はらはらと散る桜を見ていても、瞼の裏に浮かぶのはあの人の背中ばかり、で。
「十代目、おひとつどうぞ!」
「へ? あ、ああ……ありがとう」
気がつけば手にしていた紙コップが空になっている。気を利かせた獄寺が残り半分ほどになっているペットボトルを手に声をかけてくれて、我に返った綱吉は数滴の残りを飲み干して彼にコップを差し出した。
なみなみと注がれるオレンジジュースに視線を落とし、零れない程度で流れを止めてもらう。どうぞ、と促す獄寺の視線を受け、綱吉は苦笑しながら口をつけた。
甘い味がいっぱいに喉の奥にまで広がり、冷たさに背筋が震える。季節は春を迎えたといえまだ汗ばむほどでもなく、屋外でこうやって過ごすにはまだ若干寒さが残る時期だ。
頭上を咲き誇る桜は見事というほかなく、苦心の末手に入れた絶好のポイントに、集まった面々の喜ぶ顔を見るとこれでよかったのだろう、と思う。
少し離れた場所では子供たちが大声で広場を駆け回っている。木々が互いの枝に触れない程度の間隔で植えられており、かくれんぼや鬼ごっこには最適なのだろう。疲れを知らず走っている子供たちの巻き上げた砂埃には、桜の花びらがいくつも混じっていた。
「ツナ、どうした? 全然食べてないじゃないか」
声と同時に右肩に重みを感じ取り、綱吉は唇をつけた状態のままだったコップを揺らして僅かに前につんのめる。斜め後ろから圧し掛かられたのだと気づくのにさえ数秒の間が必要で、振り返った先に見つけた黒の短髪への反応もどこか鈍い。
前方に座っていた獄寺が、綱吉の背後に現れて馴れ馴れしく身体を密着させる山本に、なんともいえない怒りと悔しさが入り混じった表情を作り上げる。あ、ともう、ともつかない声を上げて、人差し指で山本を指し示すものの、当の本人は獄寺の反応など露とも気にかける様子が無かった。
顔を振り向かせた綱吉の目を至近距離から覗き込んで、どうした? と首を捻る。
「そう?」
「そうそう。さっきから全然箸も進んでねーじゃん」
折角お前の好きなものばっかり選んで、持ってきてやったのに。実家が寿司屋を経営している山本の言葉通り、彼が持ち込んだ花見弁当には綱吉が好物としている具材が多めに並べられている。けれどその大半が今も手付かずで残されていて、隙間は僅かしかない。
ひらり、と花びらが自然に舞い落ちる。視界の端を掠め、それは綱吉が膝元に置いたコップのすぐ脇に沈んでいった。
「具合でも悪いか?」
眉を顰めた山本が、更に身を乗り出して綱吉の顔に近づく。向こうから獄寺の悲鳴が聞こえたが、即座に飛んで来たリボーンの拳に彼は問答無用で黙らされてしまった。
山本の額が、前髪越しに綱吉の額に触れる。人を見下ろす視線を間近で感じ、綱吉は大丈夫だから、と苦笑した。
熱はないな、という山本の声がどこか遠い。
「だから、なんでもないって」
「そうか?」
ゆっくりと身を引いていく山本に曖昧に笑って告げ、言葉を実証すべく置いてあった箸に手を伸ばす。摘み上げた巻き寿司をひとつ口に運び入れ、オレンジジュースのしつこい甘さと一緒に飲みこんだ。
けれどそれだけでまた箸は止まり、胡坐を崩した膝元に落ちた手は所在無げに空気を掴んでいる。俯いた視線の先で散った桜の花びらをひとつ見つけ、何気なく指で拾って息を吹きかけてみた。
儚く揺れる淡いピンクが、見上げた先の空を埋め尽くしている。
この花は綺麗だ。綱吉はこの花を嫌いだという人に、いまだ嘗てめぐり合ったことが無い。
満開の桜の下で茣蓙を引き、花見に興じて騒ぐのは楽しい。去年、入学したての頃は友人も居なくて、公園の傍を通り掛ってもひとりだけで見上げるのはあまりに寂しすぎた季節が、今年はこんなにも大勢に囲まれて、賑やかに過ごせるのは嬉しい。
酔っ払ったシャマルがビアンキにちょっかいを出して、腹部にまともに蹴りを食らって倒れた。それでも彼は懲りずに彼女に向かっていって、けれどビアンキはリボーンに夢中。そのリボーンは逃げ惑うランボに遠距離射撃(ゴム弾だと信じよう)を行っており、ランボが泣きながら木の間を逃げ回っている。
その様を眺めて奈々が仲が良いわね~、と呑気に笑っていて、獄寺は何故か山本に喧嘩を売り、山本は受け流しつつ倒れてきたシャマルをも避けた。
綱吉ひとりだけが、浮かない顔をしている。皆と騒ぐのは好きで、本当に嬉しいと思っているはずなのに、気分が晴れないのは何故か。
理由は、分かりきっている。
ふらつきながら去っていくあの人の背中が、脳裏に焼きついて離れない。
だって、あの人が此処に居たのは、自分たちと同じように桜を愛でて時を過ごしたいと思っていたからだ。大勢で騒ぐのが嫌いな人だから、周囲を立ち入り禁止にまでして、ひとりで、桜を。
それはそれで寂しいな、と思うと同時に、あの人らしいな、とも思う。
場所争いは最初に決めたルールの結果、綱吉側に軍配があがり、彼は去った。
一緒にこの場所で、という選択肢は最初から無かったのだ。
だから気にすることは無い、そう考えて打ち消そうとしても、彼から楽しみのひとつを奪ってしまったのではないかという危惧は綱吉の気持ちを重くさせる。
「花見、したかっただろうにな」
しかもなお悪いことに、あの人はシャマルの所為で変な病気にもかかってしまった。病気の詳細は軽くしか聞いていないが、治らない限りきっとあの人は、ずっと花見が出来ないままだ。
ランボが手近な木に捕まり、幹を激しく揺さぶって花をわざと撒き散らしている。イーピンがとめようとするものの、彼の周囲には横揺れに耐え切れなかった花が雨の如く舞い散り、それはそれで綺麗な光景だった。
彼の下品な笑い声さえなければ、の話だけれど。
花吹雪にしばし見入り、綱吉は膝の上に落ちていた花びらを拾う。握り締めて腰を浮かせた彼は、四つん這い状態で獄寺と山本の間を抜けて寝転がっているシャマルに近づいた。
「あっ、駄目です十代目。そいつに近づいたら変な病気が伝染るっす!」
一方的に山本に掴みかかっていた獄寺だが、綱吉が行過ぎるのを見て即座に彼から手を離し、駆け寄ってくる。姿勢を低くしている綱吉の前に素早く回り込んで、その進路を塞いだ。
シャマルとの間に割り込まれ、綱吉は動きを止めて姿勢を正す。茣蓙に添えていた手を放して前傾姿勢を真っ直ぐ垂直に立てた彼は、そんな馬鹿な、と呆れ気味の表情を作って獄寺に首を振った。けれど銀髪の青年は至って真剣な顔をして、コイツに近づくのは危険ですから、と言って聞かない。
確かにシャマルは様々な病気を体内に「飼って」いるけれど、ちょっと話をする程度ならば問題ないはずだ。だのに獄寺は握り拳を作って振り回し、絶対にダメだと力説して憚らない。彼の背後では、寝転がっていたシャマルが、騒ぎ声に五月蝿そうに寝返りを打つ。
トナカイのように鼻の頭が真っ赤になっているシャマルの、常日頃から垂れ下がり気味の目が、更にだらしなく垂れて綱吉を見た。
「あの、さ。シャマル」
彼と目が合って、綱吉は再び上半身を前に倒した。
座り込んでいる獄寺の右側をすり抜ける格好で、シャマルに顔を近づける。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけ……どぉぉ!?」
「ツナちゅわぁ~~ん、おじさんといいことしてあそぼ~~」
質問事項を口にしようとした瞬間、酔っ払いとは思えない素早さでシャマルは身体を起こし、綱吉にしがみついてその上で彼が仰向けになるよう茣蓙に押し倒した。後頭部に衝撃を感じ、一瞬だけ綱吉の目の前に星が散る。状況が全く把握できなかった彼の鼻先に酒臭い息が吹きかかって、目も開けられない状態なのが余計に恐怖心を募らせた。
何がなんだか分からないが、身の危険をヒシヒシと感じる。冷や汗が背中を伝い、いったい何が起こったのかと自分の上に覆いかぶさる重みに、あげそうになった悲鳴を必死に飲み込んだ。
と、急にその重みが掻き消える。コンマ二秒後に、綱吉の直ぐ横で物が倒れる音と悲惨な男の悲鳴が。
「てめー、十代目に何不埒なことしてやがる!」
「大丈夫か、ツナ」
獄寺の声に続いて山本の声も聞こえ、ぶつけた場所の痛みを堪えながら綱吉は目を開けた。薄ら浮かんだ涙で濁った視界に、心配そうに自分を抱き起こしてくれる山本の姿があった。その後ろでは、獄寺が遠慮という言葉は何処にあるのだろう、という態度でシャマルをひたすら蹴り飛ばしている。
あの様子ではとてもではないが、シャマルに質問の答えを聞き出すのは無理そうだ。綱吉はその場に膝を開いて座り直すと、隙間に両手を置いて肩を落とす。思いつく表情は苦笑しかなく、唇を開くと勝手に乾いた笑い声が漏れた。
僅かに身体が震えている。シャツの下で鳥肌を立てた腕を交互に撫でさすり、綱吉は不安げに表情を曇らせる山本に首を振った。
「ツナー、ツナー。これ、これあげる!」
脱力している綱吉のシャツを引っ張って、注意を引こうとする子供たち。息弾ませて元気に満ち溢れた声を出し、ランボが振り返った綱吉の鼻先にずい、と何かを差し出した。
危うく目に突き刺さるところだったものは、満開を迎えた桜を一杯にまぶした枝だった。端から端まで、大体二十センチほどあるだろうか。ランボが掴んでいる方に千切った形跡が見て取れ、彼が手を揺らす度に衝撃を受けて花びらが何枚か散った。
折ってしまったのだろうか、この子は。悪戯好きなのは知っていたが、植物を傷つけるのは大目に見てやれる限度を越えている。長い息を吐き出した綱吉は、一瞬で地の底へ沈んだ気持ちを奮い立たせ、落ち着かせた。
「こーら、折ったらだめだろう?」
「ちがうもんねー、落ちてたんだもんねー!」
眉間に皺を寄せて渋い顔を作った綱吉が叱り付けると、ランボは鼻をほじりながら首を振る。
本当かどうかも甚だ疑問だったが、横に居たイーピンに視線で問いかけると、彼女はランボの答えを首肯した。改めて枝の具合を見てみれば、確かにしっかりとした太さもある枝だから、こんな子供が力任せに撓らせたとしても、そう簡単に折れそうにはない。
となると、考えられるのは見知らぬ誰かが意図的に折ったか、勝手に折れたか、もしくは先ほどの自分たちの乱闘の最中に折れたか、のどれか。
「……考えないでおこう」
時間と場所的に最後の想像が正解である可能性が非常に高く、だとしたらランボを叱るのは筋違いで、むしろ自分が公園を管理している組合に怒られなければならない。だから気づかなかったことにしよう、と頭の中で結論付けて、綱吉は鼻先で揺れている桜の枝を受け取った。
有難う、と微笑むとランボとイーピンは揃って顔を見合わせ、嬉しそうに頬を淡く染め上げる。桜は梅と違ってあまり香りがしないが、間近から見る薄紅色の花弁は清楚で可憐だ。
この花を、あの人にも見せてあげたい。記憶の中の背中を花の間に重ね合わせると、一瞬だけ彼が振り返ったような気がした。
「あのさ、ランボ、イーピン。ちょっと、手伝ってくれないかな」
握った枝をくるくると回しながら、綱吉は奈々から貰ったジュースを飲んでいるふたりの子供に声をかける。
「なになにー?」
こんなことを大っぴらに言えば、獄寺や山本から、それをいったいどうするのかとあれこれ聞かれるに決まっている。だから声を潜め、内緒だよ、と先にふたりへ釘を刺して好奇心を刺激させてひそひそ話を繰り広げた。
子供を相手に内緒の話をしている綱吉の背中を、その山本と獄寺は不思議そうに首を傾げてみている。シャマルは既に撃沈しており、リボーンはビアンキの膝で昼寝中だ。
風紀委員が去ったからだろうか、周囲の空いている場所に人の姿もちらほらと見え出している。賑やかな騒ぎ声は自分たちだけのものではなくなり、それが音の壁になって綱吉の声は頭を寄せ合う子供たち以外には聞こえなかった。
綱吉は奈々が作ってくれた弁当を包んでいた風呂敷を手に丸め、立ち上がる。茣蓙から出て靴を履き、ちょっと子供たちと遊んでくるね、とだけ残りのメンバーに告げた。
「じゃあ、俺も」
「いいよ、獄寺君。のんびりしてて」
子供の相手は嫌いだけれど、綱吉だけをお守りにさせるわけにはいかない。そう言いたげな獄寺を制して、綱吉は爪先で数回地面を叩いて靴の中に足をしっかりと納めた。口元に桜の枝を寄せ、視線を頭上に咲き乱れる花へと流す。
シャマルは、桜クラ病は、桜の木に囲まれると立っていられなくなるものだと言っていた。
では、桜の木でなければ?
「きっと、大丈夫……だよね」
酔いつぶれたのか、それとも獄寺に蹴られすぎて気を失ったのか、兎も角横になったまま動かない赤ら顔を肩越しに見下ろし、綱吉は少々自信なさげに呟く。
子供たちはその間も人ごみの間を駆け出していて、見失いそうになった綱吉は慌てて歩き出した。手にはランボに貰った桜の枝と、唐草模様の風呂敷が一枚。
「早く戻ってこいよー」
食べ物はもう残り少ない。正直満腹感は全然ないのだが、もう食べたいとも思わない綱吉は山本の声にひとつ頷いて返すのみ。不満顔の獄寺がちびちびと紙コップからジュースを飲んでいて、反対側からはランボたちの、綱吉を急かす声が響き渡る。
「今行く」
じゃあね、と軽く彼らに手を振って。
綱吉はそのまま花見会場には戻らなかった。
春休み期間中の学校は、実に人気がなくひっそりと静まり返っている。
「いるかなぁ……」
確か三年生だったはずの彼は、普通にいけば数日前に過ぎ去った三月で卒業している。けれど先程見た彼はまだ風紀委員の、獄寺曰く御山の大将をしていたし、腕章もつけたままだった。綱吉が知る限りでの彼の行き先は他になく、此処が外れだった場合何処を探していいのか分からない。
だから、出来るならここが最初で最後になりますように、と祈りを込めて、彼は閉まっている正門を乗り越えた。
四方をきつく結び合わせた風呂敷を大事に抱え、落とさないよう、そして結び目が解けないように注意しながら先を進む。
職員が学校に来ているのか、閉まっているかと懸念した正面玄関は右端のひとつだけが開いていた。そろり、と抜き足で中に入り込むが、静寂に包まれた屋内は存外に音が響いてどきりとする。
上履きに本来履き替えなければならないのだけれど、三学期が終了したと同時に自宅へ持ち帰ってしまっていて、一年生の頃使っていた靴箱は空だ。年度が替わって二年生になれば、靴箱の位置もまた変わる。名札も一斉に外され、がらんどうの玄関を見ていると妙に息苦しさを感じた。
「行こう」
軽く頭を振り、胸の中のものを潰さないように意識して下足を脱ぐ。記憶を頼りに自分が過去使っていた下駄箱の蓋を開け、案の定中に何も入っていない空間を見ては複雑な気持ちになりつつ、脱いだ靴を押し込んだ。小さくアルミ同士が擦れ合う音が微かに鳴り響き、肩を竦めた綱吉は慌てて顔を上げて周囲を見回した。
誰かに気づかれた気配は無い。むしろ学校には本当は誰も居なくて、偶々誰かが玄関も閉め忘れていたのではないか、と思えてくる。
それくらいに静謐さに満ちた空間には、生き物の気配が皆無だった。
「……いる、よね」
段々と自信が無くなってきて、声が震えて小さくなる。飲み込んだ唾の音の方が大きいくらいで、肩を落としながら力を抜いて息を吐き、冷たい廊下に靴下のままで綱吉は上陸を果たした。
学年が変われば下駄箱の位置も、教室も変わる。けれど何年経っても場所が変わらない部屋は幾つもあって、そのひとつに綱吉は向かった。職員室の前は避け、人に見付からないように注意しながら誰も居ない廊下を突き進む。足の裏の感覚が徐々に失せていくのは自分でも感じていて、そのうち冷たさも全く意に介さなくなってしまった。
一歩近づくにつれ、緊張で心臓が小さくなっていく。拍動は速まり、余計に怒らせてしまうだろうかという危惧は消えない。けれど此処まで来ておいて何もせずに引き返すのも癪で、意を決した彼は目的地の表札が見えたところで足を止めた。
深く息を吸い、吐き出す。
廊下に面した窓の外では、穏やかな陽気の下明るい日差しが地表に無数の影を描き出している。風は少なく、雨の気配は皆無。
ひとりだけ宴会の席を勝手に抜け出した自分を、皆はどう思っているだろうか。間に合えば片付けの夕刻には戻りたいところだが、それより前に自分が生きてこの学校を出られるかどうかかなり疑問。
「だ、……大丈夫、だよね?」
矢張り是が非でもシャマルをたたき起こし、確認してくるべきだったか。けれど彼に押し倒された時は正直言えば怖かったし、酒臭い息に混じる男の気配には寒気がした。彼が酔っ払った勢いで何をしようとしていたのか、考えるのも嫌だ。獄寺が言っていた言葉の意味がなんとなくだが理解できて、頭が痛くなる。
今度素面の彼に会ったら自分も一発殴っておこう、そう決めて綱吉は胸の中の風呂敷を両手に抱き直した。
柔らかな布の肌触りに、空気を詰め込んでいるのかと思える柔らかすぎるものが包まれている。これだけ集めるのはかなり苦労した、と作業風景を思い出してついつい苦笑が漏れた。
子供たちには後で礼を言っておこう、自分も自分で割と楽しかったが。
「さて、と」
いるかな、と首を僅かに右に傾がせ、綱吉はそろりと扉まで残っていた距離を慎重に進んだ。人の気配は相変わらずどこにも漂っておらず、閉められた窓越しに聞こえた鳥の声以外には自分の呼吸する音と、心臓の音くらいしか耳に届かない。どきどきと緊張に破裂寸前の心臓が痛くて、生唾を飲んで誤魔化した彼は風呂敷から右手だけを外し、丸めた手の甲でそっとノックをした。
一度。間を置いて、もう一度。
返事は、ない。
外れだったか、とショックを受けるよりも自分の早計さに苦笑いが零れる。単純すぎる自分の思考ロジックに、いかに自分が、あの人はこの部屋にいる印象が強かった強かったかを思い知らされた気がした。
あの人と言えば、この部屋。思えば初めての接近もこの部屋だった。あの時は、ドアをノックもしなかったけれど。
もう一度戸を叩いて、それで返事がなければ帰ろう。無駄足だったけれど、それも仕方が無い。肩を窄めた綱吉は溜息をひとつ吐き出して、握った拳をドアに添えた。少し浮かせて、さっきよりも音が大きく響くように力を込める。
コン、と軽い音が綱吉の拳を打ち返した。
「――誰」
誰何ではない、苛つきを内包した声が不意に耳を打つ。
低く抑揚の無い口調、不機嫌さを隠しもしない調子に、ズンと重く綱吉の心臓が震えた。思わず落とそうとしていた拳をまたドアにぶつけてしまい、そのまま肩から寄りかかる。すると締まりが緩かったのか、木製の扉はひとりでに綱吉を乗せて内側に開いていった。
悲鳴があがりそうになる。慌てて反対の手もドアに添えて身体を支えようとして、金属製のノブに爪先が引っかかった。急いで握る、右側頭部が派手に音を立ててドアに衝突した。
落としかけた風呂敷を慌てて胸に抱きこむ。押し潰された膨らみに結び目のすぐ横で隙間が出来て、中に詰め込んだものがふわりと何枚かあふれ出した。
目を見張る、薄紅色。
「うあ、あぁっ!」
咄嗟に手を伸ばして掴み取ろうとして、バランスを崩した綱吉はそのまま扉に沿う形で身体を滑らせた。反射的に防衛本能が働いたのか、風呂敷を抱えていた腕が勝手に下へと伸びて落下の衝撃を和らげようと動き出す。そして拘束を解かれた風呂敷は、目を見開く綱吉の前で宙に跳ねた。
無意識に逆らって左手を伸ばす、けれど届かない。床も直ぐそこに迫っていて、にっちもさっちも行かない状況で綱吉は先に訪れるだろう横転の衝撃に備えて、翳った視界を避けて目を閉じた。
奥歯を噛み締め、背中を丸める。引きつった喉の奥で漏れたのは、嗚咽か、それとも悔恨か。
自分はいったい何をしたくて此処に来たのだろう、痛い思いをしたくて来たわけじゃないのに。
何故だか急に哀しい気持ちになって、綱吉は喉に詰まった苦い息を飲み込んだ。そして予想していた痛みが全く訪れない現実に、気づくのが遅れた。
ふわり、と鼻腔を擽る太陽の匂いに。
本当に微かでしかない、花の香りが混ざりこむ。
「――っ」
近くで息を呑む人の気配がする。肩に感じた他者の温もりに、膝の裏が床を擦って踵が跳ねた。持ち上げた瞼の先には天井が広がり、風を受けて膨れ上がった濃緑の風呂敷が両腕を広げて、ピンク色の斑模様を灰色のカンバスに描き出していた。
舞い散る桜吹雪に、綱吉は咲き誇る桜の巨樹の幻を見た。
視界を影が塞ぐ、闇に慣れない瞳は即座にそれが何であるかを察知できず、伸ばした指先が桜の花びらの代わりに黒いものを擦った。サラサラと指の両脇に分かれて逃げていく、その先には翳っている所為で少し色が濃い肌色。
切れ長の瞳が、仰向けに寝転がっている綱吉を見ていた。
肩から背中にかけて感じ取る感触は、真ん中でくびれて深く凹んでいる。ぱさり、と微かな音と共に床に落ちた風呂敷と舞い散った桜の花びらに囲まれて、綱吉は微妙な空気に冷や汗を流した。あれ、と思ったのは自分の現在の状況に対してなのか、体勢に対してなのか、それとも別のものなのかが自分でも分からない。
そういえばノックの返事は、存外に近い場所から聞こえて来た。そんな遠い昔の出来事のような記憶を掘り起こし、綱吉は腕を下ろすことも出来ずに自分の顔を真上から逆さ向きに覗き込んでいる男を見上げた。
綺麗な顔、がほんの少しだけ、苦悶に歪んでいる。
「……君、は」
呟きには吐息が混じり、殆ど床に接する寸前の高さにある綱吉の睫を擽った。身を捩ると頭頂部にも何かがぶつかる感触があって、此処に来て漸く彼は、自分が彼の揃えられた膝の上に寝転がっているのだと気づいた。
綱吉がドアに寄りかかった瞬間、ひょっとすれば彼も内側からドアを開けようとしていたのかもしれない。
そのまま流れで室内に、バランスを崩したまま倒れこんできた彼を、床と衝突する寸前で受け止めてくれたのだろう。今頃になってやっと考えがそこに辿りつき、綱吉は指先に感じる髪の毛の柔らかさに焦りながらこの先どうしよう、と思案する。
いつまでも膝の上に居ては彼も迷惑だろう、けれど今このまま身体を起こそうとすれば間違いなく綱吉の頭は彼の顔面を直撃する。下か左右に身体をずらせば回避できるだろうが、それよりもまず、薄い唇を小刻みに震わせている彼の、言いかけたまま半端に止まっている言葉が気になった。
「あ、の……」
「君は、僕に喧嘩売ってる?」
「ひぃぃぃ違いますちがいますぅ!」
続けられた台詞に全身が竦み、綱吉は咄嗟に身体を横転させて彼の膝元から逃げた。
綱吉が動く度に床に散った無数の花びらが揺れ、一部は浮き上がって向きを替えてまた床に沈む。この部屋入り口近辺だけがまるで屋外の花園のようで、床を擦った手が無数の花びらに絡みつかれて綱吉は滑る踵で彼との距離を作る。ゆっくりと横向いた彼の表情は、矢張りどこか辛そうだ。
言葉には険がある、けれど目つきにいつもほどの迫力は感じられない。
「ヒバリ、さん……?」
「なに」
非常に緩慢な動作で己の、さっきまで綱吉が触れていた前髪を掻き上げた雲雀に、ひょっとしてという思いから綱吉は声をかける。
これくらいならきっと大丈夫だろう、と思い込んだ綱吉の読みが甘かった証拠だろうか。桜の木だけが駄目、という条件はどうやら当てはまらなかったらしい。
不機嫌に彩られた声色に臆しつつも、綱吉は膝を交互に動かして広げた距離を自分からまた詰めた。そして恐々ながら手を伸ばし、雲雀の髪に散った花びらを払い落とす。そのひとつを視界に納めただけでも彼は苦悶の表情を強め、本当に桜が駄目になってしまったのだな、と綱吉に痛いくらい教えた。
ごめんなさい、と呟く声は酷く弱々しい。
「あの、俺……ごめんなさい」
「何を謝るの」
「だって、その、ヒバリさんが桜ダメになったの、知ってたのに」
あの場所に朝早くから居た彼。
ひとりで桜を愛でていた、彼。
彼の決めたルールにより場所争いをして、勝ちを拾った綱吉たちに大人しく場所を譲った彼。
雲雀だって、本当は、花見をしたかっただろうに。
だからせめて、桜の木はダメでも、山盛りの花びらで、気分だけは、と思ったのだが。
それすら、綱吉の心遣いと優しさは、全て裏目に出てしまった。
叱られた子犬宜しく俯き、実際にはそんなものないけれど耳を伏して垂れ下げた綱吉に、雲雀は果たして何を思うのだろう。
自分の浅薄さが悔しくて、綱吉はきつく唇を噛み締める。勝手に涙が浮かんできて、泣きたくも無いのに一粒頬を伝っていった。鼻が詰まって息が苦しく、それを無理して吸い込もうとすれば変に音が響いて余計に哀しくなった。
口から吐き出した息は、熱を持っていて自分の思い通りにならない。
「君は」
反対側の瞳からも零れ落ちた涙が、雲雀の放った声に掻き消される。頬に触れられたのだと気づいて瞳を持ち上げると、予想外に近い場所に彼の漆黒に濡れた瞳があった。
怒りと困惑と綱吉の知らぬ感情が入り乱れ、微かに波立っている。
「……?」
「強かったり、弱かったり」
左頬全体に彼の右手が重なり、流れ込む体温に綱吉は目を丸くする。喧嘩に明け暮れているからさぞや傷だらけだろう、と思われた雲雀の掌は、しかし予想を裏切って表面は柔らかく、暖かかった。
「ヒバリ、さん?」
「本当に、良く分からない」
花見の場所争いでも、同じ事を言われた気がする。そう、あの時は確かこの後、とんでもなく物騒なことを言われてしまったのだ。
それなのに今は、綱吉を見る瞳の色はあの時とはまるで違い、鋭さを内側に隠して微笑んでいるようだった。
頬を撫でた右手の親指が、綱吉の目尻を擽って落ちて行った。顎のラインをなぞって首を引っ掻き、肩へと落ちてそこで止まる。軽い力で掴まれ、そのまま綱吉の体は斜め前に傾いだ。
見開いたままの綱吉の目に、雲雀の端正な顔がいっぱいに広がる。何がどうなっているのか、さっぱり理解できぬまま綱吉の思考は止まった。
「ヒバリさ――」
「ン」
音を発しようとしていた唇がなにかに塞がれ、それ以上続かない。吐き出した息はそのまま飲み込まれ、同じように吐き出された息を綱吉もまた飲み込んで、漸く、自分の口を塞いだものが掌だとかそういう生易しいものではないと知る。
濡れた音が耳の中から頭へと響いていって、動き止んだ思考回路がそのまま発熱してショートする。瞳に映し出される光景は一秒前となんら変わっていない、変化があるとしたら綱吉の肩を掴む雲雀の手が、ほんの少しだけ力んだことだろうか。
綱吉の唇に重なる暖かく柔らかなものが、意志を持って蠢く。隙間から差し出された更に熱を持ったものが唇の表面を擽り、閉じきらない隙間から中に入り込もうとしていた。
「ん、ウ――?」
状況把握が追いつかない綱吉が抵抗を示す前に、あっさりと鍵を開けてしまった雲雀の舌が、遠慮など一切弁えないで一気に綱吉の口腔内に侵入を果たした。歯列を左から右へと擽ったそれは、綱吉が反射的に口を閉じようとする前に彼の舌の表面を撫で擦って、あっさりと捕まえてしまった。
先端を窄めて突っつき、上に逃げた綱吉の舌を横から掬い取る。そのまま深く息を吸えば、綱吉は呼吸が苦しくなって喉を仰け反らせた。
むき出しの喉仏に、雲雀の左手が伸びてくる。生理的な恐怖もさることながら、意識が他を向いている最中に触れられて綱吉の背中に鳥肌が立った。鼻で息を吸おうにも手順を体が忘れてしまって上手くいかない。苦しくて首を振っても、強く吸い付いてくる雲雀は簡単に彼を放してはくれなかった。
「ンゥ、ッ……」
さっきとは違う意味での涙が頬を伝う。腰から背中にかけての皮膚が粟立ち、床の上に落ちた手が痙攣を起こして指先が引き攣る。逃げ出したいのに身体がいう事を聞いてくれない。
けれど不思議なのは、花見の席でシャマルに押し倒された時のような嫌悪感が、まるで浮かんでこないことだった。キスされた、という衝撃は胸を突いたが、それが嫌だ、という気持ちは全く沸き起こらない。
どうして雲雀が自分にこんなことをするのかが分からなくて、頭が混乱しているだけ、なのだろうか。
「ヒバ、リさっ……ン」
懸命に首を振って合わさりを解き、いつの間にか目を閉じていた自分に驚きつつ綱吉は必死に言葉を紡いで彼を止めようと両手を前に突っ張らせる。けれど元々横暴極まりない彼が、そんな小さな抵抗で綱吉の思い通りに動いてくれるわけがなく、肩を掴んだ手でぐいっと前に引っ張られ、折角逃げたのにまた最後まで名前を言わせてもらえなかった。
彼はよく人に向かって咬み殺す、なんて言うけれど。
本当に殺されてしまいそうなくらいに、貪欲に綱吉に食らいついて放さない。
「っぅ……」
下唇に歯を立てられ、ちくりとした痛みに喉が鳴る。飲み下せない唾液が口腔から溢れて顎を濡らし、それを雲雀の左指が逐一拭い取っていく。生ぬるい感触に肌を探る感触が合わさって、なんとも言えない気持ちになる。
自然と浮き上がる膝が左右で合わさって、彼を突き飛ばそうとしていた筈の手がいつの間にかその彼のシャツを掴んでいる。他に頼るものが無い綱吉の両手は、自分を好き勝手にしている男の胸を軽く叩いてそのまま深く皺を刻ませていた。
綺麗に洗濯された上に糊が利いて、ぱりっとアイロンも当てられた白いシャツに、綱吉の細い指が絡んでいる。表面を滑った左手が藻掻くように彼の肩や胸板を打っていたら、綱吉の肩を解放した彼の右手がその動きを封じ込めて指を掬い取った。
指の股に指を差し入れて、握られる。
「んぁ……、ふっ、ん……」
そのまま雲雀は綱吉を更に自分の側へと引っ張るものだから、首の位置と上半身の位置とが若干ずれ、重なり合ったままだった唇が僅かに逸れた。良いように吸われていた綱吉の舌先が表に現れ、滑りと共に甘い輝きを彼の目に映し出した。
イチゴのシロップでもまぶした後のような赤い色を自分でも感じ取り、瞬間サッと頬に朱を走らせて綱吉は目を逸らす。舌も一緒に引っ込めようとしたのに、追いついてきた雲雀の前歯が制して浅く噛み付いてきて、その痛みに首が窄んだ。
ちりっとした電流に近い痛みが、膝の裏から腿にかけて駆け抜けていく。
心臓の痛みは治まらず、ばくばくと激しく打ち付ける様は滝壺に真っ逆さまに転落していく水の勢いを思わせる。本当にこのままでは彼に殺されてしまいそうで、綱吉は懸命に、最早自分のものなのかどうかも分からない唾液を一息に飲み込んで浅く息を吐いた。
濡れた唇を、雲雀の舌がなぞっていく。
甘い音を微かに響かせ、最後に上唇を吸って彼は離れた。
自分は、自分たちは。
こんな風に桜の花びらに囲まれて、いったい、何をしているのだろう。
頭の中がぼーっとしたままで、考えがまとまらない。疑問は溢れるのに答えはひとつも見いだせなくて、綱吉はまだ潤んだままの目で呆然と目の前に涼しい顔をして佇む男を見上げた。
黒髪の隙間から、情欲に濡れた瞳が綱吉を射抜く。捉えられたままの左手が、痛い。
「ヒバリ、さん……?」
「嫌なら、逃げなよ」
触れるか、触れないかの距離。薄い皮膚を掠める吐息に紛れ込ませた彼の言葉に、綱吉は目を見張り、そして息を呑む。
雲雀のシャツを滑り落ちた右手が床でひっくり返り、手の甲に花びらが触れた。
桜。
美しく華やかであり、儚くも風雅な、そして雲雀を立てなくする、魔性のそれ。
「今の僕なら、弱い方の君でも簡単に逃げられるだろう?」
くっ、と喉の奥を震わせて笑う男の瞳に魅入られて、綱吉は動けない。
逃げる。
どこへ?
何故。
誰から?
答えられないで居る綱吉の瞳を覗き込んで、漆黒に浮かぶ微かな輝きが妖しく色を放つ。
答えなど見いだせず、ただ茫然自失としたまま綱吉は彼を見返した。深い琥珀色が波打ち際のように絶えず揺れ動き、困惑を全面に出したまま雲雀を見据える。乾燥した瞳が水分を補おうべく瞬きをしようとして、微かに動揺した首が前方に流れた。
吐息以外のものが肌を掠め、綱吉は咄嗟に身を引いた。
「――!」
そのまま彼から離れようとするのに、捕まれたままの左手が邪魔をして思い通りに行かない。拳の裏側に触れた桜の花びらの柔らかさと、骨にまで食い込みそうな雲雀の力強さにうち拉がれて、綱吉は瞼を閉ざすのも忘れて動けば触れる距離感に目眩を覚えた。
試すように、同じく瞬きを忘れて綱吉を見つめる黒曜石が、あまりにも目映い。
「ひば……」
「逃げないの?」
今一度確かめる声を紡ぎ出し、彼はそのまま首を前へと倒した。
濡れた音が耳の奧のみならず身体全体にまで響き渡り、綱吉は自分が水の中に落とされてそのまま沈んでいく錯覚に陥った。黒々しい闇の中で、ただ雲雀だけが唯一形を持ち、自分が触れられるものとして存在している。
「……っ、んん……」
触れては離れ、離れてはまた噛み付かれる。良いように舌を吸われて擽られ、だらしなく開ききった口腔からは唾液が溢れ出して綱吉の喉のみならず襟をも濡らし、感覚を著しく麻痺させた。気付かぬうちに自分からも合わさりを求めて喘ぎながら息をつき、雲雀のシャツに食い込む指は凍えている時よりもずっと頑なだった。
放すものか、という意思が、本人の意図にそぐわないところで彼を突き動かしている。
「本当に、君は」
酸素を求めてしどけなく濡らした唇を開いた綱吉の、その柔らかな下唇に歯を立てた雲雀が、くっと喉を鳴らしながら囁く。
ぞくりと綱吉の背筋が震え、細い頸部を撫でた雲雀の指が肩から滑り落ちていくのをまざまざと感じとる。まるで彼が触れた部分から目に見えないものが膨れあがり、綱吉の皮膚を切り裂いて血をまき散らしていくようで、暖かな温もり以外の鋭敏な感覚に綱吉は背筋を震え上がらせた。
噛み付いたばかりの場所に舌を這わせ、下から舐めあげた雲雀が感覚の異変に瞳を閉ざした綱吉を嗤う。
「強いのか、弱いのか、よく分からない子だから」
見ていて、そして、一緒にいて。
少しも退屈する暇がないね。
そう言った彼は綱吉の顎をするりと撫でて持ち上げ、猫をあやす仕草で彼の意識を自分へと引き寄せた。
音ばかりが響く口づけをして、綱吉の鼻筋にも咬みついて、最後に自分が傷つけた場所を舐めて彼は離れた。綱吉は最早抵抗らしい抵抗もみせず、自分が今どういう状況に置かれているのかさえ理解出来ずにいた。
ただ分かる事は、雲雀にこういう事をされても、さしていやではない、という事実だけ。
嫌悪感に勝る感情が、恐怖なのか、それとももっと違うものなのか、その判断さえつかないまま、綱吉は雲雀を見上げた。
薄い笑みを浮かべる彼の口元に視線が集中し、濡れた赤い唇と舌の動きに翻弄されて頬が朱に染まる。慌てて瞳を泳がせて目を逸らすと、鋭く感づいた雲雀が伸び上がって今度は綱吉の短い前髪を梳きあげると同時にそこへも口づけを落とした。
子猫が戯れるが如く、眉間を、眉尻を、瞼を、それから頬に落ちてまた唇へ。淡いキスの連続に、綱吉は吸った息を吐くのも忘れて身体の奥からわき起こる意味不明の熱を堪えた。
ぎゅっと目を固く閉ざして力んでいると、まるで慰めるように唇に触れた雲雀の舌が表面を擽り、開くように無言のまま促してくる。
「――ンっ」
鼻からこぼれ落ちた吐息は甘えを含み、婀娜な色合いを漂わせてふたりの間へと落ちていった。絡み合った指先に力が籠もり、引きつった指先が雲雀の皮膚を掻いて肩が震えた。
口腔から引きずり出された舌の表面を舌でなぞられ、軽く歯を立てられる。鈍い痛みと、そして艶めかしくも妖しい輝きを放つ濡れた己の舌先に息を詰まらせ、その向こう側にいて人を好きなだけ弄んでいる男を見た。
自分は、多分、ではあるけれど、雲雀と、こうやるのは、……恐らく、でしかないけれど、嫌では、ない。
そして雲雀は、自分がいやな事は徹底的に嫌って、実行に移したりしない身勝手極まり無い人物で。
なら、彼もまた、自分にこういう事をするのを、いやではないと、思っているのだろうか。
問いかけを含ませた視線を流せば、彼は誤魔化すように綱吉の視界を塞いで伸ばされた綱吉の舌先を唇で淡く挟み、先端を擽って離れていく。
答えの代わり、ではないと思うのだけれど。
「君は本当に、面白いから」
喉を擦り、雲雀が嗤う。細められた切れ長の瞳が、抵抗を忘れた綱吉の心臓を貫いて有無を言わさず首を縦に振らせた。綱吉の左手を持ち上げて丸められた指の背にも同じように口付けて、舌を伸ばしわざと見せつけるように表面を舐めあげる。
生ぬるい上に柔らかな感触に、腰が浮きそうな程に背中が震えた。
俯き加減の雲雀が、上目遣いに戸惑いを露わにしている綱吉を見る。
ひっそりと囁かれたその言葉の意味は、果たして。
「だから君は、僕だけのものにしてしまおう」
殺す、よりももっと貪欲で身勝手な言葉に。
けれど綱吉は何も答えられず、ただ雲雀の零した唾を飲み込んだ。
2007/4/7 脱稿