日が暮れて、気温が下がった。
地獄にも四季はあるのかと考えて、視線を脇へ流すけれど、窓の外に灯りは見当たらなかった。
なにもない。なにも見えない。
底の知れない、真っ暗闇がどこまでも続いていた。
「さむ……」
ぶるりと寒気に襲われて、襲い来た恐怖に抗うように呟いた。身を竦ませ、両手を胸の前で重ね合わせて、指先に息を吹きかけた。
上着を羽織って来れば良かったと後悔したが、今更だ。寝間着代わりに支給された薄手の浴衣一枚では、どうにも心許なかった。
深淵を垣間見た気がして、活力が急速に萎んでいく。
「ああ、ダメだ」
脳裏を過ぎった恐ろしい過去や、足が竦む記憶を振り払って、立香は気持ちを切り替えた。
この地に生者が紛れ込むのは、稀だという。地上では、稀人とは神を指す言葉だけれど、この場所ではそれが逆になっているのかもしれない。
ならば自分が訪れたことで、閻魔亭はきっと良い方向に進んで行く。そうであるなら、これほど喜ばしいことはない。
悪い事を考えていたら、その通りになってしまう。
だから少しでも、楽しい事、嬉しいことを想像し、これを実践する。
それが長旅の中で学んだ教訓だ。何事も、前向きに。時に立ち止まり、振り返るのは悪いことではないけれど、後戻りは出来ないのだから、進む時は胸を張って。
過去に言葉を交わし、想いを共有した仲間たちに、今の自分を誇れるように。
「よし」
萎縮して頭を垂れている心をそうっと撫でて、背筋を伸ばした。
時は真夜中、女将である紅閻魔でさえも寝床に入っただろう時間帯だ。そんな誰もが夢の中に旅立った頃合いに、部屋を抜け出した用件は、先ほど済ませた。
「明日もあるし、早く寝ようっと」
閻魔亭の客室にも、従業員用の宿舎にも、部屋ごとにトイレは設けられていない。したくなったら、各所に作られた設備に駆け込むしかなかった。
日中、あちこち仕事で動き回っている時は、さほど不便さを感じなかった。しかし今は、もう少し従業員の利便性を高めてくれるよう、女将に直訴したい気持ちでいっぱいだった。
「こういうのって、後回しにされがちなのかなあ」
閉鎖されていた客室の改装は順調に進み、屋上庭園や、天守閣の改築工事も、もう少しで終わりそうだ。
客足は確実に伸びている。はた迷惑な来訪者も中には紛れ込んでいるが、今のところ、閻魔亭の立て直し計画は順調に進んでいた。
明日は、今日以上に忙しくなるに違いない。
少しでも英気を養い、体力を回復させるためにも、休息は急務だった。
一刻も早く早く部屋に戻り、布団にくるまって、眠ろう。
誰も居ない廊下は静かで、窓の向こうの暗闇のお蔭もあり、かなり不気味だ。つい爪先立ちになり、足音を立てないよう慎重になりながら、立香は早歩きで来た道を戻った。
ここ数日ですっかり通い慣れた空間を進み、ほんの少し明るい場所に出て、ホッと胸を撫で下ろした。
「あれ?」
このまま進めば、問題無く宛がわれた部屋へ戻れる。
だというのに、昨日までとは違う明るさに気を取られて、立香はついつい、寄り道を選択した。
不可思議な感覚に陥って、引き寄せられた。炎に惹かれる虫になったつもりはないが、ちょっとくらいなら、という甘い誘惑に誘われて、そろり、とスリッパを履いた足で床を踏みしめた。
敷き詰められた絨毯で滑らないよう注意しつつ、点々と灯る光を追いかけて、奥へと進む。
「この先は、ええと。露天風呂……?」
最終的に、どこに到達するのか。複雑怪奇な閻魔亭の地図を脳裏に描いて、立香は眉を顰めた。
壁を見れば、予想通り、風呂場はこちら、と書かれた案内板があった。
矢印が示す方角に顔を向け、首を捻る。どうしてこの一帯だけ照明が、一部だけとはいえ点けられているのか、理由はさっぱり分からなかった。
「消し忘れかなあ」
臨時に雇われているだけとはいえ、立香たち従業員が皆眠っているのだから、閻魔亭の業務もこの時間は休止だ。風呂場も、当然、閉鎖されていた。
明日の営業に備え、清姫たちが掃除をしていたはずだ。今日も一生懸命働いたと、遅めの夕飯の席で言っていたのを、確かに聞いた。
だというのに、なぜ。
消灯し忘れているのだとしたら、気付いた人間が対処すべきだろう。
寄り道したのは正しかった。自分で自分を褒めて、立香は照明操作盤がある一画に向かおうとした。
けれど、そこに至るより前に。
「……なにをしている?」
思いがけず、呼びかけられた。
「ひえっ」
予期していなかった問いかけに驚き、変なところから、変な声が出た。
思わずぴょん、と飛び跳ねた立香の数メートル前方で、淡い光が踊った。唖然としながら見守っていたら、暗がりからスッと現れた影の主が、怪訝そうに眉を顰めた。
「なにをしている、と聞いているんだが」
額の真ん中で交差する前髪を揺らし、白に近い銀髪の男が口をへの字に曲げた。不機嫌を隠そうとせず、眉間に皺を寄せている。しかし元々の端正な顔立ちは、この程度で崩れたりしなかった。
長いもみあげを後ろで束ね、毛先は背中に垂らしていた。荷物らしきものはなにも持たず、両手は袖口の中に隠れて見えなかった。
足元は閻魔亭に常備されているスリッパで、素足。普段なかなか見るのが叶わない足首が、寸足らずな浴衣の裾から覗いていた。
そう、浴衣だ。
彼は客室に備え付けられている、些か地味で、味気ない、立香と同じ浴衣を着ていた。
細い帯を二重に巻き付け、ベルト代わりにし、その上から焦げ茶色の羽織を纏っていた。衿元は緩むことなく、ピシッと整えられているが、合わせ目の隙間からは白い肌と鎖骨がちらりと覗いていた。
「あ、……アスクレピオス?」
「他に誰かいるとでも?」
あまりにも見慣れない姿に、唖然とさせられた。ぽかんと間抜けに開いた口をゆっくり閉じて、指差しながら確認すれば、アスクレピオスが不満げに首を捻った。
左右と、後方を確認して、自分達以外この場に居ないのを確認して、頷く。
再び立香に向き直った彼は、ふんぞり返りながら腕組みをした。
居丈高に構え、一瞬だけ肩を怒らせ、すぐに戻した。
「で、だ。マスター。貴様は僕の質問に答えず、なにを惚けていた。まさか見惚れていたのか?」
呆れ混じりに告げて、不遜に口角を持ち上げる。
不敵な笑みを向けられて、立香は嗚呼、と息を吐いた。
「うん。そう。イケメン、何着ても似合うの、ずるいと思う」
「…………」
彼にとっては、冗談のつもりだったのだろう。けれど、うっかり真顔で返してしまった。
褒めているようで、非難してもいる台詞に、アスクレピオスも戸惑った様子だ。即答を避け、苦い顔をして、目を逸らして明後日の方向を向いた。
「この顔に、さして執着はないんだが」
絞り出すように呟かれて、立香はハッと我に返った。今し方の己の発言を頭の中で繰り返して、勝手に赤くなる頬をペチリと叩いた。
微かな音に反応し、翡翠色の瞳がこちらに向けられた。
「お前の好みだというのなら、そうだな。悪くはない」
「どう、も。どういたしまして」
一音ずつ噛み締めながら告げられて、どう切り返して良いか分からない。
自分でも何故お礼を言っているのか分からないまま答えて、立香は寒さから白くなった指を捏ね合わせた。
医神として知られるギリシャ神話の英霊は、喚んでもいないのに、気がつけば閻魔亭で勝手に医務室を構えていた。勿論女将である紅閻魔にも許可を取っていなかったが、その有用性から、空き室の無断使用は見逃されていた。
最初のうちは怪我人の手当てが多く、宿が繁盛し始めた今は、酔客の介護が多いと聞いていた。慣れない水仕事から手荒れが酷い立香も、度々彼の世話になっていた。
そんな男が、こんな夜分に、どうして此処に。
格好を見る限り、湯上がりだ。けれど宿の温泉施設は朝まで閉鎖され、夜中は誰も使えない決まりだった。
「アスクレピオスこそ、なにしてるのさ」
「厨房への盗み食いは終わったのか?」
「ちーがーいーまーすー。トイレです!」
疑問が解けなくて、直接問い質せば、失礼千万な決めつけが投げ返された。
思わず夜中なのも忘れて声を荒らげてしまい、慌てたが、周辺に客室はひとつもなかった。
ホッと安堵して、胸を撫で下ろした。心臓の上をトントン、と優しく叩いて、ふてぶてしい顔で佇んでいる男を睨んだ。
「なんだ、違うのか。夜中の飲食が及ぼす影響について、一から説明してやるつもりだったんだが」
もっともアスクレピオスは飄々として、少しも臆したりしない。淡々と言い放って、楽しそうに目を細めた。
悪巧みをしている顔だった。立場が弱い患者を苛めて、楽しんでいる悪徳医師の顔だった。
そんな話が始まったら、あっという間に朝になってしまう。
夜は休む時間だというのに、安眠を邪魔するのは、医者として正しいのか。
言い返そうとして、立香は直前で止めた。どうせ口では敵わないのだと諦めて、ため息を吐いてがっくり肩を落とした。
「そんなに、食いしん坊に見えるのかな」
「貴様の場合は、前科がありすぎる」
「うぐぐ。反論出来ないのが、また悔しい」
深夜に出歩いている理由で、腹を空かせてのつまみ食い、を真っ先に連想されたのが憎らしい。だがそうなったのは、いわば自業自得だ。
毒入りケーキが致命的だった。あの時、ゴルドルフが居なかったらと思うと、想像するだけで恐ろしかった。
再び襲い来た寒さにぶるりと震えて、薄手の布の上から腕を擦った。摩擦で熱を招き入れ、少しでも暖を取ろうと試みた。
その仕草を見たからだろう。アスクレピオスはスッと目を眇め、焦げ茶色の羽織から袖を抜いた。
「着ていろ」
足早に近付き、脱いだばかりのそれを広げ、差し出した。
「え? いいよ。いい、大丈夫」
「いいから、大人しく着ろ」
咄嗟にはね除け、拒否したが、押し切られた。このままでは受け取ってもらえないと判断した彼は、厚みがある布地でバサッと風を起こし、立香の肩に無理矢理被せた。
袖を通さないまでも、羽織るだけで、少しは温かい。
「……ありがと」
「そんな格好で彷徨いているからだ」
「しょうがないじゃん。急いでたんだから」
生理現象は、時に己の意志ではどうにもならない。
口を尖らせ不満を述べた立香に、アスクレピオスは一瞬間を置き、深々とため息を吐いた。
彼が直前まで着ていた羽織は、仄かに石鹸の匂いがした。
「お風呂、入ってたんだ?」
「ああ。酔って階段を落ちた客の手当てをしていたんだが。ひと言で言えば、そうだな。……吐かれた」
「うわああ」
誰も使っていない――使うのを禁じられている時間帯に、彼が浴場にいた理由。
とても分かり易い説明で、状況はつぶさに読み解けた。脳内に展開された光景は壮絶で、悲惨で、立香は思わず悲鳴を上げた。
聞いただけで、酸っぱいものが喉を上がって来る気がした。思わず口を手で塞いで、唾を飲み込んで、やり過ごした。
飲み過ぎて前後不覚に陥り、転落して怪我をしたのが誰かまでは、分からない。
そんな愚患者を懸命に治療していた医神に対し、そのお礼はあまりにも不敬だった。
「ご、ご愁傷さま、です」
「まったくだ」
他になんと言ってやれば良いのだろう。
同情して、憐憫の言葉を投げかければ、その時のやり取りを思い出してか、アスクレピオスが憤慨して顔を顰めた。
余所を見ながら忌々しげに舌打ちして、ほんのり湿っている前髪を掻き上げた。苛々を自分の中で消化させて、立香に叩き付ける真似はしなかった。
「そっか。それで」
「雀たちが、責任を感じたらしくてな。風呂を開けてくれた。僕の部屋は、今、あいつらが掃除しているはずだ」
「あー……」
悪いのは馬鹿をやった宿泊客で、雀の従業員もいわば被害者だ。しかし吐瀉物まみれになった医神を、放っておけなかったようだ。
機転を利かせ、彼のためだけにこっそり浴場を開放した。その間に雀たちは、大急ぎで汚物を片付け、換気し、布団も入れ替えたに違いなかった。
終わったら、呼びに来てくれる手はずだ。立香がふらりと現れたのは、そんなタイミングだった。
「そっかあ」
謎は全て解けた。ストンと落ちてきた答えに頷いて、立香はいそいそと借りた羽織に腕を通した。
雀は、こんな時間でも働いていた。医務室も兼ねたアスクレピオスの部屋の清掃が終われば、大浴場の片付けもしなければならないのだろう。
あんな小さな身体で、大変ではなかろうか。
手伝った方が良いか気にして、暖簾が外されている浴室の入り口に目を向ける。
「お前も入りたかったのか?」
「え?」
「なんだ。違うのか」
その視線の動きに、なにを想像したのだろう。
不意に問いかけられて、立香は目を丸くした。
きょとんとしていたら、アスクレピオスは勝手に納得した。つまらなさそうに呟いて、底なしの暗闇が広がる外に目を向けた。
その耳は、心なしか赤く染まっていた。
「えー……と。ええ、と……?」
発言の意図が掴めず、彼が言いたかった事がなかなか理解出来ない。
アスクレピオスは沈黙し、動かなかった。暇を持て余した立香は首を捻り、思考を巡らせて、やがてひとつの可能性に思い至った。
要は。
つまり。
「……はっ、入らないよ。ていうか、もう寝るし。だ、大体。アスクレピオスは、今、入ったばっかりでしょ」
体温が急激に上がった。
先ほどまで寒かったのに、今は灼熱地獄に落とされた気分に陥って、立香は声を荒らげた。
「お前が一緒なら、もう一度湯に浸かるのも、やぶさかではないが?」
「変なこと言わないで!」
拳を作ってぶんぶん振り回し、視線を戻した男の追加攻撃に絶叫した。首の後ろまで真っ赤にして、立香は瞼の裏に浮かび上がろうとした光景を必死に掻き消した。
湯煙が漂う中に、白い肌を淡い紅に染めた男の裸体がぼんやりと霞んで見えた。
こんなことで動揺している自分を恥じて、両手で顔を覆ってぶんぶん首を振る。
「ひとで遊ばないでよ……」
彼ははこちらの反応を見て、楽しんでいるに違いなかった。
性格が悪すぎる医神に恨み言を吐いて、力なく肩を落とす。
その間、アスクレピオスが苦虫を噛み潰したような、非常に不満げな表情を浮かべていたのを、立香は知らない。
2020/01/12 脱稿
たれかには 物思ふとも なかなかに 憂きはためしの 有る身ならねば
風葉和歌集 768