深夜だった。
サーヴァントは睡眠を必要としない。故に有り余る時間を有効活用していたアスクレピオスは、一瞬発せられた微かな警告音に、即座に顔を上げた。
読み耽っていた書物を押し退け、壁に据え付けられているモニターの数値に見入る。何が異常を訴えたのか、既に通り過ぎた後のグラフを素早く引き戻して、理解した途端、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。
「チッ」
画面上に表示されているのは、就寝中のマスターの体調を示すグラフだ。
センサーを身体に装着しているわけではないので、完璧なデータは得られない。しかし体温、心拍数、血圧、その他諸々は、ベッドや枕、それに室内に密かに仕込んだ機器によって、常時監視下にあった。
そのうちの一箇所が、異変を察知した。
反応したのは音声マイクだ。
睡眠時の寝息や、寝返りを打つ音だけなら、スイッチは入らない。しかし悪夢に魘されての呻き声や、酷い歯軋りなど、ストレスがかかっていると分かるものを拾った時は、稼働するよう設定してあった。
それがほんの一瞬、作動した。
普段ならば、気にしないようなレベルだ。声は小さく、しかも一度きり。
「世話の焼ける愚患者めが」
それでもアスクレピオスは、短く吐き捨て、足早に部屋を出た。根城としているメディカルルームのドアを潜り抜け、真夜中だというのに灯りが眩しい廊下を急いだ。
多少彩度が落とされているとはいえ、照明は明るく、足元には影が落ちた。
ノウム・カルデアは密閉空間なので、時計をちゃんと見ていないと、今が昼なのか、夜なのか、分からなくなる時がある。それでいて消灯時間というものがないから、四六時中太陽神に覗き見られている気分になった。
ふと気になって後ろを確認して、彼はもう一度舌打ちした。嫌なものを思い出したと、瞬時に頭を切り替えて、忌々しい羊の姿を追い払った。
カツカツと神経質な音を響かせながらしばらく進めば、通路の端に蹲る影を見付けた。
「ん?」
「はっ!」
怪訝に首を傾げ、よく見ようと目を凝らす。
向こうもアスクレピオスに気付いたらしく、悲鳴とも、威嚇とも取れる声をひとつ上げ、慌てた様子で走り去った。
「あれは……」
着物を着た、女性サーヴァントだった。ドアに片方の耳をぴったり貼り付けて、室内の様子を窺っていた。
明らかに不審な動きだったが、何をしていたか、追いかけて問い質すのは面倒だ。
それより優先すべき事がある。気を取り直し、彼は問題行動が多数報告されているバーサーカーが居たドアに近付いた。
しかし、自動的には開かない。さすがに就寝中だからか、中から鍵が掛けられていた。
霊体化すればサーヴァントは壁もすり抜けられるけれど、下手をするとマスタールーム独自の防御システムに引っかかる。
昼夜を問わず侵入者が出て、安眠出来ない。マスターが繰り返し訴えた結果、実装された機能は、一定の効果を発揮していた。
今は兎に角、彼をゆっくり休ませてやりたい。
英霊たちと親睦を深めるのも大事だけれど、それでマスターが倒れては本末転倒だ。特にここ最近の旅路は、彼の心理面に大きなダメージを与えていた。
睡眠は、大事だ。しっかり眠って、身体も、心も、存分に癒してもらわないと困る。
ただ今夜は、少しばかり気になる兆候が確認された。医師としての直感が、見逃すべきではないと囁いていた。
「入るぞ、マスター」
眠っている男に向かって宣告し、アスクレピオスはドア横に据え付けられているタッチパネルに手を添えた。袖越しでも、霊基パターンを読み解くには問題ない。程なくして、ドアロックは解除された。
医者という立場から、彼にはマスタールームの鍵を開ける権限が与えられていた。勿論霊体化してすり抜けても、管制室側は問題ないと判断するだろうけれど。
室内は天井光が消され、ベッドサイドのフットライトのみが点灯していた。
ドアが閉まれば、そう広くもない空間は、暗闇に包まれた。辛うじて手元は見えるものの、どこまでが床で、どこからが壁なのか、咄嗟に判断がつかなかった。
それでも少し経てば、多少は目が慣れてくる。
慎重に足を進め、アスクレピオスは備え付けのベッドへと向かった。
藤丸立香は右肩を下にして、横向きの姿勢で眠っていた。
右腕は肘を折り畳んで、左腕は斜め下に向けて伸ばしていた。足は膝で軽く曲げ、右の爪先が掛け布団からはみ出ている。頭は枕の端ギリギリに留まっていた。
寝顔は健やかだった。
「誤反応だったのか?」
異常を探知してから数分と経っていないが、呼吸に乱れはなく、脈が安定しない、という風でもない。
部屋の中で何かが落ちた、その音に隠しマイクが反応した可能性は否定出来なかった。
音を拾う領域の設定を、もっと細かくすべきかもしれない。ベッドの上の、眠るマスター周辺に限定出来るよう、明日にでも技術顧問と相談しなくては。
すべきことを定め、アスクレピオスは今一度、藤丸立香の顔を見下ろした。
「ん……すぅ……」
白紙化された地球と、そこに生きていた存在全ての未来を背負う青年は、窄めた口から息を吐き、寝返りを打った。
健やかに眠るのであれば、それでいい。本音を言えば、不可思議で面白い症例を見せて欲しいところだが、贅沢は禁物だ。
「問題なし、か」
無駄足だったとは思わない。こうして直接目で見て、確かめられたのだから、むしろ得をした気分だ。
穏やかな寝顔に、自然と頬が緩んだ。
今や人類と呼べる種は、ごく僅かしか存在しない。アスクレピオスが診るべき患者も、数は限られていた。
だからこそ、なんとしても彼を守り抜かなければならない。医学の発展を、更なる進歩を、こんなところで途絶えさせるなど、絶対に受け入れられなかった。
無自覚に奥歯を噛み締め、顎が軋む感覚で我に返った。力を緩め、なにも知らず眠る子供に肩を竦め、メディカルルームへ戻ろうと左足を引いた。
「う、……っく……」
その耳に、微かに。
喉を引き絞っての呻き声が届けられた。
本当に小さな、蚊の鳴くような悲鳴だった。懸命になにかを堪え、押し留めているのが感じられる、悲痛な叫びだった。
極力音に出さず、必死に飲み込んでいる。
外側に溢れようとするものを抱え込み、閉じ込めている。
「マスター」
ハッと息を呑み、アスクレピオスは振り返った。早計だった自分を恥じ、枕元からその顔を覗き込んだ。
寸前までなかった筈の汗の粒が、額にびっしり貼り付いていた。
息は詰まり気味だが、そこまで荒くはない。正常値の範囲内だ。脈拍も、血圧にも、そこまで大きな変動は現れていなかった。
それなのに藤丸立香の表情は苦しげで、切なげで、哀しげだった。
「あ、ぁ……あぁ……」
仰向けの状態から後頭部を枕に押しつけ、大きく口を開いて息を吸い込んだ。目尻にはじんわり涙が滲んで、小さな粒がすうっとこめかみを伝って落ちていった。
それで終わりだった。
変容はすぐに収まり、まるで何事も無かったかのように、静寂が場に満ちた。
もしやこれまでも、毎夜のように、これが繰り返されていたのだろうか。
センサーだけの監視では、限界がある。モニターを眺めるだけでは、気付けない事がある。
分かっていた筈だ。だのにマスターのプライバシーに考慮して、深く踏み込むのは避けていた。眠る時くらいはひとり、静かに過ごしたいという彼の意志を尊重し、配慮した結果が、これだ。
今すぐ彼を叩き起こして、持ち前のスキルを駆使して神殿を構成し、そこに放り込んでしまいたい。己の名を冠する神殿内部で眠ってくれさえすれば、藤丸立香の夢に介入するのも、或いは可能かもしれなかった。
しかしそれは、アスクレピオスのエゴでもある。
「ちいっ」
今夜一番の舌打ちをして、医神の名を戴く男は顔を歪めた。右の頬をヒクリと痙攣させて、瞬間的に頭に上った血を、ゆっくりと全身に循環させた。
勢いのままに実行しようとした自分を反省し、冷静になるよう繰り返し諭した。
必要とあれば、強攻策も辞さない。だがマスターに断りなく実行に移すのは、藤丸立香の夢の領域に陣取る男が許さないだろう。
あの男がなんら手出ししてこない状況から鑑みるに、そこまで深刻化している訳ではないはずだ。
「……だからといって、悪化させてみろ。許さないぞ」
放っておいて良い問題ではないが、下手に藪を突いて蛇を出すのは、避けなければ。
非常に危ういバランスの上で成立している青年は、今は穏やかに、暢気な寝顔を曝け出していた。
見ていたら、あまり高くない鼻を抓んでやりたくなった。
手が疼いたが、我慢した。代わりに顔を寄せ、寝息が落ち着いているかどうか、音を聞いて確認した。
一定の間隔で上下する胸、そこに添えられた左手。
暗いのでよく見えないけれど、指先は細かな傷跡でいっぱいだった。
「お前を癒すのは、僕の仕事だからな」
守るだけなら、力があるサーヴァントであれば、誰でも出来る。しかし治せる者は限られている。人間を治療出来る英霊ともなれば、更に少ない。
密かな自負と、優越感に笑みを浮かべ、それもすぐに消した。孤独の中で戦っているマスターをどう治療していくかを考えて、途方もない大海原に放り込まれた気分になった。
「マスター」
口の中で小さく呟いて、アスクレピオスはそうっと、眠る青年の頬に手を添えた。
完全な自己満足だった。このままでは帰れなくて、勝手すぎる我が儘から出た行動だった。
藤丸立香は強まった他者の気配に鼻をむずからせ、金魚のように口をパクパクさせた。
だが、払い除けようとはしなかった。危害を加える意志がないのを嗅ぎ取ったのか、深く息を吐き、添えられた掌の方に首を傾けた。
頬を預け、擦り寄って、心地良さそうに顔を緩めた。
眠っている、その筈だ。彼の意識は奥深くへ沈み、此処にはない。
だというのに、笑った。アスクレピオスの独善的な行為を責めもせず、受け入れ、許した。
「……僕が救われて、どうする」
自虐的に囁いて、アスクレピオスは膝を軽く曲げた。すよすよ眠る無邪気な子供に一段と近付いて、息を止めた。
くっ、と顎に力を入れて、唇を引き結んだ。
けれど結局、直前で緩んだ。無自覚に微笑んで、彼は藤丸立香の無防備な額に、祝福のキスを落とした。
楽しい夢を見られるように。
良い目覚めを迎えられるように。
神として崇められるなど、御免だ。ずっとそう思っていた。しかし今、この瞬間だけは、このか弱き人間を守護する立場でありたかった。
果たして傲慢な男の願いが、通じたのか。
マスターのただでさえ締まりない頬が、ふにゃふにゃと揺れた。
2020/05/06 脱稿