いはけなかりし 折の心は

 長閑な昼下がりだった。
 天気が良く、風は少し強めだった。気温は高めながら、茹だるような暑さは度々吹く風が、随時遠くへ運び去ってくれていた。
 昼餉が終わり、めいめいに寛いでいるところだった。本日の出陣は午前中に一度だけで、午後からの予定は組まれていない。第四部隊が遠征に出ているくらいで、大半の刀剣男士が屋敷で過ごしていた。
 道場からは勇ましい声が響き、台所からは八つ時の甘味を作る、甘い匂いが漂っていた。
 嗅いでいるだけで腹が空く。今日の当番は燭台切光忠なので、珍しい異国の菓子が堪能出来そうだった。
「まったく、忌ま忌ましい」
 ところが隣に座す刀は、この香りに不快感を示した。嫌そうに舌打ちして、嗅ぎたくない、とばかりに顔の前で手を振った。
 空気を撹拌して、別のものと混ぜて誤魔化した。もっともこの場に漂う匂いで、焼き菓子の香ばしさに勝るものなど、ありはしないのだけれど。
「そう毛嫌いせずとも、良いのでは」
 隻眼の太刀は元主の趣味もあり、料理が好きで、異国かぶれのところがあった。何につけても格好良さを優先し、男らしさを求める短刀たちからは絶大な支持を集めていた。
 伊達藩ゆかりの刀とは特に親しくしているが、人当たりが良いので、他の刀剣男士からも好かれていた。
 そんな太刀に敵対心を隠さない打刀に、小夜左文字は小さく溜め息を吐いた。
 肩を竦めて囁き、様子を窺ってちらりと盗み見る。
 歌仙兼定は不機嫌の度合いを強め、むすっと口を尖らせていた。
「お小夜まで、あんな奴の味方をするのか」
「燭台切光忠さんは、良い方です」
「お小夜!」
 目の前で露骨な肩入れをされて、藤色の髪の打刀は声を荒らげた。信じられない、とばかりに両手を振り回して、悔しげに吼えると同時にぴょん、と座っていた縁側から飛び降りた。
 草履の裏で砂埃を撒き散らし、滑りそうになった体躯を支えた。ぷんすかと煙を噴いて歩幅を広くして、どしどし歩く姿は関取のようだった。
「どこへ行くんです」
 この後取り立てて用事はないけれど、聞かないといけない気がした。
 一応引き留めて問いかければ、歌仙兼定は仁王の如き形相で、ひと言「散歩だ!」と怒鳴った。
 何がそんなに気に入らないのか、すっかり臍を曲げてしまった。短いやり取りを頭の中で振り返って、短刀は後を追うかどうか、躊躇した。
「歌仙」
 迷っているうちに、男の背中はどんどん遠くなる。その足取りは速く、緑生い茂る桜の脇を通って、ちょうど掃き掃除中だった太郎太刀の真横をすり抜けようとした。
「ああ、もう」
 傍を通りかかった刀に、竹箒を手にした大太刀が会釈した。
 それで一瞬足を止めた打刀の姿に決心して、短刀も縁側に飛び降りようと身構えた直後だった。
「――ん?」
 目に見える世界に違和感を覚えて、咄嗟に人工物の空を仰いだ。
 なにかがおかしい。奇妙な感覚に背筋を震わせ、あるはずのない敵襲を警戒し、漂う雲を睨み付ける。
 けれど実際には、異変は足元から訪れた。
「う、わあっ!」
 突如、地面が揺れた。ゴゴゴゴ! と凄まじい音が上から、下から、山から、屋敷から轟いて、華奢な体躯は鞠のように跳ね上がった。
 立っていられず、両手は掴むものを求めて彷徨った。先ほどまで腰かけていた縁側にしがみついて、縦に、横に、揺れて、歪む屋敷に騒然となった。
「なんだ、なんだあ。何が起きてるんだ!?」
「うわああん、怖いですうううう」
 建屋の中にいた刀たちも、異常を察して飛び出して来た。各々両目をカッと見開いて、或いは頭を抱えて小さくなって、止まない地鳴りに肝を冷やした。
 右に、左に傾いて、屋敷ごとひっくり返るのではと恐怖した。天井から埃がパラパラ落ちて、どこかで屋根瓦が滑る音がした。つっかえ棒などしていない家具が横にずれ動き、或いは倒れる。運悪く下敷きになった刀を、他の刀が懸命に助け出していた。
 台所からは野太い悲鳴がしたが、誰が発したものかは分からない。
 突き上げるような衝撃は十秒近く続き、ゆっくりと薄れていった。徐々に落ち着いていく揺れに瞬きを連発させて、軒先で蹲っていた少年は爆音を奏でる鼓動に生唾を飲み、冷や汗を流した。
「いったい、なにが」
「小夜、大丈夫か?」
 足元から抉られるような地震は、本丸に来てからは初めての経験だ。時の政府が用意した空間は強固な結界で囲われており、天変地異とは無縁だと、無意識のうちに思い込んでいた。
 そうではなかったと絶句して、駆け寄ってきた厚藤四郎に頷いて返した。その後ろには、泣きじゃくる五虎退を宥める信濃藤四郎の姿があった。
 秋田藤四郎に抱きつかれた後藤藤四郎の顔は真っ青で、後ろに隠れている平野藤四郎はカタカタ震えていた。乱藤四郎は腰が抜けたのか、廊下にへたり込んでいた。
 僅かに遅れて骨喰藤四郎や、蜂須賀虎徹たちが現れた。大倶利伽羅や、獅子王たちの姿もあった。
 共通するのは、いずれも呆然として、言葉も出ないでいることだ。
 誰もが事態を正しく飲みこめないまま立ち尽くし、二度目の激震に備えて屋外で時を待った。
 その中に、先ほどまでここにいた刀は見当たらない。
「歌仙は?」
「うわあああああ!」
「なんだってんだ、今度は!」
 ハッとして、小夜左文字は身体ごと振り返った。そこに絹を裂くような甲高い悲鳴が突き抜けて、庭に出ていた刀たちは騒然となった。
 またもや異常事態かと警戒し、各自身構えて周囲を窺った。その中で小夜左文字だけは、とある一点に注視して凍り付いた。
 何が起きているのか、全く理解出来ない。およそ有り得ない事態に絶句して、立ち上がることすら出来なかった。
 彼に遅れて数秒後、蜂須賀虎徹が真っ先にその存在に気が付いた。どことなく見覚えがあるようで、知らない短刀がいると遠くを指差し、居合わせた大勢が一斉にそちらを見た。
 向こうもまた、助けを求める顔で居並ぶ仲間を見た。
 距離があるのに目が合った気がした。全身の産毛をぶわっと逆立てて、小夜左文字は歌仙兼定らしき存在に竦み上がった。
「ちょっと、これ。どういうこと……?」
 その隣には、太郎太刀らしき存在もある。
 だがにわかには信じ難い状態になっており、誰もが目を疑った。訳が分からないと混乱して、地震のことなど頭から吹き飛びそうになった矢先だった。
「なんや、あんたら。どないゆうこっちゃ。蛍が、愛染が、こない縮んでしもうたんやけど!」
「みなさん、大変です。ソハヤさんが。ソハヤさんが、ちっちゃく!」
「あの、変なんです。どうしましょう。大典太さんが、子供になってしまいました」
「みなさーん、びっくりですよー。いしきりまるが、あかちゃんになっちゃいました」
「てーへんだ、お前ら。次郎の奴が、地震が終わったと思ったら、こんな大きさになってやがった」
 ドスドスドス、と各方面から足音が五月蠅く轟いた。別の場所にいた刀剣男士が、素っ頓狂な声を上げ、顔面蒼白のまま駆けて来た。
 明石国行は蛍丸と、愛染国俊らしき赤ん坊を抱きかかえて。
 物吉貞宗は金髪の少年の手を引き、前田藤四郎は顔色の悪い少年を背負っていた。今剣は足の遅い少年を連れて飛び跳ねて、日本号は酒瓶を抱く髪の長い子供を引き連れていた。
 そして屋敷の南方に広がる庭の一画には。
「ううう、なんなんだ。なんなんだ、これは!」
「これは奇妙な。霊力が、私の身体から失われている」
 混乱に陥った少年が喚き散らし、小さな掌をじっと見つめた少年がひとり嘯く。
「え?」
 その背丈は、小夜左文字よりも少し高いくらい。大勢いる短刀の平均ほどであり、脇差にはぎりぎり届かない大きさだった。
 体格は縮んでも、身に着けていたものはそのままだ。歌仙兼定、太郎太刀が着けていた袴は地面に落ちて、胴衣の裾が膝の辺りを覆っていた。紅白の襷はずりおちて、太郎太刀の腕を覆っていた布も、手首付近で弛んでいた。
 誰も彼もがぽかんとして、目を丸くする以外なにも出来ない。
「どうやら、なにかあったようだねえ」
 今剣と似た背丈に縮んだ石切丸だけが、のほほんとした調子を崩さず、緊張感のないことを言った。

 しゅるり、と細長い帯を両手に頂き、小夜左文字は小さく溜め息を吐いた。
 そうと悟られぬよう肩を竦め、目の前で棒立ちになっている少年の腰に、手にした帯を添えた。二重に巻き付けて、腰骨の上辺りで蝶々結びに仕上げた。
 細心の注意を払ったが、右側の輪が少し大きくなった。けれど結び直すのも面倒と、そのまま放置した。
「むう……」
 藤色の髪を揺らして、幼い少年が両腕を広げた。肘よりは長いが、手首には届かない中途半端な袖の長さを確かめて、面白くなさそうに頬を膨らませた。
「本当に、僕ので良いんですか?」
 上に羽織った黒の直綴もまた、丈が短い。膝から上が丸出しで、筋肉質な太腿が露わになっていた。
 褌の上に白の股袴を着けているものの、こちらもぎりぎりだ。いくら背が縮んだといっても、骨まで細くなったわけではないようだった。
 下手に動けば縫い目から裂けそうな雰囲気に、見ていて複雑な気分になった。
 面白くないのはこちらだ、との不満は内側に隠して、小夜左文字は歌仙兼定に重ねて問うた。
 今現在、彼の背丈は四尺二寸ほど。そこにいる短刀より、ひと回り大きいといったところだった。
 本来の姿からだと、実に一尺以上縮んだ計算になる。当然彼が所持する着物は、どれもこれも裾余りだった。
 それで止む無く、本丸に暮らす他の刀の衣装を借りることになったのだけれど。
「ぐ、う……もう少し大きいのはないのか。お小夜」
「無茶を言わないでください」
 出来上がった姿を鏡に映して、想像よりも遥かに無理がある格好に、歌仙兼定は呻いた。苦虫を噛み潰したような顔をして、前を、後ろを、くるくる回りながら何度も確認した。
 小夜左文字は本丸でも際立って小柄で、華奢な体格をしている。その着衣を借りようという時点で、無謀なのは目に見えていた。
 いくら身長が削られたとはいえ、それでも短刀との差は半尺を越えている。
 分かり切った結果に抗議されて、小夜左文字は痛むこめかみに指を置いた。
「他の方々のように、粟田口の――厚藤四郎や、後藤藤四郎の服を借りれば良かったんです」
「なにを言うんだ、お小夜。僕があんな西洋かぶれ、着られるわけがないだろう。雅じゃない」
「なら今のあなたのその姿は、雅だというんですか」
「うぬううう」
 短刀と変わらぬ体格になってしまった打刀が駄々を捏ねるから、わざわざ持ってきてやったのだ。それで不満しか言われないのは、はっきり言って納得がいかなかった。
 着付けてやる前に、何度も確認した。まず間違いなく小さいから、止めておいた方が良い、と。
 それなのに歌仙兼定は、洋装など嫌だ、絶対に着ない、と言って譲らなかった。
 この本丸で、和装を基本とする短刀は小夜左文字と、今剣だけだ。粟田口の皆も、不動行光も、元主の好みが反映された洋装を基本としていた。
 脇差においては、浦島虎徹くらいしか該当しない。だがあの、地味に露出が多い格好も、歌仙兼定は嫌がった。
 そうなると、もうお手上げだ。どうすることも出来ない。この異常は一時的なものらしいので、万屋で寸法の合う新品を購入するのは、無駄な出費でしかなかった。
 正論で責められて、打刀は悔しそうに唇を噛んだ。反論出来なくて顔を真っ赤にして、足を高く掲げて地団太を踏んだ。
「破れます。止めてください」
 ただでさえ丈が合っていないのだ。下手な動きをされたら、ビリッと盛大に行きかねなかった。
 舞い上がった埃を払い除け、小夜左文字が鋭い目つきで叱った。
「うっ」
 途端に歌仙兼定はぴたりと停止して、浮かせていた右足を下ろした。
 普段ならなんだかんだではぐらかし、聞き入れようとしないくせに、珍しい。どうやら身長差が狭まったお陰で、短刀の眼力が届きやすくなっているようだった。
 睨まれてしょんぼり落ち込んで、歌仙兼定は縦長の姿見を覗きこんだ。
「どれくらい待てば、戻るんだい?」
「分かりません。ですが霊力が回復すれば、自然と直る、という話です」
 鏡面に浮かび上がるのは、心細さに震える幼い少年だ。頬の赤みはいつもより強く表れ、気の所為か眼も、元の姿より大きかった。
 外見が変わっただけで、内面の変化はないと聞かされていた。しかし見た目に引っ張られて、精神面も若干幼くなっている雰囲気は、他の刀にも見受けられた。
 彼らがこうなった原因は、無数に存在する本丸を維持する管理機能が、一時的に処理不全に陥ったからだ。
 これが長引けば、いくつかの本丸が消滅する、という事態になりかねなかった。その為、最悪の事態を回避すべく、時の政府は緊急措置を実行した。
 各本丸の霊刀から霊力を集め、欠損してしまった本丸維持に必要な霊力の代替えとした。勿論非常事態だったので、事前連絡がなければ、許可申請もなにもなかった。
 先に発生した地震は、維持管理機能が停止した際の障害だったようだ。
 今は全て復旧しているらしいが、そこに費やされた霊力は、すぐには戻ってこない。
 他の本丸でも、大騒ぎになっていることだろう。情景を想像して、小夜左文字は不運な打刀に目を細めた。
 本当なら、縮むのは大太刀や、大典太光世たちくらいだけ、という話だった。
 ところが歌仙兼定に加えて、愛染国俊まで小さくなってしまった。彼らはあの瞬間、大太刀と肩が触れるほどの距離にいたので、運悪く巻き込まれたのだ。
 地震の際に体勢を崩し、互いに支え合っていたのが、災いした。一気に赤ん坊ふた振りの父親になった明石国行は、大変そうであるけれど、どこか幸せそうだった。
 三条の皆も、小さくなった石切丸に構い倒し、案外楽しんでいる雰囲気だ。太郎太刀に次郎太刀は、滅多に見る機会のない低身長者の視線を面白がっていた。
 三池のふた振りも、世話をしてくれる刀がいるので、特に問題はなさそうだ。こちらも最初こそ戸惑っていたが、二度とない経験だと笑い、小さくなって過ごす日々を満喫している雰囲気だった。
 つまりは、許可なく縮められたのに怒っているのは、歌仙兼定ただひと振り。
「まったく。どうやればいち早く、霊力が回復するんだい」
「焦ったところで、なにも始まりません」
「そうは言うが、お小夜」
 正直あまり似合っているとは言い難い小坊主姿になって、彼は苛々と親指を噛んだ。行儀が悪い行為だが、気付いていないらしく、日頃の悠然さはすっかり失われていた。
 そういえば細川の屋敷で一緒だった頃も、ちょうどこんな感じだった。
 せっかちで、勘違いが多い付喪神だった。
 思い込んだら一直線で、融通が利かず、頑固だった。
 今もさほど変わっていないが、余裕があるか、ないかだけでも随分違う。
 このまま元に戻らなかったら、という不安が頭の隅にあるのだろう。苛立ちを隠さない打刀を観察しながら、小夜左文字はそんな事を考えた。
 恐らくは問題ないと思うのだが、時の政府側でどのような処置が取られたのかは、刀剣男士には一切分からない。
 あの地震が時間遡行軍の攻撃だったかどうかも判然としない中で、憶測だけで迂闊なことは言えなかった。
「失礼するぜ」
 落ち着いて欲しいのだが、かける言葉が思いつかなかった。
 困ってひとり眉を顰めていたら、閉めた襖の向こうから声が掛かった。
 と同時に、襖が勝手に開いた。入室の許しが得られていないのに、どうせ断られないと高を括って、敷居を跨いだのは和泉守兼定だった。
「げっ」
「おお!」
 長い黒髪を躍らせて、背高の打刀が目を輝かせた。それに対し、姿見前にいた少年は頬を引き攣らせて、露骨に嫌そうな顔をした。
 迫り来る巨人から逃げて、歌仙兼定が小夜左文字の背後に回った。座っている短刀の陰に隠れようとして、横からぬっと覗きこまれて悲鳴を上げた。
「なっ、なんだ。貴様」
「へええ。之定、まじで小さくなってやがる。うへえ、おっもしれ~」
 なんとか遠ざけようと腕を振るうが、狙ったところへ行かず、指は空を切った。
 背が縮んでいるのに、大きい頃の感覚で動かすから、そうなるのだ。腕自体が短くなっていると彼が気付くのはそのずっと後で、攻撃を軽々躱した男は愉快だと破顔一笑した。
 地震が起きた時、彼は畑にいた。その為、屋敷で起きた珍妙な事件を知らされた時にはもう、歌仙兼定は庭から部屋に引っ込んだ後だった。
 屋敷中の片付けを手伝って、ひと段落ついたので訪ねて来たらしい。
 和泉守兼定が開けっ放しにした襖の向こうには、他にも堀川国広、加州清光、大和守安定の姿まであった。
「うわあ、本当だ。歌仙さん、小さい」
「ちょっと、吃驚なんだけど。かわいすぎない?」
「すごい。歌仙さん、かっわい~~」
「可愛いと言うんじゃない!」
 図々しく部屋に入ってはこないが、室内を覗きこんでは黄色い歓声を上げた。当然言われ慣れていない打刀はぷんすか煙を噴いて、山姥切国広のような台詞を吐いた。
 耳の裏まで真っ赤にして、両手を振り回しながら怒鳴るけれど、迫力に欠けた。どこからどうみても可愛らしいのひと言に尽きて、やり取りを聞いていた小夜左文字は黙って肩を落とした。
 私室に避難するまでにも、色々な刀から散々同じように言われていた。
 皆、珍しいから面白がっているだけだ。いい加減諦めて、受け入れれば良いものを、矜持が傷つくのか、彼は絶対に認めようとしなかった。
「歌仙はいつも、可愛いです」
「お小夜!」
「おー、おー。之定じゃねえみたいだな」
 喧しいやり取りに呆れつつ、小夜左文字がぼそっと呟く。
 耳聡く聞き付けた少年が吠えたが、赤らんだ顔と、無駄に大袈裟な仕草が相俟って、他の表現が見つからなかった。
 和泉守兼は珍獣でも見る雰囲気で、膝を折ってしゃがみ、歌仙兼定と目線を揃えた。幼い顔をまじまじと眺めて、大きい頃だとやる機会がない悪戯を繰り出した。
 要はぷっくり丸い頬を、指で小突いたのだ。
「おお、やーらけえ」
 感嘆の声を上げ、嫌がる二代目和泉守兼定の打刀を高速で突く。
 仰け反って逃げても、やめて貰えない。同じ場所を繰り返し攻撃された少年は、元々不機嫌だった表情を更に剣呑なものに作り替えた。
 そして。
「いい加減に……しろ!」
「ぎゃあっ」
 ついに我慢の限界を迎えて、歌仙兼定は会津兼定の袖を引っ張った。長くて太い、男らしい腕に抱きついて、身体を捻り、素早く懐へと潜り込んだ。
 瞬間、大柄な男の身体がふわっと宙に浮いた。一秒後には畳に叩きつけられて、一度だけ跳ね上がり、すぐに沈んで動かなくなった。
 見事に決まった一本背負いに、見守っていた小夜左文字も、他の刀たちも騒然となった。
 しかもこれだけでは終わらない。
「万死に値する!」
 仰向けでぴくぴく痙攣していた男目掛けて、歌仙兼定が跳び上がった。腕を畳んで右肘を槍に変え、全体重をかけて突き刺した。
「ぐほおっ」
 肋骨を避け、臍の辺りを狙ったところが、なんとも恐ろしい。
 内臓を直撃した一打に悶絶して、和泉守兼定は白目を剥いて泡を吹いた。
 歌仙兼定がもし本来の大きさだったなら、彼は折れていたかもしれない。まさに不幸中の幸いであるが、意識を飛ばした男にとっては、あまり大差なかった。
 蟹と化している相棒に苦笑して、堀川国広が代わりに頭を下げた。
「ごめんなさい、歌仙さん。兼さん、調子に乗り過ぎちゃったみたいで」
「次は首を差し出してもらうと、伝えてくれ」
「分かりました。ちゃんと、きつく言い聞かせておきます」
 些かやり過ぎではあるが、元は和泉守兼定が撒いた種だ。因果応報と謝る気はない打刀に両手を合わせて、脇差の少年は深く頷いた。
 幾分青褪めている加州清光と協力し合い、気を失っている打刀を肩に担いで部屋を出ていく。最後に残った大和守安定もそれに続くかと思いきや、彼だけは動かなかった。
「あのさ、歌仙さん。これ、僕が前に万屋で買った着物なんだけど」
「うん?」
 小さかろうと、なかろうと、歌仙兼定は凶暴だ。
 力技でなんとかしようとする悪癖は、一切変わっていなかった。
 肩で息を整えている少年を、どう宥めてやろうか考えていた。不意に始まった会話に背筋を伸ばして、小夜左文字は大和守安定が差し出したものに眉を顰めた。
 歌仙兼定も興味を示し、首を伸ばした。良く見えない、と身体を右に、左に揺らして、背伸びまでして覗きこんだ。
 それは青みがかった、緑色の長着だった。
 上には焦げ茶色の帯が、購入した時そのままの状態で重ねられていた。
「これは?」
「内番着が汚れた時、代わりに着ようと思ってたんだけど。なんだかんだで、使わないまま箪笥の肥やしになってたの、思い出して」
 言いながら、彼は着物を広げた。肩の部分を持って裾を垂らし、自分の身体に重ねあわせた。
 目立った柄はなく、どちらかといえば地味だ。汚れても惜しくないように選んだと言われれば、納得の品だった。
 既に仕立てられており、随所に仮縫いの糸が残っていた。ただ彼が縫ったとは思えないので、恐らく堀川国広にでも頼んで、寸法を合わせて貰ったのだろう。
 だが彼の背丈だと、現状の歌仙兼定では裾も、袖も、余ってしまう。
 怪訝に眉を顰めた短刀に、あちらも同じことを考えたようだ。
「丈は、仕立て直してくれていいよ。どうせ置いておいても、着ないだろから、歌仙さんにあげる。面倒なら切っちゃってくれて構わないよ」
「いいのかい」
「そんなに高いものじゃないし。それに歌仙さん、そのままじゃ困るでしょ」
「ううっ」
 朗らかに笑って、大和守安定は広げたそれを雑に畳んだ。苦々しい顔をした打刀にはい、と差し出して、受け渡しを終えて目尻を下げた。
 後ろから突き刺さる冷たい眼差しに、歌仙兼定の顔は赤を通り越して青くなっていた。
 あれだけ要らぬ動きはするな、と釘を刺されていたのに、言いつけを破った。勢い任せに和泉守兼定を投げ飛ばした時、彼が身に着けた僧衣は、あっさり限界を突破した。
 今や彼は、短刀以上に襤褸布を纏った状態だった。
 直綴だけでなく、下に着込んだ白衣の脇までぱっくり裂けていた。股袴も尻の部分が破れ、桃色の肌が覗いていた。
 とてもではないが、こんな格好で外を出歩けない。
「感謝する。代価は、いくらだろうか」
 思いがけない好意に礼を述べて、歌仙兼定は神妙に頭を下げた。恐縮しながら問うて、顔の前で手を振られて困惑に目を泳がせた。
「いいよ、お金は。僕としても、箪笥が空くから助かるわけだし。それに、歌仙さんは……」
「すまない!」
 呵々と言って、大和守安定が小夜左文字の後方を見る。
 直後に声を張り上げて、暫定で本丸一小柄な打刀は深々と腰を折った。
 地震の余波で、彼の部屋もぐちゃぐちゃだった。簡単に片付けて、寝床を作る場所だけは確保したが、倒れた棚に飾られていた茶器や、花器は見るも無残な有様だった。
 これらの補填が、時の政府側からなされるかどうかは、分からない。問い合わせているが、快い返事が来ると期待しない方が良さそうだった。
 まさに泣きっ面に蜂。
 今後買い直すことを考えると、少しでも出費は控えたい。そんな中での申し出は、闇の中に射したひと筋の光明だった。
「良かったですね」
 大和守安定の善意に表情を和らげ、歌仙兼定が嬉しそうに笑った。
「ああ。まさに捨てる神あれば、拾う神あり、だ」
 和泉守兼定のような訪問者は二度と御免だが、こういう来訪は、大歓迎だ。
 行儀よく一礼して部屋を辞し、襖もきちんと閉めていった打刀を思い浮かべて、彼は鼻息を荒くした。
 早速着丈を測るべく、小夜左文字から借りた分を脱ぎ捨てた。虫食いの箇所がないか調べつつ袖を通して、床に擦った分は抓んで吊り上げた。
 色味は、悪くなかった。歌仙兼定の髪色に良く映えて、申し分なかった。
「なかなか、見どころがある」
 雅か、そうでないかの判断が厳しい自称文系も、無事気に入ったようだ。
 布地自体にはなんら問題なく、後は丈を詰めるだけ。裾を手放し、くるりと回って、彼は満足げに頬を紅潮させた。
 袖口からは指先が覗く程度で、褌一丁で羽織っている点を除けば、どこぞの姫君のようでもあった。
 但しそれを言えば、烈火の如く怒り出すだろう。ならば触れずに済ませる以外に道はなく、小夜左文字は喉まで出かかった感想を飲みこんだ。
「襦袢も、用意しないといけませんね」
「だったら、僕のものを詰めよう。一枚くらいなら、支障ないさ」
「そうですね」
 代わりに残る課題を口にして、行李を指差した打刀に首肯した。蓋を持ち上げ、一枚取り出して、着せてやるべく布を広げた。
 折り畳まれていたものを伸ばし、なにも言われていないのに長着を脱いだ少年の肩に掛けてやる。
「……ふむ」
「歌仙?」
 衿の位置を見ようと前を合わせていたら、されるがままになっていた歌仙兼定が不意に真顔になった。
 真っ直ぐな目で見つめられて、どうにも居心地が悪い。彼が縮んでくれたおかげでいつも以上に顔が近くて、屈まれてもないのに吐息が届きそうだった。
 出来れば手元に集中したいのに、じろじろ見られて落ち着かなかった。身を捩って抗議しても通じず、打刀の視線は小夜左文字に固定された。
 仕方なく目と目を合わせれば、凛々しかった表情が急に和らいだ。
「うん」
「なんですか、歌仙」
「いや。お小夜の顔をこうやって近くから眺められるのなら、この体格も、案外悪くはないかな、とね」
 ひとり納得している彼に、嫌な予感が膨らんだ。警戒して及び腰になった短刀に、打刀はカラカラと声を響かせた。
 不満しかなかったが、良い点があった。
 初めて嬉しそうな顔をした彼に、小夜左文字は呆気にとられて目を丸くした。
 白の薄絹一枚羽織った少年は、短刀より頭ひとつ分大きい。けれど打刀としての本来の姿に比べれば、視線の高さは圧倒的に近かった。
 いつもは遠い顔が、今日はよく見える。
 記憶にあるより幼い笑顔が目の前にあって、面白いというよりも、変な感じだった。
 小夜左文字自身、この感覚は慣れない。これまではドタバタしていたのもあり、あまり意識せずに済んだけれど、諸々落ち着き始めた途端、尻がむず痒くてならなかった。
「確かに、首が疲れなくて済むので、助かります」
 だがそれを正直に言うのは、癪だった。
 咄嗟に口を突いて出た皮肉に、歌仙兼定は右の眉を持ち上げたが、特になにも言わなかった。
 一瞬だけ視線を上向かせて、なにかを考え込んだ後、ふむ、と鼻から息を吐く。それが元の体格では正面に来る衣紋掛けの高さを確認していたと、小夜左文字は後になって気が付いた。
「仕立て終わるまで、どうしますか」
 一旦途切れた会話を繋ぎ、短刀は床に沈んでいた着物を拾った。皺にならないよう袖を合わせて畳んで、首を捻った。
 寸法に合った着物が出来上がるまで、彼は着るものがない。頼みの綱だった小夜左文字の着物も、早々に破いてしまっていた。
 裸で過ごすのは雅ではないと、彼はきっと言うだろう。ならば、と訊ねた彼に、歌仙兼定はあっさり答えた。
「部屋で大人しくしているよ。お小夜、頼めるかい?」
 出歩いて笑いの種にされるくらいなら、多少窮屈でも、部屋で静かに過ごしたい。
 割れてしまった陶器と、無事だった茶器の選別作業も、まだまだ残っている。やることは沢山だと笑って、彼は襦袢を脱ぐと、代わりにいつもの内番着を羽織った。
 白の胴衣は、臑まですっぽり覆ってくれた。その前を合わせ、大和守安定が残していった帯を締めて、歌仙兼定は手早く一時しのぎの衣装を完成させた。
 これでも充分見栄えがするが、本人は気に入らないらしい。
 なんと贅沢なことか、と苦笑して、小夜左文字は差し出された襦袢を手に取った。
 柔らかく、上質な生地を掴み、軽く引っ張る。
「歌仙?」
 だが打刀はこれを手放さず、ぎゅっと握り続けた。
 綱引きになってしまい、このままでは破れてしまう。慌てて力を緩めた短刀は、こちらの顔をじろじろ見てくる少年に、不快感を露わにした。
 仕立て直すには、まず糸を解かなければいけない。何枚もの布を組み合わせて作られたそれを分解して、再度縫い合わせる必要があった。
 道具は、この部屋にはない。裁縫を趣味にしている刀を訪ねて、借りて来なければならなかった。
 時間が惜しかった。
 他の誰より急いでいるだろう相手に引き留められて、小夜左文字の顔が険しくなる。
「――!」
 それを待っていたかのように、打刀が首を右に傾けた。
 ちゅ、と唇に唇が触れた。身を屈めずとも楽に触れられるのを実証して、突然の暴挙に戦く短刀にしたり顔を作った。
「うん、なるほどね。良い感じだ」
「歌仙!」
 もしや彼は、こんなことをずっと考えていたのだろうか。
 小夜左文字が親身になって彼の身を案じている間も、縮まった短刀との身長差の使い道を、真剣に思案していたというのか。
 これまでは、どうやっても打刀がしゃがまなければ出来なかったことだ。膝を折り、視線の高さを揃える前準備が欠かせなかった。
 それが今回の騒動のお陰で、しなくて済むようになった。これまでは歌仙兼定が座っている時しか出来なかった不意打ちが、いとも容易く仕掛けられるようになった。
 朗報だと、打刀は顔を綻ばせた。先ほどまであんなに怒っていたのが嘘のように、小さくなった体格を受け入れてしまった。
「それでいいんですか、歌仙は」
 しかもその理由が、小夜左文字との距離が近くなったから、というもの。
 あまりにも短絡的すぎると呆れて、彼は二コニコしている打刀に肩を落とした。
「仕方がないだろう。いつ戻れるか分からないんだ。だったら、今の状況を楽しまないと、勿体ない」
「なら、別に着物の丈を詰めなくても」
「おっと。それは別問題だ」
 完全に開き直っており、歌仙兼定は尊大に胸を張った。洋装については改めて拒んで、面倒臭がった短刀に釘を刺した。
 それに大和守安定の善意を、無駄にするわけにはいかない。
 着物を持ってきてくれた打刀の名前を出されて、小夜左文字は渋々頷いた。
「分かりました」
「さすがは、お小夜。助かるよ」
「んん!」
 意外に適応力が高かった少年にため息を吐いていたら、賞賛されると同時にまた唇を奪われた。下から掬い取るように触れられて、予想していなかった短刀は目を白黒させた。
 長い睫毛が、かつてないほどはっきり見えた。
 離れて行く間際に吐息を浴びせられて、掠めた場所からじわじわ熱が湧き起こった。
 俯いていたのに、くちづけられた。
 これまで彼が寝転んでいる時でもないと、下からの口吸いはされたことがなかったのに。
「これはいい。ああ、とてもいい」
「歌仙!」
「お小夜はどうだい? 首を傾けずとも済んで、楽だろう?」
 先ほどの台詞を揶揄して、揚げ足を取られた。意地悪く笑って口角を持ち上げた彼に、小夜左文字は絶句して、なにも言い返せなかった。
 その後も調子に乗って、彼はちゅ、ちゅ、と繰り返し唇を吸いに来た。短刀が嫌がって後ろに逃げても追いかけて、肩を掴もうとして跳ね返された後は、頬や耳朶に狙いを変えた。
「ちょ、歌仙。やめてくだ、さ、あぶ、危な、あっ」
 後退してもついてきて、そろそろ逃げ場所がない。
 壁際へと追い込まれそうになった短刀は竦み上がり、抱えていた長着の裾を踏みつけた。
 柔らかな布と、丁寧に編まれた藺草の二重奏により、軽い体躯は呆気なく滑り、天を向いた。
「お小夜」
 咄嗟に身を引いて巻き込み事故を回避した打刀が、突如視界から消えた少年に総毛立った。
 藍色の髪の毛だけが下の方に少しだけ見えるのが、半日すら経っていないのに既に懐かしかった。
 派手に尻餅をついて、小夜左文字は膝の間に若葉色の長着を挟んだ。足元では白い襦袢が扇状に広がっており、花畑に座り込んでいるようでもあった。
 内股になって顔を真っ赤にしている少年が愛おしくて、歌仙兼定はふっ、と微笑んだ。
 身体が縮んでしまったのはやはり面白くないが、こういう状態の小夜左文字を、至近距離から眺めるのは楽しかった。
「悪くない、な」
 他の刀たちから「可愛い」を連呼されるのは癪だけれど、和泉守兼定を懲らしめた件が知れ渡れば、茶化してくる連中は減るだろう。
 この体格での楽しみ方を学んで、彼は満足げに顎を撫でた。
 一方で短刀はといえば、荒い息を吐き、口惜し気に唇を噛んだ。
「おや?」
 そうして持っていたものを投げ捨てると、やおら打刀に抱きついた。
 腰を畳に沈め、しゃがんだままだった。両膝で、今度は歌仙兼定の足を挟んで、腿の辺りに腕を回してしがみついた。
 顔は、臍より若干下に来た。兵児帯に鼻を埋めて目を閉じて、ぴくりとも動かなかった。
「お小夜、どうしたんだい。お小夜?」
 呼びかけても、返事はない。真ん丸い頭ではなく、余裕で届く肩を掴んで揺さぶっても、結果は同じだった。
 困惑して、歌仙兼定は眉を顰めた。怪訝に首を捻り、肩ではなく、藍色の髪をとん、と叩いた。
 馴染みのある感触と、普段とは異なる肘の角度の違和感は凄まじかった。
「お小夜、顔を見せてはくれないのかい」
 顔を伏した少年の耳は赤かった。呼びかける度に背に回った手がピクリと動いて、間違っても眠っているわけではなさそうだった。
 触れられるのが嫌なら、抱きつくような真似はしないはずだ。ならばなぜ、と考えて、歌仙兼定は頻りに首を捻った。
「……て、……さい……」
「うん?」
 その時、掠れる小声が響いた。殆ど音になっておらず、一部しか聞き取れなくて、打刀は目を丸くして胸元を窺った。
 小夜左文字の頭の位置は、奇しくも彼が大きかった頃、双方が立っている時にぎりぎり届く場所だった。
 今は身長差が縮まっているけれど、こうして短刀が座れば、再現は可能だ。
 昨日までとはまるで違う体勢ながら、お互い、こちらの方が不思議と落ち着いた。歌仙兼定は繰り返し短刀の頭を撫でて、様子を窺い、時を待った。
 耳を澄ませば、どこかで誰かの笑い声がした。木々が風に踊り、ざわめきが通り過ぎていった。
「はやく、元に……戻ってください」
 視線を遠くに投げた打刀を知ってか、知らずか、小夜左文字が呻くように呟いた。
「でないと、僕の、心臓が……もちません」
 精悍さと幼さが混じった笑顔が、予想以上に近いところにあった。
 首を傾けて見上げなくても済む高さに、ついつい見惚れてしまう顔があるのだ。
 身長差は、防波堤だった。それが失われた今、小夜左文字は押し寄せる波に翻弄され、溺れる一方だった。
 耐えられそうにない。
 正直に真情を吐露した少年に目を丸くし、直後に破顔一笑して。
「なら、もうしばらくこのままで過ごそうかな」
 今日一番の表情を浮かべて、歌仙兼定は嬉しそうに言った。

恋しきを戯れられしそのかみの いはけなかりし折の心は
聞書集 174

2017/07/02 脱稿