よろづ世を かけてにほはす 花なれば

「アスクレピオス、お願い。場所貸して」
 自動ドアが開いた瞬間、飛び込んで来た声に、アスクレピオスは読み込んでいた資料から顔を上げた。紙ではなく、持ち運びが容易なタブレット端末を机上に置いて、彼は医務室に現れた異邦人に眉を顰めた。
 壁に埋め込まれたデジタル時計は、午後八時半を過ぎた辺りを示していた。
 眠るには早過ぎて、かといってトレーニングに励むには少々遅すぎる。そんな微妙な時間帯に姿を見せた青年は、人好きのする笑顔を浮かべ、大人しく返事を待っていた。
「……具合が悪い、という訳ではなさそうだな」
 肌色は良く、瞳には光があった。背筋は凛と伸びており、どこかしら怪我をしたとか、体調不良から治療を申し込みに来た、という風には、とても思えなかった。
「うん」
 質問すれば案の定、元気なひと言が返って来た。深々と頷かれて、アスクレピオスは小さく肩を落とした。
「場所を貸せ、とは?」
 メディカルルームとは本来、なんらかの対処が必要な存在を受け入れる為の場だ。だというのに健康極まりない人間がやって来て、ここで何をするというのだろう。
 入室と同時に発せられた言葉の説明を求めた彼に、人類最後のマスターである藤丸立香はにっ、と白い歯を見せた。
 その手には、食堂から持って来たのであろう、白い盆があった。そして小脇には、アスクレピオスが使っているのと同じ携帯端末が、落ちないよう、しっかり挟み込まれていた。
 カルデアに所属する職員には全員、これが貸与されていた。情報の閲覧も、作成も、提出も、これ一台で完了する優れものだった。
「明日の朝までに提出しなきゃなんないレポート、終わらなくてさ」
 マスターの持ち物をひと通り確認していたら、視線の動きを察した青年が照れ臭そうに言った。小さく舌を出し、首を竦めて、真っ白い床の上を慎重に歩き始めた。
 まだ了解が得られていないのに、勝手に居座るつもりだ。この分だと断っても、きっと出て行かないだろう。
「自分の部屋があるだろう」
 それでも念の為に質問を繰れば、彼は机の空きスペースに盆を置き、首から上だけで振り返った。
「玉藻の前と、清姫が居座っちゃって。逃げて来た」
 藤丸立香に従う数在るサーヴァントのうち、二騎の名前を出された瞬間、彼が置かれた状況が理解出来た。そうなった詳細は不明ながらも、落ち着いて書類をまとめるなど出来ない環境だったのは、間違いなかった。
「それは……災難だったな」
「でしょー?」
 想像して、同情したら、マスターは急に声を高くした。悲惨な目に遭ったとは思えない元気さで、カラカラ笑って、普段は患者が座る丸椅子を引き寄せた。
 床をガリガリ削って音を響かせ、居場所を確定させた。快適とは言えないながらも静かな環境を手にし、横顔は満足そうだった。
「十一時までだぞ」
 ただあまり夜遅くまで、彼を働かせるつもりはない。
 就寝の目安となる時間を提示したアスクレピオスに、マスターは「はあい」と、あまり守るつもりがなさそうな返事をした。
 治ってはすぐに新しい傷を作る指は早速端末に向かい、電源を入れ、画面を明るくした。作成途中らしき書面を呼び出し、一瞬考え込んでから、人差し指を薄い液晶に押し当てた。
 すい、すい、と淀みなく動き回るが、何を記しているのかは、アスクレピオスの位置からでは見えない。
「なんの報告書だ?」
「この前発生した、極小特異点の発生原因と、消滅までの過程。毎回思うんだけど、こういう形式美、もういらなくない?」
「そうでもない。これまでと同じ、という結果が得られるのも、また重要だ」
 興味本位で訊ねれば、間髪入れず返事があった。声の調子は至って面倒臭そうで、実際、喋っている際の彼の足は不機嫌に動き回っていた。
 その気持ちは、分からないでもない。毎回巻き込まれ、ようやく解決したかと思えば、所長以下に仔細を説明する為の報告書を提出しなければならない。
 特異点が発生する度に繰り返される一連の流れに、やる気が削がれるのは、致し方がない事だ。
 けれど万が一があっては困るから、技術顧問も、注意深く状況を観察している。これまで通りではない事が起きないように、これまで通りの経験や、知識を積み重ねて行くのは、地味ではあるが、大切だった。
 淡々と必要性を述べてやれば、マスターは諦めたらしい。口を真一文字に引き結び、深々と溜め息を吐いた後、左手を机上に伸ばした。
 タブレットと一緒に持ち込んだ盆の上には、湯気を立てるマグカップと、白い皿が一枚。並べられていたのは、様々な具を挟んだサンドイッチだ。
 仕事のお供に、食堂で作ってもらったのだろう。
「太るぞ」
「カロリー少なめにしてもらったから、大丈夫」
 医者として、夕食後にも大量に食べるのは、推奨できない。だが彼はこの小言を想定していたらしく、したり顔で親指を立てた。
 実際、サンドイッチの具は野菜が殆どだった。キュウリに、トマトといったものが多くを占め、脂っこい肉類は限られていた。
 あまりしつこく言うと、煙たがられる。医務室をも逃げだし、娯楽ルームへ駆け込まれるくらいなら、黙認してやる方が賢明だ。
「ちゃんと仕事もしろよ」
「分かってるって」
 暇があれば終日ゲームに明け暮れているサーヴァントの中には、お供として大量の菓子を抱え込んでいる者もいる。それらから誘惑されれば、マスターとて抗いきれまい。
 ならばここで、自分が監督役を務めればいい。
 そんな気持ちでいるアスクレピオスなど露知らず、マスターは三角に切られたサンドイッチを一口齧り、上機嫌に笑った。
「あ、そうだ。アスクレピオスも食べる? 沢山作ってもらったから、あるよ」
 新鮮なキュウリに前歯を通す瞬間の、噛み砕く音まで聞こえた。食べながら喋るのは行儀が悪いが、気にする様子もなく、表情は底抜けに嬉しそうだった。
 落ち着いて作業出来る環境が手に入ったのと、夜食を許されたのと、それが思いの外美味しかったのと。
 複数の要因が混じり合った表情に、アスクレピオスは一瞬虚を衝かれ、やや遅れて肩を竦めた。
 この脳天気ぶりこそが、彼が厳しい旅路を潜り抜け、今日まで生き延びて来た原動力なのだろう。
「折角のお誘いだ。いただこうか」
 サーヴァントは本来、食事を必要としない。マスターであれば、知らない筈がない。
 だというのに、彼はアスクレピオスに自身の食べ物を分け与えようとする。食事を共にする機会を作り、時間を共有することは、彼にとって、息をするのと同じくらい当たり前のことなのだ。
「どうぞ、どうぞ」
 背凭れのある椅子を引き、立ち上がれば、マスターは益々嬉しそうに顔を綻ばせた。
 作業途中のタブレット端末を脇へ追いやり、入れ替わりにサンドイッチの皿を引き寄せた。一方で自身は手に持った分を更に一口、齧ろうとした。
 栄養価だけでなく、見た目の華やかさも考慮して作られた、夜食用のサンドイッチの数々。
 けれどアスクレピオスの目に映るのは、歯形が残る不格好なひと切れだけだった。
「もらうぞ」
「え?」
 今まさにマスターが口につけようとしていたものへと身を乗り出し、同時に手も出した。
 肉付きが悪いが骨は太い手首を捕まえ、それ以上動かないよう固定して、瞼を伏した。
 長く伸ばした髪が邪魔で、空いている手で掻き上げる。直前、マスターの惚けた顔が見られたのは、役得と言わざるを得まい。
「あ――――ンム」
「ちょっと、なんで」
 大きく口を開け、半月状に刻まれた歯形に覆い被さった。喉の奥まで押し込んで、ひと息で噛み千切った。
 しっとり柔らかなパンと、瑞々しいキュウリの歯応えの中に、ほんの僅かに漂うマスターの魔力。
 椅子に座ったまま唖然とする青年に不敵に笑いかけ、アスクレピオスは唇に付着したマヨネーズを舐めた。蛇を真似て舌をくねらせれば、一連の動きを見守っていたマスターが、ごくりと音を立てて唾を飲んだ。
 朗らかだった表情が強張り、緊張が窺えた。だらしなく開いていた膝がサッと閉じられ、利き手は太腿に押しつけられた。
「確かに、美味いな。マスター?」
 サーヴァントにとって、マスターの魔力は貴重な活動源であり、最高のご褒美でもある。
 その自覚すらなく、無邪気に差し出されて、どうして食べずにやり過ごせるというのだろう。
「いや、あの、えっと。……そういう、つもりじゃ」
 吐息が掠める近さから覗き込み、囁かれ、マスターが目を泳がせて口籠もる。
 その身体はもぞもぞ動き、床に押し当てられた爪先はひっきりなしに左右に踊っていた。
 彼の脳裏に何が過ぎっているのかは、想像に難くない。けれど。
「分かっている。冗談だ。さっさと終わらせろ」
「あいたっ」
 今がそういう場合でないのは、アスクレピオスも承知していた。ほかに、先に、やるべきことがある。それが終わらなければ、明日の朝、灸を据えられるのはこちらだ。
 すっと退き、顔を赤らめた青年の頭を軽く叩く。力を入れたつもりはなかったが、彼は大袈裟に悲鳴を上げ、恨めしげにアスクレピオスを睨んだ。
「……無事に終わったら、な」
「は~い」
 その眼力には、逆らえない。
 不満を訴える眼差しに降参し、白旗を振る。
 交換条件を提示されたマスターは椅子の上で居住まいを正し、機嫌を取り戻すや否や、手元に残るサンドイッチを舐めた。

2020/03/15 脱稿
よろづ世をかけてにほはす花なれば 今日をも飽かぬ色とこそ見れ
風葉和歌集 127