冬の日の 暮るるも知らず 消え返る

 知らぬうちに、食堂の一部が片付けられていた。
 テーブルと椅子が撤去され、広々とした空間が作られていた。そこにやや厚みのある絨毯を敷き、背の低いテーブルが置かれた。床に腰を下ろして座るタイプのそれには、絨毯より柔らかく、綿がたっぷり入った布団が被せられていた。
 更にその上に天板が置かれ、食事が出来るようになっていた。四人が四方を囲めば満杯になる構造は非常に狭く、入るには靴を脱がねばならない決まりまであり、傍目には不便極まりなかった。
 だというのに日本にルーツを持つ英霊は食事時、決まってそちらに陣取った。一部のサーヴァントも、そこを根城代わりに使っていた。かねてよりあるテーブルと椅子を用いる者が怪訝に見守る中で、彼らはとても寛いだ様子で、幸せそうな表情を浮かべていた。
 結果、長時間居座るのが禁じられているのに、決まりを破り、蜜柑を手に席を譲ろうとしない英霊が現れた。それで度々トラブルが発生し、実力行使に打って出た英霊同士の小競り合いに発展する事態にもなっていた。
「撤去したらどうだ」
 そんな喧嘩が頻発している所為で、ここのところ、医務室まで騒がしい。
 両成敗だとエミヤやブーディカからきつい一発をお見舞いされた当事者が、揃ってメディカルルームに放り込まれれば、どうなる。
 そこでも喧々囂々のやり取りを繰り広げる――という状況は、アスクレピオスにとっても頭痛の種だった。
 現状は問答無用で黙らせているけれど、毎日同じことが起きるのだから、いい加減鬱陶しい。
 事の発端となっている炬燵の設置を提言したのは、マスターだ。故郷の冬の風物詩だとかで、彼のたっての希望だという。
 ならばやむなしとしばらく傍観し、静観していたが、我慢の限界が近い。
 暢気に廊下を歩いている後ろ姿を見付けて、言わずにはいられなかった。
 もっとも汎人類史最後のマスターこと藤丸立香は、突然そう言われても、訳が分からない。きょとんと目を丸くして見詰められて、アスクレピオスは深々と溜め息を吐いた。
「貴様が食堂に置いた、あれだ」
「ああ、炬燵ね。……え、なんで?」
 言葉が足りなかったと反省し、付け足しつつ彼方を指し示せば、不思議そうな顔をしていた青年は嗚呼、と頷いた。直後に首を傾げて声を高くされて、医神とも称される英霊は長い袖越しに額を撫でた。
 交差している前髪を掻き上げ、どう説明したものかと軽く舌打ちする。抑えきれない苛立ちを滲ませながら床を軽く蹴り、サンダルの踵に体重を込めた。
「占有権争いの余波が、こちらに来て、迷惑だ」
 端的に、必要なことだけを抜き取って、声に出す。
 それでハッとなったマスターは口元を緩め、曖昧な笑みを右手で覆い隠した。
「そっか。そうなるか……なるね。ごめん」
 長居する英霊と、順番待ちに飽いた英霊が度々揉めているのは、彼の耳にも当然入っていたはずだ。ようやく話が繋がった、と言わんばかりに数回瞬きして、黒髪の青年は上半身を左右に踊らせた。
 底の厚いブーツで二、三回床を叩き、両手を背に回して結んだ。首を竦めて小さく頭を下げて、思わぬ影響が出ていることを素直に詫びた。
「みんなには、オレからも言っておくし」
 ただこちらが要望している、撤去する、というところには、至らなかった。
「……そうではない。第一、あの炬燵というものは、娯楽室に既にあるだろう」
「あー、うん。そうなんだけど。あっちは刑部姫とか、静御前たちがずっと使ってるやつだし。今さら譲れって言うのもちょっとなー、て思ったから、エミヤに頼んで新調して貰ったんだけど」
 話が噛み合わなくて声を荒らげれば、マスターがぱっと目を逸らした。論点を誤魔化そうとした自覚はあるらしく、結んだばかりの手を解いて、黒手袋を嵌めた指先はズボンの皺を弄り倒した。
 背中が自然と丸まり、姿勢が徐々に低くなっていく。腿に両手を置いて深呼吸する彼の旋毛が、アスクレピオスの視界に飛び込んできた。
 右旋回。
 そんなことをふと考えて、彼は即座に首を振った。
「医務室に傷病者を放り込みたいのなら、もっと治療のし甲斐がある、重傷者を作れ」
 かすり傷や、軽い打ち身程度で医務室に駆け込まれるのは、迷惑だ。全身が複雑骨折し、神経が捻れて蝶々結びになっている、というのであれば、話は別だが。
 面白味があり、それでいて興味深い症状の患者が相手ならやる気も出よう。だが消毒して、湿布を貼って、という程度では、退屈すぎて新鮮味がない。
「えええー。それはそれで、文句言うくせに」
 胸を反らして鼻息も荒く訴えれば、顔を上げたマスターが頬を緩め、目を細めた。からからと喉の奥から笑い声を響かせて、姿勢を正し、臍の辺りを撫でた。
 上唇を舐め、その手をアスクレピオスへと差し出す。
「残念だけど、ちょっとの間だけ、我慢して。それにさ、アスクレピオスも入ってみればいいよ、炬燵。なんでみんな、我先にってなるか、分かると思うし」
 なにかと思って見守っていたら、垂れ下がった袖先を握られた。
「断る。時間の無駄だ」
 それを、一旦は拒絶した。振り払うべく、腕を横薙ぎに動かした。
「まあまあ、そう言わずに。ささっ、どうぞ。どうぞ」
「興味がないと言っているだろう。……くそ、引っ張るんじゃない。マスター。おい、聞いているのか」
 けれどマスターは聞き入れず、長い袖を手首に、二重に巻き付けて、強引に引っ張ってきた。乱暴に同行を促し、一方的な主張で強攻策に打って出た。
 一介の人間でしかない彼の手を解くのは、造作もないことだ。しかし歩きながらそれをやると、勢い余ったマスターが転びかねない。
 軽傷者を出すなと言った手前、実行に移すのは憚られた。
 苦虫を噛み潰したような顔で迷っているうちに、真っ直ぐな廊下を突き進んだ彼は、目当てのドアを見付け、その下を潜り抜けた。
 半ば引き摺られる格好で入った食堂は、意外にも閑散としていた。
 時計を探せば、午後一時半を少し回った辺り。昼食には遅く、間食には早い時間帯だった。
「あれ、マスター。どうしたの。お昼はさっき食べたでしょ?」
「違う、違うって。オレ、まだそこまでボケてないから」
 テーブルを拭いて回っていたブーディカに言われて、マスターが大袈裟に左手を横に振った。朗らかに笑う女性に苦笑で応じて、雑然と並んでいる椅子の間を問答無用ですり抜けた。
 もっと通り易いルートが他にあるだろうに、囚われたままのアスクレピオスは、彼が進んだ道筋を辿るしかない。誰かが使って、そのまま放置して行った椅子が膝に当たり、鈍い痛みが骨を伝った。
「マスター」
 腹の奥底に居座っていた怒りが、じわじわ膨らんでいく。
 いつ爆ぜてもおかしくない感情を持て余し、奥歯を噛み締めたところで、前を行く青年がぴょん、と足を揃えて高く跳んだ。
「やった。ラッキー。空いてる」
「ひとり三十分までだからねー」
「はーい」
 嬉しそうに声を弾ませた彼に、ブーディカが椅子を揃えながら告げる。
 遠くから飛んで来た女性の声に振り向いて、アスクレピオスは苦い唾を飲み込んだ。
 厨房を預かる彼女らにとっても、ここで騒ぎを起こされるのは迷惑だ。故に時間制限を設けているものの、従わない連中がいるから、揉める原因になる。
 ただアスクレピオスには、どうして時間を守らない奴らが出るのか、その理由が分からない。
 無人の炬燵には、誰かが持ち込んだと思しき蜜柑入りの籠があった。ただ残りは少なく、天板には小さく千切れた皮や、白い繊維状のゴミが散らばっていた。
「ちゃんと片付けろって、言ってあるのに」
 それを見咎め、マスターが眉を顰めた。ようやくアスクレピオスの袖を解放したかと思えば、左手をちり取りにして掻き集め、傍にあったゴミ箱にまとめて捨てた。
「帰っていいか」
「ダメ」
 この隙に逃げ出そうと考えたが、実行する前に訊いたのは愚策だった。
 彼にしては厳めしい顔で即答して、マスターは直前まで誰がいたかも分からない布団の端を、大きく捲り上げた。
「どうぞ。入って、入って」
「……チッ」
 一足先にブーツを脱ぎ捨て、炬燵に入るよう手で促す。
 彼の思惑通りに行動するのは、癪だ。しかしここで引き返せば、目撃者もある中、マスターに非礼を働いたとの誹りを受けよう。
 サーヴァントがマスターに絶対服従である必要は無く、意に沿わない命令に反するのも、別に契約違反ではない。ただこのカルデアには、藤丸立香なる存在に心酔する英霊が少なからず存在し、同調圧力めいたものが支配しているのは否めなかった。
 今回のことが禍根となり、後々の診察や、治療に影響を及ぼす可能性を考慮すると、大人しく受け入れるしかあるまい。
 一瞬の間にあれこれ想像し、結論づけて、アスクレピオスは深く長い溜め息を吐いた。
 サンダルから足を抜き、ふかふかの絨毯へと降り立つ。きちんと消毒されているか気になったが口には出さず、先に座り込んだマスターに倣い、捲られた毛布の先に爪先を捩じ込んだ。
「ん?」
「あ、ごめん」
 その先で、何かを蹴った。
 聞くまでもなく、マスターの足だ。左向かいに位置取った青年の伸ばした爪先が、アスクレピオスの進行方向を横切る形になっていた。
「どう、これは……脚は組むべきか」
「好きにしていいよ。合わせるから」
 彼の我が儘に付き合い、初めて炬燵なるものに挑戦してみたが、いざ座ってみると足のやり場に困った。
 助け船を求めても、明朗な答えは返って来なかった。自由にして構わないと言われると、余計にどうすれば良いか分からなかった。
 仕方なく黙って膝を真っ直ぐ伸ばせば、一度は引っ込んだマスターの足がそろり、近付いて来た。
 天板の下、炬燵布団の中だ。ほんのり暖かい空気が占める中、位置を探った爪先が、アスクレピオスの臑を跨いだ。
 数回小突かれ、踵で踏まれた。時折力が抜けて、弛緩した筋肉の感触が降ってきた。
「これで、本当に、いいのか」
 医務室で聞かされる小競り合いの原因でも、誰々の足が当たった、蹴られた、というものが多かった。それ故に交錯しないよう気を遣うものと思っていたが、違うのだろうか。
 訝しげに問えば、天板に頬杖をついたマスターが締まりのない顔で笑った。
「オレと、アスクレピオスだけだし。いや?」
 白い歯を見せつけられて、毒気が抜けた。面映ゆげに問いかけられて、答える気力すら沸いてこなかった。
 テーブルの内側に設置された暖房器具がじんわり空気を暖めて、下半身だけが熱を帯びていく。末端から解され、それが全身に広がっていく感覚が、思いの外心地よかった。
 天板の高さも寄りかかるのに丁度良い位置にあり、一度凭れ掛かってしまうと、背筋を伸ばすのはなかなか至難の業だった。
「なるほど、これは」
「でしょー?」
 多くの英霊が虜になり、夢中になるのも、頷ける。
 直接床に座るというのも久しぶりで、遠い昔を思い出した。寝台に横になり、怠惰に果物を抓む神々の姿が脳裏を過ぎる。
 そこに混ざり込む自分が見えた気がして、ハッとなった。
 緩みきった表情で炬燵を満喫するマスターは、放っておけばこのまま寝入ってしまいそうな雰囲気でもある。
 うっかり流されそうになって、アスクレピオスは天板を叩いた。
「だがな、マスター。この姿勢を長時間維持するのは、腰部や頸椎への負担を考えても、推奨出来ない。身体の一部が温まり、一部が冷えたままの状態が続けば、自律神経の乱れる原因ともなりかねん。脱水症状を自覚しないまま放置すれば、脳梗塞の危険性が上昇する。ああ、やはりこれは、百害あって一利なしと言わざるを得ない。医者として、改めて僕は、この炬燵の撤去を提言する」
「……すっごい寛ぎながら言われても、説得力ないんだけど?」
 握り拳を天板に擦りつけるものの、その手のすぐ傍に己の顎があった。
 背中を丸め、全身で自堕落な温もりを取り込みにに掛かっている状態では、熱弁も本来の効果を発揮しない。
 言動不一致を指摘して、マスターが笑いながら籠の中の蜜柑を小突いた。同時に伸ばしていた足を戻し、狭い空間で膝を折った。
 身体全部を揺らしながら、触感だけを頼りに、爪先で人のズボンの裾を弄って来た。踝まで覆う布を僅かに捲って、ゆったり広い布の内側に、素早く潜り込んだ。
 素肌を、靴下越しに擽られた。何のつもりかと眉を顰めていたら、彼はこれ見よがしに右手を天板から降ろし、炬燵布団の中へ隠した。
 意味ありげな視線を向けられて、アスクレピオスは睫毛を伏した。吐息を零し、彼に続いて、左手を降ろした。邪魔な袖を手繰りながら、誰にも見えない場所に隠せば、待ち構えていた指先が物言わず擦り寄って来た。
 交差した指先が、足首が、内に秘められた想いを伝えて来る。
「三十分したら、どうせ、ブーディカが追い出しに来るんだし。それまでで良いから、さ。もうちょっと、オレの我が儘に付き合ってよ」
 天板に左の頬を押しつけての囁きは、低く掠れて、この距離でなければ聞き取れない。
 照れ臭そうに眇められた眼差しを避けきれず、アスクレピオスは喉の奥で唸った。
「……三十分だけだ、マスター」
「へへ」
 そんな顔をされたら、もう撤去しろだなんだと言えないではないか。
 むしろ逆に囚われてしまった。強く握り返し、絡め取った指先は、たとえ三十分が過ぎ去ろうとも、容易に振り解けそうになかった。

2020/11/15 脱稿
冬の日の暮るるも知らず消え返る あしたの霜に身をやぐへばや
風葉和歌集 388