キス習作3

 消毒を済ませた出血箇所にガーゼを当て、外れないようにテープで固定する。
「いて、て」
 髪の生え際に近いので、粘着面が毛根とその近辺を巻き込んだ。皮膚ごと引っ張られたマスターは嫌がり、顔を顰め、首を振って逃げようとした。
「じっとしていろ」
 それを言葉で制し、アスクレピオスは紙よりも薄いテープを指で引き千切った。
 あと数回、井の字になるようテープを通し、落ちないようしっかり安定させた。無事完了した手当てに、藤丸立香は安堵の息を吐いた。
「酷い目に遭った」
「ぼうっとしているからだ」
「いやいや、これは不慮の事故であって、オレの過失じゃないし」
 傷が出来た箇所に手をやろうとして、彼は寸前で踏み止まった。まだズキズキとした痛みを覚えているのだろう、表情は憂鬱そうだった。
 普段ないものが、右の額に貼り付いているのだ。さぞや鬱陶しかろうが、今は我慢してもらうより他になかった。
「治癒魔法を使っても良いが、それに慣れ過ぎれば、自己修復能力が損なわれる。我慢しろ」
「分かってるって」
 人間には、自分の身体を自分で治そう、という機能が備わっている。無論限界はあるが、額を切って血が出た程度ならば、数日もあれば完治出来るはずだ。
 便利だからといって、その便利さに慢心していたら、いずれ手痛いしっぺ返しを喰らいかねない。
 厳しい戦いが続いているのだから、彼にはしっかりと、自分自身で管理して貰わなければならなかった。
 使った器具や、道具を片付けに入ったアスクレピオスを前に、椅子に座った立香は手持ち無沙汰なのか、足をぶらぶら揺らした。座面の縁を両手で握り締め、態度は幼い子供のようだった。
「あのさ」
「なんだ?」
 そうして何かを言いかけて、アスクレピオスが振り返ると同時に、口を噤んだ。
 目を逸らし、気まずそうな顔をする。閉ざした唇をもごもご揺らして、言うか、言うまいかで悩んでいるようだった。
「マスター?」
 食堂で喧嘩になったサーヴァントたちを止めようとして、逆にはね除けられた彼は、並べられていた机の角で顔を切った。
 傷自体は浅かったが、場所が悪かった所為で、出血が酷い。ただでさえ騒然としていた空間は、一層混乱を招き、大騒動へと発展した。
 大勢に担がれてやって来たマスターは、意識もしっかりしており、だらだら血を流してはいたものの、比較的元気だった。
 ぎゃあぎゃあ五月蠅いサーヴァントを追い出し、傷を洗って、止血をして。
 縫う必要がない程度で済んだのは、幸いだった。頻りにガーゼが貼られた場所を気にする彼に、アスクレピオスは肩を竦めた。
「三時間ほどしたら、交換する。もういいぞ」
 話が始まる気配がないので、こちらから切り出した。今出来ることは終わったと告げ、部屋に戻って構わない旨を伝えるが、立香はぽかんとしただけで、立ち上がろうとしなかった。
 椅子の上で惚けた顔をして、それから間抜けに開いていた口を閉じた。爪の先で頬を数回引っ掻き、目を泳がせた後、無意識なのか四角いガーゼを掌で覆った。
「あちっ」
 そして再発した痛みに悲鳴を上げ、首を竦めた。
 先ほどから、どうにも落ち着きがない。厚底のブーツは床すれすれのところを彷徨い、時折踵や爪先が引っかかって、膝がカクン、と微妙な動きをしていた。
「どうした、マスター。鎮痛剤が必要か?」
 そこまで手酷い怪我ではなかった筈だが、見誤ったか。
 眉を顰めて首を捻ったアスクレピオスに、立香はハッと背筋を伸ばし、すぐに猫背になった。
「いや、それは。そこまで、じゃ。あの」
「うん?」
 奥歯に物が挟まったかのような言い回しで、はっきりしない。
 怪訝に首を傾げていたら、なにか言いたそうな眼差しが向けられた。
 辺りをキョロキョロ窺って、室内には他に誰も居ないというのに、周囲を警戒している。内緒話をしたい雰囲気を気取って、アスクレピオスは苦笑を漏らした。
「なんだ?」
 言い難そうにしているマスターを気遣い、医神はサンダルの底で床を蹴った。カツカツ、と固い足音を数回響かせて、白く長い袖を揺らめかせた。
 患者が座った丸椅子の前に立ち、軽く膝を曲げ、腰を屈めた。距離を詰め、視線が難なく交錯する高さを提供してやれば、立香は少し嬉しそうに、顔を赤らめた。
「笑わない?」
「内容次第だな」
「あれ、やって欲しい。前に、ジャンヌ・ダルク・オルタ・サンタ・リリィがやってもらったって、言ってた」
「――――なんのことだ?」
 照れ臭そうに、彼ははにかんだ。途中からクスクス笑って、真顔で惚けたアスクレピオスの肘を小突いた。
 分かっているくせに、と態度が告げている。茶化されているのを嗅ぎ取って、医神は深々とため息を吐いた。
「ダメ?」
 断ろうとした矢先、上目遣いに乞われた。
 甘えた、鼻に掛かった小声に強請られて、アスクレピオスは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「子供か」
「減るものじゃなし。今回だけ。いいでしょ?」
 不満をぶつけるが、立香は譲らない。両手を胸の前で合わせ、可愛らしく小首を傾げて縋られて、さすがに抗い難かった。
 拒絶し続けても、しつこく食い下がってくるだろう。
 無意味な押し問答で時間を潰すのも癪で、医神は己の矜恃にそっと蓋をした。
 ただでさえ近かったマスターとの距離をもう一段階寄せて、黒髪に利き手を伸ばし、袖の上から頭を撫でた。前頭部から後頭部へ数回揺らめかせ、最後に白いガーゼに広がりつつある、赤い染みに鼻筋を寄せた。
「……痛いの、痛いの。飛んで行け――――」
 掠れる小声で囁いて、痛みが響かないよう注意しつつ、未だ塞がりきらない傷口にくちづける。
 サージカルテープの上から、ほんの一瞬だけ。
 直後に唇の裏側で舌を鳴らし、ち、と囀るような音を残した。
「満足か?」
 すぐさま離れ、要求に応じてやった報告を済ませる。
 けれど真正面に座す青年は、どこか不満げだった。
 薄紅色の唇を蛸のように尖らせて、頬は河豚の如く膨らんでいた。
「マスター」
 言葉にはしないけれど、表情が雄弁に語っていた。そうではない、と眼差しで訴えられて、アスクレピオスは肩を落とした。
 言われた通り、ジャンヌ・ダルク・オルタ・サンタ・リリィにしてやった事を再現したのだが。
「……子供ではないんだ。して欲しければ、ちゃんと言え」
「うぅ」
「でないと、本当はどうして欲しかったのか、分からないぞ。それで良いのか?」
 意地悪く囁き、口角を歪めた。我が儘なマスターの鼻先をちょん、と弾いて、姿勢を正す素振りを見せれば、立香が慌てて両手を振り回した。
 危うく椅子から転げ落ちそうになったが、どうにか持ち堪えて、アスクレピオスの服を思い切り引っ張る。
「あの!」
 そうして必死の形相で叫ぼうと、口を開いた。
 その彼の手を剥ぎ取り、攫い、握り締めて。
「しょうがない患者だな」
 肩幅に開いた彼の足の間に膝を滑り込ませ、椅子の隙間に半身を預けて、のし掛かる。
 圧迫された立香の身体が、後ろに泳いだ。自動的に背を逸らし、逃げようとする体躯を反対側の腕で遮り、腰を抱いて、引き寄せた。
 目は閉じなかった。
 立香も、驚愕が先に立ち、その余裕がなかったようだ。
「ンむう」
 見つめ合ったまま、食らい付くように、大きく開いた唇で強引に唇を塞いだ。もれなく行き場を失った立香の呼気は、鼻の孔から抜け出て、呻くようなくぐもった音を残した。
 真ん丸に見開かれた瞳を覗き込み、アスクレピオスは意地悪く微笑んだ。隙だらけの相手の攻略は用意で、本能的に奥へ引き籠もろうとした彼の舌を追いかけ、柔らかな微熱を叩き付けた。
 抵抗しようなどという意志を奪い去り、乱暴に、横から払い除けるように撫でつけ、唾液の糸を絡ませる。
「っう、んん~~」
 咽喉近くを刺激され、立香の身体が伸び上がった。睫毛が交錯するほどの距離で捉えた空色の眼は、瞬時に瞼の裏に秘され、見えなくなった。
 入れ替わりに、ちゅぷ、と湿った音がふたりの間だけに響き渡る。粘り気を伴った水音が狭い場所で跳ねて、濡れた肉が絡み合う感触が後に続いた。
 立香は自由が利く方の手をアスクレピオスの肩に置き、最初こそは押し退けようと足掻いた。しかし接触時間が長くなるに連れて力が抜けて、指は布の表面を滑り落ちた。
「……は、ぁう……」
「どうだ? 痛みは、飛んでいったか?」
 そのまましばらく甘い蜜を味わい、戯れた。しっとり濡れた唇を唇で捏ね、ゆっくりと距離を取り、彼の息が整うのを待たずに問いかけた。
 短い息継ぎを繰り返し、立香が僅かに潤んだ眼を、アスクレピオスに投げ返す。
「どうも、おかげさまで」
 自由になった両腕を、改めて医神の首に回して告げた彼の表情は、世界を狂わせたどの女神よりも妖しく艶を帯びていた。

2020/04/12 脱稿