欽羨

 長閑な快晴が頭上一面に広がっていて、開放感在る空間が彼らを包み込んでいた。
「ツナさーん、見てくださいこの子かわいいー!」
「こっちの子も、凄く可愛いよ~?」
 笑顔を弾けさせたハルに京子の笑い声が重なり、離れた場所に立っていた綱吉は若干頬を引き攣らせながらそうだね、と時間をかけてどうにか相槌を返した。
 週末、天気も良いようだからみんなで何処かへ遊びに行こう、という案が上がったのは木曜日だったか。学校からの帰り道で偶然一緒になったハルと京子に提案されて、行きたい場所があるかと聞いた瞬間真っ先に手を挙げたのがそのハル。
 必要も無いのに何度も「はい、はい!」と繰り返してその場でジャンプした彼女は、人目も憚らないので一緒にいるとかなり恥かしい。大人しくするようにどうにか言い聞かせて候補地を聞いてみたら、丁度郊外で開催されている、動物ふれあいパークに行きたいとの事。
 綱吉と獄寺は、それはいったい何なのかと首を捻ったのだが、京子はしっかり把握していて、ハルの意見に途端賛同し、今度はふたりしてはしゃぎ始める。甲高い声が周辺にこだまして、二度恥かしい思いをした綱吉は、深く考えないままに了承の返事をしてしまっていた。
 自分も別に行きたい場所があったわけではないので、提案があるのは嬉しい。構わないよね、と傍らの獄寺に視線で問いかけると、彼は綱吉が良いのなら自分も構わない、と歯を見せて笑った。
 そして彼女らが静かになるのを待ち、集合場所と時間を決めて各自家路についた。後から少し調べてみたのだが、どうやら名前の通り動物……主に犬や猫、あといくらかの小動物が集まっていて実際に触ったり、抱いたり出来るイベントらしい。
 そんなものの何処が楽しいのだろう、と正直首を捻りたくなる内容だ。聞いてみたら奈々も知っていて、チラシに入っていたという動物の写真がカラーで掲載されている広告も見せてもらった。愛敬を振り撒く子猫の片隅に、会場や開催期間、入場料などが書き記されている。値段は決して高くもないが、単に動物を間近に見るだけのイベントとしてはやや敷居が高い気がした。
 マンション住まいなどでペットを飼えない人向けのイベントなのだろうか、こんなイベントにきゃっきゃとはしゃぐ女子の気持ちはよく分からない。確かに写真の子猫や子犬は可愛らしいが、高い金を払ってわざわざ出向いてまで見たいものだとは、綱吉はどうしても思えなかった。
 だが予想外にイベントは盛況で、現地に着いてみるとハルや京子のような若い女性から、子供、お年寄りまで幅広い年代が集まっていた。ポニーもいるらしく、乗馬体験ならぬ乗ポニー体験も出来るらしい。
「なんか……凄いっすね」
「うん……」
 敷地は広く、思っていた以上に沢山の動物がいる。さながら移動式動物園のようだが、猛獣の類はお呼びで無い様子だ。子供たちが駆け回る声があちこちから響き、家族連れも多い。若いカップルの姿もあちこちで見られた、ただ大抵女が男の腕を引っ張っていて、男は皆退屈そうだが。
 そのうちのひとりに自分も数えられるのだろうか。苦笑を解いた綱吉は、敷地を区切るいくつかの柵の前に立ち楽しそうに犬と戯れている京子たちを眺める。
 ハルが腕に抱いているのは生後数ヶ月程度の子犬で、茶色の毛並みに鼻の周りだけが白いという特徴的な顔をしていた。だらりと垂れ下がった両足が空中でブラブラと揺れているが、人間を怖がる様子は全く無い。京子が抱えている子犬は、全体的に白っぽい毛並みをしていて、ハルが抱いているそれよりも少しサイズが小さい。
 ふたりして子犬が暴れないのを良いことに、好き勝手弄りながら嬉しそうに笑っている。最終的には遠巻きに眺めているだけの綱吉に、わざわざ駆け寄って見せに来る始末。
 正直なところ、綱吉は後悔していた。
 どうしてあの時、深く考えないままに頷いてしまったのだろう。行きたいと主張するハルの気持ちを考えると、到底いやだとは言えない性格をしている綱吉だから、抵抗したところで結果は同じだったようにも思えるが、やはりもう少し熟慮すべきだった。
 綱吉は犬が苦手だ、正直なところ。
 恥かしい話、テレビなどで持て囃されている可愛いと人気の小型犬でさえ、吼えられたらその場から逃げ出してしまうほどに彼は臆病者だ。多少免疫はついて来ているが、幼い頃に噛み付かれた恐怖感は未だ完全に払拭されていない。現に今も、いつ自分に飛び掛って来やしないかと冷や冷やしている。
 傍らに立つ獄寺を見上げれば、彼もまたその他大勢の男性陣同様に面倒くさそうな顔をして、剣呑な目つきをしている。下手に知らない人が彼を見れば怖がって逃げていく表情だが、ハルも京子もすっかり慣れっこになっていて、ツナのみならず彼にも、腕に抱えた子犬を見せびらかしていた。
「ほらほら、獄寺さんも~」
 ハルなどは強引に彼に犬を抱かせようと試みるものの、ズボンのポケットに両手共に突っ込んでいる彼は相手をする素振りがまったく無い。今にも帰ってしまいそうな雰囲気が漂っていて、肩を竦めた綱吉は一種の諦めに近い気持ちを持って京子が抱いている、一見大人しそうな犬に手を伸ばした。
 恐る恐る指を向けると、興味津々の犬が尻尾を振るのが見えた。指先を近づければ動きに合わせて視線を持ち上げ、伸び上がる仕草で京子の両腕に前脚をちょこんと乗せる。その姿は文句なしに可愛くて、つい表情が綻んで油断していたらいきなりその指を舐められてしまった。
「うわっ」
 突然のことに驚き、肘ごと引いて逃げる。ハッハッ、と機嫌良さそうに目を爛々と輝かせた子犬は、今にも京子の腕から飛び出さん勢いで綱吉を見詰めていた。
 その円らな瞳が、今頃家で大人しく留守番を……している筈が無い五歳児を思い出させる。また暴れて窓ガラスを割ってないだろうか、と急に心配になった綱吉の気持ちを他所に、調子付いた京子はいきなり子犬を抱き直して綱吉の顔に近づけた。
 不意をつかれ、避ける暇も無い。
 べろり、と赤い舌が思い切り綱吉の鼻を舐めた。
「なっ……!」
 唐突のことにまた驚いて、舐められたばかりの顔を手で押さえる。京子が目の前で心底楽しそうに笑っているものだから怒ることも出来ず、綱吉は半ば呆然としながら遊んで欲しそうにしている子犬だけを恨めしげに見詰めた。
「この子、ツナ君のこと好きみたい」
「……京子ちゃん」
「ほら、抱っこしてあげて?」
 犬に好かれてもあまり嬉しくないのだけれど、という言葉をぐっと飲み込んで、差し出された犬を大人しく引き受ける。だが彼女の腕から解放された途端、犬は勢い良く飛び上がって綱吉の顔に突撃してきた。
 ちょっと待って欲しい、こいつ♂だ。
「うわっ、って、タンマ!」
 いきなり顔面に飛び掛られ、視界が塞がれる。恐怖心が先に立った綱吉は、及び腰のまま後ろへと下がった。だが卸したてのスニーカーは虚しく滑らかな地表を撫で、彼は受身の体勢を取る暇さえなく地面に倒れこんだ。
 獄寺が慌てた様子で綱吉を呼び、ハルや京子の悲鳴も混じって聞こえてくる。
 だのに事の発端である子犬は、上機嫌に綱吉の顔に圧し掛かると尻尾を振りながら問答無用でその綱吉の顔を嘗め回していた。
「ちょっ、待って、くすぐった……やめてこらー!」
 けたたましい悲鳴をあげ、綱吉がどうにか犬の胴体を捕まえると無理矢理顔から引き剥がした。だが一頻り笑った所為か息も絶え絶えで、舐められすぎた顔はべっとりと唾液で濡れている。
 様子を遠巻きに眺めていたほかの来客たちの視線も、何処となく痛い。笑われているのだと分かるからこそ、綱吉は顔を真っ赤にして自分を玩具か何かだと勘違いしている犬を思い切り睨みつけた。
 だが、通じるわけがない。綱吉の両手にがっしりと固定されている子犬は、人懐っこい顔をしてざらざらとした赤い舌をだらしなく口から垂れ下げている。
「ツナさん、大丈夫ですか~?」
 まさかこんなことになるとは思っていなかったハルが、若干の間を置いて膝を折り、まだしゃがみ込んでいる綱吉を心配する。京子も、自分が抱いていた時はあれだけ大人しかったのに、と驚きを隠さない。
 だが一番吃驚させられたのは、いきなり襲い掛かられた綱吉の方だ。
「ぐしょぐしょだよ……」
 雫を滴らせる顎以外に、着込んでいたシャツにまで唾液が染み込んでしまっている。緩く首を振って肩を落とした綱吉は、その場で座り直してひとまず犬を下ろした。だがまた飛び掛ってこられて、情けなくも悲鳴をあげてしまう。
 またトラウマが増えそうだ。来るんじゃなかったと一頻り後悔しながら、今は京子の腕の中に再び納まっている犬を見詰める。
 目が合うとまた嬉しそうに鼻息を荒くさせるその子犬をじっと見ていたら、ふと誰かに似ているような気がして綱吉は首を傾げた。
 何故だか、物凄く身近に、こういう存在がいたような気がしてならない。だが、誰のことだろう。
 ひとり首を捻り、ハルから借りたハンカチで顔を拭く。彼女らは薄情な事に、今度は子猫のコーナーに行くのだと声を弾ませて何処かへ行ってしまった。だから必然的に、今綱吉の傍には獄寺しかいないわけで。
「十代目……」
 すとん、と音がしそうなくらいに力の抜けた仕草で獄寺が綱吉に並んでしゃがみ込む。どこか気弱になっている色合いの顔つきに、綱吉ははて、と首を捻らせた。
 どことなく虚ろな瞳が綱吉を見詰めている。僅かに赤く染まった頬に、何故か自分まで急に恥かしくなって綱吉は慌てた。
「な、なに?」
「十代目、俺」
 言うか言わないかで迷っている様子の獄寺が、視線を浮かせて戸惑いを表に出す。そんな風に半端に言葉を切られてしまうと気になって仕方がなく、綱吉はハルのハンカチを鼻の頭に押し当てたまま彼を見詰め返した。
 するといきなり、熱っぽい瞳が真っ直ぐに綱吉を射抜いてどきりとする。
「俺……今、すっげー……犬になりたい……」
「はぁぁ?!」
 思わずあげてしまった素っ頓狂な声。言うんじゃなかったと明らかに後悔している様子の獄寺。
 ああ、そういえば。あの白っぽい毛並みがどことなく獄寺に似ていたな、とは。
 綱吉は思っても、口に出していえなかった。

2007/4/24 脱稿