風一陣

 正月の間ですっかり怠けてしまった心は、なかなか冬の朝の空気みたいにシャキッとしない。
 かかってきた電話に呼ばれ、応対に出た時の第一声を笑われた綱吉は、眠い目を擦りながら唇を尖らせた。
 暇か、と問う声に頷いてから、電話なのだから動きが見えるわけはないと思い出し、慌てて「うん」と同意を返す。だが向こうは既に気づいていた様子で、受話器からは笑う声が聞こえる。頬を膨らませて拗ねた表情を作っているのもしっかりばれていて、「怒るなよ」と宥める声は続けて、出掛けないか、と綱吉を誘い出した。
「どこへ?」
 受話器を握り直して問うた声には答えず、迎えに行くから暖かい格好をして待っていてくれと告げ通話は終わった。ツーツーという無常な音に暫く不満げにしていた綱吉ではあるが、誘われたのだからと自分に言い訳をして上着を取りに自室へ向かった。
 そうして五分もしないうちに呼び鈴が鳴り、外へ出れば自転車に跨った山本の姿。
「よっす」
 ハンドルから離し片手を挙げて気負いの無い挨拶する彼を見て、そういえば今年会うのはこれが最初だと気がついた。
「元気にしてたか?」
 上げた手を下ろした彼が言いながら、顎で後ろに乗れと促す。雲が多い青空を見上げてから、綱吉は頷き返して門を出た。少々着膨れ気味の格好で後輪の軸に嵌められたステップに跨ると、肩を掴まれた山本は軽く後ろを振り返って具合を確かめてからペダルを強く踏み込んだ。
 最初の瞬間だけはどうしても緊張して身体が硬くなる。ゆっくり、そして徐々に速度を上げて安定してからホッと息を吐いた綱吉は、顔の両側を流れて行く空気の冷たさを思い出して身を竦ませた。
 耳が引き千切られそうな風に、イヤーフラップキャップでも被ってくればよかったと後悔しても遅い。首元はマフラーを二重に巻きつけているので暖かいが、頬を刺す冷風は遠慮を知らない。対する運転中の山本は、綱吉よりもずっと薄手のジャンパーにキャップ帽と、見るからに寒そうだ。
 それなのに彼は調子よく、機嫌もよさそうに自転車を漕いでいる。綱吉が感じている寒さとは別の世界の住人なのだろうか、肩から様子を覗き込んだ綱吉は吐いた息が白く濁って自分の顔にぶつかり、砕ける様を眺めながら思う。
「何処まで行くの?」
 持ち上げた人差し指で肩を叩き尋ねる。赤信号で停止した彼は左へと車体を傾けさせ、綱吉もそれに合わせて左足をアスファルトへ下ろす。目の前を横切るトラックを見送り、排気ガスの煙に咳き込んだのが治まるのを待ってから、山本はそうだな、と帽子を持ち上げながら空を見上げた。
 相変わらず雲が多いが、隙間を縫うように薄水色の空が広がっている。止まっていれば風は無く空気も温く受け止められて、青信号に切り替わる直前に車上の人となった綱吉は小さく身震いして山本の肩にしがみついた。
「何処行きたい?」
「決めてないんだ?」
 前を見据えたままの声が耳元を風の唸りと一緒に流れてきて、出来るだけ大声で彼に顔を寄せながら聞き返す。彼は首を一度だけ横に振り、前方で路上駐車中の乗用車を避けて自転車を車道へと振り向けた。
 後ろから迫ってくる車が更にその大外を抜けていく。正月休み中なので車の数はそう多くないけれど、一瞬冷やりとさせられた綱吉の耳には、重ねて山本の声が届けられた。
「決めてはいるけど、ツナが他に行きたいところあるかなーって」
 周辺の景色は住宅の密集地から外れ、比較的裕福な人が暮らす区画へと。更にそこを抜けて川沿いを北上し続けた自転車は、山本の安全運転のもと郊外に残る空き地に到着した。
 ブレーキの甲高い音を待ち、綱吉が地面へと降りる。遮るものが何も無い空間は、上も下も、前後左右も広々としていて、冬の初めに枯れ損なったススキだろうか、丈の長い細い植物が群生していた。
 吹き抜ける風が優しく薄茶色に濁った草の頭を撫でていく。帽子を取った山本はそれと入れ替えに、自転車の前籠から折り畳まれた何かを取り出した。ずっとあれは何だろうと思っていた綱吉は目を細めながら彼を振り返り、山本と視線が絡んだので小さくはにかむ。
「良い風だな」
 手にしたものを広げながら、彼は自分の黒髪を揺らす風を眺める。少しだけ回復した陽射しが穏やかに地表を照らし、遠くの山並みには雲が覆い被さって傘になっていた。
「凧?」
「そそ」
 山本の手に納まっているものには、綱吉も見覚えがあった。凧というよりは、カイト。横に長く、角に糸が結び付けられている。絵柄は今年の干支で、四方の糸は少しの余裕を持った後中心点でひとつに結ばれて長いタコ糸に接続していた。山本はその、タコ糸が巻きつけられている棒を綱吉へと手渡す。
 驚いたのは綱吉だ。
「え、俺が走るの?」
「嫌か?」
 上空に浮かぶ雲もそれなりに速度があるので、一度風を捕まえれば安定して凧はあがるだろう。だが何より最初が肝心で、正直な話綱吉は凧揚げで成功した試しがない。凧を掲げて顔の前までやった山本が、腕を少し左にずらして綱吉を覗き込む。
 反射的に俯いてしまい、手元のタコ糸を弄りながら綱吉は口篭った。
「嫌っていうか。俺、足遅いし、山本が走る方が良いって」
「じゃあ、ツナ。手を放すタイミングとか分かるか?」
 即座に聞き返されてまたしても綱吉は言葉を詰まらせた。山本の指摘は鋭い。風を読むのも鈍感な彼には難しく、永遠に山本を走り回し兼ねなくて、もじもじと動き回る手はひたすらタコ糸を指に絡めている。
 返事がないのは肯定、と勝手に決め付けてしまった山本はにっ、と人好きのする笑顔で目を細め、綱吉に向こうへ行けと指示しながら自分も凧を持って距離を広げた。こういう強引なところも実に彼らしく、肩を竦めた綱吉は諦めの心境のまま、人差し指を覆い隠していたタコ糸を解いた。
 輪を作っていた糸が真っ直ぐに伸び、綱吉と山本との距離を埋める。何も無い空間にピンと張った糸が自分達を繋いでいる気がして、頭上高くに凧を掲げた山本が笑うのを受け、意を決した綱吉はひとつ息を吸い駆け出した。
「糸を伸ばしながら走るんだぞ」
 遠くから山本の指導が聞こえてきて、慌てて走りながら、棒から糸を解いていく。ぶわっ、と大きな風が綱吉の顔面を直撃してマフラーの端が乱れ、片方が解けて背中に流れた。糸が勝手に棒から解けてゆくのが分かる。高速で空に吸い込まれていく糸を辿り、少ししてから足を止め、呆然と空を見上げた。
 山本が駆け寄ってくる。彼の両手は空っぽで、やったじゃないか、と白い歯を見せて嬉しそうに笑っていた。
「すご……」
 ありきたりだけれど、それしか感想が浮かんでこない。
 山本の手を離れた凧は、今や遥か頭上高くへと登り、心もとなさを覚える細いタコ糸一本で地上と結ばれている。時々地上とは違う風の流れに煽られて左右にぶれたりもするが、綱吉からバトンタッチされた山本がその度に器用に糸を操ってバランスを取った。
「これ、山本の手作り?」
 タコ糸にも時々結び目があって、細長い棒に巻かれている残りはあと僅かになろうとしている。彼はどこまでも登っていく凧を操作しながら、綱吉の問いかけに首を振った。
「いんや、親父の」
「へえ、凄いね」
 自分の父親である家光は、こんな器用な工作出来ないな、と自分の不器用さを棚にあげて綱吉は笑った。父親が褒められたのが嬉しいのか、得意げに凧を繰って山本が豪快に笑う。そんなふたりを、遠くから翔けて来た風が包み込む。
 草木が細波を立てて揺らめく。解けたマフラーを思い出した綱吉は、結び直そうとして山本の首元が涼しげなのに気づいた。
「山本」
 少し屈んでくれるように頼み、綱吉は自分の首を包んでいた薄水色のマフラーを外し、両端を掴んで中央の緩みを弾ませた。彼の頭を飛び越えたそれは、少しの静電気と綱吉の体温を彼に与える。胸の前で交差させてひとつ結び、余りを後ろへと流してやると、膝を戻した彼は糸を少し手繰り寄せながら照れ臭そうに頬を赤く染めた。
「サンキュな」
 彼らしい完結な礼に、綱吉も心がくすぐったくて上着のポケットへ乱暴に両手を突っ込んだ。
 山本の背中から空を見上げると、さっきまでは自分が巻いていて、今は山本を寒さから守っているマフラーが空と色を一体化させていて、何処か不思議な感じがした。
「ツナは、寒くないのか」
「平気」
 考えてみれば自転車を操縦中も、前に座っている山本の方がずっと沢山風を浴びて居たに違いない。もっと早くに気づいてあげたら良かった、と今更悔いても仕方が無い。山本は頻りに綱吉に、寒くないかと尋ねてくるが、綱吉としては今彼が寒くないのであれば、自分の寒気は我慢出来る。
 自分を気遣ってくれている山本の言葉の方が、マフラーなんかよりもずっと温かい。
 青い空、白い雲、ぽつんと浮かぶ凧。遠い場所と自分達とを繋ぐ、白い糸。
 風が絶えず吹き抜けていく。ざわざわと耳元で囁く音にならない声に瞼を閉ざし、綱吉は緩く腕を広げて空へと心を飛ばした。
 あの凧まで、あの凧を越えて。遠く、遠く、遥か彼方。空の向こう、まだ見ぬ世界。
「ツナ」
 山本の声が何処かへ飛んでいきそうになっている綱吉の心を引き止める。目を開ければ現実、地面に二本の足で立っている自分自身。
「大丈夫」
 此処に居るよ。自分は此処に帰って来るよ。
 凧もゆっくりと、風の中で揺れながら地表へと降りてきた。糸を巻き取り、引き寄せる。少しずつ大きくなってくる凧の絵柄を追いかけて、綱吉は駆け出した。
 ぱさり、と凧が地面に落ちる。右側を下にして、支えを失い前方へ倒れたそれを拾おうと、綱吉は腕を伸ばした。そして背後から、山本の二本の腕に絡め取られる。
 抱き締めるその腕は、微かな震えを伝えて来て、綱吉は息を呑んだ。山本は何も言わない。綱吉が振り返れないでいるその先で、彼は祈るように目を閉じてただ綱吉を抱き締める。
 冷えた指先に、綱吉の手が伸びた。きつく、強く、結び取る。
「大丈夫」
 俺は此処に居る。飛んでいったりしない、何処にも行かない。
「山本の傍に居るよ」
 ささやきは風に溶けて。

2006/12/23 脱稿