たぐひなき 心ばかりを とどめおきて

 特異点が発生していたり、何らかの異常事態に陥っていない時のノウム・カルデアは、平和だ。
 いや、仲の悪い英霊同士がトラブルを起こすくらいは、起きる。ただそれは日常の一コマと化し、そこから更に奇異な状況に発展するのは、最早良くある話だった。
 けれど今日に限っては、そのような騒動を耳にしない。サーヴァントたちは皆穏やかに時を過ごし、管制室のトリスメギストスIIも警告のアラームを発していなかった。ゴルドルフはマシュやホームズたちと優雅に午後の茶会を楽しみ、ダ・ヴィンチは新しい玩具――もとい便利道具の開発に勤しんでいた。
 そして汎人類史最後のマスターである藤丸立香は、甘い菓子の誘惑を断り、自己鍛錬に時間を費やすことを選んだ。
 魔術師としての才能は皆無で、武道に親しんだ過去はない。学業も平均を少し上回る程度でしかなく、天才的な頭脳を持ち合わせた偉人らとは比較にもならない。
 それでも彼は、マスターとして選ばれた。
 焼却された人理を修復し、今は白紙化された世界を取り戻そうと足掻いている。
 諦めないと決めた以上は、前に進むしかない。力を貸してくれる多くの英霊に歩調を合わせてもらうのでなく、自分が合わせられるように、精進は欠かせなかった。
 とはいえ、やり過ぎは毒だ。
 鍛えているつもりで、疲労骨折を起こすのは、本末転倒も良いところ。耳に胼胝が出来るくらい聞かされた忠告を振り返り、立香はマシンを止め、傍にあったタオルを手に取った。
 広げた布を顔に当て、手のひらをぐっと押しつけた。呼吸が辛くないように鼻の孔は避け、その状態で数秒停止し、緩やかに首を振った。
 左腕を引いて仰け反るように背筋を伸ばし、右手は汗で湿った黒髪に移動させた。僅かに重くなったタオルを左の肘に引っかけ、汗が染み出ようとしている額を風に晒した。
「喉、乾いた」
 深く息を吐き、吸って、また吐くついでにぽつりと呟く。
 改めて鼻の頭やその周辺をタオルで拭い、トレーニングルームを見回すけれど、独白に応じる者はいなかった。
 先ほどまでカルナがいたはずだが、いつの間にか姿を消していた。
 少し前にアシュヴァッターマンが入って来るのを見たので、シミュレーションルームにでも誘われて、一緒に向かったのだろう。視界の端で捉えた僅かな情報を頼りに想像し、立香は肩を上下させた。
 トレーニング開始時に持ち込んだペットボトルの水は、残り少ない。一時しのぎにはなるだろうが、肉体が訴えかける渇きを癒すには、到底足りなかった。
「食堂、寄っていこうかな」
 着替えは持って来ていないので、シャワーを浴びるには自室に帰るしかない。その前に寄り道を画策して、彼は小さく頷いた。
 小腹も空いたことだし、夕食の邪魔にならない程度に軽く抓むのも、悪くなかった。
 食堂には昼夜を問わず、誰かしら居る。頼んで何か作ってもらおうと決めた途端、ぐうう、と腹が鳴って、自然と頬が緩んだ。
 喉を伝う汗をタオルに吸い取らせ、そのまま細長い布を首に預けた。一瞬で空になったペットボトルを右手に持ち、熱が宿る吐息だけを残して、足早に歩き出した。
 自動で開いたドアを潜り、廊下に出る。素材が何かは分からないが、硬質の床を交互に踏みつけて、人気のない空間に身を委ねた。
 最初のうちは慣れなくて、何度も迷子になった。目的地になかなか辿り着けず、遠回りを強いられた記憶は数え切れない。
 今は滅多に無くなった出来事を振り返ってひとり笑い、目当ての食堂に繋がる最短ルートに爪先を向けた。運動で火照った身体は徐々に和らぎ、小刻みだった鼓動も緩やかに落ち着きを取り戻した。
 あれだけ大量に溢れていた汗が引いて、一定に保たれた気温が却って寒いくらいだ。
「……うっ」
 堪らず身震いをひとつして、独特の臭いを放つシャツに対して渋面を作った。
 さっさと用事を済ませ、部屋に戻り、熱いシャワーを浴びて着替えよう。
 自分自身の汗臭さに嫌悪して、丸襟を抓んで引っ張った。さすがにここで脱ぐのは憚られて、速度を上げるべく、踵で床を叩いた。
 あと少しで食堂に辿り着く。
 その影響か、廊下を行くサーヴァントの姿もちらほら見かけるようになった。
 満腹だと言わんばかりに腹を撫でるアストルフォと、若干げっそりしているブラダマンテの後ろを、二騎に巻き込まれたらしいジークが遠慮がちに歩いていた。そこにエジソンの雄叫びがこだましたかと思えば、対抗する形でニコラ・ステラが吼えて、仲裁に入ったエレナの甲高い悲鳴が辺りにこだました。
 串団子を頬張る沖田総司とすれ違い、空いた方の手を振られた。たくあんについて滾々と語る土方歳三と、適当に相槌を打つ斉藤一にも遭遇した。
「マスターちゃん、トレーニング帰り? 頑張るねえ。でもやり過ぎは良くないよー?」
「分かってるって。だからこうして、引き上げてきたんだし」
「良い心がけです、マスター。あ、今日のおやつは、三色団子でした。美味しいです」
「おい、聞いてんのか。斉藤」
「あー、はいはい。聞いてますとも、聞いてますって。美味いっすよねえ、細かく刻んで茶漬けにして食べるのも」
 汗臭さを遠慮して距離を取って言葉を交わし、満面の笑みを浮かべた沖田に頷いて返す。途中で空気を読まずに割り込んで来た土方と、渋々付き合う斉藤には、苦笑を禁じ得なかった。
 至っていつも通りで、長閑なカルデアの光景だ。
 毎日こうであれば良いのにと、願わずにはいられない。勿論それが夢物語なのは、百も承知しているけれど。
「ふー」
 苦労が絶えない斉藤に同情しつつ見送って、改めて食堂に繋がる道に視線を向けた。目的地が同じらしい英霊の背中が何騎分か見えて、その中には珍しい後ろ姿も混じっていた。
「あれ?」
 微妙に千鳥足なのにまず気が向いて、注意深く観察してから、それが誰なのかを思い出した。
 右によろよろ、左によろよろ。辛うじて前に進んではいるが、歩みが非常に遅い英霊は、医務室に君臨するサーヴァントに他ならなかった。
 召喚直後から我が物顔でメディカルルームを占領し、勝手に空間を拡張して作った研究室に引き籠もっている、始まりの医者。星にも名を刻まれた古代ギリシャの英雄、アスクレピオス。
 そういえばここ数日、彼の顔を見た覚えがない。
 ひとたび戦闘が始まれば、彼の技能は非常に有用だった。反面、平穏無事な日常では、出番はほぼ皆無だった。
 軽い傷や、腹痛程度で訪ねたら、嫌な顔をされた。もっと珍しく、難しい症状になってから来い、と面倒臭そうに言われるのが常だった。
 とはいえ、手当てはちゃんとしてくれた。指の腹をちょっと切っただけなのに、厳重に消毒され、包帯まで巻かれた時は、笑いを堪えるのが大変だった。
 そんな言動不一致なところがある医者が、いつ転んでも可笑しくない足取りで歩いている。
「アスクレピオスー?」
 あれではまるで、三日連続徹夜で原稿を仕上げた直後の、刑部姫ではないか。
 頭をボサボサにして、壁を支えに虚ろな目をして進むアサシンが、何故か脳裏に浮かんだ。あれとは若干様相が異なるものの、近しいものを感じて、立香は思わず背筋を伸ばした。
 左手を口元に遣り、呼びかけるが返事はない。
 益々もって怪しいと眉を顰め、彼は強く床を蹴った。
 短い距離を駆けて、白衣のキャスターの前に素早く回り込んだ。行く手を阻む格好で停止し、直後に大きくよろめいた英霊に慌てて両腕を伸ばした。
「うわ、とと。っと」
 斜めに崩れゆこうとする体躯を捕まえ、力を込めて胸元へと引き寄せる。若干バランスが悪く、海老反りになって諸共に倒れそうになったが、普段から鍛えていたのが功を奏した。
 ただ弾みで、持っていたペットボトルを落とした。
 拾いに行きたい気持ちはあるものの、ずっしり重いアスクレピオスを放り出すわけにはいかない。爪先立ちの不安定な体勢でぷるぷる震えて困っていたら、肩口に沈んでいた男の首が左右に振れた。
「んん……」
 鼻から息を吐き、唸った末に、アスクレピオスがのっそり顔を上げた。
 銀髪の隙間から覗く肌色はくすんでおり、金混じりの翡翠色をした瞳もまた、暗く濁っていた。
 目の下には隈がはっきりと現れ、傍から見ても分かるくらいの疲労困憊ぶりだ。瞳は絶えず宙を彷徨い、目の前に存在する立香さえきちんと捉えていなかった。
 いったい彼の身に、なにが起きたのか。
 明らかに異常な状態なのに、警報器は鳴らない。見えない敵の侵略ではないかと疑って背筋を寒くするマスターを余所に、通りがかる英霊は一騎たりとも関心を示さなかった。
「え、え? 大丈夫なの。アスクレピオス、ねえ。ちょっと」
 それはそれで危ない状態なのではと青くなり、再びぐったりして俯いた英霊の肩を揺さぶる。
 声を上擦らせて呼びかけ続けていたら、どこかでドアの開く音がして、複数の足音が背後から響いた。
「んあ、なんだあ? ああ、マスターと……アスクレピオスか。つうか、やっと出て来たのか、お前」
「イアソン?」
 慌てふためくマスターと、それに寄りかかっている旧知の存在を見付け、声を高くしたのは金髪のセイバーだ。
 勇敢な冒険者が多数登場する物語の主人公は、その華々しい来歴通り、屈強な戦士と可憐な少女を従えていた。
 訳知り顔のイアソンに、立香はホッと息を吐いた。事情を知っていそうな男の登場に深く安堵して、助けてくれるよう目で訴えた。
 しかし厄介事を嫌い、仕事でも面倒だと判断すれば堂々と拒否する男は、ここでも持ち前の性分を発揮した。
「ほっとけ、マスター。そいつはな、面白い素材を見付けたって、解析と培養で三日三晩を注ぎ込んだってだけだ」
 係わり合いになりたくないと言わんばかりに手をひらひらさせて、イアソンは同意を求めてヘラクレスに顔を向けた。ただ彼に同調し、頷いたのは、筋骨隆々としたバーサーカーではなく、横に控えていたメディア・リリィだった。
「三日じゃなくて、四日だったかもしれませんね」
 可愛らしい笑顔で背筋が寒くなる事を告げ、それとなくイアソンの腕に抱きつこうと身を寄せる。これを寸前で躱し、ヘラクレスの背後に回り込んだ男は、唖然と立ち尽くす立香を鼻で笑った。
 いや、正しくは立香に支えられてどうにか立っているアスクレピオスを、だろう。
 黙っていれば美形なのに、残念な風に口角を持ち上げて、イアソンはここぞとばかりに腕を振り上げた。そして。
「ざまあみろ。人を散々囮に使いやがって」
 およそ平時では言えそうにない台詞と共に、俯いているアスクレピオスの背中をばちん、と叩いた。
「ちょっと」
 弱っている相手になんたる仕打ちかと立香は眉を顰めたが、咎めるよりも、イアソンの逃げ足の方が早い。
 あっという間に小さくなった背中に溜め息を吐いて、立香は慰め代わりにアスクレピオスの肩を撫でた。
「う、ぅ……」
「大丈夫?」
 打たれた方は遅れてダメージが来たのか、ぶるっと身震いした後に低く呻いた。顔を伏したまま首を数回横に振り、荒い息を吐き、垂らしていた腕を持ち上げた。
 捕まるものを探して立香のシャツを手繰り寄せ、タオルの端を掴んで引きずり下ろした。薄手の布ではなく、もっとしっかりしたものを求めて彷徨って、人の脇腹を掴み、つるりと指を滑らせた。
「ひう、ひゃはあ」
 まさかそこを触られるとは、立香としても予想していなかった。
 薄い肉をぐにゅっとやられて、痛いのとくすぐったいの中間の感触に背筋が粟立つ。
 変に高い声が漏れて、顔は自然と赤くなった。一方アスクレピオスの手は止まらず、依然その近辺を探って動き回り、最終的にズボンのベルトに引っかかる形で落ち着いた。
 力を込められたら下着ごとずり下がりそうで冷や冷やだが、振り解くわけにもいかない。そうならないよう、彼の手首をだぶついた袖の上から探り当て、捕まえたところで、のっそり顔を上げたアスクレピオスと目が合った。
 もっとも焦点が定まっただけで、意識は追い付いていないらしい。
 ぼーっとしたまま至近距離で覗き込まれるのは、落ち着かなかった。
「アスクレピオス?」
 特徴的な前髪に目が行きがちだけれど、さすがは太陽神アポロンの血を引くだけあって、顔立ちはかなり整っていた。
 不眠不休で研究に明け暮れていた所為で肌色は優れないが、それを差し引いても、目を見張る造形美だ。ガラテアが彫像のモチーフに彼を選んだのも、納得せざるを得ない。
「……マス、ター……?」
 その美しく形作られた唇が弱々しい声を発し、瞳は胡乱げに眇められた。眉を顰めて首を左右に振って、目の前にいる立香を不思議そうに見詰めた。
 サーヴァントは基本睡眠や、食事を必要としないけれど、かといって休息なしで活動し続けるには限度がある。カルデアでは電力を魔力に転換し、数多在る英霊に配分しているものの、それだって完璧ではない。
 消費が供給を上回れば、魔力の枯渇はどこかの時点で必ず起きる。
 実体化を解けば消費が抑えられるはずだが、この医術オタクは、己の好奇心を優先させた。それでガス欠を起こして、結果がこれ。
 秘密の研究室に引き籠もったまま、ひとりで倒れなかっただけ、まだマシと言うべきだろうか。
 努力は認めるが、褒められたものではない。マスターとして叱るべきか考えていたら、返事が無いのを訝しんだアスクレピオスが距離を詰めて来た。
「りつか?」
 吐息が鼻先を掠め、前髪が絡まった。
 黒に銀が潜り込む近さでの囁きは、不意打ちだった。
「ふわあっ」
 か細い声色は疲れもあって掠れて、いつも以上に低く響いた。褥で交わった直後にも似た、しかし微妙に次元が異なる音色は下腹部を直撃し、危うく膝から崩れ落ちるところだった。
 繊細な指使い、的確に弱い場所を狙う爪先と、脳天を打ち抜く甘い吐息。淫靡に濡れた熱が交錯して、内側からも、外側からも遠慮なく貪り食われ、時に喰らいついた。
 人の身として捨てきれない情欲に溺れながら、果てのない人間愛に満ちた男の感情を一身に引き受けた。
 公衆の面前で碌でもない記憶が甦り、落ち着いていたはずの心臓が銅鑼と太鼓を鉦を同時に打ち鳴らした。トレーニングルームとは比較にならない加速度で爆音を奏でて、連鎖反応で赤面が止まらなかった。
 頭の天辺から湯気が噴いている錯覚に身を震わせ、わざとやっているのかと、初めてアスクレピオスを疑った。
 あまり策略を練るタイプではない男だが、それでも意地悪されたのは、一度や二度ではない。もし狙っての事だったら抓ってやろうと、掴んだ彼の手首に力を込めた。
 骨をギリギリ押さえつけて睨み付けるが、反発的な眼差しは返って来なかった。
 未だぼんやりした双眸に、嘘は見当たらない。
 本気で珍しい事態に唖然となって、立香は怒らせていた肩を落とした。
「なんなんだよ、もう。しっかりしてよ」
 当人にその意識が無いのに、ひとり振り回されて、滑稽だ。
 依然として半分夢の中、という状態の男に深々と溜め息を吐き、顔を伏す。非常にレアな体験が出来たのは嬉しいが、いつまでもこの調子でいられるのは、心臓に悪いどころではなかった。
 ペースが狂う。
 アスクレピオスらしくなくて、嫌だ。
 彼が研究室を出たのは、枯渇寸前の魔力を補給する術を求めてだろう。
 英霊は飲食の必要がないといっても、出来ないわけではない。そしてごく微量ではあるものの、魔力は食事で回復する。
 効率は決して良くない。しかし趣味として、或いは習慣として、生前と同じように食事をする者は多く存在した。
 アスクレピオスが食堂を目指していたのは、ほぼ間違いない。
「連れていってあげるから。さっさと美味しいもの食べて、シャキッとしてくれないかな」
 もう目と鼻の先にあるドアを振り返り、だらしなく寄りかかってくる身体を叱咤した。とんとん、と袖の上から肘、肩と順に叩いて、自力で立つよう促した。
 こんな風になっている彼を見たくない、というわけではない。
 しかし普段通りの、嫌味ばかり口にして、時折過剰なくらい過保護になる彼でないと、落ち着かない。
 小走りでリズムを刻み続ける鼓動を数え、心持ち苦い唾を飲み込んだ。爪先に落ちたタオルを取ろうと膝を持ち上げ、辛うじて靴に引っかかっている布を掴もうと、前屈みにならずに腕だけを伸ばした。
 片足立ちの苦しい態勢で、壁に助けられながらアスクレピオスも支え、歯を食い縛る。
「ああ……」
 もう少しで手が届きそうだというところで、耳元でそよ風が吹き、緩慢な相槌が聞こえた。
 何事かと瞳だけをそちらに向け、夢うつつ状態の男の動向を探った。
 彼は相変わらず何を考えているか分からない顔をして、こくりと頷き、眠そうな眼を立香に向けた。
 とは言っても、視線は交錯しない。正面から向き合っているはずなのに、アスクレピオスはいったいどこを見詰めているのかと怪訝にしていたら。
「あー……」
 古代ギリシャの英霊はおもむろに口を開き、綺麗な歯並びと、ほんのり湿った舌先を露わにした。
 さながら獲物を求める蛇の如く、首を伸ばし、狙いを定めて。
 ばくりと。
「――イッ!」
 惚ける立香の鼻を、咬んだ。
 挙げ句にゴチン、と額同士もぶつかった。
 脳天を揺らす程ではないが、鼻の頭を襲った痛みと相俟って、星がひとつ、ふたつ飛び散った。咄嗟に首を後ろに反らして逃げたが、遠慮なく力が込められていた分、皮膚をゴリゴリ削られた。
 食い千切られるのではと恐怖した。
 実際に噛まれた直後、飲み込む為の動作として、べろっと舌で舐められた。もしあそこで肉が削ぎ落とされていたら、藤丸立香の一部は奪われ、咀嚼され、アスクレピオスの胃の中に転がり込んでいただろう。
 彼にそんな趣味があるとは思いたくない。
 思いたくないが想像してしまい、心の底からゾッとして、冷や汗が出た。
 脇腹を擽られた時とは正反対の理由で鼓動が乱れ、寒気が止まらなかった。
「んな、にっ……なに、し、て。して、くれんのさ!」
 噛みつかれた場所はズキズキ痛み、ぼろっと落ちやしないかと怖くなった。結局拾えなかったタオルを靴底で踏みつけ、顔のパーツがしっかり付いたままなのを触って確認し、指先を見舞った湿り気に四肢を震わせた。
 顔から火が出る勢いで真っ赤になって、未だ虚ろな医神を睨み付けるが、効果は薄い。
 賑わっていないが寂れてもいない廊下を気にして見渡せば、ヘクトールとマンドリカルドが喋りながら歩いていた。
 ただ互いの会話に集中しているようで、別段こちらに意識を向けることはない。それでも冷や汗を流して様子を窺っているうちに、気付かれて、揃って会釈された。
 ゆっくり近付いてくるものの、ふたりはアスクレピオスの奇怪な行動には言及しなかった。
 これだけの往来で、誰にも見られていなかったのは不幸中の幸いか。
「マスター、鼻、どうかしたんスか」
 尚も寄りかかってくる男の肩を軽く突き飛ばし、ミリ単位で距離を取った。何も知らない二騎には愛想笑いで誤魔化すが、部分的に赤くなった箇所を指差し、マンドリカルドが首を捻った。
「え、あ。いや……なんでも……ない、よ」
 指摘されても、答えられない。
 奥歯を噛み締めて喘ぎ、目を泳がせて口籠もる。すると落ちていたボトルを拾ったヘクトールが朗らかに笑い、人の肩をぽん、と叩いた。
「いやあ、若いってのは羨ましいねえ。けど、こういう場所じゃ、ほどほどにしときなよ?」
 その上でアスクレピオスを顎でしゃくり、訳知り顔で囁いた。
 彼はアポロンの加護を受けたパリスの兄であるから、弟経由で、なにかしら話を聞かされているのかもしれない。
 不器用なウインクの理由を察して首の裏まで赤く染めて、立香は発作的に腕を払った。
 狙ったわけではないけれど、その爪先が丁度、突っ立っていたアスクレピオスを掠めそうになった。
「――!」
 だが寸前、手首は拘束された。
 待ち構えていた掌に受け止められて、パシッ、と乾いた音がひとつ響く。
 カラカラ笑うヘクトールたちが行き過ぎて、残された白衣の男が胡乱げに立香を見た。
「なにをする、マスター」
 打たれそうになったと勘違いしたか、剣呑な眼差しが突きつけられた。
 先ほどまでの態度が嘘のように、翡翠の瞳には光が宿り、口調はしっかりしていた。二本の足で体重を支えて立って、全くの別人もいいところだった。
 あれほど不安定な歩き方をしていたのに、一瞬の変化が俄には信じ難い。
 呆気にとられてぽかんとしていたら、訝しんだアスクレピオスが眉を顰めた。
「どうした、マスター。……ふむ、鼻が妙に赤く濡れている」
「うわ」
 気になる事を見付けたら、状況を顧みずに突き進むところが、いかにも彼らしい。
 だが掴んだままの手をぐいと引き、無遠慮に顔を寄せてくるのは止めて欲しかった。
 そもそも、彼の台詞はおかしい。あり得ない。
 崩されそうになった姿勢を堅持し、抵抗して、立香は鼻の孔を膨らませた。奥歯をギリギリ言わせて真正面を睨み付け、鼻ばかりが赤くなっている元凶に牙を剥いた。
「なに言ってるのさ。アスクレピオスが咬んだから、こうなったんだろ」
 腰を退き気味に、囚われの腕を取り返そうと足掻くが、巧く行かない。
 悔しさで目の奥がツンとして、息が詰まった。思い切り鼻を啜り上げて、腹の底から声を絞り出しても、アスクレピオスはピンと来ない様子だった。
 きょとんとしながら見詰め返されて、意味が分からない。
 頭がどうかなってしまったのではと怪しんでいたら、直後にぱっと、腕が解放された。
「うえっ。だあ、った。た。と」
 抵抗を続けていたので、勢い余って後ろに転びかけた。
 両腕を激しく振り回し、壁に掌を叩き付けてなんとか持ち堪えた。ぜいぜい言いながら息を整え、靴跡がくっきり残るタオルに舌打ちして、横から攫うように掬い取った。
 空腹も、喉の渇きも、どこかに消し飛んだ。
 それでも尚残る汗臭さに歯軋りし、立ち尽くしている男をねめつける。
「僕が、お前を。咬んだ? 何故?」
「オレの方が知りたいよ」
 半信半疑といった態度で質問を投げた彼に、腹が立って仕方がない。
 訳が分からないのは、こちらだ。魔力が切れそうで弱っているところを介護してやっていたというのに、急に噛まれたと思ったら、急に元気になった。
 イアソンの助言通り、放っておけばよかった。
 沸き立つ怒りに身を任せ、掴んだタオルを振って空を叩いた立香に、アスクレピオスは瞳を脇へ流した。
 長い袖を揺らして口元を覆い隠し、目の錯覚を疑うレベルで頬を赤く染めた。
 どうやら心当たりが見つかったらしい。
 いきなりソワソワし始めた彼に説明を求め、立香は床を蹴った。
 脅しとしては不十分だったが、意図は伝わった。気がつけば魔力の回復に成功していた男は深く肩を落とし、握り拳を震わせるマスターの前で首を振った。
「よく、覚えてはないんだが」
「はあ?」
「魔力が切れかけて。僕としたことが、迂闊だが」
「ああ、うん」
 実体化が危うくなるレベルで憔悴していた自覚は、一応あるらしい。ただいつ研究室を出て、どうやってここまでやって来たかは、記憶があやふやなのだという。
 だから倒れそうになったところを立香に庇われ、助けられたのも、彼は覚えていない。
 ただマスターと接触したことで、微量の魔力がアスクレピオスに流れ込んだ。
 ゆっくりと浮上する意識の片隅で、彼は誰かの声を聞いた。
「美味いものを、と言われて。それでもし、目の前に、マスター。お前がいたのだとしたら……――」
 尻窄みに小さくなっていく声に合わせ、翠の瞳が宙を泳いだ。
 明後日の方を向いて喋る男の辿々しい言葉に、立香の視線は一旦天を向き、直後に深く沈んだ。
 美味しいものを食べろと囁かれた男は、つまり。
 目の前に『美味』と認識する存在を見付けて、欲望を抑えられなかった、と。
「そ、そう。そう、……そうなんだ?」
 足りなかった巨大なピースがカチリと嵌まって、声が裏返った。一瞬だけ様子を窺い、瞳を浮かせれば、どうしてだか同じタイミングで、向こうも立香を探っていた。
 バチッと火花が散って、その勢いと眩しさに圧倒され、即座に顔を背けた。
 廊下の片隅で背を向け合い、それでいて距離をじりじり詰めるふたりに、食堂から出て来たエリセとボイジャーが不思議そうな顔をする。
「なんだかおもしろいこと、してるねえ」
 純真無垢な少年に指を指して笑われたが、幸か不幸か、近付いて話しかけられることはなかった。
 続いて出て来る存在がないのを確かめて、立香は長く止めていた息を一気に吐いた。
 こっそり後ろを振り向けば、アスクレピオスはまだそこに居た。
「いや、あの。……オレ、この後部屋に戻って、さ。シャワー、浴びようかって、思ってるんだけど」
「そうか」
 話しかければ、相槌が返された。唐突な話題に驚き、不審がっている趣はあったけれど、追求はされなかった。
 お蔭で少し、気持ちが落ち着いた。とはいえ声は上擦ったままで、顔を見合わせて喋る勇気はまだ戻らない。
「それで、あの。あのさ。実はさっき、咬まれたところ、まだ、えっと。ちょっと、まあ、……痛い……かな、なんて?」
「――ああ」
「だから、なんともなってないかどうか、出来ればちゃんと、診てもらいたいなー、…………なんちゃって?」
 胸の前で左右の指を付き合わせ、絡ませ、握り、広げて、重ねた。
 手首に少し角度を持たせ、同じ角度で首も傾がせて、天井の隅を見詰めながら呟く。
 冗談を装わなければ無理だった。面白おかしく、茶化すような素振りでなけいと、誘えなかった。
 後から思えば、シャワーのくだりは必要なかった。しかし言ってしまった以上、取り返せない。
 露骨が過ぎたと耳の裏まで赤くした立香に、アスクレピオスは長く無言だった。
 五秒か、十秒か、はたまた一刹那か。
 さっぱり見当が付かない時間を、息を止めて待った。
 ど、ど、ど、と耳元で騒ぐ鼓動に奥歯を噛み締めて、汚れたタオルごと拳を胸に押し当てた。
「そう、だな。傷口から細菌が入られても、困る、な」
 ぼそぼそと小声で返事があったのは、そのすぐ後のこと。
 聞き間違いかと疑って、立香は反射的に振り返った。驚いて目を見張り、口をパクパクさせていたら、振り向いた男が黙って静かに頷いた。
 ほんのり嬉しそうな顔をして、いつも通り口角をほんの少し持ち上げた。
「それに、魔力補給も必要だしな」
「……もう!」
 不遜に言われ、咄嗟に出た利き手で彼の胸を軽く小突く。アスクレピオスは今度は避けず、逆に満足そうに笑った。

たぐひなき心ばかりをとどめおきて また逢ふまでのしるべともせむ
風葉和歌集 927

2021/04/17 脱稿