深き心の ほどは知られめ

 冷えた空気が鼻先を掠めた。
 息を吸えば、一瞬で熱が奪われた。凍えた気管に噎せかけて、奥深くに沈んでいた意識が激しく揺れ動いた。
 棍棒で思い切り頭を打たれた気分だ。
「ううう」
 喉の奥で低く呻いて、小夜左文字は布団の中で大きく身じろいだ。
 踵と肩で体重を支え、一瞬だけ背中を浮かせた。仰け反り、弛緩していた筋肉に電流を走らせて、瞼を開くと同時に重い腕を持ち上げた。
 額に掛かる髪を掻き上げて、確保した視界で辺りを窺う。
 そこが良く知る天井なのを確認して、彼は力の抜けた体躯を布団に横たえた。
「朝、じゃ、ない」
 瞬きを数回繰り返しても、目の前が明るく染まることはなかった。一番鶏が鳴き、東の空から太陽が顔を出したわけではないと知って、驚愕と落胆に眉を顰めた。
 時計がないので現在時刻は分からないが、部屋の外が静まり返っているところからして、丑三つ時を過ぎた辺りか、もう少し経った辺りと思われた。
 空が白々とし始めるのは、当分先だ。
「むう」
 こんな真夜中に目覚めて、嬉しいはずがない。
 仕方なく寝直そうとして、彼は無意識のうちに左側を探った。
 仰向けから横向きに姿勢を変えて、あるべき熱を求めて手を伸ばす。
 しかし求めた温もりは失われ、蠢かせた指はいずれも空回った。
 掴むものを見つけられず、柳のように細い腕が布団の中を彷徨った。上に、下に何往復かさせても、目当てには行き当たらなかった。
 思い切り肘を伸ばしたところで、指先に触れるものはない。
「あれ」
 さすがに可笑しいと疑念を抱き、短刀の付喪神は闇の中で目を凝らした。
「歌仙?」
 遠慮がちに呼びかけ、改めて室内を見回した。
 けれど応じる声はなく、気配すら感じられなかった。
 どこへ行ってしまったのか、姿が見えない。
 眠りを妨げられた原因に思い至って、小夜左文字はもそもそと上半身を起こした。
 肩からずり落ちた寝間着を引き上げ、気だるさを残る肉体を叱咤した。仄かに暖かい布団を撫でて、室内を支配する冷えた空気に小鼻を膨らませた。
「どこに」
 ぽつりと零すが、勿論返事はない。
 三角に折り畳んだ膝に顔を寄せて、小柄な少年は音の響かない空間でじっと丸くなった。
 自身の呼吸を数え、耳を澄ませた。厠に出ているならすぐに戻ってくると期待したが、床を踏みしめる足音は聞こえてこなかった。
 注意して観察すれば、衣紋掛けにあった綿入りの上着が消えている。寒さをしのぐべく用立てられた一品は、裾が長く、表は茶色で地味ながら、裏一面には紅白の牡丹が艶やかに咲き乱れていた。
 外からは見えないところに意匠を施し、これが粋だと笑っていた。
 大輪の牡丹の絵柄を見せびらかし、得意げに胸を張っていたのを思い出して、小夜左文字は布団から足を引き抜いた。
「世話の掛かる」
 あの男のことだ。きっとどこかで、夜に濡れた光景に目を奪われているのだろう。
 風流な景色を前にしたら、歌仙兼定は動かない。時間を忘れて、月星の彩に見とれているに違いなかった。
 それはそれで構わないが、なにぶん夜も遅い。
 しかも気温は下がる一方だ。刀剣の付喪神である彼らは風邪を引くことなどないけれど、寒さで体調を崩すことは、ままあった。
 身体の関節が硬くなって、思うように動けなくなる。
 明日の畑当番に支障が出ては困るのだ。そう言い訳をして、小夜左文字は枕元にあった自身の上着を掴み取った。
 衿を広げ、袖を通した。膝小僧まで包み込む褞袍は何枚もの布を縫い合わせて作られており、模様は一定ではなかった。
 紺絣の隣に千鳥模様、その向こうには縞模様。
 使い古しの布を集めて作ったものであるが、様々な色や文様が混ざることにより、貧乏臭さは失われていた。
 たっぷり綿を詰め込んで、もこもこに膨らんでいた。胸元の紐を結んで隙間を潰して、彼は皺くちゃの掛け布団を軽く整えた。
 戻ってきた時すぐ眠れるようにしておいて、障子を開く。
「寒い」
 その直後、冷風に鼻っ面を叩かれて、小夜左文字は爪先立ちで竦み上がった。
 咄嗟に自分自身を抱きしめて、足元から駆け上がってきた悪寒を耐えた。全身に鳥肌が立ち、一瞬で鼻が詰まった。まるで冷えた空気を体内に取り込むのを拒むかのように、息を吸えば、ずび、と音がした。
 体温があっという間に奪い取られ、しかも簡単には戻ってこない。
「止めようか」
 迎えに行こうと決めた矢先に、心が折れた。
 屋外で長時間過ごすのは、歌仙兼定自身の判断だ。無理矢理連れ戻されるのも本意ではなかろうから、放っておくのが親切だった。
 どうせそのうち、帰ってくる。
 それまで布団に包まって、ぬくぬくと過ごそう。なんなら朝が来るまでもうひと眠りしても、文句は言われまい。
「……あれ」
 だが引き返そうとした彼を、頭上で瞬く星が引きとめた。
 すい、とか細い輝きが藍色の闇を撫でた。あ、と思う前に視界から消えた光に、踵を下ろした少年は目を丸くした。
「流れた」
 時間にして、ほんの一秒足らず。
 ぼんやりしていたら見逃してしまうような、微かな光の軌跡を確かめて、小夜左文字はぶるりと身を震わせた。
 それは寒さから来るものではなかった。呆気に取られて口をぽかんと開いている間にも、またひとつ、一瞬の煌めきを残して星が流れた。
 空気は澄んでおり、静かだった。
 誘われるまま軒先に進み出て、短刀は開けっ放しの口を閉じた。
 飲みこんだ空気は、仄かに熱を帯びていた。興奮に四肢が戦慄き、鼓動が速まるのを抑えられなかった。
「すごい」
 紺色に染まる夜空を、数えきれないほどの星が埋め尽くしていた。
 昼ほどの明るさはないけれど、足元を十分に照らしてくれていた。
 数百、数千の星が連なり、太い筋となって天を走っていた。川の流れのように緩やかに蛇行して、その周辺にも細かな光が散りばめられていた。
 白っぽい輝きだけでなく、赤や、青に見える星もあった。ひと際強い輝きの周囲に小さな煌めきが集まって、さながら鍛練中に飛び散る火花のようだった。
「ああ、また」
 唖然としながら見上げている間に、またひとつ、星が天を駆けた。
 気付いて目で追いかけようとした時にはもう、スッと闇に溶けて消えてしまう。身を乗り出しても間に合わず、願い事を唱えるなど、どだい無理な話だった。
「そうだった」
 流れ星を見かけたら、消えるまでに三回願い事を唱える。見事成し遂げられたら、願いは叶う。
 そういう話が、古くから言い伝えられてきた。けれど瞬き一回にも満たない時間で、どうやって三度も繰り返せというのだろう。
 そもそもすぐ消えてしまう光に託したとして、祈りが通じる保障などどこにもない。
 根拠のない、まやかしだ。
 馬鹿げたことに時間を使ったと苦笑して、小夜左文字は緩くかぶりを振った。
 外に出た目的を思い出し、疲れ始めていた首を戻した。正面に向き直り、左右を確認して、見慣れた顔が紛れていないか調べた。
 短刀がいくら暗闇に強いとはいえ、慣れないうちは遠近が掴みづらい。特に暗色は区別がつきにくく、樹影に重なられたらお手上げだ。
「殺気でも放ってくれたら、分かりやすいのに」
 夜更けに部屋を抜け出した男が戻らない理由が、よく分かった。
 これなら足を止めたくなるのも仕方がない。次々流れ落ちる星々に納得して、小夜左文字は目を眇めた。
 自然と緩む口元を意識して引き締め、じっとして動かない影を順に探った。
 気配を殺し、忍び足で廊下を行く。だが縁側に佇む男は見当たらず、もっと範囲を広げるべきか悩み始めた矢先だった。
「いた」
 ふっと脇に流した視線の先で、それらしい輪郭を発見した。
 歌仙兼定は、建物と建物の間に作られた、小さな庭の中にいた。屋根が頭上を覆う場所ではなく、真上を観察するのに充分な環境に身を置いていた。
 茶色の外套で肩を覆い、両手は布の内側に隠していた。不定期に白い息を吐き出して、一心不乱に上空を眺めていた。
 すぐ傍で自身を見る刀があると、まるで気付く様子がない。
 それだけ夢中になっていた。
 戦場では鬼神の如き強さを発揮する打刀も、この時ばかりは子供の顔に戻っていた。
「歌仙」
 邪魔をするのは悪いと思えたが、折角来たのだから黙って引き返すのも惜しい。
 三度呼びかけても振り向かなければ諦めることに決めて、小夜左文字は吐息に混ぜてそっと囁いた。
 気付いて欲しいような、気付かないでいて欲しいような。
 絶えず揺れ動く天秤を胸元に掲げて、少年はピクリともしない男の影に目を細めた。
 首を横に振り、鼻を啜った。面映ゆげに首を竦めて、今度は声に出さず、唇だけ動かした。
 は、と息を吐き、大きく開いた口を横長に窄め、最後に閉じる。
 音には出さず、心の中で「歌仙」と呼びかけたところで、当然相手に届くわけがなかった。
 案の定、歌仙兼定は無反応だった。冷たい風に怯むことなく立ち向かい、明滅を繰り返す星の終焉を逃すまいと、決死の覚悟で空に挑んでいた。
 そこに水を差すような真似が、どうして出来るだろう。
「あまり遅くならないでください」
 これくらい熱心に、畑仕事に取り組んでくれたら嬉しいのだが。
 そんなことをふと思って、小夜左文字は冷えて赤くなった頬を擦った。
「かせん」
 彼を探しているうちに、こちらもすっかり冷えてしまった。
 乾いてカサカサしている指を擦り合わせて熱を呼び、少年は掠れる小声で名を呼んだ。
 これで、合計三度。
 振り向かない男に視線を投げて、無人の部屋に戻るべく、踵を返した。
「お小夜?」
「――!」
 その瞬間に、呼び止められた。
 不意打ちにも程があるひと言に騒然となって、小夜左文字は驚愕に染まった眼を後方に投げた。
 寸前まで全く反応していなかったくせに、どうして分かったのか。にわかには信じ難く、幻聴を疑って、受け止めきれない現実に四肢を竦ませた。
 だが歌仙兼定は、ちゃんと彼の方を見ていた。惚けた顔で目を瞬いた後、ぱあっと満開の花にも負けない笑顔を浮かべた。
 彼の周囲だけ、急に明るくなった気がした。
 天から注ぐ星明かりがそこに集中し、打刀を照らす幻を見た。
「お小夜。はは、どうしたんだい。こんなところで」
「それは、……こっちの台詞です」
 彼が動く度に、きらきらと光が舞った。
 あまりの眩しさに尻込みして、小夜左文字は歌仙兼定から顔を背けた。
 合間にぼそりと言って、恐る恐る様子を窺う。
 打刀は特に気にする様子もなく駆け寄って、軒下から短刀に向かって身を乗り出した。
「それより、お小夜。見てごらん。凄いことになっているよ」
 冷気を長時間浴びた影響か、彼の肌は雪のように白かった。しかし頬の中心部だけは鮮やかな紅色に染まって、興奮に心が沸き立っていると教えてくれた。
 早口に捲し立てて、言うが早いか手を伸ばした。戸惑う小夜左文字の手首を攫って、力任せに引っ張った。
「危ないです」
「早く」
 思わず抵抗してしまい、つんのめった。力負けして転びそうになったのを堪えて、爪先立ちで縁側の端から背筋を伸ばした。
 残る手も打刀に差し出し、迎えに来た腕と胸に凭れかかる。
 慣れた仕草で抱き上げられて、ふわっと甘い香りが漂った。
 衣や髪に焚き染められた香が、鼻腔を掠めた。特徴ある匂いは短刀の胸にスッと染み込んで、緊張を和らげるのに役立った。
 茶色の外套の表面は冷えていたが、すぐに気にならなくなった。膝を軽く曲げて、踝から先を男の腰に擦りつける。膝の裏に回り込んだ左腕に支えられて、不定期に揺れる椅子を確保し、ほうっと息を吐く。
 太く逞しい首に抱きつけば、頬同士がぶつかった。
 ヒヤッとする感触は固く、凍り付いているのでは、と危惧するほどだった。
「どれくらいいたんですか」
「探させてしまったかな」
 小夜左文字が部屋を出て、まだそれほど経っていない。
 それでもこんなに冷えている男を懸念していたら、何故だか嬉しそうに笑われた。
 彼が寝床を抜け出しさえしなければ、中途半端な時間に目を覚ますことはなかった。夢さえ見ず、朝までぐっすり眠れたに違いなかった。
 ただその場合、次々に流れては消えていく夜空の星を仰ぐことはなかった。
「迷惑です」
 どちらが良かったか、結論は出ない。
 すぐそこにある男の耳朶目掛けて熱風を吹きかけて、華奢な短刀は口を尖らせた。
「すまなかったね」
 拗ねているのは形だけと、見透かされていたようだ。歌仙兼定の謝罪には、あまり心が籠もっていなかった。
 紙よりも薄く、軽い言葉に眉目を顰め、暖を求めて男の頸部に擦り寄る。
 猫の子になってゴロゴロ喉を鳴らした彼を笑い、骨太の打刀は背筋を伸ばした。
 首をやや後ろに傾けて、天頂を仰ぐ。
「あそこ」
 指差す代わりに右腕を揺らされて、背中で振動を受け止めた少年は仕方なくそちらに目を向けた。
 教えられた流れ星は、消えた後だった。
 墨を塗りたくったような暗い空で、星々だけが明るい。
「今度はこっちだ」
「うわ」
 いつ落ちるか分からない星を待っていたら、別方向を向いていた男が、抱きかかえた短刀を思い切り揺さぶった。
 急にガクン、と振り回されて、驚いた。
 遠くへ放り投げられる恐怖を覚えて萎縮して、小夜左文字は両腕にぎゅっと力を込めた。
「苦しいよ、お小夜」
「うるさいです」
 それが結果として、歌仙兼定の首を絞めることになった。喉を圧迫され、頚椎を折られる危険を感じた男に責められて、短刀は自業自得だと頬を膨らませた。
 前触れもなく動き回るから、悪いのだ。
 ひとりきりで佇んでいるのとはわけが違うと訴えて、安全運転を要請した。
「……悪かったよ」
 膝から先をぶらぶらさせて、男の腰骨を数回蹴る。
 一度や二度ならまだいいが、五度も、六度も繰り返されて、さすがの歌仙兼定も降参だと白旗を振った。
 今度は本当に申し訳なさそうにして、小柄な体躯を抱え直した。落とさないよう腕の配置を少しだけ変えて、許して貰おうとしてか、短刀の額に鼻先を擦りつけた。
 甘えた仕草で肌を重ね、一瞬だけ唇を添えて離れていく。
「歌仙は知ってたんですか」
「ん? なにをだい?」
「星が、こんなに」
「ああ」
 すぐには消えない微熱を意識の片隅に留め、小夜左文字はもぞりと身じろいだ。
 打刀の肩から視線を上に転じ、右から左に駆け抜けた光の軌道を瞳に焼き付ける。
 ほんの僅かな時間だけ、他のどの星よりも眩しく輝き、そして呆気なく燃え尽きた。しかしここに居るふた振りの記憶には、星々の刹那の瞬きが永遠に刻まれた。
 これまでにも何度か、いくつか見たことはあった。
 けれどここまで、大量ではない。ひとつ、またひとつと、息きつく暇もなく天を駆け巡る軌跡に酔いしれ、寒さを忘れるほどだった。
「知っていたわけでは、ないけれど」
 歌仙兼定が深く息を吐き、呟いた。
 短刀にも空が見え易いよう抱き方を変えて、小ぶりの尻を両腕で支えた。交差する二本の手首を椅子代わりにして、華奢な少年は右腕だけを男の首に残した。
 左手は自身の胸に添え、衿を掴んだ。喉元から入り込もうとする冷気を追い返し、鼻が詰まった状態で、ずび、と息を吸い込んだ。
「偶然ですか?」
「いや。主がそういう話をしていたのは、覚えていたから」
 近いうちに流星群が見られると、何かの折に小耳に挟んだ。
 具体的な日どりは、記憶になかった。しかしそう遠くない時期というのだけは、鮮明に覚えていた。
 半分が必然で、半分が偶然だ。たまたま夜中に目が覚めて、流星の話を思い出し、様子を見に出て、戻れなくなった。
 もしこの件を思い出さなかったら、彼は部屋を出たりしなかった。上着一枚を羽織り、寒空の下で満天の星を見上げることもなかった。
 なにか目に映らないものに導かれたと言われたら、信じてしまいそうだ。これは天啓、と大袈裟に語られたとして、真っ向から否定するのは難しかった。
 それくらいの奇跡だった。
「夜更かしも、たまには悪くないな」
「早起き、では?」
「んん、そうなるのかな?」
 感嘆の声を漏らした男に、短刀がそれは違うと疑問を呈する。
 指摘を受けた歌仙兼定は小首を傾げ、数秒としないうちに思考を放棄した。
「また流れた」
 そんな事はどうでも良いと、ふっと掻き消えた光に目を細めた。
 つられて視線を持ち上げて、小夜左文字も頬を緩めた。
「凄い量です」
 こんなにも沢山の流れ星を、ひと晩のうちに見たことがない。知っていれば粟田口の短刀たちや、長船派の刀たちも、眠い目を擦りながらこの時間まで起きていただろうに。
 なんと贅沢な時間か。
 宝石箱をひっくり返したかのような無数の輝きを瞼の裏に刻みつけ、短刀は左手を天に伸ばした。
 届くわけがないと知りながら、掴み取ろうと指を蠢かせた。流れ行く星に向かって、ここに落ちて来い、と願った。
「そういえば、お小夜は知っているかい?」
「なにをですか」
「流れ星が瞬く間に、三度願い事を言えたら、叶うと」
 落ちない程度に暴れていたら、歌仙兼定も動きに合わせて身体を揺らした。それにより短刀の起こす振動を相殺して、姿勢を維持した。
 ゆりかごに転がされている気分を堪能して、小夜左文字は緩慢に頷いた。星空から打刀の顔に焦点を移し、不敵に口角を歪めた。
「知らないと思いますか?」
 それしきの知識、当然有している。
 馬鹿にするなと睨みつければ、男は声を上げて笑った。
「それもそうだね」
 愚問だったと反省して、彼は深呼吸して肺を冷やした。赤くなっている鼻の頭を慰めてやれば、驚いた風に短刀を見た。
 触れた位置が位置なだけに、目潰しを真っ先に警戒したようだ。それが杞憂だと知って即座に安堵して、強張りを解き、気恥ずかしげにはにかんだ。
 寒さにやられたのだろう、頬以外だとそこが際立って赤い。
「お小夜の鼻も、赤い」
 そろそろ部屋に戻った方がいいかと悩み、言い出す機を探っていた。
 男の鼻を撫でながらぼうっと考えていたら、その手を押し退け、男が首を倒した。
「だからって、齧ることはないでしょう」
「はは」
 がぶり、とはいかないけれど、前歯で表面を削られた。
 生温い唾液が瞬時に冷えて、寒さを覚えた短刀は仕返しに右手で打刀のうなじを抓った。
 とはいえ男の首の肉は薄く、皮には張りがあった。摘もうにもあまり伸びてくれず、攻撃としては弱かった。
 さしたる痛みを与えられず、損をした気分だ。歯型が残っている気がして撫でて確かめるが、それらしき窪みには行き当たらなかった。
 歌仙兼定は愉快だと声を響かせ、最後にふっ、と表情を緩めた。
「お小夜は、なにを願う?」
 真っ直ぐ目を見て問いかけられて、鼻ばかり気にしていた少年は瞳だけを上空に向けた。
「そんなもの、決まってます」
 掌に息を吹きかけ、悴む指先を温めた。
 この胸に渦巻く黒い感情を、どうやれば消せるだろう。いつになれば、どれだけ待てば、夢にまで見る復讐を果たせるだろう。
 本当に叶うのだとしたら、願うはそれひとつのみ。
 ほかにはなにも要らなかった。
「そう」
「歌仙こそ、なにを願いますか」
 迷うことなく言い切った短刀を、歌仙兼定は複雑な表情で見つめた。眇められた眼は彼の心の内を雄弁に語っていたが、小夜左文字は敢えて気付かない振りをした。
 無視し、問い返す。
 茶器に花器に掛け軸と、見た目に寄らず浪費家な男は、意地悪い眼差しにムッとして、そそくさと顔を背けた。
「そんなもの、決められるわけがないだろう」
 小夜左文字とは正反対の返答を口にして、小鼻を膨らませた。
 欲しいものがあり過ぎて、決めきれない。
「お金ですか?」
 ならばその欲しいもの全てを集めきれる財力があれば、彼は満足か。
 続けざまの質問に、歌仙兼定は苦虫を噛み潰したような顔をした。
 奥歯をカチカチ噛み鳴らし、鼻の孔を膨らませた。言いたいことがあるけれど、上手くまとめきれない、という雰囲気で短刀を睨んで、ぐっと仰け反り、直後に顔を伏して首を振った。
 目の前で藤色の髪が揺れた。
 鼻先を擽られて、小夜左文字は出そうになったくしゃみを堪えた。
「ふ、しゅっ」
 咄嗟に手で口を塞ぎ、息を止めた。
 それでも防ぎ切れなくて肩を震わせた彼を見詰めて、歌仙兼定は小さな身体を抱きしめ直した。
「戻ろうか」
 外套の袖で短刀を包み込んで、寒さから守りながら囁く。
 頭上では相変わらず星々が瞬き、流れ、消えていったが、最初に見た時ほどの感動は得られなかった。
 爪先の感覚が遠くなり、冷気が身体の内側にまで侵食していた。息を吹きかけた程度では、指先に血の気は戻らなかった。
「歌仙」
 大事に包み込まれて、男の体温が微かに流れ込んで来る。
 赤い鼻から息を吐いて、小夜左文字は探るような眼差しを投げ返した。
 打刀は願い事を語らなかった。億万長者になる夢には頷かず、言葉を濁し、誤魔化した。
「台所に寄っていこうか。温かいものが欲しい」
「そうですね」
 話題を変えて、縁側へと戻った。履いていた共用の草履を脱いで、ひんやり冷えた床板の感触には「ひゃっ」と小さく悲鳴を上げた。
 首を竦めて縮こまった彼につられ、小夜左文字までビクッと身を固くする。
「……ふ」
「はは」
 数秒が過ぎてから間近で顔を見合わせて、どちらともなく相好を崩した。
 凝ったものは作れないが、湯を沸かし、茶を煎れるくらいは出来るだろう。種火は保管されているから、炭に火を点けるのにもさほど手間取らない。
「酒粕があったかな。甘酒というのも、悪くないな」
「温まりそうです」
 自他ともに認める料理上手の打刀が、目下の台所にある食材を頭の中に並べて、候補を挙げる。
 聞いているだけで不思議と熱を覚えて、小夜左文字は穏やかな振動に頬を緩めた。
 抱き上げられたまま廊下を運ばれ、間もなく空が見えなくなる。次、今宵のような流星群を見る機会が来るかどうかは、誰にも分からなかった。
 直前になって名残惜しくなり、闇に目を凝らした。白い息を吐き、首を伸ばして、後方に意識を傾けた。
 そんな少年の祈りに応えるかのように、すうっと、鮮烈な光が軌道を描いた。
「――!」
 それは他の流れ星よりもずっと眩く、強く輝いていた。
 細長い軌跡を残し、地上に向かって真っすぐ突き進んでくる。
「歌仙。かせん、かせん!」
「ええ?」
 ほんの一瞬で終わってしまうはずの流れ星が、この時だけは違っていた。
 発作的に打刀の衿を掴んでいた。力任せに引っ張って、小夜左文字は台所を目指す男を引き留めた。
 急に首を絞められて、歌仙兼定が怪訝に眉を顰めた。興奮に頬を紅潮させた短刀をその場に認めて、小首を傾げ、スッと闇に溶けて消えた星の名残に息を呑んだ。
「見えましたか?」
 最後の瞬間だけだったが、辛うじて見えた。
 どの星々よりも力強い輝きを放って、その星は建物の屋根に迫り、直前でふっと消滅した。
 地上に落ちたのではないかと、そんな風にさえ思えた。
 瞬きしている間に終わる大多数の流れ星と違い、発光している時間は圧倒的に長かった。
 珍しいものを見た。
 寒さを吹き飛ばして息巻く少年に、歌仙兼定は相好を崩した。
「綺麗だったね」
「はい」
「ところで、お小夜」
「はい?」
「今、三回……言った?」
 率直な感想を言い合い、ふとした疑問を呈されて眉を顰める。
 なんのことかすぐに分からなくて困惑し、沈黙した短刀は、そこから一秒としないうちにハッとして、藍色の髪をぶわっと逆立てた。
「そういうのじゃ、ないです!」
 流れ星が消える前に三度願えば、それは叶う。
 確かに小夜左文字はあの強い光が瞬く間に、歌仙兼定の名前を三回繰り返した。
 だがそれが、いったいどんな願いになると言うのだろう。彼はすでにここに居て、短刀の体躯を抱き上げ、愛おしそうに見つめているのに。
「なんだ。違うのか。僕の代わりに、願ってくれたんだとばかり」
 静かになった星空を眺め、男が囁く。
 残念そうに告げられた台詞を奥歯で噛み砕いて、小夜左文字は数回に分けて飲みこんだ。最後にふっ、と短く息を吐いて、甘える仕草で逞しい肩に擦り寄った。
 頬を寄せ、目を閉じた。
「まだ足りないんですか?」
 長い時を経て、不可思議な巡り合わせで再会を果たした。
 ひとつ屋根の下で暮らし、戦場では互いに背中を預け合った。
 これほどの贅沢はなく、これ以上の幸いは思いつかない。
「欲張りだからね」
 耳元で紡がれた問いかけに、歌仙兼定がさらりと言い返す。
 男は歩みを再開させた。華奢で軽い体躯を大事に、大事に扱って、光の届かない場所へと運んで行った。

思ひ余り言ひ出てこそ池水の 深き心のほどは知られめ
山家集 雑 1241

2018/01/07 脱稿