積りにけりな 越の白雪

 ぽたり、ぽたりと雫が落ちていた。
 朝方は立派に尖っていた氷柱も、昼を回る頃には幾分小さくなっていた。
 このまま成長し、長く伸びるようなら危ない。折ってしまった方がいいか悩んでいたけれど、手を加えることなく済みそうだった。
 肉体労働がひとつ減って、ホッとした。
「お疲れ様です」
 雪の中に出来た獣道の真ん中で立ち止まって、小夜左文字は持って来た盆を高く掲げた。
 彼の前方には、竹で作った梯子があった。斜めに立てかけられ、屋根まで続いている。
「おっ、やったぜ」
「うわあ、助かるうう」
 それを登り切った先に、和泉守兼定の姿があった。すぐ後ろには大和守安定の顔が見えて、小夜左文字の登場に、険しかった表情が一気に和らいだ。
 嬉しそうに手を叩き合わせ、つるりと滑って落ちそうになった。
「あぶね!」
 地面に向かって一直線、となるところだった大和守安定の腕を掴んで、和泉守兼定は危機一髪と冷や汗を拭った。
 下で見ていた短刀も、あと少しで大惨事、という事態に竦み上がった。高く結った髪をぶわっと膨らませて、悲劇が寸前で回避されたのにホッと胸を撫で下ろした。
「いやあ、ごめん。ありがとう」
「なになに、どったの」
 助けられたのに礼を述べ、大和守安定が申し訳なさそうに首を竦める。
 呆れ顔の和泉守兼定はなにも言わなかったが、代わりに違う声が飛んできた。
 小夜左文字の位置からでは見えないけれど、加州清光だ。ほかにも数振り分、がやがやと賑やかな声が聞こえて来た。
 だが実際のところ、屋根に上っているのがどれくらいいるのか、さっぱり見当がつかなかった。
 おおよそこれくらい、と見計らって用意して来たが、足りないかもしれない。
 梯子の手前で数回足踏みして、彼は湯気を立てる甘酒に視線を移した。
 丸い盆の上に、湯飲みが全部で六つ、並んでいた。いずれもたっぷりと甘酒が注がれており、寒い中での活力となるはずだった。
 飲み物を持ってやって来た短刀の意図を汲み、屋根の上で和泉守兼定が声を張り上げ、雪下ろしの作業中だった仲間に呼びかけた。
「小夜坊が、差し入れだってよ」
「やったー!」
 地上でやきもきしている少年の気持ちなど露知らず、頭上から複数の歓声が一斉に沸き起こった。
 一昨日の夜から降り始めた雪は、今日の朝になってようやく止んだ。寒さに震えながら外に出て見れば一面の銀世界で、それはそれは大層美しかったが、ただ美しいだけではないのが雪の厄介さだった。
 地上だけでなく、屋根の上にもみっしりと、隙間がないくらいに雪が積もっていた。
 少量なら放っておけば溶けるが、これだけ大量となるとうかうかしていられない。
 雪の重みで屋根が潰れたら、ここでの生活がままならなくなる。時間遡行軍と戦って歴史を守る云々と、偉そうに言っている場合ではなかった。
 こんな時でも出陣となった一部を除いて、身体の大きい刀は午前中から雪下ろしに忙しい。
 畑や厩、時空転移の門に通じる道なども掘り出さねばならず、彼らはずっと、休みなしだった。
 そろそろ根負けして、嫌になっている頃と思われた。
 ずっと屋外にいるわけだから、身体もさぞかし冷えていることだろう。ならば休憩も兼ねて、温かな飲み物のひとつでも差し入れてやろう。
 そう思って、用意した。
 今日の料理当番である燭台切光忠や、大般若長光も賛同し、手伝ってくれた。
 台所に行けばまだ残りが沢山あるけれど、取りに行くにはまず、今ここにある分を置いていかなければならない。
 だが周辺に、物を置ける場所がなかった。
 足元は濡れて、土と雪が混ざってぐちゃぐちゃだ。足を動かすたびに泥が跳ねて、とても飲み物を放置出来る環境ではなかった。
「すみません。あの」
 かといって通り道の両側を埋める、雪の壁に預けていくわけにもいかない。重みで沈んでしまうし、折角熱々で用意したものが冷めるのは残念過ぎた。
 せめて誰かひと振りで良い、梯子を下りて来てくれないかと願うが、和泉守兼定はちっとも気付いてくれなかった。
 彼は遠くで作業中の仲間に繰り返し呼びかけ、集まるよう促していた。
 その打刀が梯子への道を塞いでいる状態なので、大和守安定たちも身動きが取れなかった。
 先ほど滑り落ちかけたこともあり、慎重になっている。
 前に出ようか、出まいかで躊躇しているのが窺えて、小夜左文字はそっと溜め息を吐いた。
「降りてきてもらっても、いいですか」
 こちらから言わない限り、伝わりそうにない。
 諦めて、声を上げた。首を思い切り後ろに倒しての叫びに、遠くに向かって手を振っていた打刀はハッとなった。
「おっと。すまねえ」
 我に返ると同時にきょろきょろして、加州清光や大和守安定から睨まれていると気付き、冷や汗を流す。
 苦笑して頬を掻いた彼は気まずそうに首を竦め、身体を反転させて梯子に足を掛けた。
 若干不安定な足場も意に介さず、ひょいひょい、と身軽に移動して、ストン、と足を揃えて着地した。
「うわ、っと。ちょ。揺らさないでってば」
「おおっと。悪い、悪い」
 その衝撃が上部に伝わり、続けて降りようとしていた大和守安定が悲鳴を上げる。
 和泉守兼定はさして悪いと思っている素振りもなく言って、ギシギシ言って止まない梯子を裏側から支えた。
「小夜ちゃん、ありがとう。もらうね」
「安定、俺の分もらっといて~」
「りょうかーい」
 後退して様子を見守っていた小夜左文字に駆け寄り、大和守安定が笑顔で頭を下げた。三番手で降りようとしている加州清光に返事して、短刀が支える盆から湯飲みをふたつ、掴み取った。
 梯子を掴んで踏ん張っている和泉守兼定はなにか言いたげな顔をしていたが、沖田総司の愛刀はこれを無視した。上機嫌に踵を返して相棒を待ち、加州清光が着地すると同時に右手を差し出した。
 暖かな湯気を放つ甘酒に、ふた振りの顔がどんどん綻んでいく。
「あと、どれくらい要りますか」
 四番手は、膝丸だった。屋根の上には髭切の姿もある。しかし先ほど聞こえた声は、もっと他にもいると短刀に教えてくれた。
 この場を一旦離れ、取りに戻った方が良さそうだ。
 ただ正確な数が分からないと、二度手間になりかねない。また足りなかったら困るから、と確認したがった少年に、加州清光と大和守安定は無言で顔を見合わせた。
「えーっと。あと誰が居たっけ」
 本丸の屋敷は、広い。近侍が詰める座敷の他に、食堂を兼ねる大座敷や、納戸、台所に風呂場、そして手入れ部屋など、施設は多岐に亘った。
 ここに刀剣男士らが暮らす居住区を含めると、丸一日かかっても全ての雪を取り除くのは難しかった。
 人海戦術に頼らざるを得ない状況であり、協力者は多い方がいいに決まっている。
 もっと沢山、あらかじめ持ってくるべきだった。
 盆に乗り切る分だけ用意したのは失敗だったと悔いて、小夜左文字は手元に残る湯飲みに肩を落とした。
「確か、どっかに村正の奴がいたな」
「亀甲さんもいたよ」
「兄者、気を付けて降りてくるんだぞ」
「分かってるよ。ええと……弟の、彦丸だっけ?」
「あとはー……ちょっと待って」
「兄者、俺の名前は膝丸だ」
 時間をかけて梯子を下りる源氏の重宝に焦れて、梯子を持って動けない和泉守兼定の声が大きくなった。
 口々に言い合う打刀の会話に、太刀らのやり取りが紛れ込んでややこしい。
 必要な分だけ言葉を選び取って、小夜左文字は心の中で指を折った。
 両手は盆を持つのに使っており、自由が利かない。ここにいる仲間を含め、名前が挙がった刀だけでもう七振りを数えており、手持ちの分だけで足りないのは確実となった。
 しかもまだ、屋根の上にいるらしい。
 ここを起点にして、四方に散らばっているのだろう。和泉守兼定の呼びかけが届いていない刀もありそうだった。
「嬉しいねえ。ありがとう」
「あ、そうだ。歌仙さんだ」
 弟刀の名前を平然と呼び違えた髭切がようやく地面に降り立ち、礼を言って湯飲みをひとつ取る。
 その後ろで大和守安定が急に言って、小夜左文字は思わずビクッとなった。
「どうした?」
 続けて甘酒を取ろうとした膝丸が、いきなり揺れた短刀に目を丸くする。
 ぎょっとしながら見つめられた少年は瞬時に大人しくなり、誤魔化すように首を振った。
 大袈裟に反応してしまったのは、その名前がこの場で出てくるなど、想像だにしていなかったからだ。
 文系を気取る打刀が、まさか雪下ろしに参戦しているなど、どうして気付けるだろう。
 そういうのは筋肉自慢の連中の仕事と言って、頼まれても滅多に参加しようとしないくせに。
 いかなる風の吹き回しか。純粋に驚いて、本当なのかと大和守安定を見た。
 目で訴えられた少年は緩慢に頷き、湯飲みを両手で抱きしめた。
 冷えて悴んだ指を温め、視線は軒へと流す。隣に並んだ加州清光も同意して、東の方を指差した。
「いたよ、歌仙。今夜も大雪じゃないかって、話してたとこ。ね?」
 彼らもまた、歌仙兼定が手伝いに来たのに驚いていた。甚だ失礼な感想を述べて、髭切に同意を求めた。
「大雪になられたら、困るねえ」
 だがのんびり屋の太刀は、てんで見当違いな返答を口にした。のほほんと笑って言って、青空が覗く上空に目を向けた。
 梯子を伝って降りてくる刀がなくなり、和泉守兼定もこちらに来た。ふたつ残っていた湯飲みの、縁が欠けている方をそうと知らずに取り、まだまだ熱いそれに口を付けた。
 これで残る甘酒は、あとひとつ。
「歌仙、いつからですか?」
「えー? どうだったかなあ。気が付いたら混じってた」
「之定なら、台所の方やってたはずだぜ。全然終わってないって、なんでか俺が怒られたんだけどよ」
「あははは」
 けれど屋根には、他にも数振りの刀が残っている。
 その数を調べたかったのに、頭から消し飛んだ。身を乗り出した小夜左文字に教えてくれたのは和泉守兼定で、その際のやり取りを思い出したのか、表情は不満げだった。
 自身を指差しながらの発言に、聞いていた加州清光が腹を抱えて笑い出す。
 情景は小夜左文字の脳裏にも鮮明に浮かび上がって、有り得る話と頷いた。
「すみません」
 短刀はなにも悪くないのだけれど、自然と謝罪の言葉が出た。
 恐縮して小さくなって、彼は最後の湯飲みを盆ごと差し出した。
「みんなの分も、取ってきます」
「すまねえな、走らせて」
「いえ」
 意を汲んだ和泉守兼定が、左手一本でそれを受け取った。両手を空にした小夜左文字は心持ち早口に言って、申し訳なさそうにする男に首を振った。
 雪下ろしの苦労に比べれば、これくらい大したことではない。むしろ手伝わせて欲しいくらいだが、短刀や脇差は、屋根に上がるのを禁じられていた。
 足場が悪いし、なによりも力が必要な仕事だ。短刀も決してひ弱ではないけれど、体格が小柄な分、一度に運べる雪の量が少ないのだ。
 時間との勝負でもあるので、身体は大きい方がいい。
 そういった事情で、小夜左文字は雪下ろしに混じれない。だから代わりに、こうやってあれこれ気を遣い、仲間を助ける努力を欠かさなかった。
「多めに、持ってきます。お代わり、出来るように」
「ありがとう。助かるよ」
 たった一杯の甘酒で、どこまで救えるかは分からない。
 しかし、ないよりはずっと良いはずだ。そう自分に言い聞かせて、彼は感謝を述べた髭切に頭を下げた。
 くるりと反転し、ぬかるんでべちゃべちゃの庭を駆けた。大勢が踏み荒らした結果、焦げ茶色に染まっている雪の上を飛び越えて、冷たい空気を吸い込んだ。
 見えない棘が肺に刺さって、痛い。
 白い息を吐き出して、小夜左文字は垂れ下がりかけた鼻水を啜った。
 勝手口から入ろうと決めて、玄関は素通りした。まだ綺麗に残っている雪に新しい道を作り、小さな足跡を幾つも刻み付けた。
「歌仙?」
 その途中で、ドサッ、と雪の塊が上から降って来るのが見えた。
 反射的に足を止めて、屋根を見た。しかし立ち位置が悪いのか、そこにいるはずの男は目に映らなかった。
 歌仙兼定ではないかもしれない。けれどほかに心当たりはない。
 違うかもしれないが、可能性は限りなく低い。
 十中八九間違いないと確信を得て、小夜左文字は寒さを堪え、胸いっぱいに息を吸い込んだ。
「歌仙。あ、あの。甘酒を、用意、したので。休憩、してください」
 そうして一旦肺に留めた空気を、大声と共に吐き出した。
 握り拳を作り、踏ん張って吼えた。戦場であげる雄叫びにも負けないくらい――本丸では滅多に上げない大声で、屋根の上の男士に情報を伝えた。
 万が一相手が歌仙兼定でなくとも、休息を取るのは大事だ。身体を温めてくれる飲み物は、雪下ろしに励んでいる刀たちにとって、嬉しいご褒美であるのは確かだった。
 頬を紅潮させ、言い終えてからしばらく待った。
 脇を締めて拳を胸に押し当てた短刀の耳に、応ずる声は響かなかった。
 聞こえなかったのかもしれない。ただ雪の塊は落ちて来なくなった。
 とすればちゃんと届いたと思って良さそうだが、食い入るように見つめる先に、藤色の髪の打刀は現れなかった。
「……降りに行ったのかな」
 見えないから、上がどうなっているのか、想像するしかない。
 良い方向に期待して、小夜左文字は背後を振り返った。
 和泉守兼定たちの姿も、もう見えなかった。彼らと合流し、甘酒の到着を待っていると予想して、短刀の付喪神は力み過ぎて白くなっていた手を解いた。
「急ごう」
 あまり長く待たせるのは、まずい。
 目前に迫る勝手口の戸を開けて、彼は長船派の刀たちが集まる台所に飛び込んだ。
「――――……ああ、分かったよ」
「すまんなあ。ちょっと減っちまってるが。まあ、なんとかなるだろ」
 事情を説明すれば、燭台切光忠は早速甘酒を温め直してくれた。大般若長光は空になった自前の湯飲みを置いて、戸棚から新しい湯飲みをいくつか取り出した。
 小夜左文字は先ほどより大きな盆を用意して、たっぷり注がれた甘酒入りの茶碗を並べていった。
「重いけど、大丈夫?」
「はい。ありがとうございます」
 手早く支度を済ませ、再び屋外へと戻る。
 一度目の倍近くを載せた盆はずっしり重く、気を抜くとすぐ片側に傾いた。湯呑み同士が密着しており、互いにぶつかり合って生じる波が静まることはなかった。
 燭台切光忠には平気だと言ったけれど、足場の悪い中でこれを運ぶのはかなり大変だ。
 足取りも自然とゆっくりになって、復路は往路の倍近い時間が必要だった。
 急がなければ折角の甘酒が冷めるが、急いだ所為で転んだ結果、すべてが台無しになってもいけない。
 難しい舵取りを迫られ、自然と息が上がった。全身の筋肉を酷使し、神経をすり減らして、目的地に到達する頃には疲労感でいっぱいだった。
 あともう少し距離が長かったら、力尽きて倒れていた。それくらいに疲弊して現れた短刀を、待ち構えていた男たちは諸手を挙げて歓迎した。
 事あるごとに脱ぎたがる千子村正も、この寒空の中では流石に服を身に纏っていた。飲み物を得て凛々しい顔を綻ばせて、心底嬉しそうに湯飲みを抱きかかえた。
「huhuhu、これは温まりマス」
 特徴的な口調を崩さず、早速一口すすって満足げだ。
「嬉しいねえ。いただくよ」
 亀甲貞宗も地上に降りて来ており、赤く染まった指で大事に湯飲みを受け取った。
 加州清光と大和守安定が二杯目を求め、入れ替わりに飲み干した分を小夜左文字に託す。
 和泉守兼定と膝丸は作業に戻ったのか、姿は見当たらなかった。
「あの、歌仙は」
 そして台所の屋根に登っていたはずの男も、休憩所と化した梯子の傍になかった。
 右から左へ三度確認して、恐る恐る訊ねた。心地良い熱に相好を崩していた男たちは、首を竦めておっかなびっくりな少年に嗚呼、と小さく頷いた。
「ねえ、和泉守。歌仙さん、いるー?」
 代表して大和守安定が声を張り上げ、屋根上にいるだろう男を呼ぶ。
「いやー? どこ行っちまったんだ、之定の奴」
 返事は即座にあった。悪態をつくのが聞こえて来て、事情が分からない短刀は怪訝に仲間を見回した。
 真っ先に目が合った亀甲貞宗は肩を竦め、千子村正は我関せずの構えだ。髭切はにこにこ笑うばかりで、話が通じているか甚だ疑問だった。
 仕方なく、といった風情で、加州清光が溜め息を吐いた。爪を彩る紅が禿げてしまったのを気にしつつ、一瞬だけ頭上を窺って、困惑する少年に苦笑を浮かべた。
「いたはずなんだけど。気が付いたら、居なくなっててさ」
「そうなんですか」
 癇癪持ちの打刀が、荒々しい動きで雪かきをしているのは、複数の刀が目撃していた。
 ところが和泉守兼定が休憩を勧め、呼びに行った時にはもう、歌仙兼定はどこにも居なかった。彼が働いていた痕跡は残るものの、姿は忽然と消えていた。
「雪が積もっている場所を選べば、飛び降りられない事はないしねえ」
 屋根から落とした雪は、地上で分厚い壁を作る。それを緩衝材にすれば、危ない事に変わりはないが、梯子を使わずとも移動は可能だった。
 身軽な短刀や脇差は、いつもそうやって屋根から降りている。
 自身の過去を振り返って、小夜左文字は亀甲貞宗の弁に頷いた。
 彼が勝手口から台所に入る直前、屋根の上には確かに誰か居た。短刀が甘酒を配達してくれると知らなければ、直接台所に向かったとしても、不思議ではなかった。
 梯子がある屋敷の端を経由するより、その場から飛び降りた方が数倍早い。
 遠回りする時間を惜しみ、道を急いだ。その結果、行き違ったようだ。
 頑張って用意したのに、空振りだった。ただ幸いなことに、甘酒はまだ少量であるが、台所に残っていた。
 今頃打刀はゆっくり腰を据えて、疲れた身体を癒やしているに違いない。
 まったり寛ぐ歌仙兼定を思い浮かべ、気もそぞろに足踏みした。
「これは、僕が預かっておくよ。台所、行っておいで」
「すみません。ありがとうございます」
 それを見た大和守安定が、短刀の心を見透かして手を伸ばした。
 いてもたってもいられなくて、後のことは彼に任せた。いつもなら遠慮するところだが、今日ばかりは許してもらうことにして、来たばかりの道を取って返した。
「うあ、っとと」
 勢い余って滑りそうになったのを堪え、両手を振り回した。なんとか転倒だけは回避して、薄日が差す空の下を急いだ。
 思い返してみれば今日はまだ、歌仙兼定とひと言も口を利いていなかった。
 食事時などには顔を合わせたけれど、距離があったので会話には発展しなかった。挨拶代わりの会釈だけで済ませて、それだけだった。
 屋敷の中にいても、案外すれ違うことはない。姿は見かけるけれど、数日間声を聞いていない刀剣男士だっていた。
 それくらい本丸は広く、共に暮らす仲間は数多い。
「冷たい」
 考え事をしながら走っていたら、泥水の中に足を突っ込んだ。
 飛沫が跳ねて、顔にまで飛んできた。反射的に仰け反ったが時すでに遅く、ひんやりした感触が頬から顎へと流れていった。
 手の甲で擦って落とすが、まだ貼りついている気がしてならない。とっくに乾いているのに何度も触れて、そうしているうちに勝手口が見えてきた。
 軒から垂れ下がる氷柱が太陽の光を反射し、きらきらと輝いていた。
 雪の塊は、落ちて来ない。注意深く探ってみたが、気配は感じられなかった。
「歌仙。いるかな」
 特に話したいことがあるわけではない。だが、声が聞きたかった。正面から向き合って、元気な姿を確かめたかった。
 それ以外は望まない。頑張っている彼を労って、応援できれば、それでよかった。
 だというのに。
「……出て行った?」
 外より幾分暖かな室内に顔を出した彼は、燭台切光忠から告げられた情報に愕然となった。
「うん。ゆっくりしていくようには言ったんだけど」
 歌仙兼定はやはり、梯子を経由せずに直接地面に降りたらしい。経路は分からないけれど、勝手口ではなく廊下側から台所に姿を現した。そして料理当番から事情を聞いて、すぐさま引き返していったという。
 状況的に、小夜左文字を追いかけていったと思って良いだろう。だが生憎と、その短刀は打刀が去ったばかりの台所に戻っていた。
 またしてもすれ違いだ。少しくらいじっとしていれば良いものを、どうしてこう、気忙しいのだろう。
 自分のことは棚に上げて、小柄な短刀はジタバタと地団太を踏んだ。もどかしさに唇を噛んで、遣る瀬無さに肩を落とした。
「見掛けたら、伝えておこうか?」
「……いえ。多分、まだその辺にいると思いますので」
 さすがに休みなしで三往復するのは、辛い。大般若長光の提案に頷きそうになって、小夜左文字は直前で思い止まった。
 歌仙兼定だって疲れているだろうに、あちこち探し回ってくれている。顔くらいは見ておきたい気持ちは、簡単には拭いきれなかった。
 きっと彼は屋根から降りた後、玄関に向かい、そこから屋敷に入ったのだ。
 同じ場所を目指しておきながら、別経路を選択したために、こんなことになった。
 だが幸いにも、打刀が次に向かう場所は見当がついている。
 今度こそ掴まえられる。確信を持って頷いて、小柄な少年は挫けそうな心を奮い立たせた。
「色々、ありがとうございます」
 深々と頭を下げて礼を言い、踵を返した。三度目の正直と勝手口から外に出て、吹いて来た突風にぶるっと身を竦ませた。
 ざああ、と積もった雪の表面が削られ、白い煙が西から東へと流れていく。
 そんな一瞬の雪煙にじっと耐えて、彼は静かすぎる空間に見入った。
 動くものはなかった。鳥の囀りさえ聞こえない。いつも我が城のように庭先を闊歩している鶏も、今日ばかりは飼育小屋に閉じこもって丸くなっていた。
「かせん」
 少し前まであまり意識しなかったのに、今日はひと言も言葉を交わしていないと気付いた途端、急に恋しくなった。
 飽きるくらい、顔を合わせているのに。
 積もる話がなくなるくらい、夜通し語り合ったことだってあるのに。
 たった一日で、こんなにも胸が締め付けられるように痛い。
「歌仙」
 二往復した成果で、勝手口から続く道は立派なものになっていた。
 その中を大股に、少し急ぎ気味に歩く。膝ほどの高さがある雪に無数の足跡を刻み付けて、純白の景色を次々に汚していく。
 出来上がった黒い道は、彼の辿って来た境遇そのものだ。
 ふと振り返り、小夜左文字は蛇行する轍に目を眇めた。
「歌仙は、綺麗だから。僕が汚してはいけないって、分かってるけど」
 血腥い逸話を有しながら、歌仙兼定は美しい。たとえるなら大輪の花であり、穢れを知らない白銀の雪原そのものだ。
 どうしてこれを、黒く穢してしまえよう。
 近付いてはいけない。だが魅せられた。彼と語らい、共に在ることで、暗く沈んだ小夜左文字の景色は色鮮やかなものへと生まれ変わった。
「僕は、……歌仙」
 ずっと素通りして来た玄関が、目前に迫っていた。戸は閉まっており、誰かが出入りした形跡は窺えなかった。
 意気込んで台所を出たのに、ここに来て躊躇した。
 顔を見たかったはずなのに、気後れして、腰が引けた。作業の邪魔をしては悪いと、変な遠慮が生じて、どんどん大きく膨らんだ。
 会いたいのに、会ってはいけないという想いに縛られた。復讐に固執する、呪われた短刀が傍に居ては、本丸最古参として皆を率いている歌仙兼定の障害になると、そんな考えに囚われた。
 疲労もあって、足が止まった。全身が凍てつき、氷の柱と化した気分だった。
 このまま立ち尽くしていたら、いずれは雪に埋もれて、真っ白になれるのではないか。
 馬鹿な妄想が湧き起こり、賭けてみたくなった。
「お小夜」
「……はい」
 けれど、雪は降らなかった。
 代わりに降ってきた声におずおず顔を上げて、小夜左文字は泥混じりの雪を踏む男に頭を垂れた。
 玄関を開けっ放しにして、歌仙兼定がこちらにやってくる。後で怒られるのは確実なのに、まるで気にする様子がなかった。
 小走りに駆け寄って、まるで雪にはしゃぐ子犬だ。爛々と目を輝かせて、頬ば緩みっぱなしだった。
 短い距離をあっという間に詰めて、肩を数回上下させた。上気する頬を擦り、真っ白い息を大量に吐き出して、弾む鼓動を静めているのか、左胸に手を添えた。
「良かった。会えたね」
「はい」
 満面の笑みを浮かべ、心からの感想を述べる。
 そこに嘘偽りがないのを肌で感じ取って、小夜左文字は自然と頬を緩めた。
 直前まであった逡巡が、ぱらぱらと砕けて消えていくのが分かる。核の部分は残っているものの、居心地が悪くなったのか、奥深い場所に逃げて行った。
 彼を穢したくはない。だが、彼が望んでくれるのなら、傍にいても許されるのではないか。
 図々しい考えがむくりと首を擡げた。打刀の優しさに甘えているという自覚はあるけれど、誰かに必要とされる、という状況を捨てきれなかった。
「雪下ろし、お疲れ様、です」
 わだかまっていた様々な感情を捻じ伏せて、囁く。
 小声を拾った男は嬉しそうに頷いて、得意になって胸を張った。
「まあね。僕にかかれば、これくらい、どうということはないさ」
 偉そうに言って背筋を伸ばし、間を置いてちらりと短刀を窺い見た。
 いかにも褒めて欲しそうな態度を嗅ぎ取って、小夜左文字は相変わらずの男に肩を竦めた。
「はい。とても、……立派です」
「だろう。だろう?」
 畑仕事も馬当番も嫌がるくせに、今日は珍しくやる気を出した。自発的な行動を賞賛してやれば、歌仙兼定は調子に乗り、誇らしげに胸を叩いた。
 身に着けた防寒具の裾は汚れ、袖口も濡れて、色が変わっていた。動いている最中に解けるのが嫌だったのか、首に巻いた襟巻きは背中側で結ばれていた。
 長い指は先端だけが赤く、他は白い。氷のように冷えているのは、傍目からもすぐに分かった。
「歌仙、すみません。甘酒は、置いて来てしまいました」
 早く彼にも、温かな飲み物を供してやりたかった。しかし肝心の甘酒は大和守安定に託し、手元になかった。
 沢山用意して持って行ったので、まだ残っていると信じたい。それとも台所に戻って、僅かに残っている分を飲み干してしまうのも悪くなかった。
 距離的には、どちらを選んでもそう変わらない。
 胸の前で指を擦り合わせた短刀の言葉に、歌仙兼定は目を眇め、考え込むかのように顎を撫でた。
 人差し指の背で輪郭をなぞり、視線を一旦宙に投げた。
「そうだねえ」
 相槌を打ちはしたものの、ぼんやりしており、心此処に在らずの雰囲気だ。
 よそ見されて、視線が交錯しない。一時は落ち着いていた不安がまたむくむく膨らんで、足元から短刀を飲みこもうと蠢いた。
「いや、いいさ」
 それを薙ぎ払い、打刀が軽やかに言った。狙っていたわけではなかろうが、小夜左文字を覆う暗雲を忽ち消し去って、春の木洩れ日を思わせる笑顔を浮かべた。
 そして汚れるのも構わず、その場で膝を折った。軽く屈み、目線の高さを短刀に合わせると、スッと伸ばした右手で小振りの顎を掬い取った。
 全ての動作が繋がって、滑らかだった。悩んでみせたのも演技では、と思わせる澱みのない仕草で、呆気に取られる少年の眼差しを奪った。
 至近距離からじっと見つめて、逸らすのを許さなかった。
「か……――んっ」
 瞬きさえさせてもらえないまま凍り付いていた短刀は、直後。
 唇を襲った微熱に竦み上がり、五右衛門風呂にでも放り込まれたかのように真っ赤になった。
 一瞬で茹で上がり、頭の先から煙を噴いた。
「ふふ」
「な、あ……ああ!」
 その過剰なまでの反応を笑い、歌仙兼定がしてやったりと微笑む。
 余裕綽々の態度に愕然として、小夜左文字は握り拳を唇に押し当てた。
 擦りたいのに、動けない。
「これで、充分温まったからね」
 絶句している短刀を見下ろし、打刀が姿勢を正した。悠然と微笑み、小首を傾げ、悪戯っぽく言って目を細めた。
 この場合、温まったのは小夜左文字の方ではなかろうか。
 不意打ちに等しい口吸いに、良いように踊らされた。
 時間が経っても赤みが消えない頬を唇の代わりに強く擦って、短刀は恨めし気に歌仙兼定を睨みつけた。

2018/02/10 脱稿

たゆみつつ橇の早尾も付けなくに 積りにけりな越の白雪
山家集 529