草木もなびく あらしなりけり

 ひらり、はらりと木の葉が舞っていた。
 風を受け、自然と枝から切り離されたのではない。なにかしらの意図を感じる動きを確かめて、小夜左文字は頭上にやった視線を戻した。
 正面に向き直り、木々が密集している一帯に意識を集中させる。
 ひゅっ、と旋風が奔った。ふわりと前髪が浮き上がって、短刀の付喪神は目を細めた。
 口を窄めて息を吐き、慎重に間合いを詰めた。気付かれないよう気配を消し、万が一に備えて体勢を低くした。
 忍び足で少し進んで、視界を遮っていた椎の木を回り込む。
 木漏れ日が頬に触れた。
 息を殺して木の根に身を寄せた彼の瞳に、晴れやかに舞う黒い外套が映った。
 ふわりと大きく膨らんで、華やかな牡丹が露わになった。しかし見えたのはほんの一瞬だけで、すぐに重い布の内側に隠れてしまった。
 銀杏で裾を飾る赤い草摺りが空を叩き、僅かに遅れて灰鼠色の袴が前方に駆けた。膝の裏の輪郭がはっきり現れたかと思えば、ゆとりのある襞によってすぐに覆われて、今度は膝頭の輪郭がくっきりと見い出せた。
 爪先の反り上がった沓が地面を踏み、枯れ色の落ち葉を蹴散らした。滑らないよう、踏ん張りを利かせて持ち堪え、ぐっと低くした姿勢を前方へと伸ばした。
「はああっ!」
 気合いの一声を放ち、歌仙兼定が虚空目掛けて刀を振るった。
 前に出る勢いを利用し、利き腕を横薙ぎに払う。銀の閃光が一直線に駆け抜けて、反射する木漏れ日が真っ二つに切り裂かれた。
 僅かに遅れて、ゆらゆらと落ちる木の葉が中ほどでぱっくり割れた。
 綺麗な二等分とはいかなかったが、断面は鮮やかだ。そして木の葉は斬られたと気付かないまま、横並びになって地面へと沈んで行った。
 見事な一撃に、拍手を送りたくなる。
 それをぐっと我慢して、小夜左文字は剣戟を止めない男に視線を戻した。
 地面に這い蹲って、汗を流す打刀の一挙手一投足に見入った。彼は木の葉を断ち切った後も手を休めず、すぐさま反撃を警戒して後方に下がった。
 ただ周辺に、彼以上に動くものはない。
「せや!」
 雄叫びを上げ、歌仙兼定が身体を捻りながら袈裟切りに刀を振り下ろした。
 片腕で振り抜き、瞬時に上へと切り返した。切っ先を突き付け、襲い来た幻の敵の顎を砕いた。
 打刀の目には、次々と襲来する敵の姿が見えていた――休む暇を与えず、数に物言わせて刀剣男士を圧倒する時間遡行軍の姿が。
 それとも。
 突き上げた腕を即座に後方へ向けて、藤色の髪の男が身体を反転させた。
 利き足を強く踏み出し、ダンッ、と地震が起きそうな勢いで踵を地面に叩きつけた。
 背後を狙った敵の刃を弾き飛ばし、切り返しが間に合わないと悟って即座に柄頭で敵の腕を打つ。左足を高く掲げ、右足を軸に鋭い蹴りを繰り出して、力技に怯んだ敵を跳ね飛ばす。
 足首で打つのではなく、踵を叩きこんだ風に見えた。
 転がすのではなく、吹っ飛ばすのを前提とした動きだった。
 文系を気取っているくせに、戦い方は荒っぽい。しかし太刀筋は洗練されており、歪みがなく、美しかった。
 迷いなく、躊躇なく、敵を確実に倒すのに最短で、最適な手段を選択している。
「でええい!」
 道場での鍛練ではあまり聞くことのない雄叫びは、それだけ真剣に、必死に取り組んでいる証しだ。
 屋敷にある道場は、誰でも出入りが出来る。討ち合いの稽古も見学自由だった。
 誰かに見られるのを意識して、『歌仙兼定らしい』動きを優先させると、どうしても本気になれない。喚き散らしながらの剣戟は見苦しく、雅ではないというのが、彼の言い分だった。
 だからこうして、ひと振りきりでこっそり修練に励んでいる。
 みっともなく叫びながらでも、誰も笑ったりしないというのに。
「不器用な子」
 見栄えを気にしている場合ではなかろうに、その一点がどうしても譲れないらしい。
 ぼそっと心からの感想を述べて、小夜左文字はもぞりと身じろいだ。
 腹這いだったのを改め、上半身を起こした。木の幹を盾にして、一心不乱に仮想的と斬り合う男を窺い続けた。
 大きくはためく外套が肘に絡まり、左腕が思うように前に出せない。
 実戦でも起こり得る事態に陥って、歌仙兼定は咄嗟に左足を横に突き出し、滑らせた。
「っく」
 ズザッ、と積もった木の葉が土くれごと飛び散った。
 地面を抉り、強引に体勢を低くして一撃を避けたのだ。わざと不利な体勢に陥ったが、目標を見失った敵の足を即座に払う事で、状況を五分五分へと強引に引き戻した。
 跳ねた土が打刀自慢の衣装に飛び散り、頬にも黒いものが貼りついた。首筋に光るものがあり、形を歪めて襟足へと駆け抜けていった。
 藤色の髪が軽やかに舞い踊り、紫紺の袖が空を叩いた。
 邪魔と判断したのだろう、左手がその中ほどを押さえつけた。摺り足で後退して、死角にあった木に右肩をぶつけてハッと息を吐いた。
 集中力がぷつん、と切れる音がした。
 雑木林の中での鍛練を選んだのは、不安定な足場、且つ規則性のない狭い空間、というふたつの条件が重なっているためだ。
 戦場が常に大きく開けた、平らな場所で起きるとは限らない。だから最悪の状況を想定して、これに対処できるよう構えておくのが、あらゆる時代を遡る刀剣男士としての務めだった。
 避けられたはずだ。
 しかし目測を誤った。
 大きく見開かれた眼が、歌仙兼定の心境を物語っている。ここが本当の戦場だったら、彼はあの一瞬で斬り伏せられていた。
 骨が剥き出しになるくらい深く傷を負った自身を想像しているのか、打刀の顔色は青白かった。荒い息を吐き、肩を上下させて、懸命に呼吸を整えていた。
 左手を額にやり、右腕を下ろした。
 抜刀したまま棒立ちになって、天を仰ぐ。徐々に首の角度を変えて、俯き加減になったところで、目元を覆っていた手を外した。
 惚けていた眼は、輝きを取り戻していた。
 失敗を反省し、対処方法を模索して、二の轍を踏まないよう戒める。
 ぶつぶつ言っているが、言葉は聞き取れない。両手で刀を握り直して、歌仙兼定は再び構えを取った。
 仕切り直しだ。切り替えの早さに心の中で拍手して、小夜左文字は息を飲んだ。
 刀を正眼に持ち、打刀は静かに目を閉じた。切れてしまった集中力を取り戻そうとしているのか、その状態でしばらく動かなかった。
 真一文字に口を引き結び、表情に緩みはない。
 いつ動き出すか予測がつかなくて、小夜左文字は瞬きする機を見い出せなかった。
 物言わぬ木と同化して、打刀を邪魔しないように心掛けた。
「ふっ!」
 やがて、男が鋭く息を吐いた。
 奥歯を強く噛み締め、唇を震わせた。振り下ろした刀の動きは不自然なまでに小さく、随分と低い位置に狙いを定めていた。
 脇を締め、振り切ると同時に後ろに下がる。反撃を防ぐべく刀を上、下、上、右、と小刻みに移動させて、仮想敵が一旦間合いを取り直そうと離れた隙を狙い、一気に前に出た。
 突きに始まり、飛び退いた敵を追って切っ先を返した。休む暇を与えない連続攻撃を繰り出し、壁際と仮定した木の手前で勢いを緩めた。
 自身の腰の高さで一閃し、一回転して胸元の高さへと柄を叩きこむ。足元に沈んだ敵を踏みつけにして、地面に串刺しにする手前で刀を引いた。
 腕を振り抜きながら後方に跳んで、下段に構え直した上で素早く前に出た。一気に距離を詰め、打ち払う。腰を捻り、避けた敵の無防備な頸を肘で粉砕する。
 動けなくなった敵を盾代わりにして、新たな攻撃を防いだ上で余裕綽々とその首を刎ねる。
 先ほどよりもずっと、攻撃の間隔が短かった。
 連撃を食らうのを想定し、守りに重点を置きつつ、着実に仕留めて行った。自慢の膂力に物言わせて、刀で戦うことに拘っていなかった。
「ふん!」
 風圧で落ち葉が爆散した。それを煙幕として利用して、敵を躱して高く跳ぶ。
 少し先で着地したところで刀を顔の横に掲げ、致命傷狙いの一撃を防いだ。首を守り、目にも留まらぬ乱撃を立て続けに捌いた。
 歌仙兼定ひとりが駆けずり回っているというのに、小夜左文字の目にまで、彼が相対しているものが見えるようだった。
 敵は障害物さえ己の一部として、縦横無尽に飛び回っていた。攻撃そのものは軽く、手数に頼っている節がある。執拗に脚を狙い、機動を削ぐのを優先させている節があった。
 それらを巧みに躱して、歌仙兼定は軽量の敵をついに吹っ飛ばした。
 ぞわっと背筋が寒くなった。
 壁に叩きつけられる自分自身を想像して、小夜左文字は首の後ろに汗を流した。
 空想の衝撃に呼吸が苦しくなって、咄嗟に木の幹を突き飛ばした。崩れ落ちそうになる体躯を必死に繋ぎ止めようとして、柔らかな落ち葉に紛れた小枝を踏んだ。
 本当に微かな変化だった。
「そこかっ!」
 けれど仮想の戦闘空間に埋没し、虚妄の敵を追うのに邁進していた男は、即座に反応した。
 どこまでが現実で、どこまでが空想の産物なのか。
 その境界線を忘れて、立ち竦む小夜左文字に突進した。
 稽古場としていた狭い空間を一瞬で抜け出し、躊躇なく三十六人の首を刎ねた刀を振り翳す。
「――っ」
 黒い沓に踏み躙られた木の葉が多数、仰け反りながら宙を舞った。
 木漏れ日の下で煌めいた刃が、ふっと小夜左文字の視界から消えた。
 光を反射し、短刀をかく乱して視力を奪い取る。
 逃げるのは、可能だった。容易くはない。しかし避けるだけの準備期間は、充分過ぎるくらい用意されていた。
 躱せないわけではなかった。
 怯み、頭が真っ白になって身体が硬直した、というのでもなかった。
 小夜左文字は、曲がりなりにも刀剣男士の端くれだ。審神者に命じられるままに、歴史修正主義者の目論見を挫くべく、幾多の戦場を経験してきた短刀だ。
 それに加えて修行の旅を終え、己の立ち位置を見極めた。
 復讐を忘れることは出来ない。
 だから新たな主人である審神者に敵対する存在を、新たな復讐相手と定めた。
 かっての主のためでもなく、今の主の為だけでもなく。他ならぬ自分自身の存在を守り抜くために、小夜左文字は刀を手に取ると決めた。
 だがこの場で対峙しているのは、敵ではない。
 容赦なく貫き、塵とすべき存在ではない。
「歌仙」
 声には出さず、その名を紡いだ。
 鬼気迫る表情で猛進して来る男に向けて、困った顔で肩を竦めてみせた。
 ぶわっ、と突然の突風が朱を帯びた柔らかな頬を強く叩く。
 藍色の髪が煽られ、左から右へと波を起こした。
 眩い閃光が、小夜左文字の瞳を突き抜けた。
「……くう!」
 ズザザザ、と地面を擦る靴音が間延びして響いた。苦しげに呻く声が短刀の鼓膜を震わせる。ひやっとした物が首筋を掠めて、後を追うようにどくん、と鼓動が跳ねた。
 見開いた双眸を眇め、睫毛を伏し、すぐに持ち上げた。
 目の前に、肩を激しく揺らし、歯を食いしばっている男がいた。革製の渋い柄を折れそうなくらい握りしめて、丁寧に磨かれた刀を小刻みに震わせていた。
 切っ先が空を泳いでいた。
 物打ちが小夜左文字の細い首に触れるかどうか、というところにあった。
 引き留めるのがあと少しでも遅ければ、最高級の切れ味を誇ると言われる之定の刀が肉に食い込んでいた。皮膚を裂き、太い血管を断ち切って、胴と首とを分離させていた。
 骨と骨の間の、僅かな隙間を正確に狙っていた。
 人体の構造を、充分なくらい理解していた。刃が途中で引っかかったり、欠けたりしないよう、寸分の狂いもなく、完璧な位置取りを果たしていた。
 零れ落ちそうなくらい真ん丸に見開かれた瞳が、狼狽えることなく佇む短刀を大きく映し出していた。
 短い間隔で繰り返される呼吸は浅く、きちんと息が吸えているか心配になるほどだった。
 二代目和泉守兼定の刀は未だ小夜左文字の首を前にして、いつでも突き刺せる状態だった。
 位置が悪いので、あの穏やかに波打つ刃文は見えない。
 それを少し残念に思いながら、短刀は仕方なく、自ら後方に下がった。
 間合いの外に出ると離れすぎるので、ふらふらしている切っ先が皮膚に触れない程度で済ませた。打刀が刀を引っ込めるのを待ち、冴えた眼で高い位置を見上げ続けた。
 歌仙兼定はやがて「カハッ」と息を吐き、頭を振った。砕ける寸前だった顎を緩めて、青紫色に染まった唇を解放した。
「おさ、よ」
「寝ぼけるには、少し早すぎ……いえ、遅すぎます」
 か細い声で名前を呼ばれて、少し意地悪く告げる。
 太陽は既に天高くにあり、燦々と地上を照らしていた。
 白昼夢でも見ていたかと笑ってやれば、打刀は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「少しは、避けるか……してくれ」
 苦悶の表情で呟いて、ようやく凍てついた指先に熱を送り込んだ。凝り固まっていた肘の関節を強引に動かして、腕を下ろした。
 敵の血がこびりついているわけでもないのに、足元に向かって軽く素振りして、鞘へと収める。
 淀みない一連の動きを見送って、小夜左文字はふー、と長く息を吐いた。
 余裕あるように振る舞ってみせたが、ほんの少し緊張した。
 今頃になって噴き出て来た汗をさりげなく拭って、彼は顰め面の男に目尻を下げた。
「信用してます」
「重いな」
 不器用な笑みで応じた短刀に、歌仙兼定は深く肩を落とした。苦々しく呻いて、直前まで本物だと気付けなかった自分を叱るように、腰に差した刀の柄を数回叩いた。
 あそこで停止出来ていなかったら、小夜左文字の首は軽やかに宙を舞っていた。
 今は緑が眩しい季節だが、桜が満開の時期であれば、噴き出す鮮血も相俟ってさぞや美しい光景だっただろう。
 痛みも、苦しみも感じることなく、一瞬で終わらせられる。
 それはとても、幸せなこと。
 およそ軽々しく口に出来ない感想を奥歯で磨り潰して、小夜左文字は茶化すように口角を持ち上げた。
「別に、歌仙なら構わなかったんですが」
 しつこく柄を殴っているうちに、打刀の手は部分的に赤く染まった。
 やり過ぎると皮膚が破れかねず、軽く腕を振って制止する。
「やめてくれ。冗談にしては度が過ぎるぞ」
 しかし合間に告げた台詞が宜しくなくて、男は一層声を荒らげ、思い切り刀の鍔を打った。
 ゴリッ、と骨がずれるような音がした。
「……くうっ」
 透かし蝶の縁で手首を削った彼は、抉られる痛みに悶絶し、老人の如くよたよたと歩き回った。
 幸いにも肉は削がれていなかったが、打ち所が悪かったようだ。右手で左手首をぎゅっと掴んで、己の愚かしさにしばらく悶え続けた。
 ひとり相撲に興じている彼に苦笑して、小夜左文字は無事繋がったままの首を撫でた。刃が一瞬触れた気がしたけれど、どこも裂けていなかった。
 血の一滴も出ていないから、あれは錯覚だったのだろう。
 綺麗にスパッと切り捨てられる光景は、自身の目で見たものではなく、鳥が地上を俯瞰するような角度だった。
「歌仙が歌仙でなくなると、なんて呼べばいいか、困りますね」
 三十六人斬ったから、三十六歌仙にちなんで歌仙兼定。
 それがこの打刀の号の由来だ。
 目出度く三十七人目が現れたら、号を変えなければならない。そんなことを何気なく呟けば、男は本気で嫌そうに顔を歪めた。
「お小夜」
 いい加減にするよう、睨まれた。怒気を孕んだ声は低く、重く響いて、短刀の腹の底にズシン、と圧し掛かった。
 太めの眉が中央に寄り、眼光は鋭い。直前まで死地を背にした感覚で刃を振るっていた男は、そこから完全に脱しきっていなかった。
 不謹慎な言葉をこれ以上投げかければ、首を断たれこそしなくても、平手の一発は飛んできそうだ。
「冗談です」
 力いっぱい打たれるのは、遠慮したい。
 先手を打ち、半歩下がった。摺り足で後退して距離を作り、牽制して、目を逸らした。
 歌仙兼定の間合いの中なのであまり意味がないけれど、片手持ちに適した長さの刀は鞘に収まり続けた。
 お互い次に何と言うかで悩み、沈黙が続いて、気まずさからふと遠くを見る。
 温い風が吹いて、雑木林が静かにざわめいた。
 頭上で青葉が揺れて、木漏れ日が降ったり、消えたりを繰り返す。足元が明るくなったかと思えば暗くなって、軽い枯れ葉が転がるように飛んで行った。
 行く末を見守って、小夜左文字は背筋を伸ばした。
 深呼吸して視線を上げれば、歌仙兼定も短刀に意識を戻したところだった。
 目が合った。
 ピリッと首の後ろに電流が走って、小夜左文字は無意識にそこを右手で覆い隠した。
「最後の」
 再び顔を伏し、そこから右に顔を向けた。
 打刀がひと振りで鍛練に励んでいた場所は空っぽで、なんの変哲もない雑木林の一画に戻っていた。
 大量に散る落ち葉の中に、歌仙兼定が真っ二つにした木の葉を見つけるのは至難の業だ。
 けれど確かに、その一枚はあそこに紛れている。
 探す気はないけれど、気になった。
「ん?」
「あれ、誰を想定してたんですか」
 きょとんとしている男を改めて見て、小柄な短刀の付喪神は首を捻った。
 刀を深く振りおろさず、大振りもせず、素早い攻撃に対処を心がけていた。三連続、四連続、または五度を越える連続攻撃を防ぐのに重点を置き、相討ち寸前からの反撃を目論んでいた。
 低い位置からの攻撃を念頭に置いて、先に見た模擬戦闘よりも跳んで避ける回数が多かった。
 足を削られ、機動力が失われるのを嫌っての動きだ。
 それだけではない。牽制にも使えるからと、打刀にしては珍しく足技を多用していた。
 そのような対策が必要な敵が、時間遡行軍や検非違使の中にいただろうか。
 率直な疑問を述べ、藤色の髪の男から返事を待つ。
「う……」
 歌仙兼定はみるみるうちに顔色を悪くして、先ほどよりもずっと渋面を作った。
 右腕で顔を庇いながら頭を抱え込んで、かぶりを振り、恥ずかしそうに身を捩った。
「君は、どこから見ていたんだ」
 隙間から覗き見られて、小夜左文字は苦笑した。
「ここからです」
「そういう意味じゃない」
 途端に歌仙兼定は声を大にし、利き腕を横に払った。顔を真っ赤にして吼えて、数秒してからハッとして後頭部を掻いた。
 今まで以上に恥じらって、目を泳がせて、落ち着きがない。
 頻りに鼻の頭を爪で掻く彼に堪え切れず噴き出して、小夜左文字は遅れて口元を押さえた。
「言ってくれれば、いくらでも相手になったのに」
 手の甲を唇に押し当てた状態で息を吐き、薄い皮膚を震わせながら告げる。
 若干くぐもった声を受け、打刀は深々と溜め息を吐いた。
 彼が戦っていたのは、間違いなく小夜左文字だ。血の味を知る短刀を手に、小柄な体躯を生かした接近戦を得意とする少年を想定して、歌仙兼定は刀を振るっていた。
 時間遡行軍にも驚くほど俊敏な敵がいるが、体躯は決して小さくない。連撃よりも、一撃必殺を優先させており、持久力と体力に優れる大太刀でさえ、簡単に戦闘不能に追い遣れる攻撃力を有していた。
 小夜左文字も、あの槍には散々苦労させられた。
 対峙した時を思い出すと、今でもぶるっと震えが来る。
 鳥肌が立った腕をそっと撫でて、彼は気持ちの整理をつけ終わった男に目を細めた。
「やりますか?」
 笠こそ背負っていないが、刀は持ってきている。
 袈裟を捲り、帯に雑に差し込んだ短刀を見せてやるが、歌仙兼定は頷かなかった。
「申し出は嬉しいが、遠慮するよ」
 長い溜め息の後に言って、刀に預けていた左腕を脇に垂らした。鞘の所為でどうやっても裾が上がる外套を二度、三度と繰り返し払い除けて、耳に掛かる藤色の髪を掻き上げた。
 長さが足りないのですぐに落ちてくるのを承知で、数本をまとめて耳朶に預けた。行き場のなくなった手で首の汗を拭って、尖った爪先に被さっていた木の葉を蹴り飛ばした。
「なぜ?」
 少し間を置いてから問いかけた小夜左文字に、苛立ちと怒りがない交ぜになったような顔をして。
「誰のせいだと」
 恨めし気に告げられて、短刀の付喪神は嗚呼、と頷いた。
 刀を下ろした直後の男にした話が、尾を引いていた。
 木刀や竹刀ならまだしも、触れれば切れる実刀を用いての模擬戦に、歌仙兼定が躊躇するのは致し方がなかった。
 小夜左文字も、胴体に別れを告げる生首の妄想が、生々しく記憶に残っている。
 そういった状況下で刃を交えるのは、危険だった。
 たとえそうならないよう心掛けていても、思い描いた光景を実現しようと、身体は勝手に反応する。
 次は止められるかどうか分からない。波立つ湖面のような眼差しを浴びて、復讐からの解放を望んだこともある短刀は、静かに袈裟を手放した。
 端から擦り切れ、綻びが目立つ布を撫で、草履の裏でほんのり湿った地面を捏ねた。
「では、別の機会に」
「ああ。その時は、よろしく頼むよ」
 けれど模擬戦の申し出だけは、無効にしない。
 日を改めようと提案すれば、打刀は今度は断らなかった。
 深く、はっきり頷かれて、スッと胸が軽くなった。呼吸が楽になり、肩の荷が下りた気分になって、小夜左文字はほうっと息を吐いた。
 表情も自然と緩んだ。それは歌仙兼定も同じで、険しかった目つきは元通りどころか、嬉しそうに細められた。
「喉が渇いたし、腹も減ったな」
「あれだけ動いていれば、仕方がないかと」
「お小夜は本当に、いつからここにいたんだい?」
「歌仙が思うより、多分、ずっと前からです」
「うぐ」
「索敵、もうちょっと、頑張らないとですね」
 物騒な話はこれで終わり、と明るい声で話題を変えた。
 小夜左文字は軽口で応じて、言葉を詰まらせた男を肘で小突いた。
 今回は不注意から勘付かれてしまったが、それがなければ、彼は永遠に短刀の存在に気付かなかった。
 距離があったとはいえ、実際の戦場で、それは言い訳にならない。
 自力では成長が難しい分野を指摘されて、歌仙兼定は唸った。気まずそうに口をもごもごさせて、しつこく突いてくる小さな手を荒っぽく跳ね除けた。
「これでも、頑張ってるんだ」
「得手不得手というものは、誰にもあります」
「慰めないでくれ」
 余所を見ながらぶっきらぼうに言うので、励ますつもりで言ったら、拒絶された。
 実に面倒臭い心理状態の男に嘆息して、小夜左文字は落ち込んでしまった打刀の腰をパシン、と叩いた。
 気を取り直し、新しい話題を探して腕を引く。
 その手を横から掠め取られて、華奢な付喪神は咄嗟に身を竦ませた。
 しかし、奪い返せない。
 長く、しなやかで、それでいて刀を握るのに合わせて鍛えられた指が、細くて繊細な手首に絡みついていた。
 機動、索敵、その他諸々の総合的な戦闘能力で言えば、修行を終えた小夜左文字の方が上だ。しかし腕力だけを切り出せば、打刀が圧倒的に勝っていた。
 柳のような細腕を綱引きし続ければ、いずれ短刀の肩が外れてしまう。
 それは嫌だし、関節を嵌め直すのだって簡単ではない。
 頭の中で天秤を揺らし、小夜左文字は早々に力を緩めた。ここで限界に挑戦しても仕方がないと諦めて、利き手の自由を男に預けた。
 抵抗が弱まって、もっと抵抗されるのを覚悟していた歌仙兼定は、きょとんと目を丸くした。一瞬惚けた顔をして、口をパクパクさせ、痣が出来る寸前だった短刀の手首から指を剥がした。
 貼りついていた皮膚の隙間に空気を送り込んで、手放すではなく、少しずつ位置を後退させていく。
 最終的に、握手のような形になった。掌同士を重ねて、指の位置取りに納得がいかないらしく、何度か角度を変更した。
「歌仙」
 なにがしたいのか、よく分からない。
 四苦八苦している男を薄目で睨みつけて、小夜左文字はしつこく絡んでくる手を爪で弾いた。
「こっち、じゃないんですか?」
 乗り移った体温が消え去らぬうちに、身体を反転させ、男の左側につく。
 トン、と横から体当たりを喰らわせて、打刀が不意打ちに戸惑ううちに彼の左手を取った。手首を交差させて、掌の向きを合わせて、指と指の間に自身の爪先を潜り込ませた。
 するりと忍び込んで、緩い力で握りしめる。
「あ、……ああ。そう。そう!」
 短刀の素早い動きに、歌仙兼定はぽかんと口を開いた。
 そのうちハッと息を飲み、大袈裟なくらい何度も首を縦に振った。
 彼らしくない、動揺しているのが丸分かりの上擦った声だった。必死に場を取り繕おうとして、場当たり的に言っているだけに聞こえた。
 最初はそれを不思議に思っていた小夜左文字は、きゅっと手を握り返されたところで眉を顰めた。体重を預け、寄り掛かった状態からにこにこ笑っている男を盗み見て、違和感めいたものを胸に抱いた。
 気が付けば打刀の腕にしなだれかかり、簡単には離れないよう手を握り合っている。
 歌仙兼定がこうしたがっていると予測して、先回りしたつもりだった。
 けれどもしや、違ったのかもしれない。
 こうしたかったのは他ならぬ小夜左文字自身で、打刀の意図は違うところにあったのかもしれない。
 満面の笑みを浮かべる前、男は意外そうにしていた。鳩が豆鉄砲を食らったかのようにぽかんとして、必死に取り繕っていた。
 但し彼がなにも言わないので、本当のところがどうなのかは分からない。
 随分後になって顔をカーッと赤くして、小夜左文字は手を振り解こうと試みた。
「か、歌仙。手を」
「いやあ、良い汗を流したことだし。どうだい、お小夜。この後、お茶でも」
「はな、えっ、待って。引っ張らないで」
 急に恥ずかしくなって、顔も、身体も、どこもかしこも熱かった。
 狼狽えて声を張り上げるが、歌仙兼定は聞く耳を持たない。悠然とものを言って、返事を待たずに歩き出した。
 つんのめって、転びそうになった。小夜左文字は必死に抵抗したが、無駄な足掻きに終わった。
 打刀の引きずる力は強く、絶対に手放さないという固い意志が指先から伝わってきた。飄々として、涼しげな顔をしているくせに、圧力は凄まじかった。
 このままいくと、本当に荷物のように引きずられかねない。木の根や笹薮がそこかしこに点在して、衝突すれば怪我は避けられなかった。
 血まみれで、青あざだらけになった自分自身を想像し、寒気を覚えて背筋を震わせる。
 止む無く男の歩調に合わせて足を動かせば、強引が過ぎたのを反省したらしく、打刀は足取りを緩めた。
 但し、立ち止まってはくれない。手も放してくれなかった。
「あはは、楽しみだ。お小夜はなにが食べたい?」
「歌仙の、奢り……ですよね?」
 屈託なく笑いかけられて、その無邪気さが憎たらしくてならない。
 ぶすっと頬を膨らませて言えば、彼は勿論だ、と鷹揚に頷いた。
「なにが良いかな。わらび餅、水ようかん……ああ、かき氷も悪くない」
「茶屋ですか?」
「屋敷だと、ふたりでゆっくり出来ないだろう?」
 候補となる甘味を順に口にして、幸せそうに目を細める。
 凛々しさが薄れ、愛らしさが増した。急に幼くなった横顔を眺めて、小夜左文字は嗚呼、と吐息を零した。
 繋いだ手を、大きく振り回された。
 互い違いに絡ませた指が、固く結ばれた鎖のようだった。
「そう、ですね」
 なんとなく部屋を訪ねて、出陣でもないのに戦装束がないのを訝しんだ。道場を訪ねて、来ていないと言われた。林の方へ行くのを見たと教えられて、姿を探した。
 彼を見つけた後、なにをするかは、決めていなかった。
 探していたのにも、格別の理由はない。強いて言うなら、顔を見たかった。
 会いたかった。なんとなく、声を聞きたかった。
 それ以上はなく、それ以下もない。
 目的は果たされた。
 では次に、なにをしよう。
 茶屋に行って甘味を食べて、万屋に寄り道して、ぶらぶらと時間を潰して。
「あんみつが食べたいです」
 桜桃が入っているのが良いと言えば、打刀は大きく目を見張った。
「任せたまえ。良い店を知っている」
 そうして声高に叫んで、力強く胸を叩いた。
 結構な勢いだったが、痛くなかったようだ。堪える素振りもなく、ひと際嬉しそうに笑った彼につられて、小夜左文字も思わず顔を綻ばせた。

いかでかは音に心の澄まざらん 草木もなびくあらしなりけり
山家集 雑 1089

2018/07/08 脱稿