碧空

 朝、家を出ようと玄関で靴を履いていた綱吉は、後ろからスリッパが床を叩く音が接近してくるのを聞いて手を止めた。
「ツーくん」
「なに?」
「今日、お昼から雨が降るみたいよ」
 段差に腰を下ろし右足の靴紐を結んでいた綱吉は、両手を足元に伸ばしたまま背筋を伸ばして振り返る。奈々は濡れた手をエプロンで拭っており、彼が出て行こうとしているのに気づいて慌てて追いかけて来たのだろう。
首を持ち上げて伸び上がった綱吉の目を見返しながらそう告げた彼女は、皺だらけになったエプロンから手を伸ばして閉まったままのドアを指差した。促されるままに綱吉も奈々から外に通じる出入り口に視線の向きを替え、はてと首を捻らせる。
「雨?」
「午後からの降水確率、七十パーセントなんだって」
 目覚めた時に何気なく見やった窓の外は、綺麗に晴れ渡って青い空と白い雲のコントラストが眩しかったと記憶している。とてもではないが雨が降り出す予兆はそこに感じ取れなくて、綱吉は首を傾げたまま奈々を見返した。
 けれど彼女は至って真剣な表情を崩さず、傘を忘れずに持って行きなさいね、と念押しをして憚らない。
 靴紐を結ぶ作業を手早く終わらせた綱吉は、腰に預ける格好で傾けていた鞄を持ち、肩に引っ掛ける。肘と脇腹との間で落とさぬようにしっかりと挟み、つま先を交互に玄関のコンクリートに打ち付けて靴の具合を確かめた彼は、このまま見送ってくれるつもりの奈々に行ってきます、と小声で告げて片開きのドアを開けた。
 人工的な光から、太陽が照らす自然の光へ。視界を一瞬白く焼く陽光に瞳を細めた綱吉は、持ち上げた左手を庇の代わりにして眩しさを耐えた。足元にはエントランスの屋根を支える柱の細長い影が伸び、雲間から覗く太陽は今日も見事なくらいに元気いっぱいだ。
 奈々が主張する雨の気配は、微塵とも其処には存在しない。
「母さん……」
「でも、天気予報で」
 傘なんて要らないよ、と言いたげな目を向ける愛息子に、それでも彼女は実年齢よりも若く見える顔を曇らせて、口元に手を当てながら後ろを窺い見た。
 テレビの天気予報が午後からの雨を伝えていたのだろう、けれど空の模様を見る限りその予測は外れて終わりになりそうな予感がひしひしと伝わってくる。傘なんて邪魔になるだけだと億劫に構える綱吉は、もう一度前方に広がる青空を見上げて肩を竦めた。
 奈々がサンダルに爪先を引っ掛けて彼の横に並ぶ。彼女も困ったわね、と頬に手を頬に置いて呟いた。
「平気だって」
「でも、ツー君運が悪いから」
 傘を持っていかずに外出して見事に大雨に降られ、ずぶ濡れになりながら帰宅した翌日にはお約束の風邪を引いての高熱。過去の出来事を(それも複数回だから始末が悪い)引き合いに出され、押し黙った綱吉は若干恨みがましい目つきで奈々を睨んだ。
 もっとも天然気味の性格で飄々としている彼女は息子の視線に楽しげに笑うだけで、怖い顔しても駄目よと玄関内部へ戻り、靴箱横の傘立てにささっている濃紺の傘を引き抜いた。その昔奈々が名前シールを貼ってくれたお陰で、中学生にもなってと赤っ恥をかかされた傘だ。
 今でも綱吉が剥がしたシールの痕が持ち手の根元に僅かに残っていて、持って行きなさいと突き出されたそれを渋々受け取った彼は糊の残骸を親指の爪で削った。
「降らなかったら持って行くだけ無駄じゃないか」
「でも降ってから持ってこなかったのを後悔するよりはいいでしょう?」
 転ばぬ先の杖よ、と日本古来の慣用句を引き合いに出し、遅刻するから早く行きなさいと奈々は豪快に綱吉の背中を押した。危うくエントランスの段差から落ちて転ぶところで、綱吉は必死に息を止めて前に傾く体を支えると持っていた傘を前方に突き出した。
 細長い傘を杖代わりにしてバランスを取り、着地する。これこそ本当に転ばぬ先の何とやらで、楽しげに微笑んでいる奈々をねめつけた綱吉だったが、授業開始までそれ程余裕が無い現在時刻を思い出し、慌てて門柱を抜けて道路へと駆け出した。
「いってらっしゃーい」
 にこやかな笑顔を絶やさない奈々が手を振って見送る。左腕に鞄、右手に傘を持った綱吉が庭を囲むブロック塀に阻まれて見えなくなってから、彼女は陽射しを遮っている屋根越しに澄み渡る青空を見上げた。
 お洗濯物、どうしようかしら。本当に降るなら外に干さない方がいいわよね。そんな事を心の中で呟き、台所作業に戻るべく奈々は玄関のドアを閉めた。

 
 午後、昼休みも終わり満腹感と倦怠感が同居する憂鬱な英語の時間。
 発音の悪い日本人教師の長文を子守唄代わりに聞いていた綱吉は、頬杖をつきながら欠伸を噛み殺す最中にゴロゴロ、という不穏な音を耳にして眉間に皺を寄せた。
 自分の腹の調子が悪いのだろうか、なんて思わず背筋を伸ばし俯いて皺だらけのシャツを見下ろすが、違和感は特になく痛みも全くない。おかしいな、と視線を持ち上げて教師が教卓に教科書を置くのに合わせて頬杖を解いた彼は、自分以外にも物音を聞いた存在が何人かいることに気づいた。
 親指と人差し指とで軽く挟み持っただけのシャープペンシルを顎の前で揺らし、少しだけざわめいている教室前方を眺める。窓際の列前から四番目の席に座っている綱吉が、黒板をむいたまま確かめられるクラスメイトの数などたかが知れているが、それでも窓に近い席に座っている生徒ほど反応が顕著だった。
 そのうち綱吉の目の前に座っている女子が妙に外を気にする素振りを見せるものだから、綱吉もまた揺らしていた銀色のシャープペンシルの動きを止めて窓の向こう側へと視線を流した。
 透明なガラスに反射する教室の明りと、自分の顔。逆向いた幾つもの人影越しに広がる空は薄暗く、西側が特に雲が分厚い。あれ、と思ったのは午前中飽きるくらい姿を見せていた太陽がいつの間にか消え去っていたからだ。
 上空は風の流れが速いのか、雲の動きも非常に滑らかだ。学校を取り囲む樹木の枝が大振りに揺れているのが見えて、綱吉は表情を険しくする。
 蘇った奈々の言葉が的中したのか、どんよりとした色合いの雲は空の低い位置で次第に範囲を広げつつあった。
「さわだ、沢田」
「へ?」
 不意に名前を呼ばれ、間をおかずにコホン、という咳払いが間近から聞こえて来た。
 油断しきりといった状態、綱吉は姿勢を正して窓から反対側の教室内部に目を向け、睡魔に負けて落ちそうになっていた瞼をめいっぱい持ち上げた。
 外を気にしていた生徒までもが綱吉を振り返り、クスクスと含み笑いを漏らしている。ひとりずつの声は小さくても、複数人ともなれば笑い声は相当に響くもので、恥かしさに顔を真っ赤にした綱吉はすみません、と消え入りそうな声で呟いていつの間にか真横に来ていた英語教師に謝った。
「ここ、テストに出るからなー。ちゃんと聞いておけよ」
 丸められた教科書で軽く頭を叩かれ、綱吉は「はーい」と返し膝に落とした手を机に戻した。気づいた頃には折れてなくなっていたシャープペンシルの芯をノックし、板書をしに戻っていった教師に意識を集中させる。
 しかし一度気にしてしまったものはなかなか頭の中から出て行ってくれず、ちらちらと窓の外に目を向けては、時間が経つにつれて色合いを濃くして空を覆い尽くしていく厚い雲の動向を追っていた。
 そこには午前中の陽気な青空の名残も掻き消えて、鬱陶しさと憂鬱さが同居する嫌な気配が漂っていた。雨が降り出すにはまだ時間がかかりそうだが、遠くに稲光らしき光が一瞬だけ駆け抜けるのも見えて、放課後までには雷雨が並盛にまでやってくるだろうと予測できた。
 傘を持ってきて正解だった、奈々の押し付け的な親切心に今は感謝しつつ、綱吉は黒板にチョークで記された文字をノートに写し取っていった。先生が話す注意点も、耳についた部分を拾い上げて端っこの空白に書きとめ、埋めていく。
 試験前に広げたとき、何を聞いていたのだろうと自分でも不思議に思える乱雑なノートではあるが、少なくとも真面目に聞いている素振りをしておけば授業中怒られることもない。左肘を立てて頬杖をつき、再びこみ上げてきた欠伸を零しながら右から左へ流れて行く教師の声に耳を傾け、時折忘れた頃にノートを取る。
 授業が終わるまでの十分間をそうやって過ごし、チャイムが鳴ると同時に解放されたと腕を頭上に投げ放つ。がやがやと騒ぎ始めたクラスメイトに呆れた顔の教師が授業の終了を宣告し、教科書を閉じた。
 短い休憩を挟み、この日最後の授業が始まる。
 その最中、授業の半分ほどが経過した頃だろうか。綱吉は見上げた窓の片隅に雨雫をひとつ見つけ、深々と溜息を零した。
 降り始めこそ大人しかった雨脚も、段々と激しさと勢いを増していく。これの何処が降水確率七十パーセントなのだ、と愚痴のひとつでも気象庁に言いたくなる雨空には雷鳴までもが轟き、バケツをひっくり返したような豪雨は土の運動場を一瞬にして巨大な水溜りに変えてしまった。
 グラウンドを使っている運動部の練習は当然ながら中止、体育館を使っている剣道部他に気兼ねしつつ端のスペースを借りて基礎トレーニングか、もしくは完全に練習は中止か。野球部はどうやら前者を選択したようで、ホームルームが終わる頃に巡回して連絡をくれたマネージャーに頷き、山本はじゃあな、と手を振って去っていった。
 他の級友たちも、雨空を見上げては帰るのが億劫だなと言い合い教室を出て行く。傘を持ってきていた生徒は思った以上に多く、置き傘として学校に置いてあった折り畳み傘を手に取る生徒も数名見かけた。
 綱吉もまた、奈々に持たされた自分の傘を傘立てから引っこ抜き、右手に握り持つ。この土砂降り具合では、傘を差した程度で雨粒を完全に防ぎきれるとは思えない。ただ鞄の中身くらいは守り抜けるだろう、と重くも軽くもない傘を手に階段を下りて正面玄関へと向かった。
 上履きから下足に履き替え、横に広いエントランスに出る。軒を伝って排水溝に流れ込む水の勢いは凄まじく、滝を流れ落ちていく水音の唸りにも似て耳に響いた。屋根から伝ってくる雨水だけでなく、グラウンド方面から流れてくる分も混じっているので、茶色に濁った水が濁流となって排水溝に吸い込まれていく光景は圧巻だ。
 綱吉は担いでいた鞄が落ちないようにしっかりと肩に預け直し、帰ろうと視線を斜め上に向けて傘を両手に持ち直した。ブレザーの裾が揺れ、湿り気を含んだネクタイが腕に絡まる。
 唐突に奔った雷鳴に、傘を広げようと金具に親指を置いたところだった綱吉は瞬間全身を硬直させ鳥肌をたてた。数秒の間を置いて地鳴りを伴う轟音が全方向から彼を包み込み、綱吉の肝を容赦なく縮めこませる。萎縮して悲鳴をあげたのは何も彼ばかりではなく、今まさに雨の中に突き進もうとしていた女生徒が飛び上がってエントランス内側に戻ってきた。
 ざわめく玄関は人が密集し、熱気で若干気温も高い。早く外に出て行けと後ろに続く生徒は声をあげるが、今の雷光に驚いた面々はなかなか外に飛び出す勇気が持てずにいる。綱吉もそのひとりであり、斜めに構えた傘をそのままに呆然と立ち尽くし、口腔を濡らす唾を三秒後慌てて飲みこんだ。
 乱暴に肩にぶつかられ、つんのめる。上級生らしき大柄の生徒が荒っぽく傘を広げてエントランスから出て行くのを見送った面々のうち数名が、彼に続けというわけでもないだろうが、諦め気味に傘の花を広げて大粒の雨が降りしきる外へと足を踏み出した。
 泥水が跳ね上がり、靴やスラックスの裾が容赦なく汚されていく。バシャバシャと水が跳ね飛ぶ音が行き交い、いつもは雑談に興じる女生徒も今日ばかりは静かだ。
 またね、ばいばい。手を振り合って正門を出て行く生徒の背中を幾つも見送って、綱吉は長い時間をかけて全身の硬直を解いた。
 自分も帰ろう、気を取り直して思いを新たにし、傘を広げる。が、無地の紺色が目の前に広がったところで彼は視界の端にあるものを見つけ、出しかけた足を引っ込めた。
 脇を通り抜けようとした生徒が、傘を広げたのに歩き出さない綱吉にぶつかりかけ、寸前で慌てて左へと避けた。すれ違い様に舌打ちまでされてしまい、自分がいかに通行の邪魔になっているかを思い出した彼は急ぎ端へ避難する。
 広げたばかりの雨傘を閉ざし、身体を反転。その先、銀色のフレームに覆われたガラス戸の正面玄関に寄り掛かるようにしながら立っている見慣れた姿を視界に収め、綱吉は肩を竦めた。
「獄寺君」
 呼びかけても直ぐに反応は無い。銀色の髪を頬に流した彼は、トレードマークの煙草も咥えずにぼんやりと雨空を見上げている。緩く曲げた左膝から下を右足に重ねるようにして立ち、右肩を支点にして壁に凭れている。日本人離れした顔立ちは真剣な表情のときほど際立つが、今のようにどこか物憂げな表情もまた、女生徒にしてみれば彼の魅力のひとつなのだろう。
 綱吉は大股に距離を詰め、再度彼を呼ぶ。今度は少し声を大きくして。
「ごくでらくーん」
 おーい、と完全にトリップしてしまっている彼に向かって伸び上がり、手を振る。視界に動くものを見つけた彼は瞬間瞬きし、瞳から得られる情報を素早く脳へと送り込んでそれが誰であるかを判断した。
 憂いを帯びている、と表現されそうな顔を一変させ、獄寺はハッと息を呑むと目の前に立っている綱吉に大仰に驚いてみせた。
 もし彼の後ろに広いスペースがあったなら、踵を擦りながら後ろ向きに下がってどのまま土下座でもしそうな雰囲気が漂う。だが実際には彼の立ち位置は壁際の角に近く、前を綱吉に封じられていて逃げ場は何処にも無かった。彼はきょろきょろと挙動不審気味に立ち往生し、行き場のない持ち上げた両手を胸の前で結ぶともじもじと指を絡ませた。
「獄寺君?」
「すみません、十代目。ボーっとしてたみたいで」
 それは言われなくても分かっている、と二度も呼びかけたのにまともな返事をしなかった数秒前の彼を思い出し、綱吉は頭を掻いた。
 雨の所為で湿度も上昇し、エントランスはムッとしている。いつもまとまりがない綱吉の髪の毛だが、今日はまた一段とまとまりに欠けて跳ねも大きくなっており、指にまとわり付く薄茶色の髪を宥めて彼は肘を引いた。
 獄寺もまた腕を下ろし、小脇に抱えた鞄を居心地悪そうに揺する。薄っぺらく潰された彼の鞄には何も入っていないのか、見た目からはまるで重さを感じない。彼は規定外の色シャツの裾をスラックスの外にはみ出させていて、ポケットにはチェーンで繋いだ鍵やらなにやらが押し込められている。鈍い光を反射させる銀色の鎖の羅列を見下ろし、綱吉は彼の手には帰宅に必要な備品がないことに気が付いた。
 彼は、傘を持っていないのだ。
 なるほど、それでこんな場所で待ち惚けていたのか。納得気味に頷いた綱吉を怪訝に見返し、獄寺は目に被さろうとする前髪を鬱陶しそうに払いのけた。
 綱吉の後ろを、複数の人が行き過ぎていく。その殆どが学校から自宅へ帰ろうとする人の群れであり、過半数が手に大なり小なりの傘を持っていた。
「帰らないの?」
 こういう質問は意地悪だろうか。綱吉は過ぎていく人波を横目で眺めながら彼に問いかける。
「……もうちょっとしたら、帰ります」
 数秒の間をおき、声を潜めた彼はそう答えた。綱吉に向けた瞳を脇へ流し、ガラス戸一枚を隔てた先にある外を眺めて、彼は綱吉が気付かないとでも思っているのか、密やかな溜息をひとつ零す。
 帰らないのではなく、帰れないのだと素直にそういえばいいのに。
 けれどそれも、彼なりのプライドなのだろう。声をかければ幾らでも女子が傘を貸したりしてくれそうなのに、そうしない。止むかどうかも分からない雨を見上げ、ひとり佇んで。
 綱吉が声をかけて現実に戻されるまでの間、何を思っていたのだろう、彼は。
 自分もまた雨の行方を見送り、右手に握った傘を強く意識する。肩を揺らして片方外れかけた鞄の紐を整えていた綱吉に、前髪を掻き上げた獄寺が言葉を紡いだ。影になりがちな玄関の一画に立っている獄寺に気づいた女子がひとり、恥かしそうにしながら足早に去っていく。
「十代目は、その……まだお帰りには?」
「帰るよ」
 やや控えめな調子で問いかける彼にあっさりと断言し、脱力する彼に笑いかけた綱吉はほら、と自分が持つ傘を彼に指し示した。
「だからさ」
 一緒に帰ろう? そう瞳で告げる。
「そんなっ、十代目に傘をお借りするなんて」
 しかし何を勘違いしたのか、獄寺は声を上擦らせて背中を壁に押し付けた。綱吉との距離を取ろうとしているようで、両手を前に突き出して大きく首と一緒に横へ振り回す。
「何、言ってるのさ。貸すわけないだろ?」
 外は豪雨、時々雷混じり。
 傘は綱吉が握っているその一本だけ、探せば誰かが忘れていった傘があるかもしれないが、望みは薄いだろう。
 小降りになる様子は今のところ、皆無。夜が更けても降り続ける可能性も否定しきれず、まさか学校で一泊するわけにもいくまい――どこかの風紀委員長ではあるまいし。
 読みが外れた獄寺は一瞬ぽかんと口を開けて惚け、綱吉は若干憤慨しながら彼の腕を取った。布地に指が滑り、危うく掴み損ねかけたのをどうにか爪に引っ掛けて握り直し、引っ張る。
 帰宅時間のラッシュはとうに去り、正門を潜り抜けていく人の数は極端なくらいに減っていた。
 それもそうだろう、誰だってこの雨の中用事もないのに学校に居残りたいとは思わない。振り返った校舎内部は静まり返り、誰かが歩く足音が反響して雨音に紛れながら微かに聞こえて来た。
「十代目?」
 引きずられるように靴底をコンクリートに擦りつけた獄寺の声に顔を上げる。綱吉は落ちかけた自分の鞄を持ち直し、エントランスの端で足を止めた。濡れて色が濃くなったコンクリートの段差に視線を落とし、獄寺の腕を放した彼は濃紺の雨傘を両手に構えてパッと広げた。
 軒をはみ出た傘の一画が、降りしきる雨を弾く。手首に感じ取った圧力に肩を竦め、綱吉はほら、と斜め後ろで惚けたままの獄寺に手を差し出した。
「帰ろう?」
「でも、それじゃ十代目も濡れてしまうのでは」
「別にいいよ。獄寺君だってこのままじゃいつまで経っても帰れないだろ?」
 言いながら綱吉は早く、と獄寺を手招く。それでもまだ躊躇している彼に、本当において帰ってやろうかという気持ちも過ぎったが、自分で自分の考えを拒否し綱吉は先に一歩前へと足を踏み出した。
 薄く地面に広がった水溜りがぱしゃん、と跳ねる。先にスラックスの裾を折り曲げておくべきだったかと足元から顔を上げた綱吉は、困惑気味に眉根を寄せている獄寺にいい加減痺れを切らし、今度こそ彼の腕をしっかりと握って自分の側へ引き寄せた。
 泥が勢いよく跳ね、勢いをつけすぎた獄寺の左肩が綱吉の傘の柄にぶつかった。衝撃で危うく傘本体を落としかけた綱吉は急ぎ握りを強くしてやり過ごし、窮屈そうに半身を傘の下へ納めた獄寺を見上げて満足げに頷いた。
 その獄寺は若干の居心地の悪さと、胸元に佇む綱吉との距離の近さに戸惑いながら視線を宙へ浮かせている。頭上に響く傘を打つ雨音が彼の心音を掻き消してくれているのだけが、救いだった。
「じゃ、行こう」
 呑気に構えている綱吉はそう言い、先に立って歩き出す。綱吉からも傘からも置いていかれそうになった獄寺は、ここで付いていかなければまた綱吉は怒るだろうな、と間近にいる彼の肩と細い首筋を見詰めて思った。
 だからできるだけ彼に歩調を合わせ、ゆっくりと進む。綱吉も最初の数歩は獄寺の様子を窺いつつ慎重に進めていたけれど、相手が自分に合わせてくれているのだと気づくと少し豪胆になったようで、自分のペースを取り戻し二人並んで正門を潜り抜けた。
 傘を打つ雨の勢いは止まらない。重力に引かれる雨粒は大きく力も強く、時々斜め後ろに傾けて表層に張り付いた雫を落として、綱吉はついでとばかりに視線を灰色に覆われた空へ流した。
 見ているだけでも陰鬱な気持ちになれそうな重い色をしている。鉛色とでも言うのだろうか、何重にも折り重なった雲がゆっくりと流れて行き、その間に時々雷鳴が奔る。ただ空を貫く音は学校にいた頃よりも大分遠くなっていて、嵐の山場は過ぎ去ったのだろうと綱吉は思った。
 傍らを見上げる。獄寺も同じ方向に目を向けていて、窮屈そうに肩をすぼめながら長い脚を交互に繰り出していた。
 冬でもないのに空気が冷えているからか、吐く息が白い。足元はぬかるんだ泥の大地からアスファルトで黒く固められた場所へ移ったけれど、細かな凹凸にもぐりこんだ雨水はその場に留まり、小さいものから大きなものまで多々水溜りを形成していてかなり歩きづらかった。
 綱吉が右に避けようとしても、左にいる獄寺は脚の長さを利用して一気に超えていこうとする。傘の下から取り残された獄寺の半身が冷たい雨に晒され、気づいた綱吉が慌てて足を止める、なんていう事も何度かあった。
 そもそも傘を持っているのが綱吉の為、彼よりも背が高い獄寺は頭が閊えてしまう。何度も頭頂部がむき出しの骨組みに擦れているし、金属の継ぎ目に銀髪が絡まると引っ張られて痛い。
 雨傘に幾度となく内側から頭をぶつける獄寺には、綱吉も気付いている。明らかに肩の位置が違う身長差が恨めしくもあり、彼は浅く唇を噛むとまた傘骨に即頭部をぶつけた獄寺を横から見上げた。
「十代目」
 悔しいな、と拳ひとつ分違う視線の高さを拗ねていた綱吉は、左耳から入って右耳に抜けていった獄寺の声に直ぐに気づかなかった。
「十代目、俺が」
 歩く調子は変えず、獄寺が前を見たまま言葉を連ねる。持ち上げた右腕、プラスチックの柄に指を置いた彼の体温にどきりと心臓が跳ねた綱吉は、その場で反射的に足を止めてしまい行き過ぎた獄寺の左足がまともに雨を浴びた。
 スラックスの腿の部分が水気を吸い、変色して彼の脚に張り付く。綱吉の驚きように獄寺もまた硬直し、道路の真ん中でお互い見詰め合ってしまった。
「え、あ、な……なに?」
 素っ頓狂に頭の上から飛び出したのではないかと思える高音を喉に滑らせた綱吉の赤い顔に、獄寺もまた頬を薄く朱色に染めて左手で左の頬を引っ掻いた。
 中空に漂い、行き場のない彼の右手が綱吉の握っている柄の部分よりも随分と上を掴み取る。そんなに驚かなくても、と内心ショックを受けた彼はそのまま冷たく細い金属の柱を握り締めて上に引っ張った。
 問答無用で綱吉から傘を奪い取る。真上に持ち上げただけだが雨雫が大粒の塊になって幾つも端から落ちて、近くの水溜りに沈んでいった。
「獄寺君」
「俺が持ちます」
 するりと柄から抜けていった綱吉の手、まだ奪い返そうと空を掻いている彼の指ごと綱吉を見下ろした彼は静かにそう言い、握る位置を下に移して傘を構え直した。
 親指に違和感を覚え、少しだけ右にずらす。剥がし損ねた糊の形跡を見つけ、これはなんだろうと首を捻ると見ていた綱吉が腕を下ろしながら何故かそっぽを向いてしまった。
「十代目?」
「なんでもない」
 急に怒り出して、わけが分からない。素っ気無い言葉を返されて困惑が強まった獄寺だったが、触れられたくないのだろうと自分を無理やりに納得させて疑問を腹の奥へ呑み込んだ。いきましょう、と促し傘を縦に構える。自分の身長に合わせられる分、スペースに余裕が出来て獄寺は胸を撫で下ろした。
 ただ、左肩が冷たい。こればかりはどうしようもないな、とぎこちなく握る傘をやや右に傾けて獄寺が苦笑する。
「獄寺君?」
「はい」
「……傘」
 男物の傘であっても、中に入っているのが中学生男子ふたりだと広さが足りない。横並びになるとどうしても両者の外を向いている肩がはみ出てしまう、それは仕方の無いことだ。
 だのに獄寺に傘を預けて以降、綱吉の右肩は雨に濡れなくなった。脇で支える鞄の外側に雫が散る程度で、冷える一方だった右肩は体温を取り戻しつつある。
 その代わりに、獄寺の左肩の濡れ具合が酷くなっていた。彼は綱吉から傘を奪い取ると同時に、そのスペースの半分以上を綱吉に譲り渡してしまったのだ。自分が濡れるのを厭わず、綱吉を庇っている。彼のジャケットは今やかなりの水気を吸って色を濃くし、重さを増していた。中身の薄い鞄もびしょ濡れで、内側にまで雨は染みこんでいるかもしれない。
 これでは彼と傘を共有する意味がない。短い言葉に沢山の事を詰め込んだ綱吉の視線に、獄寺は肩を竦めて大丈夫ですから、と笑う。
「でも」
「平気です。それより十代目、濡れてませんよね」
 どこまでも自己犠牲を貫こうとする獄寺に、綱吉の苛立ちは益々募っていく。彼には分からないのだろうか、綱吉は獄寺が濡れるのを嫌だと思ったからこそ、一人用の傘を敢えてふたりで使う方法を選び取ったというのに。
 獄寺と一緒に傘をさして帰ると決めた時から、綱吉は少しばかり濡れるのは覚悟していた。でなければあんな申し出などしないに決まっている、それでなくとも男子同士での相合傘状態は結構恥かしいのだ。
 綱吉は俯く。歩みを止めてしまいたいのに、獄寺は構わずに進み続けるから立ち止まることも出来ない。
 獄寺の問いには返さず、彼は己の足元に跳ねる飛沫ばかりを見ていた。バラバラと頭上で不協和音を奏でている雨が五月蝿い。怒鳴り声をあげたい気持ちに駆られ、綱吉は右の拳を固くした。
「やっぱり、俺が持つ」
「十代目?」
「傘。貸して」
「いえ、これは自分が」
「いいから!」
 左手を伸ばし、獄寺の肩にぶつかるようにして傘を奪い返そうと綱吉はもがいた。けれど獄寺だって「はい、分かりました」と素直に返すような性格をしていない。
 彼はその場で伸び上がり、綱吉の手を避けて傘を頭上に押し上げた。耳元に反響していた雨音が若干遠くなり、飛び散る飛沫を背中にも感じるようになる。左右に大きく傾く傘から零れる雫がひとつ首筋を伝い、獄寺はひゃっと小さな悲鳴を上げて息を呑んだ。
 それでも彼は傘を手放さない。少しでも綱吉に雨がかからないようにこんな時でも気を配っていて、余計に苛立ちを膨らませた綱吉は両脚を揃えて飛び上がり、柄部分を握っている彼の手を思い切り叩き落とした。
「わっ」
 短い声があがり、驚きの色に染まった獄寺の首が後ろを向いた。
 斜め下から加えられた力にバランスを崩した傘が彼の手から離れ、ゆっくりと傾く。一瞬間だけふたりの間に静寂が訪れ、直後にザーッと言う豪雨が彼らを包み込んだ。傘が水溜りの上で一度跳ね、柄を上にして道路に転がった。
 頭の先から、肩から、胸にも背中にも、ズボンにも靴にも水が染み込んでいく。泣きたい気持ちは雨と一緒に押し流されていって、綱吉は苦しそうに息を吐いて吸うと強い調子で呆気にとられている獄寺を睨んだ。
「十代目……」
「これで、おあいこでしょ」
「風邪引きます」
「君だけが風邪を引くくらいなら、これでいい」
 喋っている間にも制服はどんどん水を吸い、重く張り付いてくる。吐く息が白く濁り、頬を伝うのが雨なのか涙なのかももう分からなくなっていた。
 ふたりして、往来のど真ん中、傘を手放して濡れ鼠。通り過ぎる人たちは皆、一様に変な顔をして去っていく。水溜りを避けた人の背中を視界に収め、綱吉は水気の所為で垂れ下がってきた髪ごと頭を振り、獄寺を押し退けて彼の背後に転がった傘を拾い上げた。
 斜めに持つと、内部に溜まった水が滝のように落ちていく。防水加工をしてあっても、内側にもぐりこんだ水気までは弾けない。濡れた柄が滑らぬように握り直した綱吉はほら、とまだひとり雨の中立ち尽くしている彼に中へ入るよう促した。
 もう傘があってもなくても、同じような状態だけれど。
「十代目、俺」
「君が良くても、俺が嫌なの。分かる?」
 一方的に守られるだけなんて、遠慮したい。獄寺だって綱吉に同じ事をされたら断固として拒否を示すだろう、それくらい分かるはずだ。
 垂れ下がった前髪から雫が滴り落ちていく。ほら、といつまでも動かない獄寺に再度傘を傾け、綱吉はふと顔を上げた。
 遠く、遠く空の彼方。少しずつ軽くなる腕を伝う雨の勢いに、吐き出した息はもう白くなくて。
「獄寺君」
 水分を含んだ風が地表を、そして上空をゆっくりと撫でていく。押し出された雲が東へと去り、綱吉は肩を竦めて仕方ないな、と自分から一歩彼に近づいた。
 密になった人の気配に顔をあげた彼は、少し色が濁ってしまった銀髪を頬にべったりと貼り付かせている。手を伸ばした綱吉は指でそれらを丁寧に剥ぎ取り、脇へと追い払ってやりながら微笑んだ。
「君に守られるばっかりは、嫌だから。でも、気持ちは嬉しい」
 有難う、と囁くと彼はさっと頬に朱を走らせる。漸く自分がいかに恥かしい行動を取っていたのかを自覚したらしく、返答に窮した彼は綱吉が近づく度に一歩後ろへ下がり、飛沫を散らして髪を振り乱しては首を何度も横回転させた。
 自由の利く手を丸めて口元に寄せ、綱吉が尚も笑う。くすくすと声を潜めながら肩を揺らして、彼は獄寺の頭上からスッと傘を引いた。下に向け、両手を使って傘を閉じる。
 驚いたのは獄寺で、腰を引いた状態のまま空を仰ぎ見て目を瞬かせた。顎のラインを水滴が撫で、喉仏が小さく上下する。鼻の頭に最後の忘れ形見だと雨雲が落としていった雫がひとつ落ちてきて、獄寺はそのまま息を飲んだ。
 いつの間にか空は晴れ、数分前の豪雨が嘘のように消え去っていた。東を向けば遠くで雨が降り続いている気配がするが、並盛町の嵐は去ったらしい。カラッとした風がずぶ濡れのふたりを取り囲み、笑いながら雲を追いかけていった。
「獄寺君、見て。ほら」
「え?」
 呆気に取られた獄寺の脇を綱吉の声が走る。真っ直ぐに南の空を指差した彼を追って首を巡らせた獄寺の瞳に、鮮やかな青に架かる虹の橋が映しだされた。
 住宅地の真ん中故に、端から端までの全景までは見えない。けれどたとえ一部だけでしかなくても、雨によって汚れを洗い流された青空に輝く虹はあまりにも綺麗で、獄寺は言葉を失いその場に立ち尽くした。
「止んだねー」
「そう……ですね」
「大人しく待ってれば良かったのかな」
「……いえ」
 乾いた空気が降って来る空に掌を差し伸べた綱吉の言葉に、獄寺はトーンを落とし気味の声で首を振った。名残の雫が飛び、綱吉の首筋を刺す。横を向いた彼に獄寺もまた微笑みを浮かべた。
「帰りましょう」
 雨が降らなければ気づけなかったことがあった。雨が降らなかったら、あの虹も見られなかった。
 だから、これでいい。
「……だね。帰ろう」
 呟きながら目を閉じた獄寺へ、少しの時間を置いて瞳を細めた綱吉が頷く。
 手を差し伸べれば無言のうちに握られて、冷えた身体に熱が流れ込んだ。暖かい、と安堵の息を漏らすと嬉しそうに獄寺は笑みを浮かべ、それを見て綱吉も嬉しい気持ちになった。
 黒々と濡れたアスファルトに燦々と光が注がれる。眩くキラキラと光を反射させ、大きな水溜りには反転された青空が閉じ込められていた。
 白い綿雲が頭上を、そして綱吉の足元を流れて行く。傍らを窺い見た綱吉は、目が合った先の獄寺に悪戯っぽく微笑むと、彼の手を捕まえたまま空に向かってジャンプした。

2007/3/4 脱稿