中空にのみ ものを思ふかな

 玄関先が騒がしい。
 人、ならぬ男士が押し合いへし合いしている光景を遠目に確認して、山姥切国広は眉を顰めた。
「なんなんだ、これは」
 第一部隊が出陣先から帰って来た、というような物々しさはなく、遠征部隊が戻ってきた晴れ晴れしさもない。多くの刀剣男士が我先にと詰め寄って、なにかを奪い合っている雰囲気だった。
 混雑に弾き飛ばされた包丁藤四郎が、金切り声を上げて喚いている。
 耳障りな高音に眉間の皺を深め、金髪の打刀は碧眼を細めた。
 屋内だというのに風を感じて、飛んで行かないよう目深に被った布を引っ張った。小さく開いた穴を通して様子を窺って、賑わいの中によく知った顔を見つけて首を捻った。
「兄弟?」
 広々とした玄関の片隅に、黒髪の脇差が真剣な顔で立っていた。顎に手を置き、一点を見詰めて、集中している様子だった。
 その前方では太刀に打刀、短刀といった面々が集い、身を屈め、中腰状態を維持していた。
 包丁藤四郎がその中に強引に割り込んで、押し出された乱藤四郎が迷惑そうに悲鳴を上げた。
「ちょっと。危ないでしょ」
「うるさい。俺の、お菓子は、どこだあ~?」
 背後から突き飛ばされ、倒れそうになった短刀がすんでのところで踏みとどまった。
 大声で叱られても反省せず、甘いものが大好きな少年が懸命に腕を伸ばす。それを乱藤四郎が邪魔して、殺伐とした空気が強まった。
 放っておけば、粟田口同士で喧嘩が始まってしまう。
「ええと、はい。あった。包丁君のは、これかな?」
 それを止めたのは、堀川国広だった。急に膝を折って屈んだかと思えば、積み上げられた大量の箱からひとつを選び、半泣き状態の短刀に差し出した。
 にこやかな笑顔と共に渡されて、包丁藤四郎は惚けた顔で目をぱちぱちさせた。脇差の顔と手元を数回見比べて、表面の記述を確認し、やがてコクリと頷いた。
「俺の、お菓子」
「そっか。よかった。あ、乱君のはこれかな?」
「そう、それ。よかった~。潰れちゃわないか、心配だったんだ」
 驚きを隠せないまま呟いた短刀の次に、乱藤四郎へも別の箱を差し出す。
 膨れ面だった少年は途端にぱあっと目を輝かせ、嬉しそうに飛び跳ねた。
 他の刀剣男士にも、堀川国広が手際よく引き渡していく。
 山盛りだった荷物が見る間に減って行き、同時に人垣ならぬ刀垣も解消された。
 ごった返していた空間が、すっかり静かになった。
 玄関から外に出るのも、随分と楽になった。見晴らしが良くなって、その分遠くからも山姥切国広の姿が分かるようになった。
「あ、兄弟」
 ひと段落ついたと汗を拭っていた脇差に、存在を気付かれた。
 爽やかに呼びかけられて、無視して通り過ぎることも出来ない。仕方なく、彼は足裏を床板から引き剥がした。
 数歩で距離を詰め、まだいくつか残っている大小の箱を上から眺める。
「これは、万屋からのか」
「うん。注文が立て込んでるとかで、配達が遅れちゃったんだって」
 掌に載る大きさのものから、両手で抱えなければならないものまで、様々だ。表面にはこの本丸の主である審神者の名前と、商品名を記した札とが並んで貼り付けられていた。
 とはいえ、全て審神者が注文したものではない。これは単に、配達先を示す住所のようなものだ。
 商品名の札の横には、小さいが発注者の名前も書きこまれている。但しこれを判読するのは、かなり近くまで寄らないと難しかった。
 なかなか届かない荷物に焦れていた面々は、配達が来たとの報せに浮き足立っていた。自分の注文したものはどれか、分からないまま山を崩して、更なる混乱を引き起こした。
 堀川国広が居なかったら、今も荷物を探す刀剣男士で混雑が続いていたはずだ。
 六畳ほどある式台は箱で埋まり、足の踏み場もなかったろう。
 割れ物だってあるかもしれないのに、乱暴に扱って、中のものが粉みじんになったらどう責任を取るつもりだったのか。
 後先考えない仲間に肩を落とし、騒動が早々に終息したのに安堵する。
 布の上から頭を撫で、吐息を零した山姥切国広を見上げて、堀川国広は箱の位置をいくつか入れ替えた。
 残ったのは、出陣などで屋敷を留守にした刀たちの依頼品。
 そして屋敷にいるけれど、面倒臭がって取りに来なかった刀の注文品だ。
 不在の刀と、そうでない刀とで大雑把に分けて、そこから更に細かく分類していく。
 どういう基準で選別しているのか気になって見つめていたら、脇差の少年は小首を傾げ、不思議そうに目を細めた。
「兄弟も、なにか頼んでた?」
「え? あ、いや。俺は、特には」
 彼は届けられた荷物の一覧に山姥切国広の名前があったか探り、記憶を辿って顰め面を作った。
 必死に思い出そうとしている兄弟刀に驚いて、思わぬ誤解を受けた打刀は慌てて否定した。
 両手を胸の前で振り回し、そうではないと頭を掻いた。ずり上がった布を引っ張って元の位置に戻して、顔を背け、顔の火照りが収まるのを待った。
「その……手伝うこと、とか。あるか」
 玄関まで出て来たのに、格別な理由はなかった。単に近くを通りかかったら騒がしかったので、様子を見に来ただけだ。
 頼まれていた風呂掃除は終わった。後は夕餉まで、急ぐべき用件はなにもなかった。
 言ってしまえば、暇だった。この後は誰とも約束していない。かといって部屋でぼうっと過ごすのは寂しく、つまらなかった。
 心の中で言い訳を並べ立て、屈んでいる脇差の前で膝を折った。
 恐る恐る布の下から前方を探れば、堀川国広はぽかんと開いた口を閉じ、ひと呼吸してから深く頷いた。
「うん。お願いしてもいいかな?」
 そうして嬉しそうに声を弾ませ、握り拳を作った。肘をバタバタ上下させて、勢いよく鼻から息を吐いた。
「あ、ああ」
 気まぐれで言ったことなのに、ここまで喜ばれるとは思っておらず、勢いに圧倒された。
 安請け合いするのではなかった、とほんの少し後悔したが後の祭りだ。こちらが惚けている間に、堀川国広はぱぱっと両手を動かした。
 大きい箱に小さい箱を、塔になるよう順に積みあげる。
「これ、配達してきてくれると助かるな」
 最後に厚手の袋をひとつ追加して、打刀の方へ押した。
 もっとも崩れては困るので殆ど力は入っておらず、幅一寸も動いていなかった。だが、ずすい、と巨大なものが迫ってくる感覚に見舞われて、山姥切国広は目を瞬いた。
「配達?」
「取りに来なかったひとたちの分ね、ここに置いておくわけにもいかないし。お願いしてもいいかな」
 鸚鵡返しに呟いた彼に、脇差は箱の横から身を乗り出した。両手を合わせて可愛らしく頭を下げて、上目遣いに訴えた。
「そういうことか」
 遠慮がちの依頼に、山姥切国広は小さく頷いた。
 万屋の配達は終わっているのに、何故また配達か、と疑問に思った。そういう意味ではなかったと悟って、床に着けていた膝を起こした。
 確かに、玄関脇に大量の荷物が置いてあるのは問題だ。出入りの際に邪魔で仕方がない。
 最終的な届け先が分かっているのであれば、持って行ってやるのが親切だろう。一方で遠征に出ている連中の分は、ここに置いておけば、帰還時に自分で持って行くはずだ。
 それで脇差は、出陣組と居残り組とで荷物を選り分けていた。
 納得だと膝を叩いて、打刀は高く積み上げられた箱を両手で抱きかかえた。
「気を付けて、兄弟」
「分かってる」
 一番下になっていた箱の角を掴み、上に重ねられた分もまとめて持ち上げた。倒れそうになったのは胸で受け止めて、最後に紙袋を引き取った。
 堀川国広が差し出した持ち手を、右人差し指と中指に引っ掻けた。おっとっと、と崩れかけた姿勢をどうにか維持して、宛先を調べようと最上段の箱を覗き込んだ。
「明石さん、膝丸さん、燭台切さん、大般若さん、小狐丸さんで、一番下が三日月さんだよ」
 だが目で見て確かめる前に、横からすらすら諳んじられた。
 小さめの箱をいくつか抱きかかえた脇差は、唖然とする兄弟刀の眼差しに、屈託なく微笑んだ。
「よろしくね」
 どういう記憶力をしているのか、驚かざるを得ない。
 出陣組かそうでないかに加えて、刀種別でもちゃっかり分けていたらしい。太刀の荷物ばかり任されたと、山姥切国広は後になって気が付いた。
 一方の脇差はといえば、短刀や脇差の荷物ばかりらしい。
 手にする箱の大きさからして全然違っていたが、手伝うと自ら言い出した手前、交換を申し出るのは憚られた。
「ちゃっかりしている」
 そもそも小柄な脇差に、大きい荷物を運ばせるのは心苦しい。
 ここは手伝いを買って出て正解だった。そうやって自分で自分を慰めて、彼はよろめきつつ、鈍い一歩を踏み出した。
 最初は軽く感じていた荷物も、移動距離が長引けば腕が痺れてくる。早く片付けることにして、教えられた太刀らの部屋を目指した。
「……ふう」
 いくつも角を曲がり、廊下を進んで、階段を上下した。時に行き過ぎて慌てて戻ったが、偶々通路で遭遇するという幸運にも恵まれて、配達は案外あっさり終わりそうだった。
 大般若長光は不在だったので、部屋の前に袋ごと置いて来た。
 動かす度にカチャカチャ固い音がしたので、中身は瓶だろう。あれが一番重く、運ぶのに苦労させられた。
「般若湯って、……酒のことだったか?」
 袋の表面に貼られていた商品名を思い出して呟き、首を捻る。
 記憶はおぼろげで、断言できるほど強い根拠があるわけではない。
 憶測で決めつけるのは宜しくないと頭を切り替えて、山姥切国広は残った荷物に視線を移した。
「あとは三日月と、小狐丸か」
 比較的大きめの箱と、小さめの箱がふたつ。どちらも重さはさほどではなく、最初に比べれば随分と腕は楽だった。
 片方には煎餅詰め合わせとの印があり、もう片方は手入れ道具、と注意書きがあった。小さい方が小狐丸の荷物で、大きい方が三日月の手配したものだ。
「あいつらの部屋は、こっちだったな」
 片手でも楽々抱えられる荷物を手に、分かれ道で右を選んだ。
 本丸内は度重なる拡張工事の影響で、色々な場所に部屋が分散していた。ちょっとした迷路であり、山姥切国広でさえ、時折道を間違えた。
 ここに暮らして長い打刀でさえそうなのだから、新入りの刀は一旦部屋を出ると、自室に戻るのも容易ではなかった。その為廊下のあちこちに矢印が貼られ、その先に住まう刀剣男士の名前が随所に書き込まれていた。
 あまり訪れることのない一画に足を踏み入れ、合っているかどうか不安になった。
 緊張気味に顔を強張らせて、山姥切国広は『三条』と書かれた部屋の札を睨んだ。
「小狐丸、三日月。いるか。山姥切だ」
「おお、これはこれは。少々お待ちを」
 悪戯好きの太刀が妙な細工をしていないか心配したが、杞憂だった。
 呼びかけに応じた声は小狐丸に間違いなく、返事にあった通り、程なくして内側から襖が開かれた。
 長く白い髪を背に流し、獣じみた顔つきの男が姿を現した。寒さを感じていないのか鍛えられた腕を晒し、素足だった。
「なんですか、こぎつねまる。あ、やまんばきりではないですか。どうかしたんですか?」
 その後ろからは愛らしい少年声が響き、遅れてひょこっ、と今剣が顔を出した。左右で微妙に色が違う瞳を爛々と輝かせ、大きな箱を手にしている打刀に向かって首を伸ばした。
 興味津々な眼差しに気圧されて、山姥切国広は半歩後退した。両名との距離を僅かに広げて、ハッと我に返って持っているものを軽く揺らした。
「万屋から、荷物だ」
 ここは玄関からかなり離れているので、あの大騒ぎも届かなかったようだ。
 なんのことかと訝しんでいた太刀は暫く黙った後、思い出したらしく、嗚呼、と両手を叩き合わせた。
「そういえば、確かに。わざわざご足労、痛み入ります」
 自分で注文しておきながら、忘れていたらしい。
 曇っていた眼を途端に煌めかせて、彼は上にあった小さい箱を迷わず手に取った。
「なんですかー?」
 今剣の興味の対象が即座にそちらへ移り、見せろとばかりにぴょんぴょん飛び跳ねた。太刀の服を掴んで引っ張って、行儀が悪いことこの上なかった。
 しかし当の男は慣れているのか、意に介する様子はなかった。鋭く尖った爪で包装を破ると、中に入っていた柄付きの櫛を取り、嬉しそうに顔を綻ばせた。
 手入れ道具と書かれていたが、中身は髪を梳くものだった。
 刀や防具を磨くものとばかり思っていただけに、意外だ。
「おお、これは良い。早速主様に梳いていただかねば」
 予想外の品が出て来て、驚いた。
 呆気に取られている打刀の前で、小狐丸は自身の髪で梳き心地を試し、満足そうに首肯した。
「山姥切殿、ありがとうございます」
 潰した箱を小脇に抱え、今剣を押し退けながら頭を下げる。
 荷物を届けただけでここまで感謝される覚えはなくて、山姥切国広はしどろもどろに捲し立てた。
「いや。礼には及ばない。それより、三日月はいないのか」
 彼の手元には、箱がまだひとつ残っていた。
 これを依頼主に渡さない限り、仕事は終わらない。けれど覗き見た部屋の中には、それらしき人影はなかった。
「みかづきだったら、おさんぽですねー」
 天下五剣の筆頭に数えられる太刀を探していたら、下から答えが飛んできた。
 身体を左右に揺らし、少しもじっとしていない短刀の言葉に目を丸くしていたら、櫛を左手に持ち替えた太刀が利き手を差し出した。
「どれ。渡しておきましょう」
「そうか。すまん、頼んだ」
 代わりに受け取っておくと言われて、断る道理はない。
 三条派に属する刀は、皆この大部屋で暮らしている。彼らに預けておけば、いずれ戻ってきた三日月宗近に渡るだろう。
 安請け合いした仕事も、目出度く終了だ。無事やり遂げられたとホッとしていたら、背伸びをした今剣が、なにを思ったか脇から割り込んできた。
「あっ」
 猫を真似てひょいっと腕を出し、箱の底を叩いた。
 衝撃で山姥切国広の手から箱が浮き、小狐丸も突然のことに慌てて利き手を伸ばした。
 双方が捕まえようとして、お見合いになった。目が合った瞬間仰け反って、互いが揃って譲り合った。
 一瞬のことだった。
 咄嗟に肘を引いた打刀の前で、足元に沈むはずだった箱がサッと掠め取られた。
「うわあ、おせんべいですねー?」
「今剣!?」
「やったあ。おせんべい、おせんべい」
「こら!」
 横から奪い取った今剣が、中身を知って高く跳び跳ねた。ぎょっとする山姥切国広を無視して嬉しそうにはしゃぎ回り、三日月宗近宛ての荷物だというのに、勝手に梱包を剥ぎ取ろうとした。
 表面を覆う畳紙に爪を立て、糊付けされている部分を引き千切った。
 ビリッと紙が裂ける音に騒然となり、打刀は大急ぎで短刀から箱を奪い返した。
「なにするんですかあ」
「それはこっちの台詞だ」
 力技で取り戻し、頭の上に掲げて距離を作った。
 今剣からは抗議の声が聞かれたが、強気に言い返して、一部が破れて中身が見えている箱に肩を落とした。
「これは、三日月の荷物だ」
 宛先に指定された太刀は、不在にしていた。
 同部屋の太刀が引き受けてくれるというから、安心して任せた。それを勝手に開封し、中身を出すなど言語道断だ。
 この様子では、三日月宗近に断りを入れる前に煎餅の一枚か二枚、或いはもっと大量に、食べられてしまう。
 配達を引き受けた手前、見過ごせなかった。
「でも、どうせみんなでたべるんですよ?」
 空になった両手を振り上げて、今剣は不満顔だ。楽しみを邪魔されて憤慨し、ぷんすか煙を噴いていた。
 そんな彼の言い分も、分かる。三条派の刀剣男士は仲がいい。三日月宗近もきっと、先に食べられたからと言って、眉を吊り上げ怒ることはなかろう。
 それでも山姥切国広は、許せなかった。己が胸に秘める正義感が、短刀の横暴ぶりに反発していた。
「だったら俺が、三日月に訊いてくる」
 彼らに煎餅を預けることは出来ない。
 ならば取るべき手段はひとつしかなかった。
「えええー?」
 一分の迷いもなく言い切った打刀に、今剣は面白くないと口を尖らせた。
「随分と真面目であらせられる」
「そういうのじゃない」
 小狐丸は呆れ気味だったが、特に反対はしなかった。
 苦笑混じりに言われ、山姥切国広は顔を背けた。布の端を抓んで引っ張って、一旦この場を辞そうとして、一秒後に三条の刀を振り返り見た。
 踏み出そうとした足もさりげなく戻し、廊下の真ん中で棒立ちになる。
 赤く染まる顔を布で隠した青年を見守っていた太刀は、やがてなにを気取ったか、にやりと口角を持ち上げた。
「三日月でしたら、恐らくはあちらに」
「……恩に着る」
 髭の無い顎を撫で、笑いを押し殺した声で告げる。
 自分から切り出せずにいた打刀は素早く頭を下げ、踵を返した。廊下は走るな、という決まりを律儀に守って、気忙しく脚を交互に動かした。
 後ろで小狐丸が腹を抱えている気配を感じつつ、振り返るのは避けた。我ながら情けないと耳まで朱色に染めて、山姥切国広は教えられた道を突き進んだ。
 三日月宗近に直接渡しに行くと決めたは良いが、肝心の太刀の居場所が分からない。
 本丸は庭や畑を加えるとかなりの広さを誇り、当てずっぽうで探し回ったところで、見つけられる保証はなかった。
 そして山姥切国広は、三日月宗近が行きそうな場所に心当たりがない。
「引き受けるんじゃなかった」
 最後の最後で、思わぬ罠が待ち構えていた。
 堀川国広とのやり取りを心底悔やんで、彼はふわりと香った微かな匂いに顔を上げた。
 冬場だというのに、春を思わせる香りだった。
「梅……?」
 どこかで嗅いだことがある気がして、しかし具体的には思い出せない。
 適当に、思いつく花の名前を口ずさんで、彼は誘われるまま視線を泳がせた。
 縁側の左手には、小規模な庭園があった。四方を建物に囲われており、光と風の通り道を確保すべく設置された、横長の空間だった。
 その立地上、背の高い木々は植えられていない。せいぜい肩に届く程度で、枝が伸びすぎないよう定期的に剪定されていた。
 本丸の大座敷から眺める庭は落葉樹が中心な為、この時期は寒々とした様相を呈していた。しかしここでは艶やかな緑が生い茂り、一瞬だけ現実の季節を忘れさせた。
 梅ではなかった。
「あれは」
 咲いていたのは、雅やかな紅色の椿だった。
 肌寒い季節にも拘わらずふっくらした緑の葉を従えて、凛とした表情を見せていた。足元には南天の実が、こちらもまた美しい緋色を奏でていた。
 生命力豊かな色艶に誘われて、思わず身を乗り出す。
 その際、両手で抱えた箱のことをうっかり忘れた。するり、と指先からなにかが滑り落ちる感触で、慌てて我に返った。
「うあ、あっ」
「ん?」
 焦ってお手玉した彼の声に、反応する気配があった。無事確保して冷や汗を拭った打刀の斜め前方で、木陰に屈んでいた男が首を伸ばした。
 明日にでも花が綻びそうな蕾を撫でて、曲げていた膝をゆっくり伸ばした。袴の皺を払って整え、狩衣の裾を指で弾いた。
「山姥切ではないか。どうした?」
「え!」
 夜明けを匂わせる藍色の瞳を眇め、三日月宗近が先に声を上げた。
 まさか探している刀の方から呼びかけられるとは、夢にも思っていなかった。手元に集中していた青年は大袈裟に驚き、わたわたしながら左右を見回した。
 大きめの箱をしかっと抱きしめて、布の所為で視界が阻害されていると遅れて気付き、必要以上に激しい動作で首を振った。
 揺れ動く布の隙間から中庭を見やり、先ほどまでいなかったはずの刀剣男士に目を丸くする。
 不思議そうに見つめ返されて、山姥切国広はかあっと顔を赤らめた。
「あ、い……やっ、その。おっ、お前に。荷物だ」
 不意打ち過ぎて、心構えが出来ていなかった。
 三日月宗近といえば、天下五剣の筆頭だ。数多存在する刀剣の中でも最上位に位置し、多くの刀工たちのあこがれの存在でもあった。
 国広の最高傑作と呼び声が高い山姥切国広でさえ、彼を前にしたら緊張せざるを得ない。
 急に現れられたのにも動揺して、声が変に裏返った。
 もう少し言い方というものがあるだろうに、口調もぶっきらぼうで、愛想がなかった。庭に佇む太刀に箱を突き出し、早く受け取るように促す所作も、随分と横暴だった。
「荷物。はて。なにかあったか」
 もっとも三日月宗近は、特別機嫌を損ねたりしなかった。小狐丸と似たような反応を見せて、思い出せないらしく、首を僅かに傾けた。
 長い指を顎に添え、探るようにじっと見つめられた。
「万屋から、だ。煎餅と、書いてある」
 それで言葉が足りなかったと思い至り、急ぎ必要な情報を追加する。
 この頃には幾ばくか冷静さが戻っていた。少しは落ち着いて対応が出来たと、山姥切国広は密かに自画自賛し、頬を紅潮させた。
 重くない箱を上下に揺らし、間違いないかと確認を求めた。
 それでも三日月宗近は心当たりがないのか、長い時間をかけて視線を泳がせ、俯いて停止した。
「ああ!」
 そこから更に十数秒が過ぎた辺りで、ようやく両手を叩き合わせた。
「そういえば、そうであった。ははは、俺のだな。間違いない」
 沈黙に不安を覚えた山姥切国広を嘲笑うかのように、調子良く言って、歩き出した。南天の枝を避けて袖を持ち上げ、植物の隙間を縫うようにして進み、沓脱ぎ石の上に立った。
 草履を脱ぎ、静かな所作で縁側に上がった。立ち尽くしている打刀に笑顔で近付いて、無邪気に両手を差し出した。
「すまんな」
「いや。構わない」
 にこにこしながら礼を告げ、大振りの箱を引き取る。
 そこで包装の一部が破れていると知り、怪訝な顔で視線を戻した。
「それは、すまない。今剣が」
 月夜を抱く太刀の眼は、酷く魅惑的だ。
 その瞳に映る価値が、自分にはない。先ほどの失態を思い出して後悔に喘ぎ、山姥切国広は額に掛かる布を思い切り引っ張った。
「俺は止めたんだが、間に合わなくて。悪い。お前への荷物を守れなかった」
 表情を隠し、三日月宗近の顔も見なかった。俯いて自分の足だけを視界に入れて、自分自身の情けなさに奥歯を噛んだ。
 呻くように謝罪して、深々と頭を下げた。
 罵倒を覚悟してぎゅっと目を閉じ、罰を受ける覚悟で返事を待つ。
「なあに、これはどうせ破く物だ。それより、部屋に寄ったのか。それをわざわざ、探して」
 ところが太刀は、怒るどころかあっさり受け入れた。
 今剣が破いた箇所から梱包を剥ぎ取り、その場に膝を突く。不要になった畳紙は小さく畳んで脇に置き、銀色の、金属を薄く加工した箱の蓋を両手で開けた。
 中身はちゃんと、煎餅だった。
 ぎゅうぎゅうに詰め込まれ、隙間さえない。散々振り回されたというのに、一枚も割れていなかった。
 味が違うのか、色合いが微妙に異なるものが四種類。運び歩いている時は一切感じなかった香ばしい匂いが、蓋を外すと同時にふわりと周囲を漂った。
「今剣が、勝手に食べても困るだろう」
「構わんよ。それに、俺ひとりで食べるものでもないしな」
「ぐ」
 堀川国広が買ってくる安物の煎餅と、似ているようでどこか違う。
 いかにも贈答用の高級品な匂いを嗅ぎ取って、山姥切国広は小さく呻いた。
 よかれと思って取った行動が、ここでも裏目に出た。今剣に言われたのと同じことを三日月宗近にも告げられて、とことん空回っている自分が恥ずかしかった。
 精一杯気を遣ったつもりが、やらなくて良い努力だったと教えられ、哀しかったし、悔しかった。
「どうせ俺は、写しだからな……」
 やることなすこと、巧く行かない。
 たまらず愚痴を零していたら、足元からぬっと何かが伸びて来た。
 布に覆われた視界で、膝先に突き付けられた。丸くて平たいその正体が何か、咄嗟に理解出来なくて、山姥切国広はぎょっとなって後ずさった。
 その流れの中で顔を上げれば、三日月宗近と目が合った。バチッと火花が散ったような衝撃を受けて、彼はたたらを踏み、仰け反った。
「なっ、なんだ!」
 口元を腕で覆い隠し、唾を飛ばして喚く。
 見苦しい姿を見せた打刀を笑いもせず、優美で名高い太刀は嫣然と目を細めた。
「なに。届けてくれた礼だ」
 山姥切国広がなにに動揺しているかを探りもせず、のほほんと言って、煎餅を顔の横で揺らしてみせる。
 緊張感など欠片も有していない男に絶句して、金髪の青年は碧眼をパチパチさせた。
 あれこれ考え過ぎて頭がいっぱいだったのが、ぽんっ、と泡のように弾けて消えた。全てがどうでも良く感じられて、四肢を支配していた力みが一気に抜け落ちた。
「なんなんだ、お前は」
「三日月宗近という。うちのけが多い故に――」
「……もういい」
 立っていられなくて、その場でガクリと膝を折った。崩れるようにしゃがみ込み、布から右目だけを露出させ、眼前の男を睨んだ。
 それでも三日月宗近は飄々として、ひとを食ったような台詞ばかり吐く。
 真面目に相手をしてやるのが馬鹿らしくてならず、山姥切国広は深々と息を吐いた。
「食べるか?」
「食べる」
 脱力していたら、再度訊かれた。
 差し出された煎餅を鳶のように奪い取って、打刀はひと口、焦げ色のついた表面を齧った。
 バキッと、小気味の良い音がした。歯で押さえ付けたのとは違う場所が割れて、平らな満月は大きくふたつに分かれた。
 断面から細かな滓が零れ落ち、膝や床に散らばっていく。それを軒下へと払い落として、山姥切国広は結構な固さの煎餅を噛み砕いた。
「美味いな」
 表面には醤油が塗られていた。それが火に炙られて、丁度良い味わいに仕上がっていた。また細かく刻んだ海苔が貼りつけられており、微弱ながら触感に変化が生まれていた。
 癖になりそうな味だ。
 残っていたもう片割れも頬張った彼に、三日月宗近は嬉しそうに頷いた。
「そうか、そうか」
 太刀自体は煎餅に手を伸ばさず、美味そうに食べる打刀を眺めるだけだった。
 箱の中にはまだまだ大量に詰め込まれており、一日や二日で片付きそうにない。今剣が多少つまみ食いしても、本当に問題ない数量だった。
「あんたは食わないのか」
「俺は茶がないと、固いものはな」
「ああ。爺さんだもんな」
「うむ」
「……すまん」
 ただあまり長時間放置すると、湿気ってしまう。
 自分ばかりが食べるのは申し訳なく感じていた山姥切国広は、何気なく続いた会話に数秒してからハッとして、薄汚れた布ごと顔を押さえつけた。
 口の中に残っていた煎餅を飲みこんで、あまりにも失礼千万な発言に青くなる。
「ん?」
 だが三日月宗近は気付いていないのか、突然黙り込んだ青年に首を傾げた。
「どうかしたか?」
 きょとんとしながら見つめられて、返す言葉が見つからない。
 答えられずにいたら、焦れた太刀が膝立ちで擦り寄って来た。煎餅の箱を押し退け迫り、臆して逃げ腰になる打刀を捕まえ、斜め下から覗き込んだ。
 ふわっ、と鼻腔を甘い匂いが掠めた。
 梅かなにかと勘違いした香りの発生源を今更悟って、山姥切国広は掴まれた手首を激しく振った。
「は、なせ。失礼を言ったのは詫びる。だから」
 三日月宗近の眼は、綺麗だ。その美しい輝きに、写しである自身の姿が映し出されるのが、どうしようもなく恥ずかしくてならなかった。
 山姥切の本歌であれば、きっと並びあっても遜色ない輝きを放つのだろう。
 ふとそんな情景を思い浮かべて、彼は締め付けられるような胸の痛みに息を呑んだ。
 背筋が粟立ち、全身の産毛が逆立った。ゾワッと来る悪寒に襲われて、湧き起こる熱を抑えられなかった。
 内臓が沸き立ち、心拍数が上がった。
 頭の中が茹で上がり、地上にいながら溺れている気分だった。
 握られているところが熱い。
 軽く掴まれているだけで、やろうと思えばいつでも振り払えた。だのに重なった部分から硬化していくようで、抵抗はじわじわと弱まった。
 鉛と化した腕を膝に落とし、無垢な眼差しに臍を噛む。
「あんたを、爺さんと……」
「ああ、なんだ。そんなことか。よいよい。俺が爺なのは、間違いないからな」
 顔を背け、蚊の鳴くような声で呟く。
 三日月宗近は直後にぱっと手を広げ、山姥切国広を解放した。
 朗らかに言って、屈託なく笑った。なにが面白いのか呵々と声を響かせて、唖然としている打刀の肩を叩いた。
 事実をありのままに受け入れているのが窺えた。本作長義の写しとして存在することに劣等感を抱き、鬱々としたものを振り払えずにいる刀とは大違いだった。
「あんたは、……凄いな」
「ん?」
「なんでもない。荷物は渡した。もう行く」
 素直に感嘆し、天下五剣の偉大さを痛感すると同時に、自己の卑小さを思い知った。
 長居するとまた要らぬ感情が湧き起こって来そうで、それも恐ろしい。まだ鳴り止まない鼓動を耳の奥で数えて、彼は膝を起こし、立ち上がった。
 布の位置を微調整し、踵を返そうとしたところで、煎餅の箱に蓋をした太刀をもう一度見た。
 目が合ったが、火花は散らなかった。
「いつでも訪ねて来い。今度は美味い茶も合わせて、部屋でゆっくりもてなそう」
「ああ」
 両手で箱を抱えた太刀が、嬉しそうに囁く。
 安請け合いかと思いつつ、山姥切国広は頷いた。

初雁のはつかに声を聞きしより 中空にのみものを思ふかな
古今和歌集 恋一 481