含羞

 麗らかな陽気がここ数日続いている。天気予報は、午後からの気温は恐らく今春最高を記録するだろうと告げていた。
 既に気候だけならば夏に近い。異常気象が昨今騒がれているが、その影響だろうか。けれどじめじめとした鬱陶しい日が続くよりは、カラッと気持ちがいいくらいに青空が広がってくれた方が、綱吉としても嬉しい限りだ。
 駅前のちょっとした広場、花壇をベンチが取り囲むその外側に立った綱吉は、大時計の針が指し示す時間を気にして少しだけ居心地悪そうに肩を揺らす。
 彼を誘ったのは、偶然だった。近所の大通りが歩行者天国になり、屋台や催し物で賑わっているという話を聞いたのが、少し遅い朝食を食べている最中。暇だったし、冷やかし半分に行ってみようという気になったところまでは良かったのだが、一緒に行かないかと誘った相手が悉く不発。当日にいきなり誘ってくる綱吉が基本的に悪いのだが、付き合い悪いな~、と電話を置いて最後に思い出した顔が、今彼が待っている人物だ。
 二日ほど前だろうか、仕事で日本に来ているという連絡を受けている。その時に教えて貰った番号を押して、瞬時に電話口に出た相手は矢張り仕事中だったのか少し早口だった。
 これはダメだろうな、と思ったものの、用件を簡潔に伝えると、午後から数時間だけなら空いているとの返事。けれど忙しいのではないか、と誘った綱吉が逆に急に申し訳なく思えてきて、断ろうとしたら「会いたいから構わない」と押し切られてしまった。
 そんなわけで、待ち合わせ。
 思い返せば彼と会うのは数ヶ月ぶりだ。ちゃんと顔を覚えているかどうか不安で、目を閉じて記憶を探る。即座に浮かび上がる懐かしい笑顔に、柔らかな髪の毛が風に揺れていた。前髪に隠れがちの澄んだ瞳が優しく自分を見詰めていて、それだけで胸が高鳴った。
「沢田殿?」
 そう、丁度こんな具合に……といつの間にか目の前に立っていた男性にうっかり見惚れていたら、その相手がいきなり自分の名前を呼んで綱吉は驚いた。
「へ?」
「お久しぶりです、お元気そうで」
 呆気に取られてしまったのは、覚えのある声と顔立ちが目の前の現実と僅かにずれていたからだ。一瞬誰に声を掛けられたのか分からなくて、綱吉は目を丸くして相手を見返す。若干自分よりも高い位置にある瞳が、人懐っこい笑みに細められた。
「バジル……君?」
「はい」
 思わず疑問符をつけて名前を呼ぶと、彼は嬉しそうに頷いた。
 瞬間、綱吉が抱いた感想は、反則だ、不公平だ、というものだった。
 周囲の人が皆振り返っているのが分かる、若い女性が色めき立っている。携帯電話を構えて勝手に写真を撮ろうとしている人もいる、綱吉が邪魔だと舌打ちする声が聞こえてくるようだ。
 ぼんやりしていたら、不思議そうに唇を窄めた彼に、更に距離を詰めて触れる寸前まで顔を寄せられる。
「沢田殿?」
「い、行こう!」
 並んで立っているだけなのにそれが無性に恥かしくて、綱吉は冷や汗を額に浮かべるとバジルの手を取って歩き出した。一瞬きょとんとした彼だったけれど、触れ合った肌が嬉しいのか、満面の笑顔を花咲かせた。
 コンパスの長さもすっかり違ってしまっている。先に立って歩いていたのは綱吉だったのに、気付けば横に並ばれて、いつの間にか追い抜かれた。人ごみを抜ける時だけのつもりだった手は、離そうとした瞬間にバジルに掴まれてしまったので繋がったまま。正直恥かしいのに、彼はまるで気にする様子がない。
 この辺りが国民性の違いなのだろうか。窺い見た横顔は直ぐに気づかれ、視線がぶつかる。なんとなく気まずくて即座に顔を逸らしていると、他のものに気を取られたらしいバジルがいきなり綱吉の腕を引いた。
 片側二車線の広い道路が封鎖され、歩道寄りに様々な露天が軒を連ねている。数百メートル間隔で小さなステージが並び、スピーカーからは賑やかな音楽が絶えず流れ、舞台上では華やかな衣装の人々がダンスを披露していた。芳ばしい匂いはそこかしこから漂い、普段歩くこともない車道を堂々と人が行き交う。
 ここでも異国の人であるバジルは、異様なくらいに目立った。
 ほっそりとしながらも男性らしさが際立ち始めた体躯、甘いマスクに色素の薄い髪。見詰められれば男と分かっていても見惚れてしまう綺麗な瞳に、柔和な顔立ちは彼の性格の柔らかさをそのままあらわしている。白のジャケットの下は黒のノースリーブで、ラフな着こなしが余計に彼の成長振りを窺わせた。
 暫く会わなかっただけなのに、彼は綱吉の先を一足飛びで進んでいるように思えてしまう。置いていかれたような寂しさと、外見は変わっても中身は人に気遣いを欠かさない彼らしさが残っている安堵の中間で、綱吉は浮き足立った自分を感じていた。
 握られたままの手が熱く、顔が勝手に火照ってしまう。道行く人がふたりがどういう関係なのかを探る視線を向けてくるのが痛くて、何度も振り払おうとしたのに彼の手はその度に強く綱吉の心を束縛した。
 まるで、逃げるのは許さないという、優しい彼とは裏腹の意思表示。
「沢田殿、ちょっといいですか?」
「ん、なに?」
 綱吉の頭の上を通り越して向こう側を見ていたバジルが言い、綱吉も肩越しに振り返る。だが彼がその先にあるものを把握するより前にバジルは綱吉の手を引いて歩き出したので、半ば引きずられるように綱吉は幅広の道路を横断した。
 白いテントが並び、カラフルな幟が風に翻っている。数人の若い女性が列を成していて、バジルは綱吉をそこに導くと最後尾に加わった。
「どうしたの?」
「折角ですから、何か食べましょう」
 逃げる気は無いのにまだ手は繋がれたままだ。にこやかに言ってのけた彼に曖昧に頷き返し、綱吉は自分の手元からテントの内側に設置された用具などに目を向ける。忙しそうに動き回っている人の手前で、エプロン姿の女性が給仕に勤しんでいた。
 幟に書かれた文字を読みきる前に列の先頭が回ってきて、促された綱吉がバジルの前からリストを覗き込む。バニラやチョコと言った品名以外に果物の名前が幾つか並んでいて、よく分からないままにチョコレートを注文した。
 出て来たのは、アイスクリームとはまた違った冷菓だった。
 角錐を逆向きにしたコーンに、山のように盛り付けられたアイス。ジェラートの類だと気づくのには数秒かかって、綱吉はどうやって食べたものかと一瞬困惑させられた。
 暖かな陽気に照らされて、アスファルトの上ということもあり気温はかなり高い。早々に表面に汗をかき始めたそれに慌てて口をつけると、冷たい感触が唇から咥内を伝って肩が勝手に窄まった。
 横を向けばバジルが、透明の小さなスプーンを使って表面を削るように掬い取っている。自分もそうすればよかったかと思ったが、既に店の前から離れてしまっているので、貰いに戻るのもどこか滑稽だ。
「どうです?」
「うん、美味しい。あ、お金」
「構いません、誘っていただいた御礼です」
 自分の我が儘に付き合って貰っているのに、そんな風に言われてしまうと却って何も言い返せない。綱吉はジェラートの表面をちびちびと舐めながら、上目遣いに上機嫌な様子のバジルを見詰めた。
 彼が選んだのは、何かの果汁が混じっているのだろうか。淡いオレンジ色に染まっていて、そちらも美味しそうだ。思わず自分のものと見比べてしまい、どうせならもっと冒険をしてみれば良かったと、無難なチョコレート味を選んでしまったのを後悔する。
「どうぞ」
 じっと見詰めていたからだろうか、気を利かせたバジルがスプーンの表面が見えなくなる程度にジェラートをすくい取って、綱吉へと差し出した。
 反射的に首を仰け反らせて避けてから、綱吉はニコニコと微笑んでいる彼を見やる。街中の路上でこれは恥かしいと思うのだが、放っておくと口の中に強引に突っ込んできかねず、仕方無しに綱吉は口を開け、首に少し角度をつけて冷たいスプーンを口腔内に招き入れた。
 舌の先にオレンジの香りを感じ取る。ひんやりとした感触が淡く粘膜を刺激して、首を戻す仕草でバジルの手に握られたままのスプーンを押し出した。僅かに窪みに残っていた果汁も、舌を這わせて舐める。一瞬周囲がざわめいた気がしたが、もう諦めた。
「ジェラートは、イタリア発祥なんです」
 だから見かけて、つい嬉しくなったのだ、とバジルは綱吉が舐めたばかりのそのスプーンでアイスを口に運び、言った。
「そうなんだ?」
 相槌を返すと、バジルは目を細めて嬉しそうに微笑む。夏場にはこれにエスプレッソを絡めて食べたりもするらしい。他にも様々な食べ方があり、バールにジェラート専門店を併設していたりと、なかなかイタリアは舌が肥えて味に五月蝿そうだ。
 食べてみたいなと呟けば、彼の表情が一層華やいだ。
「では、沢田殿がイタリアに来た際は是非、拙者に案内させてください」
 お勧めの店があるのです、と楽しげに彼が笑うから、綱吉もつい嬉しくなって微笑み返す。喋るのに夢中になっていて、溶けたクリームが指先を伝ったところで我に返った。
 しまった、という表情を作って綱吉はハンカチを取り出そうと左手をズボンのポケットへと伸ばす。だが横から伸びてきた腕に阻まれ、綱吉は怪訝に腕が伸びてきた方角に顔を向けた。
 柔らかな毛足に頬を擽られ、丸くなった綱吉の瞳に、日の光に透けてキラキラと金色に輝く髪が見えた。
 指先に感じ取った柔らかくて暖かな感触に思わず息を飲み、びくりと肩が強張る。緊張が顔に出て、綱吉はゆっくり離れていく髪の隙間から碧眼が自分を見ていることに遅れて気がついた。
 風を上唇に感じ、周囲の歓声と悲鳴に意識が遠退く。
「沢田殿?」
「バ……」
 舐められた指が熱い。掠めていった唇は、尚更。
「バジル君の、バカー!」
「え……、ええ!?」
 べしゃっ、と。
 こっちでも舐めていろ、と綱吉の投げ放ったジェラートは、ものの見事にバジルの顔面を直撃した。

2007/4/25 脱稿