謝肉祭

 少しずつ日が長くなり、空気も温みだしているものの、まだまだ寒さの残る二月も半ばを過ぎた日。いつものように学校から、たいした事もしていないのに疲れた顔で帰って来た沢田綱吉は、やや面倒くさそうに施錠もされていない自宅の玄関を開いた。
「ただいまー」
 足元を見たまま、慣例となっている帰宅の挨拶を口にする。だが彼の耳に響いてきたのは母親の暖かな出迎えの言葉などではなく、騒々しく家中を駆け巡る子供達の足音だった。
 何事か、と靴を脱ごうとしていた彼は驚いてドアに手を添えたまま視線を前向ける。その数秒前、先に綱吉の声で彼の帰宅に気づいていた子供達は、綱吉と視線が合った途端爛々と目を輝かせた。ランボ、イーピン、それからフゥ太。三人分合計六つの瞳が、期待を込めた眼差しで綱吉を見詰めている。
「え」
 その迫力に気圧され、綱吉はドアから手を放し右足だけを半歩後方へずらした。腰が引け、上半身が逃げ気味に反り返る。
 まず彼が驚いたのは、三人の格好だった。元々牛の着ぐるみ状態のランボはまぁ分かるとしても、中国服のイーピンや普通の洋服が常のフゥ太までもが奇抜な、日常では到底袖を通すことがなさそうな派手な色合いと文様を身に纏っていたからだ。
 一瞬綱吉の脳裏に、大阪の道頓堀川沿いの大通りで太鼓を叩いている人形が浮かび上がる。チンドン屋、ピエロ、そんな単語が浮かんでは消えて行って綱吉は激しく混乱した。いったい何が起こっているのだろう、改めて目を向けたランボは季節外れのトナカイ宜しく、真っ赤なボールを鼻に被せていた。
「ツナ兄、お帰り!」
 完全に及び腰になっている綱吉に構わず、両手を握り締めて胸の前に掲げたフゥ太が弾んだ声をあげた。頬にピンク色の円を描いた彼は緑と赤の螺旋模様のとんがり帽子を被って、両側から伸びた紐を顎の真下で結んでいた。白地に水色の水玉模様の服は肩の位置が大きく膨らんで上腕で縮む、中世ヨーロッパ貴族が着ていたようなデザインで、長めの裾はギザギザに切り込まれ先端には頬の模様と同色の毛糸のボールがぶら下がっていた。
 イーピンは色合いが違うだけで、フウ太とデザインはほぼ同じ。女の子だからか、薄紅に藍色の水玉が散った布を過分に使っている。頭には帽子ではなく桃色のコサージュが。
「な、何事……?」
「カルネヴァーレだよ!」
 入る家を間違えただろうか、とさえ思った綱吉が頬を引き攣らせて呟く。耳聡くその声を拾ったフゥ太は、逆に知らないの? と首を傾げて綱吉に聞き返してきたが、知らないものは知らないし、分からない。全く状況が読み取れず、綱吉は兎も角玄関を開けっ放しにしているのは寒いから、と肩にぶつかっていた戸を押し返して家の中に入った。
 牛ではなくイノシシか何かの仮装になっているランボが脚にまとわりついてきたので、靴を脱ぐのに邪魔だからとフゥ太に預けてから綱吉は鞄を玄関に下ろす。靴紐を解いて廊下に上がると、わっと子供達に一斉に取り囲まれてしまった。
「だから、いったいなんなんだよこれは」
 分かるように説明してくれ、とこの中では年長に当たるフゥ太に縋る目を向けるが、彼はさっきからカルネヴァーレという単語を繰り返すばかりで、さっぱり意味が分からない。
 それよりも奈々は何処へ行ったのだろう、ビアンキやリボーンも。
 困惑が抜けないまま、綱吉は身動きできずに途方に暮れる。とりあえずとフゥ太の腕の中にいるランボの頭を撫でて、着替えてくるからあっちに行ってくれと言おうとした時、奥の台所から暖簾を押し上げて人が現れた。
「沢田殿、お帰りなさい」
 バジルだった。
「ただいま」
 彼はまだ世間的にこれは大丈夫だろう、と思われる格好をしていて、家人全員が子供達と同じ格好をしていたらどうしよう、と不安に駆られていた綱吉は安堵の息を漏らした。これで、自分までこんな恥かしいピエロの服装をしなくて済む、と何の保証もないのにホッとして、近づいてくるバジルに視線を向け直す。
 彼は白い三角巾を頭に巻いて長い髪をまとめ、首からは紺色に白い飛沫が散ったエプロンをつけていた。その下は白と薄緑のストライプ模様のシャツに、グレーのスラックス。至って普通の格好である。
「バジル! 出来た? 出来た?」
 良かった、と肩を落としてこの状況の説明を求めたがった綱吉を差し置いて、フゥ太の腕の中から飛び出したイノシシ、もといランボが歓声に似た声を上げた。イーピンも彼に駆け寄って、何を言っているのか分からないことばでなにやら訴えかけている。
 彼はそれらを順番に眺め、最後に深くしっかりと頷いた。瞬間ランボが飛び上がらんばかりに喜んで台所へ駆け込んでいく、イーピンもそれに続き、最後にフゥ太がありがとう、と言ってバジルに頭を下げてから同じく台所に入っていった。
 まさしく嵐の如き出来事、あっという間に綱吉の周囲は静かになり呆気に取られた彼はしばし呆然と、三人が去っていった方角を向いて口をぽかんと開けていた。横で間抜けな綱吉の顔を見たバジルが、口元に手を当てて声を潜め笑う。
「……むぅ」
 気づいた綱吉が表情を戻しながら彼を睨むが、バジルは肩を揺らしたまま顔を逸らして必死に笑いを堪えている。小刻みに首筋にかかる髪が揺れていて、ひとりだけ状況についていけない綱吉は完全に蚊帳の外。
 何がなんだか、だ。もういいよ、と怒る気にもなれなくて綱吉は天井を仰ぎ見、床に置いていた鞄を掴んで階段へ向かう。一歩踏み出した綱吉の足音にハッと顔を上げたバジルは、すみませんと早口に謝って頭に巻いた三角巾を外した。
 薄茶色の髪がサラサラと溢れ出し、彼の頬を軽く撫でていく。一段目に足を乗せた綱吉は肩から上だけを振り返らせ、ひとつ息を吐いてから怒ってるわけじゃないよ、と表情を和らげて彼に微笑んだ。
「カルネヴァーレって?」
 そのまま二段違いで一緒に階段を登り、綱吉の部屋へ向かう。手摺りに右手を預けながら進む綱吉は前を向いたまま、先ほどひっきりなしにフゥ太が言っていた耳慣れない単語の意味を彼に尋ねた。
 タン、と軽快な足音がふたりの間に響き渡る。
「沢田殿には、カーニヴァル、と言った方が、通りはいいかもしれませんね」
「ああ」
 それなら分かる、と最上段に到達した綱吉が身体ごと向き直り、頷いた。
「リオの」
「有名ですね」
 真っ先に頭に浮かんだのは、陽気な南米の国で開催されているイベント。派手な衣装に身を包んだ女性が腰をくねらせ踊りながら行進する様子は、綱吉も幾度となくテレビで見たことがある。
「イタリアは、ベネチアが有名ですね」
「それは知らないや、ごめん」
「いえ」
 遅れて階段を登り終えたバジルに場所を譲り、自室のドアを開けた綱吉は吹き込んできた風の冷たさに背筋を震わせ、鞄ごと両腕で体を抱き締めた。
 前髪を風に揺らしたバジルが、空気を入れ替えようと思ってそのまま忘れていたと詫び、先に部屋に入って窓を閉めた。ぴしゃりと窓の桟が密閉される音を耳に受けて綱吉は腕を下ろし、ほうっと息を吐く。
「すみません、ランボ殿にキャッケレが食べたいと言われてしまって」
 台所で悪戦苦闘しているうちに時間が経つのを忘れたのだと、正直に事情を説明した彼は綱吉の前まで戻ってくると深々と頭を下げた。
 しかし綱吉はまた耳慣れない単語に首を傾げるだけで、冷風に晒されていた自室の荒れ具合には肩を竦める程度に留める。今は不意を衝かれて驚いてしまっただけで、換気をしてくれていたバジルの行為を責めるつもりは彼には毛頭なかった。
 いいよ、と鞄をベッド脇に置いて綱吉はジャケットを脱ぎ、ハンガーに吊るす。クローゼットに戻そうとしたらバジルが手を伸ばしてきたので、彼に甘えて預けてネクタイを外しに掛かった。
 窓の外は綺麗な青空が広がっていて、白い雲が綿飴のようだ。流れ行くスピードはそれなりに速く、先ほど綱吉を襲った突風のように空高くでは風が渦を巻いているのだろう。
 ぼんやりとネクタイに指をかけたまま、中途半端に動きを止めていた綱吉を不審に思ったのか、バジルが片手にジャケットを引っ掛け綱吉へ歩み寄った。気づいた頃にはもう彼の頭が綱吉の目の前にあり、俯き加減の彼の髪が綱吉の鼻をくすぐった。
「バジル君?」
「はい」
 なんでしょうか、と顔を上げた彼のコバルトブルーの瞳が正面から綱吉を見つめ、不必要なくらいにどきりと跳ねた心臓に綱吉は驚く。思わず後ずさってしまって、バジルの指に絡んだネクタイがするりと襟の裏側を抜けていった。
 何てことは無い、単に彼は親切心を働かせてくれただけだ。だが一度意識して顔を赤くした綱吉は自分の気持ちさえも分からなくて、ひやりと流れた汗を拭い心臓に手を置いた。
「ここに掛けておきますね」
 自分が気にしすぎているだけだ、と思えるのは、当のバジルがしれっとした顔でクローゼットに向かい、綱吉を振り返りながらブレザーを片づけたからだ。
「うん、ありがと……」
 まだ拍動早い心臓を落ち着けようと唾を飲み、綱吉が頷く。瞳を細めた彼の笑顔は純粋で、だから余計に変なことを考えて意識するのは悪い気がして、綱吉は困ってしまう。
 彼とのキスは親愛の証、ただのスキンシップ。イタリア育ちの彼にとっては、その行為は深い意味があるものではないと何度自分に言い聞かせても、未だに慣れないのは綱吉が生粋の日本育ちだから。
 環境が違えば考え方も、捉え方も変わる。自分と彼はただの友達、呪文のように言い聞かせているとバジルに小首を傾げられて、綱吉はやや引き攣り気味の笑みを浮かべた。
「沢田殿?」
「なんでもない。……あ」
 開いていた距離をゆっくりと詰めるバジルに首を振ろうとして、綱吉はある事に気づき動きを止めた。細かな皺を刻む白のカッターシャツに包まれた腕を伸ばし、足を止めたバジルの髪に触れる。
 不思議そうにする彼を前に、綱吉は指で彼の髪に絡み付いていた白いものを摘み取った。
「ついてた」
「ああ、すみません」
 謝って直ぐに、有難う御座います、と言葉を続けた彼は表に返された綱吉の掌に乗る物体に、納得したと頷いて笑った。
 それは小麦粉を水で練ったもので、小さな塊を成して彼の髪に絡んでいた。よくよく見ればバジルのエプロンの汚れも、粉が散ってこびり付いたもののようだ。
 いったい台所で、彼は何を作っていたのだろう。興味をそそられた綱吉の脳裏には、先ほどバジルが発した耳慣れない単語が浮かび上がっていた。
「キャッケレって?」
「はい?」
 確かそんな発音だったと思う。微妙にたどたどしい舌使いで問うと、聞こえなかったのかバジルに聞き返された。彼は他にも髪についていないかと自分の毛先を指に絡ませながら視線を上向けている最中で、だから綱吉から注意が逸れていたのも仕方が無い。
 目線でなんですか、と聞き返された綱吉は、発音に自信が無いまま同じ単語を口にした。
「お菓子です、カルネヴァーレの」
 だが綱吉の不安は杞憂に終わり、即座に理解したバジルは表情を綻ばせてそう教えてくれた。
 ズボンを履き替え、着替えを完了させた綱吉を待ち、今度はバジルが先になって部屋を出て階段へ向かう。
 お菓子を手作り、と聞いて綱吉の頭に真っ先に浮かんだのは、あの作り出す料理全てが毒物と化す恐ろしい技を持っている女性だった。彼女が何かしでかしていなければ良いのだけれど、と背中に生温い汗を感じて遠くを見詰めていたら、またしてもバジルに笑われて綱吉は頬を膨らませた。
 彼はリズム良く階段を下りていき、最後の二段は勢いをつけて飛び降りた。綱吉が真似をしたらどうせ転ぶのが目に見えていて、身軽な彼を羨ましく思いつつ最後の一段を踏み締める。そして当たり前のように彼に手を差し出され、反射的に掌を重ねようと肩を持ち上げかけたハッとした。
「ふふ」
 わざとやっているのか、いないのか。目を細めて笑う彼を真っ赤になりながら睨み返し、綱吉は行き場をなくした手を背中に追い遣った。指が開いたり、閉じたりと忙しい。
「沢田殿は、危なっかしいですから」
「悪かったな」
 見ていないと心配になる、と言外に告げる彼にムッとなりながら言い返し、綱吉は背中に回した手を硬く握り締めた。確かにその通りなのだから反論も出来なくて、ただ悔しいばかりで踵を乱暴に床へ叩きつける。
 しかしバジルは全く悪びれた様子もなく、楽しげに微笑んでいるばかり。怒りも彼の両脇を素通りしていって、カリカリしている自分が馬鹿らしくなった綱吉は溜息をついた。
「それで? キャッケレって?」
「カルネヴァーレのお菓子で、この時期じゃないと食べられないんです」
 気を取り直し、忘れかけていた質問を繰り返した綱吉にバジルもまた思い出した、という顔をして言葉を返す。けれどあまりに簡潔すぎる説明が却って綱吉の疑問を深めてしまい、味も形もまるで想像できなくて彼は首を捻った。
 季節限定のお菓子。日本で言うなれば、こどもの日のちまきや柏餅のようなものだろうか?
 頭に浮かんだ喩えを口にすると、バジルは少し考え込んでから、そうかもしれません、と曖昧に笑って場を濁した。その若干戸惑い気味の表情から、あまりにも日本語が達者な彼だから日本の文化伝統にも精通していると勝手に思い込んでいた自分に気づき、綱吉は恥じ入ってごめん、と小さく謝った。
「いえ、拙者もまだまだ勉強が足りません」
 気にしないでください、と落ち込んでいる綱吉を宥め、彼は台所の暖簾に手を伸ばした。ちょうど目線の高さを隠す位置まで垂れ下がっているそれを横に押し退け、顔だけは背後の綱吉に向ける。
「キャッケレ、沢山作ったので沢田殿も是非」
「うん、ありがとう」
 イタリアのお菓子には興味がある。どんな味がするのだろう、とわくわくしながらバジルの後を追って台所に向かった綱吉だが、入り口直ぐの地点で足を止めていたバジルの背中に危うく正面衝突しかかって、慌てて体を退いた。だが間に合わなかった右足の爪先が彼の踵にぶつかって、ひっ、と喉を引き攣らせたバジルが珍しくショックを受けた顔をして綱吉を振り返った。
 少し泣きそうになっているのは、気のせいだろうか。
「バジル君?」
「……いえ、すみません沢田殿」
「バジルー、もっとー、もっとー!」
 か細い彼の謝罪を掻き消すように、チンカンと陶器の皿を箸で叩いて騒いでいるのはランボだ。真似をしてイーピンまでもが食器を楽器に見立てて音を響かせ、フゥ太はもごもごとリスの如く頬を膨らませて両手で口を押さえ込んでいる。
 彼らの前には大判の白い皿、敷かれたキッチンペーパーには染み込んだ油の跡と無数の細かな欠片、白く散っていのは粉砂糖だろうか。三人とも口の周りを油と砂糖で汚し、手もべたべただ。椅子に乗りあがってバジルにもっと、と強請っているランボの赤い鼻は外れて床に落ちていた。
「こら、お前ら。食器をそんな風に使うんじゃない」
 がっくりと片手で顔を覆って項垂れているバジルに代わり、綱吉が前に出て子供達を叱る。腰に手を当てて上から見下ろすように迫ると、さしものランボも怖がって箸を投げ出し、椅子から飛び降りて隣の部屋に逃げていった。イーピンも綱吉の迫力に押され、ごめんなさい、のつもりなのか小さく震えながら頭を下げてランボを追いかけていく。最後まで残っていたフゥ太は完全にとばっちりだが、自分だけが取り残されるのを嫌がって口の中のものを全部飲み込むと、大慌てで台所から出て行ってしまった。
 綱吉が帰って来た時同様、嵐が一瞬で過ぎ去った感じがする。奈々は台所に不在で、バジルが使ったのだろう料理器具や材料も、子供達がちょっかいをかけたのか床やらテーブルに散乱して酷い状態になっていた。
 ひっくり返ったボゥル、横倒しになった小麦粉の袋、飛び散った粉砂糖がテーブル一面に雪のようで、後片付けが大変そうだなと綱吉の表情を引き攣らせた。
 が、バジルが落ち込んでいたのはどうもそっちの内容ではなかったらしい。盛大に聞こえてきた溜息に横向けば、彼は悲壮な様相で空っぽになっている大皿を両手で抱え込んでいた。
 彼がここまで落胆している姿は珍しく、綱吉は驚きを隠せぬまま彼の隣に並んだ。いったいどれくらいの量を彼が作ったのかは分からないが、皿の規模からして相当たくさん作ったのではないかと思われる。
 綱吉が着替えを済ませて降りてくるまで、十分と掛かっていない。その間に、恐らくは山盛りになっていただろうキャッケレをあの三人は平らげてしまったという事か。
 それくらい美味しかったのだろう。綱吉も自分が先ほど思い浮かべた柏餅の喩えを振り返って苦笑する、その時にしか食べられないと考えると、余計に美味しく感じられるものだ。
「すみません、沢田殿。もっと沢山作ればよかったですね」
 底に残っていた茶色の欠片を指で掬いとった彼は、沈みきった声でそう言った。気持ちを他所に向けていた綱吉は慌てて彼に意識を戻し、いいよ、と首を振る。
 確かに食べてみたかったけれど、ないものを強請っても仕方がない。子供達に全部食べるな、とは言わなかったのだし、結果的にこうなってしまったけれど、それだって誰かが悪いわけではないのだから。
「また来年、作ってよ」
 そうすれば一年間待つ楽しみが出来る。後ろ手に指を絡めて結び、爪先立ちになって体を揺らした綱吉の笑みに、バジルは漸く顔を上げて綱吉を仰ぎ見た。
「そうですね」
 頬に掛かる髪を掬い上げ、彼は前屈みになっていた姿勢を戻しながら呟く。やっと表情が緩んだ彼に更に微笑んだ綱吉は、見事に空っぽになっている皿へ視線を移し、敷かれている紙がやや不自然に膨らんでいる箇所を見つけて顔を顰めた。
 なんだろう、とキッチンペーパーが重なり合っている場所から指を差しいれ、引き抜いてみる。
「あ」
 彼の動向を見守っていたバジルが先に声をあげ、口を開けた。
 綱吉が抓み出したもの、それは親指ほどの幅と長さをした薄い板のようなものだった。油でこんがりときつね色に揚げられており、表面にこびり付いた粉砂糖は綱吉の体温で溶けて肌に張り付いてくる。
 ひょっとして、と思うまでもない。
「これ?」
「です」
 日本でもありそうな菓子だが、手作りだからか若干形が歪んでいるのはご愛嬌といったところ。頷き返したバジルの目の高さまで指を持って行った綱吉は、珍しそうに裏返したり表を眺めたり、逆さまに持ってみたりと忙しい。
 ひとつだけしか残っていないのかと皿をもう一度探ってみるが、残念ながら子供達の手から奇跡的に逃れられたのはこれっきりのようだ。小さく嘆息して肩を竦めたバジルは、キャッケレを手に次どうしようかと悩んでいる綱吉に、裏返した掌を向けた。
 どうぞ、という意思表示らしい。だが、考えてみればバジルだって作るばっかりで食べていないはずだ。
「けど」
 半分ずつにするには少々小さすぎて、真ん中で上手に砕けるかどうか自信がない。躊躇する綱吉に、彼は穏やかな笑みを浮かべた。
 本当はちょっとだけ食べたい、という気持ちが伝わってくる。けれど彼は損な性格をしているから、何でも綱吉を優先しようとする。気持ちは嬉しいし、くすぐったいが、悪い気がして綱吉は素直に受け取れなかった。
「うーん……」
 どうしよう。真剣に悩みだした綱吉はキャッケレを一旦皿へと戻し、親指に付着した砂糖を舐めた。指紋の間にまで潜り込んだ甘みに舌を伸ばし、人差し指へも軽く這わせてぬめりを取る。
 その間バジルは無言で、綱吉の横顔を伺い見てから自分もまた立てた親指を顎に押し当てて眉間に皺を寄せた。
 数秒後。
「沢田殿、では」
 こういうのはどうでしょう、と急に声と顔を上げた彼につんのめった綱吉が肩を上下させた。バジルの指が皿へと伸び、一枚だけ残ったキャッケレを摘み上げて不意を衝く格好で綱吉の顔に突きつける。
 目に刺そうとしているわけではないと分かるものの、咄嗟に恐怖心を抱いて綱吉は反射的に目を閉じた。この時間抜けにも口が開いてしまったのは、本当に緊張感が足りないとしか言いようがない。
 薄い唇にまるでカードを差し入れるように、甘い砂糖をまぶした揚げ菓子が押し込まれる。サイズにしてほぼ半分ほどの余裕を残し、綱吉への圧迫感は消えた。そして。
「んっ」
 鼻先に息が吹きかけられたかと思うと、柔らかなものが唇全体に触れて下唇に重圧がかかった。反射的に目を見開いた綱吉のすぐ前には柔らかな色合いの髪が優雅に揺れ、少し意地悪く微笑んで見えるバジルの瞳があった。
 ぱきり、と小麦粉で出来た菓子は彼の前歯に筋を入れられ、呆気なくふたつに分離する。綱吉の唇に残った細かな欠片は彼の舌先が擽るように舐め取っていき、最後に軽く音を響かせて吸われた。
 早業、としか表現のしようがない一瞬の出来事に、綱吉は口の中に残った甘い、ちょっと歯ごたえがある菓子を奥歯で噛み砕くと呆然と相手を見返す。丸くなった目が映し出す彼は少しだけ子供に戻ったようで、楽しげに笑っていた。
 だから、こういう時の対応でお国柄が出るのだろうな、と思うのだけれど。
 不意打ち過ぎる。
 綱吉の視線が天井を這った。口を覆い隠す手に紛れてキャッケレを噛み砕くけれど、味なんてもう分からない。頬が段々と赤く、熱くなっていく自分を意識して、余計に恥かしくて消えてしまいたかった。
「どうですか?」
 そんな綱吉の気持ちを知らず、恐る恐る問いかけてくるバジルに瞳だけを向けた綱吉は、黙って咀嚼を繰り返した。歯の隙間に欠片が忍び込み、歯茎を刺して少し痛い。
「……あまい」
 指の隙間から息を吐き、そっと呟いた感想はそんなことばで。
「ひょっとして、砂糖を塗し過ぎたでしょうか」
 てんで方向違いに解釈したバジルに、綱吉はどう返そうか迷って空を仰ぎ見た。
 唾液を絡め飲みこんだ味は、きっと来年のカルネヴァーレまで忘れられそうにない。

2008/2/19 脱稿