知るらめや 恋しとだにも 言へばえに

 指が触れた、それだけだ。
 初めは偶然だと思った。ベッドに腰掛け、左手で本を支えていた。袖越しでも、書物を扱うのには慣れている。背表紙を指四本で囲い、残る親指を紙面に添えて、勝手に閉じていかないように押さえていた。
 右手を使うのは、ページを捲るときだけ。それ以外にはこれといった役目を与えず、ベッド上に投げ出していた。
 その指の背に、何かが触れた。
 布の上から、ちょん、と小突かれた。ただ偶々なにかが当たったものと、その時は気にも留めなかった。
 なにせこの部屋には、自分以外にも人が居る。それも正真正銘、今の時代に産まれ、生きている人間が、だ。
 己は違うのかと言われれば、然り。本来ならこの世からとうに消え失せた筈の存在だが、なんの因果かカルデアに召喚され、こうしてここに存在していた。
 真名は、アスクレピオス。古代ギリシャに所縁を持つサーヴァントだ。
 そして自身が現在進行形で居座っているのは、己を召喚したマスターたる存在の部屋だった。
 数奇な男である。魔術とは一切係わり合いのない環境に育ちながら、今や汎人類史の未来を一手に引き受けていた。
 常に死と隣り合わせの状況にあり、それでなお良く笑い、良く喋る。その姿からは、卑屈なところが何一つ見当たらない。
 故に、奇妙に思わざるを得ない。
 これは稀なる患者だ。その精神性には興味が尽きず、観察のし甲斐があった。
 話がしたい事がある、と招かれたのは、僥倖だった。こちらとしても、聞きたいことが多々あった。ところがいざ指定された時間に訪ねてみたら、肝心のマスターは布団を被って就寝中だった。
 まだ夜中には程遠い、時計を見れば夕方と言って差し支えない時間帯だった。
 もっともこのノウム・カルデアの環境的に、夕暮れは拝めない。自然環境の変化を頼りに、時間の推移を知る術はなかった。
 閉鎖された空間では、体内時計も狂い易い。不規則な生活はいただけないが、昼寝の効果はゼロではなかった。
 初めこそ驚き、体調不良を疑った。だが呼吸は安定し、脈も正常で、平熱の範囲を逸脱していない。単なる午睡だと判断して、大人しく立ち去るかどうかでしばし逡巡した。
 このような機会が次も巡ってくる保証は、どこにもない。
 寝顔を眺める趣味はないが、彼が自然と目覚めるのを待つのは、吝かではなかった。
 図書館からマスターが借りて来たのであろう本が、丁度良い暇潰しになった。寝台で横になる彼の邪魔にならない位置に陣取り、他愛ない童話の類に目を走らせているうちに、指先がまた、なにかに触れた。
 二度目となれば、もはや偶然ではあるまい。こちらは自発的に動かしていないのだから、ベッド上に在るものが触れて来ているのだ。
 こつん、と横から。
 僅かに肌を揺れ動かす程度の力で。
「起きたのか」
 読書に対する集中力が削がれたが、もとよりそこまで没頭していない。それでも紙面から顔を上げることなく問いを投げかければ、返事はなかった。
 代わりに衣擦れの音がして、小さな呻き声が耳を掠めた。
 恐らくは眠っている間に凝り固まった身体を動かし、背筋を伸ばしているのだろう。それらしき仕草を想像しながら肩を竦めていたら、またしてもちょん、と緩く握った拳を突かれた。
 ぶつかってくる形状からして、人差し指か、中指か。それがシーツの上で蟠っている人の袖を手繰り、滑るように動き回っていた。
「マスター?」
 度々ぶつかって、瞬時に離れて行く。何がしたいのか分からず、焦れて、本を閉じた。左手で肩の高さに掲げ持ち、その勢いも利用して腰を捻って振り返ったら、そこにあると信じていた黒髪が、なかった。
 いや、消え失せたわけではない。真っ白いシーツに覆われて、大部分が隠れているだけだ。
 先ほどの衣擦れの音は、これが原因だったらしい。
 薄い枕を壁際に押し退けて、マスターは大きな布にくるまっていた。靴下を履いた爪先が反対側から覗いている。何のリズムかは分からないが、テンポ良くぴょこぴょこ動いていた。
 それ以外でも、布の塊からはみ出ているものがある。
「チッ」
 全体像を観察している隙に、再度右手を弄られて、堪らず舌打ちが出た。急ぎ場所を移し、手近なところに引っ込めた上で、改めて捕まえようと腕を伸ばしたが、彼の利き手はするりとシーツをなぞり、蛇行しながら逃げていった。
「くふっ」
 同時に、笑い声が聞こえた。
 音量は抑え気味で、堪えきれなかったらしい。真っ白い蓑虫自体も、小刻みに震えていた。
 遊ばれている。
 わざわざ呼びつけておいて、やりたかったことがこれなのか。
 そんなはずはない、と頭の中で瞬時に否定した。ただ突拍子がないところがあるマスターだから、絶対とは言い切れなかった。
 苛々して、瞬間的な怒りで目の前が暗くなった。
 気がついた時には、左手を高く掲げていた。勢い任せに本で殴りつけようとしている自分を認識して、慌てて肩肘にブレーキを掛けた。
 それでも完全に止めるのは難しく、結果として、マスターの頭らしき場所を打ち付けたのは間違いない。
「あだっ」
 見苦しい悲鳴がひとつ、響いた。蓑虫は一瞬だけ身体を縮ませて、時間をおいてじわじわ手足を広げていった。
 それでもなお、彼はシーツから抜け出ようとはしなかった。
「マスター」
 呆れて、溜め息が出た。肩を竦めて呼びかけるが、応答は得られなかった。
 代わりではないだろうけれど、幾度目か分からない攻撃があった。
 人差し指と中指を、さも人の足のように操って、ベッドに深く沈めた右手を探り、二度、三度、今度は上から小突かれた。
 長い袖に覆われているので、具体的な在処が、見ただけでは分からないのだろう。少しずつ移動して、無事に探り当てた時は――本当にそうかは断定出来ないが――嬉しそうだった。
 子供の戯れだった。
 なんら経験も、知識も有さずにマスターとなるよう求められ、それを受諾した少年。
 ひとつ違えば、彼は世界と共に白紙化されていた。歴史に埋没し、後世に名が伝わらないその他大勢の中のひとりとして、一切の記録が残らないまま消え失せていただろう、少年。
 利己的な欲望に従い、行動する時間を有していたはずなのに、それが許されなくなった人間。
 憐れな、人の子。
 諦めることを認められず、立ち止まることを、振り返ることを止めてしまった子供。
「捕まえ――くそ」
 胸の内を駆け巡るあらゆる感情を薙ぎ払い、その手を掴もうとした。
 だのに、寸前で避けられた。大人しくしていれば良いものを、狩猟者の気配を察知したマスターは、素早く肘を返した。
 躱されて、素直に悔しい。シーツを被っているお蔭で視界が不自由な筈なのに、それを微塵も感じさせない動きだった。
「逃げるんじゃない」
「っふ、あはは。やーい」
 腹立ち紛れに叫び、追いかけて、身体全部を捻った。膝からベッドに乗り上げて、調子に乗ってはしゃぐマスターに臍を噛んだ。
 逃げ回るネズミ、もとい令呪が刻まれた手を狙って何度も爆撃をお見舞いするけれど、どうやっても捕まえられない。片手だけでなく、左手も使って逃げ道を封じ、追い詰めるべく画策しても、結果は変わらなかった。
 どれだけ繰り返しても、最後はシーツの中という安全地帯に潜られてしまう。
 これは禁じ手だという認識はあったが、最早我慢ならなかった。
 堪忍袋の緒が切れた。
「いい加減に、しろ」
 湧き起こる感情に従って、マスターに対して馬乗りになった。逃げられないよう下半身を拘束した上で、両手を伸ばし、彼を包むシーツを引き剥がした。
「うきゃあ!」
 自ら簀巻きになっていた青年がもれなく姿を現し、真ん丸に目を見開いた。直後、何故か分からないが胸を隠して腕を交差させて、反射的に折り畳んだ膝で、こちらの腰を蹴り飛ばした。
「うっ」
 不意打ちで、避けられない。本人も咄嗟だったからだろう、力加減を制御できず、かなりの勢いでドスっと来た。
 突き飛ばされた形になり、身体がぐらついた。もとよりバランスなど考えなしの、思いつきでの行動だったので、後ろからの圧力に耐えられなかった。
「く、そ……!」
 急いで肘を折り畳み、マスターに当たらない場所に衝き立てて、柱にした。前屈みに倒れ込んだ身体を支え、一歩遅れて降って来たもみあげと、袖を払って、彼の上から退かせた。
 それでも完全ではなく、一部が東洋出身と分かる肌色に掛かった。マスターは呆然とした顔で瞬きを繰り返し、素肌に被さる布や、毛先は放置した。
「まったく。気は済んだか、マスター」
 散々ひとを虚仮にしてくれた礼は、この後考えることにする。
 一先ず何か言わねば、と考えて投げた言葉に、彼は僅かに間を置いて、嗚呼、と小さく頷いた。
 目が合ったのは、最初の数秒だけだった。
 その後、彼の視線は落ち着きなく宙を彷徨った。どれだけ経っても、視線が交錯しない。重力に引かれた前髪が額を掠めるか否か、という近さにありながら、不思議な現象だった。
 それに心なしか、彼の肌は色味を強めていた。ほんの数十秒で赤みが増して、心拍数も、気のせいでなければ加速していた。
「マスター? どうした、こちらを見ろ」
 聞きたいことは、色々あった。
 敢えて私室を指定して、呼び出したこと。だというのに暢気に寝こけていたこと。目覚めてもすぐに反応しなかったこと。人の手で遊んで、すぐに止めなかったこと。
 顔を赤く染めて、目を逸らし続けていることも。
「いや、あの。……なんていうか。えっと。まずは、退いて、くれると……助かるんだけど」
 詰問したら、彼の指が銀のもみあげを撫でた。首筋に当たっている分を払い除け、そのまま遠くへ追いやるのかと思いきや、指先にくるくると巻き付け始めた。
 相変わらず人の顔を見ないで、言い難そうに懇願された。ただその言葉と、行動が合致しない。髪の一部を人質の取られているこの状態で、退いたらどうなるかは自明だ。
 眉を顰め、怪訝に彼を見詰めて、口をへの字に曲げる。
 理解出来ない彼の思考に悩むが、答えは見出せない。仕方なく解放される気配がない髪を解くべく、指を差し向けた。
「う」
 悪戯な手を取った瞬間、マスターは喉の奥で小さく呻いた。
 唇を噛み締め、頬を引き攣らせた。空色の瞳が己の手元を凝視すべく、上から下へ猛スピードで移動するのが、少し面白かった。
 四重にも、五重にも巻き取られた髪を救出するうちに、気付いた事がある。人として平均的な大きさの手には、細かな傷跡が多々残されていた。
 深いもの、浅いもの。年季が入っているもの、そうでないもの。
「……今度こそ、捕まえたぞ。マスター」
 それは彼の歩みそのものであり、彼が内に秘める感情の欠片だ。
 ひとつひとつを辿るには時間が足りないが、猶予が欲しくて、鬼ごっこの続きと偽った。傷だらけの手を握り締める理由を誤魔化し、不遜に笑いかけてみれば、マスターは音を立てて真っ赤になった。
「ひぁあ」
 妙に甲高い声を漏らし、顔のみならず、首や耳の先まで赤く染めた。立てた膝を左右に踊らせながら身を捩り、もう片方の手を、自ら重ねて来た。
 囚われた手を覆う袖の上から、ぎゅっと握り締められた。
 更には首を竦め、一層丸くなり、三重になった拳を額に押しつけた。
「マスター?」
「あああ、もう。なに言いたかったのか、忘れちゃったじゃないか」
 突然恨み言をぶつけられて、意味が分からない。困惑し、首を捻って少し待つが、続きは発せられなかった。
 拘束された手を強引に揺らし、覗き見た顔は相も変わらず赤く、それでいてどこか艶やかだ。
「なら、思い出せ。それくらいは、待ってやる」
 毅然として戦場に立ち、サーヴァントに指示を下す時とは別人の貌だ。
 彼にはこんな表情もあるのかと、新鮮な気持ちになった。
 知らなかった事を知るのは、面白いし、楽しい。底を知らない知識欲が疼いて、自信満々に胸を張る。
 口角を歪めて不遜に言い放った途端、マスターは大きく身震いし、まん丸い目を潤ませた。
「おっ……思い出し、た。けど。悔しいから、言わない!」
 不意に下敷きにしていた身体が暴れ出し、生意気な台詞が返って来た。
「なんだ、それは。どういう理屈だ。説明しろ、マスター」
 勿論そんなことは、認められない。受け入れがたく、訂正を要求した。
 掴んだ手を振り回して、力尽くで押し退けようとするのに抗った。膝で背中や腰をゴンゴン蹴られたが受け流し、距離を詰め、真上から覗き込む格好で迫った矢先だ。
「好きだって、言いたかったけど。絶対に、あ、アスクレピオスには、言ってやらないんだから!」
 火を噴く勢いで赤面したマスターに、唾を飛ばしながら怒鳴られた。
 目をぎゅっと瞑り、固い決意を大声で述べられた。
「……は?」
 言っていることとやっている事が釣り合わない彼が、正直、理解できない。
 惚けた顔で固まっていたら、一秒してからマスターがハッと息を呑んだ。そうしてすぐさま奪い取られるとも知らず、傍に転がっていた枕を掴み、己の顔を隠した。

知るらめや恋しとだにも言へばえに 思へば胸の騒ぐ心を
風葉和歌集 766