我ながら など思ひけん 目の前に

 ベッドサイドから垂らした足を、ぶらぶらと前後に揺らす。本来なら床に着く高さだけれど、深めに腰掛けることで、踵はギリギリ空中を泳いでいた。
 持て余した時間を両手で包み込み、腿の間に挟んで、立香は視線を上げた。右前方に顔を向ければ、柔らかな銀髪が一定のリズムで踊っていた。
 駒付きの椅子に腰掛けて、アスクレピオスは熱心にペンを動かしていた。
 長い袖越しでも器用に指を操り、左手でたまに端末を操作しては、流れて行く画面を止めたり、動かしたり、忙しない。
 複数並べられたモニターに表示される数式や、グラフは、立香にとって意味不明なものだ。たまに人体を模した図形が現れるけれど、それが具体的になにを示しているのかは、さっぱり見当が付かなかった。
 メディカルルームを陣取る医術系サーヴァントのやることだから、まず間違いなく、医学的発展に帰依する何かだろう。
「分かれば、面白いんだろうけどな」
 ただ内容が、アスクレピオスが生涯を賭して完成させた死者蘇生薬の再現に関するものか、別の病原菌についてかは、判断できない
 知識が、そして情報が圧倒的に足りなかった。
 興味はあった。好奇心が擽られた。とはいえ聞いたところで、彼が教えてくれるとは思えなかった。
 それに詳しく教わったところで、全てを理解出来るわけではない。
 己の頭脳レベルがどの程度かは、さすがに承知していた。
「んふぁ、あ~……」
 凄まじい勢いで内容が入れ替わるモニターから目を逸らし、止められなかった欠伸を零す。手で覆い隠そうかと考えたが、腿の間から引き抜く面倒臭さに負けた。
 猫背のまま大きく口を開き、瞼を閉じて、温くなった息を舌に転がした。「あ」の形から徐々に「い」の形に唇を動かして、自然と浮かんだ涙で睫毛を濡らした。
「んむ、うぅ」
 一度やってしまえば収まるはずが、その後も欠伸は止まなかった。二度、三度と繰り返し、諦めて持ち上げた手で頬を擽って、額に被さる前髪を引っ張った。
 軽い痛みで眠気を追い払おうとするけれど、これくらいでどうにかなるものなら、最初から欠伸など出ない。
 退屈すぎて、身体が刺激を求めていた。心を震わせるような出来事を欲していた。
 力なく垂れ下がっている爪先を気まぐれに蹴り上げて、頬を軽く抓り、何気なく視線を前方に戻す。瞬きを数回続けて、小首を傾がせれば、椅子の背凭れに肘を掛けた男が、剣呑な目つきで立香を睨んだ。
「眠いなら、自分の部屋で寝ろ」
 作業の手を休めたアスクレピオスが、目が合ったと知るや低い声で吐き捨てた。
「ぐぬ」
 いつから見ていたのだろう。素っ気ないひと言より、欠伸の瞬間を見られた可能性が頭を占めて、立香は喉の奥で唸った。
 みっともない、恥ずかしい姿を見られた。
 否、彼には既に身体の隅々まで観察されていた。あんなところや、こんなところまで、余すところなく検分されていた。
 蓋をしていた記憶が前触れもなく、勢い良く噴き出した。かあっと赤く、熱くなる身体を大急ぎで封じ込めて、立香は奥歯を噛み、小鼻を膨らませた。
「ベッド、あるんだから。別に、……いいだろ」
 顎を引き、肩幅に拡げた膝の間に両手を衝き立てた。肩を突っ張らせて抵抗の意志を示し、上目遣い気味に睨み返すが、ほんのり色を含んだ声は迫力に欠けた。
 合間に鼻を啜ったのも、失敗だった。変なところで台詞が途切れてしまい、気力が挫けて、最後の方は小声だった。
 尻窄みに小さくなっていく声に、己の不甲斐なさを痛感した。
 苦い唾を飲んで改めてアスクレピオスを見れば、彼は銀色のタッチペンを手放し、その手で机の角を軽く押した。
 椅子を操作して立香の方に向き直り、左を上に脚を組んだ。その上に両手を重ねて置いて、十字に交差する前髪を泳がせた。
「そのベッドは、診察に使うものだ」
 医務室には治療に使うベッドが複数並べられ、更にその奥には、高度医療を受ける為のポッドが設置されていた。
 ドアを入ってすぐのこの部屋は、簡単な治療や、診察を行う為の空間だ。もっともカルデア内において、医者の手当てが必要になるような怪我人は、そうそうに現れないのだが。
 英霊同士が本気でぶつかれば、腕や足の一本や二本、簡単に吹き飛ぶ。しかし通常空間での戦闘は、禁忌中の禁忌だ。やるとすればシミュレータールームに限定されて、それも設定次第で、負ったダメージは即座にゼロになった。
 つまるところ、ここにやって来る存在は、滅多に居ない。
 故にアスクレピオスは急患に備えつつも、自身の研究に没頭していた。
 立香が診察台を占領しても、困ることはなにもない。いざとなれば退けば良いだけで、今すぐ場を譲らねばならない理由にはならなかった。
「患者、いないのに?」
 ついでに言えば、奥のベッドはいずれも空だ。綺麗に折り畳まれたシーツは片隅に積み上げられ、長く使われていないせいで埃を被っていた。
 極小特異点が発見されるなどして、立香が出向かなければならない事態にでもならなければ、この状況は変わるまい。
 壁越しに静まり返った空間を確かめ、口角を持ち上げた彼に、アスクレピオスは露骨に眉を顰めた。
 不愉快だと言いたげに目を眇め、何か言いたそうに唇を開いたが、出てきたのは小さな溜め息ひとつだけだった。
「今すぐ患者になりたくなければ、部屋に戻れ。研究の邪魔だ」
「それって、つまり、患者になれば居ていいんだ。じゃあ、今からオレ、眠たい病を患います。だからここで寝て良い?」
「それは病気でもなんでもないぞ、マスター」
 凄みを利かせ、脅しにかかったアスクレピオスだけれど、この程度では引き下がれない。
 言葉尻を取って言い返した立香に、彼は益々剣呑な表情を作った。
 苦虫を噛み潰したような顔をして、医神の称号を戴く英霊が深く肩を落とした。
 それを横目にケタケタ笑って、立香は消毒液の匂いが染みついたマットレスに身体を埋めた。ふかふかではないものの、岩場よりはずっと柔らかな感触を楽しみ、撫で回して、手繰り寄せた枕を抱きしめた。
 上半身だけ転がした彼を睥睨し、アスクレピオスが舌打ちを繰り返す。苛立たしげに長いもみあげを弄り、組んでいた脚を解いて、立ち上がった直後に座り直した。
 近付いて来るのを期待したが、そうならなかった。
 衝動的な行動を控え、自制を働かせた医神を見上げて、立香は枕の影で頬を膨らませた。
「そもそも、そこまでして、此処に居る必要がどこにある。眠くなるのは、退屈だからだろう。だったらトレーニングに励むなり、他にすべきことがあるんじゃないのか」
「トレーニング、やり過ぎたら怒るくせに」
「それは、限度を考えないお前が悪い。身体を鍛えるのと、肉体を酷使するのとでは、意味合いがまるで違うと理解しろ」
 時間を無駄に浪費しているのを咎め、アスクレピオスは右の手のひらを上にした。指先で空を掻き混ぜ、緩く握り、人差し指だけを伸ばして立香を指差した。
 医療従事者らしい台詞を吐いて、あくまでも部屋から出て行くよう、促し続ける。
 お蔭で益々意固地になって、立香は身体を起こし、ベッドに座り直した。
 薄い枕を膝に抱え、上から押し潰した。長方形をリボン状に変形させて、放り投げたくなったのを、寸前で我慢した。
「そんなにオレのこと、邪魔?」
「気が散るのは、確かだな」
 医務室は治療を目的とした空間だが、かといって用がなければ来てはいけない決まりはない。
 居座り続けることへの正当性を主張したいが、邪険にされ続けるのは、少々心に堪えた。
 素っ気ない態度を崩さないアスクレピオスをねめつけて、立香は両の拳で枕を叩いた。押し出された内部の空気が舞い上がり、埃が散ったのを横薙ぎに払い除けて、爪先を床で揃えた。
 前屈みになって、中腰から立ち上がる動作に入る。
 直前に視界に入った医神の顔は、それまでと違い、どこか焦っている感じがした。
 目の錯覚か、ただの勘違いか。
「マスター」
 向こうも肘掛けに手をやり、腰を浮かせた。
 お互い中途半端な状態で二秒弱固まって、立香の方が早く姿勢を崩した。
 見つめ合って停止した時間は同じはずなのに、人間とサーヴァントとしての違いなのか、先に膝に負担が来た。微妙な体勢を維持するのは大変で、諦めてベッドに戻れば、アスクレピオスもワンテンポ遅れて椅子に座した。
「じゃあ、さ。こうしない? 賭けようよ。アスクレピオスが勝ったら、オレは帰る。オレが勝ったら、もう少し居て良い?」
 居心地悪そうに数回身を捩った彼を眺め、ふと思いついた案を言葉に並べた。つらつらと述べた立香に彼は右の眉をピクリと持ち上げ、力なく首を振った。
「それでお前は、納得するんだな?」
 嘆息混じりに呟いて、長い脚を組み直した。僅かに高くなった膝に両手を引っかけ、背筋を伸ばした英霊は、呆れているような、楽しんでいるような、よく分からない雰囲気だった。
 不敵に目を眇めて、提案の続きを待つ。
 機嫌を損ねていないのだけは、間違いない。黙って見詰められた立香は一瞬息を呑み、逃げるように目を泳がせた。
 実のところ、じっくり考えていたわけではない。言い負かされない為の手段を探して、たまたま口が滑った感じで出たというのが、正解だった。
 確実に、とまではいかないけれど、勝率が高そうな、それでいて誰が見ても白黒はっきりする賭け事とは、なんだろう。
 たとえばカードを二枚用意して、片方に印を入れて、良くシャッフルした後で一枚ずつ選ぶような。
 ただこれだと、勝率は五分だ。カードに細工すれば百パーセントになるが、公平性を保てないルールを、アスクレピオスが見逃すだろうか。
 自分が損をしない策を必死に考え、立香は瞳を顔の真ん中に集めた。
「どうした。決められないのなら、このまま僕の勝ちで良いか?」
「待って。待って。待った。なんでそうなるのさ。あ、そうだ」
 喉の奥で唸っていたら、勝手極まりない事を言われた。
 さすがにそれは、受け入れられない。慌てて枕を振り上げて、立香は開けた視界に目を輝かせた。
 分かり易く、道具も要らず、且つ立香にとても有利な賭けが見つかった。
「次、ここに来るのが男か、女か。どう? ちなみにオレは、女に賭けるから」
 声を弾ませ、再び枕を抱き潰した。うきうき踊る心を懸命に押し留めるが、表情筋は勝手に緩み、制御が利かなかった。
 勝利を確信し、にんまり笑って胸を張る。
 アスクレピオスは一気に告げられた内容に目をぱちくりさせ、数秒後に額を押さえて顔を伏した。
「勝手な事を……」
 そもそもこの医務室には、滅多に客が来ない。立香が訪ねて来てから今に至るまでも、ふたりの時間を邪魔する存在は現れていなかった。
 このままいけば、勝敗に関係無く、誰かが来るまで立香は医務室に居続けられる。
 もし来訪者があっても、カルデアに在籍する英霊は、女性の方が多いという現実があった。
 中でも一番現れそうなのは、ネモ・ナースと、ナイチンゲール。或いは立香を探しての、マシュ。医者繋がりでサンソンという可能性もゼロではないが、彼は基本、呼ばれなければ医務室には近付かなかった。
 たとえ負けたとしても、夕食までの時間くらいは稼げるだろう。
 我ながらナイスアイデアだと心の中で万歳三唱して、立香は歯を見せて笑った。
「男が来たら、大人しく帰ると約束するんだな」
「勿論、二言はないよ。あ、イアソンとか呼ぶのは、なしだからね」
「……チッ」
 既に勝ったつもりでいるのを見咎め、アスクレピオスが壁のコンソールに触れようとした。それを素早く制すれば、彼は露骨に顔を顰めて舌打ちした。
 そんなに居て欲しくないのだろうか。
 彼の研究を邪魔するつもりはない。ただ近くで、気配を感じて、姿を見ていたいだけなのに。
 この感情を彼に抱くのは、悪いことなのだろうか。
 押しつけるつもりがなくても、迷惑なのだろうか。
「ふん、だ」
 意地でも自分からは、出て行ってやらない。
 強く決意し、念の為にと、誰か来るかもしれないドアに目をやった。
 女が来たら、立香の勝ち。男が来たら、アスクレピオスの勝ち。そして誰も来なければ、立香の狙った通りの展開になる。
 銀色の扉は沈黙しており、予想ではそのまま静かに佇み続ける――はずだった。
「お邪魔するよ」
 だのにものの五分としない間に、前提は覆された。
「はああ?」
 ドアが向こう側から開かれて、あり得ない事態に立香は跳び上がった。
 唖然と目を丸くして、口もぽかんと開いて立ち尽くす。その間抜けな声を聞いたアスクレピオスまでもが、惚けた様子でペンタブを落とした。
 一方、訳が分からないのは、何も知らずにやって来た長髪の英霊だ。
 入室と同時に素っ頓狂な声を上げられて、シンプルな出で立ちのサーヴァントはきょとんと瞬きを繰り返した。整った顔立ちを僅かに歪め、絶句しているマスターと、アスクレピオスを順に見て、怪訝に首を傾げ、顎をぽりぽり掻いた。
「やれやれ。どうしたんだい?」
 比較的低い声は、電子音が不定期に響くだけの室内に反響し、静かに消えていった。
 靴は履かず、素足だ。萌葱色の髪は先に行くに従って緩くカーブし、動きに合わせてリズミカルに揺れた。穏やかな表情はある意味作り物めいており、感情の起伏の少なさがそれに拍車を掛けていた。
 戸惑っている風であるが、取り乱すことはない。
「え、……エルキドゥ」
「そうだよ、マスター。ねえ、目薬をもらいに来たんだ。ギルガメッシュに頼まれてきたんだけど、いいかな」
 むしろ動揺が隠せないのは、立香の方だ。
 呆然と名を呼べば、性別がない英霊はにこやかに微笑んだ。そうしてアスクレピオスに向き直って、用件を手短に伝えた。
「ギルガメッシュ……どっちの」
「キャスターの。アーチャーの彼には、目薬は必要ないって分かるだろう?」
「少し待て、用意する」
 賢王と呼ばれるキャスター・ギルガメッシュは、カルデアに召喚されてからも数多の文献や記録を調査し、異界の神について対策を練ってくれていた。
 彼ならば、眼精疲労を訴えて目薬を欲しがっても、不思議ではない。資料の前から動きたがらず、誰かに取りに行かせるのも、あり得る話だった。
 慌ただしく立ち上がり、アスクレピオスが部屋の奥に向かった。これまでにも似たような依頼があったのか、戻って来た彼の手には特殊な形状の小瓶が握られていた。
 細い首に巻き付けられていた札を外し、ドアの前で待っていたエルキドゥに再度使用者を確認して、手渡す。
「近いうちに、状態に変化がないか、診察したい。それと使用の際の注意事項だが」
「ああ、その辺は大丈夫。彼も無茶な使い方はしないさ。検診のことも伝えておく。感謝するよ。じゃあ、マスター。なにをしていたかは知らないけど、またね」
「うん。また」
 医療者らしいことを口にし、容量や用法を伝えようとしたアスクレピオスを遮って、エルキドゥはひらりと手を振った。
 爽やかに笑って、踵を返した。振り返りもせずドアを開け、あっさり出て行き、戻って来なかった。
 立香たちが驚いていた理由を聞かず、興味も示さなかった。自分の用件だけを済ませて、それ以外一切関わろうとしなかった。
 ただエルキドゥには関係無いことだから、あちらがぐいぐい来なかったのは、むしろ幸いか。
「ねえ。この場合、賭けって、どうなるのかな」
 神が造った兵器であるエルキドゥには、性別がない。
 では来訪者が男女のどちらかで争っていた、この賭けの結果は、どうすればいい。
 力なくベッドに座り込み、問いかけるが、アスクレピオスも困り果てている様子だ。目を泳がせた彼は口元を押さえて黙り込み、一度遠くを見た。
「成立しない、ということになる、か」
 半ば独り言だったが、それほど広くない室内で、声を拾うのは容易かった。
 エルキドゥの来訪は、ノーカウントになるということだ。確かにそれが、最も平和的で妥当な結果だろう。
 けれどアスクレピオスは険しい表情をして、壁の方をちらりと見た後、おもむろに閉まったドアを指差した。
「夕食までまだ時間はあるな。……マスター、部屋へ戻れ」
 突然命令されて、背中に電流が走った。
 到底受け入れられない提案に、息が詰まった。危うく呼吸を忘れそうになり、胸を押さえて声を絞り出した。
「待ってよ。なんでそうなるのさ。オレ、だって、負けてない」
「そうだ。そして僕も負けていない」
 目尻に熱いものがこみ上げて、やり過ごそうと、勢いつけて立ち上がった。乱暴に床を蹴って吐き捨てれば、アスクレピオスが間髪入れずに吼えた。
 噴出した苛立ちを音にして、即座に唇を噛み、自分自身を落ち着かせる目的なのか、首を横に振った。
「負け、ではない……が、勝ち筋もない。そしてお前がここにいては、研究が先に進まない。集中出来ないと言っているだろう。ただ僕としても、お前が他の連中と一緒に居るのは、正直なところ、良い気はしない。ああ、そうだ。まったく、なんて厄介な」
 俯いて、紡がれる声はとても小さかった。心持ち早口で、頑張って耳を欹てたものの、その全ては聞き取れなかった。
 喋っている最中に髪を掻き乱し、舌打ちを二度、三度挟んで、最後は深く長い息を吐く。
「アスクレピオス?」
 らしくない態度を怪訝に見守っていたら、肩を竦めた医神がやおら立香に爪先を向けた。
 数歩の距離を一気に詰めて、近付いてきた。無言で、睨みを利かせながらの接近は若干怖いものがある。堪らず足踏みした立香はバランスを崩し、ベッドに寄りかかるようにして座り込んだ。
「あ、うわ」
 不安定な体勢をどうにかしようと、もたもたしているうちに、白い袖が降ってきた。後頭部にまで長い布が覆い被さって、急に暗くなった視界に騒然となった。
 心の奥がざわついた。萎縮して血の気が引いた身体を慰めるかのように、黒髪を撫でる手は優しかった。
 布越しの指が、右に、左に短い間隔で揺れ動いた後、右の頬へと滑り落ちた。
 頭頂部にあった障害物もずり落ちて、肩に沈んだ。そのはずだ。だのに立香の目の前は、暗いままだった。
 忙しなく瞬きを繰り返し、ぼやけた焦点を合わせ直す。惚けて間抜けに開いていた唇に何かが触れたのは、ほんの一瞬の出来事だった。
「部屋に戻れ、立香。……僕が、そちらに行く」
 柔らかくて、ほんのり暖かくて、微かに薬草の匂いがした。
 甘くない。
 苦い。
 それが気付け薬の代わりとして、遠くに行きかけた意識を引き戻した。
「ひっ!」
 耳元での囁きが全身を擽り、とてもではないがじっとしていられなかった。ゾワゾワと背中を悪寒が駆け抜けて、一歩遅れて高熱が全身に広がった。
 吹きかけられた微風にも驚き、座ったままぴょん、と飛び跳ねる。衝突寸前で退いた男は呵々と笑って、みるみる赤くなる立香の額を小突いた。
「それとも、ここがいいか。また誰かが来るかもしれないが」
 不敵に口角を持ち上げて、アスクレピオスがドアを示した。
 含みのある言い回しに、惚けていた思考が不意に爆発した。
「へ……部屋に。部屋に、帰りゃしぇていただきまふ!」
 指差された場所と、尊大に振る舞う男を交互に見て、立香は打たれた箇所を両手で庇った。勝手に赤くなる顔を晒し、みっともなく声を上擦らせ、叫んだ。
 殆ど悲鳴だった。呂律が回らず、発音が覚束なかったが、意味は通じたはずだ。
「ああ、そうしてくれ」
 実際、返す手で鼻筋を隠した医神とは、きちんと会話が成立していた。
 口元は見えないけれど、雰囲気は朗らかだ。抑えきれない感情が滲み出ているのを嗅ぎ取って、立香はあたふたとベッドから立ち上がった。
 勢い余って転びかけて、ぎりぎりで持ち堪えた。足早で扉の前まで進んで、くるりと身体を反転させた。
「あ、あ。あのさ。えっと。五分、……五分待ってからにして。あっ、あ、いや。やっぱり十分で。十分してから来て。シャワーするから。シャワー浴びるまで、その。待ってて」
 両手を忙しく振り回し、足踏みしながら捲し立てる。
 火照った身体は落ち着きを失い、踏みしめる床はマシュマロのような感触だった。ふわふわした頭を必死に支えながら懇願して、立香は壁のボタンを殴った。
 乱暴な仕打ちに文句も言わず、反応したセンサーがドアに開くよう促した。
「十分だな」
「早くね!」
 念の為と確認して来たアスクレピオスに、矛盾していると分かる台詞を残して、部屋を出る。
 廊下の空気は乾いて、冷えていた。
 一旦落ち着こうと立ち止まり、腹に手を添えて、深呼吸を二回。
「ふー……、はー……」
 そうやって真正面を見据え、しっかりとした足取りで走って行く立香を見送る。
 自動的に閉まったドアをその後もしばらく見詰めて、アスクレピオスは卓上に残った薬液の札に目をやった。
「そういえば、あのキャスターは千里眼……いや、まさかな」
 可能性は否定出来ないが、確かめに行くほど野暮ではない。
 まだ見ぬ未来に想いを馳せて、彼は洗面台に向かうべく、部屋の奥に足を向けた。

我ながらなど思ひけん目の前に かかる心は見せじものぞと
風葉和歌集 966

2021/01/16 脱稿