ノウム・カルデアの廊下は至ってシンプルな構造だ。
無駄が省かれ、過度な装飾は一切見られない。不要なものを悉く切り捨てて、機能美を優先させていた。
天井に埋め込まれたダウンライトは明るすぎず、かといって暗くもない程よい光度を保っている。通りかかる者を察知して明暗を使い分け、誰も居ない空間を煌々と照らす真似はしなかった。
不必要な電力消費量を減らし、必要なところにリソースを振り分ける。効率を重視した設計は、逆に言えば、ほんの少し人間的ではなかった。
かつて神殿を飾った様々なレリーフや、極彩色といったものは、この空間には見当たらない。
「いや、あれは……うん。必要ないものだな」
それを少し寂しく感じて、けれど即座に否定して、アスクレピオスは硬い床を踏みしめた。
カツリと高めの音を響かせ、手にしたタブレット端末を操作する。他の者は指で操作しているけれど、彼はタッチペンを愛用していた。
布越しでは感度が悪いので、仕方がないのだ。手袋越しでも反応が芳しくないので、気がつけばセットで持ち歩く癖が付いていた。
「改良の必要があるな」
使用するのに別段不便に感じないが、在処を見失った時は困る。
愛らしい外見の技術顧問に要望を出すことに決めて、彼は先ほど手に入れたばかりのデータを呼び出した。
経過観察中の患者の記録で、気になる数値をグラフ化する作業に夢中になっていたら。
「なんだ、あれは?」
九十度に配された角を曲がり、数歩行ったところで、不可解なものを発見した。
真っ直ぐな廊下に、障害物は本来あり得ない。あるとすれば片付け下手なサーヴァントが、私物を詰め込んだ段ボール箱を積み上げているくらいだ。
だがそれは、重みで角が潰れた箱でもなければ、どうやって置き忘れるのかと首を傾げたくなる武器の数々や、トレーニングマシンの類でもなかった。
「マスター?」
転がっていたのは、人だ。しかもアスクレピオスも良く知る顔だった。
黒を基調とした服に、右手の甲だけが露出した手袋。東洋系の顔立ちだが、特徴的な空色の瞳は瞼の裏に隠れていた。
「マスター!」
人類最後のマスターにして、凡人類史最後の希望。
その重要人物が冷たい廊下に突っ伏している事実に、古代より医神と奉じられて来た英雄も、動揺が隠せなかった。
咄嗟に端末を放り投げ、遅れてタッチペンも投げ捨てた。大股で駆け寄り、膝を折って、右側を下にして倒れている青年へと手を伸ばした。
本能的に抱き上げたくなったが、そうしなかったのは、転倒時に頭を打っている可能性を考慮した為だ。
真っ先に呼吸の有無を確認すべく、鼻先に布を垂らした。微かな空気の流れが空調によるものでないと頷いて、左手で長い袖を捲り、露わにした右手指を首筋に添えた。
「脈は、正常か」
沸き起こる不安や、最悪の予想を無理矢理ねじ伏せて、ひとつずつ重要事項を確認していく。
生憎と医療用ペンライトは持ち歩いていないが、即座に制作可能だ。
持ち合わせたスキルをフル動員して、閉ざされた瞼をこじ開け、至近距離から光を当てて反応を確かめた。
「右、異常なし。左は……こちらも異常なし」
身体の向きを僅かに動かし、あちこち触れられても、藤丸立香は微動だにしない。されるがまま横たわり、至って静かだった。
苦悶の表情を浮かべたり、どこか痛そうな態度もない。
考え得る可能性をひとつずつ消去して行って、アスクレピオスは最後に力なく肩を落とした。
「眠っているだけ、だと?」
噂には聞いていたし、当時のカルテも見たことがある。
けれど最近はあまり起こらなくなったという話で、油断していた。
まさか本当に、こんな事態が起こり得るのか。目の当たりにしても俄には信じ難くて、医神は右手で頭を抱え込んだ。
けれどこの場で出来る診察を全て終えても、結論は変わらなかった。
「ナルコプレシー……マスターの年齢なら、特発性過眠症の方も考慮すべきか」
すよすよ眠る立香の傍で膝を折り、考え込むが、詳しく調べてみないことには始まらない。
マスターの眠りにはサーヴァントとの精神的な繋がりが関与していると言うが、単純な病気の線も、未だ捨てきれなかった。
もし本当に病の兆候があるのなら、なんとかするのが医神の仕事だ。
「……ああ。つまり、良い実験台が手に入った、ということだ」
実際、この症状を一度診ておきたかった。
都合が良いと口元を緩め、アスクレピオスは足元を探った。マスターを医務室へ運ぶと決めて、まずは投げ捨ててしまったタブレット端末を回収すべく、どこにやったかと視線を彷徨わせた。
「あんなところに」
幸いすぐに発見出来たが、手を伸ばしただけでは届きそうにない。
タッチペンは軽い分、更に遠いところにあって、一旦立ち上がるしかなかった。
面倒だが、呼んだら来てくれるものではない。蛇を連れてくるべきだったと後悔したが、今さらだ。
「チッ」
忌々しげに舌打ちして、起き上がろうと腹に力を込める。
「……う」
折り畳んだ膝に手を置き、背筋を伸ばした。けれど途中で何かが引っかかって、アスクレピオスは眉を顰めた。
コートの裾でも踏んだかと、真っ先に自分の足の位置を調べた。踵のあるサンダルは良く磨かれた床だけを踏み、異物を間に挟み込んではいなかった。
ならば、何故。
怪訝に首を傾げ、数回の瞬きを経て、正解に辿り着いた。
「マスター、お前か」
彼の服の裾を掴んでいたのは、深い眠りに落ち、意識が無いはずのマスターに他ならなかった。
いったいどんな夢を見ているのか、この場では調べようもないし、知りようもない。表情は相変わらず穏やかで、健やかだけれど、令呪を刻んだ右手の指はどこか必死だった。
何者かに縋り、救いを求めているようにも見える。
「……それは、僕の主観でしかないが」
現実がどうなのかは、後でマスターが目覚めた時に聞くしかない。ただこの手を振り払い、拒むことは、許されない気がした。
一瞬だけ天を仰ぎ、アスクレピオスは肩を落とした。深く長い息を吐き、裾を握るマスターの手が解けない距離を保って、その場に座り直した。
誰かが通りかかるまで、もしくはマスターが自力で目覚めるまで、ここでこうしているより他にない。
「お前をじっくり観察する時間が出来たと、思うことにしよう」
ただ願わくは、しばらく静かな時が過ぎれば良いと。
沸き起こった身勝手な感情に苦笑して、彼は眠るマスターの髪を梳いた。
2020/06/28 脱稿
逢ふことのあらば包まむと思ひしに 涙ばかりをかくる袖かな
風葉和歌集 790