ふわ、と甘い匂いが鼻先を掠めて、ついついそちらに顔が向いた。
誘われるまま背筋を伸ばし、匂いの発生源へと思いを巡らす。知らず知らず涎が溢れて、小夜左文字はごくりとひと息に飲み干した。
濡れていない口元を軽く擦り、無意識に浮いていた踵を下ろした。力強く一歩を踏み出し、廊下を進めば、前方に二重、三重の人垣が出来ていた。
「まだかな、まだかな」
「とっても美味しそうです~」
「今日はなんだろうね?」
七振りか、八振りはあるだろうか。大半が短刀だが、浦島虎徹らしき頭も紛れていた。
口々に言い合って、台所を覗いていた。食欲をそそる香りは段々と強まって、あちこちからぐうぐうと、腹が鳴る音が聞こえてきた。
それが自分の腹から響いたような気がして、小夜左文字は咄嗟に腹部に手をやった。袈裟の上から細い体躯を撫でて、遅れて小さく鳴った「くう」という音に顔を赤らめた。
大量の小豆を、砂糖と一緒に鍋で煮込んでいる匂いだ。
とろっとした液体は非常に甘ったるく、飲み干した後も咥内に幸せを与えてくれた。
「お汁粉かな」
想像して、目を閉じた。途端に白玉が数個浮かんだ汁粉の図が虚空に出現し、現実と錯覚して手を伸ばしかけた。
中途半端なところを彷徨う自身の指にハッとして、再び咥内を埋めた唾液を飲み込む。
前に向き直れば、二振りずつで列が出来ていた。最後尾につけば、隣に来た後藤藤四郎と目が合った。
「今日も、美味そ~だな」
途端にニカッと白い歯を見せ、元気よく話しかけられた。
小夜左文字は黙って頷いて、先頭でそわそわ落ち着きがない少年に視線を移した。
柱に寄り掛かり、首から上だけを台所に突っ込んでいた。随分と大胆な盗み見を実行中の短刀は、謙信景光に他ならなかった。
「今日は、誰だろう」
八つ時の甘味作りの当番は、特に決まっていない。以前は三食用意する料理当番の仕事だったが、本丸に籍を置く刀剣男士が増えた結果、手が回らないということで廃止された。
それ以降は料理好きの刀が、時々気まぐれに作るのみだ。
これまでは歌仙兼定や、燭台切光忠が中心となっていた甘味作り。
それがこの頃は、新しく加入したばかりの刀剣男士が、主に務めるようになっていた。
「あの前掛け、似合わねえよな」
分かり切った疑問を口にした小夜左文字に、後藤藤四郎が胸元を指差しながら言った。
たったそれだけで答え合わせが済んで、藍色の髪の少年は緩慢に頷いた。
髪は短く切り揃え、背が高く、肩幅は広い。屈強な体格を有し、燭台切光忠にも引けを取らない腕力を有しながら、大の子供好きで、趣味が菓子作りという太刀。
顕現してまだ新しい小豆長光は、この類まれな特技のお陰で、あっという間に本丸に馴染んでしまった。
身体の大きな刀は、小さい短刀たちから怯えられたり、警戒されたりするのが常だ。怖い刀ではないと納得してもらえるのに、早くても三日か、四日は必要だった。
ところが小豆長光は、その日のうちに受け入れられた。
燭台切光忠と一緒に台所に入り、作った草餅を大勢に振る舞った。これにより、人妻以外には靡かない言い張っていた包丁藤四郎が、あっという間に陥落した。
謙信景光が小豆長光を以前から見知っており、慕っていたのも功を奏した。
怖がりの五虎退が懐いた時点で、粟田口派の短刀たち全振りを攻略したようなものだ。
というわけで、新参者の長船派の太刀は、驚くほどあっさりと己の立ち位置を確保した。
連日のように、昼餉後に台所に入って、せっせと菓子作りに励んでいた。
内容は和風なものから、西洋風なものまで様々だ。燭台切光忠や、堀川国広たちから教えを受けて、熱心に取り組んでいた。
種類が豊富で、見た目も色鮮やか。
しかも美味しいとあっては、食い意地の張った刀たちが放っておくはずがない。
気付けば後ろに物吉貞宗が立っており、行列は長く伸びていた。
「良い匂いですね」
振り向いた小夜左文字に笑いかけ、幸運をもたらすという脇差が目を細めた。
あまり話したことがない少年にコクリと頷いて、小夜左文字はひょいっと首を横に伸ばした。
最後尾がどこなのかを確認して、早めに来て良かったと安堵の息を吐いた。用意した菓子の数が足りず、目の前で売り切れとなる危険は免れたと胸を撫で下ろし、踵を擦り合わせながら姿勢を戻した。
先頭に立つ謙信景光の身体は、今や半分近くが台所に入り込んでいた。
下半身だけ廊下に残り、身を乗り出すにしても、乗り出し過ぎだ。
そのうち体勢を崩し、転がるのではなかろうか。
余計なお節介と思いつつ、心配していた矢先だ。
「うわああ!」
案の定、彼は前のめりに倒れ込んだ。
悲鳴を上げ、派手な音を立てて段差を落ちて行った。一瞬で視界から消えた少年に、後方に続いていた短刀たちは騒然となった。
「大丈夫?」
鯰尾藤四郎が代表して訊ね、中腰から腕を伸ばした。
「もうちょっとだから、がまん、できるな?」
「ううう。いたく、なんか……ないぞ!」
小夜左文字には見えない位置から、調理中と思しき太刀の声が響く。
助け起こされた少年は涙をいっぱいに溜めながらも強がり、背筋を伸ばして廊下に並び直した。
周囲からはどっと笑いが沸き起こって、小夜左文字もつられて頬を緩めた。当の謙信景光はきょとんとしながら左右を見回しており、それが余計に皆を笑顔にさせていた。
「お膝、大丈夫ですか?」
五虎退が打って赤くなっている膝を心配し、彼に話しかける。
すかさず一緒に並んでいた包丁藤四郎が、肌身離さず持ち歩いている鞄から、菓子ではなく絆創膏を取り出した。
兄弟刀ではないけれど、それに準ずる接し方だった。愛染国俊と蛍丸の間から様子を窺って、小夜左文字は場を包む甘い香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「夕餉が、甘くならなければいいんですけど」
「甘いの、駄目ですか?」
何気なく呟いたひと言に、後ろに控える物吉貞宗が乗って来た。
「ばっか。焼き魚が甘かったら、嫌に決まってんだろ」
「そうでしょうか」
横で聞いていた後藤藤四郎が途端に噛み付いて、会話の端緒を開いた短刀は一瞬で蚊帳の外に追い遣られた。
同じ付喪神とはいえ、味の好みは個々で異なる。辛いものが大好きな刀剣男士がいれば、全く受け付けないという刀剣男士も当然あった。
小夜左文字は食べられるだけで満足で、苦手な味付けというものは特になかった。
出されたものは基本的に、全て平らげる。肉には最初、抵抗があったが、今はいの一番に口に運んでいた。
甘いものも、そうでないものも、どれも美味しい。
無自覚に口をもぐもぐ動かし、空気を飲み込んで、彼は再び前のめりになった謙信景光に苦笑した。
反省は一時的なもので、直前の失敗をもう忘れている。
懲りる気配がない仲間に肩を竦めているうちに、停滞していた行列がゆっくり動き出した。
「さあ、おまたせ」
壁の向こうから、小豆長光の声がした。
「熱いから、気を付けてね」
燭台切光忠の声も後に続いて、廊下は歓声に包まれた。
「やったあ」
「あ~、お腹空いた」
「ちょっと、押さないでってば。危ない」
一部から拍手が起こり、一部からは悲鳴が上がった。背中を押されて転びかけた乱藤四郎が、恐縮する厚藤四郎に手刀を叩きこんでいた。
甘味は早い者勝ちだから、焦ったのだろう。もっとも後ろから押したところで、順番は変わらないのだが。
喧しいやり取りを意識の片隅で拾って、小夜左文字は後藤藤四郎と揃って敷居を跨いだ。廊下より少し低くなっている台所の床に爪先を置いて、待ち構えていた太刀に小さく頭を下げた。
「やあ。いらっしゃい」
中腰になった小豆長光が、小ぶりの椀を差し出して来た。
一緒に箸を渡されて、受け取って再び一礼した。
たっぷりの小豆の海に、焼いた餅がひとつ浮かんでいた。ふっくら柔らかく膨らんで、表面が少し焦げて黒くなっていた。
「白玉じゃなかった」
想像した通り、今日の甘味は汁粉だった。
けれど思い描いていたものと、完全一致とはならなかった。
これはこれで美味しいのだが、ほんの少し不満だった。善意から用意してくれたものだというのに、がっかりして、小夜左文字は台所に隣接する板敷きの間に向かった。
いつもは米俵などが置かれているのだが、使った分の補充がまだらしい。座って寛ぐには充分なその場所に、包丁藤四郎たちが横一列に並んでいた。
「は~、幸せだなあ」
「あち、あひ、あふっ」
しみじみ噛み締めながら味わう刀があれば、熱々のまま頬張って湯気を吐いている刀もあった。
舌を火傷したと口を開いた鯰尾藤四郎を笑って、場所を確保した後藤藤四郎が小夜左文字を手招いた。
「物吉も、こっち来いよ」
汁粉を受け取った後、台所に残る刀と、踵を返す刀はほぼ半々だ。
自室でならのんびり味わえるが、食べ終えた後の食器を戻しに来なければならず、片付けが若干面倒だ。
一方台所に居座れば、廊下を往復する手間が省ける。ただし身を置ける場所が限られており、長時間滞在するには不向きだった。
「外で食べても良いんですけど」
「今日は風があるから、無理だろ」
「残念です」
勝手口の外には薪割りのための空間があり、斧を振り回すのに疲れた仲間が休憩する床几があった。
そちらを利用すれば、台所の混雑は若干だが緩和された。しかし後藤藤四郎の言う通り、今日は春の嵐が朝からずっと吹き荒れていた。
耳を澄ませば、轟々と音がする。
巻き上げられた砂埃が汁粉に入ったら大変で、物吉貞宗はがっかりした様子で肩を落とした。
窮屈さを我慢しながら、身を寄せ合って座る。
「いただきます」
手を合わせ、瞑目してから箸の先端をどろっとした液体に浸す。
廊下で待っている間は強烈だった甘い匂いは、実物を前にした途端、急速に薄れた。
嗅覚が麻痺してしまったようで、立ち上る湯気を吸ってもそこまで甘さを感じない。代わりに焼いた餅の香ばしさが 鼻腔いっぱいに広がった。
白玉の妄想を打ち消して、現実を受け入れるべく箸で抓んだ。
「はふ」
鼻から息を吐き、齧り付く。
右に座った後藤藤四郎も、左に座った物吉貞宗も、同じように餅から箸をつけていた。
元は四角形だったが、焼く過程で角が丸みを帯びていた。その一端に前歯を突き立て、むにゅっとした感触を歯茎で味わった。
歯列に挟まれて薄くなった場所に舌を這わせ、追い打ちをかける格好で噛み千切った。小さくなった欠片を奥歯に預けて、大きな塊は汁粉の椀に戻した。
「んっふー、うめえ」
餅自体にはさほど味がないが、小豆の甘味を吸っており、ほんのりと甘い。
後藤藤四郎の歓喜の声を聞きながら咀嚼して、小夜左文字は椀に息を吹きかけた。
粗熱を取り、表面を冷ましてから少量を啜った。
「ああ、なんという幸運なんでしょう」
物吉貞宗も甘い汁を飲み、幸せそうに微笑んだ。満面の笑みを浮かべて、いつにも増して嬉しそうだった。
唇の端に貼りついた小豆の皮を抓んで取り、ぱくりと口に含ませる。
そんな些細な仕草ひとつにも笑顔を絶やさない彼を横目で見て、小夜左文字は椀の真ん中に浮かぶ餅を箸で押して沈めた。
汁粉は甘く、美味しかった。それは間違いない。
だのに彼らのように、全身を使って表現出来なかった。
餅は何度沈めても、箸を離した瞬間にぷかっと浮いて来た。
それを十何回と繰り返しているうちに、両脇の短刀と脇差は椀の中身をほぼ空にしていた。
小夜左文字だけが、殆ど手付かずのまま残していた。
「はしがすすんでいないようだが、あついのは、にがてかな?」
「え」
訝しむ声が降ってきたのは、ちょうどそんな時だった。
顔を上げれば、桃色の前掛けを着けた男が立っていた。胸元には豆の模様が描かれており、凛々しい顔つきの太刀には、お世辞にも似合っているとは言い難かった。
向こうでは甘味を配り終えた燭台切光忠が、使った鍋の片付けに取り掛かっていた。
空になった椀は作業台の上で山盛りになっており、包丁藤四郎や謙信景光たちも姿を消していた。
「いえ、あの……えっと」
それほど長い間惚けていたつもりはないが、想像以上に時間が過ぎていた。
あんなにも混雑していた台所がすっかり閑散としている現実に、小夜左文字は口籠もり、身を竦ませた。
膝を寄せて丸くなって、程ほどに温くなった汁粉を意味もなく掻き混ぜる。
「小夜は熱いお茶のが好きだぜ。なあ?」
「そうですね。お腹でも痛いんですか?」
萎縮して黙り込んだ彼を庇い、後藤藤四郎と物吉貞宗が一斉に口を開いた。
だが結果として、三振りから同時に問いかけられることとなり、小夜左文字は余計に返答に窮し、目を泳がせた。
身の置き場に困り、脇を締めて益々小さくなった。猫背で甘い汁粉に舌鼓を打って、小豆の粒を椀から減らした。
「ふは」
一気に半分ほど飲み干して、甘く染まった唇を舐めた。焼いた餅を端に寄せ、角に残る歯型を箸で押して潰した。
三振りから注がれる視線に首を竦め、言葉を探して口を開閉させる。
「小夜君?」
「ちゃんと、あの。美味しいです。大丈夫です」
急かされて、慌てて息を吐いた。
答えになっていない答えでなんとか誤魔化して、彼はもそもそと部分的に薄くなった餅を齧った。
焼き立てで熱々だった頃は長く伸びた餅は、案外あっさり千切れた。
ほんの少し固さが増しており、歯応えは充分だった。
腹が痛いのでもなければ、猫舌でもない。少し気乗りしなかっただけで、汁粉が不味いだとか、体調不良が原因ではない。
言葉で上手く説明出来ないので、態度で示した。
咀嚼も碌にせずに飲み込んで、喉に詰まらせて噎せた彼に、小豆長光は複雑な表情を浮かべた。
「さよさもんじ」
「は、い」
朗々と響く声で、畏まって名前を呼ばれた。
歯に挟まった豆の皮を舌で穿っていた少年は、すぐ目の前で膝を折り、屈んだ太刀に恐々頷いた。
尻込みして、後退を図った。しかし座った状態では叶わず、一寸として位置は動かなかった。
とうに甘味を食べ終えた後藤藤四郎たちも、何故かこの場に居座った。物吉貞宗などは中腰だったのを改め、行儀よく座り直した。
空の椀に箸を預け、新参者の太刀と、古参の短刀のやり取りを興味深そうに見守る。
突き刺さる視線が嫌だったが、逃げることも出来なくて、小夜左文字は諦めて肩を落とした。
小豆長光に向き直り、居住まいを正した。
「きみは、……いや、きのせいならいいんだが。あまり、あまいものが、そう、とくいではないのかな?」
遠慮がちに投げかけられた質問に、彼は黙って口を噤んだ。
「いや? んなことねえよな」
「ですねえ」
代わりに後藤藤四郎が答え、物吉貞宗がそれに同意した。会話に割り込まれた太刀は無音で唸った後、噛み締めていた唇を解いた。
「そうなのかい?」
ひと呼吸置いて気持ちを整え、改めて小夜左文字に向かって問いかける。
短刀は半分になった餅を汁粉に浸し、箸を置いた。
「嫌い、では、ないです」
食うに困る人々を見て来たからか、彼は食事に対する執着がひと際強かった。畑仕事を率先して手伝うのだって、食べ物を大事に思っているからだ。
食材に対する好き嫌いは、ひとつもない。味付けが濃かろうが、薄かろうが、料理当番が丹精込めて作ってくれたものを馬鹿にするつもりはなかった。
出されたら、必ず食べ切る。米ひと粒だって残さない。
それなのに、小豆長光が作った汁粉には箸が進まなかった。
汁粉だけではない。彼が今日まで供して来た数々の菓子に対しても、小夜左文字はあまり嬉しそうにしなかった。
ひと口齧って、小首を傾げ、最後まで訝しむような表情を崩さない。
ほかの短刀たちが笑顔の花を満開にする中で、彼だけが異質だった。
「そうでしょうか……」
初めて指摘されて、とてもではないが信じられない。
疑わしげに太刀を見返した短刀は、意見を求めて左右に視線を送った。
「それは、うーん」
見つめられ、物吉貞宗が口籠もった。顎に手をやり、瞼を伏して考え込むが、小豆長光が言うような違いに心当たりはなかった。
そもそも甘味を前にした時は、食べるのに必死で、周囲をさほど見ていない。
存外食いしん坊な脇差は小さく舌を出し、後藤藤四郎に向けて顎をしゃくった。
小夜左文字も、小豆長光も一斉に彼を見た。水を向けられた少年は一瞬ビクッとなった後、頬を掻き、目線を天井に投げた。
「そう言われてもなあ。あ、でも」
「でも?」
返答に困り果て、言いかけて途中で言葉を切る。
そこにぐい、と身体ごと突っ込んで、長船派の太刀は唇を引き結んだ。
菓子作りには自信があったのに、全員を笑顔に出来ないのが余程悔しいらしい。
大柄の男に詰め寄られた少年は苦笑いを浮かべ、小夜左文字に向かって手を振った。太刀にも離れるよう合図を送って、胡坐を組み、頬杖をついた。
「小夜はさ、万屋でもあんまり、甘いもの買わないよな」
「言われてみれば、そうですね」
「ほう……?」
人差し指を突き付けて、粟田口派の短刀がびしっと言う。
貞宗派の脇差は言われて思い出した、と両手を叩き合わせ、初耳だった太刀は成る程、と顎を撫でながら頷いた。
三方から視線を向けられて、自覚がなかった左文字の末弟は凍り付いた。
「そんな、ことは」
「いいや、ある。絶対ある」
否定しようとして、先を越された。
後藤藤四郎は力強く断言して、同意を求めて物吉貞宗を振り返った。
眼差しで意図を察し、脇差も深く頷いた。両手を握って脇に添えて、直後に明るい色合いの瞳を大きく見開いた。
「そういえば、聞いたことがあります」
「なにをだ」
黄金糖のような眼を目映く輝かせた彼に向かい、小豆長光が屈んだまま身体を捻った。右手を思い切り床に叩きつけて、表情は真剣そのものだった。
こうまで切羽詰まる必要があるのかと思いつつ、小夜左文字も脇差を見た。
彼らが自分自身のことを話題にしているのは分かっているのだけれど、どうにも他人事のように思えて仕方がなかった。
全く別の誰かについて論議しているようで、少し面白かった。
勝手にこみ上げてくる笑いをかみ殺していたら、物吉貞宗がにっこりと、微笑みながら見つめて来た。
「小夜君は、万屋のお菓子より、歌仙さんが作るお菓子の方が好きなんですよね?」
「え?」
その無垢な笑顔に嫌な予感を覚え、背筋を寒くした直後だった。
不意打ちに等しい発言を受けて、小夜左文字は言葉を失い、文字通り固まった。
目をぱちくりさせて、息をするのさえ忘れた。やがて苦しくなって、急ぎ鼻から空気を吸いこんで、屈託なく笑う脇差を半信半疑で見つめ返した。
「あー、それ。俺も聞いたこと、ある」
唖然としていたら、横から別の声が響いた。
ぎょっとなって首を巡らせれば、後藤藤四郎が不遜な表情で口角を持ち上げた。
惚けている少年の額をぴんっ、と小突いて、胡坐を崩し、右膝を立てた。
「厚たちと万屋行った時、小夜だけなんにも買わないんだからよ。なんでだって聞いたら、歌仙さんが作った方が美味しいから要らない、だったっけ?」
「むむむ」
「ま、待ってください。そんな話、僕、いつ」
「えー? 一年くらい前?」
「最近の話でないのは、確かですね」
「…………」
喋っている途中で肩を竦めた彼は、呆れ調子で広げた手を揺らした。
物吉貞宗も短刀の言葉に同調して、懐かしい記憶を補足した。間違いない、と後藤藤四郎に頷いて、空中に円を描いた。
斜め向かいでは、小豆長光が眉間に皺を寄せて唸っている。急いで話に割り込んだ小夜左文字は、彼らの返答を受けて頭を抱え込んだ。
小夜左文字自身が、ふた振りの言うやり取りを全く覚えていなかった。
「嘘じゃ」
「ないない」
念のため再確認して、逆に追い詰められた。
間髪入れずに首を横に振られて、彼は眩暈を覚え、身体をふらつかせた。
「おっと」
崩れかけた体躯を、物吉貞宗がすんでのところで庇った。
後ろから肩を支えられて、突っ伏すことすら許されなかった少年は両手で顔を覆い隠した。
歌仙兼定の作る菓子の方が美味しいと、言った記憶は一切ない。
しかし粟田口の短刀たちと一緒に万屋に出かけ、散々悩んだ挙げ句、手ぶらで帰って来た覚えなら、微かに頭に残っていた。
それも一度や、二度の話ではない。
種類があり過ぎて、目移りして決めきれなかったのだ。食べたことのない菓子ばかりで、味が想像出来ず、手を伸ばすのに躊躇しただけだ。
わざわざ高い金を払い、買ってまで食べたいとも思えなかった。
それなら歌仙兼定が作ってくれる甘味の方がいいと、そう考えなかったと言ったら、嘘になる。
「ち、違います。あれは別に、歌仙じゃなきゃ嫌だとか、そういうのじゃなくて」
「なるほど。かせんかねさだ、か」
後藤藤四郎たちの言い方には、語弊がある。
誤解しか生まない口ぶりに抗議するけれど、小豆長光の耳には届かなかった。
低い声でぼそっと言ったかと思えば、急に目つきが鋭くなった。怖がりの短刀からも好かれる温和な表情がスッと消えて、戦場で見せるような険しい顔つきが現れた。
これから一戦交えて来そうな雰囲気に、背筋が寒くなった。
「そうそう。歌仙さんだったら、お汁粉は絶対、白玉だよな」
「っ!」
小豆長光が作った汁粉に入っていたのは、焼いた角餅だった。
それがなぜ不満だったのか、後藤藤四郎の何気ないひと言で判明した。椀の中を見た瞬間、がっかりしてしまった理由を悟って、小夜左文字はビクッと肩を跳ね上げた。
大仰が過ぎる反応に、小豆長光の目が鈍く輝く。
「それで、なのか。きみが」
ぎょろっと睨まれて、足が竦んだ。
ほかの男士に比べて箸が進まなかった原因を探られて、短刀は冷たい汗を流した。
「いえ、えっと。小豆長光さんの、も、美味しかったです」
しどろもどろに否定に走るが、声が上擦っており、説得力はないに等しい。
己の口下手ぶりを大いに呪って、小夜左文字はすくっと立ち上がった男を目で追いかけた。
「よくわかった」
明後日の方角を見て、小豆長光が背筋を伸ばす。
そのまま大股で歩き出した彼に慌てて、短刀は汁粉の椀をひっくり返した。
箸を蹴っ飛ばしてしまい、ガクンと落ちた膝を強かに打った。
「なんか、やばくね?」
「拾っておきます」
太刀の鋭い眼光に、後藤藤四郎たちも嫌な未来を想像したようだ。
立ち去る直前の太刀は、明らかに可笑しかった。甘味作りの大敵として名前が挙がった打刀に、なんらかの危害を加えそうな雰囲気だった。
彼らが変に煽った所為で、滾る心に火を点けてしまったらしい。
このままでは歌仙兼定が危ないと、小夜左文字は青くなった。
飛んで行った箸を片方掴んで、物吉貞宗がそんな彼の背中を押す。
促され、起き上がり、短刀はもう一振りの短刀と頷きあった。
「俺、こっち、探してくるな」
「お願いします」
太刀が台所を出て、どちらに向かったかさえ見ていなかった。
燭台切光忠が呑気に洗い物を続ける中、駆け足で廊下に出て、小夜左文字は後藤藤四郎とは別方向に急いだ。
左右を確認しながら、どこにいるか分からない打刀と太刀を探し、屋敷中を駆けずり回る。
時間が過ぎるにつれて焦燥感が募り、脚がもつれそうになった。のんびり歩いていた仲間と何度もぶつかり掛けて、その都度頭を下げて謝って、歌仙兼定の居場所を尋ねた。
「いた!」
やがて、どれくらい走り回った後だろう。
大ぶりの花瓶を抱いて運ぶ打刀を廊下の先に見付けて、彼はつい叫んでしまった。
珍しい大声に、調子良く歩いていた歌仙兼定の足が止まる。
なんとか間に合ったと、ホッとした。散々駆け回ったせいで息は乱れて、次の一歩に手間取った。
肩を上下させ、呼吸を整えた。
それが隙となって表れて、横をすたすた歩いて行った男に反応出来なかった。
真横を抜けて、前に出られて初めて気が付いた。
「あ」
しまった、と思ってももう遅く、腕を伸ばしたところで手は届かない。
引き留めたかったが、間に合わない。
小夜左文字を楽にやり過ごして、小豆長光は花瓶を抱える男へと歩み寄った。
「やあ、小豆長光。どうしたんだい?」
怖いくらい真剣な表情の男に、打刀はまるで警戒心を抱かない。いつものように暢気過ぎる挨拶をして、重い花瓶を抱え直した。
「歌仙」
小夜左文字が注意するよう訴えるが、言葉が足らず、警句にすらならなかった。舌が痺れて動かなくて、上手く発音出来ず、足も鉛のように重かった。
逃げるよう言いたいのに、叶わない。
「かせんかねさだ」
「ん?」
あと十歩もあれば届く距離が恐ろしく遠くて、小夜左文字は唇を引き結び、奥歯を噛み締めた。
前方では小豆長光が、大きな手をぐっと握りしめた。肩を怒らせ、なにかを堪える表情を浮かべ、穏やかに微笑む打刀を高い位置から睨みつけた。
唇を震わせて、深く息を吸いこんで。
「あ、小夜。……って、やばいやばい」
立ち尽くす小夜左文字を見つけ、駆け寄って来た後藤藤四郎が蒼白になって飛び跳ねる。
彼までもがそう感じるくらいに緊迫した空気の中で。
今にも太刀が、固く握った拳を振り上げる未来を妄想する中で。
「わたしに、おかしのつくりかたを、おしえてくれ。たのむ!」
現実の太刀は勢いよく腰を曲げ、大声で吼えた。
両手はピシッと、身体の線に沿って伸びていた。ほぼ九十度を維持して、悲痛な決意を込めて、両目はぎゅっと閉ざされていた。
「……え?」
「は?」
「うん?」
彼を取り囲む三振りは、それぞれ目を点にして凍り付いた。呆気に取られてぽかんと口を開き、恐る恐る返事を待つ男に絶句した。
「どうだろうか」
彼らが唖然としているとも知らず、小豆長光が低い位置から打刀に問う。
それでハッと我に返った歌仙兼定だが、いきなりな申し込みへの戸惑いは消えなかった。
「菓子、が……なんだって?」
落としそうになった花瓶を掻き抱き、膝も使って体勢を立て直した。身体を小刻みに揺らし、鮮やかな色彩で飾られた陶器を安定させて、小首を傾げ、小夜左文字たちにも視線を向けた。
小豆長光も短刀を一瞥し、力強く頷いた。握り拳を胸に叩きつけて、湧き起こる悔しさに歯を食い縛った。
「わたしでは、さよさもんじをまんぞくさせられない。だがあなたなら、それができると。でしいりを、おねがいしたい。このとおりだ」
再び深々と頭を下げて、困惑する打刀に懇願した。
藪から棒に訴えられた男はヒクリと頬を痙攣させて、同じく予期せぬ事態に戸惑っている少年らを見た。
名前を出された短刀は顔の前で手を横に振り、後藤藤四郎は数秒してから口を押さえて後ろを向いた。こみ上げる笑いを懸命に耐えて、肩を大きく震わせた。
打刀にとっては、なにがなんだか分からないままだが、菓子作りを得意とする太刀が弟子入りを申し込んできたのだけは、はっきりしている。
その動機も、大雑把ながら説明されていた。
恥ずかしさに耳まで赤くして、小夜左文字が歯軋りする。
顰め面の少年を遠くに見て、歌仙兼定はしばらくして、ふわっと笑った。
「残念だが、お断りするよ」
小夜左文字が心から美味しいと思える菓子を作れるのは、自分だけ。
こんな特権を手放すわけがないと言ってのけた打刀に、太刀は心底残念そうに項垂れた。
2018/05/15 脱稿
さらに又霞に暮る山路かな 春を尋ぬる花のあけぼの
山家集 雑 988