紅蓮

 西日が眩しく窓から差し込んでいる。それだけで手元も十分に明るく、天井に設置された照明が必要ないくらいの明度が教室の中心部を照らしていて、顔を上げた綱吉は左目に飛び込んできた光に瞳を細めた。
「まだかー?」
 動かしていたシャープペンシルを握る手が止まったのを見て、向かい側に座るクラスメイトが面倒くさそうに尋ねて来た。教室、窓側から二列目。前後の机をくっつけて幅を広げた作業台には、学年全体から集められたアンケートの束がどっかりと鎮座している。
 こういう面倒くさいものの集計作業は誰もがやりたがらなくて、結局断りきれない気弱な人間に難題は押し付けられる。図書室の利便性に関してのアンケートは記入項目も馬鹿みたいに多くて、こんなものを調べてどうするのか、と質問項目を作った人間にぜひとも聞いてみたかった。
 たまたま図書委員が休みで、しかしその当人が締め切りを守りもせずに放置していたお陰で、とばっちりはクラスメイトへと。連帯責任だ、と主張する教師に反目しながらも最後まで抵抗を試みる生徒はおらず、役目は回りまわって、頼まれると嫌と言えない綱吉のところへ。
 沢田ひとりじゃ厳しいだろう、とクラス委員長が手助けを買って出てくれたものの、元々こういった細かい作業も苦手な綱吉のこと、少なめに見積もられたはずの自分の担当分が、まだ終わらない。
 向き合う格好で座っている男子委員長が、退屈そうに椅子を揺らした。前足を浮かせて後ろ足でバランスを取りながら、指はさっきから神経質に机を叩いている。
 そのリズムが一層綱吉の気持ちを乱して、落ち着きを失わせた上に集中力を欠かせて作業を遅らせているのにも気づかず、彼は自分の分担が終わっているのに帰れない現実に、苛立ちを隠さない。綱吉は再び視線を手元へと戻してシャープペンシルを動かしながら、束になっているプリントを捲りつつ集計を取っていく。が、一枚飛ばしてしまったところへ元に戻ろうとして、どこまで書いたかを忘れてまた最初から、やり直し。
「あー、もう苛々するな」
 いつまで経っても終わりそうにない綱吉の作業風景に、ついに痺れを切らした委員長がばんっ、と机を叩いて立ち上がった。途端音に驚き萎縮して肩を縮めこませた綱吉が、恐々と彼の様子を窺って視線だけを持ち上げた。
 西日を右半分に浴び、陰影濃い顔を薄闇に浮かび上がらせている彼は、昼間見る人好きのする表情の彼とは大きく違っていて、どこか怖い。
「ごめん」
 手を休めていると上から睨みつけられたので、咄嗟に目を逸らして作業に戻る。だが見えない圧力をひしひしと感じ、効率は上昇するどころか益々悪化の一途。ノートに書き込む文字も次第に形が崩れ、解読に時間がかかりそうなところまできてしまっていた。
 そうなると気ばかりが焦って、余計に失敗を積み重ねてしまう。あ、と思った時には足元に終了した分のアンケート用紙が崩れ落ち、バラバラと影を重ねて一面に散らばった。
「なにやってんだよ!」
「ご、ごめ……」
 頭ごなしに怒鳴られ、泣きたくなる。
 そんなに言うのなら手伝ってくれてもいいのに、彼は綱吉よりずっと働いたからと、最初に決めた分担以上は頑として協力を拒んでいる。彼が教室に居残っているのは、委員長としての責任というよりも、最後まで協力してやりました、という報告を教師に見せての点数稼ぎだ。本音は早く帰りたくて仕方が無いのだろう。
 西日の高さが少しずつ低くなっていくのが分かる。教室の床に生える机の影は徐々に長さを増し、眩しいだけだった陽射しが穏やかになっていく。委員長は立ち上がったついでに教室の電気を灯しに行き、それから壁の時計を見上げて大きく肩を竦めた。
「下校時刻過ぎてるぞ」
「ごめん、本当。あとちょっとだから」
 大きめに棘のある声で現実を突きつける彼に繰り返し謝罪して、落としたプリントを全て拾い終えた綱吉はそれを後ろの席に置いた。引いていた椅子を戻して座り直し、作業に戻る。蛍光灯の灯りが手元に短い影を作って、乱れ気味の呼吸が消しゴムのカスを弾き飛ばした。
 委員長は足音を響かせながら戻ってくると、自分が片付けた分の資料を捲って内容を読み始める。せめてもの退屈しのぎなのだろう、斜めに構えた椅子の上で悠然と脚を組み、背凭れにどっかりと座っている姿はどこかの社長のようだ。
「ったく、面倒くさいったらありゃしない」
「……」
 なにが連帯責任だよ、と憤り激しい声でひとりごちるのを聞きながら、綱吉はやっとのことで最後だと思われるプリントに手を伸ばしたかけた、その時。
 誰も居ないと思っていた場所から、人の声がした。
「なに、やってるの」
 開けっ放しだった後ろの扉、そこから身体半分を潜り込ませている学生服の青年。少し長めの黒髪に瞳が見え隠れし、優雅に胸の前で組ませた左腕には風紀委員の腕章が。肩を後ろにずらして斜に構えた姿勢で、窓際に居残るふたりを漫然と見詰めている。
「げっ……」
 委員長の手からばさっという音を立て、プリントの束が床に落ちた。バラバラに舞い落ちるそれを見送ることもせず、彼は予告もなく教室に出現した人物を知って愕然とする。黒板に向かって座っていた為に反応が遅れた綱吉は、まず委員長の態度の豹変に驚いてから、ゆっくりと首に角度を持たせて斜め後ろを振り返った。
 綱吉は委員長ほど驚かない。聞き覚えの在る声だったし、時間的にそろそろ巡回だろうとは思っていた。けれど。
「風紀委員、の雲雀……っ」
 先輩を呼び捨てにして良いものなのか。驚愕に慄く委員長へ、変に冷静な思考が働いて綱吉は首を傾げる。名前を呼ばれた本人は声が聞こえなかったようで、静まり返る教室に更に一歩足を踏み込み、漆黒の瞳に夕焼けの赤を宿らせた。
 ガタン、と音を響かせて委員長がその場で一歩下がる。だが教室のど真ん中故に腰が机の角に当たり、それ以上先へ進めない。彼は落としたプリントを拾いもせず、ただ静かに歩み寄る雲雀を凝視するばかりだ。
 仕方なく綱吉が座ったまま腰を屈めて手を伸ばし、散らかったそれらを集めていく。
「聞こえなかった?」
「ひえっ、あ、の……」
「下校時間、過ぎてるの、知ってる?」
「は、はい! 勿論です!」
 淡々とした口調の雲雀は、一見するととても穏やかな人のように思われる。だが野生の鷹よりも鋭い眼光にすっかり気圧された委員長は、先ほどまでの崩れた態度からは一変し、背筋をしゃきっと伸ばして直立不動の体勢を取っていた。
 この学校に所属している人間であれば、誰だって風紀委員長の恐ろしさは知っている。直接会話を交わす機会が少ない相手ではあるが、噂だけでも十分に彼の強さは広まっていて、誰もが彼と正面切って争おうとはしない。学級委員長も、言わずもがな。
「ふぅん?」
 下校時間を過ぎた生徒を帰らせるための巡回。居残るにはそれ相応の理由が必要で、今綱吉たちはその相応の理由を持っている。これが終わらなければ帰れないのだと正直に告げれば、いくら雲雀だって乱暴な真似はしないだろうと綱吉は考えていた。
 けれど雲雀に慣れ親しみがないクラス委員長には、それが分からない。ただ動揺し、動転し、どうすれば彼から逃げられるか、そればかりが頭の中を駆け回っているのだろう。
 雲雀が腕を解く。綱吉はやっとプリントを全部拾い切って、机に立てて角をそろえた。委員長が、ガチャガチャと音を立てながら自分の筆記用具その他を鞄へと押し込み始める。雲雀が彼らのところまでやってくるまで、あと十秒も掛からない。
「し、失礼します!」
「あ」
 落としたよ、とプリントを渡そうとした綱吉の目の前で、委員長は腰の角度九十センチを作り出し雲雀に頭を下げて、風を切り裂き教室を飛び出して行ってしまった。腕を差し出したままの綱吉が、呆然と彼の背中を見送る。あまりにも手際が良く、そしてあまりにも無責任な逃げ方を、されてしまった。
 プリントの重みに耐えられなくなった腕が、勝手に下へ下がっていく。指の骨が机の角に落ちた。
「で?」
「……」
 いつの間にか真横に来ていた雲雀より、委員長に見捨てていかれたことの方がはるかにショックだ。危うく指からも力が抜けてプリントを落としそうになり、肘を引き戻した綱吉へ頭上から声が掛かる。
 恨めしげに見上げると、涼しい表情の彼と目が合った。
「なんですか」
「何、してたの」
「見て分かりませんか?」
 右手を腰に当てた雲雀を軽く睨み、綱吉は握ったプリントで自分の机の状態を指し示した。
 山積みにされたアンケート用紙、文字で埋め尽くされたノート。転がっているシャープペンシルに、消しゴムのカス。其処へ委員長が置いていったプリントも追加されて、寛ぐ余裕もない。
 雲雀はうち一枚のプリントを手に取り、汚い字で回答が書き込まれたアンケートを素早く読み取る。腰から外した手で紙面を軽く叩く様は、顰めっ面の教師に似ていた。
「君が図書委員だなんて知らなかった」
「違いますよ。担当の奴が休んでて、締め切りが今日だったから代わりにやらされてただけです」
 そうでなければ、自分だって好んでこんな手間ばかりがかかる仕事、引き受けたりしない。唇を尖らせた綱吉の不満顔に、雲雀は小さく相槌を打ってプリントを山へ戻した。再び彼の右手は腰に、左手は机の端に。
「で?」
「だから……」
「さっきの奴は何?」
 てっきり何故自分が本来やるべきではない仕事を押し付けられたのか、を聞かれるとばかり思って構えていた綱吉の耳に、雲雀のそんな声が落ちてきた。
 彼は右肩を引いて学級委員長が出て行ったドアを眺めている。けれどもうそこに人の姿はなく、人気も残されていない。一瞬何を言われたのか理解できなかった綱吉は、きょとんと大きな目を丸めて彼を見上げた。
 振り返った雲雀の、凪いだ湖面を思わせる黒い瞳は、感情の起伏も乏しいままに綱吉を中心に見詰めていた。黒水晶に逆向きに映し出される自分を確かめ、彼が少しだけ眉間に皺を寄せているのに気づいて綱吉は更に首を傾げる。
 何故彼が不機嫌なのかが、分からない。
「うちのクラス委員長ですよ。俺ひとりじゃ不安だからって、手伝ってくれてたんですけど」
 雲雀の質問の意図を読み取れぬまま、正直に本当のところを告げても彼の不機嫌は改善される気配がない。右にばかり首を傾がせているのにも疲れてきて、反対に曲げようかと悩んでいた頃、彼は不意に綱吉から視線を逸らした。
 理解してくれたのだろうか。中断したままの作業にいい加減戻りたくて、綱吉は放置していたシャープペンシルに指を伸ばす。人差し指の指紋を弾き返したそれが、反転して逃げ出そうともがいた。
 微かな物音、それすらも心を掻き乱す。
「ふぅん?」
 雲雀の生返事が繰り返される。綱吉はやっとのこと捕まえたシャープペンシルを握ると、最後の一枚を探してプリントの山をひっくり返した。
「ヒバリさんが脅かすから、帰っちゃったんじゃないですか」
 本人にその意識がなくても、雲雀は立っているだけで他者に威圧感を与えてしまう。綱吉はもうすっかり慣れてしまっていて平気だけれど、委員長はそうではない。無言で凄みながら近づいてこられたら、誰だって逃げ出したくなるだろう。
 昔の綱吉だって、そうだった。
「よし、終わり」
「つまり、さっきの奴は君に、こんな仕事を押し付けて逃げたわけだ」
「はい?」
 プリントの束を立ててトントンと机を叩く音に混じって、自己完結した雲雀の声が低く響く。聞き間違いだっただろうかと素っ頓狂な声を出して首を持ち上げると、やけに剣呑とした表情の彼が佇んでいる。
 彼は綱吉の説明を、ちゃんと聞いていなかったのだろうか。
「押し付けられたのは、その通りですけど、別にそれは委員長とは関係ないですよ」
 雲雀の言葉は、一部正しいが大半は間違っている。彼は綱吉の手助けをしてくれていたのだ。ひとりきりでやらされていたら、この倍の時間がかかっていただろう。まだ日が残っている時間に終わったのは、委員長がいてくれたお陰。最後は雲雀の姿に怖がって逃げてしまったけれど、彼の存在に感謝こそすれ、責任を擦り付けられたと恨む理由は無い。
 それなのに雲雀は、
「押し付けられたんだ?」
「ですから、委員長に、じゃないですよ」
「じゃあ、誰?」
「それは……誰もやりたがらなかった、から」
 雲雀の問いに対する回答は、巡り巡って、沢田に任せてしまえと逃げたクラスメイト一同、だろうか。だがそう言って良いものか迷っているうちに、雲雀は勝手に、綱吉が口ごもっているのを、
「あんな奴、庇うんだ」
 委員長に口止めされたかなにかだと、解釈してしまった。
 やることが横暴なら、考え方もかなり横着で強引だ。どうすればそんな結論にたどり着けるのだろう、自分と彼とでは思考回路がかなり違っているらしい。
「庇ってなんかいませんってば」
 西日が弱まりつつある。手元に伸びる黒い影は色を薄め、雲雀の姿を模したそれは教室の壁にぶつかって折れ曲がっている。頭だけがやけに大きく見える人型の影に瞳を細め、綱吉は疲れた素振りで首を振った。
 雲雀の言いたいことが分からない。委員長が残していった苛々が自分に乗り移ったみたいで、気持ちが落ち着かない。それでもどうにか手は動かしていた綱吉は、プリントの山をひとつにまとめる最中、委員長が最初にどんな風にプリントを分別して作業を進めていたのかに気づかされた。
 彼は実に効率的に、仕事が楽になるように下準備をしてから作業に取り掛かっていたらしい。どうりで早いわけだ、と今更理解して納得し、綱吉は流石だな、と感心した。その横顔を雲雀が見詰めているのにも気づかないで。
「大体、君は関係ないんだろう。学級委員長がやるなら、そいつに全部やらせてしまえばよかったんじゃないのか」
「……俺が任されたのに、俺が放り出すわけにいかないでしょう」
 雲雀が得心行かないのは、図書委員に関係ない綱吉にその仕事が押し付けられたこと、らしい。いったいどういえば理解してもらえるのか、綱吉はノートを畳んで片付けをしながら顔を顰めさせた。
 見るからに不機嫌そうな、そんな表情。
「君は」
 聞き間違いだろうか、妙に寂しげな雲雀の声。
 顔を上げると、いつもの彼。
「ヒバリさん?」
「……アイツのこと、好きなわけ?」
「は?」
 一呼吸の間があって、急に潜められた声に綱吉は頭の上から抜けたような声で返してしまった。
 驚きに目の前が真っ白になる。どこをどういう風に想像すれば、そんな極端すぎる答えが導き出されるのだろう。
 雲雀の目線が泳いでいる。綱吉の思考回路も一部がショートしている。ぐわんぐわん、とお寺の鐘が頭の中でけたたましく鳴り響くようで、頭痛がした。
 落ち着け、とまず自分の心の中で繰り返す。考えを整理しよう、順番に、順序だてて。兎も角、今一番確認すべきことは何か。
「ええと、なんていうか、ヒバリさん」
「なに」
「それは、俺が好きなのは貴方だと知っての発言でしょうか」
 痛むこめかみに指を押し当てる。眉間の皺を一層深くさせて綱吉が出来るだけ低い声で尋ねると、雲雀は体を少し後ろにずらして隣の列の机に浅く腰を落とした。
 夕焼けが教室全体を包み込んでいる。眩さに瞼を薄く閉ざした彼は、右の脚を上にして胸の上で交差させ、高い位置に来た膝元へ肘を立てて頬杖をついた。
 彼が吐き出す息の色さえ見えそうな空気に、綱吉は心臓をひとつ大きく鳴らす。
「知ってる、つもりだけど」
「だったら」
 変なこと言わないでください、と続けたかった声は途中で遮られる。瞼を持ち上げた彼の冷えた瞳は、遠慮なく綱吉の動悸を呼び込んだ。
「でも、それが本当かどうかなんて、分からないだろう?」
 口ならなんとでも言える。綺麗ごとも、罵倒も、本心も、偽りでさえ簡単に。
 言葉にした内容が真実だと証明する手段なんて、ない。ただ言った相手を信じるか、どうか。それだけ。
 だから雲雀に疑われているのだと気付いて、綱吉はとてもショックを受けたし、悲しかった。反射的に鼻の奥がツンとして、緩んだ涙腺を必死の思いで押し留める。
「そん、な……」
 雲雀が好きだという気持ちに嘘偽りがないのは、紛れもなく本当だ。どうしようもないくらいに、綱吉は雲雀が大好きだし、大切だし、尊く思っている。ずっと一緒にはいられないけれど、出来る限り時間を作って彼に会いに行っているし、雲雀だって綱吉を受け入れてくれていると信じていた。
 それなのに、疑われた。信じてもらえなかった。
「ヒバリさん……?」
 どうしようもなく哀しいし、悔しい。知らず握り締めた拳が震えている。肉に浅く食い込んだ爪が痛い。でも、ヒビが入った心の方がもっと、痛くて。
 涙さえ、浮かんでこない。
「嘘じゃないのなら。僕が好きだっていうなら、証拠、見せてよ」
 本当だと言い張るのなら、他の誰でもない自分が好きだと言うのなら、もっとちゃんと、態度で示して。
 頬杖をついているのとは反対の雲雀の腕が持ち上がる。伸ばされたしなやかな指が、机から身を乗り出した綱吉の鼻筋を擽った。額を押して、弾かれる。
 覗きこんだ彼の瞳は、悪戯な子供みたいに奥深くでは笑っていて。
 茶化されたのだと気づいた時には、後の祭り。
「ヒバリさん!」
「だって、待っていても君が応接室に来ないから」
「……だから、それは悪かったと思ってますけど」
 アンケートの集計の仕事は、授業終了後のホームルームで言い渡されたのだ。いきなりすぎて今日は一緒に帰れない、という雲雀に伝える手段も時間もなかった。けれど、別に毎日約束しているわけではないし、今回のようにいきなり用事が出来てしまうのは、現実には役員をしている雲雀の方がずっと回数も多い。
 自分だけ、自分ばっかり責められる。拗ねた顔で上目遣いににらみ付けると、雲雀は頬杖を崩して笑った。
 そんな風に目尻を下げられると、怒りたいのに気勢が削がれて怒れない。握った拳の行き場をなくし、綱吉は自分の膝を叩いて荷物を鞄に詰め、重たいプリントを胸に抱えて立ち上がった。
「もう……」
 文句を言いたい気持ちは山々だけど、言ったところで雲雀は軽くかわしてしまう。腹立たしい気持ちは遠くへ投げ捨てて、今は出来上がった集計を先生のところへ持っていこう。
「下校時間、過ぎてるんですよね」
 帰りましょう、と言外に告げて先に歩き出す。しかし机を降りた雲雀の、紅蓮色をした夕焼けに照らされた後姿を振り返ってある事を思い出した綱吉は、両手をプリントに塞がれたまま、急に踵を返し彼の元へと駆け寄った。
 足音に首を回した彼の背後から接近し、爪先で軽く床を蹴り上げる。
「――っ」
 勢い余って前歯がぶつかったのは、ご愛嬌と笑って許してもらうほかない。しかも止まりきれなかった為に擦れあった部分から熱が生まれて、生温い湿り気を雲雀の頬にまで残してしまった。
 どうにも、飛びつきざまのキスは上手くいかない。両手が塞がったままなので仕方が無いのだけれど。
 背中を丸めて着地する。膝を椅子の背凭れにぶつけて少し痛かったが、構わない。振り向くと雲雀が、呆然とその場に突っ立っていておかしかった。
「証拠、これでいいですよね!」
 声高に叫んで、先に行ってますね、と言い残し綱吉が教室を出て行く。残された雲雀は、綱吉の前歯に引っかかれた口元を覆って、はみ出た指先で頬をなぞった。
 足音が遠ざかっていく。彼は出来上がった資料を職員室に提出した後、いつものように応接室のドアに寄りかかりながら雲雀の仕事が終わるのを待つのだろうか。だとしたら、早く、戻ってやらなければならないのに。
「…………」
 片手で顔の下半分を隠したまま、雲雀は動かない。泳いだ瞳、迷った末に細められた先には地平線に沈もうとしている夕闇が。
 紅蓮の炎に包まれて立ちすくむ彼がどんな顔をしていたのかは、太陽だけしか知らない。

2006/12/19 脱稿