春信

 澄み切った青空は真夏のそれを思わせ、西の空にぽっかりと浮かぶ真っ白の綿雲は入道雲のようでもある。容赦なく地上に照りつける日差しは暖かい、を通り越して最早痛いくらいで、梅雨を一足飛びで越えてしまったようだ。
 けれどカレンダーはまだ夏に届く一歩手前で、楽しみで仕方が無い夏休みも当分先のこと。その前に期末試験が待っているのだが、先日終わったばかりの中間試験の結果が散々なものだった為、次は気合を入れていかないと自称家庭教師の凶悪な赤ん坊に本気で殺されかねない。
 自分に向けられた銃口の鈍い輝きを思い出した綱吉は、その瞬間ぶるりと身体を震わせて背中を走り抜けた悪寒に耐えた。
「あっちーなー、ツナ? どうかしたか?」
 白地に水色のラインが入った体操服の襟を指で広げ、風を送り込んでいた山本が黒色のゴミ袋をサンタクロース宜しく肩に担ぎながらその綱吉の肩を叩く。思わず肩を強張らせて大仰に反応した彼に、山本は人好きのする笑みを崩して首を傾げた。
 頬を引き攣らせていた綱吉も、現れたのが山本だと瞬きの後に理解し、ホッと胸を撫で下ろす。短く安堵の息を零した彼に気を取り直した山本も、再び柔らかな笑みを浮かべて綱吉の足元にある小枝や枯葉、それから誰が捨てて行ったのかも解らない紙くずやゴミの山を指差した。担いでいた袋を地面へと下ろし口を広げた彼に、綱吉も意図を察して頷いて返す。
 彼は握り締めていた竹箒の拘束を緩めると、近くにいた生徒に塵取りを借りて腰を屈め、手早く箒を動かしてゴミを集めていく。山本はその間袋を手にじっと待っていてくれて、綱吉が集めた分を回収し終えると袋を上下に揺すりながらその口を縛った。
 背の高い彼の足元には、綱吉のものよりも長い影が伸びている。周囲を見回せば彼らと同じ格好をした生徒が複数人、公園の清掃作業に勤しんでいる姿が見て取れた。
 地域と連携した総合学習の一環で、今日は地区内の公共施設の清掃。クラス別に担当場所が振り分けられていて、綱吉たちはこの公園になったのだ。
 正直言えば面倒臭い、の一言で片付くのだが、教室に閉じ込められて面白くも無い授業にただ耳を傾けるだけの時間よりはずっといい。気持ちよく晴れてくれたお陰もあるだろうが、開放感溢れる空の下にいると、それだけで心も軽くなったようだ。
 綱吉は竹箒に寄りかかりながら、忙しく作業に没頭しているクラスメイトの背中をぼんやりと眺めた。
 綱吉同様に箒を片手に固められた砂地を掃いている生徒もいれば、ゴミ袋片手に空き缶等を拾い集めている生徒もいる。花壇に花の苗を植えるのは女子の仕事で、茶色のブロックに囲まれた一画を前にしゃがみ込んで楽しそうに作業している京子や黒川たちの姿もあった。
 この近辺に住んでいるのだろう親子連れも、わいわいと賑やかに掃除する綱吉たちを眺め、目を細めていた。
 一通り周囲の観察を終えた綱吉が、まだその場に残っていた山本を見上げて首を捻る。他のところへ行かなくて良いのかと視線で問いかけたつもりでいたのだが、彼はニコニコと微笑んだまま何をするでもなく、ただ綱吉を見下ろしていた。
「山本?」
「あー、いや、なんでもない」
 あまりにも人の顔ばかり見てくるので、流石の綱吉も照れ臭く感じられて思わず頬が赤くなる。まだ何か用があるのか、と声に出して聞いてみたら、彼は急に慌てた様子で弁解を口にし、彼を呼んだクラスメイトに大声で返事をして行ってしまった。
 自分の顔に何かついていたのだろうか、と不安に感じて綱吉は右手を頬に添えてみる。だが手探りで肌をさすっても、治りかけのニキビが顎の裏側にあるくらいで特別おかしなところは見付からない。
「変な山本」
 体操服姿の彼の背中を人ごみに見つけ、箒の先を蹴り上げて綱吉は呟いた。それから、この場にいるはずなのにさっきからさっぱり姿を見ない人物を探して再び視線を周囲に走らせる。
 彼も山本同様に人目を引く出で立ちをしているから、視界に入れば直ぐに気づくはずだ。けれどあの陽射しを受けてキラキラと輝く銀の髪は何処を探しても綱吉の目に留まらず、おかしいな、と首を傾げた彼は箒を後ろ手に持ち替え場所を変えようと歩き出した。
 この一帯は掃除も終わったから、ひとまず自分に与えられた課題は終了。他にゴミが目立つ場所が無いか探すと同時に、もしかしたらどこかでサボっているかもしれない獄寺を見つけようと彼は緑の芝生へと足を踏み入れ、視界を遮っている薮を掻き分けた。
 そこへ、そう離れていない場所から女生徒の悲鳴が聞こえてきて、綱吉は伸ばしていた腕を慌てて止めてびくりと肩を揺らした。
 指先が切っ先の鋭い緑の葉に触れる寸前で空を掻き、下へと落ちる。首だけを動かして声がした方向に目を向けた綱吉は、自分たちと同じ体操服姿の男子生徒と、彼から数歩分の距離を取った場所で顔面蒼白になっている女生徒を同時に視界に捕らえた。
 男子は片膝をついて蹲り、左手を立てた左足の内側に隠している。腰を捻って上半身を後ろに向けている彼の表情は、綱吉の位置からでは殆ど見えないものの、どこか迷惑そうに顔を歪めているのが窺えた。対する女子は両手で口元から鼻にかけて覆い隠し、見開いた目で彼を睨みつけている。
 彼女はクラスでも特に正義感が強く口うるさくしている子で、お節介が過ぎる面がある。自分は常に正しいという信念があるのかどうかは知らないが、押し付けがましい説教も多いので獄寺とは特に相性が悪かった。
 その女生徒が、後ろへ半歩よろめいて下がり、一緒に持ち上げていた手も下ろす。
「何やってるのよ!」
 鋭い糾弾の声がそれに続き、自分に言われたわけではないと分かっていても綱吉は心臓を竦ませて首を亀のように窄めてしまった。
 だが蹲っていた彼は彼女の声が聞こえていないわけではないだろうに平然としていて、その温度差に驚かされる。落としかけた箒を握り直した綱吉は、注意深く薮を越えて騒いでいるふたりの傍に歩を進めた。
 だが彼が到着するより早く、一方的に話を区切った彼女が長い黒髪を翻して走り去って行った。
「先生に言うからね!」
 そう捨て台詞を残して。
 女子が視界から姿を消し、その場には綱吉と獄寺だけが残される。木漏れ日を浴びた銀髪が鈍く輝きを放っているものの、俯き加減の表情はやはり感情が読み取りづらく、なんだか話しかけ難い雰囲気に臆して綱吉は三歩以上の距離を置いて動きを止めた。
 息を吸って、吐き出す。風も無い空間は薄暗く、クラスメイトの騒ぐ声も随分と遠い。
 げほっ、という呻き声が聞こえた。距離は近い、だが綱吉が発したものでもなければ、目の前にいる獄寺のものとも違う。もっと小さな声で、立て続けに三度。
 綱吉は顔を上げ、きょろきょろと周りを見回した。だが声の発生源らしきものは見当たらず、なんだろうと眉根を寄せて顔を顰める。その間も何かを嘔吐する苦しげな声が聞こえ、彼は漸く、獄寺が下ろした腕の下にその声の主が在ることに気づいた。
 一歩半、前に出る。縮まった距離にあわせ視角が変化し、それまで見えなかった彼の膝に邪魔されていた空間も、綱吉の目の前に現れた。
 土色の地面が広がるはずの彼の足元に、他と明らかに異なる色がある。柔らかな毛並み、こげ茶に白の斑模様、平面ではない形状、震える泣き声。
「猫?」
 思わず声に出してしまった綱吉の存在に、獄寺は今頃気づいたらしい。吃驚した様子で顔を上げ、咄嗟に腕の力も緩めてしまう。それまで彼の手に押さえつけられていた小さな存在は、その瞬間身を捻って彼の手から逃げ出した。
 切なくなる叫び声を残し、猫は綱吉の足元も駆け抜けて薮の中へ飛び込んで姿を消した。振り向いて行方を追った綱吉だが、緑の壁に阻まれて直ぐに無駄だと悟り、獄寺へ向き直る。彼は若干気まずげに、困った様子で眉尻を下げて綱吉を見上げていた。
「獄寺君?」
 彼の足元には他に、白っぽくもあり茶色っぽくもあるものが詰め込まれた袋と、銀色のトングがある。それから彼が立ちあがった時に漸く見えた場所に、菓子パンが入っていたであろう空の袋。そして濡れた地面。
 あの猫の吐瀉物だろう、固形と半固形が混ざり合っているものが獄寺の靴先をも汚していて、咄嗟に背中に庇って隠した彼の指先には赤く滴る液体があった。
 状況が見えない、あの走り去っていった女子の言葉も気に掛かる。
「どうかしたの?」
「いえ……たいした事じゃないんです」
 綱吉と視線を合わせようとしない獄寺が言葉を濁し、言いよどむ。だが更に一歩距離を詰めた綱吉に真下から見上げられ、隠していた腕も掴まれて血を流す指先をも見つけられてしまい、観念した様子で彼は肩を落とした。
 力の無い銀髪が、さらさらと音もなく彼の頬を擽っている。何処と無く落ち込んでいる空気を感じ取って、綱吉は彼の腕を解放した。
「慣れてはいたんですけど、面と向かってああもはっきり言われると、きついっすね」
 ぽつりと零された彼の言葉の意味を測りかねて、綱吉は頭に疑問符を浮かべる。獄寺は綱吉がどの段階から此処に居たのかを知らない、きっと彼が指している内容は綱吉が来る前にあの女生徒が発した言葉なのだろう。
「なんて?」
「人殺し。いえ、この場合は猫殺し、ですか」
 やや自嘲の混じった声と表情で横を向きながら、獄寺が呟く。瞬間綱吉の目の前に闇が落ちてきて、視界が塞がれた。サァッと流れた空気に全身が冷え、感覚が遠くなる。
「え……」
「俺が、猫の首絞めてるように見えたみたいです」
 なんだ、それは。
 益々状況が掴み取れなくて、綱吉は混乱しながら瞬きを繰り返し、荒くなった呼吸を懸命に宥めながら獄寺を見返した。
 心臓が落ち着きを失ってバクバクと激しく脈打っている。身体中が熱いのに指先は氷のように冷たくて、皮膚の内側と外側がひっくり返った気分だった。
 獄寺が苦笑する、緩く首を振り綱吉の想像を否定して彼は自分の足元を指差した。ワンテンポ遅れて綱吉がそちらを見れば、風に煽られたからか先ほどとは向きを変えた菓子パンの袋の中身が地面に零れ落ちていた。
 食べかすと、それから。
 茶色のフィルターが巻かれた、そして反対側が焦げている小さなもの。何かが引っ掻いたからか、表面が一部捲れ落ちて中身がはみ出していた。
 その中身が、食い残しのパンにふりかけ宜しく塗せられている。
 ちょっと離れた場所には、猫の吐瀉物。胃液にまみれているものの、一部にパンらしき塊が見出せた。
「獄寺君」
「なんか、俺ってそういうキャラに見られてたのかー、って」
 袋には彼によって集められただろう、誰が捨てたのかも解らない無数の吸殻。
 彼は吸うからこそ、そのマナーには人一倍気を遣っている。
 ポイ捨てはしない、いつだって吸殻は携帯灰皿の中へ。小さな子の前では吸わない、煙草に火をつけることも無ければむき出しのそれを無防備に放置するような真似も決してしない。ライターはオイルやガスを補充して同じものをずっと愛用している、綱吉たちと一緒の時に吸いたくなったら、一言断ってから風下に移動して煙の行方をコントロールするのも忘れない。
 煙草に含まれるニコチンは、直接摂取した場合、乳幼児では一本、成人でも二本分で致死量に達する。即座に吐き出させなければあの猫がどうなっていたのか、綱吉でもちょっと考えるだけで理解できた。
 けれど彼女はそういった事情も何も知らず、一方的に獄寺を詰った。理解しようとせず、ただ己が掲げる正義だけを妄信的に信じて、獄寺を悪だと決め付けた。
 きちんと説明していれば、きっと彼女だって理解してくれたはずだ。その時間が与えられないうちに彼女が彼を責め立てたのか、面倒くささが先に立って獄寺が説明を拒んだのか、そこまでは綱吉にも解らない。けれど自分の大切な友人である彼が、悪い事をしたわけじゃないのに責められて傷ついているのは、見ていて哀しくなるし、心も苦しい。
「獄寺君、指」
「大丈夫です。吐かせようとして突っ込んだら、噛まれただけです」
 それは笑いながら言うことではない、と思わず眉間に皺を寄せて彼をねめつけると、獄寺は皮膚が抉られて捲れている部分を反対の手で隠し首を右に少し傾けた。
 角度にあわせ、長めの彼の髪が左右に揺れる。
 僅かに泳いだ彼の視線が遠くと近くを行ったり来たりして、その間もしつこく綱吉は彼を睨みつけた。やがて心の整理がついたのか、獄寺は姿勢を真っ直ぐに戻し、腕も下ろして脇に垂らす。
「十代目は、信じてくださるんですね」
「そんなの」
 当たり前だろうと、言いかけた言葉が最後まで喉から出てこない。
 もし綱吉が、それ程深く彼と関わりあいを持たず、ただの一クラスメイトとしての接点しか持ち合わせていなかったとしたら、今みたいに彼を信じられただろうか。
 状況証拠や獄寺の弁明が得られず、ただ猫を地面に押さえつけている獄寺を見ただけだとしたら、果たして冷静のままでいられただろうか。
 でも。
 嗚呼。
「信じるよ、獄寺君だもん」
 今の自分は獄寺を大切な友人だと思っているし、ただのクラスメイトじゃないのは歴然としている。獄寺は猫を傷つけたかったのではなく、助けようとしたのだとちゃんと分かっている。だから、大丈夫。
 信じる、信じられる。
 彼は間違っていない。
 竹箒を背中に回し、右足の爪先で地面を叩いて綱吉は言った。真正面から本人を前にして言うには少し照れ臭くて、言った直後に誤魔化すように笑った綱吉に、一歩遅れて獄寺も嬉しげに微笑みを浮かべた。
「有難う御座います」
「ん、でも彼女にも後でちゃんと説明しないと。誤解されたままって、悔しいもん」
 思い出したのか、賑わいを続けている公園の方へ視線を向けた綱吉は唇を尖らせた。はにかんだ獄寺が、そんな事はしなくても良いと首を横へ振る、それを綱吉が不服げに見返す。
 何故、と問いかける視線に彼は苦笑しながら肩を揺らした。
「十代目が信じてくださるなら、俺は誰に何と言われようと平気ですから」
 屈託無く、照れも無く断言する。
 思わず息を止め、顔を赤くした綱吉が竹箒ごと半歩獄寺から退いた。意識していないのに勝手に顔が熱くなってくる、そんな風に真顔で言い切られてしまうと、どう返事をしてよいのか分からない。綱吉はオーバーヒートした頭の先から何本も湯気を立て、最後に恨めしげに獄寺を睨みつけた。
「で、もそれじゃ」
「俺は、十代目さえ居てくだされれば、他に何も要りません」
 ストレートすぎる告白に、眩暈がする。
「十代目が信じてくださるなら、どんな不条理な泥だって被ります。貴方の」
 貴方を汚そうとする世界中の全てから、貴方を守る壁となります。
 だから心配しなくて良い、綱吉が信じてくれたのだから他の誰になんと責められようと、苦にならないし気にも留めない――獄寺は傷つかない。
 彼は言い切って、足元に置いていた掃除道具と拾い集めた吸殻を入れた袋を持ち上げた。閉じていた口を広げ、菓子パンの袋を中に押し込んでまた結ぶ。
 綱吉はまだ不満そうだったが、反論しようにも言い返す言葉が見つけられなくて、結局頬を丸く膨らませただけに終わった。
「本当は、多分、胃の中とかもちゃんと洗浄してやった方がいいんでしょうけれど」
「獄寺君は、その指をちゃんと消毒しなきゃだめだけど」
 逃げてしまった猫の行方を心配する獄寺の言葉に、せめてもの意趣返しで言って綱吉は踵で地面を蹴った。箒を前に持ち替えて、一足先に皆が集合している方へと走り出す。
「十代目?」
「君が泥を被るなら、それを綺麗にするのが俺の役目なんだからね!」
 獄寺にばかり辛い思いをさせるわけにはいかない。
 もし彼が見えないところで傷ついているのなら、その傷を癒したい。泥をひとりで被るというのなら、被ったままで居ないように綺麗に洗い流してあげたい。
 守られてばかりは嫌だ、庇われてばかりは困る。
 出来ることはしたい、してあげたい。与えられるばかりではなくて、自分からも与えられる存在でありたい。
「説明してくる」
 話せばきっと、彼女だって分かってくれる。
 獄寺の返事を待たず、綱吉は薮を飛び越えて広場側へ行ってしまった。
 取り残された格好となった獄寺は、制止しようとして結局伸びなかった自分の腕を呆然と見詰めてから、広げた掌を握ってそれを額に押し当てた。指を解き、額にかかる前髪を梳いて後ろへと流す。
 木漏れ日が淡く射し、薄闇の中で佇む彼を静かに照らした。
 面映げな表情を浮かべる彼は、どこまでも幸せそうだった。

2007/5/24 脱稿