あなたふと 枯れたる木にも 花咲くと

 暇潰しと、話し相手が欲しくて訪ねたメディカルルームには、生憎と先客がいた。
 不人気で知られる医務室は、大抵そこを預かる――と自負して憚らない――英霊しかいない。しかし予想が外れて、ドアを潜ったところで見えた景色に戸惑った。
「なんだ、マスター。随分と健康そうだが、医務室に何の用だ」
 足を止めて固まっていたら、部屋の奥から皮肉たっぷりの問いかけが飛んで来た。
 苦笑で応じるしかない詰問に肩を竦めて、汎人類史最後のマスターこと藤丸立香は目を細めた。
「そっちこそ、定期検診サボったら怒るくせに」
 惚けていたのが、たったひと言で引き戻された。
 言われっ放しは癪なので言い返し、半端に出していた右足で床を叩く。同時に踵が浮いていた左足を繰り出し、そのまま数歩進んで、不満顔の医者から手前の椅子の主に視線を移した。
「え、ええ……ええと。あのぉ……」
 自分達のやり取りは、慣れないうちは、仲が悪いのかと思われても仕方がない。
 カルデアに来て日が浅いサーヴァントの困惑に微笑みで返して、立香は椅子の上で縮こまっている少女の頭を軽く撫でた。
 綺麗に結われた亜麻色の髪を崩さぬよう気を配り、緊張しなくて良い旨を暗に伝える。撫でられた少女は数秒かけて表情を和らげ、ホッと息を吐いて背筋を伸ばした。
 その額には、大きな絆創膏が一枚、べったり貼り付けられていた。
「なにかあったの?」
「えと、ちょっと、はい。あの。ウへ、エヘヘ……」
 幅二センチ以上、長さは五センチ以上あるその周囲も、ほんのり赤く染まっている。
 明らかになにかにぶつけたと分かる傷に驚いていたら、要領を得ないゴッホに代わり、アスクレピオスが右袖を軽く振った。
 ノウム・カルデアの医務室を預かる英霊の傍には、治療に使ったと思しき消毒液やガーゼ、絆創膏の剥離紙などが一列に並べられていた。
 銀色の、キャスター付きのワゴンには他にも色々な薬品が揃っており、立香も度々お世話になっている。種類毎にきちんと整頓されている棚にも何気なく目をやって、彼はアスクレピオスに向かって首を傾げた。
「フォーリナーの連中と、絵描きに乗じていたそうだ」
「……うん。それで?」
 視線を受け、古代ギリシャにゆかりを持つ英霊が片付けしつつ、口を開く。
 ただそこからどうして、ゴッホが額に怪我をするのかが、まるで分からない。
 極端に端折られた説明に戸惑っていたら、ズボンの皺を弄っていた少女が照れ臭そうに笑った。
「あの、です。えっと……みなさんと一緒で、楽しくて。……それで、嬉しくなっちゃって。つい。エヘヘ」
 若干不格好な笑みで告げて、広げた掌を胸の前で重ね合わせる。指を互い違いに絡ませ、強く握った少女の言葉は、それでも矢張り、理解に窮するものだった。
 当人は巧く言っているつもりかもしれないが、圧倒的に言葉が足りない。アスクレピオスが先に語った内容を加味しても、彼女が医務室に厄介になった理由には辿り着けなかった。
 困惑が、自覚している以上に顔に出ていたのだろう。
「昂ぶり過ぎて第三再臨姿になり、そのまま部屋を出ようとして、ドアの鴨居にぶつけたそうだ」
 医神が先ほどより大きめの、それでいて若干強めの語調で、ゴッホの後を補った。
「ああ……」
 理解に苦しみ、考え込む表情は、眉間に皺が寄り、不機嫌と捉えられかねない。
 それは人見知りが激しく、ネガティブな思考に支配されがちの少女にとって、決して望ましいものではなかった。
 言外に忠告、且つ叱責されて、立香は深く息を吐いた。四肢の力を意識して抜き、意識して表情を和らげて、その後から追加された情報をもとに小さく頷いた。
 これでようやく、繋がった。
「医務室には、みんなが連れて来てくれたの?」
「え、えへ。えへえ。……それが、その」
「恥ずかしくて、振り切って逃げて来たそうだ」
「あははは……」
 カルデアにはゴッホの他に、北斎の娘であるお栄や、ダ・ヴィンチもいる。刑部姫も絵心がある方だし、最近ではジャンヌ・ダルク・オルタも彼女に興味を示していた――夏に向けて、絶対に負けられないと息巻いていたのは、聞かなかったことにするとして。
 一緒にいたメンバーも、突然のゴッホの再臨と、突飛な行動に、さぞや戸惑ったことだろう。傷の具合からして、相当な勢いでぶつけたと思われた。
 痛みに呻き、蹲る彼女を心配し、四方から声が飛んだはずだ。けれどゴッホの性格的に、素直に心配されて、手当てを施されるとは考え難い。
 気に掛けてもらえる嬉しさ、気を遣わせてしまった申し訳なさ、なにより派手にやらかした己への後悔と羞恥。
 それらがない交ぜとなり、処理出来なくなって、結果として彼女はその場から逃げ出した。
 鴨居に打ち付けた痛みは消えず、かといって飛び出して来た部屋には戻れない。
 来たばかりのカルデアで、彼女と親しい存在はそう多くない。頼るべき相手がすぐに見つからない中で、行く先として選んだのが、このメディカルルームだった、ということだ。
 ただ立香は、彼女をここに案内したことはない。
「それじゃ、自分で来たんだ。医務室の場所、知ってたんだ?」
 必要と思いつつ、ずっと避けていたのは、継ぎ接ぎの霊基の大部分を占めている、水の妖精に遠慮していたからだ。
 一瞬難しい顔をしたくなったのを誤魔化し、わざとらしく声を高くする。
 間近で響いた大きな声にゴッホは目を丸くし、唇を右人差し指でなぞった。
「それは、えっと……はい。マスターさまがお怪我された時とか、そうじゃない時、でも。このお部屋に、よく入っていかれるので、なんとな~く……そうなのかな、って。思ってました」
 きっと彼女も、言葉を探し、選んだ。
 最後に照れ笑いを浮かべた少女の気遣いに硬直していたら、ワゴンを押し退けたアスクレピオスが不遜に口角を歪めた。
「良かったな、マスター。貴様の度重なる無駄足が、役に立ったぞ」
「えええ、もう。まーた、すぐそういう事言う」
 重く、暗くなりかけた空気を一蹴し、両腕を組んでふんぞり返りながら皮肉られた。
 口が減らない医者に小鼻を膨らませ、目を吊り上げる。直後にぷっ、と横で噴き出す声が聞こえて、見ればゴッホが必死に笑いを堪えていた。
 先ほどの遠慮がちな、無理に作り上げられた笑みとは違う。腹を抱えるところまではいかないが、それは貴重な第一歩だった。
 心の奥底で凝っていた懸案が、すーっと薄く、軽くなった。完全に払拭出来たわけではないけれど、少なからず気持ちが楽になった。
 どれだけ時間が掛かろうとも、彼女が此処に馴染んでくれるなら、マスターとしてこれほどの喜びはない。
 嬉しくなって、立香まで頬が緩んだ。喜びに胸を満たし、包み隠さず表に出す。
 満面の、と表現しても遜色ないそれを見たゴッホは更に顔を赤くして、両手で顔面を覆い、皺くちゃになった――かと思えば。
「ああっ」
 それまで安定していた霊基が急変し、少女は甲高い悲鳴を上げた。小さな体躯に収まっていた魔力が突如膨らんで、波打ち、ゴッホを中心に大きく渦巻いた。
 巻き込まれた椅子が倒れ、立香の脇を猛スピードで滑っていった。当たりはしなかったが恐怖を覚え、反射的に横に飛び跳ねたところで、アスクレピオスに受け止められた。
 片足立ちで崩れかけたバランスを、横からの補助でなんとか整え、あんぐり開いていた口を閉ざす。
 立香の肩より低いところにあった筈の亜麻色の髪は、今や見上げなければならない程の高さにあった。
「……霊基の制御については、がんばろうね」
「すみませええん」
 感情の起伏に左右され、姿がころころ入れ替わっていたら、彼女としても不便だろう。
 医務室に駆け込む原因となった失敗を繰り返したゴッホは、恥じ入って、深々と頭を垂れた。
 もっとも立香の視界の大部分は、彼女の足元に位置取る巨大な球体で占められている。仄かに発色する白いレース状のそれは、重力制御を無視し、床すれすれの位置で弾んでいるように見えた。
 海中を漂うクラゲを思わせる部分もあるが、両袖の中に咲く黄色い花と合わさって、袋状の花弁を持つ花をも連想させた。
「謝らなくて良いよ。最初は誰だって不慣れだし、失敗しないことの方が少ないんだから」
 うっかり咲いてしまったのに恐縮する彼女を、このまま放っておくわけにはいかない。外なる神の脅威は取り除かれたが、虚数空間での活動に耐えうる霊基には謎が多く、暴走すればなにが起きるかは、現段階では未知数だった。
 ダ・ヴィンチたちからも、くれぐれも慎重を期すよう釘を刺されていた。
 下手に刺激せず、落ち着かせるにはどうすれば良いだろう。この球状の物体に触れて良いかどうかでも悩み、両手を中空に漂わせ、立香は背伸びした。
「あ、あのさ。そうだ。前から思ってたんだけど。たしか、えっと……そう。ホタルブクロみたいだよね、その姿」
 話題を探して、大きく円を描いた指先を、臍の辺りで重ね合わせた。途端にぽっと、降って湧いた発想に縋って、思いつきに身を委ねた。
 深く考えないまま使った言葉は、この時はまだ、効果的だった。
「……はい?」
 耳慣れない単語に、クリュティエ=ヴァン・ゴッホが高い位置から身を乗り出した。一目で人外と分かる眼をきょとんとさせて、不思議そうに首を傾げた。
「それは、なんですか。マスターさま」
 自虐的で内向的な彼女が、興味を示した。
 少なくとも己の失敗を悔やみ、恥じて、内に引き籠もって悪い方へ、悪い方へ転げ落ちていくのだけは回避出来た。
 ただその後が、巧く続かない。
「え、えっと」
 そんな名前の花があるというのは、記憶の片隅にうっすら残っていた。釣り鐘状で、薄紫色に咲く。蛍を中に入れて光らせる遊びが流行ったからその名前がついたと、教えてくれたのは誰だったか。
 牛若丸や、弁慶の顔が脳裏を過ぎった。けれど理路整然と説明できる自信がなくて、喉の奥で唸っていたら。
「ホタルブクロ。……bell flower……Campanula……?」
 未だ立香の傍らに控え、万が一の事態に備えていた医神が、ぼそっと小さな声で呟いた。
 独り言なのか、はっきり聞き取れない。ただ妙に舌触りの良い、滑らかな発音に反応して、ゴッホが表情を凍り付かせた。
「カンパニュール」
 アスクレピオスの独白を受け、なにを受け取ったのか、言葉を震わせる。
 少女は喉の奥から声を絞り出し、言い終えた後に下唇を噛んだ。遠すぎて良く見えないけれど苦しそうに顔を歪めて、目を瞑り、大仰に首を振った。
「なんで。……なんで? 似てないです。全然、似てないです。私なんか、マスターさま。そんな。そんなわけないのに。なんで、なんでそんなこと言うんですかあ!」
 再び両袖で顔を覆い、声を荒らげて項垂れる少女は、泣いている風に見えた。
「え。なに。なんで。なんで?」
「馬鹿か。カンパニュールは、チッ。耳を貸せ」
 まさかこんな事になると思っていなかった立香は上を向いたまま絶句して、アスクレピオスに引っ張られて我に返った。
 間近で詰られたが、気にもならない。それよりも距離を詰めて来た彼の前髪が耳朶を掠め、吐息で肌を擽られることにぞわっと来た。
「カンパニュールは、オリンポスの果樹園の番人だ。侵入者があったのを伝えようと銀の鈴を鳴らし、殺され、フローラによってカンパニュラの花に変えられた精霊のことだ」
 早口で伝えられた情報が、ただでさえ悪寒が走っていた身体を冷たくさせた。
 鳥肌が立ち、内臓が一気に縮こまる。血の気が引く音が聞こえた。
 何者かが花に変えられる物語が、ギリシャ神話には多い。意図しない言葉の選択の先に、こうも深い落とし穴が待っているとは、夢にも思わなかった。
「ええ、でもオレは、ホタルブクロって。言ったのはアスクレピオスじゃないか」
「そうだな、ああ。その通りだ。貴様が迂闊な事を言わなければ、僕だって無駄な情報を引き出したりはしなかった」
 古代ギリシャの英霊には馴染みがない花の名前を、どうにか理解しようとして、アスクレピオスはあの独白に至った。堪らず彼を責めてしまったけれど、発端は立香にあり、責任の全てを押しつけるのはあまりに不条理だった。
 それでも医神は非を一部認め、それでいて立香を責め返すのも忘れなかった。
 どんな時、どんな状況であっても、一言多い。ぐうの音も出なくて押し黙っていたら、長い袖越しにデコピンが飛んで来た。
「うぎゃ」
「聞いているな、クリュティエ=ヴァン・ゴッホ。確かに貴様は、カンパニュールのように義理堅く、誠実であるとは言い難い。命を賭して黄金の林檎を守ろうとする気概が、かつてのお前にあったとは、到底思えない」
「ちょっと、アスクレピオス」
 唐突の痛みに星を飛ばしていたら、止める暇もなくアスクレピオスが捲し立てた。
 絶望し、落ち込んで、嘆きの海に溺れている少女に追い打ちを掛け、益々深い場所へと蹴り落とす。
 医者として、人間の救済を掲げて来た英霊にあるまじき発言に、立香は益々青くなった。
「そんなの。そんなの……言われなくても、分かって……なんで言うんですかああ~」
 ゴッホの方も碌な反論が出来ず、心が行き詰まったのか、癇癪を起こして両腕を振り回した。一歩間違えれば襲い掛かって来そうな雰囲気なところ、アスクレピオスの傍に立香がいるため、ぎりぎり耐えているのが感じられた。
 幼い少女を追い詰めて、何をしたいのか。
 はらはらしながら横を窺えば、医神と冠される英霊は毅然とした表情を崩さず、真剣な眼差しで、手間の掛かる患者を見詰めていた。
「よく聞け、愚患者。僕たちサーヴァントにとって、ここは――カルデアは、やり直しの場所だ」
 これまでの厳しいだけの口調が、途中から、不意に和らいだ。
 吐息に混ぜ込まれた、自分自身に語りかけるかのような囁き。僅かに掠れ、勢いを失った言葉は、それでもしっかりゴッホの耳にも、立香の耳にも届けられた。
 高いところでひとり暴れていた少女は息を呑み、動きを止めた。散々振り回されて萎れ、項垂れていた黄色い花々が、ゆっくりと頭を上げ、背筋を伸ばした。
「やり直しの、場所」
 自身に向けて発せられた言葉を繰り返し、縋るような眼差しを立香へと向ける。
 見下ろされ、反射的に頷き返したマスターに、少女は目を瞬かせた。
「ああ。そしてそこの馬鹿……もとい、マスターが欲しているのは、己の愚行を悔いて、ただ立ち尽くす花ではない。分かるか。クリュティエたるお前が、今さら、カンパニュールになれないのは自明だが。そうだな。ぼんやりし過ぎて、警戒心の欠片も持ち合わせていないマスターのためにも、今の貴様なら、銀の鈴を鳴らすことくらいは、叶うのではないのか?」
 その横で、アスクレピオスが溜め息と共に吐き出した。癖のある前髪を掻き上げ、途中から若干面倒臭そうに言葉を紡ぎ、右袖を揺らした。
 片やアポロンに恋い焦がれ、心離れした男を取り戻そうと愚行に走り、全てを失った花。
 片や与えられた責務を全うし、役割を果たした花。
 ふたつは、同じにはなれない。
 けれど真似をし、倣い、目標にすることなら。
 マスターが似ていると笑った花を模し、もう一度咲くことが出来るなら。
「……はい。はい。なります。マスターさまの、銀の鈴に。私が、マスター様をお守りして、ウフフ……いっぱい、鈴の音を、響かせます」
 彼の発言を受けて、ゴッホは何度となく頷いた。不安定に揺れていた霊基は次第に収束を見て、医務室の天井に届きそうだった体躯も、一瞬のうちに小さくなった。
 大輪のヒマワリを愛おしげに抱いて、少女は照れ臭そうに目を細めた。
「へへ、エヘヘ……すみません。ご迷惑、いっぱい……」
 額に貼られた絆創膏を気にしつつ、先に立香に、続けてアスクレピオスへ頭を下げる。卑屈な部分が戻ってはいるが、魔力の流れは穏やかで、落ち着いていた。
 今しばらくは、先ほどのような事は起こらないはずだ。
 居心地悪そうにもじもじしている少女に相好を崩して、立香は両手を腰に当てた。
「なんか、随分とこき下ろされた気がするけど。それは置いといて。――迷惑だなんて、思ってないよ。むしろもっと迷惑かけてくるサーヴァント、沢山いるし。それにさ、オレとしては、迷惑かけられる方が、頼られてるって感じがして、うん。嬉しい、かな」
 好んでトラブルを巻き起こす英霊も、このカルデアには少なからず存在する。しかも自身の振るまいを全く反省せず、開き直り、居直る連中までいた。
 それに比べれば、自省出来ているゴッホは、優秀な部類と言えるだろう。
「はうっ。なんと寛容な、マスターさま。えへへ……ゴッホ、もっと頑張りますね」
 そんな存在に何度となく鍛えられているので、ちょっとやそっとではへこたれない。
 得意げに言い切った立香に衝撃を受けたゴッホは、勇気づけられたのか、嬉しそうに破顔した。
 八重歯を覗かせ、はにかむ。
 少女の笑顔を受けて、肩の荷が下りた。安堵に頬を緩め、立香は今回の功労者たる男を横目で盗み見た。
 端正な顔立ちは、どことなく複雑な感情を抱いている風に映った。
「アスクレピオス?」
「やっと見付けた! ゴッホちゃん、こんなところにいたー」
「なんでい、お医者先生のお世話になってたのかい。探し回って損しちまった」
 その表情の正体が掴めなくて、戸惑い、呼びかけようとした矢先。
 医務室のドアが開いて、少女らの声が姦しく響き渡った。
 転がり込んできたのは、刑部姫に、お栄だ。後ろの方にはアビーの姿もあった。
 いずれもゴッホと一緒に絵描きを楽しんでいたメンバーで、恐らくは走って逃げた彼女を案じ、方々探し回っていたのだろう。
 それでも見つからなくて、なんとなく避けていた医務室を最後に訪ねた、といったところか。
「みなさん!」
「いきなり走っていなくなっちゃうんだから。心配したんだからねー」
 現れた三騎の英霊に、ゴッホが慌てて駆け寄る。息せき切らす刑部姫がその手を掴んで、不満も露わに口を尖らせた。
 アビーは無言でぬいぐるみを抱きしめ、お栄はホッとした様子で胸を撫でた。そして今になって立香の存在に気付き、気まずそうに頬を掻いた。照れ笑いを浮かべて左手を意味なく揺らして、嬉しそうにはにかむゴッホを促すように、細い肩を何度か叩いた。
 仲良く連れ立って出て行く四騎を見送って、今度こそ一件落着と、立香は四肢の力を抜いた。アスクレピオスはと視線を巡らせれば、彼は壁際に転がっていた椅子を拾い、元の位置に戻していた。
「なんだ?」
 その背中をじっと見ていたら、怪訝がられた。
 胡乱げな眼差しに臆することなく対峙して、目を眇める。眩しいものを見る顔をしていたら、医神は気味悪そうに顔を歪めた。
「言いたい事があるなら、はっきり言え」
「優しいな、って」
 嫌そうに舌打ちしながら要望されたので、正直に思っていることを述べた。
 今度はどんな嫌味が聞けるだろう。少なからず楽しみに返事を待てば、アスクレピオスは長く押し黙った後、珍しく穏やかな笑みを浮かべ、目尻を下げた。
「……医者だから、な」

2020/11/21 脱稿
あなたふと枯れたる木にも花咲くと 説ける誓ひは今ぞ知らるる
風葉和歌集 494