忘るるを 驚かすには あらねども

 目映い照明が闇夜を照らし、まるで昼間のようだった。
 建物の屋上や壁面に設置されたネオンサインは、各々が自分を見ろ、と言わんばかりに強烈な光を放っていた。白だけでなく、赤や、黄色、緑といった様々な彩色が施され、文字だけでなく、図柄を表現しているものもあった。
 それぞれに特色があり、設置者の個性が存分に発揮されている。
 どれもこれも悪趣味で、長時間眺めていると網膜を焼かれるどころか、理性まで吹き飛びそうだった。
「気分が悪いな」
 堪らず悪態を吐けば、聞こえたのだろう、斜め後ろを歩いていたマスターが小さく吹き出した。
「好みじゃない?」
「ああ」
 彼が足を止めたので、アスクレピオスも立ち止まった。肩越しに振り返り、周囲を警戒しつつ頷けば、いつもと異なる服装の青年が白い歯を覗かせた。
 レイシフト先の世界観に合わせて、医神もまた、出で立ちを変えていた。いつ、どこで敵に襲われるか分かったものではない。その敵の正体も掴めていない状態だから、尚更目立つわけにはいかなかった。
 もっとも、黒を基調とした衣装なのは変わらない。裾の長いコートに、折り目正しい黒のスラックスと、良く磨かれた光沢のある革靴。中は黒のタートルネックで、口元は黒のマスクで覆われていた。
 裏道に入れば闇と同化出来そうな彼に肩を竦め、白のパーカーに紺のジーンズとスニーカー姿のマスターは目を細めた。
「似合ってるのに」
 口を窄めての、小声での感想は、アスクレピオスの頭の中にあったものとは違っていた。
 そちらの方か、とすぐさま思考を切り替えて、怪しい薬が出回っているという繁華街を見回した。最後にコートのポケットから右手を引き抜いて、手首をゆらゆら揺らした。
 指先を隠す布はなく、爪の一本一本までが人工の光を浴び、艶めいていた。
「動き辛い」
「……いつものの方が、動き難そうなんだけどな?」
「慣れの問題だ」
「じゃあ、慣れよう。格好良いよ」
 舌打ちして、吐き捨てたアスクレピオスに詰め寄って、藤丸立香は両手を後ろに回した。前のめりの体勢から伸び上がり、更に距離を詰めて、斜め下から覗き込むように囁いた。
 最後にふふ、と鼻から息を漏らして笑い、相好を崩す。
 冗談なのか、本気で言っているのか掴めなくて、アスクレピオスは眉を顰めた。
「さっさと行くぞ。情報提供者とやらが、待っているんだろう」
「おっと」
 そのまま腕を絡め取ろうとするのを察知し、寸前で避けた。バランスを崩した立香は二歩、三歩とよろめいて、ぶすっと頬を膨らませた。
 思い通りに行かなかったのが、気に入らないらしい。
 これが人類最後のマスターであり、人理修復の偉業を成し遂げた男なのか。カルデアに蓄積された様々なデータからは想像出来ない青年に嘆息して、アスクレピオスは右手をポケットに押し込んだ。
 その際さりげなく、肘を外向きに、三角形になるよう広げてやれば、直前まで膨れ面だった立香の目が、ぱあっと輝いた。
「えへへ。いただき」
「歩き難い」
「文句ばっかり」
「そもそも、どうして僕が護衛なんだ。荒事専門は、他にもいるだろう」
「荒事専門だから、だよ。情報収集で、騒動は避けたいじゃない?」
 すかさず飛びついて、当たり前のように腕を回された。簡単には放すまいと、力を込めてしがみつかれた。
 これではいざという時、突き飛ばしてでも退避させるのが難しくなる。
 こうなるよう仕向けた訳だが、早くも後悔しているアスクレピオスに対し、マスターはどこまでも楽しそうだった。
 目に毒なネオンカラーが蔓延る街中でも、表情は曇らない。むしろ逆で、嬉しげだった。
 ふと、データの中に見た、彼の生まれ故郷の情報が脳裏を過ぎった。
「懐かしいのか」
「ん? ああ、ちょっとね。だいぶ違うけど、似てるところもあるから」
 すぐ真横に来た頭に問いかければ、一瞬きょとんとなったマスターがはにかんだ。
 改めて左右と、頭上に目を向けて、遠い星空に頬を緩めた。湿った、様々な臭いが混じった空気を吸い込んで、肩の力を抜き、空を蹴った。
 敵地のど真ん中かもしれないのに、気が抜けたのか、数多の英霊を率いる時とは異なる表情を覗かせた。
「……帰りたいか」
 それが寥廓なる空の下、ひとり置き去りにされた子供のように思えてならず、気がつけば問うていた。
 告げてからはっとなったアスクレピオスに、立香は目をパチパチさせた。素早く瞬きを繰り返し、何かを言いかけ、唇を痙攣させた。
 しかし音は紡がれなかった。
 沈黙が場を支配する。
 大通りに佇む彼らの横を、名も知らない誰かが通り過ぎて行った。
 喧噪は止まない。人の流れが滞ることはない。そんな中で、誰も彼も、ふたりを見ない。黒ずくめに銀髪の男と、黒髪に軽装の青年に見向きもせず、注意を払いもしない。
 こんなにも賑やかで、ネオンサインも明るいのに。
 この場所は、どうしようもなく孤独だ。
「帰らないよ」
 やがて、どれだけの時間が過ぎた頃だろう。
 立香がぽつりと、呟いた。
 控えめに微笑んで、無理矢理口角を持ち上げて。
「まだ、やらなきゃいけないことがあるから」
 帰れない、ではなく。
 帰らない。
 一時の郷愁に心揺さぶられたとしても、決意は変わらない。
 約束をしたから。後を託されたから。任されたから。
 全部背負って生きていくと、彼は自分で、自分の為に、決めたのだ。
「そうか」
 その想いを蔑ろにするなど、いかなる英霊であっても、許されない。
 マスターの意志は絶対だ。ならば彼の願いを叶えるために、全力で挑むしかあるまい。
「厄介だな」
 口の中で不満とも、歓喜とも取れない感情を噛み潰していたら、急に調子に乗った立香が声を高くした。
「それにさあ。オレがいなくなったら、アスクレピオスが寂しいでしょー?」
「……ム」
 呵々と笑い、不遜な表情で覗き込んで来た。
 にやにやと、嫌らしい顔つきだ。絡めた腕ごと横から体当たりされて、耐えたアスクレピオスは深々と溜め息をついた。
「いいや。こんな愚患者から解放されるのかと思うと、いっそ清々する」
「ひどい。こんなに愛してるのに!」
 うんざりしながら言えば、突如、およそ洒落にならないことを大声で喚かれた。
 無関心だった通行人や、霊体化して警戒に当たっていた他の英霊までもがザワッとなるのが分かって、背中に冷たいものが流れていく。
「何を言い出すんだ。お前は!」
 反射的に怒鳴り返せば、立香がしてやったり、と不敵に笑った。にんまり、という表現がぴったりくる顔を見せられて、アスクレピオスは総毛立った。
 もう一度、叱り飛ばしたいところだが、これ以上衆目を集めるのは避けたい。
「行くぞ。遅れるわけにはいかないんだろう」
「はあ~い」
 調子が狂わされた。言いたい事の半分も言えなかったし、なにも聞けなかった。
 急かし、人混みを抜け、先導するアスクレピオスに立香は暢気に頷いた。歩調を合わせ、転ばないようにしながら、離れないよう腕の力だけは緩めずに。
「まったく。どこまで厄介な患者なんだ」
 彼の治療は、長丁場になりそうだ。
 嘆息と同時に肩を竦めたアスクレピオスの言葉に頷いて、立香が甘えるように、その肩に寄りかかる。
 そんな彼らを暗がりから守るように、ネオンサインが煌々と輝いた。

2020/04/19 脱稿

忘るるを驚かすにはあらねども 夕べの空はえこそ忍ばね
風葉和歌集 1417