黎明

 東の地平線からようやく、太陽が頭を少し覗かせようとしている。まだ空の頂点は薄暗いが、徐々に明るさを帯び始めた山並みが遠くで輝いている。
 凛として、真っ直ぐに張り詰められた糸のように鋭い空気が満ち、人間も、動物も、未だ多くが寝静まり音もなく静かな時間帯。
 この時間が、一日の中で一番好きだと、思う。
 人が少ない時間帯は、深夜でもそうだけれど(最近は夜中も騒がしいが)、薄靄がかかる空を見上げ徐々に白み明るくなっていく景色の変化を見られる分、やはり朝が一番だと思う。
 雲雀恭弥は自宅の門前に出て、日中の喧騒とは無縁の町並みを眺めていた。白のカッターシャツに黒のベスト、左腕にはベストと同色の腕章をつけている。やはり濃い色のネクタイをきちんと歪ませずに結び、腕組みをしながら無表情に仁王立ちしている姿は、初見の人間にとっては不気味かつ言い表しにくい恐怖感を与えてくれる。
 下手に顔立ちが精悍かつ整っているだけに迫力は倍増で、見た目通り口を開けば毒舌が飛び出し、情け容赦ない攻撃を加えてくる様は近隣に十分な程知れ渡っている。
 彼はその己が生まれた時から持ち合わせた、肉体的、精神的力を存分に発揮して今の場所に立っている。
 緩やかに明るくなっていく東の空、一台の古びたトラックが音を響かせてゆっくりと走り抜けていく。運転手はこんな早い時間から襟を正した服装で出歩いている若者を珍しそうに眺め、そのまま目的地へと去っていた。そんな運転手の不躾な視線など一顧にもせず、彼は黒髪をなびかせて坂道を静かに下る。
 黒のスラックスに、ローファー。足音は極力立てない、背筋を伸ばした歩き方は教本そのまま。よく躾けられていると、彼の本性を知らぬ近隣の早起きなお年寄り達は感心しながら朝の散歩を続ける。
 彼の爪先は幾つかの角を曲がり、進み、再び曲がって、住宅地へと。彼が暮らす高台の閑静な一帯とは違って、開発された土地に並ぶ建売一戸建ては、小さいながら庭もあるけれど、別宅まである彼の自宅には遠く及ばない。
 肩を寄せ合うようにしてようにして建てられたパッとしない外観の家と、味気ない灰色の塀を左右に眺めつつ、彼は更に歩を進める。
 最初に歩き出した時から歩調は殆ど変わっていない。急ぐでもなく、ゆっくり過ぎるでもない、自分の体調を考えて最も疲れない速度を保っている。
 常に自分の能力を最大限発揮できるように、普段はセーブしながらも力を持て余すことはしない。鈍らせることもしない。鋭い視線は地平の彼方まで突き刺すように真っ直ぐ目の前を見据えている。
 視界を地面で塞がれるのは、彼にとって屈辱以外の何物でもない。彼はいつだって、前を、そして上を見ている。
 もう数えていない数の角を曲がり、漸く目的地が見えてくる。
 朝もやは晴れ、太陽も気づけばすっかり登り切った後だ。数区画先に聳える一戸建て住居から、明るい茶色の髪をした小柄な少年がちょうど、玄関を出て門柱を潜り抜けようとしている。後ろには彼の家庭教師を自認する赤ん坊が続く。
 更に少し遅れて、眠そうに目を擦る、恐らくはまだ半分以上意識が夢の中にあるだろう子供がふたり、笑顔が似合う女性に抱きかかえられるようにして続いている。
「修行、頑張ってね~」
 おおよそ現代の中学生に向けて放たれる母親の言葉とは思えない応援を受け、昼食らしき荷物を渡された少年が、しょげ返るように肩を落とす。彼の肩に軽い身のこなしで飛び乗った赤ん坊が、早く行くぞとばかりに彼の長い癖っ毛を引っ張った。
「痛い、痛いってばリボーン」
 それが赤ん坊の名前なのだろう。力任せに髪を弄られ、既に泣き出しそうな顔をして少年が悲鳴を上げた。
 自宅に逃げ帰ろうにも玄関前にはにこやかな笑顔の母親が盾となって道を塞いでいる。肩に乗る赤子にも逆らえない。彼は渋々、重い足取りで歩き出した。
 まっすぐ、こちらへと。
 手近な壁に左肩を預け、腕を組みなおして彼を見据える。なにやら騒々しく赤ん坊へ非難めいた声で言い返し、漸く髪の毛から手を離してもらえた彼の表情は優れない。俯き加減の視線は雲雀の姿を視界に納めてはいないようだ。先に、おおよそ実年齢とは考え方も行動もそぐわない赤子がそこに立つ存在に気づく。
 つぶらな、と世間一般では表現するのであろう黒い眼で、瞬きもせずじっと彼を見返し、その真意を探ろうとしているようだ。
 ここ数日の、退屈しない騒がしい日々は恐らくあの赤子と、赤ん坊を肩に置いて未だ諦めがつかないのか、ぶつぶつと足元を見ながら小言を零している少年の周囲が原因だろう。中学校を賑わせていた一部の連中が、時同じくして姿を見せなくなったという話も聞く。
 トラブルメーカーが来なくなって中学は静かな事この上なく、平和であるのは風紀委員長である雲雀にとって喜ばしいことであるが、その風紀委員長自らがどうやら嵐の前の静けさの真っ只中に、己が意思とは関係なく巻き込まれているらしい。連日の屋上での死闘は、ここ暫くの平穏さから薄れ掛けていた闘志を燃え滾らせてくれて、わくわくする。
 今も十分楽しいが、この先何が起こるのか分からない底知れぬ闇が目の前に広がっている、その感覚に背筋が震える。恐怖ではなく、武者震いが止まらない。
 乾いた唇を舐め、時を待つ。ゆっくりと歩いてくる茶色い髪の少年が、今頃になってやっと雲雀の存在に気づいたようだ。出しかけた右足がピクリと反応を示し、前に進むことなくその場に落とされる。
 頭ひとつ分小さな、小柄な少年。彼に殴り倒された時の屈辱は未だ拭えぬままだ。
 彼のこのか弱き身体のどこに、あんな力があるというのか。時折垣間見せる強い意志が、その源であるというのならば。
 彼が突き進むだろう闇の道は、彼自身がともし火であるとでも?
 あの金髪の男が妙な事を言っていたが、言われずともこんな面白いゲームを自分から投げようなど思わない。退屈なのだ、平凡すぎる世界は。眠くなる。
 夜明け前、そして夜明けに感じる凛とした、突き刺さるような冷気を帯びた空気。あの緊張感の中に晒される自分が良い。生温い太陽の下でお気楽に暮らそうなどと、考えたこともない。
 群れるのは嫌いだが、巻き込まれてやるのはこの際目を瞑ろう。
「あ、えっと……」
 早朝から出会うとは思っていなかった相手と遭遇した事実に、戸惑いを隠せない彼が何か言いたそうで、言葉が思い当たらないらしい。
 困惑に彩られた表情は、それはそれで怯えた子兎を思わせて噛み付きたくなる。
 泳いだ視線が左右に揺れ、肩に乗る赤子は真っ直ぐにこちらを見つめる。その落差に笑みを零しつつ、口元を隠した人差し指を軽く前歯で噛んだ。
「せいぜい、僕以外の誰かに噛み殺されないようにね」
 噛んだ箇所を舌でなぞり、元から細い目を細めて語りかける。
 蛇のようだと誰かが揶揄した瞳に見据えられ、やっと正面から雲雀を見据えた彼は途端、惑っていた瞳に力を込めた。キッと唇を引き結び、腹の底から力を入れたと分かる目つきで見上げてくる。
 その根拠のない自信か、或いは決意か。そういったものが混在する瞳を向けられるのも、嫌いじゃない。
 胸の奥でざわざわと野生の獣が蠢いている感覚、今すぐにでも彼の首元に牙を立てて生暖かな血を啜ってやりたい。狂気にも似た感覚に指先が震え、喉が鳴った。
 そのときだ。ふっ、と強張った周囲の空気を撫でるような声が踊る。
「そうですね」
 胸元に落とされた彼の視線、幼さが残る横顔を、虚を突かれた様に見下ろす。
「でも」
 再び、持ち上がった視線。射抜くように、瞳を向けて。
「負けませんから」
 静やかな街中を騒々しく駆け抜けていくタクシー。排気ガスを撒き散らして去っていった背中を恨めしげに見送り、再び彼に目を向ける。
 僅かに咳き込んで顔を背けている姿は年相応のいつもの彼そのままで、先ほどの心臓を鷲掴みにされた全身が震えるような感覚はどこにも残っていない。
 彼はマフィアの跡継ぎだという話も聞くけれど、なるほどと頷きたくなった。
 尚更、楽しみが増す。
「行くぞ、ツナ」
 茶色の毛先を引っ張り、馬を操るが如く少年を促して赤子が割って入る。不機嫌に顔を顰めた雲雀に向かい、にっと分かりにくい笑みを浮かべ、
「油断してっとお前も寝首をかかれるぞ」
「ご忠告、痛み入るね」
 腕組みを直し、嫌味に嫌味で対応する。
「じゃあ、あの、雲雀さん。また」
 彼がどこで何をしにいくのか詳しくは知らないが、あちこちに見える擦り傷の後が大体の事情を教えてくれる。あの母親の放った言葉からも容易に察しがついた。
 あの傷口が塞がらぬ間に、傷を重ねて化膿したりしなければ良いが。
 ふっと、そんな思いが胸をよぎる間に、彼はぺこりと頭を下げて小走りに駆け出した。風が流れ、見えない残り香が雲雀を包む。
 次会った時は、傷薬と絆創膏を用意しておこう。
 彼の小さな背中が角を曲がって見えなくなるまで待って、雲雀も歩き出す。
 今日はどんな戦いが待っているだろう。どれだけ苦しい戦いであっても、構わない。きっと自分は勝ち残る。
 
 あの瞳を濁らせる輩は、全て地に伏す。
 そしてあの瞳に映し出されるのが、自分だけになれば良い。
 

 貫くべきものは、敵か、自分か。
 陽光は地表を照らし、闇を隠した。