を広げて息を吐き、深く吸い込んだ。
 瞼の裏に感じた光は最初こそ激しかったが、時間を置いたお陰で今は大分楽になった。呼吸も元に戻り、吐き出す息に宿る熱も徐々に温度を下げている。
 頭の中身も少しずつ整理が出来て、不確かだった此処に至るまでの記憶がゆっくりだが蘇ってきた。
 倒れたような気がする。
 倒れた瞬間は覚えていないものの、その手前の自分は、確かにかなり危ない状態にあった。
 学校の校門が見えて、安堵した直後だった。久方ぶりの光景に口元が緩み、間に合ったとホッと胸を撫で下ろしたと同時にぐらりと脳みそが激しく揺れた。
 陽射しはまだ八時台前半とはいえ、真夏のそれ。学校の敷地に育つ木々に張り付いた蝉の声は五月蝿く響き、遮るもののない道路は熱せられた鉄板にも等しい状態だった。
 車道を行く乗用車が景色の中で左右にぶれ、背後から追い越そうとする自転車のベルがまるで頭にバケツを被らされている時みたいに反響して痛い。金槌で横から頭を強打された感覚に見舞われ、立ち続けるのが困難な状況に追い遣られた綱吉の身体は大きくぐらつき、左肩が学校を囲むコンクリートのブロック塀にぶつかった。
 衝撃で彼の身体は反対側にずれ、後ろから来た人にぶつかろうとする。だがふらふらと、千鳥足になっている彼を避けるのは簡単で、相手も難なく綱吉の身体を反対へ押し返して校門を潜り抜けていった。
 時間も押し迫っていたので、あちらは急いでいるところを邪魔されて迷惑に感じていたに違いない。けれど既に力が入らなくなっている四肢を支えるのが精一杯だった綱吉にとっては、ちょっとした振動であっても全身の隅々にまで衝撃は走り、真っ白に焼けた思考はその瞬間に停止する。
 身体の各部位が胴体から外れ、バラバラに砕け散っていくような意識が広がる。仰ぎ見た空は青くて、その中で眩しい太陽は二重写しになり残影が網膜を焼いた。走り抜けた飛行機の影、低い唸りに三半規管が砕け散る。
 蝉の声が止んだ。噴出した汗が粒となって頬を伝い、顎から地面へと滴り落ちる。唾を飲もうとした喉はけれど空気を押し返しただけで、声は出ずに何もかもが霞んだ世界に閉じ込められた。
 踏ん張ろうとした膝がカタカタと不気味に笑う、腿の肉が骨からごっそり滑り落ちていく衝動に心臓が恐怖した。
 なにか、違うものが意識に覆いかぶさろうとしている。奪われる、硬く目を閉じた先にはまだ白い閃光が。
 怖い。奥歯を噛んだ。けれど沈み行く意識は止められない、間に合わない。崩れる。重力を失った身体が右なのか左なのか、兎も角どちらかに大きく傾いて頭が下を向いた。
 誰かが悲鳴をあげる、周囲にまだ居残っていた人の一瞬のざわめき、それが遠い。
 手を伸ばす、捕まえて欲しくて。けれど指先は虚しく空を切り、助けを乞うた祈りは灼熱の空に溶けたはずだった。
 意識が完全に途絶える、寸前で。
 誰かが細い指を繋いでくれた気がした。
 夢か、現実か。幻か、悪夢か。
「じっとしていた方がいい」
 世界の境界線を見失って漂っていた意識が、不意に呼び覚まされる。
 目を閉じたまま瞬きをして、綱吉は肺の中に残っていた息を一斉に吐き出した。投げ出した両足を揺らす、少しだけ背中よりも高い位置に脹脛が置かれていて其処から先は下が空洞だった。
 ジッとしていろとは言われたが、全身がだるくて仕方がない。腹の上に並べられていた腕のうち右手を額に持ち上げた綱吉は、再び触れてきた手の冷たさに安堵の色を浮かべ左腕もまた横へずらした。
 だが支えるものがその先にはなくて、いきなりガクリと肘が落ちる。引きずられるままに体の左半分がそちらへ流れて行って、驚いた拍子に綱吉はその場で飛び起きた。
 だが一瞬視界に入った空間を把握しきる前に、クラリと来た頭が血液不足を訴えて後ろへと傾く。身体が自分のものではないみたいにいう事を聞かなくて、勢いよく倒れこんだ背中は思いの外柔らかかった。
 この感触には、覚えがある。
「だから言ったのに」
 呆れ調子で呟く他人の声も聞こえて、綱吉は額を覆った左手で光の直射を避けながら指の隙間から世界を見回した。
 そこには、窓から吹き込む風に揺らされた黒髪が。
「ヒバリさん……?」
「覚えてる?」
 何のことを言っているのか瞬時に理解できなくて、綱吉は首を右に傾けながらまだ下に垂れ下がったままの腕を引き上げた。
 肘で寝かされているソファの縁を凹ませ、手首を当て所なく揺らす。脹脛が乗っているのはソファの肘置き、だから足首は頼りなく空中に漂っていたのだ。
「おれ……?」
「昨日、何時に寝たの」
 最初は保健室かと思ったが、どう考えても違う。応接室だ、雲雀の。
 何故こんな場所に自分が居るのだろう、しかもベッド代わりにソファに寝転がらされて。
 触れた前髪は僅かに湿り気を残していて、頭の下にも何かが置かれている。ややぶよぶよしているそれは、さっき自分で起き上がってまた直ぐに倒れた衝撃で、元々あった位置から随分とずれてしまった模様だ。
 首の下に敷かれていた、今では氷も殆ど溶けて水ばかりが入った袋。こちらも、若干生温い。
 左手をずらして腹筋に力を入れる、頭の下に来ていたそれを取り除けば、横から伸びてきた手が素早く回収していって綱吉の手は空気だけを捕まえた。
「えっと」
「朝ごはんは? 食べてきた?」
 矢継ぎ早に質問が繰り出され、答えを考えている暇がない。やっと部屋の明るさにも目が慣れて、けれど直接見上げ続けるのも苦痛だったからまた目を閉じた綱吉は、瞼の裏でも瞳を泳がせた。
 どうしてそんな事を聞くのだろう、雲雀の質問の意図を掴み損ねた綱吉の眉間に自然と皺が寄った。
 それを解きほぐすつもりはないのだろうが、雲雀の手がまた落ちてきて綱吉の前髪を払いのけた。広げられた掌を押し当てられ、無言の時が続く。最初は冷たく感じたものの、じっとしている間に綱吉の熱が乗り移ったのか、彼の手は温くなっていった。
 綱吉と同じ体温になったところで、離れていく。
「あの」
「覚えてない?」
「なにを」
「倒れた」
 主語も述語も著しく欠落した単語だけの質問に、困惑した綱吉が薄目を開けて彼の様子を窺い見る。けれど瞳を向けた先に彼はおらず、声は足元から飛んできた。
「え……?」
「今日の最高気温、三十六度」
 一見脈絡のないように感じる雲雀の台詞も、一箇所に集めてひとつずつ丁寧に積み重ねていけば、何を言いたいのか曖昧ながらも分かってくる。脱がせておいた綱吉の靴をソファの傍まで移動させた彼は、すれ違い様に綱吉のぼんやりした顔を軽く叩いて離れていった。
「寝たのは……二時」
「朝食は?」
「食べて、ない……です」
 八月の、登校日。夏休み中であるけれど、今日だけは午前中の短時間だけ学校に登校させられる。特に何かをするわけではないし、出席を取って戦争学習をして、それで解散。長期旅行に出て参加出来ない生徒も当然いるので、学期中は賑やかな教室もどことなく閑散として淋しげなのは仕方がないこと。
 正直面倒くさいだけなのに、毎年必ず、この時期に続いている行事のひとつだ。だが夏休みでだらけきり、寝坊体質が染み付いた身体には朝七時に起きるのも苦痛であり、登校日自体もつい頭から忘れがち。綱吉もその典型にはまり、今朝奈々に起こされるまですっかり失念していた。
 制服は奈々が用意してくれていたからなんとかなったが、起床時間から通学路を駆け抜ける時間を計算したら見事にぎりぎり。朝食をのんびり食べている時間もなくて、顔を洗って歯を磨いただけで慌てて家を飛び出した。しかし深夜までゲームをしていた所為で睡眠不足、空腹も半端ではない。照りつける太陽はそんな綱吉の都合などお構いなしで、気温はぐんぐん上昇し続ける。
 アスファルトの照り返しで地表付近の温度は上空のそれよりも高い、日頃の運動不足が祟って全力ダッシュは十分もしないうちに息が切れた。体調は万全ではない、汗は止まらず喉は渇いて頭の中はぐるぐるし、吐き気もする。やばいかな、と思った頃になんとか学校が見えてきて、その後は。
 校門を前にして途切れた意識、気がつけば応接室。
 誰が運んでくれたのか、考えるまでもない。
 綱吉はゆっくりと、今度は慎重に体を起こしてソファに座り直した。呼吸が楽になるようにと制服のボタンは外されており、体を揺らすと前身ごろが思い切り左右に開いた。下着を着込む手間も惜しかったので、指定のシャツの下は素肌がそのままに。健康的とは言い難いひょろっとした自身の体躯を目にして、綱吉は慌ててシャツごと体を抱き締めた。
 顔が赤く染まる、落ち着いた熱がまたぶり返しそうだ。しかし雲雀は全く意に介した様子もなく、綱吉に背中を向けてなにやらごそごそしている。
「うあ……」
 よくよく見ればズボンのホックも外され、ファスナーも半分程度ずりさげられていた。金属の歯の隙間からオレンジ色の今日のトランクスが顔を覗かせていて、恥かしさに消え入りたくなる。慌てて膝を閉じてファスナーを上げ、ホックを嵌める。途端腰の肉がベルト部分に食い込んで、小さな痛みが生じた。
 気遣いは有り難い、こうするのが熱中症の対策に良いというのも分かる。
 けれど、理解できても理性は追いつかず、真っ赤に頬を染めた綱吉は自分の体たらくをひたすら悔やみ頭を抱えた。
「なにしてるの」
「いえ……」
 自分が情けなくて涙が出そうなのです、とは流石に言えず、言葉を濁して首を振り、綱吉は戻って来た雲雀に顔を上げた。
 透明なガラスのコップに三分の二ほど、やや濁った水が注がれている。湾曲した雲雀の手が向こう側に見えて、小さな気泡が底から水面に向かってひとつ登っていった。
「あの」
「スポーツドリンク」
 これはなに、と咄嗟に聞き返そうとした気持ちを読んだのか、雲雀は淡々と告げてコップを綱吉へと差し出した。
 気泡がまたひとつ浮き上がり、弾けて消える。但し炭酸ではないようで、泡の出具合は非常に少なかった。恐らく注ぎいれた時に混じっただけなのだろう。
 渋々と受け取り、両手で包むように持つ。僅かに波立つ表面をじっと見詰めた綱吉は、恐る恐る目の前に立つ雲雀を窺い見て頷く彼に意を決した。
 肘を引き、持ち上げて手首を傾ける。大事に両手で持ったコップの縁を下唇に押し当てて、少しだけ広げた隙間から中の液体を咥内に注ぎ込んだ。
 喉が鳴る、身体が乾いていたことを今更に思い出した。
「……ぷはっ」
「まだあるよ」
 コップの中身を一気に飲み干した綱吉を満足そうに見詰め、雲雀は身体右半分を後ろに向けて言った。つられて綱吉もそちらに目を向け、テーブルの上に無造作に置かれたペットボトルの存在に気づく。
 大きめのボトル、中身は少し減っていた。冷蔵庫から出したばかりなのか今飲んだ分は冷えていて、今頃になって全身から汗が噴き出て来た綱吉は塩っ辛い唇を舐めた。
 雲雀も飲んだのか、減っている量と今綱吉が飲んだ量は計算にあわない。だが見る限りテーブルにコップはなく、あるとすれば綱吉の手の中にだけ。他には折り畳まれたタオルと、その表面を潰している水の入った袋くらいで、相変わらず調度品も限られた殺風景な応接室が目の前に展開していた。
 汗とは違う唇のしょっぱさがどうも気に掛かるが、あまり深く追求するともっと怖いことになりそうだ。綱吉は冷えた笑いを能面の裏に隠し、空になったコップを遠慮がちに雲雀へ差し出した。だが彼は綱吉に、まだ半分近く残っている大型サイズのペットボトルを渡してきただけだった。
 思わず引き攣った笑みが零れる。二杯目からはセルフサービスか。
 仕方なく利き腕でボトルを受け取ると、雲雀の手が離れた瞬間肩が抜け落ちそうな衝撃に見舞われた。まだ全身の筋肉は本調子を取り戻すに至っていなかったようで、落としはしなかったが肘を膝で強打してしまい、電流が走り抜けて全身が小刻みに痙攣する。
 痛いのだが悲鳴をあげるのはあまりにも自分が滑稽すぎて嫌で、涙目で必死に我慢して綱吉はボトルを一旦テーブルに避難させた。ソファへの座りを浅くしてコップも横に並べ、蓋を外して漸く中身を注ぎいれるのに成功する。
 雲雀はその間、窓辺の自席へと移動していた。
 開け放った窓からは木漏れ日が差込み、風が吹くたびにゆらゆらと光が前後左右に揺らめいた。時折瞳に光が入るようで、眼を眇めた彼の横顔を眺めつつ、綱吉はまだ完全に癒えていない喉を潤す。
 二杯目も一気に飲み干してホッと息を吐き、漸く人心地ついたと口元を拭う。水分補給の大事さと、ただの市販のスポーツドリンクの美味しさを改めて実感し、綱吉はボトルに並べる形でコップを置いた。
「そういえば、授業」
「もう解散してるよ」
 正確には授業ではないのだが、通常の出席に含まれるので授業とも言えるかもしれない。
 折角夏休みの貴重な一日、早起きして登校したのに点数がつかないのは勿体無すぎる。
 けれどぴしゃりと言い切った雲雀がスッと切れ長の瞳を綱吉に向けてきて、まともに目が合った綱吉はどきりとしながら膝の上で手を握った。
「え……」
「もうじき、十二時」
 大体のクラスが、十時半にはもう解散したらしい。綱吉のクラスもご多聞に洩れず、だ。今学内に居残っているのは教師と、部活動に精を出す一部の生徒だけ。
 さっきから断続的に聞こえて来る掛け声や笛の音を思い出し、綱吉は納得顔で頷いてから丸めた拳で自分の頭を一度叩いた。
「なに?」
「へ?」
 急に聞かれ、綱吉は間の抜けた声で雲雀を見返す。彼は腕組みの姿勢のまま綱吉の拳を指差しており、示されているものを見た彼はああ、と頷いてから小さく舌を出した。
 特に意味は無い。あるとするならば、今日が登校日だとすっかり忘れていて何も準備できていなかった上、日射病で卒倒し結局点呼に間に合わなかった自分を諌め、戒めるためか。
 けれどゆったりとした動きで凭れかかっていた壁から離れた雲雀は、一歩ずつ音を響かせて綱吉の側へ歩み寄りながら首を振った。
「今日は、……今日だから、ね」
 仕方がないのかもしれない、と、何を知っているのか雲雀は密やかな笑みを口元に浮かべてテーブルの前まで戻った。
 綱吉が締めたボトルの蓋を指二本で捻って外し、まだ重いそれを易々片腕で持ち上げる。綱吉が空にしたコップに半分程度注ぎいれた彼は、先ほどとは逆の動きで蓋を閉め、コップを押して綱吉の前へ移動させた。
 視線で動きを追った綱吉が、不思議そうに雲雀を見上げる。
「あれ」
 目をやっただけのつもりなのに、左手が何故か勝手に動いて雲雀のシャツを掴んでいた。
 いつの間に、と自分で意識していなかった腕の在り処に困惑し、綱吉は雲雀が何か言い出す前に指を外そうと力を込めた。
 普通ならそこで指は解ける筈だ。雲雀を捕まえているのは綱吉の手であり、綱吉の手を動かせるのは綱吉自身の意思だから。
 けれど。
「あ、あれ?」
 傍目から見たら非常に奇怪な光景として映っただろう。綱吉は、自分としては指を解こうと頑張っている。けれど彼の脳から発せられた信号は肘の辺りで寸断されてしまっているのか、全くいう事をきかなかった。肩を揺らし、肘を上下に跳ねさせるものの、そこから先は全く無反応。
 まるで接着剤で固められてしまったみたいだ。いや、綱吉が解こうとすればするほど、彼の左手はより強固に雲雀のシャツを掴んで放さない。
 このままでは引っ張りすぎて彼のシャツが伸びて、今はスラックスの中に綺麗に納められている裾もはみ出てきそうだ。彼が怒り出すのも時間の問題であり、何をしているのかと詰問してくる雲雀の姿を想像して綱吉は冷や汗を流す。
 それなのに指は、彼の意思に反して雲雀に縋りたがる。
「なんで、はずれなっ……」
 自分でも意味が解らない、こんなことは今までなかった。
 経験した事のない出来事に直面させられ、綱吉は混乱する。テレビドラマや映画ではこんな風に身体の制御が聞かなくなる登場人物のシーンもあったけれど、実際自分の身に起こるとは誰も予想していない。どうして良いのかも分からず必死に抵抗し、右手で肘を捕まえて引っこ抜こうとするものの、これもまるで意味がなかった。
 倒れた直後だけに、すぐに息が上がる。水分は補給したものの、胃袋はまだ空のままなのだ。
 焦れば焦るほど、気が動転して冷静に状況が見られなくなる。何故こんなことになっているのか、原因もさっぱり不明なのが尚悪い。
「なんでっ」
 目尻にじわっと熱が宿り、涙腺が緩む。大粒の涙が溢れ出そうになって、奥歯を噛んで堪えた綱吉の左手に、そっと熱が覆いかぶさった。
「っ――」
 反射的に身が竦み、肩が強張る。上半身が激しく揺らいで、朝倒れる寸前に似た幻が二重写しに綱吉の前を駆け抜けて行った。
 喉が渇く、さっきあんなにも飲んだのに。その前にも、意識を失っている間に脱水症状を起こさないようにと、雲雀から直接飲まされてもいたはずなのに。
 身体の節々が痛い、怖い。目の前に白い光がちらつく、景色がダブって違うものが混ざりこむ。飛行機雲が走った空を見上げている、此処は部屋の中なのに。
 あちこちに火の手が上がっている。瓦礫になった知らない街が、眼前に――――
「この手は、君の手じゃないよ」
 ゆっくりと強張り、力みすぎた所為で血色が悪くなっている綱吉の左手を揉み解して雲雀が言う。
「え……」
「僕の握っているこの手は、君の手じゃない」
 助けて、と口走る。知らない声が自分の中から零れ落ちたことに、綱吉は呆然と雲雀を見上げた。
「君の掴むべきは、僕じゃないだろう」
 抑揚の乏しい声で雲雀が続ける。小指に続き、折れ曲がっていた綱吉の中指を真っ直ぐに伸ばした雲雀は、下から現れた白地のシャツの皺をなぞって中指を掌に包み込んだ。
「みず……」
 掠れた声が、茫然自失とした綱吉の唇から落ちた。音もなく砕け散ったそれに、雲雀は人差し指も解き終えて顎で後ろのテーブルを示す。
「あれは、君にあげる」
 飲んでいいよ、とそう告げて。
 雲雀は綱吉の親指の背をそっと撫で、自分の上着から完全に引き離した。
「お行き」
 短く雲雀が告げた。直後、スッと、綱吉の背中から前に向かって何かが通り抜けていく。
「え……――」
 それまで重く感じていた身体が、急激に軽くなった。
 驚き目を見張り、綱吉は繋がれたままの手から雲雀に目を向けなおす。彼はやや疲れた表情をして首を振り、もう大丈夫と言わんばかりに肩を落とすと、場を誤魔化したいのか、綱吉の頭を叩くように撫でた。
「ヒバリさん、今の」
「この時期は、よくある」
「うそ」
「嘘だよ」
 止んでいた蝉時雨がまた、窓の外で騒がしく響きだした。
 ぽんぽん、と最後は子をあやす時の仕草で頭を二度叩き、雲雀の手は離れていく。綱吉は何も聞けなくて、頬を膨らませてひとり拗ねた。今度は自分の意志で右手を伸ばし、雲雀のシャツを捕まえる。彼はくすっ、と小さく笑うと、仕方のない子だと呟いて腰を曲げて姿勢を低くした。
 ご機嫌取りの口付けは、前髪を避けた額に始まり頬を伝って下へと降りて行く。
 こんなことでは屈しないぞ、と思いつつも触れては離れる熱の行方が気に掛かって、綱吉は落ち着きなくソファで身体を揺らすと浅い呼吸を繰り返しながら目を閉じた。
 直前、盗み見たテーブルの上のガラスのコップ。
 透明な雫を垂らすそれは、いつの間にか空になっていた。

2007/7/30 脱稿
2008/8/23 一部修正