後れじと 空行く月を 慕ふかな

 彼がそこにいる、と分かるまで、かなりの時間が必要だった。
 この辺りにいると教えられて来たのに、気付かずに数回、前を素通りしていた。向こうから声をかけてくれれば良いものを、あちらもあちらで読書に夢中で、立香の姿は一切視界に入っていなかったらしい。
「やっと見付けたあ」
 高く積み上げられた本と、その隙間に埋もれる形で置かれた椅子。
 光を受ければキラキラ輝く髪の毛は、真っ黒いローブで隠れて見えなかった。翡翠色の美しい瞳も、膝に広げた書物に向けられており、目印になりそうなものは巧妙に隠されていた。
 半ば闇に同化していたせいで、発見は容易では無かった。
 あまり通い慣れない場所なだけに、違和感を抱くことすら出来なかった。
 もう少し、注意深くなろう。密かに誓って、目的を成し遂げた立香はホッと胸を撫で下ろした。
「……なにか用か、マスター」
 深く息を吐き、強張っていた四肢の力を抜いて笑ったら、紙面から顔を上げたアスクレピオスが低い声で呟いた。僅かに首を傾がせ、形の良い唇を歪ませて、不機嫌を隠そうとしなかった。
 鴉の嘴のようなペストマスクは、今は除かれていた。本を読むのに、邪魔だったのだろう。確かにあそこに装着していたら、手元の一部が隠れてしまう。
 交差する前髪を左右に踊らせて、剣呑な目つきの医神が小鼻を膨らませる。睨まれて、立香は嗚呼、と姿勢を正した。
 浮かせていた踵を下ろし、背筋を伸ばした。即席の壁と化している本を数冊取って退かし、書架を背にして座っている男との距離を詰めた。
「たいした事じゃないんだけど。医務室に居なかったから」
「患者か?」
「ううん。珍しいから、どこ行ったんだろうって、思っただけ」
「…………」
 喋り出すと同時に屈んで、アスクレピオスの視界に滑り込む。
 分厚い本を膝に置いて笑った立香に、ギリシャ神話の英霊は深々と溜め息をついた。
 はー、とわざと聞こえるようにやられたが、腹は立たない。間違いなくこういう反応をするだろうと、最初から覚悟はしていた。
 本当は切った指を治療してもらいたかったのだが、探し回るうちに血は止まった。痛みももう残っていない。傷口は瘡蓋が覆っており、明日には消えてなくなるだろう。
 消毒も、なにもしていないが、人間の身体とはそういう風に出来ている。
 残念に思うとすれば、アスクレピオスに手当てをして貰えなかった、ということくらいだ。
 この程度で大袈裟だと言いつつ、なんだかんだで丁寧に傷を癒してくれる。そうやって彼と向き合う時間が、立香は殊の外気に入っていた。
 ところが訪ねて行った医務室は空っぽで。
 行き先に心当たりがなく、あちこちに聞いて回っているうちに辿り着いたのが、ここだった。
 紫式部が取り仕切っている図書室の、奥。
 読書スペースの明るさも届かないような空間に、彼は居た。
 相棒の白蛇の姿は、近くに見当たらなかった。けれど恐らく、どこかに居るのだろう。
 医神は背凭れのない椅子に腰掛けており、床に積まれた本の多くは分厚い洋書だった。英語なら多少読めるようになっている立香でも、そこに記されている文字の多くは判読不能だった。
「これ、フランス……いや、違うか。ドイツ語?」
「ああ」
 カルデアには多種多様な英雄が在籍し、マスターである立香と苦楽を共にしてきた。
 そんな多くのサーヴァントの趣向を満たすべく、紫式部が用意した書籍は多岐に亘った。恋愛物の小説が若干幅を取る傾向にあるものの、出版された地域、時代を問わず、あらゆるジャンルが網羅されていた。
 勿論、この医神のお眼鏡に適う典籍も、多々取り揃えられていた。
 その証拠が、ここに積まれた本の数々だ。
 立香にはさっぱり読めないけれど、アスクレピオスには分かるのだろう。マスターが話しかけている間も、彼は本を捲る手を休めようとしなかった。
「面白い?」
 視線を上げていたのも最初だけで、意識は完全に紙面の中だ。
 目の前に居るというのに見向きもされないのは、予想していたとはいえ、不愉快だった。
「アスクレピオス」
「少なくとも、お前と喋っているよりは、よほど有益だ」
「むぅぅ」
 返事が無いのに拗ねて、名前を呼べば、顔を上げないまま言い返された。
 淡々として、揺るがない。彼は完全に、藤丸立香のサーヴァントとしての立ち位置よりも、医者として新たな知見を得るのを優先させていた。
 ここで学んだ知識は、いつか、どこかで役に立つかもしれない。
 役に立たなくても、なんらかのひらめきを得る材料にはなるだろう。
 それが引いては、立香の為になる。そういう考えが、彼の中にあるのだ。
 だとしても、だ。
「面白くない」
 無視されるのは、つまらなかった。
 ぶすっと頬を膨らませて呟けば、一瞬だけアスクレピオスが動いた。長い睫毛の下で翡翠色の瞳を揺らめかせ、再び盛大にため息を吐いた。
「暇なら、片付けて来てくれ」
 読みかけの本を指の背で撫で、おもむろに言われた。
 彼は組んでいた脚の左右を入れ替え、長く同じ姿勢だった身体をゆっくり伸ばした。猫背気味だったのを改めて、被っていたフードを背中に垂らした。
 毛先だけ編んだもみあげもついでに肩から後ろへ移動させ、きょとんとなった立香に眉を顰める。
「片付けるって、なにを?」
「ここがどこだか忘れたのか、マスター」
「あー……ああ、はいはい。……って、これ全部?」
「そうだが?」
 察しが悪いのを眼差しで叱って、アスクレピオスは手前に積んだ本の数々と、背後の書架を順に指差した。
 それで理解した立香は成る程、と頷いた後、ひとつではない本の山に絶句した。
「待って。嘘でしょ。これ、全部読んだの?」
「そっちの分はな。こちらは、これからだ」
 一冊当たり数百ページの本が、ざっと見た限りで、五十冊以上。それが未読分も合わせると、合計三つあった。
 本当に全ページ読んだのかと疑いたくなったが、現世に至っても世界中に名が知れ渡る医神のことだから、嘘ではないはずだ。
「これも、追加だ」
 それを証拠に、膝に広げられていた本が、いつしか最終ページに到達していた。
 分厚い表紙を閉じて、満足げな顔で差し出された。つい受け取って、立香は胡乱げな眼差しを彼に向けた。
「ホントに?」
 ただ、俄には信じ難い。
 しっかり全文読み通して、内容を理解し、記憶出来ているのだろうか。
 あまりにも読了が速過ぎると疑問を呈すれば、アスクレピオスはやおら手を伸ばし、立香の額を小突いた。
「あいた」
 ぴんっ、と弾いた指をぶつけられて、さほど痛みを感じなかったのに、つい声が出た。
 左手で打たれた場所を庇い、顔を上げれば、どこか偉そうで、不遜な表情が視界を埋めた。
「僕の言うことが信じられないのか、マスター」
「信じてるよ。信じてるけど、さあ……」
「なら、適当な数字を言ってみろ。そのページに書かれていることを、今此処で、諳んじてやろう」
 自信に満ち溢れた態度で告げられて、立香は渡されたばかりの本を見た。
 表紙に書かれている文字は、やはり読めない。やたらと長いタイトルだということくらいしか、今の彼には分からなかった。
 さすがにページ数を表す数字くらいは読める。けれど本文が読解不能な時点で、アスクレピオスが提案したクイズは成立し得なかった。
「オレが読めないんじゃ、正解か、不正解かなんて、分かんないよ」
 本を縦に構えて持ち、殴りかかりはしないが、軽く振りかぶった。
 ぶつかる寸前で止めて、元の高さに戻せば、一連の動きを見守っていた医神が、蛇の如く口角を歪めた。
「ああ、それもそうか。僕のマスターは、魔術だけでなく、語学も不得手だったな」
 嫌みたらしく言って、頬杖をついた。どこか楽しげにも見えるその態度にムッとして、立香は本を抱いてそっぽを向いた。
「馬鹿にして」
「事実だろう」
「ぐぬぬ」
 ふて腐れた声を出すが、冷淡且つ的確な指摘に、一切反論出来ない。
 喉の奥で低く唸ったところで、口で勝てる相手ではなかった。
「分かったよ。分かりました。片付けて来ますよー、だ」
 尻尾を巻いて逃げるのは、好きではないが、ほかに選択肢がない。己の無知ぶりに腹を立てつつ立ち上がって、立香は読み終えた分、と示された本をもう数冊、手に取った。
 一度に運べる量は、そう多く無い。移動に不自由しない程度に冊数を絞って、鼻息も荒く踵を返した。
 アスクレピオスに背を向けて、荒々しい足取りで書架の間を抜けた。狭い通路を曲がる直前、様子を窺うべく振り返ったが、医神は既に次の本に取りかかっており、視線は絡まなかった。
「……ちぇ」
 せっかく時間が空いたので、顔を見て話がしたかったのに、叶わない。
 空回りしている感情を持て余して、立香は積み上げた本に顎を乗せた。ぐらぐらしているのを上から押して支えて、一路カウンターを目指した。
「あら、マスター。うふふ、随分と沢山。貸し出しですか?」
 出迎えてくれた紫式部は、どかっと置かれた本を前に目を丸くし、嬉しそうに声を高くした。
 多くのサーヴァントに書物を提供する彼女だけれど、立香はあまり此処に足を向けてこなかった。空き時間はトレーニングを優先させがちで、マシュとは違い、書物の世界に浸るのは稀だった。
 だからこそなのか、彼が現れたのを喜んでいた。その気持ちを裏切った感じがして、言い出しにくかったが、嘘を述べるのはもっと心苦しかった。
「ごめん、違うんだ。アスクレピオスに頼まれて、書棚に戻したいんだけど、場所が分からなくて」
「あらあら、まあまあ。それは申し訳ありません。私ったら、また早とちりをしてしまって……」
「紫式部は悪くないよ。オレが戻しに行くから、場所だけ、教えてもらえるかな」
 正直に謝って、先走りを恥じる女性を宥めた。早口に事情を説明して、両手を合わせて頼み込めば、事情を理解した文豪サーヴァントはそれなら、と目を細めた。
 彼女が白く、長い指で指し示したのは、カウンターに据えられたこの図書室の全体図だった。
「マスターがお持ちになられた本は、全て医術関連の書籍ですね。でしたら、大半はこの一帯に収蔵されていたものでしょう」
 彼女も、異国の文字がすらすら読めているらしい。タイトルをざっと眺めただけで把握して、地図上のとある一帯に円を描いた。
 それは丁度、アスクレピオスがいた場所と重なった。わざわざ読書スペースではなく、あの場所に陣取って居たのは、移動距離を限りなく減らす為だったのだと、今更ながら気付かされた。
「本の背表紙にある、こちらのマークが、書架の番号になります。その下の数字は、何段目の棚かを表しているので、これらを照らし合わせていただけましたら」
「分かった。ありがとう。やってみるよ」
 続けて告げられた内容に、立香は深く頷いた。どこかの医者とは違って、彼女の説明は実に分かり易く、丁寧で、気遣いが感じられた。
 少しは見習って欲しい。そんな愚痴を心の中で繰り返して、立香は運んで来た本を、再び両手で抱え込んだ。
「よ、っと」
「持てますか?」
「大丈夫、大丈夫」
 紫式部の細腕に任せていては、男が廃るというもの。これくらいの重量なら問題無い、と自分にも、彼女にも言って聞かせて、来たばかりの道を戻った。
 二度手間となったが、無駄足ではなかった。
 他者と喋ることで、アスクレピオス相手に抱いていた苛立ちが発散されて、気持ちが上手い具合にリセット出来た。
「読めなくても、これくらいなら」
 自分なりに出来ることが見つかって、嬉しい。
 マスターとしてではなく、人として誰かの役に立てるのを素直に喜んで、足取りも軽く棚の間をすり抜けた。
 戻ってみれば、医神は相変わらずあの場所にいた。
 立香が離れている間に、更に何冊か、追加したらしい。未読の山がいくらか減って、既読の山が僅かばかり高くなっていた。
 彼の医術レベルはかなりのものであり、これ以上極めるところがないように思っていた。しかしアスクレピオスは現状に満足せず、貪欲に求め、追求を止めなかった。
 その熱意は凄まじく、下手に触れれば火傷しそうだ。
 到底真似出来るものではないけれど、この姿勢は見習うべきだろう。熱心にページを手繰る指先を遠巻きに眺めて、立香は肩を竦めた。
 紫式部に教えられた通り、書架に記されたマークと、本に貼られたシールを比較しつつ、手にした本を棚に戻していく。最初のうちはどこに印があるか分からず、手間取らされたが、やっていくうちに段々とコツが掴めて来た。
「これは、ええと……あっちだな」
 調子良く進めて、手元が空になれば、アスクレピオスの元へ戻った。
 初めは読書の邪魔にならないよう慎重に、物音立てないよう気を遣っていた。しかし彼は一切こちらに気をやらず、注意を向けようともしなかった。
 あちらが立香を居ないものとして扱うのなら、こちらも彼をそう扱うだけだ。
 繰り返すうちに、徐々に遠慮がなくなった。多少足音を響かせようとも無反応なので、そのうちどこまでやれば顔を上げるかと、変なチャレンジ精神が湧き起こった。
 たまに紛れ込んだ別ジャンルの本に惑わされつつ、何度も同じ場所を往復した。足よりも腕と肩が先に悲鳴を上げて、ふたつ目の山を半分越えた辺りで、疲労はかなりのものになっていた。
 高い位置に本を戻すのには、特に苦労させられた。もっと背が高かったならと、何度思ったことだろう。
「今、どれくらいだろ」
 どたばた動き回っているうちは、時間の経過を忘れた。
 そうでなくとも、図書室は静かだ。夕食の時間が過ぎていても、誰も騒がなかった。
「お腹減ったな」
 水分の補給もなく、ずっと立ちっ放しだった。ふと気になって、平らになっている腹を撫で、立香は辺りを見回した。
 窓などないと知っていても、つい探してしまう。学校で、放課後、クラスメイトと雑談に花を咲かせて過ごしたのが、遙か遠い過去に思われた。
「あいつら、今も元気にして……ああ……いや。そうだっけ」
 懐かしい顔を思い出そうとしたけれど、どれも輪郭はおぼろげで、判然としない。
 名前すらすぐに出てこない相手のことに想いを馳せかけて、立香は空に投げた手を握り締めた。
 ガラガラと、心の中で何かが崩れていく音がする。
 そのぽっかり空いて出来た場所に慌てて蓋をして、鍵を掛けた。自分はなにも見ていないし、何も思い出してはいないと、急いで暗示を掛けて、目と耳を塞いだ。
 油断すれば漏れそうになる嗚咽を堪え、足元から這い上がって来た悪寒に四肢を戦慄かせた。ともすれば笑いそうになる膝を必死に叱り飛ばして、全身を呑み込まんとする恐怖に抗った。
 息を吸えば苦い物が喉をすり抜け、ひゅう、と乾いた音が鼻腔から漏れた。
 目の前が暗くなる。
 誰でも良い。
 誰でもいいから、どうか。
 助けて。
 声は出ない。出せない。だからひたすら、願った。
 ただ、祈った。
 内側から熱が湧き起こり、藤丸立香という存在が燃やし尽くされる。塵さえ残らず、魂の欠片さえ悉く消え失せる恐怖に、涙さえ流すのを許されない。
 お前は嘆く資格すら持ち得ないと、真っ白い絶望が、天頂から降り注ぐ。
 だが傍から見れば、彼はただ立ち尽くしているだけ、としか受け止められない状況で。
「マスター」
 その声が、止まっていた立香の時間を動かした。
 ほぼ無理矢理に。強引に。
 前触れもなく、唐突に。
「あの本を、どこにやった?」
 まず間違いなく、立香の心情をなにひとつ推察しないまま、自身の都合を最優先させて。
 けれどそれが、結果的に彼を救った。忘れ去られる寸前だった呼吸を取り戻させて、凍り付く寸前だった血流を加速させた。
 投げかけられた質問は、硬直していた立香の頭の中を、瞬時に駆け抜けた。深い靄がかかり、視界不良の状況を刹那のうちに斬り裂いて、白く濁っていた世界を明るく照らし出した。
「…………え?」
「本だ。ここに置いてあった、黒表紙にタイトルが金文字の、上下巻のうちの、上巻の方だ」
 もっとも、発せられた内容がつぶさに理解出来たというわけではなく。
 惚けた顔で振り返った彼の視界に、アスクレピオスの銀髪が眩しく輝いた。長いもみあげを左右にゆらゆら揺らして、表情はいかにも不満げだった。
 芳しくない反応に、苛立ちを隠そうとしない。感情を押し留めるという真似はせず、歪んだ口元は爆発寸前だった。
「マスター、聞いているのか」
 それが至近距離で、実際に爆発した。
 ずいっと身を乗り出し、鼻息が掠める距離で怒鳴られた。いや、実際には怒鳴ると言えるほどの声量ではなかったが、雰囲気はまさにそれだった。
 ここが図書室だというのを、一応、彼も忘れていなかったらしい。周囲には誰もいないが、遠慮して、近くで吼えるに留めたようだ。
「ひえっ、え。え、あ。ああ。うん。うん。分かった……え? なに?」
 ただ本当に、本当に近すぎて、噛みつかれるかと思った。
 唖然として、立香は直後にハッと我に返った。翡翠色の瞳に己が大きく映し出される状況にゾクッと来て、反射的に仰け反った。
 後ろに逃げようとして、腰が書棚にぶつかった。それ以上行けないのを思い知らされて、焦りで思考がストップした。
「なにが分かったんだ? 聞いていなかっただろう」
 慌てふためき、余計になにがなんだか分からない。
 その間も追及の声は止まず、アスクレピオスの呼気が立香の頬をひっきりなしに叩いた。
 唾まで飛んできた。一瞬で冷えて遠くなる熱に、訳もなく手足が震えて止まらなかった。
「ご、ごめん。聞いて、ません……でした」
「チッ。救いがないくらいに使えない男だな、貴様は」
「うう。ごめん……」
 とにかく離れて欲しくて、繰り返し謝罪し、彼との間に両手を差し込んだ。自分が下がれないなら、向こうに退いてもらうしかなくて、無言のアピールを試みたが、通じる相手ではなかった。
 厳しい言葉で責められて、俯く立香を前に、アスクレピオスは動かない。顰め面のままじっと睨むように見詰めて、そのうち諦めたのか、肩を竦めた。
 緩く首を振り、右腕を浮かせた。長い袖に隠れていた手指を露わにして、白く冴えた爪先で立香の首を、つい、と撫でた。
「っ!」
「脈は正常か。呼吸に若干の乱れが見られるが、まあ、許容範囲だろう。……ちゃんと、ここに、居るな? マスター」
「……え?」
 触れられた瞬間、ビクッとなった。緊張で頭が真っ白になりかけたけれど、即座に引き戻された。
 真っ直ぐ目を見ての問いかけに、うまく答えられない。
 言葉もなく固まっていたら、頸部をなぞっていた指が上へと動いた。
「この耳は、なんだ。飾りか」
「いた、いたた。痛いっ」
 きちんと聞こえているかどうかの確認は、乱暴だった。
 これで本当に医者なのかと、疑念を抱かせるのに充分な狼藉に、立香は場所も忘れて悲鳴を上げた。
 掴んで、抓って、捻られた。
 引き千切れられるところだった。急ぎ自由を奪われた左耳を急ぎ取り戻したけれど、じんじんする痛みに、瞳は自然と潤んだ。
 鼻を啜り、奥歯を噛み締めた。唇を引き結んで目を吊り上げた彼に、しかしアスクレピオスは不思議と上機嫌だった。
「ふっ」
 満足そうな顔をして、目を細めた。更なる攻撃を警戒する立香の頭をぽん、と撫でて、わしゃわしゃと髪を掻き回して、半歩後退した。
「なんなんだよ、もう」
 全く以て、意味が分からない。
 突然の彼の暴挙には、混乱させられるばかりだ。良い具合に乱された髪の毛を手櫛で整えて、立香は眉を顰めた。
 神様というものは、どれもこれも気まぐれだ。なにを考えているか、人間側の常識では、到底計りきれなかった。
 考えるだけ、時間の無駄というもの。そこは潔く割り切ることにして、立香は窄めた口から息を吐き、全身の力を抜いた。
「本、探すよ。どれ?」
「あ? それはもう良い。戻るぞ」
「いいの?」
 椅子の方へ戻っていく背中に声を掛け、弾むような足取りで追いかけた。四歩といかないうちに横に並んで、訊ねたら、意外なひと言が返された。
 腰の後ろで結んだ手を踊らせて、立香は首を捻り、理路整然と並べられた書架と書籍を眺めた。
 いったい何冊の本が此処に在るのか、紫式部でも把握出来ていないのではないか。そう思わせる知識の海に漂う彼を、アスクレピオスは強引に掴み、引っ張り上げた。
「構わない。読もうと思えば、いつでも読めるからな」
「そういうもの?」
「そうだ」
 長く身を委ねていた椅子を持ち上げて、残っていた数冊の本は近場の書棚へと押し込む。
 ルール通りに片付けないのはいかがなものかと思ったが、立香は言わなかった。先陣を切って歩き出した医神の背中は、先ほどまでと同様、上機嫌で、どことなく楽しそうだった。
 それが伝播したのか、立香の顔までが勝手に緩んだ。
「ふへへ」
 随分時間が掛かったけれど、読書より自分を優先してくれたのが、どうしようもなく嬉しい。
 だらしなく垂れ下がる頬を両手で押さえ、笑っていたら、立ち止まったアスクレピオスが怪訝な顔をした。
「なにをしている。置いていくぞ」
「待って。あ、ご飯食べよう。一緒に。久しぶりに」
 急かされて、慌てて声を張り上げた。何もない場所で躓いて、転びそうになったのを堪えて、息を弾ませたら笑われた。
「サーヴァントは食事の必要がないんだが、たまには、……そうだな。悪くない」
 静かに目を細め、彼が囁く。
 その声はどうしようもなく優しくて、柔らかかった。

後れじと空行く月を慕ふかな つひにすむべきこの世ならねば
風葉和歌集 640

2020/02/04 脱稿