all the Time

 物置を覗いたら、いつもの場所に釣竿が無かった。
 誰か使っているのかと思って宿に残っているメンバーを数えてみたら、廊下ですれ違ったアロエリにセイロンが持って出て行くのを見たと教えられた。
「なんであいつが?」
「知らん」
 思わず聞き返した彼女に素っ気無く言われてしまい、今夜は魚料理で誤魔化そうと思っていたのに出鼻が挫かれてしまってライは頭を掻き毟った。
 それともセイロンが釣り上げてくるだろう魚に期待して待っていようか、だが本来の持ち主であるライに断り無く竿を持ち出した彼の意図が分からない。忙しいライの代わりに食材を確保してこよう、という意気込みがあるのであれば、ライにひとこと断ってから行くのが普通では無いか。
 それとも魚が大量の籠を持ち帰って驚かせるつもりなのか、はたまた釣果がさっぱりだった場合を考えて何も言わなかったのか。可能性は色々と頭に浮かぶが、どれも根拠が無いので結論は出ない。どの道中央通へ買い物にいくつもりだったから、その帰りに寄り道してみよう。
 この辺りで釣りに適している場所は限られている。まさか北のルトマ湖まで釣竿片手に出向いているとは思えない、近場のため池辺りを探せばきっと見付かるに違いない。彼のあの燃えるような赤髪は、遠くからでも充分目立つから。
 ライは気を取り直しキッチンへ戻ると、食材や調味料の残量を確認して手際よくメモにまとめていった。買い物に行こうとすると、大抵リュームが一緒に行きたがるのだけれど今日はそういえば寄ってこない。遠くからはアルバだろうか、剣術の練習をしているのか威勢の良い掛け声と剣戟が微かに聞こえているから、ひょっとすれば彼がリュームの相手をしてくれているのかもしれなかった。
「これでよし、と」
 細かな文字でびっしりと紙一面に必要事項を書きつけ、ライは満足げに息を吐くと肩から力を抜いて首をゆっくりと回した。
 少し量は多いが、帰りにセイロンを捕まえれば問題ないだろう。既に彼を荷物持ちに使うつもりでいるライは、作ったメモを二つ折りにしてポケットへ押し込み、荷物を入れる籠を手に取ると駆けて庭へ飛び出した。
 郊外に在る宿から町へはそれなりに距離がある。緩やかな下り坂の大きなカーブを曲がり、穏やかな日差しに恵まれた道を彼は少し急ぎ気味に進んだ。
 訪れた町の中心部は人で溢れ返る、とまではいかないものの、賑わいは相変わらずだ。軒先には様々な食材や品物が並べられ、店主は威勢の良い掛け声を張り上げながら行き交う人にアピールを繰り返している。その中でライは通い慣れた店を何件か回り、メモを頼りに、時には気まぐれも働いて手元に残る金額を頭の中で計算しながら必要なものを買い集めていった。
 見る間に籠の中はいっぱいになり、腕にずっしりと重く圧し掛かる。これは買いすぎたかな、とメモの最下部に書き込んでいたものを籠に押し込んだライは、自分自身に苦笑しながら肩を揺らした。
「いつも有難うね」
「こっちこそ」
 縦にも横にも大きい女性店員に愛想よくされ、ライも得意の営業スマイルを浮かべて軽く会釈してから踵を返した。
 この店は割りと他に比べて安く販売してくれるから好きだった、ただ恰幅の良すぎる彼女は話が長いのでも有名で、一度捕まって日が暮れるまで延々喋りかけられ続けたことがあった。だからさっさと方向転換、また来てねと手を振る彼女の見送りを受けてライは中心部から真っ直ぐ北に伸びる道を進みだした。
 商店区画の端を抜ければ、其処から先はもう住宅地だ。石を積み上げて作った垣根が道の両側に広がり、赤や緑の鮮やかな屋根がそこからはみでて空に臨んでいる。中心部から放射状に住居区画は広がっていて、その北の端がため池だ。そこから西へ行けばブロンクス邸が聳え立っている。
 細々とした家が立ち並ぶ住宅地の道からでは見えないが、ため池の近辺までくれば障害物も少なく、あの方形をした城は否応がなしに視界に入ってくる。そういえば最近小言を聞きに行っていない、近いうちに顔を出してくるかなと少しサボり気味の帳簿を思い出して溜息が零れた。
 広場としても整備されているため池周辺では、散歩している人の姿も若干ながら見受けられた。水辺に腰を下ろしてうららかな陽射しに寛いでいる人もいる、中には裸足になって水深もさほど無い場所で水遊びに興じている子供もいた。
 ライは視線を巡らせ、長閑な午後を演出している水場を見回した。けれど何処を探しても釣竿から糸を垂らしている赤い髪に着物姿の影はなく、ひょっとしてもう戻ってしまった後だろうかと彼は両手で抱えた籠の重さにげっそりしながら口を開いた。
 赤い舌を覗かせ、体内にこもる熱を吐き出す。額に浮かんだ汗はなにも陽射しが温いからだけではない、もっと薄着をしてくればよかっただろうかと思っていた最中、足元を一陣の風が吹き抜けていった。
 汗ばんだ肌に空気の流れが心地よい。思わず背筋を伸ばして胸を反り返し、深く息を吸い込んで吐いた彼は両手の重みも一瞬忘れて、鼻腔から喉に落ちていった甘い花の匂いにアメジスト色の瞳を細めた。
「あーああ」
 当てが外れた、と足元の小石を蹴り飛ばす。セイロンがこの辺りにいると思ったからこそ、重いのも我慢して大回りをしてここに立ち寄ったのに、これでは意味が無いではないか。戻ったら愚痴のひとつでも零してやらないと気がすまない。
 とはいえ、落ち合う約束をしていたわけではないのだからセイロンに非は無い。彼を責めるのは筋違いも甚だしいのだが、ライは悔し紛れにもうひとつ石を蹴り上げ、水面に向かって落ちていくそれを視界の端で見送った。
 ちぇ、と唇を尖らせて足を空振りさせる。もう蹴り飛ばすものは残っていなくて、代わりにすっぽ抜けた右足の靴が大きな弧を描いてやはり水面目掛けて飛んでいった。
「うあっ」
 やばい、と思った頃にはもう遅い。自分の行動の迂闊さを鈍いながら、ライは片足でぴょんぴょん飛び跳ね靴を追いかけた。
 両手に重い荷物は途中で諦め、地面に置いて靴だけを探しにいく。まさか本当に池に落ちてしまってはいないだろうか、と危惧したが、予想外にそれは生い茂る草の合間からあろう事か飛んで戻ってきた。
 蹴り放った時よりも小さな放物線、地面に落ちるとそのまま横倒しになって寝転がった自分の靴を真下に見て、ライは何が起こったのか分からずにその場で立ち惚けた。まさか靴がひとりでに戻ってきたわけはなく、よくよく注意深く水辺の茂みに目を凝らしてみると、幾重にも重なり合った緑の中に赤と黒のコントラストが紛れているのが見えた。
 靴に爪先を押し込み、踵を踏み潰す。数歩戻っておいていた籠を取り戻したライはそのまま、なんでもない顔をして草葉に埋もれている人物の横に並んだ。
 何も言わず、そのまま膝を曲げて腰を下ろす。
 彼の反対側に荷物が詰め込まれた籠を置き、脱げた靴を履きなおしたライはそのついでに彼の足元にあるバケツの中身を覗き込んだ。
 ……空だ。
「セイロン?」
「なんだ」
 釣竿はバケツの横に、寝転がっている彼の体に添うようにしておかれている。糸の先は竿に絡んでいた。
 名前を呼んだものの、彼は生返事で視線は全くライに向かない。両腕を頭の後ろで交差させて枕代わりにし、頭上高く流れ行く雲の行方をただ追いかけるばかりだ。
 僅かに曲げられた膝、右のそれに左の足首が重なり、爪先は力なく投げ出されている。なんだか変だなとライが感じたのは間違いなくて、彼は靴を脱いで近場に放置していた。片足分がひっくり返って靴底が天を仰いでいる。
 何をしているのかと問いたくなる、けれど聞くに聞けない雰囲気を感じ取ってライは怪訝に眉を寄せた。
「釣りは?」
 釣竿にバケツ、そして此処はため池。みっつを関連付けて導きだされる結果はひとつしかない、けれど彼はその作業を放棄している。一応やる気はあったのかバケツに水は張られていたが、中にはメダカ一尾も泳いでいなかった。
「ああ」
 再び、生返事。
 温い風がふたりの間を抜けていく。やる気の無さが伝染しそうで、ライは頭を振りセイロンの袖を引いた。
「セイロン」
「ん」
 ライは正座していた足を両側へ広げて崩し、身を起こした彼から手を引いた。そのセイロンは両腕を腰の後ろに添えて地面に押し当て、つっかえ棒代わりにして上半身を起こした。背中や髪から千切れた草がはらはらと零れ落ちていく。
 いつから彼はここにいたのだろう、その間ずっと何もせずに空を見上げていたのか。
「少し考え事をしておってな」
 風が吹くたびにため池の水面が静かに波紋を広げる。魚が跳ねたのだろうか、ちゃぷんと水が音を響かせた。
「お前が」
 似合わない、と言外に告げたライに、彼は乳白色の角を生やした頭を振り、失敬なと笑った。怒っている気配は其処に無く、だから彼自身も、もしかしたらこんな風に住処を離れ、ひとりぼんやりと時間を過ごすのは似合わないと思っていたのかもしれない。
 ライは追求せず、かといって半端な相槌も返さずにセイロンから視線を外し彼方に流した。子供達の歓声は遠い、風の唸りが耳の奥で渦を巻いている。緩やかに揺らぐ紫銀の前髪を上目遣いに眺め、ライは曲げた膝に肘を置いて頬杖を付いた。
「我をなんだと思っている」
 少し間が空いてしまった為、セイロンが何に対してそう言ったのか分からなかったライは、きょとんとした顔で首を曲げた。頬に添えていた指が動きに合わせて折れ曲がり、カクリと関節が転げる感触がする。
「え?」
「店主」
 人の話を聞いていなかったのか、と若干勢いを強めた視線で咎められ、ライは少し前の会話を頭の中に呼び起こした。
 考え事が似合わない、確かにそう言葉足らずに告げた事実が蘇る。
「あ、ああ。ええっと」
 ごめん、と軽く頭を下げて謝り、顔を上げ、それからライはセイロンの顔を改めて見詰めた。
 赤い髪、縦に細長い猫目もまた赤。故に髪の隙間から覗く枝分かれした角の存在が際立つ。未来の龍人族の長、気まぐれな旅人。義理人情に厚く、感情に流されがちかと思えて実際は思慮深く冷静沈着。だが普段の行動は一概にその限りだとは言い切れず、どちらかと言えばちゃらんぽらんな性格をしているように思われる。
 豪快に笑って、豪快に敵を蹴り飛ばし、図々しく、豪胆で、細かい事は気にしない。場当たり的な行動も多く、騒動を自ら招き寄せてはそれを楽しんでいたりする。
 傍からすれば、いい迷惑。
 ついつい日頃の愚痴も漏れたライの感想に、聞いていたセイロンは次第に顔を渋くして最後はがっくりと肩を落とし、両膝の間に顔を埋めてしまった。
「店主、それはあまりにも酷くは無いか」
 もう少しライの中で評価は高いと思っていただけにショックを隠しきれず、眉間に皺を寄せた彼は声を震わせてそう言った。
「本当のことじゃん」
 大体最初の出会いからしてそうだったのだ、今更簡単に覆せるものではない。
 確かに少しずつ改善されてはいるものの、結局のところあの街中でのひと悶着で見た、鮮やかな赤色の印象が強すぎるのだ。
 ライは頬杖を崩し、直接膝に頬を押し当てた。セイロン越しに見える緑が揺れ、顔を覗かせたリスが周囲を警戒しながら走っていく。猫の鳴き声が何処かから流れてきて、捕まるなよと心の中で小さく祈った。
「しかし、だな……」
「大体、考え事って何だよ」
 納得がいかない風情のセイロンが呻くので、ライは笑って肩を揺らし尋ねた。背中へ流したフードのファーが首筋を撫でる、くすぐったい。
 セイロンは上半身を起こして姿勢を正し、草の上に座りなおして袖に付着していた草を払い落とした。指先の動きひとつにも悠然さが感じられ、彼は本当に育ちが良いのだと分かる。尊大で傲慢なところもあるけれど、決して相手を侮らず、また蔑んだりもしない。状況を一歩下がった場所から冷静に見詰められる目を持っている彼は、きっと良い長になるだろう。
 その時、自分はどうしているのか。想像して、思いつかなくて、ライは頬に膝が食い込むのも構わずその姿勢のまま首を横へ振った。
「そうよの……」
 ライの質問を受け、セイロンは腰帯から閉じた扇子を取り出すと房の飾りを指に絡ませ反対側を顎に押し付けた。
 赤い髪、赤い着物、赤い扇子。
 赤い瞳。
 闇の中でも際立つ、獣の色。
「昨晩の漬物は美味であったが、少し塩が利き過ぎていたから分量を変えねばならぬな、とか」
 ゴン。
 視線を空に向けて真剣な表情を作るから、どんな難しいことを考えていたのかと思いきや。
 その辺の酔っ払いの亭主と大して変わらない思考に、崩れ落ちた頭を地面で打ち付けたライは苦悶の表情を浮かべ両手で患部を抱き締めた。
「店主?」
「そ……そんなことかよ!」
 それを不思議がる顔でセイロンが見下ろすものだから、両手を地面について身体を勢い任せに起こしたライは瞬間頭が眩み、反対側に体が揺れてそのままセイロンの肩に寄り掛かった。支えを得て、少し気持ちが和らぐ。ただ急に怒鳴ったのもあって、頭の中では鐘が威勢よく五重奏を奏でていた。
「何を言うか、店主。漬物の塩加減は大事なのだぞ」
 そもそもセイロンも、反応するところが違う。確かに塩ひとつまみだけでも味が大きく変貌してしまうのは、料理人のライも重々承知だ。けれどわざわざため池の、人気も疎らな場所に出向いてまで考える内容がそれとは。
 正直がっかりだ。
「他にもあるぞ。そもそも店主、おぬしは米の焚き方が甘い。僅かに芯を残しながら日に透かせば透明に輝くくらいにだな」
 急に熱弁をふるいだした彼に、ライは話半分も聞く気になれず曖昧に苦笑して全て受け流した。
 何かが根本的に間違っている気がする、矢張り彼に深いものを期待した自分が馬鹿だったのだろうか。愛想笑いもいい加減疲れてきて、ライは脱力仕切った身体をセイロンから引き剥がした。
 直後。
「あとは……あの日、何故」
 横を向いた彼がぽつりと零した、消え入りそうな呟き。
「え」
 反対に顔を上げたライは、白い彼の横顔を呆然と見詰め、それから膝の上の拳をきつく握り締めた。
 あの日。
 明確にいつのことなのか、セイロンは言わない。けれどライには分かる、彼にとっての「あの日」はラウスブルグが燃えた日以外ありえない。
 守るべき場所を失い、守るべき守護竜を失い、守るべき同胞からは裏切られ、寄る辺をなくし、途方に暮れた日。
 辛うじて守り通した希望に縋り、己自身を生かす事に腐心した日。自らの信念の為に生き長らえる道を優先し、数多の同胞の手を振り払った日。
 流れ星の奇跡、偶然を装った誰かの掌に踊らされる必然と言う名の運命。
 幾多の出会いも、また。
 誰かによって定められた結果が目の前に展開しただけのこと。
「いかんとは分かっているのだがな」
 もしも、が頭の中から離れない。
 足元の草を千切ったセイロンは、細く長い緑の葉を風に晒す。当て所なく揺れる数枚の葉は、数秒の間をおいて地表に掻き消えた。
 もし、敵襲にもっと早く勘付けていたなら。
 もし、守護竜が徹底抗戦を唱えていたなら。
 もし、あの場にライの父親がもっと早く駆けつけていたなら。
 もし、もっと自在に戦える屈強な肉体を保持していたなら。
 もし、あの場に留まり戦い抜く決断をしていたなら。
 もし。もしも。
 過ぎた時間は戻らない、それはセイロンだって充分に分かっているはずだ。
 失われた命は戻らない、もしもの可能性に縋るのは愚かでしかない。けれど考えてしまう、あの時ああしていれば、こうしていれば、今とは違う未来が手に入ったのではないかと。
 今よりもより良い今があったかもしれないと。
「我も、まだまだ修行が足りぬ」
 ひとりになるとどうしても考えてしまう、色褪せぬ記憶とともに瞳に焼き付けられた炎。
 ラウスブルグが今も健在で、長閑で平和にあの場所に留まり続けている自分たちを夢想して、現実との落差に悲嘆する。
 ライは肩を揺らした。膝に置いた己の両手に自分の息を吹きかける。暗く沈んだ視界に瞳を揺らし、己の胸元を頼りなく探した彼はふっと、はるか遠くへ意識を飛ばした。
「でもあの日がなかったら俺はお前に会えなかった」
 溜息のように唇から零れ落ちていったことば、想い。心の中にあっても重い枷を嵌められて決して人前に姿を見せることがなかった醜くも純粋な感情。
 凪いだ風に水面が撓む。突き刺さる陽射しを首に受け、ライは一瞬後、己の吐き出した言葉に驚いて目を剥いた。
 セイロンもまた声を失い、呆然とライを見返す。
「え……」
 上げた顔、真正面に紅蓮の髪をした青年。見開かれた瞳に驚愕の色を感じ取り、ライは広げた両手で己の唇を覆い隠した。
「俺……今俺、へんなこと――」
 変なことを言った。
 覆らない過去をただ懐かしみ、手に入らない可能性へ虚しく手を伸ばす行為はライも好きではない。目の前にある現実を受け入れ、そこからどうすればいいのかを考えるのが彼の性格であり、生き方だ。だからセイロンの想いは理解できるが、共感できない。
 けれど今の発言は、自分でもだめだと分かる。痛すぎる失敗だった。
 不謹慎だ。失われた命を指差してそこから導かれた今に感謝すら抱いているようなこと、想っていても口にするべきではないのに。
 ライは口元を両手で隠し、違う、と首を何度も横へ振った。
 そんな意味はない、そんな意図があったわけではない。けれど不適切だったし、軽率だった。言うべきではなかった、言ってはいけない想いだ。ラウスブルグが燃えて、沢山の人が巻き込まれ、命を失い、帰る場所をなくし、リュームは親である守護竜と見える機会を永遠に失ったのに。
 ライも母親を幼少時になくしている、だから親がいない不安や孤独は誰よりも理解している。それなのに、なんて馬鹿なことを。
 馬鹿な思いを、胸に抱いたのか。
「店主」
「ごめ……ごめん、俺、俺馬鹿だ」
 どうしようもなく愚かで、浅薄で、馬鹿な子供。
 ライは首を振り続けた。目の前からセイロンの声が響き、手を離すように言われても彼はやめない。手首をつかまれ強引に引き剥がされても、今度は目を硬く閉ざしてセイロンと視線を合わせようとしなかった。
 拒絶されるのが怖くて、自分から拒絶する。
「ライ」
 無意識に零れ落ちた本音、本心。隠しようの無い気持ち、今となってはもう、彼に会えなかった自分が想像出来ない。彼と離れてしまう未来が想像出来ないと同じくらいに、彼と共に在る今が当たり前の現実になってしまっているから。
 だから、過去が変わってしまうのが怖い。
 彼に依存している自分に気づく、今更彼の手を放せない。
「ライ、顔をあげてくれ」
 掴まれた手首が痛い、そこから伝わる熱が苦しい。優しく囁きかけてくる声が辛い、鼻先を掠める吐息が苦い。
「やだ、嫌だ。俺、オレ」
「ライ」
 わけも分からぬまま涙が頬を伝う、赤ん坊みたいに駄々を捏ねて彼を困らせる。振り解こうと持ち上げた肩、けれど力負けして逆にねじ伏せられて掌に草の葉を感じた。傾いた上半身、倒れこみそうになった身体をセイロンの腕が支える。
 強引に重ねられる唇に息が詰まる、反射的に見開いた瞼に涙が滲んでいて視界がぼやけていた。近すぎる位置にセイロンの髪が踊っている、隙間から覗いた彼は目を閉じていてそれが何故か寂しかった。
「んんっ……や、だっ……ぁ!」
 首を振り、合わさりを無理やり外す。唇の右端をセイロンの前歯が霞め、僅かな痛みを感じたが切れて血が出るという事はなかった。けれどいつもはもっと静かにライを求めてくる彼が、こんな風に荒々しく噛み付いてくるなんて今までになくて、ひょっとして矢張り彼は怒っているのかとライは怖くなる。
 驚きで涙は止まったが、心臓の震えは止まない。ひっく、としゃくりを上げた彼を間近から覗き込んだセイロンに視線を合わせられなくて、ライは瞳を揺らし己の足元ばかりを見詰めた。
 だから、だろうか。ぐっ、と力を入れて両肩を掴まれて、ライの体は拒む暇も与えられずに後ろ向きに地面に倒されてしまった。背中に硬い感触と微かな衝撃、ぶつかりきる直前に背中に手を差し入れられたために痛みは殆ど感じなかったが、急激に変化した視界と圧し掛かるように被さってきた影にライの心臓はすくみ上がる。
 目を背けるのを許さない、そう告げているセイロンの姿がそこに。
 両肩は封じられたままだ、足を蹴り上げて彼を退かそうと試みるが先手を打った彼に腿の間へ膝を割り込まれ、素早く内側から叩かれて外向きに広げさせられた。更にその左膝を右腿に乗り上げられてしまい、身動きの自由は完全に奪われた。
 陽光を遮断して人の顔に影を落とす彼の瞳が、言い表し難いくらいに怖いと思えた。
「セイロン……」
「すまぬな、こうでもせねば御主は我の話を聞こうとしない故」
 抵抗を止めたライを見下ろし、彼はそう言って表情から険を取り除き、右腿を押さえつけていた足も外した。けれど上から退くつもりはないようで、ライの両肩は依然として地面に縫い付けられたままだ。
 不自然に左右へ投げ出した両足の間で彼を挟んでいるようなもので、体勢的に恥かしさが募ってライは頬を赤くして横を向いた。
 頬を、髪を、柔らかな草が撫でる。緑と土の匂いが交じり合って、ライの鼻腔を擽り胸を満たした。
「出会えていたさ」
「……え?」
 熱が近づいてきて、肩口に重みを感じる。いや、そこだけではない。今や地面に横になったライの上にかぶさって、セイロンは肘を曲げて身体全部を投げ出していた。
 ただ完全に体重を預けてしまうとライが潰れてしまうのも分かっているから、彼は肘を突っ張らせて僅かに空間を保つ配慮も怠らない。
「我が旅人であったのは、知っておろう?」
「うん」
 その話は聞いた、以前に。
 いつだったか、セイロンの口から直接聞かされた。彼は元々ラウスブルグの住人でもなく、自ら望んでリィンバウムにやってきたこと。
 先代守護竜に請われ、隠れ里に留まっていたこと。
 だから彼はいずれ、役目を終えれば里を出て行くつもりだった。気ままな旅暮らしに戻り、各地を放浪してやがてシルターンへ帰る。
 その道中、この小さな町に立ち寄ることもあるだろう。
「……」
 ライは黙り込む、セイロンはそんな彼の額に己の額を小突かせて微笑んだ。
「我はこのような見てくれ故、大っぴらに街の宿には泊まれぬ。御主が変わらずあの場所で宿を続けているなら、我は一宿の飯を求めて立ち寄るはずだ」
 そして出会うだろう、偶然を装った奇跡の必然に。
「そんな上手い事、いくか?」
「いくとも」
 旅人と、宿の主人としての出会いだなんて、正直想像が付かない。唇を尖らせたライに、セイロンは妙に自信満々に胸を張ってみせそれがおかしい。
 根拠も無いのに、何故そう断言できるのか。ライの不満げな視線に、彼は不遜な表情を作った。
「たとえ」
 此処でなくとも、今でなくとも、過去であろうと未来であろうと、空想の世界であっても、なくても。
「我はおぬしを探し出してみせる」
 ざっ、と風が吹いてため池の水面に細波が立った。鳥が羽根を広げて休んでいた枝から飛び去り、雲に隠された太陽が顔を覗かせて地表に無数の影を植えつける。
 熱を感じた。触れられた場所が、そしてもっと奥深い場所が、熱い。
 細められた彼の瞳はどこまでも深く、優しく、暖かで柔らかい。そんな表情をするなんてずるい、これではなにも言い返せない。
 穏やかに笑んだ口元がライの名前を紡いでいる、その声は夏のルトマ湖よりも澄んでいて、春の草原よりも心地よい。
「ライ」
 毎日、それこそ聞き飽きるくらいに呼ばれる馴染んだ自分の名前が、こんなにも綺麗な音をしているなんて知らなかった。
「必ず見つけ出す、必ず」
 だから自分の思いを悔いることなどない、馬鹿なことだと自分を責めなくていい。
 嬉しかった、と彼は微笑んだ。不謹慎なことを考えたのは自分も同じだと、ライの手を握り彼は屈託無く笑う。
「それとも、嫌か?」
 静かに問う声。ライは首を振った、静かに。横へ。
「……俺、も」
 きっと。
 あの日がなかったとしても、あったとしても。
 今の場所で宿を経営し、食堂を開き、生活しているのには違いない。そしてずっと誰かを待っている、待っていた。
 本当に大嫌いだけど、待っていたのは父親だと思っていた。けれどもしかしたら、違うのかもしれない。
 ライは自身の真上に佇む青年を見詰め、ほんの少し躊躇してから首を浮かせて伸び上がった。
 ちっ、と鳥が囀るような微かな音を響かせ、一瞬だけ彼に口付ける。
「ライ?」
「ん。なんか、したくなった」
「…………」
「だっ、ちがう、そっちじゃない!」
 やや呆れ気味に、そして目が据わり気味に動いたセイロンの赤い顔に、ライまでもが耳まで赤く染めて必死に怒鳴った。
 変な誤解をしないで欲しい、本当に。
 けれど意識すればするほど今の状況もあって照れが先走り、ライはいつまで乗っているのかと膝を折ってセイロンの腹を軽く蹴り上げた。
 声を立てて笑いながら、セイロンが起きあがる。ライの世界が明るくなり、夕暮れが差し迫ろうとしているため池に映えた光の目映さにふたりして目を細めた。
「帰るとするか」
「うん」
 立ち上がったセイロンが、ライの運んでいた籠を片手でひょいと持ち上げ、そう呟く。ライもまた身体にまとわりついていた草を払い落とし、僅かに遅れて起きあがろうと膝を地面に立てた。
 手を。
 当たり前のように、差し出される。
「どうした?」
 そして当たり前のように掴もうとしていた自分に気付いて動きを止めたライに、彼は振り返って首を傾がせた。目が合い、頬を赤く染めたライに怪訝な表情を浮かべるくらいに、自分たちはいつの間にかこうやって手を繋ぐのが自然な形になっていたのだと気付かされる。
「セイロン」
「なんだ」
「……好き」
「知っている」
 茶化そうともせずに真顔で言い切った彼があまりにも恥ずかしくて、ライは思わず握った彼の掌に爪を立てた。

2007/3/16 脱稿