夏の池にも つらゝゐにけり

 寝苦しい夜だった。
 蚊遣りの煙が薄く漂い、息を吸えば鼻の奥がつんとする。慣れたと思った頃にふと強く意識させられて、気に障って落ち着かなかった。
 虫が嫌う臭いのお陰か、蚊が飛び回る不愉快な音は聞こえてこない。その代わりと言ってはなんだけれども、どこかの部屋で、大勢が騒いでいた。
 そろそろ子の刻を過ぎるだろうに、宴会は盛り上がる一方で、終わる気配がなかった。
「脇差の方、かな」
 ごろりと寝返りを打って、小夜左文字はぽつりと呟いた。
 瞼を閉じていても、開いていても、見えるものは変わらない。灯りを失った部屋は暗く、黒一色に塗り潰されていた。
 それでも流石は刀剣男士か、しばらくすれば闇に目が馴染んだ。障子越しに感じる微かな月明かりを頼りにして、家具類の輪郭がぼんやり浮かび上がった。
 時間遡行軍を闇討ちする時には便利な能力だが、余計に目が冴えた。
「どうしようか」
 数回瞬きを繰り返して、彼は仰向けに姿勢を作り替えた。
 天井をぼうっと眺め、薄い枕に散った髪を掻き上げた。結い紐を解いて流れに任せているけれど、癖がついており、とある箇所でくるん、と折れ曲がっていた。
 どれだけ櫛を入れても直らないと、宗三左文字に呆れられたのを思い出した。
 兄刀たちはとっくに夢の中かと想像して、左文字の末弟は胸の上に両手を揃えた。
 木綿糸を織って作った薄い掛け布団越しに鼓動を数え、ちらりと横を窺い見る。
 そこに誰もいないのは分かり切った事実なのに、なにかを期待して、勝手に裏切られた気になって落胆した。
「はあ」
 眠れない夜が、孤独感を深めてくれた。
 兄刀ふた振りが本丸に揃った際、三兄弟で大部屋に移る案もあった。しかし審神者への警戒心が残り、仲間であっても受け入れるのが難しかった当時の小夜左文字は、この申し出を断ってしまった。
 あの時に異なる返答をしていたら、今頃は兄刀と枕を並べ、川の字になって眠っていたことだろう。
 想像していたら、虚しくなった。
「やめよう」
 風の音がして、中庭に植えられた木々がざわめく。
 どこからともなく悲鳴めいたものが聞こえて来たが、小夜左文字は無視した。
 屋敷の建材が軋んだのだろうと推測して、目を閉じた。布団を被り直し、枕に頭を押しつけて、安定する角度を探した。
 何度か身体を揺らし、右肩を下にした。軽く膝を曲げ、両手は胸元に潜ませて、安眠を模索して神経を研ぎ澄ませた。
 バタバタと、足音がした。複数あったものが散り散りになり、四方八方へ広がっていくのが振動で分かった。
「……なんなの」
 なにが起きたのかは分からないが、脇差部屋の宴会がお開きになった、というのは予測がついた。
 終わるのならもっと静かに、迷惑がかからないようにして欲しくて、ついつい文句が口に出た。
 目を閉じたまま眉を顰め、険しい表情を作るが、長くは保てない。
 窄めた口からふっと息を吐いて、小夜左文字はごろり、と身体全部を反転させた。
 左肩を下にして、巻き込んだ掛け布団を胸元で握りしめる。
 その後しばらくは静かだったが、一瞬でも気が立ったのが災いしてか、眠気は一向にやってこなかった。
 待てど暮らせど、眠れない。
「ううう」
 こんなことは久しぶりだった。夏の夜の暑苦しさだけが原因ではない気がして、彼は諦めてのっそり身を起こした。
「ふあ、う~……」
 無理矢理絞り出した欠伸で気持ちを誤魔化し、首を左右に振って額に手を添える。
 深呼吸で苛立ちを薙ぎ払い、復讐に縁が深い付喪神は闇の向こう側を睨んだ。
「誰?」
 廊下と部屋とを区切る襖の向こうを射抜き、誰何の声を上げた。
 息を潜めてはいるが、先ほどから誰かがそこにいる。江戸城内に忍び込んだ時の感覚を呼び覚まして、小夜左文字は慎重に枕元を探った。
 まさか敵に侵入されたとは思わないが、万が一ということもある。丸腰で相手をするのは危険だと、戦いに特化した本能が警告を発していた。
 己の本体とも呼ぶべき刀を、明日着る為に用意しておいた白衣や直綴の上から掠め取った。鞘の上から強く握りしめて、身体の一部と化した短刀をいつでも抜けるよう身構えた。
 殺気を放ち、外に居る存在を威圧する。
 寝間着代わりの湯帷子一枚では防御に心許ないが、一撃を喰らわなければ問題ない。
 鬼が出るか、蛇が出るか。眠れない鬱憤を晴らすには丁度良いと、不埒な侵入者を駆逐すべく、身を低くして唇を舐めた矢先だった。
「まっ、まって。ぼくだよ」
 小夜左文字が放つ殺意に怖じ気づいたのか、甲高い悲鳴が上がった。若干舌足らずに捲し立てられて、虚を衝かれた少年は目を丸くした。
 いつでも抜けるようにしていた刀を下ろし、立ち上がった。布団から畳に降りて数歩といかないうちに、襖の前へと辿り着いた。
 黒色の引き手に指を添えてサッと右に走らせれば、露わになった廊下の片隅に、ぶるぶる震える丸い影が見えた。
 照明の灯らない空間ではあるが、闇に強い付喪神には関係ない。
「謙信、景光?」
 昼の気だるさが僅かに残る空間に蹲っていたのは、長船派に属する短刀だった。
 さらさらの黒髪を両手で抱き潰して、床に尻を置き、膝を曲げて猫背になっていた。たった今しゃがみ込んだという風ではなく、小夜左文字が気付いた時点でもう、この姿勢になっていたようだった。
 寝床で耳にした足音と、その直前に聞こえた悲鳴が同時に蘇った。
 怪訝に首を傾げて見つめる先で、謙信景光は大粒の涙を頬に流した。
「なにをしているんですか」
 時間も時間だ。基本的に良い子の短刀が、ひと振りで出歩いているのは奇妙な話だった。
 世話好きの太刀はどうしたのかと左右を窺うが、それらしき影は見当たらない。複数の足音が聞こえたが、こちらにやって来たのは彼ひと振りだけと思って良さそうだ。
 事情が分からないまま此処にいる理由を訊ねるが、謙信景光はビクビクするばかりで、なかなか口を開かない。
 元から気弱なところがある彼だが、怯え方が昼間よりもずっと酷かった。
 歴史修正主義者を討伐すべく、審神者によって顕現させられた刀剣男士が、臆病でどうするのか。
 肩を竦めて嘆息して、小夜左文字は襖の角を指でなぞった。
「あなたの部屋は、上でしょう」
 謙信景光がどうしてここにいるのかは不明だが、彼の部屋が増築された二階にあるのは知っている。
 時を前後してやってきた、他の長船派の太刀らと同室で、眠る時も一緒だと聞いていた。
 小夜左文字が寝起きしている部屋とは、方向がまるで違う。ここは一階で、短刀ばかりが集まった区画だった。
 本丸は大きく二つの区画に分かれ、南側の棟には台所や座敷などがあった。刀剣男士の私室は北棟に集約され、両者は細長い渡り廊下で繋がっていた。
 私室に関しては、本丸建設当初は刀種ごとの部屋割りがされていた。だが増改築を繰り返し、敷地面積が足りなくなった時点で、この取り決めはなくなった。二階にある部屋の並びは、一部を除いて顕現順になっていた。
 但し身体が大きい薙刀は、急こう配の階段を上れないため、一階の男士と部屋を交換したという特例ならあった。
 今後は三階建て、四階建てになるのかと頭の片隅で考えて、小夜左文字は目尻を擦った少年に嘆息した。
 拭いても、拭いても溢れてくる涙は、胸に抱いた恐怖の現れだ。
 そこまで強い殺気を放った覚えはないが、怖がらせたのは間違いない。些かやり過ぎたとひっそり反省していたら、奥歯を噛んだ謙信景光がふるふる首を振った。
「とめ、て。ほしい」
「……はい?」
「おねがい、します。さよさもんじの、へやに。きょう、だけで、いいから!」
「ちょっと。声が大きい」
 覚悟を決めて、気弱な少年が声を張り上げる。
 それが夜中には迷惑すぎる音量で、小夜左文字は慌てて人差し指を立てた。
 静かに、と仕草で注意して、素早く周囲を見回した。幸いにも両側の部屋は主人が不在で、向かい側の部屋からも特に反応はなかった。
 大部屋を使っている粟田口の短刀たちも、夢の世界を楽しんでいる。
 どこからも物音がしないのを確かめて、彼はほっと胸を撫で下ろした。
「ごめん、……なさい」
「とりあえず、入って」
 愛染国俊は明石国行の部屋だろうし、今剣は岩融のところだろう。
 左右の部屋が無人なのは、いつものことだ。しかしその事実に、これほど感謝したことはない。
 仁王立ちして塞いでいた襖の前から退き、小夜左文字はしょんぼり項垂れている短刀の頭をぽん、と押した。
 手を貸してやる義理はない。立ち上がるきっかけを失い、四つん這いのまま敷居を跨いだ彼を目で追って、念のためと今一度、廊下を窺った。
 結果は、先ほどと変わらなかった。近付いてくる影はなく、様子を窺っている存在も嗅ぎ取れなかった。
 心配性の太刀が隠れている可能性を疑ったが、考え過ぎだったらしい。ぴしゃりと襖を閉めて、彼は室内に視線を転じた。
 謙信景光がどこに行ったかと言えば、ちゃっかり小夜左文字の布団に座っていた。入って良いとは言ったが、放っておけば横になりそうな雰囲気で、あまりの図々しさに顎が外れそうだった。
「それで?」
 必要ないと判断し、灯りは点けなかった。
 摺り足で近付いて、握ったままだった刀を枕元に戻した。乱れていた着替え一式をサッと整えて、その横に腰を据えた。
 謙信景光の方が布団の分だけ高くなり、上段から見下ろされている気分になった。
「……うん」
 これではお互い、居心地が悪い。悩んだ結果、小夜左文字は中腰で布団の端に移った。
「ねてた?」
「いえ。眠れなかったので、それは別に」
 対角線上に並んだ彼を見上げて、謙信景光が恐る恐る問いかける。
 もじもじしながら上目遣いに話しかけてくるところは、粟田口派の五虎退を連想させた。
 皆と同じ、白い湯帷子を寝間着代わりにしているが、彼の帯は黒色だった。裾は踝まで覆う長さがあり、体格より若干大きめのものを羽織っているらしかった。
 今頃になって、眠っていたところを起こしたのでは、と危惧した彼に、失笑を禁じ得ない。
 全てが遅い、と内心溜め息を吐いて、小夜左文字は彼が部屋に戻れない理由を考えた。
「喧嘩でもしたんですか」
 一番可能性が高いのは、なにかしら怒られることをして、自室に戻り難い、というものだ。
 ひとり部屋なら支障ないのだが、謙信景光は小竜景光や小豆長光らと部屋が同じだ。説教に反発し、家出同然で飛び出して来たのでは、と真っ先に考えた。
 けれどこれは、少しおかしいと、言ってから気が付いた。
「ちがうぞ」
 謙信景光もあっさり否定した。布団の上できちんと正座し、腿の上に両手を揃えて、お手本に出来そうな行儀の良さだった。
 もし今が昼間だったなら、兄弟刀と喧嘩した結果の展開と思って支障なかった。けれど外は暗くなって久しく、多くの刀剣男士は寝床に就いた後だ。そんな夜更けに部屋を抜け出す理由として、この考えはあまりに不自然だった。
 朝起きた時、可愛がっている短刀がいないのに太刀らが慌てるところが見たい、という雰囲気でもない。
 見当がつかなくて困っていたら、ミシッと天井の方から音がした。
「ひい!」
 建材が撓み、音を立てただけだ。
 いつもの家鳴りだと、小夜左文字は聞き流したが、謙信景光の方はそうではなかった。
「痛いです」
「あう。ごめん、なさい」
 喉の奥で息を引き攣らせたかと思えば、顔面蒼白になって飛びかかってきた。爪を立てて右腕にしがみつかれ、ただでさえ肉が薄い部分に食い込んだ指が痛かった。
 文句を言って、押し返す。
 謙信景光は意外にあっさり引き下がったが、顔はまだ怯えていた。
 急に落ち着きがなくなって、頻りに上を見ては腰をくねらせた。身体のあちこちを撫で、さすって、最終的に肩を抱いて唇を噛み締めた。
 必死に恐怖を堪え、耐え忍んでいるのが傍目からも良く分かる。
 たかが家鳴りひとつで大袈裟と、小夜左文字は呆れて肩を竦めた。
「なにもないですよ」
 誰かが歩けば床が軋み、風が吹けば軒がざわめく。湿度の違いで梁や柱は微妙に太さが変化して、それで音が鳴る事もある。
 逐一驚いていたら、きりがない。小夜左文字も最初はビクッとさせられたが、今では気にならなくなっていた。
 まだ慣れないでいる短刀に苦笑して、天上を指差した。謙信景光はおずおず頷いて、瞳だけを上に投げた。
「ほんとに?」
「いたら、僕が殺してます」
「おばけも?」
「……お化け?」
 害虫や害獣の類が侵入したのなら、退治するのを躊躇しない。
 蚊遣りの微かな臭いを手で払いのけた小夜左文字は、長船の短刀が放ったひと言に眉を顰めた。
 話が妙な方向に転がった。幽霊や妖怪の類は専門外で、訊かれても答えられなかった。
 黒い澱みがその括りに入るかと自問して、首を捻る。
「僕たち自身が、お化けみたいなものですが」
「さっき」
 刀剣男士は、刀剣に宿った付喪神が顕現したもの。ならば自分たちも妖怪に分類できる、と哲学的な考察に入ろうとしたところで、余所を見た短刀に水を差された。
 謙信景光は俯いて指を弄り、布団の上でひょこひょこ跳ねた。
「ひゃくものがたり、を、してて」
「……ああ……」
 ようやく本題に入った。
 続けるつもりでいた言葉を飲み込んで、小夜左文字は耳に掛かる髪を掻き上げた。
 夜遅くまで騒いでいたのが誰か、分かった。総勢七振り在る脇差の中には、幽霊を斬った逸話を有する刀があり、彼が主導したというのは楽に想像がついた。
 昼の暑さが夜になっても拭えず、寝苦しい日々が続いていた。
 少しでも涼を得ようとして、怪談話を語らいあう場を催したのだ。
 けれど怖がりの謙信景光が何故その席に参加したのかは、判然としない。
 訝しげな眼差しを投げた小夜左文字に、彼はぐっと息を飲み、拳を膝に押し付けた。
「ぼ、ぼくは。こわくなんか、なかったんだ」
「なるほど」
 力強い言葉とは裏腹に、華奢な肩はぶるぶる震えていた。
 声も上擦り、力がない。意気込みが空回りしているのが透けて見えて、小夜左文字は緩慢に頷いた。
 百物語開催の報せを、どこかで耳にしたのだろう。誘われたかして、参加に難色を示していたところ、逆に「怖いのだろう」とからかわれ、つい口車に乗ってしまった、と。
 状況が目に見えるようだった。
 詳細な説明はなにもなかったのに、おおよその事情を正しく理解して、復讐譚を引き連れた短刀は足を崩した。
 右膝に肘を立てて頬杖をつき、続きを促し、冷めた目で謙信景光を見る。
 彼はひく、と頬を引き攣らせて、忙しなく視線を泳がせた。
「でも、さっき。にっかり、が、しゃべってたら。きゅうに、ろうそくが、ひゅうって」
 口を窄めて息を吐き、蝋燭の灯火が突然消えた場面を再現する。
 聞いているだけでも、一瞬目の前が暗くなった気がして、小夜左文字は確かに聞いた複数の悲鳴と、足音を思い出した。
 直前には、強めの風が吹いていた。
 隙間風に灯明が煽られ、炎を維持出来なかったのだろう。冷静になれば簡単に分かりそうなことも、状況が状況だっただけに、判断がつかなかったようだ。
 誰かが代表して悲鳴を上げて、それが隣に次々伝播した。
 緊張状態にあった大勢が一斉に混乱に陥って、収拾がつかなくなった。幽霊に縁が深い大脇差が怪談を語っている最中だっただけに、効果は絶大だっただろう。
 皆が散り散りに逃げて、部屋の布団に潜り込む中、彼だけが部屋に戻れなかったのにも理由がありそうだった。
「ほんまる、の、かいだんは。おばけの、くちじゃ、ないよね?」
 ひとの部屋の前で泣いていた少年は、今もまた、恐怖に目を潤ませていた。
 切羽詰まった表情で問い詰められたが、正直なところ、なにを言っているのかよく分からない。
 意味不明だと首を傾げていたら、悲壮感を漂わせた短刀が天井を指差した。
「おばけが、かいだんの、むこうで。とおったら、ぱくって」
「……聞いたこともないです」
 要はにっかり青江か、同席していた誰かに、そういう話を聞かされたのだろう。階段を上った先でお化けか幽霊が待ち構えていて、そうと知らずに二階に上がると食われてしまう、と。
 待ち伏せしていた何者かに襲撃された人がいた、というだけが、いつの間にか幽霊の仕業になっていた。
 ほら話だと誰が聞いても分かる内容でも、にっかり青江の話術にかかれば、急に真実味が増してくる。
 それで騙されたことが、何度かあった。最近はよく注意して耳を傾けるようにしているが、免疫が低い謙信景光は信じてしまった。
 お化けなどいないと思いつつも、いるかもしれないと疑心暗鬼に陥って、確かめる勇気が持てない。
 それで二階にある部屋に戻れず、こちらに来たのだろう。
 どこかの部屋に潜り込もうと考えたが、夜というのもあり、襖はどこも閉まっている。開けて中を確かめるのも、怪談話を聞いた直後だけに、躊躇した。
 小夜左文字がたまたま起きていて、気配に気付いたから良かったものの、そうでなかったらどうする気だったのか。
 根性試しに挑むのは構わないが、周囲に迷惑をかけるのは止めて欲しい。
「軽率でしたね」
「ううう」
 怖がりの短刀の参加を了解したにっかり青江もそうだし、行かせた長船の太刀らもそうだ。
 皆して無責任だと断じるのは簡単だが、言ったところで始まらないのも事実。
 説教は手短に済ませて、小夜左文字は掛け布団の端を捲った。
「今夜だけです」
「さよさもんじ」
「狭いですが」
 小柄な短刀用の布団は、体格に見合った面積しかない。ひと振りで使うのを目的に作られており、ふた振りが並んで眠るにはかなり無理があった。
 だからといって、追い出すのも心苦しい。
「あ、ありがとう。さよさもんじ!」
 半分だけ譲ってやる旨を伝えれば、謙信景光はぱあっと目を輝かせた。嬉しそうに声を弾ませて、小さな手を取り、強く握って上下に振り回した。
 握手と呼ぶには乱暴だったが、喜びが充分過ぎるくらいに伝わって来た。
 後の問題は、彼の寝相が良いか、どうか。
「庇を貸して、母屋を取られなきゃいいけど」
 すでに修行の旅を終えた小夜左文字と、顕現して一年と経たない謙信景光は、共に出陣したことがない。遠征任務も同様だった。
 練度の差があり過ぎて、極めていない短刀では足手まといになると分かっているからだ。審神者の配慮が働いた形だが、結果として両者が親交を深める機会を奪っていた。
 太鼓鐘貞宗の寝相の悪さを思い出し、ぼそりと言って寝間着の裾を伸ばした。足から布団に潜り込み、横に来るよう促した。
 空いている空間をぽんぽんと叩き、入るよう伝えて、目でも告げる。
 言葉を多く用いないやり方に、謙信景光は最初こそ戸惑っていた。しかしじっとしていても仕方がないと、意を決して飛び込んできた。
「おじゃま、しまーす」
 遠慮がちに言って、指示された場所に身体を置いた。横になってすぐに布団が掛けられて、ホッとした顔で息を吐いた。
 小柄な短刀とはいえふた振りがこうして並ぶと、やはり窮屈だ。掛け布団は幅が足りず、身体全体を覆うには不十分だった。
「ないよりは、いいか」
 追加で袈裟を広げるか迷ったが、起き上がって取りに行くのも面倒くさい。
 枕はひとつしかないので譲ってやれなかったが、苦情は来なかった。
「ヘヘ。えヘヘヘ」
 その代わり、笑われた。締まりのない表情を横に見て、小夜左文字は眉を顰めた。
「なにが可笑しいんですか?」
「こりゅうと、あつきいがいと、いっしょにねるの。はじめてだ」
 不思議に思って問いかければ、そんな返答があった。両手で掛け布団を握りしめて、彼は底抜けに嬉しそうだった。
 ただ小夜左文字には、どうしてそれが嬉しいのか、理解出来なかった。
 初めての部屋で、馴染みのない刀と肩を並べて眠る。それはある意味、冒険だった。
 数日間に渡る遠征任務などで、やむを得ず慣れたが、小夜左文字自身、他者と同じ部屋で眠るのは苦手だった。仲間であっても油断できないと、常に警戒し、緊張の連続だった。
 顕現したばかりの自分に今宵の話をしたら、きっと信じてくれないに違いない。
 そんな事をふと思って、彼は天井に向けていた首を右に倒した。
 謙信景光の黒髪が闇と同化し、輪郭はあやふやだった。鼻筋から下を掛け布団に隠して、表情自体よく分からなかった。
「怖くはないんですか」
「へいきだ。さよさもんじがいる」
 先ほどまで散々怯えて、怖がっていたくせに、寝床に入った途端に元気になった。
 お化けに襲われる可能性が消えたわけではないのに、奇妙に思っていたら、そんな事を自信満々に言われた。
 ごろん、と身体を揺らして、暗がりの中で目を爛々と輝かせる。至近距離で見つめられて、小夜左文字はぎょっとなった後、四肢の力を抜いた。
「僕に退治させるつもりですか?」
「ぼくのかたなは、へやにおいてきた」
 これ以上ない図々しさに、頭が痛くなってきた。こめかみを指で押さえていたら、丸腰の自分は戦えない旨を高らかと宣言された。
「幽霊は、斬ったことがないんですけど」
 山賊なら手にかけた事があるが、実体を伴わないものを相手にした過去はない。
 実際に刃が通るかも不明だ。勝負にならない可能性を口にした途端、なにが面白いのか、声を上げて笑われた。
「だいじょうぶだ。ぼくもない!」
 どの辺が大丈夫なのか、さっぱり分からない。
 彼と喋っているだけで疲労感が押し寄せて来て、お蔭でよく眠れそうだった。
「幽霊より、お化けより。……僕が連れている、黒い澱みの方が、よっぽど怖いですよ」
「さよさもんじ?」
「なんでもありません」
 持ち主に大事にされ、本丸に来てからも多くの太刀に守られ、愛されて来た短刀は、暢気だ。
 人の生き死にの現場に立ち会ったことさえなさそうな、無垢な姿を目の当たりにして、ささくれ立った心がチクチクした。
 我慢出来ず、愚痴が零れた。言ってから嫌な気持ちになって、顔を見られたくなくて、謙信景光に背中を向けた。
 布団を奪わないよう注意しつつ、寝返りを打った。両足を揃って畳に投げ出して、ひんやりした感触で波立つ心を落ち着かせた。
 目を瞑って、息を潜ませる。
「小夜左文字は、こわくなんか、ないぞ?」
 布団を分け合った短刀を拒絶した直後だ。
 恐る恐るといった風情で、謙信景光が囁いた。
 独り言のようであり、小夜左文字に語り掛けているようでもあり。振り返って確かめることが出来ずにいたら、小さな手が肩に伸ばされた。
 掴んで引っ張られるかと思ったが、違った。掛け布団を引き連れて、彼はふた振りの間にあった距離を一気に詰めた。
「なにを」
「ヘヘヘヘ」
 ぴとっと張り付かれて、慣れない体温に背筋が凍った。
 ぎょっとして振り払おうとするけれど、斜め上から覗きこまれて、咄嗟に動きを止めてしまった。
 目を丸くした小夜左文字を間近で確かめ、彼はストン、と布団に身体を沈めた。狭い中で器用に身体を反転させて、背中同士が重なるように姿勢を作り変えた。
 布越しの微熱が、不規則な鼓動を生んだ。
 意図が分からなくて困惑する小夜左文字に、枕を半分横取りした少年はししっ、と歯の隙間から息を吐いた。
「まえに、みつただが、いってた」
 今度は小夜左文字が、肩を浮かせて彼を窺い見る番だった。
 横目で必死に窺うが、耳朶くらいしか見えなかった。謙信景光がどんな顔をしているのか、想像したくてもできなかった。
 接点が少なかったのもあり、彼のことはあまり詳しくない。長船派で、上杉謙信愛刀のひと振りで、好奇心旺盛だが臆病で、甘いものが好き、というくらいしか分からなかった。
 彼が他の刀たちとどんな会話をしているか、想像もつかなかった。
「燭台切、光忠さん……ですか?」
 長船の祖たる刀匠の刀は、他の長船の刀たちに比べると、ずっと早い段階で顕現していた。
 伊達家で共に過ごした短刀、太鼓鐘貞宗については頻繁に言及していた太刀だが、刀派を同じくする刀については聞いたことがない。
 興味を惹かれ、好奇心が疼いた。僅かに声が高くなったのを自覚して、小夜左文字はハッとなった。
 微細な変化に、謙信景光は気付かなかったようだ。
「いってた。さよさもんじは、つよいって」
 合いの手が入ったのに気を良くして、彼は夢見るように囁いた。言葉のひとつひとつを噛み締めて、丁寧に、湧き起こる興奮を抑えながら。
 どういった話の流れで、小夜左文字の話題になったのかを知る術はない。想像を巡らせようにも、材料が乏し過ぎて難しかった。
「僕は、強くなんか」
「さよさもんじがつよくなかったら、ぼくは、ものすごくよわいぞ?」
「……すみません」
 照れ臭くて否定の言葉を口走れば、不満そうに言われた。口を尖らせている彼を瞼の裏に思い描いて、反省して枕に体重を預けた。
 身じろげば、肩が短刀の身体に当たった。布越しの微熱は不思議と心地良く、暑苦しいのに不快さを感じなかった。
「くろい、よどみ? は、みえないし、ぼくにはわからないけど。たいへんなこと、たくさん。そういうのぜんぶ、せおって、たたかってるのは、すごいって。さよさもんじは、かっこいいな」
 山賊に奪われていた時代の出来事や、研ぎ師の復讐に燃え滾る想いなどを『大変なこと』と一括りにされるのは、あまり嬉しくなかった。
 しかし彼は、小夜左文字の逸話と一切関係がない。当事者ではない短刀にとっての認識は、所詮はその程度のものだった。
 とはいえ、彼が燭台切光忠に教わった話を真剣に考え、自分なりの答えを出そうとしたのは、確かだ。
 己のことだけでも精一杯なのに、貴重な時間の一部を小夜左文字のために使ってくれた。その長短は関係ない。知ろうとしてくれた、その事実ひとつがくすぐったかった。
 彼だけではない。燭台切光忠も、当の刀が関知しないところで、色々と慮ってくれていた。
 とはいっても、額面通りに受け止めるには、気恥ずかしさが勝った。
 ここまで手放しに賞賛されたことは、あまりない。慣れなさすぎて、自分の話のはずなのに、他人事のように感じられた。
「格好よくは、ないです」
 その気持ちを正直に吐露したら、謙信景光が急にガバッと身を起こした。被っていた布団を跳ね除けて、血気盛んに吠えた。
「そうか? だって、そのくろい、よどみ? に、さよさもんじは、まけないように、たちむかってる。みつただは、まねできないって、ほめてたぞ」
 四つん這いになって小夜左文字に迫り、荒々しく鼻息を撒き散らす。
 熱風を首筋に感じた短刀は慌てて退いて、行き過ぎて布団から滑り落ちた。
「うわ」
 ガクンと下がった肘に驚き、迫りくる少年を左手で押し返した。
「近い」
 距離感が可笑しい短刀を引き剥がして、乱れた呼吸を懸命に整えた。
 深呼吸を数回繰り返し、憤然としている謙信景光を窺い見る。
 偉そうに腕組みをしている少年は、自虐的な思考に偏りがちな小夜左文字と、真逆と言っても良い性格を有していた。
 頑張り屋で、それを誰かに認めてもらうのが好き。
 だから誰かの頑張りを認め、褒めるのも好き。
 何事にも否定から入る癖を反省して、小夜左文字は右のこめかみをコン、と叩いた。
 胸の奥で渦巻いている、黒々とした感情を宥めた。夜も遅い時間だというのに、昼間の太陽の如く眩しい少年を正面に見据えて、嗚呼、と溜め込んでいた息を吐き出した。
「さよさもんじは、つよいから、くろいよどみも、へっちゃらだろう?」
 根本的なところで、彼の認識は間違っている。しかし全てを理解しろ、と強いる方が酷な話だ。
 白い歯を見せて笑った謙信景光は、輝いていた。その無垢な光に救われた気になって、小夜左文字は小さく頷いた。
「そうですね。幽霊も、お化けも、僕なら倒せるかもしれません」
「きたいしてるぞ」
「ですので、もう寝ましょう。明日も早いです」
「そうだ。ねぼうしたら、あつきにおこられる」
 今まさに、謙信景光を恐れさせていたものたちへの復讐が終わった。
 百物語の席で抱いた恐怖を忘れ去った少年に囁いて、横になった身体に布団を掛けてやった。
 程なくして、心地よさそうな寝息が聞こえ始めた。それに耳を傾けながら目を閉じれば、心地良い風が部屋の中を駆け抜けた気がした。
 あれだけ寝られなくて苦労していたのが嘘のように、意識がスッと闇に溶けて、沈んで行く。
 熟睡とは、このようなことを言うのだろう。お蔭で目覚めは遅くなった。
 ハッとなった時には、外はすっかり明るかった。
 完全に寝坊だった。
 挙げ句に部屋の中には長船、左文字、そして兼定の刀たちが勢揃いして。
 にこにこ笑ってこちらを見ていたのは、悪夢としか言いようがなかった。

影さえて月しもことに澄みぬれば 夏の池にもつらゝゐにけり
山家集 夏 247

2018/09/16 脱稿