星月夜

 獣さえも寝静まり、今活動しているのは闇夜を支配する魔王の眷族だけではなかろうか、とさえ思える深夜。ぎりぎりまで照明を落とされた部屋で上着を脱いだ綱吉は、窮屈に喉を締め付けていたネクタイを緩めながらもう片手で窓を押し開けた。
 乳白色のフレームにはめ込まれた硝子の向こうには、月に照らされた海が広がる。カーテンの裾を揺らして迷い込んだ夜風を頬に浴び、彼は伸びた後れ毛を好きに躍らせてバルコニーへと足を滑らせた。
 室内とは段差が殆ど無い石造りのバルコニー右手には、時間が許すならば実に快適に寛げそうなテーブルセットが置かれている。しかし長く主不在のそれは、今夜も椅子を引いてもらえそうにない。綱吉はそちらに一瞥を加えただけで視線を再び、水平線の彼方へと飛ばした。
 紺と藍を交互に織った色合いの海と空の境界線は最早区別がつかない。綱吉はネクタイを完全に外すとそれを左手に握り、シャツの第一ボタンどころか上から数えて三つ目までを外して喉元を露にさせた。
 そこは急所であり、平素ならば易々と他人の目に触れさせぬ場所。しかし漸く帰り着いた、今現在は彼の家であるボンゴレの本拠地は、少なくとも外よりは幾分安全であろう。綱吉は潮の匂いがきつい風の中、やや色が抜けてしまっている茶色の髪を掻きあげるとこの日何度目か知れないため息を零す。
 溜息をつけば幸せが逃げていく、そんな話も聞いた覚えがある。しかし無自覚に流れていくそれを止める術はなく、彼はまだ幾分火照りが残る身体を持て余して欄干の前で身体を一回転させた。
 左の踵を軸にして、空を仰ぎながら両手を広げる。腕を伸ばせば掴めそうなところに星は輝いているのに、指先は何度やっても空を掻くばかり。綱吉は己が吐き出す息の白さにさえ気付かぬまま、そうやって暫くの間、子供のように星を求め続けた。
 だから、いつの間にか彼のプライベートバルコニーに、黒い影を背負う存在が佇んでいるのにも気付かない。
「何をやっている」
 静かに、しかし威厳なる深い声が響き渡る。綱吉は目を瞬かせて息を止め、握り締めた自分の拳を暫く凝視した後ゆっくりと肘を下ろした。聞き覚えがありすぎる声の主には、今更警戒心を抱くのさえバカらしい。彼は返事をせぬまま、表情をやや緩めて長い影が伸びる方向へと顔を向けた。
 目深に帽子を被られている所為で瞳は重ならない。彼がどんな表情をしているのかも分からなくて、綱吉はもう少し部屋の明かりを強くしておけばよかったと後悔する。
「今日は早く休むよう、言ったはずだが」
「それは、分かってるんだけど」
 強い語調での叱責に、綱吉はしゅんと顔を伏せて視線を足元へ泳がせた。月明かりと部屋の照明、両方向から弱い光を受けているので影はふたつ、交差する形で石畳に落ちている。幼い頃、自分の影を踏みながら進んで道に迷った出来事を、意味もなく不意に思い出した。
 言い訳に苦慮したまま綱吉は胸の前で指を絡める。互い違いに動かして上手い逃げ口上を探してみるが、元々それ程頭が聡くない上に相手は長年自分を指導する立場にあった存在。口で敵うわけがなく、結局最後は肩を落として降参のポーズを。
 その鼻先に、何かがつきつけられた。
 咄嗟に背筋に緊張が走り、身構える。まさか彼に拳銃をつきつけられるなんて事は……昔はよくあったな、とぼんやり考えつつ改めて見詰め直すと、そこにあったのは暖かな湯気を放つマグカップだった。
 白地に赤で鮮やかにペイントが施された、手作りの温もりが感じられる少し大きめのカップ。持ち手を彼が掴んでいるため、綱吉はコップの底に左手を沿え、右手で側面を支えながら受け取った。厚みのあるカップだったが、立ち上る湯気もあり、触れた指先がほんのりと温かい。
 彼が手を離すと途端に掌に感じる重みが増した。数センチ下方へ腕が下がり、慌てて力を込めて支え直す。中身が僅かに波立ったが零れるところはでは行かず、ホッと安堵の息を漏らすと、目の前でズズ、と何かを啜る音がした。
 顔を上げると、彼もまた同じようなカップを持っており、それを傾けて中身を飲んでいた。
「リボーンこそ、早く休めば?」
 一ヶ月近く本拠地を離れていたのは、何も綱吉だけではない。ニューヨーク・マフィアとの会合は諸々の事情で長引く一方で終わりが見えず、重ねて病体であった五大ギャングのうちひとつの跡継ぎ候補が息を引き取った兼ね合いで、イタリアに帰れなくなってしまったのだ。跡目争いの激しさは綱吉も身をもって知っており、出来るならば穏便に事を運びたかったのだけれど、そうすれば別方向から横槍が入って余計ややこしいことに。
 東洋人が偉そうな事を言うな、と暴言を吐く輩も居れば、ボンゴレの名に頼ろうとする腹の内が読めない奴もいた。流血沙汰にまで発展し、気がつけば騒ぎの中心に巻き込まれていた。自分達を守るのは結局、自分達の力のみ。少々手荒な行動の末、やっとのことで安らげる城へと戻ってきたばかりだった。
「きつかったんだろ、俺より寝てなかったみたいだし」
「いつもの事だ」
 カップから口を外し、リボーンが吐き捨てる。その言い草があまりに彼らしくて、綱吉は嬉しくなりながら両手でカップを抱き直した。唇に端を押し当て、ゆっくりと傾ける。僅かに広げた隙間から流れ込むのは、先ほどのリボーンの台詞とは裏腹に、今夜眠れなくなりそうなくらいに甘みの強いココアだった。
 喉を二回に分けて動かし、呑み込んでから息を吐く。暖められた吐息が白い影となってすぐに消えた。
「あったかい……」
 縁に残った唇の跡を指でなぞり、小さく呟く。
「そんな格好をしているからだ」
 上着を脱ぎ、シャツ一枚になって、しかもそのシャツは襟元を広げて肌を露に。落ち窪んだ鎖骨に目が行ってしまい、リボーンは視線を逸らしながらコーヒーを啜る。綱吉はそんな彼の意図に気付こうともせず、自分の格好を改めて見直してから、確かに、と笑った。
 それから急に顔を暗くして、揺れるコップの中の狭い水面を見詰め、声を潜める。
「みんなは、もう休んだ?」
「ああ。了平以外はまだ眠れていないだろうがな」
 お気楽ぶりが晴れのリングに通じると任命された人物は、きっとどんな状況下でも一番に眠ってしまえるだろう。けれど後味の悪さが残る今回の一件は、身体に疲れが溜まっていても気持ちが落ち着かず、なかなか寝入れそうに無い。それは綱吉も、そして目の前の人物もまた、同じ。
「明日……もう今日、か。暫くはゆっくり休ませてあげたいけど」
「俺達が居ない間に、またこっちもゴタゴタしていたらしいからな」
 音を立ててコーヒーを飲み、リボーンが涼しい顔をして言う。その都度綱吉の表情は翳りを帯び、次第に温くなっていくカップを割りそうなくらいに手に力をこめていく。
 彼らに休日は無い。真の意味での休息もまた、与えられない。
 だからこそ休める時に休まなければならない。疲れから判断力が鈍っての一瞬の油断が命取りにだってなりかねないのだから。
「だからお前も」
「うん……」
 リボーンが言いたいことは分かる。痛いほどに綱吉も実感している。
 けれど目の前で散っていった命があまりにも多く、故に己の無力感、絶望感に心が震える。国が違うだけでこうも違うのか、元は同じこの島で生まれたものの筈なのに。自分達が抱く理想と、彼らが望んだ結末はあまりにもかけ離れていて、だから結託しあった最初の頃とは比べ物にならないくらい、彼らと自分達の心は乖離してしまった。
 きっともう、修復不可能なまでに。
「ニューヨークの奴らも、今頃損をしたと思ってるさ」
 ボンゴレは結局、彼らとの縁を切る道をとった。見捨てたともいえるかもしれない。あれ以上の深入りは、自分達の首さえも絞めかねない状況だった。だから己らの身を守るには、この選択が最善の策だった。
 そう言い聞かせても残る悔恨。無意識に噛み締めていた奥歯に、嗚咽が重なり合う。
「ツナ」
 リボーンが距離を詰める。彼は左手にカップを持ち、右腕を伸ばし今は見下ろしてしまえる綱吉の頭をそっと抱き寄せた。綱吉は少しだけ首を前に傾け、瞼を伏して彼の胸元に額を押し当てる。首筋を、解けた後ろ髪が流れ落ちていった。
「お前はよくやっている。だから、泣くな」
 撤退を促したのはリボーンだった。ニューヨークと縁を切れば北米大陸東海岸の利権を根こそぎ失うことに繋がり、反対案も多く出たし綱吉も躊躇した。けれど結論は急がねばならず、結局保身を優先させたボンゴレの評価は、今しばらくは地に落ちるだろう。
 そこから彼はボンゴレを立て直していかなければならない。綱吉の双肩にかかる重みは益々大きくなる。支えてやりたいとリボーンは思う、少しでも軽くしてやれたならいいと、願う。
 けれどそれは、本当は、リボーンの仕事でもなければ役割でもない。
 指輪の守護者でもない彼には、綱吉にこうやって不用意に触れても良い権限などひとつも与えられていないのだ。ただ幼い頃からの付き合いがあり、ボンゴレと彼との最初の接点となった立場を今も利用している。己の素性を知り、真実を包み隠さず明かした後も、以前と同じように接してくれる綱吉の優しさに甘えている。
 彼の隣を奪われたくないと、思っている――
「泣かないでくれ、ツナ」
 嗚咽を零し、暖かなココアに透明な雫を落とす綱吉の頭を掻き抱き、その柔らかな髪に頬を押し当てる。
「頼む、泣かないでくれ」
 こんなにも彼を愛おしく、大事に思っているのに、こんな時に彼を泣き止ませる方法が分からない。ただ懇願するばかりで、彼の心の傷をひとつも癒してやれないでいる自分が憎くてならない。
 綱吉の右手が宙を掻き、リボーンのジャケット胸元を引っつかむ。爪を立てて布に深く指を沈め、力任せに引っ張りながら堪えきれない嗚咽を足元に向けて吐き続ける。
 いっそ詰られる方が楽だ、それなのに綱吉はリボーンを一切責めない。
「ツナ、……ツナ、頼む。泣かないでくれ」
 頬を寄せ、細い髪に唇を落とし、背を撫でて心を寄せても、彼の深い部分にはどうしても届かない。夜空の星よりも遠い場所にいる綱吉のところへは、どうやっても辿りつけない。
 ――――こんなにも君は近くに居るのに。
「俺は……お前を泣かせてばかりだ」
 苦しげに囁くと、腕の中の彼は小さく首を振る。顔を人のジャケットに押し付けて、表情を隠したまま彼は額を布に擦り付けて首を振った。握り締めた左胸、布地の奥に隠れる心臓がきりきりと悲鳴をあげている。声にならない嗚咽は、他でもないリボーンから溢れ出ている。
 ――――こんなにも君は暖かいのに。
「すまない、ツナ」
 愛してる、の一言も告げてやれぬまま、静かな闇に時が溶けて行く。
 届かぬ先の空に、星月はそれでも輝き続ける――――

2006/10/31 脱稿