忍ぶべき 心地やはする 数ならぬ

 突然腕を取られ、問答無用で引き摺られた。背後からだったので避けられず、相手が誰であるかの確認も遅れた。
「え、ええ? えええ?」
 訳が分からないまま右往左往して、後ろ向きのまま飛び跳ねるように数歩分戻らされた。困惑から抜け出して、兎も角狼藉を働く何者かの手を振り払おうと身を捻れば、真っ先に見えたのは鮮やかな黄金色の髪だった。
 床に擦れる程に長く、艶やかな色彩に目を奪われた。黒い上着の袖に潜り込んだ指先は雪の如き白さであり、しかもか細く、繊細だった。
 不意を衝かれた為に錯覚したが、引っ張ろうとする力はそこまで強くない。彼女が連れる青銅の巨人や純白の雄牛は強大で、強力だけれど、この愛らしい女性自身は、他者と戦う力を一切持ち合わせていなかった。
 ちょっとでも腹に力を込め、踏ん張れば、束縛から容易く抜けられる。
 ただこの絵に描いたようなお姫様が、こんな暴挙に出たのには、なにか理由があるはずだ。
 これが鈴鹿御前や清姫辺りだったら、一目散に逃げ出すところだけれど。
「人徳ってやつかな……」
 想像したら、たとえに用いられた英霊が脳内で文句を言った。煙を噴きながらぷんすかしている彼女らに苦笑を浮かべて、汎人類史最後のマスターである藤丸立香は肩を竦めた。
「エウロペ」
「はあい」
 躓かないよう足元に注意しつつ、愛くるしい誘拐犯の名前を呼べば、即座に返事があった。
 バレることなく連れ去れるものと、最初から思っていなかったらしい。おっとりした口調は笑みを湛えており、表情もそれに準じたものだった。
 朗らかに目を細め、古代ギリシャの神妃がとある扉の前で華麗にターンを決めた。
「さあ、どうぞ。どうぞ」
 そこが誰の部屋なのかを確かめる間もなく、開いたドアへと押し込まれる。よろめきながら敷居を跨げば、待っていたのは芳しい香りを放つ菓子の山だった。
 部屋自体は立香が使っているものと同じ、シンプルな構造だ。違うのは鉢植えの植物が沢山並べられ、小さいが見栄えのする花が色とりどりに咲き乱れているところだろうか。
 他にも壁際に置かれたぬいぐるみや、装飾品に、ここを使用している存在の個性が表れていた。
「ようこそ、マスター」
「はあ。お邪魔します」
 無理矢理連れ込んでおいて、いらっしゃい、というのも妙な話だが、それを指摘するのは野暮というものだろう。エウロペお手製らしき菓子が盛られたテーブルを遠巻きに眺めて、立香は部屋に入った後ではあるが、小さく会釈した。
 レースのクロスが敷かれたテーブルは、ちょうど部屋の真ん中に。植物をモチーフにした椅子がこれを取り囲むように並べられて、いつでも茶会を始められそうな雰囲気だった。
「あれ。まだ誰か来るの?」
 チョコレートを練り込んだ焼き菓子に、ハートや星形のクッキー。スコーンの隣にはサワークリーム入りの容器がどん、と控えており、ふたりでこれら全てを食べきるのは至難の業に思えた。
 それに加え、椅子は全部で三脚用意されていた。
 部屋の中には立香とエウロペしかいない現実から出た質問に、美しい女神は悪戯っぽく微笑んだ。
「ええ。ええ、もう少ししたら、来ると思うわ」
 美味しいお茶と一緒に、とも告げられて、立香は首を傾げた。
 古代ギリシャに縁を持つ彼女と関わりを持つ英霊は、数多く存在している。無論、このカルデアにも。
 ただその中に、茶を淹れるのが上手い英霊がいたかどうかは、記憶が定かではなかった。
「ケイローン、かな」
 一瞬アルテミスかと思ったが、彼女はエウロペとは根本的なところで大きく異なる。料理を捧げられたことはあっても、自分で台所に立つという発想には至らないだろう。
 消去法で残った賢者の名を口ずさむものの、部屋の主の反応は芳しくなかった。
「うふふ」
 含みのある眼差しで笑いかけられたので、推測は間違いだったようだ。ならばと他を探してみるものの、見付けられないでいるうちに、またも背中を強く押された。
「さあ、座って。座って。あなたは大事なお客様なのよ?」
 大人しくもてなされていろと囁かれ、苦笑を禁じ得ない。仕方なく椅子を引き、座って待っていたら、程なくしてドアをノックする音が聞こえた。
 向かいの席でそわそわしていたエウロペが、瞬時に反応し、両手を叩き合わせた。
「どうぞ、いらっしゃいな」
 子供のようにはしゃいで、声を高くして呼びかける。
 ドアは直後に開かれて、見えた姿に立香は絶句した。
「え」
「……チッ」
 にわかには信じられなくて、反射的に椅子の上で仰け反ってしまった。そんな態度もあってか、エウロペの茶会に招かれたもうひとりは露骨に顔を顰め、聞こえる音量で舌打ちした。
 但し両手で支え持ったものを投げ出さない程度に、理性は保たれていたらしい。
「さあさあ、こちらへおいでなさい。一緒におしゃべりしましょう」
 ドアの向こうで立ち止まっている銀髪の英霊に声を掛け、エウロペがカラコロと喉を鳴らした。
「ね、アスクレピオス」
 鈴の音色で名前を呼ばれ、日頃から医務室に居座っている男は深く溜め息を吐き、諦めた様子で足を前に繰り出した。
 透明なポットの中で淡い琥珀色の液体が踊り、水面に浮かんだ小さな塊がふよふよと揺れ泳ぐ。不思議な香りが鼻先を掠めて、立香は椅子に座ったまま、僅かに横に位置をずらした。
 無意識に距離を取り、ついでに菓子の皿を取って四角い銀盆を置くスペースを用意した。
「おばあさま。マスターが来るのであれば、先にそう言ってください」
「あらあら。だって、マスターを呼ぶと言ったら、あなたは来ないでしょう?」
「マスターが来ても、来なくても、とにかく僕を頻繁に呼びつけないでください」
「そう? おしゃべり、したくない?」
 その空間にやや乱暴に盆を置いて、アスクレピオスが苛立った声でエウロペを糾弾する。もっとも流石はあのゼウスに愛された女性なだけあって、この程度の怒りは軽々と受け流してしまった。
 アスクレピオス自体も、若干的外れな反論にやる気を削られたらしい。がっくり肩を落とし、慣れた調子で椅子を引いた。
 仕草や一連のやり取りから、立香が知らないところで、この義理の祖母と孫はやり取りを交わしていたのだろう。傍で聞いている分には微笑ましい光景で、口元を緩めていたら、勘付いた医神がギロッと鋭い目つきで睨んで来た。
「うわあ」
 この眼差しには、覚えがある。さながら思春期の頃、母親とのやり取りを友人に見られた時の感覚だ。
 恥ずかしいのと、照れ臭いのと、どうして此処にお前がいる、という理不尽な怒りがない交ぜになったアレだ。
 噴き出したいのを堪え、両手を膝に揃えて握り拳を作った。腹筋に力を込めて息を殺し、必至に耐えていたら、空気を読まないエウロペが両手を二回、軽快に叩いた。
「さあ、揃ったところで、いただきましょう」
 自信作だと胸を張り、彼女はまず大きなブラウニーにナイフを入れた。アスクレピオスも気持ちの整理がついたのか、透明なティーポットの中身を、花柄が美しいカップに注ぎ入れた。
 長い袖を垂らしながら、道具を器用に操って、落としたり、取り零したりしない。
 意外に慣れた動きに目を奪われて、ぼうっとしていたら、突然振り返った彼と目が合った。
「お前が来ると知っていれば、別のものを用意したんだが」
「えと、あ。どうも」
 いきなりだったので、驚いた。真っ直ぐ射貫くような眼差しは鋭く、どこか剣呑な雰囲気が合ったけれど、なみなみと注がれたカップを差し出す手つきは、丁寧で、優しかった。
 零さないよう注意しながら受け取り、穏やかに波を打つ水面をただじっと見る。
「そのお茶はね、アスクレピオスが育てたハーブなのよ」
「へえ、そうなん……ええ!」
 紅茶にしては少し色が薄く、底にはポットに浮かんでいた塊の破片が沈んでいた。
 これは飲んで良いものかと迷っていたら、見越したエウロペに教えられて、また驚かされた。
 目を丸くして傍らを振り向けば、祖母にも同じ物を渡した男が五月蠅そうに眉を顰めた。
 額で交差する前髪を踊らせて、アスクレピオスが口をへの字に曲げたまま頷く。
「なにを不思議がる。僕は医者だぞ」
 空になった手で星形のクッキーを一枚取り、頬張る前に不遜に言って、椅子に深く座り直す。悠然と足を組み、どことなくリラックスした素振りは、医務室で目にする彼とは少し違って見えた。
 ケイローンやイアソンらと一緒に居る時とも、雰囲気が微妙に異なっている。どちらかと言えばあの問題行動が多い羊に憤っている時の、憤りを抜き取った後といった感じだった。
「そっか。なるほど」
 イアソンが以前、彼から湿った薬草の匂いがする、と言っていた。それを思い出して納得して、立香は僅かに温くなったハーブティーに口を付けた。
 苦くはない。渋みも少なく、飲みやすかった。
「どう?」
「レッドクローバーだ。癖が少ないから、お前でも飲めるだろう」
「それ、どういう意味かな?」
 向かいから不安げに問われ、横から得意げな医神が立香に代わって言葉を並べ立てる。あまり良い気分がしないひと言に視線を投げかけたが、アスクレピオスは答えずにクッキーを噛み砕いた。
 確かにコーヒーはブラックでは飲めないし、渋みの強い飲料はアルコールなしでも苦手ではあるが。
 馬鹿にされたのは面白くないが、このハーブティーが飲みやすいのは、間違いない。
 立香が招かれていると知らずにこれを選んだのだから、アスクレピオスには感謝するしかなかった。
「さあ、どんどん食べてね」
「はい。いただきます」
 テーブル上にはまだまだ沢山の菓子が残っており、急いで食べないと、いつまで経ってもなくならない。山盛りの皿を差し出され、受け取って頭を下げたら、急に中腰になったエウロペに髪を撫でられた。
 華奢で白い腕を伸ばし、前のめり気味で俯いた立香の頭を二度、三度と撫でた。黒髪を細い爪で柔らかく梳いて、最後の仕上げのつもりか、ぽんぽん、と優しく叩いて離れていった。
 労られ、慈しまれ、愛おしまれた。
「いっぱい食べて、元気になってね」
「……はい」
 ただ彼女はいつものように微笑んで、余計なことは口にしない。
 見透かされ、見破られ、それでいながら見ないようにしてくれている。
 辛うじて掠れる声で返事して、立香はナッツ入りのブラウニーを口いっぱいに頬張った。
 チョコレートの良い匂いが喉から鼻に抜けて、香ばしい胡桃の噛み応えが楽しい。クッキーには細かく刻んだピスタチオが練り込まれており、手作りのジャムの酸味が口の中のリセットに役立った。
「ねえ、マスター。あなたのお話、聞かせてくれる?」
「軽率にマスターを疲れさせる真似は、医者として推奨しかねるんだが」
「良いじゃない、たまには。それにこのお茶、喉にも良いのでしょう?」
 促されて、口をいっぱいにしたまま囀ろうとしたら、横から苦々しい口調で制止が入る。かと思えば今度は理屈で反論されて、アスクレピオスは渋面を作って黙った。
 どうあっても、彼女には勝てないらしい。
 日頃の傲岸不遜な態度からは考えつかない一面は、新鮮で、おかしかった。
 軽い怪我や、微熱では相手をしてもらえず、かと思えば、自己判断で放置していた傷については、烈火の如く怒られた。
 正直、彼のことは少し苦手だ。友好的な時と、そうでない時の落差が激しい上に、どこでスイッチが入るかが掴めずにいた。
 だからエウロペの茶会に彼が招かれていると知った時は驚いたし、意外過ぎて、実は今でも疑っている。
「ねえ、マスター。そういえば最近、あまりこの子をレイシフトに連れていってあげてないようだけど」
「――はい?」
 甘い物で腹を満たし、ハーブティーで喉を癒して、昔の事や、最近のこと、当たり障りのない話をして、そろそろお開きかという頃合いで。
 唐突に切り出された話題に、目が点になった。
 横では塊を喉に詰まらせたらしいアスクレピオスが激しく噎せていて、エウロペだけが穏やかだった。
 素早く瞬きを繰り返し、たおやかに微笑み続ける女神と、ガチャガチャ食器を叩いて悶えている半神とを交互に見る。恐らくこれが、この茶会の真の目的だと理解するのには、十秒近い時間が必要だった。
「ええと、それは」
「おばあさま!」
「この子ったら、最近、マスターがどこにも連れていってくれないって。きっと寂しかったのね」
 言われてみれば近頃発生する特異点に、アスクレピオスは連れていっていない。というのも事が起こった時、彼は大抵医務室に詰めている。その時管制室に集まっていた面子だけで事態の解決を図るパターンが多いので、敢えて呼びに行ってまで連れて行くことがないのだ。
 同行する英霊をじっくり選び、吟味して編成するところまで至らないから、必然的に彼を連れてレイシフトする機会が減った。
 初めのうちは貴重な医者の英霊として、ダ・ヴィンチがデータを欲しがったのもあり、積極的に連れ回していたが、それも一段落していた。
「寂しかっ……た?」
「違う。僕のような優秀な頭脳が、有効に活用されていないのに、不満があっただけだ」
「つまりは、拗ねてた、と」
「違う。貴様が愚患者なのが悪いと、僕はそう言っただけだ」
「いだだだ、痛い。痛い。医者の暴力反対」
 気配りが行き届いた心優しきエウロペが、前触れもなく立香を引っ張って部屋まで連れて来たのには、事情があった。
 親が子供のためを思って、子供が望んでもないパーティーを企画するという黒歴史を目の当たりにした気分だった。
 つられてこちらまで恥ずかしくなるが、それを上回る面白さに頬が勝手に緩む。
 茶化せば即座に長い袖が飛んで来た。力技で黙らせようとする医者のやり口には、声を立てて笑うしかなかった。
 こんなにも腹から声を出して笑ったのは、いつ以来だろう。
 すぐには思い出せない記憶は霞の向こうへ戻して、立香は湧いて出た涙を指で拭った。
「じゃあ、今度は。一緒に行く?」
「未知の病原菌か、感染症が流行しているのであれば、付いていってやらんでもない」
「もう。この子ったら」
 ヒーヒー息を吐きつつ目を細めれば、生意気を言われた。エウロペが即座に叱るけれども、それがまた面白くて、腹筋が引き攣って痛いくらいだった。
 驚きの連続だったけれど、この雰囲気は嫌いではない。むしろ好きな部類だ。楽しかったし、心地よかった。
「アスクレピオスが喜びそうなのは、すぐには難しいかもだけど、考えておくよ」
 甘くないハーブティーを飲み干して、その清々しさに顔を綻ばせる。
 深く息を吐けば長い袖が下から静かに登って来て、なにかと思えば濡れた顎を拭われた。
「お前には、僕の研究が完成するまで、付き合ってもらわないと困る。貴重なパトロンだからな」
「言うと思った」
 急に触れられたので吃驚したが、害意はない。好きにさせて、立香は肩を竦ませた。
「またおしゃべり、しましょうね」
「うん。アスクレピオスのお茶も、案外、美味しかったし」
 あれだけあった焼き菓子も、スコーンも、綺麗さっぱりなくなった。
 意外に大飯喰らいだった半神に、最後の最後で嫌味を投げれば、彼は一瞬目を丸くして、ふっ、と口元を和らげた。
 皮肉だと伝わらなかったようだ。
 ほんの少し嬉しそうにはにかむ姿は、あどけない子供のようだった。
「なら、また煎れてやる」
 静かに告げられて、面と向かって言われたこちらが照れた。
「う、うん。楽しみにしてる」
 また新しい一面を見せられて、不本意ながらドキッとした。胸の奥がきゅんと疼いて、ときめきに近いものを覚えた。
 それを必死に誤魔化し、頷いたが、声は僅かに上擦った。
 視線を感じて横目で見れば、エウロペが女神の微笑みを浮かべていた。
「それじゃあ、オレはこれで。ごちそうさまでした」
 何も言われていないのに、眼差しが雄弁になにかを語っている。心の奥底まで見透かされているようで怖くなって、立香は早口に捲し立て、椅子から立ち上がった。
 転がるようにドアへ向かい、自動的に開いたそれを潜った。座ったままの二騎の動向が気になって、礼の代わりに頭を下げるべく、そろりと振り返った。
 女神と半神は変わらずテーブルを取り囲み、慌てふためく人間を見守っていた。
 こういうところが、根本的な違いなのか。
 ふと寂しく感じて、無意識に唇を噛んだ。今一度ご馳走してもらった礼を述べようと息を整えていたら、医神に先を越された。
「胃薬が必要になったら、いつでも来い。お大事に、だ。マスター」
 寄り添う言葉が投げかけられて、心の奥が熱を持つ。
 人畜無害に見せかけて、エウロペの思惑にしっかり乗せられた。そう自覚しつつも、火照った肌は偽れそうになかった。

忍ぶべき心地やはする数ならぬ 身に包めども余る思ひを
風葉和歌集 767

2021/05/30 脱稿