瓔珞百合

 十字架を背負わされ、ゴルゴタの丘を登っていったキリスト。果たして彼の存在は何を思い、何を憂い、何を願い、何を悔いて、その道を進んだのか。
 彼の存在の復活を信じた者たち、飛び立つ鳥の羽音を聞いた者たち。彼らは何を望み、何を待ち、何を背負ったのだろう。
 罪と言う十字架に縛られたのは、神か、人か、それとも。ゴルゴタの丘を登るのは何もキリストだけではあるまい。ああ、考えても栓がない。答えも意味もない問答を日々繰り返し、登っては沈む太陽を見送ってただ笑うのみ。
 生きている、生かされているその意味さえも掴みえぬ幻として。

「おーい」
 校庭の端、校舎がちょうど日陰になっているところを歩いていると、どこからか声がする。誰に向けられているものなのかも分からず、きっと自分ではないという根拠もない確信で声を無視していると、また呼びかけが繰り返された。
 今度こそ、なんだろうと振り返る。声がしたと思しき左手やや後方、背の低い木に囲まれた窓から白衣の男が半身を乗り出して手を振っていた。立ち止まった綱吉が自分に向けて指を立てると、相手はそうだ、と言わんばかりに首を、大袈裟に縦に揺らした。
「なに? シャマル」
「お嬢ちゃん、お暇?」
「誰がお嬢ちゃんだっ」
 小走りに駆け寄って問いかけると、顎に無精ひげを蓄えたシャマルがニヤニヤと笑いながら言うものだから、綱吉はつい拳を作って彼を殴る仕草をする。無論実際にパンチを繰り出すわけではないが、分かっているから避けない彼が少々癪に障る。
 用事が無いなら行くから、とやや腹立たしげに地団太を踏むと、窓の上からシャマルは目を細め、悪かったと小声で謝罪してから室内を指差した。
「寄ってかないか?」
 放課後の掃除当番、ゴミ出しの帰り道だった綱吉は彼の誘い言葉に何か裏を感じて、表情にも素直に疑っているのだと分かる色を浮かべる。あからさまな嫌悪にシャマルは、しかし気を悪くする様子も無く大きな手で綱吉の頭を乱暴に掻き乱した。
「別に取って食ったりしねぇって。用務員のお嬢様から差し入れを貰ってな」
 彼の言うお嬢さま、とは年配の、恐らくは還暦を越えているのではないかと思われる用務員の女性の事だろう。彼女は外国人でフェミニストのシャマルを、本人の迷惑関係なしに気に入っていて、あれやこれや差し入れをしてくれるのだという。一人暮らしだと栄養が偏るだろうからと、内容は主に食料らしいが。
 本人は若い女性にしか興味が無いのに、寄って来るのはそれなりに熟している女性ばかり。とはいえ相手が女性であるのには間違いないので、ご丁寧な対応は心がけているらしい。だから余計に熱を入れられてしまうのだろうけれど。
 それにしても自分を呼ぶなんて、いったい何を差し入れられたのだろう。窓から入るわけにはいかないので(シャマルは抱えて引っ張り上げたがったが)、早足気味に校舎へと戻って保健室のドアを開ける。
「いらっしゃ~い」
 満面の笑みで猫なで声をあげる三十路男は、気持ちが悪いと心底思った。
「帰る」
「こらこらー、用事も済ませないで帰るたぁ、何事だ」
 誰の所為で帰ろうとしているのかも、少しは考えて欲しい。呆れ顔のまま呼び止めに必死のシャマルを振り返ると、彼の前にはどこから持ち込んだのか、キャンプなどで使うような折りたたみ式のテーブルが。水色のクロスが敷かれ、上にはこれまた保健室には不釣合いなものが置かれていた。
 白い陶器の皿にてんこ盛りの、手作りと思われるケーキ、だ。手作りだと思ったのは、デコレーションの生クリームの形が不揃いだったから。
「……なに、コレ」
「お嬢様からの差し入れ」
「これが?」
 アンタ甘いもの好きだったっけ? と目で問いかけると肩を竦めるだけで返される。苦手ならば受け取らなければいいだけなのに、この男は表面だけは良い格好をしたがる。綱吉は自分が呼ばれた理由を理解して深々と息を吐いた。
 どうせなら他の、甘いものが好きそうな女子生徒を選んで声をかければ良いのに。と言ってもこの男の普段を知っている女生徒なら、ケーキ程度で釣られてくれるとは思えないが。
 指摘するとシャマルはばつが悪そうにそっぽを向き、黙ってフォークを差し出してくる。綱吉は軽く笑って受け取り、同じくキャンプ用品の椅子を引き寄せて腰を下ろした。
 直径十五センチはありそうなホールケーキに、生クリームがたっぷりと。トッピングは苺だけとシンプルで、見た目は濃いけれど余り甘くなさそうな印象。試しに表面の生クリームを掬い取って舌に載せると、想像通り砂糖は控えめになっている。一応用務員さんも、シャマルの味覚を考慮してくれたらしい。
 スポンジも生焼けではなく、硬すぎず、良い具合に仕上がっている。普通に美味しくて、ある程度の苦味は覚悟していた綱吉の方が拍子抜けだ。試しに食べてみろ、とフォークに突き刺したスポンジを一欠けら差し出してやると、コーヒーを啜っていた男はしかめっ面を崩さないまま背を丸め、遠慮もなく綱吉が使いかけのフォークを口に入れた。
 力をこめて引き抜く時には若干抵抗されてしまった。もぐもぐと口を動かしているシャマルに、どう? と問いかけて「不味くは無い」と言われると、自分が作ったものではないのに少し嬉しくなる。
 けれど男ふたりで生クリームたっぷりのケーキを啄ばむ姿は、どこか滑稽だ。今この瞬間、背後のドアが開いて怪我人が飛び込んで来ない事を切に祈るほか無い。
「っていうか、これ絶対食べきれないって」
 角の立っている生クリームを小突き、綱吉が唇を尖らせる。シャマルもまた同じ事を思っていたようで、まだ半分以上残っているそれを前に、うーんと低い声で唸った。乱暴に掻き回し、頭垢が飛ぶと綱吉に怒られてシュンと小さくなる。
 その態度が、綱吉の倍は生きているだろう男として、あまりにも幼くて可笑しい。
「ついてるぞ」
「え?」
 ケタケタと声を立てて笑っていると、不意に真面目な声を出されてどきりとする。表情を整えたシャマルの顔が気付けばすぐ其処にあって、驚いたまま反射的に目を閉じると、生暖かい感触が唇に近い頬をなぞって遠ざかって行った。一瞬掠めたようにも思われたが、錯覚かもしれない。
 呆気に取られていたら、デコピンされた。
「んな顔してると、どこぞの狼に頭から食われるぞ」
「どこぞの誰かじゃないなら、別にいいよ」
「うわ、ひでぇー」
 苦笑いと共にシャマルは綱吉を小突いた手で自分の額を多い天井を見上げる。綱吉は涼しい顔をしたままケーキを口に運ぶ。甘ったるい、しつこいばかりの味がいっぱいに広がって、そろそろ胸焼けが発生しそうだ。飲み物が欲しい。もしくは気分転換になるようなものが。
 一本しかないフォークを口元に置いたまま目線だけを持ち上げると、同じく視線を下ろしてきた彼と目が合った。瞬間的に逸らしてしまうのは、先程の彼への発言の裏を読み取られるのを恐れてか。
「余るなら、持って帰っていいぞ。ガキどもが喜ぶだろ」
「そだね、そうする」
 まだ手持ち無沙汰にフォークで下唇を突きながら、どこか上の空の綱吉が言い返す。幼さの残る顔立ち、心。ただひとつを選べず、誰かの為に命を賭すとも限らない、けれど決して喪われてはならない存在。
 罪深きマリア、穢れ無き魂。背負うは罪の名を冠した十字架か、御誂え向き過ぎて涙が出る。
「そうだ。ついでに」
 もうひとつ、お前に。
 シャマルは右手をテーブルに、そこへ体重を。傾ぎそうになったテーブルを慌てて綱吉が対角線の先で押さえ込む。綱吉は逃げない。その甘さを、羨ましくも妬ましく感じる自分を封印する。大人と子供、汚れている者と、そうでない者と。
 黒、そして白。
「シャマル?」
 向けられた純朴な瞳に、心が少し痛む。もっとお前は、汚れた世界を知った方がいい。そう思うのに何ひとつ教えてやれず、更にはこのまま知らずに居てくれたならば良いと願っている自分のあざとさが愚かしかった。
 名前を呼ぶことなく、目を閉ざす真似もしない。初めて交わした口付けは甘いクリームの味がした。
「預かっていてくれ」
 触れるだけの、たったそれだけの契りは、されど重い。綱吉は丸くした目を細めた後、フォークを持つ手を下ろし何も持たぬ手で己の唇に触れた。ぬくもりも残らぬ、一瞬の戯れに、浅く下唇を噛み締めて。
「いつ、返せば良いのさ」
「お前が要らなくなったら」
 椅子に腰を落ち着け、脚を組み、そこに結んだ手を置いて。白衣を着た男が不遜に歯を見せて笑う。綱吉の百面相を面白げに見詰めて、今の触れ合いが、彼お得意の冗談であると思い知らしめるように。
 それが分からないほど綱吉が幼くないと知りながら、仮面の奥に潜めた思いを露にしない。なんなら今すぐに返しても構わないと豪語する彼の方が、よほど泣きそうだというのに。
「貰っても良いの?」
 フォークがケーキを小突く。白い表面に小さな穴が無数に空く。
「ああ」
「じゃあ、もう返さない」
「そりゃ助かる」
 大仰に笑って話を終わらせる。綱吉はケーキの消化に取り掛かり、しかし五分もしないうちに音を上げた。
 最初にケーキが入っていた箱を教えてやると、彼はいそいそとそれに詰め、持って帰る準備を整える。更にちゃっかりと、こういう差し入れがあった時はまた自分を呼んでくれるように頼み込むのも忘れない。
「伝えておくよ」
「俺が食べたがってるって伝えたらダメじゃん」
 相手はシャマルに食べてもらおうとして、このケーキを差し入れたのだから。
「それもそうか」
「そうそう」
 綱吉が笑う。シャマルは顎鬚を撫でながら苦笑する。その彼の腕を、綱吉が引いた。自分へと向けさせた注意、今度は閉じた目。甘くない、キス。
 驚きに目を見開くのは、今度はシャマルの番。
 綱吉は即座に彼の白衣から手を離し、テーブル上の箱を掻っ攫って飛びずさった。
「明日、また預かりに来るよ」
 その胃袋にケーキが半ホール入っているとは俄かに信じがたい動きでドアを開け、そこで振り返る。投げ放たれた台詞に呆気に取られ、シャマルは追いかけるわけにもいかず綱吉の背中を見送った。顔が緩やかに赤く染まっていく。
「参ったな……」
 呟き、顎を撫でる。指先に刺さる髭が痛い。

 十字架に縛られたキリスト、その枯れた足でゴルゴダの坂は遠かったか。マリアの流す涙は、彼の手に打ちぬかれた杭によって流れた血を洗い流し得たか。
 汝が預かった罪はどこへ消えたか。その十字架に縛られた抜け殻は、どこへ消えた。飛び去りし鳥の頭上に、空は輝いていたか。
 教えてくれ。この罪は、赦されるか。

2006/9/8 脱稿