路次

「おなか空いたな~」
 言うが早いか、ぐぅぅと綱吉の腹の虫が盛大に鳴いた。
 そのあまりの音の大きさに綱吉自身が一番驚き、思わず足を止めて手で腹を押さえ、誰かに聞かれやしなかっただろうかと挙動不審気味に周囲を見回してしまう。
 だが心配は全くの杞憂で、車が二台すれ違うのもやっとの幅しかない道には彼以外誰も居なかった。
 ホッとして良いのか悪いのかも解らない。兎も角胸を撫で下ろした彼は溜息と一緒に腕も下ろし、気を取り直して首を横へ振った。
 穏やかな午後の日差しが心地よい、平日の昼下がり。肩に担いだ鞄は重く過ぎず、軽すぎず。半袖で過ごすには少し肌寒いが、長袖で上着も着込んでいると暑くて汗が止まらない、そんな中途半端な時期でもある。
 中間テストで帰宅時間は普段よりも早い、そしていつもなら一緒に帰るメンバーも各自勉強に勤しむために今は別行動だ。
 綱吉もなるべく早く帰って机に向かわなければならない、テストの点数次第ではリボーンの銃口が容赦なく火を吹くだろう。そうならないためにも、そして臨時ボーナスを奈々から獲得するためにも、彼女の前で豪語して見せた平均五十点台は確保したいところ。
 目標レベルが低いとリボーンには怒られたが、その点数だって綱吉の学力からしたら充分高得点なのだ。
 獄寺は頭がいいし、山本もやろうと思えば出来る方。ふたりは一緒に勉強しようと誘ってくれたが、自分が足手まといになるのは明白で、だから謹んで辞退させてもらった。今回は自力で頑張ってみようと思う、どこまでやれるかは解らないけれど。
 それにしても、と綱吉は足を休めて交差点の左右を確認してからゼブラに塗られたアスファルトを横断した。
 一歩進むたびに空腹感が倍々ゲームで増している気がする。実際腹の虫はあの一度きりではなく、事ある毎にけたたましく騒音を奏でてくれた。それに伴い疲労感も倍増して、自宅までの距離が果てしなく遠く感じられてならない。
 いっそどこかで買い食いでもしてしまおうか、と甘い誘惑に駆られて喉が鳴る。食べたいものが次から次へと頭の中に浮かんでは消えて、ついつい涎で咥内を潤した綱吉だったが、現実は思いの外厳しい。
 財布の中身は今にも干乾びる寸前で、だから奈々にお小遣いアップ、もしくは臨時ボーナスを申し出て先のような取引が成立した経緯がある。こんなところで浪費している余裕は、今の彼に残されていない。
 けれど覚えてしまった空腹感は激増の一途を辿り、綱吉を苦しめる。歩みは鈍く、重いものに切り替わり、一歩進むのでさえ苦痛が伴われる。
 本当に家に帰り着くまでに飢えで倒れてしまいそうだ、とネアンデルタール人宜しく前傾姿勢気味で歩いている時に限って、曲がり角を抜けた先の公園入り口に被る形で屋台が出ていた。
 軽快なリズムを刻む音楽も聞こえて来る、恐らくは屋台の人がラジオでもつけているのだろう。道行く人は誰も立ちどまっていないが、綱吉の足は余計に鈍くなった。
 カラフルで目立つ屋根にオレンジ色に塗られた土台、並べられた黒色の鉄板からは白い煙が細く立ち登っている。日が差し込まない所為で薄暗い内側には、まだ二十台らしき若い男性が手持ち無沙汰気味に長い銀色の串を回していた。
 綱吉は視線を持ち上げ、それから左に寄って屋台の軒部分に書かれた文字を読み取った。たこ焼き。再び目線を低い位置に戻すと、確かにたこ焼きが舟形の皿に盛って飾られていた。
 ぐぅ、と腹の虫が鳴る。涎も出る。だが哀しいかな、肝心のお金が出ない。
 あまりにじっと見詰めすぎていたからだろう、日陰から頭を出した男性に怪訝な顔をされてしまった。
「買ってくかい?」
「あ、いいえ、結構です」
 それでも一応確認で聞いてくるのは、彼もまた商売人だからだろう。けれど綱吉は慌ててしまって、両手を前に突き出して首も一緒に左右へぶんぶんと振り回した。
 確かに買いたい、食べたい。けれど校則で買い食いは禁止されているし、そもそも手持ちがない。いや、ひと舟くらいなら買う余裕はあるだろうか。
 財布の中身を思い出すが、あまりにも額面の少なさに閉口してちゃんと数えた覚えがない。もしかしたら、と一縷の望みをかけた綱吉は屋台の前を素通りするフリをして、横目でちらりとひと舟幾らかを確認する。四百円、何個入りかは分からないがそれくらいならなんとかなりそうだ、と公園に入って素早く柱の影に潜り込み、綱吉はズボンのポケットから財布を取り出そうと腕を後ろへ回した。
 素早く薄っぺらのそれを引き抜き、広げる。札入れの部分はレシートしか入っていない、だが小銭を入れているポケットの鋲を外して揺すれば、ジャラジャラと十枚近くある貨幣が音を立てた。
 伸ばした人差し指でそれらを掻き分け、色の薄いものを探し出す。アルミニウム製のものは当然除外で、稲穂の図柄に真ん中が空いているものも脇へと押しやる。
「三百五十……七十、はち……」
「何してるの?」
「今忙しいんで、後にしてください」
 あと少しで額面が届く。数えるのに必死だった綱吉は、だから彼の真後ろに立って綱吉の背中に影を落とす人物への応対も自然と素っ気無く、淡々としたものになっていた。
 むしろ本人は、受け答えをしたという自覚さえなかったかもしれない。
 一円玉を混ぜても受け取ってもらえるだろうか、五百円にも達しない財布の中身に絶望しつつ、綱吉は乾いた唇を舐めて唾を飲んだ。
「三百九十……あと、三円……」
「貸そうか?」
「え?」
 ぎりぎりのところで届かない。もう駄目か、と思われた時に背後からまた声がかかって、素早く耳で音を拾い上げた綱吉は瞬間顔を上げ、無意識に笑顔を作って振り向いた。
 そして視界のど真ん中に黒髪の青年を見出して、奈落の底へまっさかさまに落ちていく。
「ひっ――」
「買い食いは、禁止だよ」
 息が喉を擦り、綱吉の頬が引き攣る。太陽をバックに佇んでいた青年は不敵な笑みを口元に浮かべ、財布を手に硬直している綱吉を悠然と見下ろしていた。
 切れ長の瞳に、整った顔立ち。無駄な肉付きもなく引き締まった四肢に、やや薄い唇。艶のある前髪は少し長めで、隙間から覗く瞳に魅入られたかのように綱吉は動けなくなる。両手で財布を握り締め、傾けた所為で小銭が数枚足元へ転落した。だがそれも拾うことが出来ず、綱吉は彼が腰を屈めて膝を折る様を呆然と見送った。
 はい、と拾われた小銭を差し出される。しめて百五十円、小額ではあるが綱吉にとっては命綱とも呼べるお金だ。
 差し出した掌に載せられる際に、彼の指先が綱吉の皮膚を軽く擦る。引っかかれたわけではないので痛くも無いのだが、何故か触れられた部分だけが熱を持ち、鉛のように重く感じられて綱吉は唇を浅く噛んだ。
 よりによって、こんな時に。
 どうしてこうもタイミングが良いのだろう、と綱吉はやや恨めしげに雲雀を見上げ、手の中で生温くなろうとしている小銭を財布へと戻した。
「それで?」
「はい?」
「買い食いは校則違反だって、知ってるよね」
「ま、まだ買ってません」
 むしろ金額が足りなくて買えません、とは恥かしすぎてとてもではないが言えない。財布をポケットに押し込みながら唇を尖らせ、ただ正面から雲雀を見返して言う勇気もなくて綱吉は俯いた。
 とは言え、額面が足りていれば購入していたのは事実。後ろめたい気分が皆無とも言い切れず、綱吉は左足を引いて地面に押し付けたつま先で砂を削った。
 まだ頭上高い太陽に照らされ、影がふたり分重なり合うように伸びている。ちらりと盗み見た雲雀の腕には、毎度おなじみのあの腕章が陽光を受けて眩しく輝いていて、思わず溜息が零れると同時に忘れかけていた腹の虫が切なげに鳴いた。
 至近距離、雲雀が眉根を寄せて顔を顰めたのが分かった。
「う……」
 自己主張して憚らない、空気の読めない腹の虫に怒りがこみ上げてくる。だがそれさえも自分の一部だというのだから、綱吉は急に悲しくなって尚俯き、頭を垂れた。
 逆に腕を持ち上げ、丸めた拳を顎に添えた雲雀が、何かを考え込む様子で眉間に皺を三本刻んでから急に踵を返して綱吉の前から離れていく。影が引き、壁になっていた彼が去ったことで綱吉に直射日光が戻ってきた。
「ヒバリさん?」
 もっと怒られるものだと覚悟していたのに、随分と簡単に見逃してもらえた。釈然としないまま綱吉は首を捻り、鞄を抱え直して早足に公園を出て行く背中を追いかける。直後野太い男が震え上がる声がして、なにやら短い会話が展開された。ただ話の内容までは集中していなかったので聞き取れず、息を弾ませて歩道へ出た綱吉の目に、蹲って小さくなっている屋台の店主が飛び込んできた。
 へ? と綱吉も目が点になる。
 出した足を引っ込め、屋台の影に隠れるように丸くなっている男性を唖然と見詰める。いったい何が起こったのか、詳細は解らないものの、何かをしたのが誰であるのかは容易に想像がついて、綱吉はこめかみに指を置き鈍痛をやり過ごして視界から消えた黒髪の背中を捜した。
 雲雀は屋台を挟んで男性と反対側に立っていて、ピンと伸びた背筋は模範解答並みの綺麗さだ。肩に羽織っている学生服が左右に揺らめいていて、下に着込んでいる白のカッターシャツの先から白い手が覗いている。表情までは見えなくて、綱吉は休めていた足を前に繰り出して彼との距離を詰めた。
 胸の高さまで掲げられていた彼の手には何かが乗っていて、一瞬開いた彼の口になにやら丸い物体が吸い込まれていく。
「か、買い食いは……校則違反、ですよ」
「買ってないよ」
 綱吉が唾を飲みつつ引き攣った声で言うと、雲雀はしれっとした顔でたこ焼きを噛み砕いて飲み込んだ。
 指に持った楊枝で、舟に残る熱そうなたこ焼きを串刺しにする。更にもうひとつ口に運んで食べる様に、綱吉は益々空腹を刺激されて両手で腹を押さえ込んだ。
 風紀委員長自ら率先して校則違反。糾弾されて然るべき行為なのに、綱吉の指摘をさらりとかわした彼はふたつ目のたこ焼きを飲み込むと、踵をひとつ鳴らして綱吉へ向き直った。
「ひぃぃ!」
 だのに音に反応したのは年若い男性の方で、よほど怖い思いをしたのだろうな、と少なからず同情が隠せない。
 綱吉は肩を落として溜息を零し、先ほどの雲雀の言葉を脳裏に思い浮かべて前髪を梳き上げる。買ったのではないなら、今彼が手に持って食べているものはいったいどうやって手に入れたというのだろう。恐喝、カツアゲ、そういった単語が真っ先に思い浮かんだ綱吉だったが、
「上納金代わり」
 彼の声に余計男性が震え上がり、逃げようとしているのかしゃがんだまま飛び跳ねていく。ちょっと脅されただけとは思えない彼の怯えぶりに、嘗ての自分自身が重なる思いで綱吉は苦笑した。
「今日はこれで見逃してあげるけど、次はちゃんと、場所代、支払ってね」
「はいぃぃぃ!」
 右手を上げて持ったたこ焼きの載った舟を示した彼に、男性は素っ頓狂な声を出して首が飛んで行きそうな勢いで何度も頷いて返した。
 この地域一体を実質的に支配しているのが誰であるか、痛感させられる。相変わらず横暴な人だ、と最早慣れっこになっている綱吉は呆れ気味に額に手を置いた。
 その脇を雲雀がすり抜けていき、置いていかれた綱吉は慌てて振り向いて彼の背中を追った。
 お互いもう相手に用事は無い、だから綱吉がここで雲雀を追いかける必要性もないのに、何故かついていかずにいられなくて綱吉はそんな自分に戸惑いながら公園の中へ舞い戻った。
 五歩先を行く雲雀は三つ目のたこ焼きを口に運び、視線を巡らせてから進路を確定したようだ。無駄に広いだけの公園で、現時点唯一の日陰に置かれている上に誰も座っていないベンチだ。
 綱吉が遅れてベンチに到着した頃にはもう雲雀は優雅に腰を下ろし、右を上にして脚を組んでいた。
 彼の揺れるつま先の、その影が綱吉の足を小突く。立ち止まってから自分は果たして何をしているのだろう、と我に返って綱吉は少し焦った。
 試験期間中なのだ、さっさと家に帰るべきなのは分かっている。それなのに自然と足は雲雀を追いかけていて、まるで磁石に引き寄せられる砂鉄になった気分で綱吉は居心地悪そうに左足で右の踝を蹴った。
 当の雲雀は、綱吉などお構いなしに収穫品であるたこ焼きを頬張り、着実に数を減らしている。
 表情の変化に乏しく、黙々と作業のように手を動かしているものだから、お世辞にもあまり美味しいと思って食べているように見えない。けれど見せ付けるようにたこ焼きに息吹きかけて冷ます仕草をされて、綱吉の咥内には唾液が溢れ、腹の虫がきゅるる、と切ない声で鳴いた。
 微かなソースの匂いが鼻腔を擽る。熱に踊る鰹節が光を浴びて透けて見えて、爪楊枝に刺された周辺だけが窪んだ表面は綺麗な焼き色がついている。柔らかそうな生地に湯気が絡みつき、我知らず喉を上下させた綱吉の前で雲雀は低く笑みを零し、開いた唇に暖かな球体を滑り込ませた。
 奥歯に挟み、数回咀嚼。熱いのは平気なのか顔色は一切変わらず、事務的に噛み砕いて嚥下する。何故もっとゆっくりと味わおうとしないのだろう、と勿体無さを感じて綱吉は歯軋りし、明らかに自分へのあてつけ行為を繰り返す雲雀を睨みつけた。
 視線に気づいているはずなのに、雲雀は無反応で目を合わせようともしない。舟に残っているたこ焼きは最後のひとつとなり、半熟加減の生地が絡みついた爪楊枝が突き刺される。彼はそこで楊枝から指を外し、今頃になってやっと綱吉を見上げた。
 初めてそこに彼が居るのに気づいた様子で。
「なに?」
「……帰ります」
 もしかしたら自分の為に、と一瞬でも期待したのが間違いだった。
 もしかしたらひとつくらい恵んでもらえるのではないか、と待ったのは浅はかだった。
 彼がそんな心優しく気の利いた性格をしていないことくらい、とっくに知っていたのに。
 それでも彼は、本当に時々、気まぐれを起こしたみたいに急に優しくなるから、綱吉は何度も彼に騙されてしまう。大事にされているのだと勘違いして、誤魔化されてしまう。
 毎回悔しい思いをさせられて、もう二度と惑わされるものかと誓うのに、いざ彼を目の前にしてしまうと緊張で全身が震え、心臓は歓喜し、思考は麻痺してしまう。彼の一言一句を聞き逃すまいと耳は象よりも巨大化し、普段から大きいと揶揄される目を見開いて瞬きさえも忘れる。息継ぎさえも出来なくて呼吸は苦しく、体温は上昇の一途を辿り気絶する一歩手前を行ったり来たり。
 何度裏切られても、騙されても、終わってみれば例え一瞬でも彼に構ってもらえた嬉しさを感じている。彼の瞳に自分の姿が映し出され、その唇が自分の名前を音に刻むだけで幸せな気持ちになれる。
 意地悪をされても、苦にならない。
 自分はそんなマゾ体質ではなかったはずなのだが、と遠い目をした綱吉に、雲雀は脚を左右組み替えて膝に立てていた肘を伸ばした。人差し指を軽く曲げ、スペースが広い右側を小突く。
 音は響かない、だが揺れ動く気配と空気に綱吉は瞬きして視線の向きを変えた。
 視線と同じ方向に首を傾け、少しだけ額を前に倒す。額を流れた前髪が肌を擽り、唇を窄めた綱吉に雲雀が薄ら笑みを浮かべ返した。
「おいで」
 甘い花の蜜を思わせる低い声。
「……」
 人が帰る、と言い出した途端、これだ。思わず溜息を零してしまい、綱吉は瞼を閉じて黙って三秒数えた。
 目を開ける、見詰めた先の雲雀は悠然とした様子で綱吉の動向を静かに待っていた。
 瞳だけを動かし、公園内部を軽く眺める。午後もまだ早い時間だからだろうか、陽射しが強いのもあって散歩している人の姿は無い。屋台から聞こえていた音楽もなくなった、ふたりの足元を覆う影を作っている木が、大きく枝を揺らす。
 ざざ……と心の奥底を震わせる風の音色に、綱吉は眩暈を堪えてまた目を閉じた。
「買い食い、校則違反なんですよね?」
「買ってはいないよ」
 屁理屈を繰り返した雲雀に肩を落とし、綱吉は鞄を握り直す。そんな勝手な言い分が世間に通用するものか、と睨みつけても彼は馬耳東風でダメージを受ける様子はない。
 どこまでも自分勝手、我が儘、傲慢。自尊心が強く、他人の都合などお構いなし。
 それでも。
「俺は、帰って、勉強す――」
「おいで」
 苦し紛れに言葉を連ねようとした綱吉を遮り、雲雀が同じ台詞を繰り返してベンチをもうひとつ叩く。
 頭上遠くで鳥の囀りが聞こえた、耳の奥に反響する風の音は止まない。
 嗚呼、まったく、本当に、この人は、どうしようもなく、自分を手玉に取るのが巧い。悔しくて泣けてくるくらいに、この人に翻弄されている。
 そしてそれが心地よいと感じている自分が確かに、存在する。
 理不尽だと憤ったところで、想いには逆らえない。綱吉は躊躇するように膝を何度か前後に揺すって、地面を靴の裏で擦って前に出た。ただベンチには座らず、雲雀に自分の影を重ね合わせて前に立つ。
 風がふたりの足元を掬って行く、意地悪い笑みを浮かべた雲雀が突き刺さったままの爪楊枝を持ち上げた。
 綱吉は身体を前へゆっくりと傾け、同時に噛み締めていた唇を解放して息を吸い込んだ。
 甘い、そして辛い匂いが喉元を擽って落ちていく。遅れて広がった熱は火傷を負うほどのものではなかったけれど、緊張で凍えていた彼の全身をゆっくりと暖め、溶かして行った。
 クスリ、と雲雀が表情を綻ばせた。
 喉をひとつ上下させた綱吉の頬を小突き、爪の先で軽く削るように擽ってくる。何がおかしいのだろう、と緩められた彼の瞳の鏡だけでは見えない綱吉は、試しに舌を出して唇をぐるりと一周舐めてみた。けれど雲雀の表情は変わらなくて、口で言ってくれればいいのにと眉尻を持ち上げ座っている彼をねめつける。
 彼は空っぽになった舟を脇へ置き、脚をまた組み替えて重なり合ったそこに手を置いた。それから自分の側へと指を丸めては伸ばし、綱吉にもっと顔を寄せるように指示を出す。
「ヒバリさん?」
「おいで」
 囁きかける声は、低く、柔らかくて。
 意思に関係なく体は勝手に反応し、雲雀の黒髪に鼻先を埋めたところで急に彼が顔を上げた。鼻と鼻とがぶつかり合い、反射的に首を引っ込めようとした瞬間、生暖かい柔らかな感触が口の端を引っ掛けていく。
 舐められた、と気づいたのは完全に顔が離れた後。驚きに目を見開いた綱吉に対し、雲雀は不遜な笑みを浮かべて追いかけさせた指で彼の鼻を弾いた。
「ついてたよ」
「うっ」
 大袈裟に舌で唇を舐める仕草をしてみせた雲雀の言葉に、綱吉は絶句して舐められたばかりの場所を手で覆い隠す。ただ勝手に赤くなる顔は隠しきれず、何も言えずにいると雲雀が今度こそ声を立てて笑った。
 耳朶を擽る風の音が、心臓の音にも重なって五月蝿いくらいに響き渡る。
 本当に、どうしようもなく、この人は。
 この人が。
「ヒバリさん、も。ついてます、よ……?」
 たどたどしく告げた綱吉に、彼は目を眇めて木漏れ日射す中に立つ綱吉を見詰めた。興味深そうに相槌を返し、脚を解いて左右へ膝を広げる。
 綱吉の細い身体がそこへと滑るように潜り込んだ、持ち上げた両手が雲雀の肩に掛かる。膝が片方摺りあがって、ベンチへと乗り上げた。距離が狭まり、彼の瞳の濃さを否応なしに意識して綱吉は目を閉じた。
 間近で雲雀が笑っている。彼はきっと目を開けたまま、自分の顔を見詰めていることだろう。
 肌に触れる吐息の熱さに眩暈がする、心臓の音が五月蝿すぎて雲雀にも聞こえてしまいそうで怖い。
「これも、買い食いじゃ……ない、ですからね」
 せめてもの嫌味で触れる寸前に呟けば、彼は笑いながら綱吉の身体を引き寄せた。

2007/5/26 脱稿