命だに 世に長らふる ものならば

「脱げ」
 開口一番そう言われて、藤丸立香は呆気にとられて凍り付いた。
 面と向かって、藪から棒に。突然利き腕を掴まれたと思ったら、軽く引っ張られて、以上の発言だ。
 真正面から放たれたひと言に、愕然としたまま動けない。
 思考回路が停止して、悪い夢でも見ている気分になった。
 直前まで一緒に談笑していた仲間達も、前触れなしの闖入者に揃ってぽかんと口を開いていた。
 食堂の一角だった。状況次第では耳に心地よい低い声は、雑然とした空間に思いの外広く響き渡っていた。
「なにをしている。さっさと脱げ」
「え。え、え……えええ? いや、えっ? なんで。ちょ。ちょまっ」
 硬直したままだった立香の耳に、苛立ちを含んだ声が重ねて送りつけられた。背もたれのある椅子に座ったまま、上半身だけを斜め後ろに振り向かせていた彼は、時間の経過と共に機嫌を悪くしていく男にさーっと青くなった。
 我に返った瞬間、肘を引いて囚われた腕を取り返そうとした。けれど叶わない。細身に見えるギリシャ神話の英雄は、案外力が強かった。
 もしくは普段こそ非力ながら、時と場合によっては思いがけない火力を発揮するのか。
 なぜ、今。
 どうして、彼が。
 湧き起こる疑問がぐるぐる頭の中を駆け巡る。首筋に生温い汗が伝った。威圧的な眼差しを斜め上から浴びせられて、立香はたまらず息を呑んだ。
 喉仏が上下に揺れた。もう一度、利き腕を拘束する指を解こうと足掻いたが、乱暴に振り払われて、それで終わりだった。
「アスクレピオス」
「先輩!」
 薄ら寒いものを背中に感じた立香が声を上げるのと、テーブルを挟んで向かい側にいたマシュが立ち上がったのは、ほぼ同時だった。
 ガタン、と椅子が床を擦る音が耳朶を打つ。それに触発されて、立香との間に割り込まれた格好の織田信長が、拳でテーブルを殴った。
「おいおい、なんだなんだ。いきなり出て来て、脱げ、とはどういう魂胆だ?」
 斜向かいに陣取っていた沖田総司も険しい顔つきをして、真っ白い蛇を伴った男を睨み付けた。周辺にいた他のサーヴァントも騒ぎを聞きつけ、一触即発直前の事態を注意深く観察していた。
 キッチンの方ではエミヤやブーディカらが、調理の手を休めることなく、だがトラブルになれば即座に介入出来るよう、聞き耳を立てていた。
 大勢の視線が一点に集まっている。
 突き刺さる複数の思惑にもうひとつ冷や汗を流して、立香は仏頂面を崩さない医神の肘をバシバシ叩いた。
「放してって、アスクレピオス。急にどうしたのさ」
 血気盛んな森長可が、いつでも武器を振りかざせるように構えているのが見えた。彼なら問答無用で飛びかかって来そうなところだが、動線上には織田信長がいる。彼女がさりげなく右腕を翳して牽制しているお蔭で、今はまだ、この場に血の雨が降らずに済んでいた。
 しかしなにかひとつ、きっかけがあれば、どうなるかは分からない。
 目が合った途端、戦闘狂に不敵な笑みを浮かべられて、立香は反射的に首を横に振った。通じるかどうかは賭けだったが、大丈夫だと視線だけで合図を送って、アスクレピオスに向き直った。
 ドクドクと脈打つ鼓動が、それに伴って増大する痛みが、掴まれた場所から向こうに伝わっているようで怖い。
 その恐怖を誤魔化すべく、しれっと笑顔を浮かべて小首を傾げてみせたが、かの医神は微動だにしなかった。
 値踏みするような視線を送りつけ、不満げに口をへの字に曲げていた。彼の沈黙に引きずられてか、直前まで物言いたげだったマシュまでもが押し黙った。
「殿!」
 ただ森長可だけが短気を働かせ、命令を欲しがった。くい、くい、と顎をしゃくって、今すぐにでもアスクレピオスに飛びかかろうと、うずうずしていた。
 このまま放っておいたら、勝手に動き出した彼を基点に、大乱闘が発生する。話が通じるようで通じない、無駄に忠義心が高いバーサーカーの暴走ぶりを思い出して、立香はくらりと来た頭を無事な方の手で押さえた。
「マスター。どうした、とは、心外だな。貴様こそ、どうした。なぜ右足を引きずっている」
「ちょ、うわ」
「なんじゃと?」
 目眩を堪えていたら、心の動揺を見透かしたかのように、アスクレピオスが
淡々と言い放つ。
 ただでさえ導火線だらけのところに突然放り込まれた火種は、言われた当の立香以上に、周りの存在をざわつかせた。
 真っ先に織田信長が右の眉を持ち上げ、マシュは一旦脇にやった視線を瞬時に戻した。それ以外からも無数の視線が向けられて、見えない槍が立香を四方八方から突き刺した。
 全身穴だらけになる自分の姿を空想して、立香は尚も言い募ろうとする男の手首を、がしっと掴んだ。
「なな、な、なんの。なんのこと、かなあ?」
「ふざけているのか?」
 平然を装うとしたけれど、動揺を隠しきれなかった。
 ほんの少し上擦った声で制した立香に、アスクレピオスは眉間に皺を寄せて顰め面を作った。
 元から綺麗な顔をしているから、多少歪んだところで容貌は大きく崩れない。
 なんて羨ましい、などと、余計なことを頭から追い出して、立香は渾身の力を込めて長い袖に隠されたアスクレピオスの手首を握り締めた。
 ただそれでも、彼はピクリともしなかった。痛みを感じないのか、平然と受け流して、深々と溜め息を零した。
「歩いている時に、重心が平時より僅かに傾いていただろう。先ほど振り返る時だって、そうだ。痛みがあるのではないか。あれは庇っている動きだ。いいから僕に見せろ。脱げ」
「うわあああああ!」
 一切空気を読むことなく、言いたい事だけをきっぱり言ってのけた。問答無用で人の服を脱がせようと、自由が利く方の腕を伸ばして来た。
 袖という障害物があるのに、器用に立香の上着を抓んで引っ張った彼に、やられた方はかつてないほど大きな声で悲鳴を上げた。
 椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がって、捲られた部分を強引に隠した。弾みでアスクレピオスの方に倒れかけたのを利用して、身長がほぼ同じ彼の肩を掴んで支えにした。
 突き飛ばされた格好になった医神は、瞬間的に左足を後ろに下がらせ、バランスを取った。必死の形相を浮かべる立香を訝しげに見返して、それからようやく、左右で身構える多くのサーヴァントに意識を傾けた。
「ちょっと。ね? ちょっと、向こうで話そう。ね?」
「先輩、もしかしてさっきのレイシフト先で、なにか」
「大丈夫。アスクレピオスが心配性なだけだって。問題ないから、みんなも安心して」
 己の身に危険が迫っていると、今更になって悟ったらしい。
 ようやく手首を解放されてホッとした矢先、マシュが高い声で訴えかけて来て、立香は早口に捲し立てた。
 彼女だけでなく、注意深く動向を見守っていたサーヴァントたちにも告げて、アスクレピオスの肩をトン、と叩く。
 盛大な溜息が聞こえた。愚か者、と罵る声は、森長可の耳まで届かずに済んだ。
「なんじゃ、驚かせおって。大事ないんじゃな?」
 織田信長が着席し直して、左脚を上にして足を組んだ。マシュはまだ立ったまま、前のめりでこちらを見ている。
 彼女らの目を順番に見詰め返して、立香は肩を竦めて苦笑した。
「アスクレピオスの誤解、解いてくるから。みんなはゆっくりしてて」
 先に歩き出した背中を指差し、その手を広げてひらひら振った。我ながら下手な誤魔化しだと内心冷や汗だらけだったが、追求の声は特に上がって来なかった。
 沖田総司がなにやら複雑な表情を浮かべ、マシュの袖を引いて落ち着くよう諭す。その隙に傾いていた椅子をテーブルの下に戻して、立香はドアを前に待っている男を追いかけた。
 接近する存在を感知して、ドアは自動的に開いた。廊下に出ればひとの気配は一気に激減して、凛と冷えた空気が鼻腔を擽った。
 気温や湿度は管理されているはずだが、人気があると、ないとでは、体感的に大きく違ってくる。
 無意識に指先に息を吹きかけた立香を振り返って、アスクレピオスは右の眉をほんの少し持ち上げた。
「いつも、そうなのか」
「なんのこと?」
「分かっているだろう。辛いなら負ぶってやってもいいが、どうする」
「その気遣い、ちょっと気持ち悪いです」
「そうか。案ずるな、冗談だ」
「…………」
 短いやり取りを済ませて、立香が頬を膨らませたのを確認し、アスクレピオスが右足を前に繰り出した。踵が高い靴で固い床を蹴り、カツカツと調子良くリズムを刻んで歩き始めた。
 ここでもし、自分だけ引き返したら、彼はどうするだろう。
 意地悪な感情がむくりと首を擡げたが、今度こそ大乱闘が勃発しかねない。ただでさえ諸々に不安要素を抱えている現カルデアで、無用なトラブルは避けたかった。
 となれば、行くしかない。
「なんでバレたのかなあ」
 覚悟を決めた途端、隠し通して来たものがぽろりと零れ落ちた。がっくり肩を落とし、項垂れて、額を覆う前髪をくしゃりと握り潰した。
 半分近く塞がれた視界で前方を窺えば、立ち止まったままの立香を気にして、アスクレピオスが首から上だけで振り返った。
「マスター」
「はいはい、今行きますってば」
 長いもみあげが、彼の胸元で軽く弾んだ。毛先だけ色が異なるそれが波打つ様を視界に収めて、観念した立香はのそのそと小幅に足を動かした。
 食堂で、皆の前で披露した歩き方とは、明かに違う。背中は丸まり、左手は自然と右脇腹へ回り込んだ。
 摺り足気味で、少しでも衝撃を減らそうという努力を欠かさない。
 追い付いてくるのを待っていたアスクレピオスは、立香が横に並んだ途端、またしても盛大な溜め息を零した。
「どうして隠す」
「別に、そこまで騒ぐことじゃないし」
「嘘をつくな」
「きゃああ」
 こう何度もやられると、気分が悪い。ついムキになって反論したら、横から伸びてきた手が人の耳朶を抓み、引っ張った。
 満身創痍まではいかないけれど、こちらは一応、怪我人だ。それを手加減無しに捻られて、口から飛び出た悲鳴は甲高かった。
 ただでさえ身体を捩ったら痛いのに、過分な力を加えさせられて、脇腹の疼きが酷くなった。
 ズキズキと、広範囲に亘って棘が突き刺さっているようだ。内側から迸る痛みに耐えていたら、偶々近くにいた少女が、声を聞きつけて走ってきた。
「まあ、マスター。どうかなさって?」
 蹲る一歩手前で堪えていたところに、ナーサリー・ライムが駆けつけた。傍に佇む医神にも顔を向けて、状況が理解出来ないものの、彼女は咄嗟にマスターを守る行動をとった。
 即ちアスクレピオスとの間に小さな身体を割り込ませ、両手を広げて凛と胸を張った。 その健気な姿に感じ入るものがあったのか、医神は険しかった表情を僅かに緩め、絵本の少女に合わせて膝を折った。
 目線の高さを揃えて、長い袖を翻し、ナーサリー・ライムの頭を軽く撫でた。
「お医者様、マスターをいじめるのは良くないわ」
「いじめたわけではない。聞き分けがないのを諭していただけだ。だろう? マスター」
「そうなの? マスター」
 普段とは異なる優しい声色を聞かされて、若干納得がいかない。
「そこでオレに振るの、狡くないですか。お医者様」
 率直な疑問をぶつけてくる無垢な眼差しに、違う、とは言い難い。
 頑張って嫌味を返したつもりだけれど、アスクレピオスはまるで意に介さなかった。医者を医者と呼ぶことの無意味さを痛感させられて、立香は苦虫を噛み潰したような顔を作った。
 愛くるしい少女の手前、弱音を吐くことも出来ない。痛みを我慢して膝を伸ばし、立ち上がって、安心させてやるべく無理に笑顔を作った。
 唇を僅かに開き、口角を左右均等に持ち上げて、目を細め、首にほんの少し角度を持たせる。
 不自然にならないよう心がけていたら、ナーサリー・ライムは一瞬戸惑いを浮かべた後、コクンと一度だけ頷いた。
「お大事に、マスター。お医者様、マスターをよろしくね」
「ああ、任された」
 アスクレピオスに向かっても小さく頭を下げて、行儀良く去って行く。
 パタパタと続く足音が遠ざかるのを待って、立香は相変わらずの冷たい眼差しに小鼻を膨らませた。
「なに」
「そういうのは、止めておけ。癖になるぞ」
「……じゃあ、どうしろっていうのさ」
 軽くねめつけるが、淡々と返されただけで終わった。告げられた的確且つ飾らない意見は、素直に受け止められなかった。
 不満を口にするが、合いの手は返って来ない。結局メディカルルームに到着するまで、アスクレピオスはひと言も喋らなかった。
 愛想を尽かされただろうか。
 そう長くもないが、短くもない距離を行く間、そんなことばかりが頭を過ぎった。
 カルデアの戦力として召喚されたサーヴァントとは、出来得る限り良好な関係を築いておきたい。個性が強く、故に英雄として座に登録された存在を取り纏めるのは大変だが、それが出来るのは立香だけなのだ。
 八方美人と呼ばれようが、構わない。ごく稀に意見が衝突し、互いに譲れなくて声を荒らげることがあっても、最終的には和解して、手を取り合える間柄になるのが理想だった。
 ところがこの医神とは、仲睦まじい関係を維持するイメージが湧かない。王の冠を戴く猛者らには、対等を装いつつ時に自ら謙ったり、道化を演じることでバランスを取っている部分があるけれど、彼にはその手も通じそうになかった。
 会話に困るサーヴァントは、他にも多数在る。そもそも会話が成立しない相手もちらほらと。そんな彼らと過ごして来た日々を糧に、算段を練るものの、妙案が浮かぶ前に医務室のドアは開かれた。
 直前まで密閉されていた空間は、ほんの少しアルコール臭い。
 何百回と嗅いでも慣れない消毒薬の臭いに軽く噎せていたら、診察もまだ済んでいないというのに、気の早い男が保冷庫から冷却パックを取り出した。
「いつまで突っ立っているつもりだ。こちらに来て、患部を見せろ」
「全部お見通しってこと、かぁ」
 青みがかったゲル状のものが詰められた、細長いシート状のものがいくつも連なっているものだ。患部を冷やすなら袋状の氷嚢でも充分だが、それだと幅が足りないと判断されたようだ。
 こんな大判サイズが必要なくらい、冷やすべき範囲が広いと、悟られている。
 最早隠し通すのは不可能と諦めて、立香は診察用の椅子ではなく、その奥にあるベッドに腰を下ろした。
 上着のボタンを外し、袖から腕を引き抜く。下に着込んでいた通気性の良い素材の肌着を、時間をかけて首から引き抜く。
 不要になった衣類を畳みもせず、丸めて枕元に放り投げて、最後にベルトを外し、腰回りを寛げた。
 そうやって露わになった黒ずんだ打撲痕の全容に、アスクレピオスは静かに眉を顰めた。
「呼吸が苦しい、ということはないんだな」
「おかげさまで」
 数少ない資源と、素材を求め、繰り返されるレイシフト。
 魔力保有量が圧倒的に少ない立香は、喩えどれほどの危険が待っているとも知れなくても、戦闘を繰り広げるサーヴァントたちの傍にいる必要があった。
 その驚異的な近さは、彼が率いる英雄達を強化する。
 藤丸立香が成し遂げて来た数々の偉業は、言い換えるなら、彼が己の身の安全を犠牲にして成り立っていた。
 肋骨が折れていないか心配したアスクレピオスに軽口で応じて、立香はズボンのウエスト部を下げた。下着もほんの少し引っ張って、痛々しい黒ずみの下限を表に出した。
 皮下出血は右胸のすぐ脇から始まり、臍付近まで広がって、腰骨の近辺まで続いていた。「というか、帰ってきた時は、そんなに痛くなくて」
「当たり前だ。内出血が止まらなくて、後から腫れて来たんだろう」
 ここまで大事になっていると、立香自身、今になって驚かされた。
 帰還直後は少し気に障る程度で、殊更騒ぎ立てるほどのものではないと信じ切っていた。
 だからアスクレピオスのあの態度は大袈裟だと思っていたし、過保護が過ぎると疑わなかった。
 結果として、医神が正しかった。
「ごめん」
「分かれば良い」
 ようやく受け入れて、反省して頭を垂れる。
 アスクレピオスは素っ気なく言って、冷却シートを薄手の布で包んだ。そうして立香の方へ歩み寄ろうとして、このままでは治療がし辛いと判断したのか、ふう、と深く息を吐いた。
 途端に彼の周囲に淡い光の粒子が湧き上がり、きらきら瞬いたかと思えば、一瞬のうちに霧散した。ふわっと浮き上がっていた細かな粒が四方に散らばって、入れ替わるように黒い靄のようなものが噴出した。
 それが固まり、形を為して、アスクレピオスを包み込む。
 瞬き数回分にも満たない、ごくごく僅かな時間での出来事だった。
 人間もこれくらい素早く着替えられたら、どれだけ楽だろう。痛みを堪えつつ脱ぎ捨てた自身の着衣をちらりと見て、立香は第二再臨の姿を取った医神を前に、両手をもぞもぞさせた。
「少し待て」
 邪魔になる長い髪を後ろに集め、束ねるのは自動的に出来なかったらしい。アスクレピオスは一旦両手を空にして、髪を結ぶための紐を取った。
 手慣れた仕草で、鏡も使わずまとめ上げて、ようやく治療に取り組めると患者である立香に向き直る。
「……どうした」
 その口元には、黒をベースとしたマスクがあった。バンダナは自動で出てこなかったのに、こちらはしっかりと装着されていた。
 どういう基準で選出されているのか、さっぱり分からない。そもそも空調からして厳重に管理されているカルデア内部で、ガスマスクが必要だとは思えなかった。
 湿布や消毒薬の臭いが気になった、という理屈は、いくらなんでもあり得ない。
「いや。それ、今、必要かな? って」
 膝元に転がしていた手を持ち上げ、指差して言えば、アスクレピオスは一寸考える素振りを見せた後、嗚呼、と首を縦に振った。
「これか? 僕はどちらでも構わないが。なんだ、マスターは外している方が良いのか」
「へ? あ、いや。いやいや、べつに。別にね? オレも、別に。どっちでも良いんだけど」
 左右にセットされたキャニスター付近を指し示しながら、逆に訊き返された。それで立香はハッとなって、大慌てで両手を横に振った。
 焦ったお蔭で、声が変なところから飛び出した。ひっくり返ったの自分の声になにより吃驚して、顔が勝手に赤くなる。体温が若干上がったらしく、変な汗が出て腋近辺が生暖かかった。
 彫像のような端正な顔立ちが隠れるのは些か勿体ないと、ほんの少し思ったが、本当に、ほんの少しだけだ。むしろあの綺麗すぎる顔で間近から身体を調べられ、治療される方が心臓に悪かった。
「男なのに」
 どうして神格を有する――有していなくても――サーヴァントの数々は、こうも美形ばかりなのだろう。それに比べて、と鏡の前に立つ度に、己の平々凡々な顔立ちに傷つく身にもなって欲しい。
 およそアスクレピオスには罪がない恨み節を心の中で吐き捨てて、立香はなかなか近付いてこない医神に眉を顰めた。
 彼は先ほどの意見を耳にして、どう受け止めたのか。おもむろに首の後ろに手を回し、顔の下半分を拘束するマスクを取り外した。
 だらんと左手にぶら下げて、長らく放置されている冷却シートの横に転がした。
「うぐ」
「さて、いい加減始めるか」
「どうして、あの。アスクレピオス先生?」
「その方が良かったんだろう?」
「言ってない。言ってない」
 大理石を思わせる白い肌に、先ほどとは打って変わって赤みを帯びた毛先がよく映えていた。不遜な笑みを口元に浮かべられて、立香は反射的に否定の文言を口走った。
 そんな風に聞こえたのなら、不本意だ。一応抗議してみたが、引きつり気味の表情では説得力などありはしない。
 益々口角を歪めた医神に迫られて、及び腰になった立香は後退を試みた。悪足掻きを承知の上でベッドによじ登ろうとしたら、斜め後ろに衝き立てた腕の脇を、なにかがするりと通り抜けた。
「ひいっ」
 冷たいものが走り去ったかと思ったら、楕円の軌道を描いて戻り、手首から駆け上がって来た。さながら蔦が支柱に絡まるように、螺旋を刻んでよじ登って、肩口の辺りからひょっこり顔を覗かせた。
 それはアスクレピオスが連れ回している、あの白い蛇だった。
「な、なんだ……びっくりした」
 艶々した鱗は意外に心地よく、火照った肌を冷やしてくれる。ちろちろ覗かせる舌は細く、小さめの瞳はつぶらで、こちらに危害を加える雰囲気はなかった。
 いきなりだったので驚いたが、正体が分かれば怖くない。
 乱暴に振り払わなくて、良かった。ホッと息を吐いていたら、間近なところからコホン、とわざとらしい咳払いが聞こえた。
 顔を上げれば、どことなく機嫌が悪そうな顔があった。
 直前までの和やかな気配の逃亡先がどこなのか、立香には見当も付かなかった。
「腕はどこまで上がる」
「ええと、これくら……いっ」
「無理はしなくていい。内臓にダメージがなければ、二週間もすれば、内出血の跡も消えるだろう」
「うええ、そんなに?」
 戸惑っていたら質問されて、応じるべく利き腕を持ち上げれば、垂直になるかなり手前が限界だった。出そうになった悲鳴を堪えて歯を食い縛っていたら、先ほどとは打って変わって、優しい声が降ってきた。
 患部を上にして寝転がるよう指示され、大人しく従ったところで、ずしっと重い冷却シートが被せられた。
「あれ、案外……あ、違う。やっぱり冷たい」
 最初はそこまで冷たさを覚えなかった。むしろ意外過ぎる重量と、圧迫感が意識の大半を支配した。
 しかし時間を経るうちに、シートを覆う薄手の布を越えて、ひんやりとしたものが伝わって来た。
「しばらくそうしていろ」
「どれくらい?」
「そうだな。お前達の言う時間で……二十分程度、というところか」
 横になりはしたが、靴を脱いでいなかったので、足首から先は外にはみ出している。
 屈むと痛いので放っておいたものを、気になったのだろう。アスクレピオスがわざわざ脱がせてくれた。
 こういうところだけは、献身的だ。元気な時に顔を合わせれば、やれ珍しい病人を連れて来いだとか、怪我人はいないのだとか、散々なことを口にするくせに。
 一方で立香が少しでも体調を崩そうものなら、鬼の首を取ったかのように、喜び勇んで押しかけて来た。
 今回も、その流れだ。
「というか。……これだけ?」
 てっきり他にも注射や、服薬が待っていると思い込んでいた。
 ところがアスクレピオスは冷却シートがずり落ちないよう安定させると、立香の枕元に白蛇を残し、背もたれのない椅子に腰を下ろした。悠然と足を組んで、こちらの困惑など知らぬ顔で目を細めた。
「ああ。冷やし終えたら、しばらく置いて、もう一度冷やす。凍傷になっては困るからな」
「治療は……」
「しているだろう。患部の冷却も、立派な治療のひとつだ」
 ほんの少し頭を浮かせた立香を咎めてか、蛇がぬるっと背後から顔を出した。
 さりげなく身体に巻き付いて、離れていかない。アスクレピオスの代わりに見張っているのだと、言葉は分からないけれど、行動から推測が可能だった。
 だからといって、ただ寝転がっているのは退屈だ。頭は冴えている。行き場のない左腕を身体の前方に投げ出して、頬杖ついた男を眺めるだけというのは、苦行だった。
「アスクレピオス」
「痛いのなら、痛いと。ちゃんとそう言え。マスター」
「……だから、痛くなかったんだ。最初は」
「分かった。鎮痛剤を注射してやろう。今なら手元が狂って、針がどこに刺さるか分からないぞ」
「ひどい」
 雑談が欲しくて名前を呼べば、もう片付いた筈の話題が提示された。
 懲りない彼に苦情を申し立てた途端、空恐ろしいことを言われた。本当にやりかねなくて震えていたら、顰め面を面白がった男がふっ、と気の抜けた笑みを浮かべた。
 それが思いの外珍しく、且つ意外で、立香はぽかんとなった。目を点にしていたら、気付いたアスクレピオスがすぐに表情を険しくして、頬杖を解き、机に積まれていたファイルの一冊を手に取った。
 表紙に何も書かれていないそれを膝に広げて、何ページか捲って、表面をカツカツと指先で叩く。
 そこに何が記されているのか、立香からは見えない。ただそのファイルがなにを記録したものかについては、辛うじて覚えがあった。
「なあ、マスター」
「なに」
「痛みというものは、我慢すれば消えるものではない。表向き感じなくなったとしても、それはお前の中で蓄積し、肥大し、腐敗し、やがては膿となって溢れ出すぞ」
 同じものを広げて、ダ・ヴィンチやドクター・ロマニ、それに医療行為に通じたサーヴァントなどが渋い顔をしたのを覚えている。今のアスクレピオスは、その時の彼らと同じような表情をしていた。
 またか、と曖昧に微笑んで、立香は伸ばしていた左腕を引っ込めた。枕の代わりに頭の下に敷いて、眉間の皺を深くした男に目尻を下げた。
「大丈夫だよ、オレは。今までも、なんとかなった。だから」
「藤丸立香」
「――――っ!」
 言いかけて、遮られた。
 思いもよらず声に出された己の名前にビクッとなって、立香は咄嗟に起き上がろうとした。
「くうっ」
 しかし、果たせない。口を大きく開いた白蛇が威嚇して牙を覗かせたし、なにより脇腹に走る痛みが、身体の自由を奪っていた。
 僅かに温くなったジェル状の冷却シートが、鉛のように重く感じられた。
 アスクレピオスは両手を使ってファイルを閉じ、荒っぽく机に戻した。勢いのままに立ち上がって、大股でベッドへと迫った。
 一瞬、殴られるのでは、と恐ろしくなった。
 彼は嘘を吐かれるのを何よりも嫌う。健康診断の数値を誤魔化そうものなら、烈火の如く怒り狂い、正確な数値を白状するまで頑として譲らなかった。
 この期に及んで気丈に振る舞おうとする立香を、彼は許すだろうか。
 答えは、否だ。ならばと、ひとり想像を膨らませて怯え、震えていたら、見透かした男から何度目か知れない溜め息を喰らった。
「ここまで来ると、最早病気だな。貴様のそれは」
「……どうも」
「勘違いするな。褒めてなどいない」
 降りてきた拳は直前で解け、ほんの僅かにずれ動いた冷却シートの向きを補正した。一瞬だけ机を振り返り、置かれたデジタル時計がどれだけ進んでいるかを確認して、椅子には戻らず、立香の足元に腰を据えた。
 彼の分の体重を受けて、備え付けの寝台がギシ、と軋んだ。
「『痛い』と言葉にするのは、弱音を吐いたことにはならない。それは純然たる事実でしかなく、それ以上でも、それ以下でもない」
 そこに座られると、彼の顔が見えない。膝から先ならどうにか視界に収まったが、そこから上は、首を擡げなければ難しかった。
 だが少しでも姿勢を変えようとすれば、白蛇の攻撃に晒された。シャー、と険しい顔つきで睨まれては、蛙の如く小さくなるしかなかった。
 そんなだから、アスクレピオスがどんな顔をして喋っているのか、空想するより他になかった。
 顰め面なのか、呆れているのか。
 馬鹿にしているのか、蔑んでいるのか。
 案外、どれも違う気がした。
「言葉にしろ、藤丸立香。でなければ、――僕でも気付けない時が来る」
 憐れまれているのか。
 それもどうやら違っている予感がして、立香は音も無く立ち上がった男の背中を目で追いかけた。
 どうして顔を見せてくれないのだろう。
 わけもなく、無性に寂しくなった。緩んだ唇から悲嘆の言葉が零れ落ちそうになって、すんでのところで押し留めた。
 今、自分はなにを言おうとした。
 無意識に伸びかけていた左肘にも目を向けて、立香はやり場の無い感情を、ぐっ、と力を込めて握り締めた。
 弱音は、吐きたくない。いいや、吐ける状態になかった。
 人理が焼却された時、カルデアに残されたマスター候補者は魔術師とは程遠い彼ひとりだった。
 逃げ出せる状況にはなく、受け入れるしかなかった。偶々運良く事が運んだ後は、トントン拍子だった。
 怖かった。何度も死にそうになった。死にたいとさえ思った。もう止めて欲しいと、もう止めたいと、幾度となく願った。
 それが許される環境ではなかった。
 ありふれた日常に焦がれ、取り戻したいと祈った。それまで自分自身が歩んできた世界が、あって当たり前のものと信じていたから、まだ走れた。
 真っ向から否定された時、足元が音を立てて崩れ落ちた。自分の決断が間違っていると気付かないまま、ずるずると過ごして来たのではないかと、恐怖した。
 それでも、背中を押されたから。
 青空を見たいと純朴に願った少女が、震えながらも懸命に戦っているから、応えなければと己を奮い立たせた。
 上っ面だけ誤魔化して、偽って、隠して。隠し通して。
 言えなくなったのは、いつからだろう。もう思い出せないくらい遠い昔のような錯覚を抱いて、立香は二度、三度と瞬きを繰り返した。
「アスクレピオス」
 ひとつ、分かったことがある。
 背中を向け続ける医神は、怒っている。声に出そうとしない立香にではなく、求められなければ応じることが出来ない、医者としての自身の不甲斐なさに、だ。
 今回は偶々だった。
 次も出来るかどうか、保証はどこにもない。
「ごめん」
 約束は、できない。
 今はそう告げるのが精一杯の自分に苦笑して、立香は気の抜けた笑みを浮かべた。
「謝る前に、改善する努力をしろ」
「がんばります」
 負け惜しみのような反論が、どうしようもなく愛おしい。たまらず噴き出しそうになったのを堪えて呟いて、ふと思いついた意地悪に、立香は頬を緩めた。
 様子を窺い、顔を覗き込んできた蛇の頭を撫でた。
 想像以上に弾力があって、触り心地は悪くない。
 白蛇の方も甘えるように擦り寄って、立香の熱っぽい額を擽った。
「アスクレピオスは、じゃあ。オレが痛いって言ったら、どんなところでも治してくれるんだ?」
「いきなりだな」
 話を振られて、アスクレピオスはようやく振り返った。表情はいつも通り、愛想が無い。ただ雰囲気は、ほんの少し柔らかかった。
 冴えた眼差しが、立香の真意を探って左右を泳ぐ。
 合間に時計を確認する辺りが、どんな状況下でも医者としての矜恃を忘れない彼らしかった。
「で、どこだ。言ってみろ」
 出来る、出来ないはすっ飛ばし、次の治療箇所求めた男がせっつく。
 アスクレピオスは立香をパトロンと定め、医療の進展に心血を注いで、サーヴァントとしての役割を果たすのは二の次な面があった。立香の扱いも自身のマスターとしてのそれではなく、治療対象者として見ている部分が大きかった。
 その辺りが、ほかのサーヴァントとの違いだろうか。
 彼はいつ、いかなる時でも、医者としての立場を貫いている。頑固なほどに。どこかのバーサーカーと比べても、遜色ないほどに。
 だから、ホッとした。気が緩んだ。
 彼になら言っても許されると、そんな気分にさせられた。
「ここ、が。痛い。ずっと」
 半分冗談で、半分本気だった。
 右手の親指でトン、と左胸を小突いた。掠れる小声では伝わらない可能性があったけれど、それならそれで構わなかった。
 心臓が痛むわけではない。持病はない。疾患を有しているのとも違う。
 ただ心の在処を説明しようとしたら、自然とそこに指が向いただけだ。
 治せるものなら、治してみせろ。そんな生意気な想いもあった。出来ないくせに息巻く医者に、赤っ恥を掻かせてやりたい負けん気も、少なからず働いていた。
 怒りから来る哀しみに溺れ、身動きが取れずにいる彼を見たくなかった。
 ごちゃごちゃ混じり合う感情は、ひとつの色では表せない。
 それらをひっくるめて、放り投げた立香に、アスクレピオスは数秒の間を置き、背筋を伸ばした。
 再び光の粒子が舞い散り、彼が二歩進む間にまたも衣装が入れ替わった。
 この早変わりが、どうしようもなく羨ましい。人間には絶対真似出来ないのを悔しがっていたら、白い袖に隠れた彼の右腕が、布を伴って上下に舞い踊った。
 ぽす、と落ちてきた。
 枕もない場所に埋もれた立香の頭を、優しく撫でた。
「はい?」
 わしゃわしゃと髪の毛を掻き混ぜて、絡み合う毛先を解し、押し潰した。ぽんぽん、と軽く叩いて、また撫でて、完全に子供をあやす仕草だった。
 ナーサリー・ライムにしていたのと同じだ。
 予想していたものと違う。いや、そもそもなにも想定していなかった。彼がどんな行動に出るか、一切頭に思い浮かんでいなかった。
 あまりにも普通で、あまりにもありきたりだった。もっと奇を衒った行動に出ると期待していたのに、拍子抜けだった。
「えー……」
 もう少し悩んで、考えて欲しかった。
 贅沢な不満を訴え、むすっと頬を膨らませて身動いで、立香は面白くないと目を閉じた。
 不貞寝を決め込み、視界からアスクレピオスを追い出す。
「よく頑張ったな」
 その耳に、心地よい低音が滑り込んできた。
 思えば誰かに頭を撫でられたのは、いつが最後だっただろう。触れられているだけで眠気を催すほどの仕草は、妙にくすぐったくて、面映ゆかった。
 強張っていたものが、溶けていく。絡まり合っていたものが、綻び、緩んで、解けていく。
「貴様の頑張りを、ここで知らない者はいない。誇って良い。だから、今は休め。立香」
 囁き声が耳をすり抜け、全身に広がっていくのが分かる。これしきのことで、と絆されかけている自分が若干悔しいが、止めようがなかった。
 照れ臭い。
 恥ずかしい。
 嬉しい。
 顔を上げられなくて、ふわりと石鹸が薫るシーツに鼻先を埋めた。本格的に寝入る体勢に入ったのと勘違いした男の手は、ゆるりと離れていった。
 それが訳もなく切なくて、苦しくて、気がつけば白く長い袖を抓んでいた。
 弱い力だったから、軽く引っ張ったところで、すぐに外れた。掴む場所を選んでいる余裕がなかったので、アスクレピオスが気付かない場合も考えられた。
「どうした、マスター」
 彼は露出している身体の、冷やしている場所以外が冷えないようにと、上に掛けるブランケットを用意していたところだった。
 そのまま肩に掛けられて、立香はおずおず目を開けた。半分シーツに埋もれた視界で男の存在を確認するが、面と向かって喋るのは、どうしてだか、できなかった。
 心細さを覚えて、行かないで欲しいと願うなど。
 これでは本当に、子供ではないか。
「ええと、その。……なんでも……」
 理由を説明出来なくて、ごにょごにょ言い訳するけれども、伝わるはずもなく。
 どくどくと脈打つ鼓動が耳元で大きく響くのを聞きながら、立香はシーツの海を指で何度も引っ掻いた。
 皺を作り、溝を深くしては押し潰して、平らにする。辛うじて見えるアスクレピオスの腰元は、しばらく動く気配がなかった。
 ただ、衣擦れの音が微かに聞こえた。白いコートが波打つように揺れて、袖の先がひらひらと視界の端を横切った。
 再び、ぽすん、と頭を撫でられた。何度か左右に揺らされて、停止した後も離れていなかった。
 押し潰されているわけではないので、当然痛くない。
「毒を食らわば皿まで、だ。マスター」
 その状態のまま、アスクレピオスの柔らかな声が、物騒なことを言い放つ。
 思わずピクリと動きかけた立香を低く笑って、声は続いた。
「貴様が地獄に落ちるというのなら、それに付き従うのみだ。それが、お前のサーヴァントとして選ばれたことに対する、僕たちの答えだからな。もっとも――」
 淡々と、抑揚なく。
 けれど確かに、感情は籠められていた。
 落雷に打たれたかのように、立香は動けない。騒然としたままはっ、と短く息を吐けば、止まっていたアスクレピオスの手が緩やかに動き出した。
 そうっと、労るように。ブランケットの上から肩をなぞられた。トントン、と傷を負っていない場所を選んで、軽い力で叩かれた。
 衣擦れの音が大きくなる。一歩を大きく、ベッド側へ踏み出した男が、白蛇が見守る前で身を屈めた。
 立香の限られた視界いっぱいに、白銀の髪が大きく踊った。片腕をベッドに衝き立てた男の体重を受けて、固いスプリングがギィ、と軋んでそこだけ凹んだ。
 声は耳元、すぐのところに響いた。
「僕はお前を、冥府に引き渡す気はないが、な」
 意地悪く、立香ではない別の誰かを嘲る言葉を吐かれた。
 短い前髪を越えて、額に何かが触れたけれど、その正体は掴めない。
 依然肩を撫でる手と、枕元に固定された腕以外で、彼が立香に触れられる手段があるとするならば。
 導き出された答えに、自然と顔を上げそうになって。
「今は休め。それがお前の……お前が今やるべき仕事だ」
 囁かれた事務的なひと言に、急に胸の奥がむず痒くてたまらなくなった。
 結局ベッドに額を埋めた立香の傍を、アスクレピオスはしばらく離れようとしなかった。

命だに 世に長らふる ものならば 君のこころの ほども見えまし
風葉和歌集 937
2019/09/23 脱稿