春光

 陽射しの眩しさに、いい加減起きないといけませんよ、と説教されている気持ちになって、目が覚めた。
 本格的な春の到来にはまだ遠いけれど、此処最近の暖冬の影響でガラス窓一枚を隔てて室内に流れ込む陽射しは、カレンダーにある日付よりもずっと空気も温んでいる。テレビでは冬眠に失敗している蛇が頭だけ隠して尻を丸出しにしている、だなんて間抜けなニュースが流れるくらいで、また矢張り冬眠できない熊が出没する、なんて話も度々耳にするようになった。
「んー……」
 眩しさを瞼の裏に感じ取り、綱吉は低く呻いて寝返りを打った。頭の下で柔らかい枕の凹凸が動き、胸に抱きこんでいた掛け布団が塊になって反対側へ転がる。だらしなく緩んだ口元からは涎が垂れ、無防備に投げ出された左足のつま先がベッドの端から落ちた。そのまま重力に引っ張られてずるりと下半身が床に沈みそうになったところで、彼は漸く自分の体勢の危うさに気づいて目を開けた。
 それでもまだ眠気が完全に拭い去られたわけではなく、寝ぼけ眼のまま数回瞬きを繰り返し、欠伸を零してまた反対側へ寝返りを。完全に体を覆い隠す役目を失った布団を抱き締め、背中を丸めて気持ちよさそうに陽だまりの匂いがする布団に額をこすりつける。
 窓際に置かれたベッド全体には、薄布のカーテンを隔てて陽射しが差し込んでいる。適度に温められた室温は布団を被っていなくても平気なくらいで、彼は心地よい眠りを再び満喫しようと脳が命じるままに半分だけ持ち上げていた瞼を閉ざす。窓越しにはチュンチュン、という小鳥の囀りが聞こえてきた。
「ん~」
 布団に顔を押し付けすぎて、息が苦しい。彼は仕方なくもそもそと芋虫の如く身体を捻って仰向けに転がり、再び瞼に感じた明るさに眉根を寄せた。薄目を持ち上げると、頭の中に飛び込んできた光で思考回路全てがショートして真っ白になる。咄嗟に目を閉じて堪えるが、お陰ですっかり眠気はどこかへ消え去ってしまい、綱吉は喉を唸らせながら両腕を頭上に持ち上げて寝転んだまま背伸びをした。
 丸めた拳が壁にぶつかり、肘が枕に沈む。腹の上で丸まった布団を押しのけて上半身を起こし、曲げた膝と腹との間に挟みこんで肩を回す。ポキポキと骨が鳴り、もうひとつ欠伸を噛み殺して彼は鈍い動きで首を振った。
 目尻を擦ると、目脂と涙が一緒になって爪の端に引っかかる。昨晩、眠る前にきちんと整えたはずのパジャマも、何度となく寝返りを打っている間にすっかり乱れ、裾がズボンからはみ出していた。
「ねむ……」
 時計を見上げると、歪んだ視界に描き出された文字盤は午前十時を過ぎた辺りを指し示している。ベッドに潜り込んだのが日付の変わった直後辺りだったから、丸々十時間は寝入っていた計算だ。だが日頃の疲れがまだ抜け切っていないのか、それとも普段より眠りすぎたからなのか、倦怠感が全身を包み込んでおり、綱吉は再び背中からベッドのクッションに転がり落ちた。
 とはいえ、目はすっかり覚めてしまっている。頭も徐々にではあるがクリアになっていて、目を閉じても夢の世界へは早々に飛び立てそうになかった。ただパジャマを脱いで着替え、朝食とも昼食ともつかない食事にありつくのには若干気力が足りない。
 それになにより、この暖かい部屋で布団に包まっているだけでも充分幸せを感じてしまう。だらけた気持ちのまま縦に丸めた布団にしがみついた綱吉だったが、ふといつもの日曜日と違う感覚を背中に覚え、寝転んだまま首を捻った。
 首から上だけを持ち上げ、部屋の内部を見回す。角に吊るされたハンモックは蛻の空で、人の部屋へ勝手に我が物顔で住み着いている赤ん坊の姿はどこにもなかった。
 そう、いつもならあの赤ん坊は、綱吉が自堕落にいつまでも眠っていることを許さない。それが胸に抱いた違和感の正体で、どうしてだろう、と昨晩の記憶を手繰り寄せると、思い当たる会話が直ぐに出て来た。そういえば彼は今日どうしても外せない大事な用事があるとかで、昨晩の段階から外出していたのだ。
 だから今日は珍しく、ゆっくりと眠りを満喫できたのだ。冴えてきた頭を揺らし、なんとなく居心地が悪い気がして彼は両腕も広げてベッドに投げ出した。
「……起きよ」
 リボーンのこと、用事があるというのは全くの嘘でたらめで、見付からない場所から自分の行動を監視して怠けていないかチェックしているのではないか。そんな危惧さえ頭を過ぎり、とてもではないがこれ以上ベッドに転がっている気分になれなかった。
 威勢よく跳ね上がった髪の毛を掻き毟り、再度欠伸を零してベッドから降りる。冷やりとした冷気は床の上に僅かに残っていて、つま先が触れた瞬間全身に鳥肌が立った。
「そっか。まだ二月だもんな」
 今年が始まったばかりのカレンダーはまだまだ厚みを残していて、重そうに壁に吊るされている。今日の日付を確認した綱吉は、一瞬で竦んでしまった身体を宥めて撫でさすりながら、爪先立ちになって急ぎクローゼットの戸を開いた。中から手頃な着替えを取り出し、素早くパジャマを脱ぎ捨てて袖を通す。ヒヤッとした空気を素肌に感じると、矢張りというべきか、小さな悲鳴が何度も漏れた。
 厚手のセーターに頭を通し、身支度を整え終わると脱いだばかりで自分の体温がまだ残っているパジャマを丸め、締め切られた部屋のドアをあける。廊下は室内よりもずっと冷たい空気がひしめいていて、身震いして脚が止まりそうになるのを勇気付けて飛び出す。階段を落ちそうになりながら駆け下り洗面所に飛び込むと、片隅の洗濯機が轟音を撒き散らしながら絶賛稼働中だった。
 足元には洗濯籠が、汚れ物と洗濯済みのものに分けられて並んでいる。洗面台の前は辛うじて隙間が設けられていたが、なんだか歓迎されていない気分になって綱吉は汚れ物の籠にパジャマを押し込み、乱雑に顔を洗って其処を出た。
 本当は時間をかけて曲がりくねった髪の毛に櫛を通し、ドライヤーでどうにか形を整えたいところだったけれど、この状況ではゆっくり出来そうにもない。喧しい騒音を響かせる洗濯機を恨めしげに一瞥して洗面所を出た綱吉は、その足で食堂も兼ねる台所の暖簾を潜った。
 こちらもまた、誰も居ない。
「あれ?」
 専業主婦である奈々のみならず、騒がしく家中を駆けずり回っているはずの子供達の姿も見付からない。流し台の前に立ってシンクを覗き込めば、食後の食器が積み重ねられて水に浸っている。テーブルを振り返れば綱吉のものと思われる皿がひとつと、口を結ばれた食パンの袋が並んでいて、自分以外は既に朝食が完了していることを暗に示していた。
 洗濯機が動いたままだったのだから、家の中に他に誰か居るのは間違いない。けれど静まり返った空気はどこか不気味で、綱吉は口をへの字に曲げて食パンを取り出すと、乱暴な扱いでトースターに放り込んだ。
 スイッチを捻る――――動かない。
「……」
 目線だけをテーブルから床に這わせれば、椅子の背凭れにコンセントの先が引っかかっていた。それがどうにも苛立たしくて、綱吉は腰を曲げるとコードを掴み壁の穴に捻じ込む。タイマーが既に回転していた所為で、後ろでチン、と間抜けな音が短く響いた。
 皿の上には双子の目玉焼きとカリカリに焦げたベーコンに、少し水気が抜けてしまっているサラダ菜が数枚。これ以外には無いのだろうかと探してみるものの、見える範囲にそれらしきものは置かれていない。綱吉は肩を竦めると冷蔵庫をあけ、牛乳と一緒にトーストに塗るべくバターとジャムを取り出した。それからふと、イチゴジャムの隣に見慣れない緑色の小瓶を見つけ、それも一緒に胸に抱える。
 腰骨で冷蔵庫のドアを閉め、取り出したものを順にテーブルに並べていく。その頃には焦げ目が着き始めたトーストから香ばしい匂いが漂い始め、否応なしに食欲をそそられた綱吉は生唾をひとつ飲みこんでから食器棚のコップをひとつ手に取った。
 全ての準備を整え、目玉焼きの皿を引き寄せる。椅子に腰掛ける前に暖めようかどうか迷ったが、面倒臭いの一言から電子レンジの使用は却下された。
 トースト用にもう一枚皿を用意し、今度こそ腰を落ち着けて綱吉は目玉焼きの黄身部分を端の先で小突く。何かかけようかと迷ってまた直ぐに思い直し、大きな白身部分を不器用に端で抓んで口へと運び入れる。そうこうしている間にトースターからは小気味の良い音が響き、自動的に持ち上がった食パンを熱さ堪えつつ引き抜いて皿に落とした。
「ん、っと……」
 小麦色の焦げ目がついた面を見下ろし、それから綱吉は視線を持ち上げてテーブルに並ぶ小瓶やプラスチックケースを眺めた。どれを塗ろうか一瞬迷い、食べなれた味のジャムにもそろそろ飽きてきたなと思い至ったところで目に止まる、薄緑色をしたクリームらしきものが詰め込まれている瓶。
 表面には綱吉には読めない文字で、なにやら細かく書き込まれたラベルが貼り付けられている。一際大きめの文字で書かれているのが商品名なのだろうが、英語とはまた違うようで彼は首を捻るほかない。
 こんなもの、あっただろうか。少なくとも記憶の限り、綱吉はこれを食べたことがない。ジャムその他と一緒に置かれていたのだから、パンに塗って食べても構わないものだとは思うのだが。
 物は試し、と綱吉が緑の小瓶に手を伸ばした。
 直後、後ろで物音がする。綱吉が小瓶を掴みあげたところで振り返った先、台所と通路とを遮っている暖簾を目線の高さまで手で持ち上げたバジルが、薄茶色の髪を揺らして立っていた。
「あれ」
 視線が合い、先に綱吉が驚きに目を丸くした。彼はカーキ色のセーターの上に奈々が愛用している花柄模様のエプロンをつけ、空っぽになった洗濯籠をもう片手で小脇に抱えていたからだ。セーターの袖も、水仕事の邪魔にならないようになのか肘のあたりにまで捲り上げられている。
「おはよう御座います、沢田殿」
 洗濯籠を脇から身体の前面に移動させ、両手で抱えなおしたバジルが台所へゆっくりとした足取りで入ってくる。綱吉はといえば、持ち上げた瓶を下ろすのも忘れ、いったい彼は何をしているのだろうかと上から下まで順番にその姿を見詰めていた。
 視線に気づき、彼は小さく笑って首を右に傾ける。
「なにか?」
「あ、いや。何してるのかなって」
 不躾にまじまじと見詰めてしまっていたことに気づき、綱吉は若干慌てながら首を振った。エプロンをつけているだけだというのに妙な新鮮さを抱かずにいられなくて、自分でもおかしいな、と思いつつ綱吉は漸く瓶をテーブルに置いた。
 彼は気を悪くする様子もなく、ああ、と頷いて、
「お洗濯を」
 空の籠を綱吉に示し、にっこりと微笑む。一瞬彼の周囲にエプロンと同じく花が咲き乱れたのではないかと錯覚したが、そんな春爛漫な光景がこの殺風景な台所に展開されるわけがない。綱吉は風の唸りを耳に感じる勢いで首を振り、それから沸いて出た疑問を率直に口にする。
「母さんは?」
 洗濯その他諸々、家事は奈々が基本的にひとりでこなしている。過去に何度か、バジルが手伝っている姿を見かけたことはあるけれど、今日のように完全に彼がひとりきりで仕事をこなしているのはなかった。もしかしたら綱吉が学校で不在の間に、何度かあったのかもしれないけれど。
 目覚めてから一度も姿を見かけていない母親の所在を問いかけると、バジルは籠を逆さまにして胸に抱き、ああ、と相槌を返す。いつもの休日なら喧しく響き渡っている子供達の騒ぎ声も、今は遠い過去の産物のようだ。
「町内会で、公園の掃除だとかで朝早くから。皆さんも一緒に」
 目を細めて告げたバジルのことばに、綱吉は思い当たる節を見つけて小さく頷いた。そういえば回覧板でそんな趣旨の告知が回ってきていたが、今日だったのか。
 ならば奈々が居ないのは納得できる、だがそれとは別でバジルが洗濯をしている説明がつかない。疑わしい目を向けると、彼は、見る者が毒気を抜かれて止まない笑みを絶やさずに、今日は天気がいいですから、と呑気なことを口にした。
「あ、そう……」
 確かに、窓の外は快晴の空が広がっている。冬の最中であるが、自室で感じたように陽射しは温く、春の到来がそう遠くないと知らせているようでもある。
 会話が不自然に途切れ、綱吉はテーブルに這わせた手で小瓶を小突いた。早く食べなければトーストも冷めてしまう。中断させた食事に戻ろうと体をテーブルに向き直したところで、綱吉の前方にある瓶に気づいたバジルが、一際嬉しそうに顔をほころばせた。
「それ」
「ん?」
 右手をゆるりと持ち上げ、人差し指で指し示す。声に顔を上げた綱吉は、バジルを先に見てそれから彼が見詰めているものに視線を落とした。
 綱吉の手元、緑色のクリームがぎっしりと詰め込まれている瓶。
「これ?」
「はい」
 蓋を持って掲げると、彼は首肯して二歩綱吉の側へ歩み寄った。欲しいのだろうかと思ったが、彼の両手は空の籠を抱いたままで空く様子は無い。ただ嬉しそうに笑っているだけで、怪訝に眉根を寄せているうちに、存外に近いところで彼の声が響いた。
 天井光を遮った彼の影が、綱吉の右肩に落ちる。
「昨日イタリアから届いたんです。美味しいですよ」
 未開封の瓶に書かれている文字、なるほど、言われてみれば確かにイタリア語だ。ただ海外産の食品にはあまり縁がないので、中のクリームが何を原材料にしているのか綱吉にはさっぱり分からない。盗み見たバジルは中身が何かを教えてくれる様子もなくて、仕方なく綱吉は左手を瓶底に添えて右手で蓋をあけにかかった。
 バジルは滅多に嘘をつかない、というか綱吉が知る限りついたことがない。いつだって正直に真っ直ぐな彼が言うのだから、味は保障されている。美味しいということばに惹かれ、綱吉はぐっと腹に力を込めて蓋を捻った。
 が、虚しくも左手の上で瓶が空回る。
「うっ……」
 思わず呻き声が漏れ、聞こえたバジルがきょとんと目を丸くした。
「沢田殿?」
 どうかしましたか、と聞かれても答えられない。歯を食いしばって必死に押さえ込んでいるのに、がっちりと密閉されている瓶の蓋は、綱吉がこめかみに血管が浮かびあがるくらいにまで力んでもピクリとも動かなかった。
 一度力を抜き、瓶を見直す。まさかテープで固定されているのではないか、と勘繰って確かめるが、勿論そんなものは一切付着していない。綱吉は今一度唸り、大仰に肩を怒らせて胸の前で瓶を斜めに握り締めた。
 が、矢張り結果は同じ。どれだけ力を込めても瓶は反応してくれず、綱吉が酸素不足で頭に血が上り、ぜいぜいと喘いでいるところへ、横から伸びた手が唐突に瓶を攫っていった。
 疲れた目で行方を追いかける、バジルが苦笑しながら籠を置いて瓶を握るところだった。
「大丈夫ですか?」
 綱吉を心配することばを呟きながら、彼は軽い仕草で瓶を掴み、蓋を捻る。
 ぽんっ、と軽い音を響かせ、一瞬にしてあれだけ強固な抵抗を見せていた瓶はバジルの手の中でふたつに分離した。
「げっ」
「あ」
 そのあまりにも呆気ない結末に、ふたりして全く違った表情でことばを失う。乾いた笑いを表情に浮かべ、やや困った風情でバジルは綱吉の前にクリームがたっぷり詰め込まれている瓶を置いた。立てかけるように、続けて蓋も。
 正直ここまで力の差を見せ付けられるとショックも隠せない。自分と彼とはそんなに体格差もない筈なのに、と椅子の上で唇を尖らせた綱吉にかける言葉も浮かばないのか、バジルはそそくさと置いた籠を拾い上げ、後ろ足で遠ざかっていく。
「では、拙者はまだ洗濯物が残っていますので」
 洗面所の床に並べられていた幾つかの籠が思い浮かぶ。咄嗟に顔を上げるけれど彼は既に綱吉に背中を向けて台所を出て行こうとしているところで、角を曲がられてしまうと、後は足音だけしか残らない。
 お礼を言い損ねてしまい、後でちゃんと言おうと心に決めて食パンに向き直る。
 皿の上のそれは焦げ目がややしんなりとしていて、大分冷めてしまっていた。折角だからとバジルによって解放された瓶にスプーンを差し込み、中身を掬い取ってパンに広げていく。感触はピーナッツバターのそれに似ていた。
 適当に塗り広げ、端を持ってかじりつく。
「んー……」
 もぐもぐと咀嚼する間、これはいったい何の味だろうと考えてみるが、心当たりが見付からない。廊下では洗濯物をいっぱい詰め込んだ籠を手に忙しそうに走っていくバジルの姿が一瞬だけ見えて、食べ終わったら手伝った方がいいかな、と漠然と考える。
 けれどなかなか動く気にもなれず、ちびちびと朝食を片付けた後、もう一枚にも同じ瓶のクリームを塗りたくってかぶりつき、最後に指についたクリームも舌で舐め取って味を確かめる。黒い粒々が指の上に残り、少しだがチョコレートのような味を感じた。
 不味くは無い。むしろ、バジルの言葉通り、美味しい。
「ふーん」
 イタリアではこんなものを食べるのか、と瓶を持ち上げて読めないラベルを眺める。そこへ洗濯物を干し終えたバジルが籠を頭の上に乗せて走ってくるのが見えて、向こうも丁度綱吉の様子を窺って室内を覗き込んだものだから、当然の如く目が合った。
 コップの牛乳を飲み干していた綱吉は咄嗟に言葉が出てこなかったが、内容量が減っている瓶に破顔したバジルはいそいそと籠を下ろしつつ近づいてきた。
「いかがでした?」
「うん、美味しかった。ところで、これって何?」
 先ほどは結局聞けなかった答えを彼に求め、瓶を小突く。彼はふと何かに気づいたようで、眉間に一本だけ皺を寄せてから足元に籠を置いた。
 腰を屈め、綱吉に顔を寄せる。
「バジル君?」
「ついてます」
 食パンに塗るとき、たっぷりとつけすぎたらしい。綱吉の口の端にはバジルの指摘通り緑色のクリームがちょこんと乗っかっていて、綱吉が「何が?」と聞き返すより早く、バジルの赤い舌がそれを一瞬で舐め取っていた。
 生暖かなものが通り過ぎていって、綱吉は目を丸くする。あまりの早業に呆けてしまって、何をされたのか理解するのに三秒ほど必要だった。
「ば、バジル君!?」
「これは、ピスタチオのヌテッラです」
 いや、違う、そうじゃない。いやいやそれも聞きたかった内容のひとつだけれど、今はそれどころではなく、だ。
 気が動転してことばらしいことばが出てこない綱吉を前に、普段となんら変わらない穏やかな笑みを浮かべ、彼は蓋を取って瓶に栓をした。更に綱吉から返事がないのを良いことに、シチリア東部ではピスタチオが名産なのだとかホワイトチョコレートと混ぜてあるから甘いのだとか、でも少し値段が高いのだとか云々と色々説明をしてくれる。
 聞いている方がまともに聞き取れていないという現実は、一切考慮されていない。
 考えてみればリボーンにしてもランボにしても、イタリア出身の人間はどうもマイペース過ぎて、日本の協調社会に慣れている綱吉は調子が狂わされっ放しだ。シャマルの過剰なスキンシップ(女性限定だけれど)もそうだが、こういう触れ合いを至極あっさりと、当たり前のようにしてみせるのもお国柄と言うべきなのだろうが、未だ綱吉は慣れることが出来ない。
 場所が場所だっただけに、掠めた――というか、完全に、触れた。しかしそれを自分から言い出して過剰反応だと思われるのも恥かしい。結局綱吉はもごもごと声にならない言葉を飲み込み、がっくりと肩を落として俯いてから自分の唇を拳で拭った。
「沢田殿?」
 流石にこの態度にはバジルも不審がって、心配そうに顔を寄せてくる。エプロンの裾が綱吉の膝にかかり、顔をあげると同時に彼の手が綱吉の口元を覆っている拳に触れた。
「もしかして、御口に合いませんでしたか?」
 てんで見当違いな心配を口に出し、バジルが眉目を顰めさせる。その表情が、あまりにも本気で綱吉を心配して不安を感じていると伝わってくるだけに、まさか舐められたことにショックを受けているとは言い出せず、綱吉はなんでもない、と焦りを抱きながら首を横へ振った。
「美味しかったよ、凄く」
 どうにか無理に笑顔を使って誤魔化す。
 味が良かったのは本当で、嘘ではない。だが強張ったままの表情を疑われたのか、不審の目を向けられて綱吉は背凭れに強く背骨を埋め込んだ。隙あらば顔を近づけようとするバジルから少しでも距離を稼ぎ、耳に飛び込んできた電子音に、視線を浮かせた綱吉は爪先を浮かべて彼の脛を軽く蹴った。
 洗濯機の、タイマーが切れた音だ。自動洗浄が終わった時に鳴る音楽に、バジルも気づいたらしく「あ」という声を漏らして姿勢を真っ直ぐに戻した。
「では、沢田殿。また後で」
 籠を拾い、くるりと踵を軸にして身体を反転させ足早に去っていく。綱吉も小声で「またね」と呟き、食器を片付けるべく椅子を後ろへと引いた。中腰の姿勢を作って、手と視線はテーブルの上へ。そこへ、自分のものではない足音が聞こえて首から上を捻ったところ。
 ち、と微かな音を響かせて唇を吸われた。
 いきなり、だ。しかもこちらがどう動くのか最初から予測していたみたいに、位置もタイミングもばっちり合致していて、目を剥いた綱吉の前でバジルが悪戯っぽく微笑んでいる。
「なっ……!」
「でもやっぱり、ちょっとこれは、甘すぎるかもしれませんね」
 絶句している綱吉を他所に、彼はさらりと爆弾発言をして、春を思わせる満面の笑みを咲かせた。

2007/1/28 脱稿
2008/5/31 一部修正