夏唄

「ツーくーん、ちょっとお願い~」
 階下で響く母の声に呼ばれ、当て所なく揺らすだけだったシャープペンシルを机に置く。椅子を引いて立ち上がり、この暑い最中に関わらず昼寝に興じる赤ん坊を尻目に綱吉は部屋を出た。
「なに?」
「ちょっと、お使い物頼まれてくれないかしら?」
 階段の手摺り越しに下を覗き込めば、十数段の段差の先にエプロン姿の奈々の下半身だけが見て取れた。
 身を乗り出しても、彼女の首から上は家の構造が邪魔をしてどうやっても視界に入らない。綱吉は肩を竦めると姿勢を戻し、素早く頭の中で今日の予定を振り返った。
 宿題は、まるで捗っていない。夏休みの課題は、一学期の成績が散々だったのもあってかなりの量を追加で渡されてしまったが、冷房を入れない夏の部屋はまるで蒸し風呂であり、そんな中で頭を働かせるなんて殆ど不可能だ。
 獄寺はイタリアに一時帰国しているし、山本は野球部の練習で忙しい。赤ん坊達も昼の暑さには流石に参っているのか、リボーン以外も座敷に敷いた布団で昼寝の真っ最中。
 ひとり遊びをするのは、多人数ではしゃぐのにすっかり慣れてしまったお陰でつまらない。
 勉強は進まない、テレビゲームをする気も起きない。平日なのでテレビ番組も下世話なワイドショーばかりで面白くないし、家で出来ることは限られている。
 ふたつ返事で奈々に頷き、綱吉は素足にサンダルを引っ掛けて表に出た。
「寄り道しちゃダメよ?」
 小学生じゃあるまいし、と笑いたくなる注意事を奈々から受け、綱吉は行ってきますとだけ言い残しそのまま扉を閉めた。日陰になっていた軒の下を出ると、雲ひとつない快晴の空に灼熱の太陽が笑っている。
「うわー……」
 感想のひとつでも述べたいところだが、残念ながら感嘆の息しか出てこない。右手を庇にして頭上を仰ぎ見た綱吉は、ぐんぐん上昇する気温と湿度の高さに辟易しながら、大きめの歩幅で家の敷地を飛び出した。
 熱を含んだアスファルトが、サンダルの底を通して厚みのある皮膚にも伝わってくる。しかも足の表面を露出させる履物なものだから、側面から回り込んだ熱が直接肌を刺して、上からも下からも温風に覆われて痛いくらいだ。
 失敗しただろうかともう一度空を仰ぎ見て、そのまま首を回して背後に隠れた自分の家を探す。けれど既に十五メートル以上先へ進んでしまっていて、今更戻るのも気が引けた綱吉は恨めしげに更に空を睨みつけ、諦めようと肩を落とした。
 頼まれたのは、近々町内で開催される祭りへの初穂料を神社へ納めに行くこと。あの長い石段を登らされるのかと思うと辟易させられたが、一日中家に居るので最近は運動不足気味だから、たまには屈伸運動でもして体を動かしておかないと、休み明けの体育の授業で怪我をしかねない。
 それにしても、と交互に足を前に繰り出しながら綱吉は考える。
 くすんだベージュ色の膝丈ハーフパンツに、袖なしの水色のパーカー、サンダルはオレンジ。比較的露出部分が多く、熱が衣服の中に篭もらない格好をしているものの、それを上回る高温に噴き出る汗は止まらない。帽子を被ってくるべきだったと後悔しても遅く、パーカーも殆ど飾りなので役に立たない。
 被っても良いのだが、布地自体は薄い。それに綱吉の髪の毛は人のそれを軽く上回る量と爆発具合をしているので、頭全体を覆おうものなら背中の分の布も引っ張られて不恰好なことこの上ない。
 その姿を想像して、あまりの滑稽さに首を振る。妖怪ぬりかべみたいな状態では無いか、それでは。
 とてもではないが街中を歩くに適した格好とはいえなくて、結局我慢するしかないと息を吐いた彼は額に手を置き、指先を滑った汗を爪で弾き飛ばした。
 容赦なく照りつける太陽光は鋭く、むき出しの肌を遠慮なく刺していく。脇を通り抜ける低速の車が吐き出す排気ガスも火傷をしそうなくらいに熱くて、煙たさに咳をしながら両手を使って懸命に顔の前から外へと掻き出した。
 住宅街の真ん中を走る道なのに、通行人の姿は先ほどからまるで見かけない。皆この暑さに参ってしまっているのか、日の高いうちは外での活動を控えようとしている気配がそこかしこから伝わってきた。
 聞こえるのは遠くでカキ氷を売る、姿なき車の声と、蝉時雨。
 じりじりとアスファルトが焦げている、ならばその上を行く自分は美味しく焼けるのを待つステーキか何かか。空想すると意味もなく可笑しくて口元が緩むが、声を出して笑う余裕も元気もなくて、綱吉は唇を皮肉そうに歪めると隙間を広げて咥内の熱を舌で押し出した。
 骨と皮ばかりのステーキなんて、ちっとも美味しくないだろう。汗ばんだ右腕に視線を移し変え、掌を握り締める。自分の体の一部分であるに関わらず、肌を擦り合わせるとその熱が向こう側に伝って気持ちが悪くて、いっそ肉体自体を放棄してしまいたい気持ちに駆られた。
 何故夏があるのだ、と季節の移ろいがあるからこそ美しいこの国を根底から否定する考えが頭に浮かび、消えていく。思考はまとまらず、一定の場所にも留まる事無くただ流れ、薄れていく。次第に意識が遠くなっていくのが分かるのに、耳の奥に響く蝉時雨は勢いを増して脳髄を容赦なく揺さぶった。
 頭蓋骨の中に蝉がいるみたいだ。
「あつ……」
 声に出すのも億劫だし、声に出せば余計に暑さを感じてしまうと分かっていても、呟かずにいられない。
 信号待ち、その細い柱が作り出す頼りない影に縋りつく形で居場所を定め、肩で息をしながら額の汗を腕で拭う。しな垂れた前髪が視界の上半分を塞ぎ、汗を吸って肌に貼りついていたシャツを引っ張って間に空気を送り込む。生温い風は心地よさとは無縁であり、眼前を横切る車が起こす突風もまた、不快としか言いようがなかった。
 昨日の天気予報では、あまり正確に覚えていないものの、今日の最高気温は今年一番かそれに近いものになるだろうと伝えていた。もっと早く思い出していれば、きちんと準備してから外出したのに。悔やんでも、すべては後の祭り。
 拭っても、拭っても、後から後から汗が滲み出て止まらない。湿度も高いのでなかなか蒸発して乾いてくれないものあって、全身がべったりとした生温い皮一枚に覆われている感覚がする。自分の体温にすら、吐き気がする。
「えっと……」
 信号が赤から青に切り替わり、向かい側から日傘を差した女性がゆっくりと歩き出すのが見えた。
 太陽は綱吉の背中の側にあり、女性にとっては正面から日が差していることになる。彼女は黒い傘をやや前に倒す形で顔を隠し、綱吉の横を静かに通り過ぎていった。
 白粉を塗られた肌に、真っ赤に塗られた唇が異様に目立つ。スッと走った鼻筋から上は見えなくて、僅かに微笑んでいるような口元だったけれどそれが果たして誰に向けられた笑みなのかまでは解らない。知り合いにあんな女性は居ただろうか、と横断歩道を渡り終えた綱吉は肩越しに振り返るが、もうその先に人の姿は無かった。
 黒い傘も、見えない。
 信号が点滅し、赤になる。走り出した車の巻き起こす風を避けて前に向き直った綱吉ではあったが、疑問符は頭の上に浮かんだままで首も右に若干傾いでいる。
 四辻で、近くに曲がり角は無い。近くの家に入ってしまったのだろうか、と気になってまた振り返るものの既に遠ざかった交差点は建物の影に隠れてしまっていたし、ただすれ違っただけの女性に執心し続ける理由もない。気にするだけ無駄だ、とぼんやりした頭で考えて、横断歩道での出来事を記憶から追い出した綱吉は、目的地まであとどれくらいだったろうかと側にあった電信柱に張られた地区名と番地に目を向けた。
 青いプレートに白で書かれた文字を読むが、番地と地図上の現在位置が一致しない。この道で合っていたはずだけれど、と消失しかかっている自信を奮い立たせて、綱吉は日陰の少ない道を急いだ。
 汗は止まらない、蝉時雨も。
 ジージーと世界を転覆させたがっている声がひっきりなしに両方の耳から入ってきて、頭の中央でぶつかり合っている。振動をやめない鼓膜がいい加減破れてしまいそうで、頭を振って追い出そうとするものの気になりだしたら止まらず、余計に音は大きく響いた。
 シャッターの閉まった店がある、店名は風雨に晒されたからか霞んで読めなかった。
 誰かが捨てて行ったと思しき黒いゴミ袋が乱雑に積み上げられている。壊れた椅子がそこに寄りかかり、その隣には赤錆びた自動販売機。電気は入っているようで、二列に並んだ展示ケースの下のランプは右から左へと順番に点滅していた。
 手を伸ばしそうになるが、財布を持ってこなかったことを思い出す。奇跡が起こらないかと淡い期待を抱いてコーラのボタンを押してみたが、大きな箱は綱吉に無反応だった。腰を屈めて釣銭が出てくる小さな隙間に指を入れてみたが、出て来るのは熱風ばかり。しかも銀色のそこは程よく太陽熱を吸収していて、触れると爪の先が溶けて張り付きそうな具合だった。
 ひっ、と喉を擦る息を吐いて慌てて腕を引っ込める。胸元に庇った人差し指の腹は、指紋の形がくっきり浮かぶ程の赤色に染まっていた。
 頭上を飛び去る飛行機の音、けれど影は落ちずに本当に音だけ。一瞬泣き止んだ蝉の声に顔を上げ、綱吉は無数の水晶を瞳に焼き付ける陽光に瞼を下ろした。
 水が飲みたい。
「はー……」
 胸を反らせて背筋を伸ばし、首を後ろに傾けた姿勢で息を吐く。浅く上下した胸部に手を添えて、心臓の音を確かめてから身体を前に倒し、綱吉は緩く首を振ってこめかみの鈍痛をやり過ごした。
 下から見上げるようにして眺めた目の前のアスファルトには、ゆらゆらと透明な影が漂っていた。それは赤くない炎が揺れる姿に似て、世界は上下左右に歪んだものとなって彼の眼前に広がろうとしていた。
 生温い少量の唾を飲み、口の渇きを癒す。睫を伝った汗を弾いて顎を拭い、もう嫌だと訴える身体を鼓舞して彼は一歩前へと進み出た。
 延々と続く焼けた大地には時々打ち水がされていたが、この気温ではまさに焼け石に水だ。その部分を通る時は一時的に湿度の高さを覚悟せねばならず、綱吉は噴き出続ける汗を頻りに拭って犬のように舌を出した。
 肩でする呼吸の回数は徐々に増え、大きく開かれていた瞳も今は半分閉じている。
 ジィジィとしつこく頭に響く蝉の声はまた周囲を埋め尽くし、空一面が蝉で覆い尽くされているのではと思えるくらいの鬱陶しさを綱吉の前に転がした。蹴り飛ばしてやりたいところだが足は重く、ただ自分の身体を事務的に前に送り出すだけが精一杯で。
 水が欲しい。
 喉が渇いて仕方が無く、先ほどの自動販売機の前でもうちょっと粘るべきだったかと後悔する。下を覗き込めば誰かが落とした百円玉でも見付かりそうだったものを、と考えるが、そのためにはこの灼熱のアスファルトに手を添えなければならないという思考に至って両肩が落ちた。
 眼の奥が乾く、瞼を開いているのさえ辛い。
「吐き、そ……」
 口元を手で覆う、呻くように呟いた声が風のない空に溶かされる。
 真っ先に干上がった唇はカラカラで、爪の先が引っかかり微かな痛みが走った。もう飲み込む唾さえ出なくて、空気ばかりを飲み込む喉は焼け付く寸前まで来ている。
 陸に上げられた魚の気分だった。今目の前に池や川が現れたなら、それがどんな汚れて不衛生な水だとしても、構わずに素っ裸になって飛び込んでしまえそうなくらいに。
 蜃気楼がアスファルトを覆い隠す。ぐにゃりと歪んだ世界に綱吉は瞬きを繰り返した。
「……っ」
 幻が見えた自分に内心驚きつつ、けれどどこか無感動な自分に、無性に笑いがこみ上げてきて止まらない。寄りかかった壁は熱かったがまだアスファルトに倒れこむよりはマシで、支えを得たことにホッとしたからか膝から急激に力が抜けて行った。
 蝉の声が全身を取り囲む。じわじわと自分の世界が異なるものに侵食されていく気配に、綱吉は目を閉じた。
 汗ばんだ肌に張り付いた前髪が、そっと掬い上げられる。
 氷のように冷たい感触に、ホッと安堵の息が漏れた。けれど目を閉じる直前まで人の気配は周囲に皆無で、この手は誰のものだろうと気になるのに閉じた瞼は先端に錘でもぶら下がっているのか、力を入れてもまるで開いてはくれなかった。
 風が吹く、全身の熱を奪い去っていくそれが心地よくて綱吉は薄ら唇を広げて息を吐いた。
 濡れたものが、その乾ききった唇に触れる。
「ン……?」
 眉間に皺を寄せ、綱吉は低く呻いた。下唇の左端にまず触れた何かは、ゆっくりと表面をなぞりながら右へと移動していく。その次は上側の右端に移り変わり、左へと。
 二度に渡って円を描くように触れたのは、水の気配。
「……ぁ」
 零れ落ちた綱吉の声に、触れてきたものの主は笑ったようだ。
「開けて」
 囁かれた声は低く、僅かに掠れていて、耳からだけでなく全身から内に沁みこんでくる。聞き覚えがある気がするのに即座に記憶の中の人物と重なり合わなくて、闇に閉ざされた視界の内側で綱吉は困惑に駆られた。
 知っている。けれど、知らない。
 ――誰?
 向こうは自分の事を知っているのだろうか。心に抱く不安とは裏腹に、身体は支えるべく背に回された腕に安心しきって力を失い、柳のようにしな垂れて寄りかかろうとしていた。右肩に感じていた壁の硬さはいつの間にか消え失せていて、自分が今何処に居るのかも分からなくなる。
 指の背で押された上唇を、促されるままに持ち上げる。潤いを外から与えられた唇は痛みもなくすんなりと開かれ、隙間から白い歯が覗いた。
 舌の上に落ちた、数滴の、水。
「んぁっ」
 けれど感覚が可笑しくなっていたようで、冷たいはずのそれを熱いと感じ、綱吉は肩を跳ね上げた。
 慌てて口を閉じようとして、空間に潜り込んでいた細いものを噛んでしまう。前歯に感じた感触は柔らかいけれど芯は硬く、一ミリも刺さらなかった。
 恐々持ち上げた舌で触れたそれは、身に覚えのある味がした。
 絡み付かせれば、笑う気配は一層濃くなる。押し返され表面を擽る動きにも馴染みがあって、歯を引っ込めて唇だけで甘く噛み締めてから綱吉は喉を鳴らし、唾を飲んだ。
「だめだよ」
 引き抜かれた指が名残惜しく、口腔を広げて舌をも露にして追いかける。だが閉ざされた視界では去り行くものに縋り続けるのも難しく、綱吉はもうひとつ喉仏を上下させて身動ぎをした。
 蝉時雨が聞こえない、代わりに太陽の匂いが鼻腔を擽る。
「おとなしく、ね」
 優しく言い聞かせる声は柔らかに広がって、綱吉を包み込む。心地よさが胸の中に広がって、この腕は安心していいと、相手が誰だかも解らないのに警戒心はなかったものにされていった。
 知っている。けれど矢張り、知らない。
 ――だれ、だろう……
 確かめたくて手を伸ばす。握り返された手は、大きくて熱い。
 やや骨ばった指の関節、中指の側面に古い傷跡、何度も確かめるように広げては握る仕草。
 知っている。知っている、知っている――――知っている、のに。
「だ……れ」
 思い出せない、解らない。繋がらない。
 記憶の中の彼と、重ならない。
 目の前の気配が微笑む。優しい、穏やかな、綱吉だけに見せる、綱吉だけが知っている笑顔、だ。
 返事はなかった、代わりに吐息が鼻先を掠めて通る。
「んっ……」
 言いかけた言葉が押し戻され、一緒になって生温いものが落ちてきた。唇に、他人の熱。
 気持ち悪いと感じていたはずのそれが、今は無性に悲しくて、嬉しい。
 喉が鳴る、流れ込んだ水が舌の裏を濡らして咽頭を通り越し、胃袋へとゆっくりしみこんでいくのが分かる。干上がる寸前だった身体に水分が戻ってくる、途切れかけていた心音が静かに活動を再開させる。
 それなのに何故か、涙が零れた。
 水は三度に分けて与えられ、その度に綱吉が噎せて激しく咳き込むのを宥める手が背中を撫でた。この動きも知っている、慈しみ愛おしんでくれているのだと分かるさり気無い心遣いが、どうしようもなく嬉しくて心を切なくさせた。
 頭を振り、口付けから逃げる。乾いた体は満たされていくのに、反対に心が乾いていく。締め詰められて苦しいと訴える胸が、目の前の存在を押し返した。
 触れる寸前だった唇が、狙いを外して鼻の頭を撫でた。
「つなよし」
 困ったような、貴方の声は。
 知っているはずの彼の声と、少しだけ違う。
 割れたガラスよりも鋭い切っ先の瞳を持つ彼の瞳は、こんな風に哀しみに染まってなどいないはずなのに。
「だれ……」
 知らない、知らない。
 俺は貴方を知らない。
 俺の中の彼と貴方が重ならない。
 つき返した胸、それなのに自分の心臓がキリキリと痛む。
 まだ開かない瞼、遠く蝉時雨が風に舞った。
 木々のざわめきが耳を打つ。貴方は静かに、淡い笑顔で最後にもう一度俺にキスをした。
 俺が良く知る、俺の胸を切なくさせる、優しい、あの人と同じ口付けを。
「今度は」
 低い優しい、貴方の声が。
 風のざわめきの中に消えていく。
「まっ……」
「君が、会いに来て」
 行ってしまう、何故かそう思った。
 咄嗟に伸ばした腕、それまで全く開こうとしても言う通りに動かなかった瞼が急に箍を外れ、綱吉の瞳に光を呼び戻す。
 細く切れ長の瞳、よく知る彼よりも少しだけ短く切られた前髪。細い体躯、黒のスーツ。相変わらず最上段まで留められたシャツのボタン、角を揃えて几帳面に結ばれたネクタイ、肩には見知らぬ鳥が。
 笑う、笑っている。貴方が、知らぬ貴方が、けれどよく知る彼が。
「待って、やだ。ヒバリさ……!」
 泣かない、と額を小突かれる。いつものように、いつもの声で。
 今度こそ守るから、と囁かれる。解らないと首を振った綱吉に、貴方は何処までも困った様子で肩を竦めた。
 知らない、そんな貴方を、俺は。
 世界が歪む、蝉時雨が頭に響く。太陽の光を肌に感じる、乾ききった空気と大地が綱吉を包み込む。
「――――え」
 目を見開いた綱吉は、その瞬間言葉を失った。
 右肩が痛い、寄りかかったブロック塀が陽光を跳ね返して横を見た綱吉の瞳を焼いた。
「あれ」
 湯気を立てるアスファルトの向こうから、地鳴りを伴ってトラックが走り来る。綱吉は壁に寄りかかったまま姿勢を建て直し、自分の足だけで立ち上がって周囲に視線をめぐらせた。
 誰も居ない。誰も。
 エンジンを唸らせてトラックが走り去る。一瞬綱吉を覆った影は直ぐに消え失せて、同じく急に途絶えた蝉の声に綱吉は顔を上げた。
 青空がどこまでも、果てしなく広がっている。そんな中でひとつだけ、白い雲がぽっかりと浮かんでいた。
「いま、の……」
 熱中症で倒れた一瞬に見た夢か、夏の日差しが見せた幻か。乾いた涙の跡は生ぬるい風に浚われた。
 綱吉は空っぽの手を握り、左手を持ち上げる。そっと触れた唇は、ほんの少しだけ湿っていた。

2007/7/20 脱稿