うちつけの 契りと人や 思ふらむ

 予感があった。
 気配を感じるだとか、そんな高尚なものではない。ただ令呪を介して繋がった膨大な魔力の糸のうち、一本がピンと伸びたのを感じただけだ。
 カルデアのマスターとして、実に多くのサーヴァントと契約している。その中の一騎の接近を、藤丸立香はブランケットの中で静かに待った。
 薄手の布を頭から被り、身体を横にして、息を殺した。天井の照明は消えており、危険がないよう足下を照らす小さな灯りだけが、室内におぼろげな輪郭を与えていた。
 思ったより早い。いや、遅いか。
 報告を受けて飛んできた、という雰囲気はなかった。
「マスター、いるな?」
 やがてドア越しに、聞き慣れた低い声が響いた。在室の確認からでなく、確信を持っての問いかけだった。
 彼もまた、立香と契約という糸で繋がっている。これだけ近くにいれば、壁などあって無いも同然だった。
 しかし立香は返事をしなかった。訪ねて来たのが想定通りの相手と知って、もぞり、と身動いだくらいだった。
 起き上がって迎え入れてやろう、という意識は皆目ない。どうせ勝手に入ってくる。ドアの前に佇んでいるサーヴァントは、そういう性格だ。
 身勝手で、わがままで、自己主張が激しく、ひとつのことに集中すると周りが見えなくなる。
 それが悪いとは言わないが、限度というものがあるだろうに。
 繰り返されてきた数々の彼の行いを思い返して、立香は浅く下唇を噛んだ。
 鼻から息を吐き、反応を探って、薄暗い室内からドアの方向を伺う。
 待っても返事が得られないと悟ったのか、次の声は先ほどよりも近いところから降ってきた。
「起きているんだろう」
 実体化を解き、霊体化を果たしさえすれば、サーヴァントは壁くらい簡単にすり抜けられる。そうやって無断で人の部屋に入り込んだ男は、今回もまた、確信を持って言い放った。
 傍目から見たら、今の立香は就寝中だ。ブランケットを被り、ベッドに横たわっている。照明を消して、場を照らす灯りは最小限だ。
 音楽の類は流れず、静謐が場を包み込む。
 時間は夜を告げるには早いものの、彼の今の状態を知っている者ならば、もう夢の中に旅立っていてもおかしくない、と納得しただろう。
 そこに立つ、アスクレピオス以外なら。
「体温、心拍数、ともに起床時のそれだ。僕に狸寝入りが通用すると思っているのか」
 呆れたように続けられて、さすがにこれ以上は誤魔化せない。
 下手な芝居を続けても、良い結果は得られないだろう。むしろ逆で、酷い目に遭うのは明らかだった。
 乱暴にブランケットを引っ剥がされて、無理矢理叩き起こされるに決まっている。
 アスクレピオスは怒りの沸点が案外低い。割とすぐに癇癪を起こす。特にとある一点に関しては、頑として譲ろうとしなかった。
 その彼の譲れない一点に、立香は今、晒されていた。
 諦めておずおずとブランケットを下げれば、枕元に立つ男は憤然とした面持ちでこちらを見下ろしていた。
 もっとも顔の下半分は、カラスの嘴に似たマスクで覆われていた。その尖った部位に隠されて、寝転がった状態からでは、右の瞳も見えなかった。
 それでもはっきりと、彼が怒っているのが伝わってきた。ただ腕を組んで立っているだけなのに、だ。
「……なに」
 ブランケットから完全に頭を出し、剣呑な雰囲気に負けないよう、立香も低い声で応じた。寝かかっていたところを邪魔されたという体を装って、主導権を握ろうと試みた。
 横たわったまま睨みつけ、返事を待つ。
 言葉より先に、ため息が聞こえた。
「レイシフト先で、怪我をしたそうだな」
 淡々とした問いかけだが、語気は強い。沈黙は許さないとばかりに、目に見えず、形を持たない言葉から、凄まじい圧力を感じた。
 正直に答えるよう、プレッシャーを与えられた。
 医者として、患者を威圧する態度はどうなのだろう。だが彼がにこやかに診察するところは、どうやっても想像できなかった。
 考えただけで、鳥肌が立った。背中を襲った寒気にぶるっと全身を震わせて、立香は足下から登って来た鈍い痛みに眉を顰めた。
 ごく僅かな変化を、アスクレピオスは見逃さなかった。
「マスター」
 苛立った声で呼んで、問答無用でブランケットを引き剥がそうとする。
 その手を遮って、立香は深く息を吐いた。
「大丈夫。もう、やってもらったんだ」
 奪われないよう柔らかな布を握り締め、声を振り絞った。
 首筋を、生温い汗が伝い落ちる。状況は限りなく不利だと悟りながらも、挫けて投げ出す真似だけはしたくなかった。
 これまで繰り広げて来た数々の冒険を脳裏に巡らせつつ、今回だってなんとかしてみせるとひとり息巻く。
 そんな立香の必死さを嘲笑うかのように、アスクレピオスはブランケットを掴む手に力を込めた。
「うわ」
 立っている者と、横になっている者の差。
 なによりもサーヴァントと、人間の差は大きかった。
 いくら細身に見えても、決して侮れない。寝転んだまま引きずられそうになって、立香は慌てて両手を放した。
 身体の下敷きになっていた分までずるりと引き抜かれ、ベッドの端がほんの少し近くなった。もれなくアスクレピオスの黒いコートも間近に迫り、視界が一層暗くなった。
 その分、頭上から降り注がれる怒りのオーラも強くなった。
 けれど、なぜ。どうして。彼に怒られなければならないのだろう。
 稀少な素材を求め、編成を組んでレイシフトを実行した。魔獣の巣窟近くでの収集作業は順調とはいかず、幾度となく獣の群れに襲われた。
 立香が怪我を負うのは、これが初めてではない。むしろ無傷で帰還した回数の方が少ないくらいだった。
 マスターが身を張らなければならないのが、今の彼らの状況だ。決して褒められたものではない。せめて防御に特化したサーヴァントが傍に在れば良いのだが、人員不足も著しい為、マシュはカルデアに残ってサポートに回る事が多かった。
 あちらを立てれば、こちらが立たず。
 ギリギリのラインで戦況が保たれている中で、軽度の捻挫など、怪我のうちにも入らない。
 それが立香の言い分だった。
 そこに加えて、帰還直後にサンソンの治療を受けた。骨に異常はなく、筋が少々伸びた程度という診断は既に下っていた。
 今は湿布を貼って、外れないよう――そして不用意に動かさないよう、包帯で固定されていた。腫れて来ているのか、ズキズキ痛むけれど、我慢出来ない程ではなかった。
 炎症を抑える効果がある湿布だと、サンソンは言っていた。実際貼り付けられた時はひんやりしており、冷たさで足が凍えるくらいだった。
 今は逆に熱く感じられるものの、人理修復の道程で負った怪我は、こんなものではない。あれらに比べれば屁のようなものだと、立香は自分に言い聞かせた。
 皺だらけのシーツに指先を潜らせ、動いてしまった身体を元の位置まで戻そうと力を込める。一方アスクレピオスは用済みとなったブランケットをあっさり手放し、なにもない床に沈めた。
「ちょっと」
 落とすのなら、ベッドの上にして欲しかった。
 汚れたら、洗濯しなければならない。ただでさえやる事が多いのだから、余計な面倒を増やさないで欲しかった。
 見過ごせず、立香は退くつもりだった身体を前進させた。腕を伸ばし、取ろうと藻掻く。しかし黒衣の男が邪魔で、指先は虚しく空を切った。
「アスクレピオス」
「その包帯は、あの男か」
 一度では諦めず、何度か挑戦したが、掠りもしない。痺れを切らして元凶たる男の名前を呼べば、マスク越しにくぐもった声が響いた。
 およそ期待した返答とは異なる言葉に、立香はカチンとなった。
「誰? ああ、サンソンだよ。誰かさんと違って、すぐに来てくれたから」
 諸々の苛立ちをまとめて吐き出して、取ってくれないのなら退け、とばかりに拳で彼の足を叩いた。左の太腿、腰骨のすぐ下辺りを勢い良く殴りつけたが、アスクレピオスはぴくりとも動かなかった。
 代わりに、腕を振り下ろす際に無意識に踏ん張っていたらしく、包帯を巻かれた利き足がズキッと来た。
 頭の中では水中の魚のように身体が跳ねたが、実際には、そんなことにはならない。せいぜい数ミリ単位で縦に振れた程度。それでも痛いことに違いは無かった。
「くう……」
 自業自得というひと言が脳裏を過ぎったが、悔しさから無視を決めた。鼻を啜って奥歯を噛み締め、苦悶に耐えて突っ伏していたら、またしても盛大な、わざとらしい溜め息が聞こえた。
「なにをしている。治りたくないのか」
「うる、さ、い」
 枕を引き寄せ、顔を埋めて言い返すものの、音ひとつ吐き出すのも一苦労だ。
 最も大きな波が引くのを待ってから深呼吸して、立香は改めて枕元に立つ男を睨み付けた。
「とにかく、分かっただろ。もうアスクレピオスがやることは、ないの。以上、終わり。おしまい。ほら、帰って」
 白い包帯で覆われた素足を指差し、声を高くして吼えた。
 手術といった大袈裟なものは不要であり、ただひたすら時間が過ぎるのを待つより他にない。出来ることはサンソンが全てやってくれている。安静にしていれば明日には腫れも引くというのが、あの医者の見立てだった。
 今更医神が出て来たところで、怪我の治りが早まることはない。それはアスクレピオス自身も、十二分に分かっているはずだ。
 だというのに、手を振って追い払っても、彼は立ち去ろうとしなかった。
 じっとこちらを、睨むように見詰めて、無言を貫く。
 なにか言いたげな眼差しだけれど、生憎と彼の心は伝わってこなかった。
「……なに」
 言ってくれないと、分からない。
 沈黙という重圧に耐えかねて恐る恐る問いかけても、彼は依然、微動だにしなかった。
 我慢比べの様相が強くなり、息苦しい。部屋の空気が二度も、三度も下がった気がして、ブランケットが失われたのもあり、寒くて堪らなかった。
 どうしてこんな目に遭わなければならないのだろう。ただでさえ退避の判断が遅れて、焦って走っていたら躓いて、転んで、足を挫いて皆に迷惑をかけたばかりだというのに。
 情けない姿を晒してしまった。マスターである自分が足を引っ張ってどうする。
 逃げ遅れた立香を庇い、傷を負ったジークフリートのことも気になった。後で謝りに行こうと思っていたのに、すっかり忘れていた。
 目を閉じれば、レイシフト先の景色が鮮やかに蘇った。もっと早く判断出来ていれば、地面に突き出た木の根を上手に避けられていたらと、今となってはどうにならないことが、次々と浮かんでは消えていった。
 意気消沈して、能面の如く突っ立っている男のことを気に掛ける余裕は失われた。
 深く長い息を吐き、立香は改めて枕に頭を沈めた。瞼を閉ざし、視界を闇一色に塗り替えて、他者の存在を意識から追い出した。
「おやすみ」
 一応の義理としてそれだけ言って、背中を丸め、本気で眠る体勢を作った。
 ブランケットは諦めた。アスクレピオスのことだから、身体を冷やすのは宜しくないと、帰り際に掛けてくれるだろうと、それだけは期待した。
 ところが、掛けられたのは薄手の布ではなかった。
「……ちょっと」
 正確には、覆い被さって来た――包帯で覆われた足に、手が。
 布越しでもはっきりとそう分かる、五本の指を持った男の手が、だ。
 押さえつけるようなものではなかったので、痛みが酷くなることはない。けれど表面をなぞるように動かされて、疼かないはずがなかった。
 咄嗟に足を引っ込めて、逃げた。文句を言うのも忘れず、閉ざした瞼を持ち上げたが、視線は絡まなかった。
 アスクレピオスがどこを見ているかなど、確かめるまでもない。包帯に隠された立香の足首、それ以外に、彼が注視するものがあるだろうか。
 答えは否、と自分の中で勝手に結論づけて、無事な方の足を盾にすべく身動ぐ。
 だが到底、間に合うわけがなかった。
「なにを、怒っている」
「はあ?」
 唐突に問いを投げて来たかと思えば、アスクレピオスは断りもなく、包帯の留め具を外した。長い袖越しだというのに器用で、止める暇もなかった。
 挙げ句の果てに質問内容が、これだ。彼がなにを言っているのか、立香は咄嗟に理解出来なかった。
「なんでだよ。怒ってるのは、アスクレピオスの方だ、ろ……う――――っ!」
 思わず声を大にして、がばりと上半身を起こそうとした。両手をつっかえ棒にして胸から先を持ち上げかけて、動きすぎた足が添えられていた男の手に激突した。
 これぞまさに、自業自得。
 それ以外に今の彼を表現する言葉は、見当たらない。
 枕を抱き潰し、声にならない痛みに悶絶する立香に、アスクレピオスは何度目か知れない溜め息を零した。
 慰めているつもりなのか、人の臑の辺りをぽんぽん、と撫でる。しかしこの気遣いは、少しも嬉しくなかった。
「なんなんだよ、もう」
「お前が帰還した時、すぐに出て行けなかったのは、悪かったと思っている」
 愚痴を零して、出掛かった鼻水を啜っていたら、言われた。雑な音に掻き消される程に小さな声だったので、危うく聞き逃すところだった。
 立香が、これ以上の活動は不可能と判断され、帰還の途に就いた時、アスクレピオスはいつものように、蘇生薬の研究に明け暮れていた。先だって手に入れたとある魔獣の体液の成分が、細胞活性化に繋がる可能性を見出したとかで、その解析に心血を注いでいた。
 お蔭で医務室は使えず、オペレーションルームに備え付けられていた救急箱の中身で対処せざるを得なかった。
 その点は、本気で反省しているのだろう。マスターがレイシフトを敢行する際は、カルデア内の全サーヴァントに連絡がいくのだが、それさえ見ていなかったようだ。
 夢中になるあまり、他に気が回らなかったらしい。
 そんなことだと思っていたので、呆れはしたが、怒ってはいない。そのはずだ。そのつもりだった。
 違うのだろうか。
 同行したサーヴァントの状態を確認もせず、治療を受けてすぐに部屋に引き籠もった。ベッドに倒れ込んで、電気を消して、頭までブランケットを被って、それでも眠らずに過ごしていたのは。
「怒ってない」
「そうか?」
 改めて言葉にして、自分の認識が間違っていないと主張した。だというのにアスクレピオスは喉の奥で笑って、手際よく包帯を解いていった。
「……いや、待って。何してるの」
「念の為だ。確認くらいはさせろ」
「必要ないって、オレ、言ったよね?」
 するすると、極力患部を刺激しないように。慣れた手つきで、至極当然のように外されたので、うっかり反応が遅れた。
 慌てて引き留めようとするけれど、時既に遅し。
 べりっと大判の湿布まで剥がされて、丸められて、ブランケットとは別方向に放り投げられた。
「横暴!」
「うるさい。動くな」
 それを片付けるのは誰だと思っているのだろう。本当に医者なのかと言いたくなる粗雑さに抗議するが、腫れた利き足を人質に取られている手前、どうすることも出来なかった。
 鋭い言葉で釘を刺されて、歯軋りして耐えるしかない。
 青黒く染まった皮膚はぶよぶよして、感触は普段のそれとは大きく違っていた。
「なるほどな」
 さほど大きくはないが、決して小さくもない踵を掌に添えて、持ち上げたり、手前に引き寄せたり。
 抵抗がないのを良い事に、そうやってひと通り観察を終えた男は満足げに頷いて、立香の足をベッドに戻した。
 一方的に動かされていた関節がようやく平穏を取り戻して、ホッとした。自発的ではなく、他者の裁量で操られるのは、何度やっても落ち着かなかった。
「気が済んだなら……って、湿布」
「貼ったまま圧迫させ続けるのも、却って宜しくないとは、言われなかったのか?」
 湿布を長時間貼っていたら、皮膚がかぶれる。
 包帯で圧迫し過ぎると、必要な血液の流れも滞ってしまう。
 サンソンからも時々束縛を緩めるようにと、確かに言われていた。完全に失念していた事実に愕然となって、立香は頭を抱えたくなった。
「ぐう」
 潰れた蛙のような声を漏らしたら、笑われた。尖ったマスクの先が孤を描くように踊って、胸元に垂れる長い髪が左右に揺れていた。
 顔の大半が見えないのが、勿体ない。
 どうして今の彼は、その姿を選んだろう。昨日か一昨日、食堂で見かけた時は、第二再臨の姿だったはずなのに。
 瞳を宙に泳がせ、少し遠くなった日の記憶を振り返り、改めてアスクレピオスを見る。
 今度は気付いてもらえて、空中で視線が交錯した。
 目が合った途端、ふっ、と彼が纏う空気が柔らかくなった。錯覚か、思い過ごしかもしれないが、とにかく立香はそう感じた。
「アスクレピオス」
 気持ちが軽くなって、今なら大丈夫だろうと、身動ぎ、肘を身体に寄せた。二度と失敗しないよう、慎重に、上半身を起こそうとした。
 だのに、許されない。肩の上に左手を翳されて、それ以上行けなくなってしまった。
「分かってはいると思うが、言っておくに越したことはない、か……」
「なんの話?」
 仕方なくベッドに戻って、急に畏まった男に眉を顰めた。枕の下に行き場がなくなった腕を差し込み、頭をほんの少し高くして、暇を持て余した無傷の方の足でシーツを掻き回した。
 それさえも見咎めて、アスクレピオスが上から押さえつけて来た。こちらは傷を負っていないので、容赦がない。遠慮なく体重を掛けて、挙げ句前屈みに身を寄せて来た。
「マスター、……藤丸立香。お前は僕のパトロンであり、お前の役目は、僕の前に珍しい患者を連れてくることだ」
 言いながら腕の位置を変えて、ベッドを軋ませた。圧迫感が失われたのに安堵しつつも、気配がより近くになったのには緊張させられて、立香は落ち着きなく瞳を泳がせた。
 その言い分は、これまで幾度となく聞かされて来たものだ。今更確認されるまでもなかった。
 だというのに、急にここで持ち出してくる意図が分からない。
 戸惑っていたら、彼の右手が素早く動いた。
 毛先に吊り下げた銀の輪を揺らし、首の後ろでごそごそ動かした。かと思えば特徴的なペストマスクの先端がぐっと下がり、そのまま胸元へと滑り落ちた。
 あ、と思う間もなく、それは立香の膝元に転がった。
 こればかりは、床に落とす気になれなかったらしい。
 放置されたままのブランケットを憐れんで、立香は小刻みに肩を震わせた。
 しかし笑っていられたのは、ここまで。直後に足元が大きく撓んで、心臓が飛び出るくらいに驚いた。
「ええ?」
「だが、な。マスター。お前は忘れているかもしれないが」
「ちょっと、待って。いた、あっ」
 何事かと思えば、アスクレピオスが勝手にベッドに腰を下ろしていた。半身を捻り、浅く座って、その分スプリングが沈んだのだ。
 挙げ句に利き足を、攫われた。下から掬い上げるように掲げられて、剥き出しの踝付近が鈍い痛みを訴えた。
 これまでの丁寧さが嘘のように、乱暴だった。
 鎮まりかけていた熱が奥深くから蘇り、伸びてしまった筋を中心に暴れ始める。突き刺さる、というよりは槌かなにかで殴られているような痛みで、立香の目尻には自然と涙が浮かび上がった。
 医者のくせに、患者に狼藉を働くとはいかがなものか。
 治すのではなく、悪化させてどうする。言葉が出ないので、代わりに両手を振り回し、ぽかすか空気を殴っていたら、面白かったらしく、アスクレピオスが口角を歪めて笑った。
 不遜な表情を見せられて、背中にひやりとしたものが流れた。
「ア……」
「お前自身も、僕の患者だ」
「だったら――痛いって。いたい。やだ」
 悲鳴を上げるが、聞いてもらえない。腫れが一番酷い箇所をすり、と親指の腹で擦られて、一粒だった涙は二粒に増えた。
 愛おしむように、慈しむようになぞられても、少しも嬉しくない。
 だったら違う場所に触れてくれ、と心の中で罵っていたら、不意に、彼が怒っていたのを思い出した。
「貴様が負う傷も、罹る病も、言うなればすべて、僕のものだ。それを努々、忘れてくれるな」
 ただ淡々と告げられる言葉からは、その感情が見えづらい。
 しかも些か度が過ぎる台詞を吐かれた気がして、立香は嗚呼、と天を仰いだ。

うちつけの 契りと人や 思ふらむ 心のうちを 知らせてしがな
風葉和歌集 巻十一 765
2019/10/19 脱稿