長き眠りの 夢も覚べき

 水の上に立っていた。
 踵を揃え、爪先立ちだった。不安定な体勢であるのに、微動だにしなかった。
 不可思議な感覚だった。ふわふわしているのに、妙に安定感がある。ああ、これは夢かも知れないと、朧気な意識の片隅で考えた。
 宙に浮かんでいるようだったが、足元には一定間隔で水紋が広がっている。矢張り水の上、と表現するのが、最も的確なように思われた。
 あり得ない現実に、戸惑いは否めなかった。
 しかし慌てふためこうという気にもならない。変な話だが、これはこれ、とすんなり受け止めて、受け入れてしまっていた。
 ともすれば簡単に倒れ、水底へ沈んでしまいそうな状況だ。だのに小夜左文字は落ち着いて、果てが見えない水面をただじっと見詰め続けた。
 動こうという気すら起きなかった。
 どこかへ行きたい、逃げ出したいという衝動も産まれない。足に根が生えたようだ。それに下手に動けば、簡単に溺れてしまえる。教えてくれる存在はなかったが、本能がそう警句を発していた。
 水辺に生える葦のようにじっとして、瞬きすらしない。
 永遠に感じられ、或いは一瞬だったかもしれない時間が過ぎた。
 いつまでこうしていれば良いのか、何百回と繰り返し考えた頃だった。
 ぽこ。
 遙か先の水面で、小さな泡が弾けた。
 ぽこ。
 ぽこ、ぽこ。
 ぽこ、ぽこ、ぽこ。
 続けて三つ、更にまたいくつもの泡が、立て続けに爆ぜた。
 なにかしらの変化が起きていた。きっかけは分からないが、兎も角状況が変わろうとしていた。
 それでも小夜左文字は、ぴくりとも動かなかった。呆けているようで、集中している風でもある眼差しを、無数に現れては消える水泡に向け続けた。
 泡は段々大きくなり、短刀の拳ほどの大きさになった。沸騰する湯を連想させて、水面が盛り上がっていくようだった。
 そして不意に、ぷつりと途切れた。
 水面全体が波打ち、跳ね飛ばされそうになる危機は一瞬のうちに掻き消えた。
 残ったのは葦の葉と化した少年と、美しく咲く一輪の花だった。
 水面から若緑色の茎を伸ばし、白から薄紅へと変化する花弁を抱いていた。何枚も重なり合った花びらは雫の形をして、外側からゆっくり開かれようとしていた。
 蓮だ。
 泥の中で健気に育ち、水面下に広がる穢れから今まさに、解き放たれたのだ。
 太古の人はこの花を、極楽浄土から零れ落ちたものだと信じた。
 まさにその通りと思える美しさで、蓮の蕾は綻びようとしていた。
 小夜左文字は息を呑んだ。
 これほどに美しい花を、初めて見た。是非とも手に取って、間近で眺めたいと強く願った。
 しかし彼の足場は、非常に不安定だ。たった一歩を踏み出すだけでも、この体躯はずぷずぷと泥と穢れに満ちた水底目指して沈んでいくだろう。
 今こうして水上に佇んでいられるのは、奇跡に等しいことだ。
 なぜなら彼は付喪神、それも復讐の為に振るわれた血濡れた刀なのだから。
 その刀身は青く冴えた輝きを放ちながらも、赤い血で汚れていた。温かな体躯を貫き、数多の命を奪ってきた呪われた短刀だった。
 損な彼がどうして、あのような浄土を彩る花に手を伸ばせようか。
 けれど、欲しい。是が非でも、喉から手が出るほどに欲していた。
 あの花が手に入れば、きっと掬われる。根拠もなく、そう信じた。
 蓮の花の可憐さと、清廉さは、彼が引き連れる黒い澱みにとっても救いとなるはずだ。こびりつき、腐る傍から積み重なっていく罪や穢れを打ち払い、綺麗さっぱり浄化してくれるものと期待した。
 だが小夜左文字の背丈では、どれだけ頑張っても手が届かない。
 水底に沈むのを覚悟で飛び出して行くより他に、術がなかった。
 但しこの身体が沈みきる前に、蓮の花まで辿り着ける保証はない。可能性は五分五分どころか、距離的にほぼ不可能だった。
 されど試してもいないのに、どうして出来ないと言い切れるのか。
 もしかしたら、恐れているようなことにならないかもしれない。
 出した足が沈むかどうかすら、彼は確かめてもいないのだ。
 なにを怯える必要がある。
 こうやって恐れを抱き、身動きが取れないでいるうちに、花が枯れてしまうかもしれない。
 いつ終わるとも知れない孤独を耐え忍び続けるのと、どちらが良いか。
 耳元で悪魔が囁いていた。
 救われたければ、行動するしかない。だが選び取った道が正しく、望んだ結果通りになるとは限らなかった。
 このままじっとしていれば、少なくとも水中に没することはない。
 しかし時間は、刻々と過ぎて行く。満開を迎えた花が萎み、潰えてしまうまでの猶予はさほど残されていなかった。
 決断の時が迫っていた。
 蓮の花は紅色を濃くし、まさに今、盛りを迎えていた。
 そして程なくして、最初に開いた外側の花弁が端からじわじわと茶色く変色し始めた。 少しずつ内側に侵食し、鮮やかだった色が崩れていく。艶やかだった表面に細かな皺が走り、縮み、上を向いていたものがだらりと垂れ下がった。
 はらりと一枚、水面に落ちた。
 隠れていた中央のはちすが、次第に露わになっていく。だがその上に、菩薩の姿は無かった。
 誰も小夜左文字を迎えに来ない。来てくれない。
 だったら自分で行くしかない。
 けれど無事に行き着ける保証はない。
 迷えば迷うほど、蓮の花は朽ちていく。もう残り時間は長くなかった。
 胸が締めつけられるように痛んだ。息苦しくて、助けを求めて手を伸ばした。
「うう――」
 喉の奥で喘ぎ、空を掻き毟る。
 力任せに虚空を握り締めた彼は、斜めから差し込む明るい日差しに絶句し、目を瞬かせた。
 水上に佇んでいたはずが、背中に固い感触を覚えた。
 重力を感じた。だがそれだけでは終わらない。
「ぐへへ、うへ。むにゃ、……もう食べられない……」
「ううー……うぅん……」
 そこかしこから暢気な寝言や、苦しそうな呻き声が聞こえた。大柄な太刀に潰された秋田藤四郎の桃色頭を間近に見付けて、小夜左文字はぽかんとした後、嗚呼、と深くため息を吐いた。
 胸が苦しかったのは、他でもない。物理的に、ちゃんとした理由があった。
「重い」
 寝相の悪さに定評がある太鼓鐘貞宗の左脚を退かせ、彼は寝癖が酷い頭をボリボリ掻いた。
 息を吸えば、酒の臭いが鼻腔を焼いた。ほかにも何十種類もの食べ物の香りが混じり合い、なかなかの混迷ぶりだった。
 大広間に、布団などなかった。何十振りもの刀剣男士が思い思いに雑魚寝して、高鼾の真っ最中だった。
 昨晩の酒宴の盛り上がりようを伝えるかのように、あちこちに食べ物の残骸や、空の酒瓶が転がっている。足の踏み場もないとは、まさにこのことだった。
「はは……」
 一晩明けての惨状に、小夜左文字はたまらず頬を引き攣らせた。
 笑い事ではないが、笑うよりほかにない。
 後片付けが大変だ。酒焼けでひりひりする喉に唾液を送り込んで、彼はもそもそ起き上がった。
 新しい仲間が増えた翌日はいつもこうだが、今回は前にも増して酷い有様だ。
 普段は勧められても断り、一滴も酒を飲もうとしないへし切長谷部までもが、日本号の隣で酔い潰れていた。
 大きな槍に背中から抱きしめられて、悪夢でも見ているのか顰め面で眠っていた。もしかしたら渋面の原因は、日本号ではなく、彼の腹に蹴りを入れる格好で大の字になっている宗三左文字かもしれなかった。
 甘酒断ちを成功させた不動行光に、薬研藤四郎の寝姿も近くにあった。
 獅子王の鵺に半分埋もれる格好で、五虎退と日向正宗が丸くなっている。大典田光世が壁により掛かって舟を漕ぎ、その膝の上で前田藤四郎がすやすや寝息を立てていた。背高の太刀の横には鶯丸がいて、こちらは平野藤四郎を膝に抱いていた。
 大包平と鶯丸の間には、誰かいたであろう隙間が残されていた。
 昨夜の記憶が確かなら、声が大きい赤髪の太刀は異様な程に数珠丸恒次に絡んでいた。
 酒は飲まないと言い張る男を、どうにかして酔わせようと躍起になっていた。何十回と同じやり取りが繰り返されて、その度に鶯丸が愉快だと腹を抱えて笑っていた。
 その酒癖悪い男に絡まれていた天下五剣の一振りが、どこにも見当たらない。
 大半が眠ってしまった後にでも、部屋に戻ったのだろうか。
 飲酒や、過度に賑やかな場を嫌う江雪左文字も、座敷にいなかった。後は石切丸に、太郎太刀といった神刀たちの姿もなかった。
 もっとも次郎太刀は別だ。派手な身なりの大太刀は、座敷の中央に近い場所に陣取り、瓢箪形の徳利を抱いて眠っていた。頬はまだ赤みを帯びており、寝顔は至って上機嫌だった。
「昼まで、起きそうにないね」
 ごごご、と地鳴りのような鼾を掻いているのはソハヤノツルキだった。
 大の字になって横になり、かなりの面積を占領していた。その両手両足を枕にして、粟田口の短刀たちが各自楽な姿勢で転がっていた。
 包丁藤四郎に、信濃藤四郎、後藤藤四郎らの姿まである。
 藤四郎たちが飲み会に参加するのを、一期一振はあまり好ましく思っていない。けれど新しく仲間に加わった刀剣男士の歓迎会だけは別で、この時ばかりは無礼講だった。
 そんな粟田口の長兄はといえば、鳴狐の供の狐を抱きしめて、行儀良く仰向けで眠っていた。
 今となっては珍しくない光景だが、どことなく新鮮だった。
「おやあ、お目覚めかい?」
「うわっ」
 個性豊かな寝姿の観察に夢中で、油断していたところを話しかけられた。
 不意打ちを食らった小夜左文字はビクッと肩を竦めて、勢い良く振り返った。
 些か仰々しい彼の行動に、呵々と笑ったのは大般若長光だ。灰鼠色の長い髪を掻き上げて、長船派の太刀はしっとりと微笑んだ。
「おは、よう……ございます」
「ああ、おはよう。それじゃあ俺は、もうちょっと寝ることにするか。おやすみぃ」
「え? あ、はい。おやすみなさい……」
 この刀派固有の特徴なのか、妙に色気を含んだ仕草ながら、発せられた言葉は外見にそぐわない。
 語尾を伸ばしながら仰向けに倒れ込み、瞬く間に寝息を立てる。あまりの素早さに小夜左文字は唖然となった。
 あまり話したことがない太刀で、どう反応して良いか分からなかった。見えない何かを押しつけられた気がしたが、それが具体的になんなのか、さっぱり見当が付かなかった。
 胸に手を当てて首を捻り、しばらく待つが大般若長光は動かない。
 本当に眠ってしまったのだと首肯して、短刀は首の後ろを掻いた。
「ふあ、あ……」
 眠る仲間を見ていたら、欠伸が出た。
 睡魔に襲われたわけではないけれど、雰囲気に釣られた格好だった。
「どうしようか」
 外はもう明るいが、日の出からさほど時間が経っている風には見えなかった。
 座敷に姿がない刀も、それなりの数に上った。いったい誰がいないのか、探るのは謎かけを解く気分だった。
 背筋を伸ばし、小夜左文字は一瞬悩んで立ち上がった。
 太鼓鐘貞宗の臑を蹴って遠ざけて、捲れ上がっていた着物の裾を整えていた時だった。
「ああ、もう! やっぱり! 大般若君ってば。朝ご飯の支度があるから早起きしてって、僕、昨日ちゃんと言ったよね?」
 ドスドスドス、と勇ましい足音が響いたかと思えば、開けっぱなしの障子を越えて声が飛んできた。
 勢いつけすぎた燭台切光忠が廊下をすい、と滑って通り過ぎていく。そうして柱の向こう側に大きな身体が半分隠れたところで、蟹歩きで戻ってきた。
 敷居の手前で立ち止まって、隻眼を大きく見開いた。一瞬固まった後、額に手をやり、惨憺たる有様を前にしてがっくり肩を落とした。
「ああ」
 先ほどの違和感の正体が判明した。
 大般若長光に厄介ごとを押しつけられたという感覚は、間違いではなかった。
 一度起きた太刀は、たまたま目が合った短刀に全てを押しつけて、二度寝に入ってしまった。明確な言葉を用いなかったので小夜左文字は戸惑ったが、当の太刀はそれで伝わったと信じ切っていた。
 もっとも今やって来た燭台切光忠が、その事を知るはずがない。
 ここで黙ってやり過ごしておけば、短刀は食事当番など引き受けていない、としらを切るのも可能だった。
「朝早いんだから、飲み明かすのもほどほどにって、あれだけ言ったよね。言ったよね?」
 隻眼の太刀は死屍累々の座敷に入ると、大股で目当ての男に近付いた。そこに小夜左文字がいると気付いているのか、いないのか、兎も角大般若長光の胸倉を掴み、力技で起こそうと激しく揺り動かした。
 しかし今し方眠りに就いたばかりの太刀は、めぼしい反応を示さなかった。
 最初は狸寝入りを疑ったが、それにしては力の抜け具合が見事だ。頬を交互に打たれても、顔を顰めこそすれ、抵抗する素振りは一切見られなかった。
 もしこれが演技だとするなら、どんな激しい世間の荒波も、易々と乗り越えられるだろう。
 器用極まりない男を羨んで、小夜左文字はそうっと一歩を踏み出した。
 隙間を見付けて左右に渡りながら進み、必死の形相の男に忍び寄る。
 これだけ大騒ぎしているのに、大般若長光どころか、多くの刀剣男士がまるで目を覚まさない。
 中にはそれっぽい雰囲気を漂わせている刀もあったが、面倒事を引き受けたくないと、黙って息を潜めていた。
「僕が、やります。代わりに」
 だから小夜左文字がそう告げた時、ホッとした刀は多かっただろう。
 左手を胸に添えた短刀の申し出に、燭台切光忠は掴んでいた男の衿元をぱっと手放した。
「うっ」
 もれなくゴンッ、と後頭部を打った男が小さく呻いたが、些細なことと聞き流された。
「小夜ちゃん」
「時間、ないでしょう?」
 突然の申し出に唖然とする太刀に目を細め、小夜左文字は背中で両手を結んだ。踵を上げたり、下げたりしながら座敷全体を見回して、最後に首を左に倒した。
 自分達の朝食の用意だというのに、誰一振りとして自ら手を挙げて、動き出そうとしない。
 二日酔いで頭が痛いだとか、雑魚寝だったので身体が怠いだとか。叩き起こしたところで、そういう言い訳に終始されるのは目に見えていた。
 だったら眠気から解放された短刀が台所に立つ方が、寝起きの刀より余程役に立つ。
 燭台切光忠は昨夜の新入り歓迎会も、皆の為に裏方に徹していた。そんな尊い刀に対する感謝の心が足りていないと、短刀はひっそり溜め息を零した。
 ただ一振り、協力を申し出た少年に、黒髪の太刀はあんぐり開けていた口を閉じた。
 四方に散っていた意識を集約させて、唇を引き結んだ。一瞬の間に色々な事を考えたらしく、きりっと表情を引き締めて、浅く頷き、嬉しそうに相好を崩した。
「ありがとう、嬉しいよ」
「いえ」
「けど、大丈夫。当番は、当番だから。――そういうわけで、大般若君。起きてるよねえ~~?」
 ホッとひと息吐いて、爽やかな笑顔のまま寝こける男の髪の毛をむんず、と鷲掴みにした。
「ぎゃあ、やめろ。やめて。止めて下さい。お願いしま……痛い。痛い、やめて。剥げる。助け……いたたたた、やめて。剥げちゃうから!」
 親切心から申し出た短刀に礼を言ったかと思えば、力技で太刀を吊り上げた。艶やかで美しい髪が全部引っこ抜けても構わない、という勢いで引っ張って、寝たふりを続行していた男を無理矢理叩き起こした。
 容赦のない攻撃に、大般若長光もさすがに誤魔化しきれなかった。
 背後でザワッと空気が震えた。
 見せしめの如く連れ去られた男に同情し、次は自分かと恐れおののく刀たちを見回して、小夜左文字は苦笑を禁じ得なかった。
 声もなくざわめいている刀たちに視線を投げれば、たちまち部屋は静かになった。
 なんとも分かり易い反応に肩を竦めて、彼は一振り分空いた隙間を伝い、座敷を出た。
 大半の刀剣男士が屍の如く横になっている中でも、きちんと起きて活動している刀は、少なからず存在した。
 小烏丸が鶏を小屋から出し、餌をやっていた。物吉貞宗と堀川国広が大量の洗濯物を抱え、洗い場に向かって歩いていた。
 食事当番は、燭台切光忠と大般若長光だけではない。調理が進んでいるのか、微かに甘い匂いが鼻腔を楽しませた。
「顔を洗うのが、先、かな」
 どこへ行こうか迷って、小夜左文字は何気なく頬を擦った。
 かなり薄くなっているけれど、畳の跡が残っていた。触れるとざらざらして、お世辞にも清潔とは言い難かった。
 無精髭が生えていないだけ、まだ見苦しくないと思いたい。
 つるりとしている顎を無意識になぞって、彼は素足のまま庭に降りた。
 井戸で水を汲み、指先が凍えそうになるのを堪え、雑に顔を洗った。垂れる雫は袖に吸わせて、濡れた手で軽く髪を梳き、整えた。
 口も漱ぎ、最後に喉を潤した。余った分は地面にぶちまけようと考えたが、水の気配を察した五虎退のトラが躙り寄ってきたので、そちらに桶ごと譲り渡した。
 すっかり大きく育った虎は、見た目の厳つさに反して大人しい。
 ただ爪は鋭く、牙は太かった。なにかあってからでは遅いと、小夜左文字は極力近付かないようにしていた。
 黒い淀みの影響を受け、暴れられては困る。
 警戒心を残している虎から距離を取り、足の裏を軽く払って、屋敷へと戻った。
 座敷に寝転がる刀は、相変わらずの様相だった。
 けれど何振りか、いたはずの刀が見当たらない。
 幾分増えた隙間を数え、答え合わせをするのは難しそうだった。
「そういえば、歌仙も」
 酒は嗜むものであり、溺れるものではない。
 派手な酒宴を嫌っている知り合いの刀を思い出して、小夜小夜文字は左右を見回した。
 乾杯の時にはいたのに、今は影も形もなかった。早い時間帯に引き上げたらしく、存在した気配自体が嗅ぎ取れなかった。
 どこか別場所で静かに飲み直していたのかもしれないが、誘われていない。
 前回は誘ってもらえたのに、今回はなかった。急に思い出して、小柄な短刀は拗ねて頬を膨らませた。
「どうせ。べつに……」
 空を蹴り、踵を返した。酒は残っていないはずだが、なぜか真っ直ぐ進めなくて、千鳥足で台所を目指した。
 覗いた水屋に、長船の太刀らの姿は無かった。
 渋る大般若長光を説得して、着替えに連れていったのだろう。そのうち現れると勝手に納得して、彼は入り口に背を向けて立つ男に忍び寄った。
 調子良く包丁を扱い、目の前の事に集中して、振り返らない。
「歌仙」
「んー?」
 話しかけても、トントントン、と小気味よい包丁の音は続いた。
 味噌汁の具にするのか、大根を刻む手を休めてくれない。生返事ひとつで終わらせた打刀は、声の主が誰なのか、把握すら出来ていない様子だった。
 いつもなら瞬時に反応するのに、料理に意識が奪われていた。
 それもまた、面白く無い。
 むすっと頬を膨らませて、小夜左文字は男の無防備な臑を蹴り飛ばすべく、右足を後ろに引いた。
 だが実際に、攻撃するところまでは至らなかった。不意打ちに驚いた刀が包丁を投げ飛ばしでもしたら、短刀自身も危険だった。
 痛がる打刀の妄想で溜飲を下げて、真後ろから左斜め後ろへと居場所を移す。
「おや、お小夜だったのか」
「おはようございます」
「ああ、おはよう。よく眠れたかい?」
 それでやっと小夜左文字を認識した男が、ふんわりとした笑顔を浮かべた。屈託のない表情で頷いて、ほんの少しだけ首を右に泳がせた。
 その間も、彼の手は止まらない。視線もすぐに戻して、山盛りの大根を俎板から笊へ移し替えた。
 火の番をしていたのは、大倶利伽羅だった。竈の前に座り込んでいた青年は、一瞬だけ小夜左文字を見て、ぐつぐつ言っている釜に身体を向け直した。
 静かだったので、存在に気付くのが遅れた。
 それがなんだか気恥ずかしくて、短刀は無意識に打刀の袴を掴み取った。
「雑魚寝でしたので」
「雅じゃないね」
「……お蔭で変な夢を見ました」
「夢?」
 ゆとりのある袴を身に着けている男は、衣服を引っ張られていると気付いていないようだった。
 俯いた少年の返答に呆れた風に呟いて、続けられた言葉には眉を顰めた。
 ここでやっと短刀の指の位置を把握して、眇めた視線を脇へ流した。
「どんな?」
 合いの手に悩んでいる素振りを嗅ぎ取って、小夜左文字は顔を上げた。訊いて良いか、迷った上での問いかけと理解して、彼は声を潜めた打刀に苦笑した。
 気を遣われた。
 大倶利伽羅に、そして準備を終えてやって来た長船の刀たちに聞かれないようにとの、最大限の譲歩だった。
 優しいのか、そうでないのか、分からない。
 喉の奥でクツクツ音を鳴らして、小夜左文字は打刀の後ろに続き、ぐらぐら煮える鍋の前へ移動した。
「歌仙は、どうしても欲しいのに、手が届かなくて。見ているしかないものがあったら、どうしますか?」
「うん?」
 沸騰する湯から、白い湯気が何本も立ち上がっていた。
 忙しく支度する仲間達を邪魔しないよう、つかず離れずの距離を保ちながら、逆に問いかける。
 淡々とした口調だったので、歌仙兼定はそれが質問だと理解するのに時間が掛かったらしい。大根を鍋に流し落とす作業は、中途半端なところでピタリと止まった。
 傾けていた笊を水平にして、菜箸で空中に円を描き、目をぱちくりとさせる。
「どう、って」
「どうしますか?」
 夢の話をしていたはずが、話題がごっそり入れ替わった。
 事情を知らない男には、そう思えたことだろう。畳みかけるように短刀に急かされて、彼は首を捻り、頭上に疑問符を生やした。
 けれど変にはぐらかしたり、逃げたりはしない。
 他の刀が相手だったら、どうかは分からない。その辺りは自分だから、というある種の自負を抱いて、小夜左文字は男の袴を引っ張った。
 歌仙兼定は再び手を動かして、視線を鍋へと戻した。
「そうだねえ」
 小夜左文字は夢の世界で、見事に咲き誇る蓮の花を手に入れられなかった。
 喉から手が出るほど欲していたのに、傍に辿り着くことすら叶わなかった。
 見ているしか出来なかった。
 ただ遠巻きに眺めるしか許されなかった。
「状況がよく分からないけれど、僕としては、それはもう、自分のものになっていると思っていいんじゃないのかな?」
「はい?」
 悔し涙を流し、地団駄を踏むとの回答を予想していた。
 世の理不尽に腹を立て、抗議の声を上げるものと期待した。
 違った。
 まるで予想していなかった、想像と百八十度異なる返答を得て、小夜左文字の声がひっくり返った。
 呆気にとられて目を点にした少年に、鍋をぐるりとかき混ぜた男は、何故か楽しそうに笑った。
「だって、考えてもごらん、お小夜。誰にも邪魔されることなく、己が欲するものと対峙出来ているんだ。その時点でもう、それは君のものになっているよ」
 手に取って触れられるだけが、所有していることなのか。
 手元に置いていたところで、失われるものはいずれ消えてしまうのだ。それをどうして、『手に入れた』と言えるのだろう。
 目に触れた時点で、小夜左文字はそれを心に宿している。
「屁理屈を」
 考えたこともない発言に驚き、目から鱗が落ちた。
 逆立ちしたって導き出せない考えに、思わず悪態を吐いていた。
「ははは」
 歌仙兼定は呵々と声を響かせ、幅広の肩を震わせた。柔らかな眼差しで短刀を見下ろして、花が綻ぶ笑顔を浮かべた。
「さあ、お小夜。手伝ってはくれないか」
 直前の会話などなかったかのように告げて、料理を取り分ける皿の準備をするよう指示を出す。
 今日の食事当番ではない短刀を、当たり前のように顎で使う彼に小さく嘆息して、小夜左文字はきゅっと唇を引き結んだ。
 視線を感じて振り返れば、燭台切光忠が炊き上がった米を櫃に移している最中だった。
 目が合った途端、苦笑いを浮かべられた。盗み聞きしていたのを仕草で謝られて、彼はやれやれと肩を竦めた。
 座敷でどのようなやり取りがあったか、打刀は知るよしもない。
 なんだかんだで手伝うことになった小夜左文字は、やむなしと状況を受け入れた。
 図々しいほどに我が儘で、傲慢だが、それが嫌味にならないところが、歌仙兼定という刀の特徴だ。
 それに今更言ったところで、改まるものではない。
「今日の朝ご飯、何ですか」
「希望があれば、作るよ?」
「じゃあ、……卵焼き」
「分かった。甘いので良いんだね?」
「楽しみです」
 手伝う代わりに要望を出せば、打刀はあっさり承諾した。
 向こうで聞いていた大般若長光が途端に嫌そうな顔をし、忍び足で後退を図った。しかし逃亡は事前に察知され、にこやかな笑顔の燭台切光忠に阻止された。
 大倶利伽羅が無言で、卵を集める用にと編み籠を差し出す。
「さあ、大般若君。遅刻した罰だ。小夜ちゃんの期待に応える為にも、よろしくね」
「聞いてないんだけどなあ~~~?」
 問答無用で面倒事を押しつけられて、長髪の太刀が裏返った悲鳴を上げた。抵抗してじたばた暴れてみるけれど、勿論認められるはずがなかった。
 庭で放し飼いの鶏はとても凶暴で、無傷で卵を回収するのは至難の業だ。
 誰もが避けたがる仕事を押しつけられて、勝手口から出て行く男の背中は朝から哀愁を帯びていた。
 一部始終を見守って、たまらず噴き出しそうになった。口を尖らせ、踏ん張って、小夜左文字は頼まれたことをやり遂げるべく、食器棚へ向かった。

おどろかんと思ふ心のあらばやは 長き眠りの夢も覚べき
山家集 雑 845

2018/11/25 脱稿