もの思ふ罪も つきざらめやは

 夢は見ていなかった。
 突然ドガッ、と横から衝撃が来て、それで目が覚めた。真っ暗闇の中で目を瞬いて、小夜左文字は騒然となった。
 はっ、と短く息を吐き、何が起きたのかと四肢を戦慄かせる。固い板張りの床を背中に感じながら、右手は咄嗟に腰に向かった。
 手探りで刀を引き寄せ、身体に巻きつけていた袈裟を払い除けた。噴き出た汗が生温く、耳元で鼓動が爆音を奏でていた。
 背筋が粟立ち、息苦しさに声ひとつ上げられない。
 敵襲を警戒して慌ただしく瞳を泳がせた彼の、その傍らで。
「ふがっ、ん~……すう」
 随分と起伏が激しい寝息が、無遠慮に響いた。
 それと同時に、ぐいぐいと脇腹を蹴られた。
 ここから出ていけ、と言わんばかりの無遠慮さにぽかんとして、短刀の付喪神は暗がりに目を凝らした。
 破れた天井から、星明かりが差し込んでいた。実に儚い、微かな光を頼りに焦点を合わせ、寝言の主を確かめた。
「太鼓鐘、貞宗」
 心の中で留めておくつもりが、うっかり声に出た。
 いつの間にか薄れた息苦しさに安堵して、小夜左文字は短刀仲間の無防備な寝顔に肩を竦めた。
 眠りを妨げてくれた犯人が分かって、ホッとした。敵が襲ってきたのではなかったと目を細め、ぐいぐい来る太鼓鐘貞宗の足を追い払った。
 土踏まずの辺りを擽ってやれば、素足だった少年はパッと逃げた。目覚めるところまではいかないけれど、不快感から姿勢を変えた。
 これで当分、邪魔されることはない。遠ざかった細い脚から視線を外して、小夜左文字は仰向けに姿勢を変えた。
 耳を澄ませば梟らしき声がした。狼の遠吠えは聞こえない。多くの獣や、虫さえもが、息を潜めて眠っていた。
 一部が崩れた屋根から、曇りがちな星空が見える。壁も所々で穴が開いており、仕切りひとつないあばら屋は崩壊寸前だった。
 嵐に二度、三度と遭遇したら、呆気なく壊れるに違いない。
 だが今のところ、天候は安定している。雨に濡れる心配は、当面はなさそうだ。
 薄雲が流れ、星々を隠した。気まぐれに変化を重ねる景色を眺めて、彼は戻ってこない睡魔にそっと溜め息を吐いた。
「ふへあ、……んが」
 鼻が詰まっているのか、先ほどから太鼓鐘貞宗が五月蠅い。
 鼾が気になって横を向けば、伊達男を気取る少年はぼりぼりと剥き出しの腹を掻いていた。
 暗くて見え辛いが、間違いない。
「冷えても、知りません」
 ごろごろと寝返りを打ち、姿勢を変えるうちに捲れあがったようだ。着ているものが揃って上にずれ、臍が丸見えだった。
 丈の短い股袴は、逆にずり下がってしまっている。どうやればそんな風になるのか、かなり不思議だった。
「ひゃっひゃっひゃ」
 今度は笑い声が響いて、少しも落ち着かない。
 いったいどんな夢を見ているのか、想像すら出来なかった。
 寝ていても表情豊かな短刀に首を振り、反対側に視線を投げた。ボロボロの壁を背景にして、鯰尾藤四郎が眠っていた。
 その隣には鳴狐がいて、更にその横で骨喰藤四郎が舟を漕いでいた。お供の狐は主の膝で丸くなり、懐炉代わりを引き受けていた。
 脇差ふた振りはいずれも打刀の肩に寄り掛かり、座ったまま眠っていた。間に挟まれる格好の打刀は、こんな状況でも面頬を外さなかった。
 いずれも俯き加減で、瞼は閉ざされている。太鼓鐘貞宗の鼾は、彼らの耳に届いていなかった。
 余程眠りが深いらしく、ピクリとも動かない。時折供の狐が寝返りを打つ以外、変化は見られなかった。
 小夜左文字自身が壁の役目を果たしており、太鼓鐘貞宗の攻撃はあちらまで届かない。
「うっ」
 折角退かせた足がまた戻ってきて、藍色の髪の少年は低く呻いた。
 踵で肘を踏まれた。わざとやっているのか、と言いたくなる関節への攻撃に辟易して、彼はのっそり身を起こした。
 布団代わりに被っていた袈裟を足元に落とし、短刀を帯に挿し直した。軽く頭を振って血を巡らせて、飛んできた蹴りを避けた。
 固い床の上で、太鼓鐘貞宗は器用に回転していた。眠る前は身体に被せていたはずの短い外套は、短刀の下敷きになっていた。
 壊れかけのあばら屋だから、床だって真っ平らではない。棘が出ていたり、腐って穴が開いたりしている場所もあるというのに、お構いなしだった。
 朝になったら、擦り傷だらけになっているのではなかろうか。
 それでも目覚めない彼の図太さに呆れながら、小夜左文字は微かに聞こえる梟の声に耳を澄ませた。
 袈裟で膝を覆い、背筋を伸ばす。
「……歌仙?」
 出陣は基本的に、六振りで隊を組む。
 しかし残るひと振りの姿が見当たらないと、今頃になって気が付いた。
 歴史の改変を目論む者がいる。
 過去に介入し、思う通りの未来を手に入れようと暗躍する者たちがいる。
 由々しき事態であり、見逃すことは出来ない。故に時の政府は審神者なる者に命じて、刀剣男士を産み出した。
 小夜左文字たちは、審神者によって顕現させられた刀剣の付喪神。時間を越え、過去に跳び、歴史修正主義者の目論見を阻止すべく、時間遡行軍の討伐を命じられていた。
 ここは安全な本丸ではない。
 どこに敵が潜むかも分からない、危険と隣り合わせの場所だった。
「ひとりで、どこへ」
 歴史的な戦に割って入り、のちの世に伝えられている戦況をひっくり返そうという計画が、密かに実行されていた。
 これを阻止しなければ、歴史が大幅に入れ替わってしまう。なんとしてでも時間遡行軍を見つけ、滅ぼさなければならなかった。
 だが肝心の敵が、なかなか見つからない。
 数日後、この近くの平原で向かい合う両軍は、予定通り拠点とする領地を出発していた。
 どこで歴史修正主義者が割って入り、戦況を混乱させるかは分からない。いざ戦闘が始まってからでは遅く、極力未然に防ぐ術を模索していた。
 そうしているうちに、日が暮れてしまった。
 両陣営の動向に目を光らせつつ、滅するべき敵の所在にも注意を欠かさない。
 単独行動は禁じられていた。基本ふだ振り以上で行動するよう、審神者からはきつく命じられていた。
 だのに歌仙兼定の姿がだけが、あばら屋に見当たらない。
 明日も終日、動きっ放しだ。ゆっくり食事するのさえ難しく、休めるうちに休んでおくのが定石だった。
「歌仙」
 仲間を起こさないよう呼びかけても、闇は動かなかった。
 代わりにゴッ、と拳で脛を叩かれて、小夜左文字は迷惑そうに太鼓鐘貞宗を押し返した。
「あなたはいつ、歌仙になったんですか」
 まるで違う方向から、返事のようなものをもらった。
 当たった場所が悪く、先ほどよりずっと痛かったと不満を漏らして、彼は渋々立ち上がった。
 仕返しで蹴る真似だけして、浮かせた足で一歩を踏み出した。白蟻に食われて朽ちかけている床を避け、遠回りをして草履を回収した。
 武器の在り処を確認し、深呼吸して、完全には閉まらなくなっていた木戸の隙間を潜る。
「冷えるな」
 こんな薄く、みすぼらしい穴だらけの壁であっても、ある程度風を防いでくれていた。
 打ち捨てられた小屋の外は、予想していたより寒い。袈裟を置いて来たのを軽く後悔して、小夜左文字は脇を締めた。
 両腕を撫でさすって熱を招き、目を凝らす。元は木こりが炭焼きに使っていたのであろう小屋は、主を失って十年以上が経過しているのか、原形を失っていた。
 炭焼き用の窯は、跡形もなかった。建物の中には生活道具らしきものはなにも残っておらず、心無い者が盗んで行ったと想像出来た。
 ここら一帯が戦になるから、逃げたのか。
 それとも戦に連れ出されるのが嫌で、逃げたのか。
 ここを使っていたのがどういう人物なのかも、なにひとつ、手掛かりはなかった。
 もっとも知ったところで、刀剣男士に出来ることはない。せいぜい一夜の宿を提供してくれたのを感謝し、頭を下げることくらいだ。
「歌仙、どこですか」
 闇に向かって呼びかけ、首を捻る。
 吐く息が白く濁ったのは一瞬で、あっという間に霧散した。
 梟の声が止んでいた。風が木立を揺らす音がざわざわと重なって、暗がりに浮かび上がる樹影が不気味だった。
 彼自身が、時間という一方通行の理を捻じ曲げているのだ。不可視の存在に怯えるなど、愚の骨頂と言えた。
 ただ、壮大過ぎる自然に畏怖の念を抱くことはある。多くの人が肌で感じ取る、有り得ないけれどもあり得る気配に、彼もまた鳥肌を立てた。
 産毛が逆立ち、風が吹く度に全身がビリビリと痺れた。弱い電流を浴びせられている気分になって、蠢いているようにも映る闇を凝視した。
 コッ、コッ、と一定の間隔で固いものがぶつかり合う音がした。
「!」
 咄嗟に身構え、首を竦めた少年は、仰々しく振り返った先で唖然と目を見開いた。
「お小夜?」
 同じ音がもう何度か繰り返され、不意に止んだ。
 きょとんとしながら見下ろされて、彼は星明かりに照らされた存在を前に、へなへなと崩れ落ちた。
 どうやら自覚していた以上に、緊張していたらしい。
 脱力して、腰が抜けた。しばらく自力で立てそうになくて、短刀の付喪神はゆるゆる首を振った。
「どこに行ったのかと」
 不思議そうに首を捻る男は、記憶にある姿となんら相違なかった。胸元の花は散らず、鼻の頭に傷を作ってもいなかった。
 自慢の刀を腰に差し、右手に握っているのはその辺に落ちていた棒だ。真ん中辺りで歪んでいるけれど、概ね真っ直ぐで、手元より先端の方が太かった。
 彼はそれで、地面を叩いていた。杖として使っていたのではなく、手持ち無沙汰に振り回していた、という方が表現的には正しい。
 幽霊の正体見たり濡れ柳、とはまさにこのことだ。
 何もわからないうちは、不気味な響きだった。少しずつ近付いてきていたのも、敵の接近を予感させ、恐怖と警戒心を激増させた。
 蓋を取ってみれば、なんてことはない。
 騙された。力なく項垂れて、小夜左文字は肩を竦めた。
 歌仙兼定は棒をその辺に捨てて、身一つで戻ってきた。座り込んでいる少年の手前で足を止めて、おもむろに跪いた。
「どうしたんだい、こんな時間に」
 視線の高さを揃え、至近距離から覗き込んできた。
 圧迫感を覚えて咄嗟に首を引いて、短刀は困った風に苦笑した。
 夜明けはまだ遠く、空に月は見当たらない。天頂を埋める星の輝きも、雲に邪魔されて見える面積は限られていた。
 この時間に活動しているのは、藁人形と五寸釘を手にした姫くらいではなかろうか。
「復讐を、しに」
 丑の刻参りを例に出して囁けば、歌仙兼定の顔がみるみる険しくなった。
「呪詛で復讐とは、お小夜らしくないな」
「そうでしょうか」
「ああ。お小夜なら、自分で刺し殺しに行くだろう?」
「歌仙はそっちの方が、好みなんですか」
「……なんの話をしているんだい?」
 冗談と知りつつ真顔で返事されて、少しからかってやりたくなった。
 案の定男は渋面を強め、本題に添っているようで、大幅にずれた話題を引き戻した。
 思った通りの反応に、小夜左文字はくく、と喉の奥で笑った。細い肩を小刻みに揺らして、気まずそうに目を泳がせる打刀の袖を摘み、引っ張った。
「座ってください」
「ここに?」
「どこでも」
 上目遣いに強請り、可愛らしく小首を傾がせる。
 自分でもあざといと思える仕草に、歌仙兼定は顎を引き、頬を引き攣らせた。
 仰け反り気味に背筋を伸ばした男は、咄嗟に口にした質問に対する返答を受け、視線を巡らせた。
 地面に直接腰かけるのは汚れるし、冷たいので極力避けたい。だが椅子にするのに丁度良い切り株や、台に出来そうなものはひとつも見当たらなかった。
 背後には、破れが目立つ粗末な家屋。
 袈裟を着けず、少し寒そうな短刀を視界の中心に据え直して、彼は深々と溜め息を吐いた。
「中の様子は?」
「みんな、寝てます」
 瞳だけを脇に流し、静まり返っている内部を窺う。
 少し前の記憶を掘り返して、小夜左文字は剥き出しの膝を擦った。
 下半身に、少しずつ力が戻ってきた。今ならなんとか立てそうだったが、敢えて隠した。
「眠れなかったのかい?」
 打刀は問いかけの最中、立ち上がった。袴の裾を叩いて土汚れを払い、座り込んだまま動かない少年にゆっくり手を伸ばした。
 脇から腕を差し込んで、背中で交差させた。小さな身体を大事に抱えて、慎重に持ち上げた。
 もれなく、小夜左文字の足が宙に浮いた。草履が落ちないよう、足指にそっと力を込める。打刀はそれに気付かず、片腕を背から尻へ移動させ、軽い体躯を支えた。
 慣れた調子で抱き上げられた。短刀も勝手が分かっているので、特に逆らわなかった。
 紫紺色の衿を掴み、指に巻きつけて鎖とした。間違って男の腕から力が抜けた際も、一気に落ちることがないよう、枷の代わりにした。
 胸元でもぞもぞ動く少年を軽く揺すり、歌仙兼定が首を前に倒した。
 耳朶から頬骨に辺りに顎を擦りつけられて、小夜左文字はくすぐったさに目を閉じた。
「太鼓鐘貞宗の寝相が、酷かったので」
「へえ?」
「蹴られました」
「それは災難だったね」
 あばら屋の中に居る仲間を刺激しないよう、声を潜めた。ひそひそと互いに聞こえる音量で囁けば、現場を見ていない男はクツリ、と喉を鳴らして笑った。
 小夜左文字は真実を語っているのに、あまり信じた様子がない。大袈裟に言っているだけと思われたらしく、それが悔しかった。
「痛かったです」
「復讐は?」
「……今度にします」
 不満たらたらに口を尖らせれば、決め台詞的なものを奪われた。
 訊かれた途端に思い出して、小夜左文字は一瞬目を丸くした後、余所余所しく目を逸らした。
 寝ているところを叩き起こされた件での復讐なら、同じことをやり返すのが丁度いい。だがあの場には、粟田口の三振りもいた。太鼓鐘貞宗が騒げば、彼らまで起きてしまいかねなかった。
 そうなったら、今度は小夜左文字が復讐される側になる。
 揚げ足を取られ、面白くなかった。仏頂面で吐き捨てた少年に、歌仙兼定は呵々と笑った。
 弾みで大きく揺さぶられて、咄嗟に衿を持つ手に力を込めた。離れて行きそうになった上半身を引き留めて、わざと男の胸に倒れ込んだ。
 ドスン、と衝撃を受け、気付いた打刀が息を整えた。静止して短刀を抱え直し、斜めに傾いでいる板戸の横に移動した。
 出入り口に近く、見晴らしの良い場所に、覚悟を決めて腰を落とす。
 黒の外套を尻に敷いた彼は、胡坐を掻いて座る直前、小夜左文字の身体を半回転させた。
 くる、と回されて、視界が一変した。
 細い肩が打刀の胸板に当たって、左右から両腕で包まれた。
 外套の両端を引っ張り、被せられた。全体を覆うのには足らないので、余った部分は男の袖で補われた。
 冷え切った肌に、温もりが降りて来た。
 夜気を遮断されるだけでも随分と違って感じられて、小夜左文字はほう、と安堵の息を吐いた。
「少し眠るかい?」
「歌仙は、いいんですか」
「誰かが見張りに出ていないと、ね」
 四肢を丸めて小さくなった彼に、打刀が肩越しに問いかける。
 反射的に訊き返した少年は、続けられたひと言に緩慢に頷いた。
 ここは、言ってしまえば敵陣のど真ん中だ。幸運にも発見されていないだけで、いつ斥候に遭遇するか分かったものではなかった。
 眠っている間は、誰もが無防備だ。太鼓鐘貞宗のように大の字になるのは、的にしてくれ、と言っているようなものだった。
 全員がぐっすり寝入るのは、愚策でしかない。
「歌仙は、いつ休むんですか」
「少し前に、鳴狐と交代したばかりだから、大丈夫だよ」
 ただここを見つけた時は、そういう話にならなかった。方々を駆けずり回った後だったので、皆疲れていた。本丸から支給された携帯食での食事もそこそこに、さっさと床に横になった。
 歌仙兼定のこれは、自発的な行動だ。恐らく鳴狐と交代したというのも、嘘だ。
 鯰尾藤四郎と骨喰藤四郎の間に挟まれていた彼が、どうやってそこに潜り込んだのか。脇差らが起きて、待っていたとは考えにくかった。
 明らかに無理をしている。これでは明日、体力が持つまい。
「僕が代わりますから、歌仙は休んで」
 懸念を表明し、交代を進言する。
 だが歌仙兼定はゆるゆる首を振り、短刀を包む腕を左右に揺らした。
「大事ない。これくらい」
「でも」
「なら、一緒に見張るかい?」
 彼の中で、朝まで眠る、という選択肢は存在しないらしい。
 逆に誘われて、小夜左文字はひっそり嘆息した。
 男の膝の上で身動ぎ、それを返事の代わりにした。思いの外温かい環境に睡魔が呼び寄せられたが、気付かなかったことにして、出そうになった欠伸を噛み殺した。
 鼻から大きく息を吸い、膨らんだ咥内を即座に凹ませる。
 唇を引き結んだまま堪えた彼を知ってか、知らずか、歌仙兼定は華奢な背中に胸を押し当てた。
 熱だけでなく、鼓動まで伝わってくるようだ。
 耳の奥で響く拍動を数えて、小夜左文字は後ろに向かいたがる瞳を前方に固定した。
「さっきは、なにをしていたんですか」
 闇の中からカツカツと響く音は、殊の外不気味だった。
 敵に囲まれているのでは、と想像して肝を冷やした。現実は大きく異なっており、その落差に力が抜けた。
 腰を抜かした件を根に持っての発言に、歌仙兼定は首を左右に揺らし、それから嗚呼、と声に出した。
「動いていないと、眠ってしまいそうになるからね」
 なんのことかと思案して、数秒してから答えた。照れ臭そうに苦笑して、棒を放り出した辺りに顔を向けた。
 小夜左文字は彼に背中を預けているので、細かな表情は望めなかった。だが衣擦れの音や、吐息の調子から、ある程度推測は可能だった。
 こんな顔をしているに違いないと、瞼を半分閉ざし、想像に胸を躍らせる。
 答え合わせが出来ないのをもどかしく思いつつ、それなりに楽しんで、彼はゆらゆらと上機嫌に頭を揺らした。
「素振りでもしてたんですか」
「お小夜はなんでもお見通しだねえ」
 振り回すのに丁度良い枝は、杖としても使えるし、木刀代わりにも手頃な長さだった。
 この場を遠く離れることなく、咄嗟に武器に転用できるものを手にしていたのだから、やることは限られている。
 こんなことで正解と褒められても、さほど嬉しくなかった。
「上達しましたか?」
 それとなく嫌味を投げかけて、首を後ろに倒す。
 打刀の顎を真上に眺めていたら、立派な喉仏が二度、立て続けに動いた。
「生憎と、良い師範に巡り合えなくて」             
 どのように切り返すかで、迷いがあったようだ。若干躊躇と照れが混じった返答に、小夜左文字は噴き出すのを堪えた。
 クッ、と出そうになった息を押し留め、奥歯を噛み締めた。ただでさえ小さい身体を益々小さくして、誰にも見えないところで口角を持ち上げた。
「稽古、つけてあげましようか?」
「それは光栄だ。けど、明日に差し支えるから、止めておこう」
 冗談に付き合い、提案する。
 歌仙兼定は肩を竦め、前のめりから振り返った短刀に目を細めた。
 小夜左文字は短刀の中でも飛び抜けて練度が高かった。かつての主と邂逅を遂げ、自らの有様を見極めた少年は、桁外れに強い。
 一方の打刀も、負けてはいない。力任せの攻撃は減り、着実に敵の首を刎ねる、その一点に特化した戦い方を身に着ていた。
 彼らが本気でやり合えば、大変なことになる。
 勝負がつかず、時間だけが過ぎて行き、朝になる頃には疲れ果てていることだろう。
 大騒ぎして、敵に見付かっても事だ。
 この時代の人々に目撃されるのも、あまり得策とは言えない。怪しい奴、と囚われて、それが歴史に記されることになったら、自分たちが修正主義者になってしまう。
 本気でぶつかり合うのは楽しいが、弊害もそれなりに。
 乗って来ず、冷静に却下した打刀に拗ねて、小夜左文字は口を尖らせた。
 彼の意見が正しいのだが、正論で説き伏せられて、面白くない。
 短刀だって本気でぶつかり合おうなどと考えていない。ちょっとした冗談だったのに、真面目に返されて、笑いたくても笑えなかった。
 むすっとして、後頭部で打刀の胸を何度も叩く。
 ふわふわ動き回る髪の毛を嫌って首を振り、歌仙兼定は右手を滑らせた。
「っ」
 臍の前にあった手が、下に動いた。
 急角度で曲がっている膝を越え、脹ら脛一帯を撫でさする。巻き付けられた包帯の縁を辿り、結び目を擽られて、小夜左文字は咄嗟に息を止めた。
 仰々しく肩を跳ね上げ、もぞもぞ動き回る紫紺の袖と、白い指に顔を強張らせた。
 黒の外套はとっくに脇に滑り落ちていた。覆うものがなくなった小枝のような細い脚は、微かな星明かりの下で白く浮き上がって見えた。
 その上を、男の指先がつい、と走る。
「かせん」
 くるりと回転し、円を描いたかと思えば、ジグザグに進んで産毛すらない肌を捏ねた。細長い画板の隅々まで筆を走らせ、隆起を辿り、気まぐれに包帯を弄り倒した。
 最初はくすぐったかったものが、繰り返されると違う感覚に取って代わられた。ぞわ、と悪寒が駆け抜けて、短刀は萎縮して踵を跳ね上げた。
 逃げようと足掻くけれど、座った状態で出来ることは限られている。せいぜい爪先を残して足裏を草履から剥がす程度で、効果があったとは言い難かった。
「ん?」
 男の左手は脇腹から臍の一帯を押さえ、指先は揃えられていた。それで他よりは弾力がある腹部を軽く押して、弱めて、盛り上がった肉を帯の上から擽った。
 弾力を楽しみ、遊ばれていた。
 二方向から別々の刺激を与えられ、素足を覆うものはもう残っていないのに、寒さをまるで感じなかった。却って暑いくらいで、内側から湧き起こる熱を止められなかった。
 鏡を見たわけではないけれど、耳朶がじわじわ赤く染まっていくのが自分で分かる。
 内股になり、膝同士をぶつけ合わせて、小夜左文字は無関心を装う男に臍を噛んだ。
「手、が」
 彼の右手は脛から太腿の裏側へと移り、そこから上に向かおうとしていた。
 それを、足を閉じることで阻止した。左右の腿をぴったり貼り合わせることで、隙間を塞ぎ、先に進めないようにした。
 気を張って、意識して全身に力を込めた。今にも崩れ落ちてしまいそうな上半身を必死に堰き止めて、奥歯を噛み鳴らし、鼻声で訴えた。
 邪魔されて打刀の指は引き返したが、諦めたわけではなかった。他にもやりようはある、と言わんばかりに動き回って、短刀の下腹部を覆っている股袴に狙いを定めた。
「ひゃ、あ」
「手が、なんだい?」
 裾の隙間を小突き、広げて、手始めに中指を潜ませる。
 勢い余ってずぼ、と突き刺さったそれに驚いて、小夜左文字は慌てて口を塞いだ。
 漏れてしまった高い声が、自分でも恥ずかしい。かあっ、と顔の赤みが加速して、熱で湯気が出そうだった。
 耳元では男が、わざとやっているのか、低い声で囁いた。窄めた口から息を吐いて、紅を強める耳朶を呼気で擽った。
 微風に撫でられた場所がゾクッと来て、皮膚の一枚内側を電流が駆け抜けた。全く関係ないはずの爪先がピクリと反応して、ずっと堪えていた大腿部がついに音を上げた。
 力が抜けて、筋肉が緩んだ。ぴったり合わさっていたものが離れ、同時に股袴の裾も余裕を取り戻した。
 布突っ張りが失われ、隙間が広がった。調子に乗って指を三本にまで増やして、歌仙兼定はその柔肉をふにふにと揉みしだいた。
「んっ」
 足の付け根をぐるりとなぞり、弛緩した腿の感触を存分に楽しんでいた。
 入り口となっている裾周辺にいつまでも陣取り、奥に進む気配はない。期待したのに来てくれなくて、小夜左文字は身をくねらせ、左肩を男の胸に擦りつけた。
 甘えるように頬を寄せて、身体を捻り、自分から押し付ける。
「おやおや」
 大胆な行動をとった少年を笑って、歌仙兼定はサッと手を引いた。
 撫でられていた場所からスッと熱が逃げていく。そうやって一部だけ冷え込むのが不満で、短刀は分かり易く頬を膨らませた。
 真下からねめつけられて、打刀は両手を肩の高さで躍らせた。
「明日に障るよ?」
 先ほどと同じ台詞で、目を眇める。
 暗がりでもはっきり見える空色の瞳に下唇を突き出して、小夜左文字はもう一度、男の胸に頬を埋めた。
 無言で訴え、左膝を横に倒した。右膝で天を突き、股関節を限界まで広げた。
 小夜左文字の直綴は、前身頃の長さが左右で異なる。その重なり合った部分を丁度真ん中に集めて、足首は男の脛に絡ませた。
 斜めにずり下がっていく体躯を、打刀の着物を噛むことで遅らせようと足掻いた。
 陽の光の下では見るのも叶わない姿を披露されて、歌仙兼定は黒色の布を片方、捲った。
「でも、このままでも、明日に障りそうだね」
「見ないで、……ください」
 隠し切れない隆起をそこに見出して、男がクツリと喉の奥で笑う。
 嘲笑を過分に含んだ囁きに。小夜左文字は言葉だけで抵抗した。
 自ら股を広げ、見せつけておきながら、なにを言っているのだろう。我が事ながら分からなくなって、短刀は祈るように目を閉じた。
 荒い息を吐き、目の前にある紫紺の布に牙を立てた。舌を伸ばし、繊維に唾液を染み込ませた。
「お小夜?」
「障らない、ように」
 くい、と引っ張られ、男の視線が短刀に移った。
 見つめられた少年は息を潜め、羞恥に抗い、弱々しく鳴いた。
 最後まで言い切らず、後は勝手に推測するよう告げて、ぷいっと顔を伏す。
 打刀は一瞬惚けた後、おおよそ雅とは言い難い調子で噴き出した。
「ははっ」
 こみあげる笑いを、押しとどめきれなかった。
 前歯をちらりと覗かせて、肩を震わせ、短刀の首の後ろに突っ伏した。
「歌仙」
 そんなに面白いことを言ったつもりはない。至って真面目に、真剣に、助けを求めたはずだ。
 それをこんな風に笑われると、気持ちが萎えて、縮んでしまう。
 抗議して、嫌がらせのつもりで肘を捻った。腕を背中に回して、小夜左文字は手探りで布を手繰り寄せた。
「こら」
「……歌仙だって、こんなじゃないですか」
 何枚も重なっている着物を払い除け、袴の上から探り当てる。
 軽く握られた男は途端に真顔に戻り、決して可愛くない悪戯を叱った。
 肩をべし、と叩かれて、小夜左文字は顰め面を強めた。不公平だと小鼻を膨らませて、苦々しい形相の男を睨みつけた。
 目が合って、火花が散った。
 気圧された男は一瞬怯んだ後、諦めたのか肩を落とし、深々と息を吐いた。
「明日に障らない程度に、だよ」
「はい」
「敵に攻め込まれても、知らないよ」
「大丈夫です」
「見苦しい死に様だけは、御免蒙りたいものだが」
「その時は僕も一緒です」
 念押しして、歌仙兼定は前髪を掻き上げた。
 一度だけ背後を窺い、屋内になんら変化がないのを確かめた。太鼓鐘貞宗の上機嫌な鼾を聞いて、安堵の息を吐き、身体を反転させた短刀の額に額を押し当てた。
 向き合う形で座り直した小夜左文字は、慎重に呼吸を合わせ、顎を引いた。目を瞑って、伸ばした首を少し右に傾がせた。
 なにかを待っている少年に相好を崩し、打刀が緋色の舌を伸ばす。
 先に顎を舐め、短刀が揺らいだ隙に唇を奪った。最初はちゅ、と一瞬重ねるだけに留めて、三度、四度と繰り返すうちに、次第に合わさりを深めていった。
 手探りで相手の肩に、胸に、腕に、腹に触れ、熱を確かめ、その覆いを取り払う。
「油断も隙もあったものじゃないな」
「なんのことですか?」
「さっさと終わらせて、本丸に帰ろう」
 手慣れた調子で進めていく短刀に呆れ、打刀が呟く。
 とぼけてみせた少年は、再び降りて来た唇を受け入れて、そのまま深く頷いた。

2018/02/25 脱稿

頼もしな宵暁の鐘の音に もの思ふ罪もつきざらめやは
山家集 711