その日が近づくにつれて、周囲は浮き足立ち、落ち着かない生徒が増えていく。
一年に一度きりのイベントは、一年分の勇気を込めた女の子が思いを告げる日でもあり、男子にしてみれば意中の子から貰えるかどうかでこの一年の命運が決まるようなもの。
並びに最近では、家族や親しい友人など、性別関係なしに親愛の情を込めて贈る日へと発展しているらしい。
そう言い訳すれば、変な意味に捉えられずに渡せるだろうか、とぼんやり考えて沢田綱吉は首を大きく振った。
「十代目?」
傍らを行く獄寺が怪訝気味に眉を顰め、咥えていた煙草を指に持ち替えて綱吉を呼ぶ。声にハッとなった綱吉は慌ててなんでもない、と弁解し即席で作ったあまり上等ではない笑顔を彼に向けた。
ふたりが通っている並盛中学の門はもう目の前に迫っていて、獄寺は煙草をそのまま携帯灰皿へ押し込んだ。正門付近には人だかりが出来ており、毎朝恒例の光景と化している風紀委員の服装チェックが、本日も絶賛開催されているのが遠目からでも分かった。
「うぜーなぁ……」
ネクタイも締めず、ジャケットの下に着込んでいる服も指定のものとは異なるものが多い獄寺は、風紀委員から目を付けられっ放しの常習犯。最初から校則を守る気のない彼にとやかく注意しても徒労に終わるだけだと、そろそろ詰襟学生服の彼らも理解すれば良いものを。
綱吉も瞳を細めて前方の光景を視界に収め、そうだね、と相槌を返しながら頷いた。
その間もふたりの歩みは休まらず、校門は徐々に近づいてくる。人のざわめきが目立つようになり、スカートの丈が短いと注意された女子生徒が渋い表情で生返事を繰り出すのも聞こえた。
リーゼントに長ランという出で立ちの風紀委員の方が、よっぽど校則を遵守していないと思うのだけれど。思っていても口や顔には出さず、模範的な格好の綱吉はそれでもビクビク怯えながら、到底同年代とは思えない強面顔の間をすり抜けた。
「おい、お前」
「んあ?」
案の定獄寺だけが呼び止められ、一緒になって横に並ぶ綱吉もピクリと体を震わせた。
「お前だよ、お前」
「あー? テメーにお前呼ばわりされる謂れはねーよ」
三年生の風紀委員に口答えをしながら獄寺が睨みを利かせ、一歩前に踏み出す。あちらも負けじとこめかみに力を入れて凄みながら獄寺との距離を詰め、途端一触即発の空気が周辺に広がった。綱吉は狼狽気味に鞄を抱きかかえて視線を右往左往させ、誰か止めてくれと周囲に助けを求めるけれど、一般生徒は誰も関わりたくない様子で、皆顔を逸らして足早に校門をすり抜けていってしまった。
獄寺を止められるのは綱吉だけだと本人も分かっているのだが、獄寺ひとりを宥めたところで喧嘩を売られた側である風紀委員は納まらないだろう、そして間に割り込んだ綱吉にまで矛先を向けかけない。そんな事になれば折角止まった獄寺がまたアクセル前回で突っ走るのは目に見えていて、朝から頭が痛いと綱吉はにらみ合いを続行しているふたりを見上げ、小さく溜息をついた。
「なに、してるの」
そんな賑わっているような、そうでないような空間に突如降り注がれた冷たい声。一瞬にして場を凍りつかせ、水を打ったかのような静寂を招きよせられる人物など、この学校にはひとりきりしか存在しない。
並盛中最強最悪の名をほしいままにし、彼に睨まれてこの学校を無事に卒業できた奴はひとりもいない、とまで言われている人物――風紀委員長、雲雀恭弥。
「委員長」
「けっ」
黒髪に白いシャツ、肩にはお決まりの学生服を引っ掛け、切れ長の目をやや不機嫌そうに細めている雲雀の登場に、風紀委員は一斉に居住まいを正して起立の姿勢を作る。対する獄寺は悪態をついて足元へ唾を吐き、綱吉は騒ぎが大きくなる前に事が収まりそうな様子に安堵の息を漏らした。
背後からは予鈴が鳴り響き、のんびり歩いていた生徒も駆け足で校舎に吸い込まれていく。自分たちも急がねば、とまだ怒り治まらずに今度は雲雀を睨みつけている獄寺の袖を引いて、綱吉は顎で校舎を指し示した。
さっきから背中に視線を感じる。確かめるまでもなくそれが誰によるものなのかを理解した上で、綱吉は気付かないフリを貫き通しまだ渋っている獄寺の背中を押した。最初に彼を呼び止めた風紀委員がいいのですか、と綱吉の後ろに立つ人物に問質している声が聞こえたが、それも無視して綱吉は先を急いだ。
たとえ正門を潜るときに本鈴が鳴っていなくても、教室に入る前に鳴られたらアウトだ。時間がないのは獄寺も分かっているようで、最初こそ重い足取りだった彼も綱吉に促されて校舎へと向かって自分の足で歩き出した。
どきどきするし、そわそわする。
今日は二月の中旬で、他よりも少しだけ日数が少ない月の丁度真ん中に当たる日で、世間様ではとあるイベントで大賑わいの日。少し前までは綱吉にとって、世の中を僻みたくなるような鬱陶しくも哀しくなる日でしかなかったのだけれど、今年はちょっとばかり事情が違っていて、だから余計に落ち着かない。
クラスメイトの女子が義理で何かくれたりしないだろうか、京子が恵んでくれたりしないだろうか。そういう気持ちは無論あるけれど、それ以外にもうひとつ。
綱吉は校舎に入る寸前、正門で生徒たちのチェックを続けている風紀委員を一瞬だけ振り返った。突き刺さるような視線はもう感じなくて、大柄の風紀委員に阻まれているのかその人物も見付からない。
「十代目、急ぎましょう」
「あ、うん」
今度は獄寺が綱吉を促し、上履きに履き替えて白い廊下に爪先を乗せる。急き立てられて駆け込んでくる生徒たちの見えない手に押し出される格好で、綱吉は後ろ髪を引かれる気持ちのまま正面玄関から教室へ向かって進んだ。
鞄の底に隠したものが見付からなくて良かったと思う反面、いったいこれをどうすれば良いのか分からなくて、綱吉はまだ一日が始まったばかりだというのに後悔しきりに天井を仰ぎ見た。
世間が言う恋人の日、バレンタインデー。
菓子メーカーに良いように踊らされているだけのような気もするが、この季節になると様々なチョコレートが店頭を飾るようになり、甘いものが好きな人間にはたまらない時期でもある。また色恋沙汰に気持ちが向くようになる思春期真っ盛りの中学生にしてみても、意中の人の心を射止めるために手作りであったり、奮発した高級チョコであったり、または手編みのマフラーだったりを甲斐甲斐しく用意する女子は後を絶たない――筈。
昨今ではチョコを贈る相手も選ばなくなっているようで、自分へのご褒美だとか色々な言い訳を作って購入する女性も増えているのだとか。女友達同士でチョコレートを交換したりする子もいるようで、昼休みの教室は実に甘い匂いが充満していた。
「獄寺君、これ、受け取ってー」
「山本君、はい、どうぞ」
充満しているのは何も匂いだけではないらしい。全身からピンクのオーラを放つ他クラスの女子が、主に二名の男子生徒目当てにひっきりなしに訪れていて、正直非常に落ち着かない。貰っているふたりはといえばそれぞれ全く異なる表情で、片方は嬉しそうに愛想よく、片方はぶっきらぼうにつまらなさそうにしている。
綱吉にしてみれば貰えるだけでも充分羨ましいので、獄寺の素っ気無い対応はどうかとは思うのだが、彼にチョコレートを持ってくる女子の多くはそういうつれない態度の彼が良いらしく、机の上の山を更に高くしてはキャーキャーと騒ぎ立てている。
義理でも良いからと唯一アテにしていた京子はといえば、黒川たちと持ち寄ったチョコレートを広げて食べ比べに余念がなく、故に今年は男子に恵む分は無い、という事のようだ。
お昼ごはんも終わり、綱吉は空になった弁当箱を机に置いた鞄に押し込む。目の前の山本と獄寺の机には綺麗にラッピングされた箱が幾つも雑多に積み上げられていて、ひとりだけ空っぽという状態は正直綱吉にとって苦痛だ。通りがかるクラスメイトが「凄いな」と呟いて去っていくのを、乾いた笑いを持って受け止めるしかない。
鞄に押し込んだままの右手中指の背が、底に忘れられかけていたものに触れる。
「ツナにも一個やろうか?」
「え、いいよ。山本が貰ったものなんだし」
女子の真剣な思いが込められている(とは言い切れないが)ものを譲ってもらうのはあまりにも失礼すぎる。慌てて首を振った綱吉は、指が触れたままの小箱を素早く掌に握り締めると、不自然すぎない程度の動きでズボンの後ろポケットへと押し込んだ。
椅子に座ったままだったので、丸めていた背筋を伸ばして少し腰を浮かせる必要があった。椅子の上で背伸びをした格好の綱吉を見て、真正面にいた獄寺が眉根を寄せて首をかしげる。チョコの山の脇から顔を覗かせて、十代目? といつもの調子で彼を呼んだ。
「ん、何?」
だがその頃にはもう、綱吉はポケットの中の異物感を堪えるだけになっていて、戻した右手で鞄を閉めた。一連の動きは澱みなく行われ、怪しい点は何処にもない。獄寺は反対側に首を捻ってから、なんでもないですとやや得心行かない様子ながら会話を切り上げた。
その間も獄寺と山本目当てに教室を訪れる女生徒の波は引かず、この量は持って帰れない、それ以前に食べきれないのではないだろうかと他人事ながら心配になった。最初はにこやかな笑顔で応対していた山本も、これじゃカロリーオーバーだな、と頬を掻いて苦笑している。
昼休憩は終了間近。誰もが朝の登校時に風紀委員が持ち物検査をしなかったことと、昼食をとって満腹になって気が緩んでいた。
「た、大変だー!」
そんな穏やかな時間を破り、唐突に、廊下から駆け込んできたクラスメイトが大声を張り上げた。
それまで雑談に興じていた面々が、揃って驚き顔を上げて彼を注視する。いったい何処から走って来たのか、肩を大きく上下させて息せき切らしている級友は、自分に注目が集まっているのを満足そうに見回してからひとつ唾を飲み、背後を気にしつつ教室内へ場所を移動した。
一瞬だけ静まり返った教室も、直ぐにざわめきが戻ってくる。コホン、と咳払いをした彼は二度廊下を顧みてから、大勢のクラスメイト、特に山本と獄寺を見てから通路へ続く戸口を指差した。
「風紀委員が、抜き打ちで持ち物検してるんだ!」
「ええええーー!」
深く息を吸い込んだ彼の掠れた怒鳴り声に、教室は一気にパニックに陥った。しかも彼の言葉を裏打ちするかのように、直後外からは横暴だ、返せ、返して、など等の多数の声が響き渡ってきて、ざわめきは時間を追うに従って徐々に大きくなっていった。
風紀委員に見付かれば、チョコレートは当然の如く没収される。学校生活に関係ないものは一切持ち込んではならない決まりだから、菓子類以外のプレゼントも、発見された場合無事ではすまない。登校時のチェックがなかったのは生徒に油断させる罠だったのかと、今更気づいても全ては手遅れだ。
綱吉は山本と獄寺を交互に見る。山本は相変わらず内心が読み取りづらい表情で笑っていて、困ったなぁと呑気に構えている。元々このイベントに感心がなかった獄寺は、膨大なチョコが処分されるのは嬉しいが、風紀委員が大きな顔をするのは気に食わない、と複雑そうに顔をゆがめていた。
綱吉はそっと、ズボンのポケットに指を這わせる。他人の目からもはっきりと分かるくらい、布地を内側から押し上げて角を立てているものの存在を風紀委員から隠し通すのは至難の業だ。廊下から響いてくる騒ぎ声は段々と近づいてきていて、否応なしに教室には緊張が走る。中には彼らが到達する前に食べてしまえ、と乱暴に包装紙を破いて口に放り込む生徒までいた。
「十代目、やっぱり俺、あいつら気に食わねぇっス」
どうしよう、と互いの顔を見合わせるばかりの級友を他所に、獄寺が低い声で呟いて立ち上がった。彼に刺激されたわけではなかろうが、山本までも「だな」と頷いて椅子を引いて立つ。
細波立っていた教室のざわめきが一点に集中し、彼らはまるで戦場の英雄に向けられるかのような視線をクラスメイトから送られた。このふたりなら何とかしてくれるに違いない、そんな期待が込められた無数の瞳をつまらなさそうに跳ね返し、獄寺はにこやかに微笑んで椅子の上に小さくなっている綱吉を見下ろした。
彼は、綱吉が萎縮しているのは風紀委員が怖いからだと思っているらしい。俺に任せておいてください、なんて頓珍漢な事を自信満々に言い放ち、握った拳を反対の手にぶつけて気合いを入れている。
「獄寺君……山本も、喧嘩はやめてよ」
「なーに、ちょっと話つけてくるだけだから、心配すんなって」
廊下の悲鳴は更に大きくなり、先陣を切る風紀委員が姿を現した。午後からの授業はとっくに開始の時間だというのに、あらかじめ教職員にだけは通達が出されていたのか、先生がやってくる様子もない。
どよめきが教室後方から前方に向かって広がっていって、後を追う格好で大きな袋を抱えた学生服姿の委員が何人も綱吉のクラスに流れ込んできた。女生徒はその勢いに慌てて逃げまどい、机の角にぶつかって転ぶ子までいた。
短い悲鳴が周囲に飛び火し、騒動が大きくなる。綱吉は咄嗟に机に手を置いて逃げ腰気味に立ち上がって、けれど丁度振り返った先にいた大柄の風紀委員に睨まれて全身を硬直させた。そこを庇うように獄寺が前に出て、横並びに山本が進み出る。
「なんだ、お前達は」
「あー、あのさ。お仕事頑張ってるのは分かるんだけど、ちょっと乱暴すぎやしねえ?」
彼らが持っている袋には、これまで通り過ぎたクラスから没収したものが収められている。袋の数はまだ全部のクラスを回ったわけではないだろうに相当なものになっていて、教室窓側に集まって身を寄せ合っている女子生徒の怯えようを見た綱吉は唇を浅く噛んだ。
「あぁ?」
風紀委員が揃って凄味を利かせて山本を睨み付けるが、天然が入っている彼にはあまり通用しない。代わりに目尻をつり上げた獄寺が一歩前に出て、やるのか? と拳を互い違いに鳴らし始める。なんだか朝の光景をそのまま持ってきた状況に、綱吉は軽い目眩を覚えた。
もう止めても無駄だろう。それに京子たちが折角迷って選んで手に入れたチョコレートを、風紀委員の横暴さ故に奪われて彼女らが悲しむのは、綱吉だって見たくない。
それに。
綱吉は自分の身体を机とで挟んでいた椅子をそっと退かし、通路に場所を移した。山本と獄寺、そして風紀委員たちはまさに一触即発のところまで来ていて、何かのきっかけがあればそのまま暴動に突入してしまいそうな雰囲気がある。ぴりぴりとした空気が首筋を刺し、綱吉は生唾を飲んで慎重に、足音を響かせないように教室の出口へと躙り寄った。
「前からてめーらは気に食わなかったんだよ」
「それは俺の台詞だっ」
喧嘩腰の相手には、喧嘩腰で。どうしてもっと穏やかに人と接せられないのだろうか、獄寺の育った境遇から考えると仕方のない事なのかもしれないけれど。
風紀委員に牙を剥く獄寺の背中に肩を竦め、綱吉はあと少しで前側の出口に辿り着ける自分を意識した。学生服の集団は後方の扉口を占領していて、更に奧へ進めないように獄寺と山本が道を塞いでいる。反対側から回り込むという思考は風紀委員には無いようで、目の前の刃向かう相手をどう料理するか考えるのに必死な様子だ。
だから助かった、と心の中で嘆息し、綱吉はそろりと踵を浮かせて爪先を床に滑らせる。
「なに手間取ってるの」
どきり、と心臓が跳ね上がったのは、その瞬間。
後方扉口から響いてきた低いけれど伸びのある男の声に、山本や獄寺までもが緊張に背を震わせた。戦う力を持たないクラスメイトは言わずもがな、予想外の人物の出現に風紀委員もが浮き足だった。
肩に羽織った学生服の腕章には、風紀の二文字。長めの黒髪から覗く双眸は切れ長で、漆黒の瞳は冷ややかに事の様子を見つめていた。誰もが彼を注視しているというのに、一斉に浴びる視線などまるで意に介する様子もなく、彼、雲雀恭弥は冷めた視線でまずは山本、そして獄寺、その後自分の後ろに控える大勢の風紀委員達を振り返る。
「まだ終わらないの?」
「はっ、はい。いいえ!」
どちらなのか分からない返事をし、その場で直立不動の体勢を作った風紀委員も、その長である彼を恐れている。気に入らないものには容赦ない彼に目をつけられぬよう、この学校の誰もが彼の機嫌を窺い、怯えている。
ただ例外は少なからずいるもので。
「出たなお山の大将」
握った拳の汗を拭った獄寺が、雲雀を挑発すべく彼を睨む。だがそんな獄寺をあっさりと無視し、首を回して視線を巡らせた雲雀が最後に見つけたのは、反対側の出口前で硬直している綱吉だった。
「っ!」
目が合う。直線上で絡んだ視線に綱吉は咄嗟に顔を逸らし、その足で地を蹴った。床の上で滑りそうになりながら、近くの机を跳ね飛ばし駆け出す。この時にガタゴトと大きく机が音を立てたものだから、この場に居合わせた面々の注目が一瞬で雲雀から綱吉に向けられた。急ぎ足で逃げていく彼の背中を、状況理解が追いつかない全員が惚けた様子で見送る。
二秒後、風紀委員の一人が素っ頓狂な声を上げた。
「逃げた! 追え!!」
「行かせるかよ!」
獄寺の頭では、綱吉の行動は風紀委員の注意を引きつけ、教室から連れ出そうという魂胆だと想定された。まるで違うが、この際これはどうでも良い。走りだそうとした風紀委員を足止めすべく、素早い動きで後方の扉口を塞いだ彼に風紀委員は歯ぎしりをし、悔しげに近くの机を殴り飛ばした。
彼らの後ろには山本がいる。多勢に無勢ではあるが、ふたりの実力を知っている風紀委員の多くはなかなか次の行動に移れない。
「いいよ、僕が行く。そいつら、よろしく」
そんな風紀委員の肩を軽く叩き、歩き出した雲雀が小さな声でそう告げた。再びその場に居る全員が呆気に取られ、獄寺が止める間もなく雲雀は、綱吉が出て行った前方の扉へ向かって歩き出した。
慌てて獄寺が走ろうとするが、出口側に陣取ってしまったが為に今度は彼が風紀委員に道を阻まれる。
「待て、こらヒバリ!」
「お前らの相手はこっちだ」
最早抜き打ち持ち物検査などどうでも良くなっている風紀委員の面々の挑発に、獄寺は臍を噛みながら額の汗を振り払った。
十代目、どうか無事でいてください。その願いは、結論だけを言うならば、全て杞憂に終わるわけなのだが。
幸運な事に、獄寺も山本も、その事実を知る事は無い。
沢田綱吉は走っていた。
騒がしいのは生徒がいる一般教室棟ばかりで、風紀委員が引き起こしている騒動が尾を引いているからか特別教室棟はひっそりと静まり返っていた。そこに綱吉の足音だけがけたたましく響き渡り、それに追随する格好でもうひとつの足音が厳かに鳴り響く。
全力で走っているつもりでも、元々運動オンチの綱吉は足が遅い。しかもスタートダッシュに失敗した上に階段の上り下りを幾度も繰り返したお陰で既に息も絶え絶えで、乱れきった呼吸と激しく上下を繰り返す肩に、どれだけ飲み込んでも足りない唾と噴き出る汗で今にも死にそうな顔になってしまっていた。
彼を追いかける足音は徐々に速度を上げている。距離は狭まり、響く音色は段々と近づく。綱吉の焦りは増大の一途で、硬い床を上履きで蹴りつけて前へ前へ進むものの、踵を踏み潰している為に何度となく転びそうになった。
「うあっ」
そして今も。
前に出すぎた爪先と、床に貼り付いた上履きの底とがすれ違いを起こし、綱吉は前に大きくつんのめった。両手を咄嗟に前に伸ばし、床と掌が衝突する瞬間を見計らって肘を揃って曲げる。丁度でんぐり返りをする体勢で勢いを殺しながら身体を反転させるが、右足の上履きがすっぽ抜けて在らぬ方向へと飛んでいってしまった。
転んだ衝撃は回避されたが、これでは走れない。綱吉は腰が着地すると同時に身体を裏返し、右腕を突っ張らせ半身を起こし急ぎ立ち上がろうとしたが、低くなった視界に黒い学生ズボンが見えて動きが止まった。
よりにもよって薄汚れた上履きは、近づいてくる足音の側に転がっていた。これでは取りに行けない。すれ違いざまに拾って、と一瞬考えたものの、相手の反応速度を知っているだけにあまりにも無謀な賭だと自分の中でストップがかかった。
じり、と床に片手と片膝を置いた状態で後退する。彼は静かに、ゆっくりと、けれど確実に綱吉との距離を詰める。
逃げられない、もう。手を伸ばせば届く近さまで迫られて、綱吉は頼りなく瞳を揺らした。
「良い度胸」
「っ」
「人の顔見て逃げるなんて、本当」
顔を上げる事も出来なくて、綱吉は僅かに怒気を孕んでいる彼の声を黙って受け止める。握りしめた視界の手を穴が空きそうなくらいに見つめ、奥歯を噛んで瞼を閉じた。
何故逃げたのだろう、あの場で大人しく波風立てずにやり過ごす事だって出来たのに。獄寺たちはどうなっただろう、大騒ぎになっていなければいいのだけれど。
分かっている、自分の身勝手さくらい。けれど、見付かりたくなかったし、没収されるのも嫌だった。持ち物検査をするのが彼と同じ風紀委員だからといって、没収品が全て彼のところに行くとは限らない。むしろ甘いものが嫌いな彼のこと、没収物を確認もせずに焼き捨ててしまいかねない。
そもそも、綱吉が没収されたものを、綱吉の所有物だと彼が知る可能性だって極端に低い。クラスメイトの前でポケットの中に押し込んでいるものをばらされるのも、恥ずかしくて嫌だった。
浅ましい自分がとことん情けなくて、綱吉は泣きたくなった。こんな事になるなら、昨日コンビニなんか行かなければ良かった。
「聞いてる?」
「う……」
返事をしない綱吉に痺れを切らし、彼は優雅な動きで片膝を折って蹲っている綱吉と視線の高さを揃えた。それでも顔を背けていると、伸びてきた腕が顎を捕まえて有無を言わさずに上向かされる。
どこまでも冷めた、深い闇を思わせる黒い瞳がそこにある。綱吉の顔を中心に映し出し、切れ長の目を更に細めている。
「綱吉?」
「だ、って」
名前を呼ばれた。誰かと一緒の時は決して呼ばない、綱吉の下の名前を。
息が詰まる。無理矢理上を向いている所為で首に負担が掛かっているのもあるし、何より瞬きの回数も減らしてまでジッと見つめられて、それだけで泣けて来た。彼の目に今自分しか映っていないのが嬉しくて、そして魅入られて逃げられない自分の心の弱さが情けなかった。
太股を寄せ、半端だった姿勢を整える。膝を前に出して揃え、足首を外側に投げ出して完全にその場で座り込もうとした綱吉だったが、尻に感じた何かが床に押しつけられて潰れる感触に慌てて腰を浮かせた。
「?」
咄嗟に膝立ちになった彼の不審すぎる動きに、雲雀は綱吉の顎から手を外して首を僅かに傾がせた。咄嗟に誤魔化そうとぎこちない笑みを浮かべる綱吉だったが、天下の雲雀恭弥にそんな生半可な仮面が通じるわけがない。疑念に駆られた彼が薄い唇を歪め、背筋を伸ばして綱吉を斜め上から睨みおろした。
「何を隠してるの」
「なっ、なにもありません!」
低い声の問いかけに、それこそ隠し事がありますと言わんばかりの上擦った声で返事をし、綱吉は次の瞬間自分の両手で口を二重に塞いだ。しまった、と目を見開いて首を振っても、もう遅い。
雲雀はふぅん、と相槌を打って、ゆるりと綱吉の顎を人差し指で撫でた。喉仏の上を擽り、まだ重ねられたままの口元を覆う手をなぞって離れていく。彼の指が通り過ぎた跡は焼けた鉄棒を押し当てられたみたいに皮膚が強ばり、カラカラに乾いて小さく痛んだ。
心がそわそわする。教室に残っている皆も心配だし、今この場に自分が雲雀とふたりきりだという状況が、なによりも。
落ち着き無く綱吉は視線を泳がせ、それとなく雲雀からズボンの後ろポケットを隠す。勿論正面を向き合っているので、身体の後方にあるポケットが雲雀に気づかれる事はないのだが。
綱吉が迂闊なのは、気付かれやしないかとちらちら背後を気にして、左手を膝の上から太股の辺りまで何度も往復させていた事だろう。これでは本当に、気付いてくれと言わんばかりの行動だ。しかも本人はこれで隠し通せていると信じているものだから、尚も厄介で。
雲雀は整った眉を寄せて、胸の前に腕を組み、縦に置いた右手で下唇を押し上げた。
「綱吉」
「はっ、はひぃ!」
相変わらず裏返ったままの声で、呂律が回りきらない返事を元気よく。それでよりいっそう顔を顰めた雲雀が、小さく溜息をついた。
膝を寄せる。左足の半月板が綱吉のそれにぶつかった。濃い影が顔に落ちてきた綱吉は、呆然と距離を詰めて来た雲雀の綺麗な顔を見上げた。
彼は腕を解くと左右に小さく広げ、綱吉の細い身体を両側から包み込む。肩よりも低く、肘よりも高い位置に腕を通し、腰の位置で両手を結ぶ。抱きしめられたのだと理解するのに、綱吉は優に五秒は必要だった。
「え」
「…………」
呆気に取られた綱吉が短く声をあげる。そのまま雲雀の右肩口まで引き寄せられ、彼の上半身は導かれるままに傾いだ。
雲雀は両膝を床に下ろしてふたり分の体重を支え、右手を綱吉の背中に、もう片手を腰から更に低い位置へ互い違いに動かした。咄嗟に反応出来ずにいる綱吉は、彼の左手が細い腰骨をなぞっていく感触に背筋を震わせた。
無意識に腕を持ち上げ、雲雀の上腕を捕まえる。学生服の下側に潜り込んだ指先が、アイロンと糊の利いた白いカッターシャツに深い皺を刻み込んだ。
雲雀の手はそんな綱吉の微細な反応にも構わず、ベストに隠れ気味の彼のスラックスをなぞった。布地が肌に密着している分、ダイレクトに指の感触を臀部に感じ取って綱吉はびくりと過剰なまでに背筋に緊張を走らせた。
「だ、だめ」
「どうして」
戸惑いに沈んだ声が綱吉から漏れ、真上にいる雲雀が喉を鳴らして笑った。彼の指はその間も綱吉の柔らかな肉を揉み続けていて、綱吉はきつく瞼を閉ざし感触をやり過ごしながら喉を引きつらせ、吐き出しそうになる声を堪えた。
腰を引いて逃げようにも、雲雀の右手ががっちりと背中を拘束していて、容易く外れそうにない。そうこうしているうちに雲雀の指がついに後ろポケットへ到達し、角張った膨らみを布地の上からなぞっていった。
触れられたと分かった瞬間にも綱吉は身体を強ばらせた為、彼が隠そうとしていたものがそれだと雲雀に容易に知られてしまった。綱吉に見えない位置で彼は薄く口元に笑みを浮かべ、身動ぎする綱吉の後頭部を右手で抱え込んだ。抵抗を完全に封じ込め、綱吉が鼻を彼の肩に潰されて藻掻くのも無視し、ベストの裾を持ち上げる。
ひやりとした冷気が肌を撫で、綱吉は息が出来なくて苦しいのもあって喘いだ。掴んでいる雲雀の腕に爪を立て、胸を突っ張らせて無理矢理空間を作り出し、首を振って雲雀の右手を払い落とす。
するり、と雲雀の指がポケットの中へ迷い込む。最初は人差し指だけ、内容物の形状を確かめ、厚みから一本では足りないと判断し、親指を追加。丁度箱を挟むように動いた雲雀の親指の爪が綱吉の尻に食い込み、彼は声にならない悲鳴を飲み込んだ。
「……ぅぅ」
小さく呻き、綱吉は自分から雲雀の肩に額を押しつける。
ポケットから抜き取られたもの、それは少しだけ角が潰れてしまっている、黄色と黒が中心になって表層を飾る箱だった。菓子の流行に疎い雲雀でも、幼少時の記憶を持ち出して懐かしさを抱くくらいに見覚えがあるデザイン。
銀のエンジェルだか、金のエンジェルだかを集めろという、あの。
卵形に嘴をつけた、二本足で立つ奇っ怪な形状をしたキャラクターが愛敬を振りまいている、あの。
「綱吉?」
取り出したものを顔の高さまで持ち上げた雲雀が、腕の中で小さくなっている存在に呼びかける。だが彼は返事をする様子もなく、小刻みに震えて雲雀にしがみついていた。握りしめられた腕がそろそろ痛い。
雲雀の頭の中では、実に様々な考えが巡っていた。
教室から綱吉が逃げたのは、風紀委員にこれが見付かって没収されるのが嫌だったから、とは簡単に想像出来た。しかしこんな安物の菓子ひとつに綱吉が固執するのかが分からない。
今日は妙に委員全体が活気づいている上に殺気立っていた。昨日、持ち物検査は登校時ではなく昼に抜き打ちでやりたい、という委員の申し出を深く考えないまま雲雀は許可したのだが、それと何か関係があるのだろうか。
ともあれ、学校内では昼食以外の間食は一切禁止が原則。見つけた以上、相手が綱吉であっても見逃せない。
「これは没収するよ」
「ダメ!」
未開封の箱を左右に揺らした雲雀の一言に、弾かれて顔を上げた綱吉が叫んだ。掴んでいた腕を放し、雲雀の胸を軽く叩いて反動で身を起こした綱吉は、泣き出しそうな顔をして浅く唇を噛む。緩く握った拳を胸元で数回揺らし、それから飛びつくように雲雀の左手にある箱を取り戻そうと足掻いた。
反射的に腕を引き、雲雀が綱吉の手を避ける。膝立ちのまま背筋を大きく反らせ、危うく後ろ向きに転倒する寸前で持ちこたえた彼をなおもしつこく綱吉が追いかけ、そのうちにふたり、揉みくちゃになりながら床に転がった。
掃除が行き届いているからといって、全く埃が落ちていないわけではない。舞い上がった細かな塵に一瞬咳き込んだ雲雀は、胸の上に倒れ込む綱吉を庇いつつも左手は頭上高くまで逃して箱の奪還を阻止した。
大体、これが何だというのか。その辺の何処にでも安売りされているような菓子に、どんな未練があるというのか。
「ヒバリさん、それ」
「ともかく、風紀を乱す行動は見逃せない」
「じゃあ、じゃあせめて」
腕をどれだけ伸ばしても届かないと知り、綱吉はやがて諦めたように首を振った。けれど言いかけた途端また下を向き、声を詰まらせる。
雲雀はそんな彼を押し返して自分も一緒に身体を起こした。伸びきった脚をそのまま前方へ放り出し、間に綱吉を挟む。ただそれだと居心地が悪くて、左の膝を曲げて引き寄せ緩い角度を作り、そこへ肘を置いた。
「綱吉?」
「……ヒバリさんは、甘いもの嫌いって、分かってるんですけど」
何故か律儀に正座を作った綱吉が、揃えた両手を膝の上でぎゅっと握りしめた。その間もまるで人の顔を見ようとせず、引き結ばれた唇は何かの決意を込めているようであり、余計な茶々は入れるべきでないと雲雀も出かけた言葉を飲み込んだ。
静かに彼の次の言葉を待つ。けれど迷っているのか、左右を落ち着き無く見回す綱吉はなかなか口を開こうとしない。
「…………だから、えっと」
先に気付いてくれないだろうか、と淡い期待を胸に抱いて綱吉が盗み見た雲雀の表情は、事の内容を全く理解していない顔だった。ひょっとしたらこの人は、今日がどういう日なのかも知らないのかもしれない。そんな不安が一瞬胸をよぎり、綱吉はまさかね、と改めて雲雀を上目遣いに見つめた。
視線に気付き、雲雀が僅かに首を傾がせる。
「ヒバリさん、失礼ですが、その……今日は何の日か、知ってます?」
案ずるより産むが易し。分からないなら、あれこれ考えるより聞いてみた方が早い。
「今日?」
「はい」
右の眉を持ち上げて怪訝な顔をした彼は、少し考えてから、
「二月十四日だろう」
聞いた瞬間、やっぱりな、という気持ちと、どうしてなんだろう、という気持ちが半々に入り交じり、綱吉は盛大な溜息をついて雲雀の胸にがくりと崩れ落ちた。
「綱吉」
その反応はあまりにも失礼ではないか、と力が抜けきった綱吉の肩を両手で抱いた雲雀は、つい今し方自分が言い放った日付に思い当たる節を見つけ、一旦落とした視線を天井付近まで泳がせた。
昨日から持ち物検査に対して妙に気合いが入っていた、嫌われはしても好かれる事がほとんど無い風紀委員の面々。浮き足立っていた登校時の生徒達に、昼休みの反抗的態度を見せた数人の生徒。
逃げた綱吉、ポケットにはチョコレート加工菓子の箱。
「…………」
合点がいった、漸く。
先程の自分の答えで綱吉が脱力した理由も、没収という単語に嫌に反応して抵抗してきたのも、全部。
やっと理解した。
「つまりこれは、――僕に?」
しかし、これはあまりにも贈答品にしては貧相過ぎやしないか。文句を言うつもりはないが、もう少し愛を込めて欲しかったという気持ちを声に出すと、のろのろと顔を上げた綱吉が、だって、と口ごもった。
胸の前で頻りに指を弄り、俯いて顔を赤くする。
彼曰く、綺麗に梱包されているようなものは、今日という日のイベント設定上、購入するのは女性が主だから恥ずかしい。普通の菓子を購入するにしても、堂々とチョコレートひとつだけを買うのは変に勘ぐられそうで、やっぱり恥ずかしい。
だから安い菓子を何個かまとめて購入する中に、ひとつくらい紛れ込ませれば怪しまれないで済むのではないかという、そんな理由で選び出されたのが、これ。単価が安くなったのは、一緒に買い込んだ他のお菓子の代金が嵩んでしまったからだろう。
いじらしいというべきか、行動が幼稚と笑うべきか。
雲雀は掲げた掌サイズの菓子箱を振って中身を揺らし、暫く考え込む。
「で、でもヒバリさんこういうの嫌い、ですよね。良いんです、やだな、本気にしないでください」
照れ隠しか逃げの口上か、こういう時だけ早口にまくし立てる綱吉が自分の頭を掻きむしり、作り笑いで場を誤魔化そうとする。
その裏側に隠れた想いが、痛いくらいに伝わってくる。
「……ね?」
最後は弱々しく同意を求められて、雲雀は首肯も否定も出来ぬまま綱吉を、そして手の中の箱を交互に見つめた。
右手を持ち上げ、菓子箱に巻かれた透明なフィルムの切れ端を摘む。ぴっ、と微かな音が響いた。
「ヒバリさん」
「僕にくれるんだろう?」
目をのぞき込んで問われ、綱吉は考え無しに頷いて返す。一秒後我に返ってしまったと思った矢先、雲雀の指が顔の前に迫った。
目の高さを通り過ぎ、鼻筋をなぞるようにして、口元へ。何か黒い物体を挟み持っている二本の指が綱吉の唇に押し当てられ、反射的に綱吉は下唇に力を入れて押し返していた。けれどそれよりも強い力が加えられ、些細な抵抗など意に介さない雲雀の指は彼の唇を難なく突き破り、閉ざされた前歯に軽い衝撃を与えた。
「むぐっ」
尚も押し返そうと突っ張るが、一本に減った雲雀の人差し指が更に強く押し当てて来て、このままでは前歯が折れそうな恐怖もあり綱吉は抵抗を諦めて仕方なく歯列を割り、口を広げた。
雲雀の指が潜り込んでくる。だが彼はそれ以上何をするでもなく、持っていた丸い物体を綱吉の舌に転がすと呆気なく引き抜いてしまった。
後に残るは、甘い味。唾液に絡み、表面が溶け始めたそれは。
「ヒバリさんっ」
いつの間に中身を取り出したのか、箱の頂部にある黄色い口を広げて雲雀が笑っている。綱吉の舌では、チョコレートでコーティングされたアーモンドが落ち着き無く、そわそわと動き回っていた。
下手に喋ろうとすればアーモンドをかみ砕いてしまいそうになり、綱吉は慌てて口を閉じて頬の片側に舌を使ってそれを追いやった。雲雀は箱の蓋を閉め、中身がまだ大量に残っているそれを胸ポケットへ大事にしまい込む。返すつもりは無いらしい。
それにしても、この口に入れられた一個はどうすればいいのだろうか、雲雀の考えが綱吉には分かない。この間にもチョコレートはゆっくりと溶け、甘い味を口の中に広げている。
「美味しい?」
「……はい」
長い間販売され続けている菓子だ、美味しくないわけがない。雲雀の愚問に小さく頷き、綱吉は反対側の頬へアーモンドを転がす。その顎を、再び捕らえられた。
「そう。なら、僕も貰うとしよう」
「へ?」
言われた言葉の内容を巧くかみ砕いて吟味出来ず、綱吉は目を瞬かせて雲雀を凝視した。
影が舞い降りる。
「ヒバ……」
最後まで呼べぬまま、唇が塞がれた。
目の前に閉じた雲雀の瞼がある。長い睫毛が微かに揺れ、浅く呼吸する息音が聞こえて心臓が高鳴る。反射的に自分も目を閉じ、綱吉はたじろぎながら重なり合った唇を持て余し数回無意味に表面を強ばらせた。
気配で雲雀が笑っているのが伝わってくる。余裕がありすぎる彼が悔しくて、綱吉は覆い被さろうとしてくる彼を押し返した。だがその力を込めたタイミングを狙って雲雀が角度を変え、より深く重なりを求めてきた。彼の腕に添えた指が硬直する
身体の端々が痙攣し、背筋が粟立つ。
「んっ……ふ、ぅ……」
震えながら持ち上げた右腕が、雲雀の空っぽの上着の袖を掴んだ。それがずり落ちていくのも構わず、強く握りしめて引っ張る。薄目を開けた雲雀が小さく笑み、悪戯を仕掛けてくる彼の手首を逆に捕まえた。そのまま位置をずらして掌を撫で、指を絡めて床に縫いつける。
自由の利く腕は綱吉の上腕ごと背中に回して抱きしめ、彼の動きを束縛する。そんな事をしても綱吉は逃げないと分かっていても、時として不安になるのは彼が誰からも好かれる上に、誰に対しても平等に接しようとするからだろう。
だから自分の為に彼処まで彼が必死になったのだと分かったのは、素直な喜びだった。
「つなよし」
息継ぎの合間に囁き、彼の背を撫でる。ピクリと震えた彼が瞼を持ち上げ間近で視線が絡み、どちらからとも知らず再び貪るように唇を重ね合った。
歯列を裂いて綱吉の口腔に潜り込んだ雲雀の舌が、チョコレートで包まれた綱吉の粘膜を舐め回す。薄くなったその甘さは雲雀からすれば丁度良いくらいになっていて、綱吉が呼吸も絶え絶えになりながら必死に追い縋るのを楽しそうに眺め下ろし、甘く濁った唾液を己に招き入れて音を立てて飲み込んだ。
「は、ぁ……んんっ」
舌と舌の間で薄茶色に色をつけた糸が引く。雲雀はそれさえも器用に掬い上げると、熱を帯びて潤み始めている綱吉の目を覗き込んで瞼ギリギリの位置にも口づけを落とした。更にだらしなく開け放たれたままの綱吉の唇にも舌を這わせ、顎を辿り落ちていく唾液を喉元から上に向かって拭っていく。
「ん……っ」
喉仏を擽る甘い感覚に打ち震え、綱吉は鼻から抜けるような甘い声を漏らした。耳にした雲雀が楽しげに瞳を細め、三度重ね合わせた唇、遠慮無しに口腔を舌で蹂躙し、奥歯と内膜との間に逃げ込んでいたアーモンドを拾い上げる。
「う……ん?」
互いの舌の間に挟むよう押しつけられ、綱吉は怪訝気味に右の目だけを開いて雲雀を見た。但し視線は絡まず、仕方なく綱吉はまた目を閉じる。
彼は器用に綱吉の舌をも使って球体のアーモンドを転がすと、綱吉の前歯で挟めるような位置まで移動させた。下手に意志を持って舌を使われる分、普段以上に体力が消耗してこの段階で既に綱吉はかなり息が上がってしまっている。
絶対この人は舌だけでサクランボの柄を結べるに違いない。時折意識が飛びそうになるのを堪え、涙目になりながら綱吉は思った。
最後を支えきれずに滑り落ちたアーモンドの堅い表皮が、綱吉の下前歯の裏側に当たる。カチリと口の中でだけ音が起こり、綱吉は薄目を開けてすぐに閉ざした。跳ね返り口腔内に戻っていこうとする丸い物体を雲雀は舌の裏側で押し止め、衝撃を感じて反射的に口を閉ざそうとした綱吉は、柔らかな彼の肉を噛み切り掛けて慌てて顎の力を抜いた。
触れてくる雲雀が笑っているのが分かる。良いように遊ばれている気がして悔しくて、綱吉は雲雀が掬おうとした球形のアーモンドを舌先で弾き飛ばした。雲雀から奪い取り、砕かない程度に力を込めて奥歯で挟み込む。表面を覆っていたチョコレートはすっかり溶けてしまって、味は舌の裏側にさえ残っていなかった。
甘い唾液を飲み下し、綱吉は潜り込む雲雀を押し返す。指を絡め取られた手に力を加えて握り替えし、むしろ薄い皮膚に爪を立てて攻撃を仕掛ける。肩を揺すって笑い返すと、眉根を寄せた雲雀は尚も強引に綱吉の口腔に押し入って隠されたアーモンドを無理矢理に引っ張り出した。
「ふくっ、んぁ……ぅ~~」
吸い込んだ空気も、吐き出そうとする息も一緒くたに彼に奪われ、胸が苦しくなった綱吉が彼の膝を叩いた。しかし構うことなく雲雀は綱吉の口腔内を蹂躙し、水分を吸いこんで生ぬるく唾液を絡めたアーモンドを再び彼らの継ぎ目へと導いた。
今度は失敗しないよう、ゆっくりと綱吉の舌を舐めながらアーモンドを動かす。中央の切れ目が前歯の端に当たるように操作し、下からねっとりと押しあげた。ぱきり、と丸かったものがふたつの半球に分かたれる。
「う……」
「ふっ、ん……」
僅かな痛みに綱吉は眉根を寄せ、雲雀は二つに割れたアーモンドの片割れを己に引き寄せた。もう片方は綱吉の内側へ放置して、彼は綱吉の下唇を吸いながら舌を引き戻す。先端に絡め取られた乳白色の破片が艶めかしい輝きを放って綱吉の瞳に残り、彼は赤い顔を揺らして俯いた。
口を閉じる。犬歯に触れたアーモンドがカチリと表層を削られて、口の中で小さく跳ねた。
透明な糸を引いた唾液が中央で千切れる。舞い戻ってきた冷たさに綱吉は咄嗟に身を竦め、雲雀の肌に爪を浅く食い込ませた。
目の前でこの男は赤い舌で己の濡れた唇を右から左へと舐め、残った唾液を親指で掬い取る。それにさえ舌を絡めていやらしい笑みを浮かべ、雲雀は挑発的な視線で綱吉を射た。カリ、と奥歯で硬いものをかみ砕き、綱吉の唾液に絡めて一息に飲み下す。膨らみを帯びた喉が上下して、見送った綱吉までもが引きつられて喉を鳴らした。
己の浅ましさが恥ずかしくて、次の瞬間には火を噴きそうなくらい顔を赤くして俯いてしまったけれど。
見ていた雲雀がくっ、と喉を鳴らす。
「甘いな」
楽しげに口元を歪めた彼が呟いた。濡れた親指の腹を舐め、裏返したそれで綱吉の唇に触れる。爪の先をねじ込むように押し当てられ、綱吉は言い返す余裕を与えられぬまま彼の指に舌先を絡めた。
「校則、……違反、です」
表皮が乾くより早く彼の指に唾液を塗し、押し返した綱吉が辿々しい口調で言い放つ。彼の咥内に残っていたアーモンドもまた、奥歯に砕かれて喉の奥へと。味なんて殆どしないそれの感触だけが舌の上に残って、居心地の悪さから身体を揺すった綱吉は肘を引いて雲雀の腕から逃げた。
唾液を滴らせた指を舐めやった雲雀が、空っぽになった掌を詰まらなさそうに見下ろしてから軽く握りしめる。曲げた膝で綱吉の脇腹を小突き、妖しげに熱を帯びた瞳を近づけて綱吉を正面から覗き込んだ彼は、反射的に身を引いて逃げようとする綱吉の前ですっと首を伸ばし触れるだけのキスを落とした。
「君もね」
「…………」
学校内では昼食時以外の飲食厳禁、お菓子は本来持ち込み禁止。綱吉はふたつとも、そして雲雀は片方だけ、この規約を破った。
綱吉は触れられた唇に手の甲を押し当ててそのまま赤い顔を半分隠し、上目遣いに雲雀を睨んだ。彼はどこまでも意地悪に、そして楽しげに口元を歪めて笑っている。それは経験上綱吉もよく知る表情、何か良からぬ事を企てている時の笑みだ。
「ヒバリさん」
「罰は、そうだな」
「む……」
一瞬だけ視線を綱吉から外した彼は立てた親指で己の顎を持ち上げ、灰色の天井付近を見つめてしばし考え込む。やはりそうなるのか、今度はどこのトイレ掃除だろう。これまでの風紀委員から言い渡された罰則の数々を思い返し、綱吉は無意識に溜息を零した。
と、雲雀のもう片方の手が俯き加減だった綱吉の喉を撫で、顎の裏の柔らかい部分を揃えた四本の指で押し上げた。いつの間にか正面に戻されていた雲雀と目が合い、漆黒の闇に浮かぶ自分の姿に綱吉はまた赤くなった。
「今回は僕も一緒だから」
猫をあやすような仕草で喉を撫でられる。ぞわり、と背筋に悪寒に似た感覚が走り抜けていった。
腰から力が抜ける。顔を寄せ、耳元に息を吹きかけられて首が竦む。太股へ降りていった手が柔らかな肉をズボンの上から揉み扱き、膝を閉じて逃れようとする綱吉の首を彼の舌が邪魔するように擽った。
「応接室の掃除でも、頼もうかな」
耳朶を舐め、甘く咬み彼が囁く。
遠くで授業終了のチャイムが鳴り響いた。綱吉はどこか他人事のようにそれを聞き流し、体中を駆け巡る熱に翻弄されるままに小さく頷いた。
2007/2/10 脱稿