たれかには 物思ふとも なかなかに

 閻魔亭の一画にある小部屋が、いつの間にか臨時の医務室になっていた。
 勿論、紅閻魔の許可など取っていない。ギリシャ神話に語られる医神の頭には、丁度良い空き部屋があった、という程度の認識しかなかったはずだ。
 客人として、大玄関から入って来たのではない。文字通り気がつけば、居た。存在していた。当たり前のように、従業員や、逗留客を相手に、医療行為を執り行っていた。
 話を聞かされた時には唖然としたが、同時に納得した。
 なんという執念だろう。彼にとって、怪我人や病人がいる場所こそが、己が赴くべき戦場なのだ。
 そうして実際、この場所は存外に怪我人が多い。魔猿に襲われ易い雀たちが主だが、改築工事で慣れない大工仕事に勤しむディルムッドたちも、そうだ。ゴルドルフに至っては、度々腰を痛めては、湿布を貰いに来ているらしかった。
 これまでも好き勝手し放題のサーヴァントは大勢いたが、こういった方向性で突っ走る英霊は、初めてだ。
 長らく様子を見に行く機会に恵まれなかったが、マスターとして、さすがに顔を出さないわけにはいかない。
「失礼しまーす」
 一緒に働いているマシュたちに許可を取り、休憩時間を利用して、その部屋を訪ねた。
 余った檜の端材で作られた救護室の看板は、思ったよりも立派だ。釘で打ち付けられないので、戸の横に立てかけられているだけだが、遠目からも充分目立つ大きさだった。
 些か立て付けが悪い引き戸を開ければ、内部は改造が施されておらず、間取りはその他の客室と同じだった。
 広縁に置かれている机や椅子は取り除かれ、明るい陽射しが室内を照らしていた。病人を寝かせるための布団が敷かれて、枕元には点滴等を吊すための器具が一式、取りそろえられていた。
 もっとも今は、誰も横になっていなかったが。
 空っぽの空間から視線を左に転じれば、踏込部分を抜けた先に、横幅がある座卓が置かれていた。
「なんだ、貴様か」
「うわ、本当にいた」
 履き物を脱ぎ、畳に上がってすぐの所に、問題のサーヴァントがいた。椅子ではなく、座布団に座っているのだが、恐ろしいほど似合っていなかった。
 違和感しかない。足元で白い蛇がとぐろを巻いているのも、不可思議な感覚だった。
 知っていたけれど、いざ当人を前にすると、やはり驚いた。思わず口を突いて出た言葉を慌てて飲み込むが、全て後の祭りだ。
 ムッとした顔で睨まれて、立香はそそくさと目線を逸らした。
「それで、どうした。頭痛か。腹痛か。それとも……」
「ああ、ううん。違う。ごめん。ちょっと、様子を見に来ただけ」
 不機嫌なまま、早速思いつく限りの症例を並べ出したアスクレピオスに、慌てて首と、手を振った。手当てを頼みに来たのではないと断って、急激に冷え込んだ空気にぶるり、と身震いした。
 マスターに何ら連絡もなく、勝手に閻魔亭で医療任務に就いたのは、叱るべきところだろう。けれど彼の登場は、地味に雀たちから重宝がられていた。
 それがあるから、紅閻魔も見て見ぬ振りを通していた。彼女がアスクレピオスに宿泊費を求めないのは、彼が治療費を受け取っていないからだ。
 追い出すつもりは、今のところ、立香にもない。余計なトラブルを起こしさえしなければ、このまま続けても構わない。それを伝えに来ただけだ。
「なんだ、患者ではないのか。なら、さっさと立ち去れ。邪魔だ」
「患者さん、いないのに?」
 用件を正直に告げれば、彼は案の定、立香から興味を失った。左手を頭より高く掲げ、しっ、しっ、と犬猫を追い払うような仕草を取った。
 けれど手当てを受ける病人はおらず、急患が駆け込んでくる様子もない。
 喜び勇んで特異点に来てみたけれど、思ったよりも戦いが頻繁ではなく、退屈している雰囲気だ。それを証拠に、机の上には多数の書籍が積まれ、広げられていた。
 データベース化されたものを端末で呼び出しているのではなく、紙の本だった。恐らく紫式部の図書館から持って来たのだろう。
「アスクレピオスも、なんだ。慰安旅行気分じゃないか」
「なにを言っている?」
 読書に勤しむには、ゆったりとした環境が必須。
 彼も密かに温泉宿を楽しんでいる、と思いきや、怪訝な顔をされてしまった。
 不思議そうに見上げられて、きょとんとした立香が彼の手元を覗き込めば、書かれている文字はどれも英語ではなかった。当然、日本語ですらなかった。
 開腹手術中らしき患部の写真に、レントゲン写真、なんだか分からないグラフと、数値を記した表も多数あった。別の本には複雑な化学式が、何らかの説明文と共に記載されていた。
 見ただけで目眩がしそうで、実際、長時間眺めていられない。
 くらりと来た頭を押さえた立香に、アスクレピオスは深々とため息を吐いた。
「ここで遊んでいる暇があるなら、珍しい患者を連れてこい」
「アスクレピオス先生は、いつでも、ご熱心であらせられる……」
「医者だからな」
 決まり文句をぶつけられて、皮肉を言おうにも、力が入らない。しかも嫌味を嫌味と受け取らず、堂々と言い返されて、ぐうの音も出なかった。
 この太々しさは、さすがギリシャ神と言ったところか。
「まあ、いいや。大人しくしててよ」
「僕をなんだと思っている」
「お医者サマ、でしょ?」
 あまり長居するのも彼の研究の邪魔だし、立香にも仕事がある。
 言うべきことは言った。用は済んだ。そろそろお暇するべく、最後に忠告して、にっと歯を見せて笑った。
 彼の台詞を茶化して、ひらりと手を振った。早々に立ち去るべく、踵を返して脱いだばかりの履き物に爪先を向けた矢先だ。
「わっ」
 唐突に、右手を掴まれた。軽く引っ張られて、後ろ向きに倒れそうになった。
 急いで左足を引っ込め、バランスを取った。半身を捻り、ど、ど、と跳ね上がった心臓の音を数えながら振り向けば、中腰になったアスクレピオスと目が合った。
「え、……なに。びっくりした」
 生唾を飲んで、掠れ声で呟く。
 深呼吸して心を落ち着かせる間も、彼は手を放そうとしなかった。
 翡翠の目を丸くして、自分自身の行動に驚いている風に見えた。ぽかんと開いた口を、時間を掛けて閉じて、眉間に皺を寄せて顔を背けた。
「指、が」
「うん?」
「指が、荒れている。水仕事が多いのか」
「あー、言われてみればそうかも。カルデアじゃ、床拭きなんてやらないし」
 ぼそりと言って、アスクレピオスはようやく立香を解放した。余所を向いたまま質問を投げて、返答に頷きつつ、最後まで正面を向かなかった。
 左袖で口元を覆い隠し、なにか思いついたのか、すくっと立ち上がった。白蛇をその場に残し、奥にある薬棚へと向かった。
 こちらはカルデアから持ち込んだものではなく、元からこの地にあったものらしい。木製で、年季が入った飴色をしている。十センチ角程度の引き出しが横に四つ、縦に五つ、均等に配置されていた。
 そのうちのひとつを引っ張り出して、中から抜き取ったものを、立香へと放り投げる。
「うわわ、と、っと、と」
 かなり手前で失速したそれを、立香は前のめりになって捕まえた。両手で挟むようにキャッチして、胸元に引き寄せてからそろり、と中を覗き込んだ。
 現れたのは、二枚貝の入れ物だった。蛤だろうか、緩やかな曲線をして、触り心地が良かった。
 蓋を開ければ、出て来たのはとろみのある半固形物だ。
「ハンドクリーム?」
「水仕事の後に、たっぷり塗り込んでおけ。可能な限り、手袋の併用を推薦する。なくなったら、取りに来い。それまでに調合し直しておく」
 どこか見た覚えがあると首を捻るが、正解だったらしい。テキパキと指示を下されて、立香は嗚呼、と頷いた。
 その口ぶりからして、これはアスクレピオスの手製らしい。しかも調合ときた。マスターのために、マスターの肌質に合わせてくれるつもりなのだ。
 態度も、口調も素っ気ないが、医者として、サーヴァントとして、彼なりに考えるところがあるのだろう。
「ふふん」
「なにがおかしい」
「ううん、なにも。ありがとう。助かる。もらっておくね」
 人の事をパロトンだなんだと言い、病気になるか、怪我をするかしなければ関心を持って貰えないのでは、と考えていた。
 けれどこんなものが即座に出て来るくらいには、気を向けてくれていた。
 それが嬉しいと言ったら、彼はどんな顔をするだろう。
「じゃあ、戻るけど」
「なにがあったら、すぐに来い」
「了解。その時は、よろしく。アスクレピオス」
 しかし、言ってやらない。ただ大いに頼りにしていると伝えて、立香は二枚貝を握り締めた。

2020/01/05 脱稿

たれかには 物思ふとも なかなかに 憂きはためしの 有る身ならねば
風葉和歌集 768