恨みばかりや 身に積らまし

 ギィィ、と軋みを上げて門が内側に開かれた。
 番人を兼ねる槍が、重い閂をゆっくりと地面へ降ろす。そうして恭しく頭を下げて、しばらく顔を上げなかった。
 蜻蛉切が礼をする前を、審神者がゆっくりと通り過ぎた。どんな時でも焦らず、慌てず、淡々として、感情などないが如きの振る舞いだった。
「いっちち……」
「あ~、もう。最悪。泥だらけ!」
 続けて本丸へ舞い戻った刀たちはといえば、こちらは実に騒々しい。
 傷を負った仲間を庇いながら、元気に勝利報告代わりの挨拶を繰り広げた。
「ただ今、戻りました」
「お役目、ご苦労様です」
「なんの。これが、僕たちの務めですから」
 前田藤四郎が蜻蛉切に一礼し、労われて微笑んだ。その隣で平野藤四郎が生真面目に頷き、最後に門を潜った刀を振り返った。
「大丈夫ですか、小夜君」
「ちいっと、敵さんに好かれ過ぎたな」
「これくらい、痛くもなんとも、ありません」
 一足先に本丸へ向かい、手入れ部屋の支度に入った審神者を追う刀はいない。走ったところで怪我が酷くなるだけと弁えて、痛みが酷くならない程度に足を動かした。
 先頭は頬に擦過傷が目立つ厚藤四郎で、最後尾は小夜左文字だ。
 その彼は六振りの短刀の中で最も傷の度合いが酷く、左足を引きずっていた。
 だというのに肩を借りるのを拒み、自力で歩けると言って聞かなかった。元からあちこち擦り切れていた紺の袈裟は泥で汚れ、前からあった穴が大きくなっていた。
 橙色の房は茶色く染まり、足に巻いた包帯も端が解け、落ちそうだ。
 彼が進む度にぽつ、ぽつ、と血が滴って、見ている分にはあまり気持ちが良いものではなかった。
「手入れ部屋まで、お連れしましょう」
「平気です」
 見かねた蜻蛉切が手助けを申し出るが、これまで同様、彼は取り合わなかった。両手を差し伸べた槍に見向きもせず、前を向いて、荒い息を吐いた。
 行き場をなくした両手で宙を掻き、親切心を働かせたつもりの男が惚けた顔をする。
「気にするな。ちょっと気が立ってるだけだ」
 気遣いを無碍にされて若干落ち込んでいた槍に、腕に切り傷を作った少年が呵々と笑った。
 紫色の瞳を細め、薬研藤四郎が背筋を伸ばす。
「はあ……」
 慰められた蜻蛉切は緩慢に頷き、よろよろしながら屋敷へ向かう小さな背中を見送った。
 小夜左文字が背負う笠にも、いくつか刺し傷があった。薬研藤四郎が言ったように、今日の出陣で彼は妙に敵に好かれてしまい、集中砲火を浴びせられた。
 重傷には至らなかったが、ちくちく刺されて、あまり楽しくなかったようだ。
 しかもひとり攻撃を浴びる中、他の刀が次々に誉れを勝ち取っていった。
 結局、最後まで一度として誉れを得られなかったのだから、彼が不公平に感じるのも止むを得ない。骨折り損のくたびれ儲けも良いところで、機嫌を損ねるのは当然といえば、当然だった。
「気を付けろよ、小夜」
「うるさい、です」
 先を急ぐ仲間たちを追いかけるべく、最後まで門前に残っていた薬研藤四郎も歩みを再開させた。
 右に、左にと千鳥足な短刀を気にかけて忠告すれば、案の定、小夜左文字からは不機嫌な声が返された。
 歯を食いしばり、痛みを堪え、懸命に足を動かしていた。時折意識が遠退きかけて、身体がガクン、と大きく傾くけれど、寸前で踏み止まった。
 その都度前田藤四郎や、平野藤四郎が心配そうに振り返る。
 憐みを含んだ眼差しが不快で、彼は呻りながら息を吸い込んだ。
「復讐、してやる」
 こちらを嘲笑うかのように襲ってきた敵の顔は、瞳にくっきり焼き付いていた。
 勿論全て討伐し、塵に帰してやったのだが、それでも心は晴れない。少しも気が休まらず、悶々として、苛立ちが拭えなかった。
 勝ったのに、負けた気分だ。悔しさが腹の底で煮え滾り、あちこち熱くてならなかった。
 前を歩く仲間さえ敵のように睨みつけて、フー、フー、と獣を真似て鼻息を荒くする。歯切りしして顎を軋ませ、ようやく辿り着いた屋敷の玄関で、鼻緒が擦り減っている草履を脱ぐ。
 彼らの帰還は、とうに知れ渡っていた。玄関先には一期一振がいて、後藤藤四郎や包丁藤四郎たちも出迎えに来ていた。
 江雪左文字は畑仕事を抜けられなかったようだが、大きな衝立の影に宗三左文字が立っていた。息が荒い弟を見つけて一瞬顔色を悪くしたが、自力で立てる状況に安堵して、すぐに胸を撫で下ろした。
 他にも数振り、玄関近くにいた刀が集まって、江戸から戻った短刀らを労い、その無事を喜んだ。
「主が手入れ部屋でお待ちだ。急げよ」
「分かってるって」
「は~い」
 近侍でもないのに偉そうに言ったへし切長谷部に、厚藤四郎と乱藤四郎がほぼ同時に返事をした。
 傷の度合いが軽い前田藤四郎は兄弟が脱ぎ散らした靴を揃えると、隅の方でおろおろしていた太刀を見つけ、安心させるべく微笑んだ。
「平野。手入れの前に、茶でも飲んでいけ。喉が渇いているだろう」
「鶯丸様、お心遣い感謝します。いただきます」
「他の連中も、一杯どうだ」
「おっ、気が利くねえ。いただくよ」
 前田藤四郎が大典太光世と無言のやり取りを交わしている横で、鶯丸が湯飲みを載せた盆を差し出した。その隣では大包平が薬缶を持ち、先を急ごうとする短刀たちに呼びかけた。
 薬研藤四郎が真っ先に反応して、一度は廊下を行こうとした厚藤四郎たちも戻ってきた。気を利かせた仲間に感謝を述べつつ受け取って、走りっ放しで疲弊した現身に水分を補充した。
 あまり意識していなかったが、身体は水気を欲していた。
 気が付かなかった、と嬉しそうに相好を崩した乱藤四郎の傍らを、小夜左文字はすい、と流れるように通り過ぎた。
「おい。お前も、どうだ」
「小夜。手入れ部屋の前に、飲んでおいた方が良いと思うよ」
 すかさず、大包平が声を上げた。両手で湯呑みを抱いた少年も、後々のことを考え、水分摂取を促した。
 けれど小夜左文字は、振り返りもしなかった。聞こえているはずなのに無視して、手入れ部屋を目指して廊下を突き進んだ。
「なんだ、あいつは」
 折角用意したのに、無駄になってしまった。大包平はたっぷり量が残る薬缶を揺らし、不愉快だと口を尖らせた。
「そう言うな。虫の居所が悪かったんだろう」
 彼よりも若干、本丸での生活が長い鶯丸が原因を探り、平野藤四郎を見る。
 悪気があったわけではない、と同意を求められた少年は慌てて頷き、空にした湯飲みを太刀に返した。
 残る短刀たちも口元を拭い、両手を空にして道を急いだ。小夜左文字との距離はあっという間に埋まって、追い付き、追い抜くのは容易だった。
「小夜ってば。機嫌が悪いのは分かるけど、さっきのはちょっと失礼だよ」
「……」
 狭い廊下で横に並び、注意したのは乱藤四郎だ。
 少女じみた可愛らしい外見ながら、明け透けにものを言い、誰に対しても遠慮がない。当然短刀仲間の小夜左文字にも、思ったことを正直に述べた。
 横目で睨まれても臆さず、反応の悪さにため息を吐いて、肩を落とす。
「嫌われちゃっても、知らないからね」
「別に、それでいいです」
「もう!」
 お節介を焼いて言葉を重ねれば、どうでも良いとばかりに突っぱねられた。
 あまりの愛想の無さに憤慨し、地団太を踏む彼に、後ろで見ていた薬研藤四郎は失笑を禁じ得なかった。
 前田朗四郎らはやり取りをハラハラ見守っていたが、厚藤四郎はあまり興味がないようだ。大包平があれしきで臍を曲げるわけがない、と太刀の側に信頼を置いて、それよりも、とのろのろ運転になっている先頭を急かした。
「あんまり大将を待たせるもんじゃねえぞ」
「はいはい。分かってるってば」
 彼らが門を潜ってから、それなりに時間が過ぎていた。
 怪我を負った刀を癒やすべく、準備している審神者を待たせるなど、失礼千万。
 もっと早く歩け、と後ろから飛んできた声になおざりに返事をして、乱藤四郎は小夜左文字を追い抜き、角を曲がろうとした。
「おっと」
「あれ?」
 だが、直前で思い止まった。
 歩み自体も止めて、上半身だけを後ろに傾けた。
 奇妙な反応に、残る五振りも足を緩め、衝突を回避した。左右に分かれて角の先を覗きこみ、ぬっと現れた黒い影に嗚呼、と丸くしていた目を眇めた。
「良かった。遅いから心配したよ」
 もう少しでぶつかる、というところに、打刀がひと振りで立っていた。
 白の胴衣に薄鼠色の袴を着けて、紅白の襷で袖を縛っていた。前髪は後ろに梳き流して額を晒し、落ちて来ないよう赤い紐で結んでいた。
 人好きのする笑みを浮かべて、歌仙兼定が戦場帰りの短刀たちを出迎えた。ホッとした表情で息を吐き、後方に続く廊下を一瞥した。
 この先に、手入れ部屋があった。しかし屋敷のほぼ中心に位置するそこに入れるのは、傷を負った刀だけだ。
 兄弟刀の傷が癒えるのを、近くで待ちたいと願っても、それは叶わない。
 本丸で最も古株である打刀は、その事実を勿論承知している。だからここで待っていたのだろう。
 左へずれた乱藤四郎が、その間際に小夜左文字を肘で小突いた。意味ありげに笑って、不機嫌な短刀に場所を譲った。
「……歌仙」
 他の粟田口の短刀たちも、なにやら思う所があるようで、にやにやと目つきがいやらしい。
 不躾な視線を浴びた少年は不満そうに頬を膨らませ、仕方なく打刀の名前を口ずさんだ。
 小夜左文字と歌仙兼定は、本丸に至る以前からの知り合いだ。そう長い期間ではないけれど、同じ屋敷に暮らし、隣り合わせで時を過ごした。
 まさかそれから数百年を経て、このような形で再会を果たすことになろうとは、夢にも思っていなかった。
 人見知りだという打刀も、この短刀にだけは気兼ねせずに済むらしい。本丸の中でも、外でも、一緒にいるところが頻繁に見受けられた。
 大勢が集まる玄関ではなく、手入れ部屋に続く廊下で待っていた辺りも、なかなかに意味深だ。
 何を考えているか丸分かりの視線に肩を落として、小夜左文字は若干戸惑い気味の男に首を傾げた。
「なにか」
 訳知り顔の眼差しを浴びるのは、左文字の短刀だけに限らない。
 複数に取り囲まれた打刀は困った風に頬を掻くと、視線を泳がせ、右手を懐に忍ばせた。
 そうして音もなく取り出したのは、懐紙で作った包みだった。
 四角形の紙の端を集め、捩って固定したものだ。反対側に捻れば簡単に開き、中身が取り出せる。彼が料理上手だと知る短刀たちも、興味惹かれて首を伸ばした。
 黙って通り過ぎて行けばいいものを、菓子の気配には敏感だ。
「小腹が空いていると思ってね。手入れ前に、食べていくといい」
 歌仙兼定も、その辺はしっかり心得ていた。人数分を用意したと笑って、掌に広げた甘味を皆に示した。
 包まれていたのは、親指ほどの大きさの塊だった。
 表面は艶やかで、光を受けてきらきら輝いている。形状は少しずつ異なっており、夜空に瞬く星を拾ってきたかのような鮮やかさだった。
「わああ」
「いいのですか、いただいても」
「どうぞ。黄金糖と言うそうだ」
 見た瞬間、前田藤四郎が歓声を上げた。平野藤四郎は遠慮がちに問うたが、右手が既に伸びかけている。厚藤四郎などは返事を待たずにひとつ摘み、問答無用で口に放り込んだ。
 そして皆が見つめる前で、噛み砕こうとして、ガリッと硬い音を響かせた。
「ぎゃっ」」
「黄金糖って、飴じゃなかったっけか」
「それを先に言ってくれよ~」
 奥歯が変に歪んだ気がして、帰還後に傷を増やした短刀が泣きそうな声を出す。
 手にした時に分からなかったのか、と薬研藤四郎がからかい、甘い蜜を含んだ飴を咥内に招き入れた。乱藤四郎も嬉しそうに顔を綻ばせ、手入れ前の栄養補給とその場で飛び跳ねた。
 だが肝心の、小夜左文字が動かなかった。
「お小夜?」
「僕は、いいです」
 包み紙にひとつ残った飴を気にして、歌仙兼定が眉を顰める。
 直後に少年は首を振り、掠れた小声で囁いた。
 耳を澄ませていなければ、聞き取れない音量だ。蚊の鳴くような小さな呟きに、打刀は目を点にし、素早く瞬きを繰り返した。
「いや、しかし」
 わざわざ人ごみを避け、確実に話しかけられる場所で待っていた。短刀たちが喜ぶ甘いものを用意して、出陣の労をねぎらうつもりでいた。
 彼らが玄関で捕まっている間に、別経路で先回りまでして。
 それを冷たく断って、困惑する打刀に舌打ちする。
「邪魔です」
「ちょっと、小夜」
 言い捨てて、彼は利き腕を横薙ぎに払った。前を塞ぐ男を押し退け、強引に先へ進もうとして、あまりの態度に反発した乱藤四郎は無視した。
 敵の攻撃を幾度となく受け、傷ついた足で床を蹴った。薄れつつあった痛みが蘇り、ズキリと来たが我慢して、強がって打刀の胸を突き飛ばした。
「うあ、っと」
「ああ!」
 みぞおち近くを攻撃されて、歌仙兼定が体勢を崩した。
 痛くはなかったが、踏ん張れなかった。上半身を前後に大きく揺らして、右足を引いて踏み止まろうとした瞬間、手の中で懐紙ごと飴玉が躍った。
 カサカサに乾いた紙の上で飛び跳ねて、黄金色の塊が空中へと舞い上がる。
 思わず、といった感じで厚藤四郎が叫んだ前で、それは緩やかな曲線を描き、一直線に大地を目指した。
 重力に引かれ、床に落ちて、二度跳ねた。
 実際は音などしなかったが、誰もがカラン、と硬い音を想像した。
 居合わせた全ての刀が、同じ物を目で追った。そうして床に転がる黄金糖が動かなくなったところで、一斉に視線を上げて、ひと振りの短刀を見た。
 空になった懐紙を握りしめた男の前で、よもやの結果に驚いた少年は、絶句して背筋を震わせた。
 そんなつもりはなかったのに、食べ物をひとつ、駄目にしてしまった。
 たとえ小さな飴玉とはいえ、完成までにはいくつもの工程と、時間と、材料が費やされている。これは、間違っても空から降って来たものではない。
 その計り知れない努力と、労苦を、彼はこの一瞬で無に帰した。飢饉を肌で知り、餓える民草を救うために細川の屋敷を出た短刀にとって、これは相当な衝撃だった。
 望んでやったことではない。
 たまたま、偶然そうなっただけ。
 けれど彼が歌仙兼定を突き飛ばさなければ、このような結果にはならなかった。
「あ~ああ」
「洗ったらまだ食えるかな」
「意地汚いですよ、薬研兄さん」
 粟田口の短刀たちが言い合っているのも、耳に入らない。
 食べ物を粗末にするなど、あってはならないことだ。だのに他ならぬ自分が引き起こした事態に騒然となって、小夜左文字は色の悪い唇を噛み締めた。
 目に見えない金槌で、思い切り頭を殴られた気分だった。戦場ではなんともなかったのに、今になって眩暈がして、意識がふっと遠退きかけた。
「お小夜」
「か、かせ……歌仙、が。僕は、要らないと、言いました!」
 それを引き留めたのは、歌仙兼定の声だった。
 ハッとして、無意識のうちに捲し立てていた。防衛本能が働いて、こうなった責任は相手側にあるとの立場を取り、横暴とも言える理論を錦の御旗に掲げた。
 痛む足に力を込め、腹の底から声を絞り出した。大声で吼えて、遠巻きにしていた短刀仲間がぎょっとする中、癇癪を爆発させて頭を振った。
「おいおい、小夜。お前、そりゃ、いくらなんでも」
「要らないと言っているのに、押し付けて来たのは歌仙です」
 無関係とはいえ聞き捨てならないと、厚藤四郎が割って入ろうとした。
 それを押し退け、喚き散らし、小夜左文字は頑として譲らなかった。
 打刀に責任を押し付け、自分は悪くないと繰り返した。息を荒くし、脂汗を流し、仇を見るような目で歌仙兼定を睨みつけた。
 敵陣を前にした時と同じ表情に、平野藤四郎がゾッと背筋を寒くした。薬研藤四郎は呆れた様子で頭を掻いて、口の中で小さくなった黄金糖を噛み砕いた。
「すまねえな、歌仙の旦那。小夜の奴、敵さんにしこたま虐められて、機嫌が悪いんだ」
「薬研藤四郎!」
「ほらほら、お前らも、行った、行った。大将が首を長くしてお待ちだ」
 すっかり悪くなった場の空気を掻き混ぜて、飄々とした口調で言い放つ。
 まるでひと振りだけ弱い、という風に言われた少年は罵声を上げたが、彼は耳を貸さなかった。
 弟たちにもひらひら手を振って、いい加減手入れ部屋へ行くよう命じた。これ以上寄り道しては、審神者まで機嫌を損ねてしまうと言われれば、誰も逆らえるわけがなかった。
 最後まで居座っていた小夜左文字の背中も押して、構わないから向こうへ行くよう促す。
「気を付けるんだよ」
「あんがとよ」
 その上で歩き出した黒髪の短刀に、打刀は少々場違いにも聞こえる台詞を口にした。
 これから傷を癒やしに行くというのに、なにに気を付けろと言うのだろう。だが敢えて突っ込まず、ひらりと手を振って礼に変えて、薬研藤四郎はしんがりを務めて皆を追いかけた。
 小夜左文字が手入れ部屋を出たのは、それから一刻半近くが経過した後だった。
 他の短刀たちはすでに手入れを終えたのか、並んだ部屋はどれも空っぽだった。障子の奥は静まり返っており、灯りさえなく、不気味だった。
 本丸のほぼ中心に位置するこの一帯は、周囲から隔絶され、出入りは厳しく制限されていた。大扉は普段から施錠されており、鍵を持つのは審神者か、近侍に限られていた。
 内側からなら開けられるのだけれど、一度閉めると自動的に鍵がかかる。
 間に挟まれぬよう慎重に潜り抜けて、彼は背後で響いたドスン、という大きな音に首を竦めた。
 何度聞いても、この音は慣れない。
「先に、着替え……か」
 人気のない薄暗い空間に佇んで、小夜左文字は誤魔化すように呟いた。
 擦り切れて襤褸布一歩手前の袈裟を抓み、穴が塞がった笠を撫でた。いつまでも戦装束でいる必要はなくて、さっさと内番着に着替え、身を軽くしたかった。
 たっぷり時間をかけて修復されたお陰もあってか、気持ちは幾分、落ち着いていた。
 ここに至るまでの出来事を走馬灯のように蘇らせて、彼は後悔を過分に含んだ溜め息を零した。
「……はぁ」
 確かにあの時、機嫌は最高潮に悪かった。
 嫌がらせのように敵の攻撃を連続で浴びせられ、腹が立って仕方がなかった。挙げ句その横を粟田口の連中が駆け抜けて、小夜左文字に集中した敵を横から攫っていった。
 それなりに戦果を挙げたのに、認められなかった。
 不公平だと臍を曲げて、全てに対して反発した。
 なんと幼く、未熟だったのだろう。
 誉れが全く取れなかった日は、なにもこれが初めてではない。集中砲火を浴びたのだって、過去に幾度か経験済みだ。
 今回はたまたま自分だっただけで、前回は厚藤四郎が被害に遭っていた。けれど彼は辛抱強く耐えて、自分が引き受けた分、皆に被害が及ばずに済んで良かった、と笑ったのだ。
 彼の方が圧倒的に立派で、大人だ。
 到底敵うわけがないのだと思い知らされて、傷は癒えたのに、心は憂鬱だった。
「あ、小夜。お帰り。大丈夫?」
 やってしまったことは、元に戻せない。後悔ばかりが胸に渦巻き、陰鬱な足取りで黙々と部屋へ向かうべく歩いていた。
 話しかけて来たのは、乱藤四郎だ。一足早く手入れを終えて、着替えもとっくに済ませていた。
 彼の傷の度合いは、比較的軽かった。髪を切られて一部が短くなっていたが、それもすっかり元通りだった。
 中庭で、五虎退と鞠蹴りで遊んでいたらしい。紙を丸めて作った模造刀で稽古する、厚藤四郎と後藤藤四郎の姿もあった。
 本丸の屋敷は南北で別れており、北側の棟が刀剣男士の居住区だ。手入れ部屋や大座敷、台所がある南の棟とは中庭を挟んで、長い渡り廊で繋がっていた。
 その屋根つきの廊を潜っている途中、呼び止められた。窓から身を乗り出した少年は、引っかかった笠の位置を調整し、駆け寄ってきた短刀に頷いた。
「ありがとうございます。もう、……問題ありません」
「ふふっ、良かった。機嫌も直ったみたいだね」
「面目次第もありません……」
 本丸の屋敷は、一部を除き、地面から一尺近く高いところに床がある。
 普段は見上げなければならない相手でも、立ち位置の違いから、今は見下ろす側だった。
 恐縮しながらの返事に鋭い指摘を返され、どうも気まずい。
 ばつが悪い顔をした小夜左文字に、乱藤四郎はカラコロと楽しそうに笑った。
「あとで、歌仙さんに謝っときなよ。落ち込んでたからさ」
 鈴を転がすような音を響かせ、両手を腰の後ろで結んだ。背伸びをして距離を詰めて、右目だけを器用に閉じた。
「本当ですか?」
「うん」
 その彼の発言に、小夜左文字は目を丸くした。思わぬ情報に唖然として、迷いなく頷かれて呆然と立ち尽くした。
 悪いことをしたとは思っていたが、落ち込むくらいだとは、考えていなかった。
 酷いことを言ってしまった自覚はある。彼には何の非もないのに、責任転嫁して、強く詰ってしまった。
 勿論、後で謝りにいくつもりでいた。あの時の自分は、どうかしていたのだ。あらゆる事象に対し、思い通りにならないのに苛立って、偏屈になっていた。
 歌仙兼定は悪くない。心配して、気を利かせてくれたのに、応えられなかった小夜左文字がいけないのだ。
「歌仙が。そう、ですか」
「時間経つとさ、謝りにくくなるよね」
「そうですね……」
 朗らかに笑う打刀の顔が脳裏に浮かび、それがみるみるうちに歪んで行った。
 哀しげに伏せられた瞼と、それを縁取る睫毛の震えを想像して、彼は心優しい助言に、素直に頷いた。
 あの男は部屋にいるだろうか。気になって、視線は自然と前方に聳え建つ家屋に注がれた。
 乱藤四郎に一礼して、足早に渡り廊を駆け抜けた。笠が邪魔だと、途中で結んだ紐を解き、胸に抱えて足を交互に動かした。
 先に着替えようか迷ったが、心が逸った。短刀たちが暮らす区画を素通りして、彼は打刀区画に踏み入った。
「歌仙、いますか?」
 焦燥感に声を上擦らせ、閉まっている襖の前で呼びかける。
 短刀が使うには些か大きい笠で顔の下半分を隠して待つが、返答は得られなかった。
「歌仙。いないんですか?」
 念のためもう一度呼びかけて、遠慮がちに襖を開けた。覗きこんだ内部は物で溢れ返り、どこもかしこもごちゃごちゃしていた。
 壁一面に棚が設けられ、茶器や花器、書画などが所せましと詰め込まれていた。布団を敷くだけの面積が辛うじて確保されて、文机の上もいっぱいだった。
 丸められた書き損じの紙が、屑入れの横で昼寝をしていた。仕方なく拾って、山盛りだったのを上から押して凹ませて、小夜左文字は深く肩を落とした。
 気張って出向いたものの、空振りだった。
 歌仙兼定は不在で、最近出て行った雰囲気もない。やや埃っぽい空気を吸い込んで、短刀は眉を顰めた。
「ここに居ないとなると」
 思索を巡らせ、回れ右をして部屋を出た。襖をピシャッと閉めて、来た道を早足で戻った。
 歌仙兼定は昔から人見知りで、慣れない相手にはつい居丈高に構える癖があった。初対面で舐められないよう、甘く見られないように、との配慮が裏目に出て、高慢で鼻持ちならない存在、という誤解を受け易かった。
 そういうわけだから、どうしても友人が少ない。本人は平気だと言い張っているが、少なからず寂しく感じているようだ。
 だからこそ彼は、小夜左文字に付き纏った。昔からの知り合いということで遠慮が不要で、心を預けるに足る存在だからこそと、短刀も彼を受け入れた。
 それが結果的に良かったのか、悪かったのかは分からない。
 歴史修正主義者討伐が始まって、もう二年が経過した。その年月の中で、歌仙兼定に対する各方面の誤解は、順次解けて行ったはずだ。
 にも拘らず、あの打刀はことあるごとに小夜左文字に構ってくる。他の刀に頼んだ方が良さそうなことにまで、逐一伺いを立てに来た。
 彼に好かれている自覚はある。
 本丸において、殊の外あの男に気に入られているのは承知している。
 そして自らもまた、あの男に並々ならぬ感情を抱いているのも、把握していた。
 手入れ部屋に向かう道中、にやにや笑っていた粟田口の刀たちが不意に蘇った。
「別に、……このままだと、気分が悪いからで」
 今現在苛立っているのは、早く謝りたいのに、肝心の相手が不在だったからだ。
 間違っても、顔を見られなかったのに落ち込んで、しょげているのではない。誰に言われたわけでもないのに、必死に弁解を捲し立てて、小夜左文字は小さくなった袈裟の穴を弄り倒した。
 表面を皺だらけにして、私室に入る。
 短刀たちの部屋を集めた区画は、いつも通り無駄に静かだ。彼らは日中、外に遊びに出ていることが多く、室内で過ごす刀は稀だった。
 その稀な刀に分類される少年は、圧倒的に物が少ない部屋で戦装束を解くと、手早く内番着に着替えた。
 刀を床の間に据えて、首に巻いていた数珠を外した。畳んだ袈裟の上に黒の直綴を置き、緩んでいた髪を解いて、結び直した。
「台所、だろうか」
 楽な服装になり、最後に裾を巻き上げ、帯に挟んだ。尻端折りで足さばきを軽やかにして、再度外に出ようとして、敷居の手前で踏み止まった。
「一応、念のため」
 歌仙兼定が行きそうな場所は、限られている。
 部屋か、茶室か、でなければ台所。
 あとは庭を散策しているかくらいで、畑や厩には、仕事を命じられない限りは近寄らなかった。
 もう既に、私室は確認済みだ。障子を開け、中庭を挟んで反対側の棟を覗きこむが、目立った変化は見つからなかった。
 打刀部屋区画は、短刀部屋とは坪庭を挟み、向き合っている。植物が目隠し代わりになっているけれど、全く見えない、というわけではなかった。
 まだ戻っていないと思っても、支障ないだろう。
 とすればあの男の現在地は、本丸の母屋のどこかだ。
 台所だとするなら、夕餉の支度に入っている頃合いだ。当番ではなくても、手伝いで包丁を握っていて不思議ではない。
 そうなれば、彼の周囲には何振りか、刀がいる。
 調理中に呼び出すのは忍びなく、躊躇が生まれたが、小夜左文字は首を振って己を鼓舞した。
「明日には、持ち越したくない」
 時間遡行軍との戦いは、苛烈を極めている。いつ、万が一が起きるかは誰にも分からなかった。
 いうなれば、明日とも知れぬ身だ。戦場へ出向く際に、心残りは作っておきたくなかった。
「……こんなことを言ったら、歌仙は怒るだろうけれど」
 二度と居なくならないでくれ、と懇願されたことがあった。
 何も出来ないまま、黙って見送るしかなかった日の繰り返しは御免だと、怒鳴りながら泣かれたこともあった。
 過去の出来事がコロコロと転がり、互いにぶつかり合い、そして爆ぜた。連鎖反応的に次々蘇って、懐かしさと切なさで胸が締め付けられた。
 やはり一刻も早く、謝ろう。
 気まずさは残るが、勇気を振り絞ると決めて、彼は深い意図がないまま室内を見回した。
「あ」
 そうやって、文机に出しっ放しだった書物に目を留めた。ずっとドタバタしていた所為で、なかなか読み進められずにいた一冊だった。
 中身は、とある人物の日記の写しだ。
 宮廷文化が隆盛を極めていた時代の、華やかな日常が連綿と綴られていた。当時の風俗や祭事にも多数言及しており、資料的価値が非常に高かった。
 存在は知っていたが、目を通す機会がなかったものを、先日幸運にも手に入れた。それを歌仙兼定に話したら、興味を示し、読み終わったら貸してくれ、と頼まれていた。
 ところが一向に頁が進まないので、約束はずっと後回しになっていた。
 明日も、小夜左文字の出陣は続く。時間を作ってゆっくり読んでいる暇はなさそうで、ならばいっそ、彼に先に読んでもらおう。
「それがいい、ね」
 長く待たせるのも悪い。これを話しかけるきっかけにして、今日のことも一緒に謝れば、一石二鳥だ。
 落ち込んでいるという打刀も、きっと機嫌を直してくれるに違いない。
 やり取りを想像して、期待に胸が膨らんだ。これで行くと決めて、力強く頷き、短刀は糸で綴じられた本を小脇に挟み持った。
 今度こそ部屋を出て、襖は閉めずに廊下を歩き出した。やや急ぎ気味に、せかせかと足を動かして、長い渡り廊を潜り抜けた。
 粟田口の短刀たちは、場所を変えたのか、姿は見えなかった。代わりに鶴丸国永が、なにか仕掛けをしているらしく、熱心に手を動かしていた。
「あそこは、通らないようにしよう」
 思い過ごしかもしれないが、留意するに越したことはない。
 今日明日は中庭に立ち入らないと決めて、小夜左文字はそこそこ厚みがある書を叩いた。
 落とさないようしっかり握りしめ、小走りに廊下を進んだ。頑丈な木戸を開けて母屋へ入り、現れた目隠しの衝立から玄関を覗きこんだ。
 上がり框まで近付いて、広い空間を見渡す。
「歌仙の、は……あった」
 帰還時に脱ぎ捨てた草履は、誰が片付けてくれたのか、揃えて隅に避けられていた。
 肝心の打刀の履物はといえば、踵のある戦用のものと、平たい草履、両方揃っていた。となれば屋内にいると思って良くて、短刀は俄然やる気を漲らせた。
「台所、だね」
 茶室は庭の一画にあるので、行くには履物が必要だ。素足でも平気で屋外を歩き回る刀はいるが、歌仙兼定はそうではなかった。
 行き先が更に絞られ、確信が強まった。
 部屋から持って来た本を抱きしめて、彼は自分に向かって頷いた。
 今になって思えば、どうしてあの時、あんなに苛々していたのか分からない。良いことがひとつもなくて、損な役回りばかり与えられた気でいたが、それは今に始まったことではなかった。
 別の機会では、違う刀にばかり攻撃が集中していた。
 すべては偶然だ。誰も責められない。もし責める先があるとしたら、それは時間遡行軍であり、歴史改竄を目論む歴史修正主義者たちだ。
「すぅ……はぁ……」
 八つ当たりした件を謝り、許しを請う。
 言葉にすればとても簡単だが、実践するとなると相応に勇気がいる。
 深呼吸して昂ぶる鼓動を落ち着かせ、小夜左文字は早速台所へ向かい、開けっ放しの戸から中を窺った。
 こそこそ隠れて、まずは誰が居るのかを調べる。
「わはっ、なにそれ。嘘でしょ?」
「僕も、ちょっと信じられないかなー。本当なんですか、それ」
「ああ、勿論だとも。信じられないのも無理ないが、嘘偽りない真実さ」
 聞こえて来たのは、新撰組に所縁を持つ刀たちの笑い声。そして、それに自信満々に応じる、戦国期を知る古刀の声だった。
 三十六人を斬ったと伝わることから、その首の数に合う号を与えられた刀。
 細部に亘って精緻な細工が施された、美しくも実用性高い鞘拵えが付属する、片手持ちに適した長さを有する打刀。
 人見知りが故に小夜左文字にだけ懐き、少しずつ交友範囲を広げていった男。
 藤色の髪に長い睫毛、端整な顔立ちに意外と広い肩幅、背中。文系を気取りながらもなにかと腕力に訴え、力技で物事の解決を図る悪癖が抜けない、筋肉馬鹿。
 歌仙兼定。
 落ち込んでいると聞いていた。
 しょぼくれて、暗い顔をしているとばかり思い込んでいた。
 気遣ってくれたのに、失礼な真似をしたから、小夜左文字は深く反省し、謝罪するつもりでここに来た。元気になって欲しいから、いつものように笑って欲しいから、自分のことは二の次にして探し回った。
 それが、どうだ。
「……なんだ」
 三振りの会話は続いており、戸口に佇む短刀に気付く気配はない。
 断片的に聞こえてくる内容は前の主に関することで、時折脱線し、伊達の刀の主や、黒田の刀の主にまで話題が及んだ。
 楽しそうだった。
 小夜左文字は聞き飽きた内容でも、加州清光や大和守安定は初耳だったようで、興味津々だ。頻繁に相槌を挟み、合いの手を入れて、続きを促し、声を弾ませていた。
 あんな風にはしゃぐなど、自分には出来ない。
 いつも淡々として、感情の起伏に乏しく、無愛想で、口数も決して多くない。
 そんな短刀を相手にするよりも、歌仙兼定だって、反応が良い刀と喋る方が面白いに決まっている。
「嗚呼」
 高鳴っていた鼓動が、急速に凪いだ。やる気が萎えて、虚しさが広がった。
 彼の為に一喜一憂していたのが、馬鹿らしく思えてならなかった。
 静まっていた怒りがふつふつと湧き起こり、良く分からない感情が胸の奥で渦巻いた。怒り、憎しみ、妬みといったものが複雑に絡み合って、汚らしい斑模様を形成した。
 意識しないうちに、コン、と木戸の角を叩いていた。
 小さな音だったが、大和守安定だけ気が付いた。歓談の中に紛れ込んだ異音に顔を上げ、入り口を塞ぐ少年に首を捻った。
「小夜ちゃん?」
「え?」
 いつからそこに、という顔を向けられて、小夜左文字はこみあげる笑いを喉の奥で押し潰した。無表情を気取って鼻を鳴らして、驚き、振り返った男に照準を合わせた。
 目が合った瞬間に眼力を強め、射抜いた。
 大きく振りかぶって、彼の為に持って来た書を持つ指に力を込めた。
「お小夜。ああ、良かった。手入れが終わ――あぶっ!」
 一瞬ビクッとした歌仙兼定が、直後に表情を入れ替え、嬉しそうに声を弾ませた矢先だ。
 無言で腕を振り抜いた小夜左文字の手から、一直線に書物が飛んだ。修業の旅を終え、一段と強くなった短刀の腕力に物を言わせて、打刀の顔面目掛けて叩きつけた。
 空気を唸らせ、軽い紙が鉛よりも重い弾丸と化す。
 直撃を受け、男の身体が後ろへ吹っ飛ぶ。
 凄まじい音がした。衝突の衝撃で積まれていた桶が吹っ飛んで、ガラガラ音を立てて床に転がった。
「あわわわわ」
「ひええええ」
 一連の流れを見守っていた打刀たちは揃って竦み上がり、己のありようを見極めた短刀の実力に背筋を寒くした。
 身を寄せ合い、震える加州清光らに一瞥も加えることなく、小夜左文字は姿勢を改めた。幾分すっきりした表情でふん、と鼻から息を吐き、煙を噴いて倒れている男をもう一度睨みつけ、踵を返した。
 この間、ひと言も発さない。
 突如現れ、去って行った短刀の後を追う者はなく、台所は当分の間、誰もいないかのように静かだった。
「だっ、大丈夫? 歌仙さん」
「おーい。生きてるー?」
 沈黙が破られたのは、小夜左文字が廊下の角を曲がった直後。
 それは奇しくも、彼が鉄面皮を破り、空になった両手で真っ赤な顔を覆い隠したのとほぼ同時だった。
「や……って、しまった」
 ついカッとなり、暴挙を働いた。頭に血が上って、後のことなどなにも考えなかった。
 これではさっきと同じなのに、止められなかった。謝りに行ったのに、自分で事態を悪化させて、最早収拾がつかなかった。
 直前まで、あんな真似をしようだなど、これっぽっちも考えていなかった。だというのに身体が自然と動いて、気が付けば打刀目掛けて本を放り投げていた。
 しかも相当に、勢いが乗っていた。まさかあそこまで速度が出るなど、思ってもいなかった。
 短刀は投石兵が装備できなくて良かった、と密かに思った。あんな剛速球を敵でなく、味方にぶつけでもしたら、大参事だ。
 空になった利き手を呆然と見つめ、小夜左文字は小さく首を振った。今から戻って平身低頭で謝ろうかどうか悩んで、足は勝手に玄関を目指した。
 時間は巻き戻せず、やり直しも利かない。
 うだうだ悔やんでいても始まらないのに、後悔ばかりが押し寄せて、短刀から光を奪った。
「どうして、こうなるんだろう」
 結局のところ、自分が一番悪い。
 それが分かっていながら、愚行を繰り返した。
 反省をしているといっても、所詮はこの程度なのだ。復讐を遂げることしか頭になく、仇を討つことに専心して来た短刀が抱くには、過ぎた感情だったのだ。
 これまでも、これからも、自分の、そして誰かの復讐を果たすことだけを考えていればいい。
 そう言われている気分になって、眩暈がして、吐き気が止まらなかった。
 もやもやしたものが腹の内側にこびりつき、剥がれない。黒い澱みとはまた異なるものがまとわりついて、払っても、払っても、取り除けなかった。
 今度こそ、歌仙兼定は呆れただろう。恩知らずな刀だと忌ま忌ましく思い、追い求めるに値しないと断じたに違いない。
「……復讐すべきは、僕自身だ」
 気が付けば庭の、池のほとりに立っていた。枝を広げた桜が影を作り、風に揺れる木漏れ日がきらきらと眩しかった。
 水面にも光が反射して、眩しい。
 ぱしゃん、と水が跳ねる音がして、駆け抜ける風は涼しかった。
 少し前まで、打刀は小夜左文字しか話し相手がいなかった。
 業務報告で様々な刀とやり取りしていたけれど、空き時間に会話を試みる先は、常にひと振りに限られていた。
 それがいつしか、様相が変わった。短刀が知らないうちに、彼は本丸に集う多くの刀に対し、心を開くようになっていた。
「僕がいなくても、歌仙は、平気です」
 拾った石を池に投げ、波を起こした。
 餌がもらえるのを期待して集まっていた鯉が、暴挙に驚き、慌てて逃げていく。水文は次第に穏やかになって、しばらくすれば何事もなかったかのような静けさを取り戻した。
 感情の起伏も、これに近い。
 一瞬だけ大きく揺らいで、後は徐々に凪いで行く。だがその一瞬に引き起こした出来事が、後々まで尾を引いて、簡単には消えなかった。
 もうひとつ石を投げるが、水面を弾むことなく、たちまち沈んで行った。じゃぼん、と大きめの音が響いて、少しも楽しくなかった。
「うう」
 悔しさと、怒りが爆発しそうなくらいに膨らんだ。
 そのやりきれなさが向かう先に待つのは、ふがいない自分自身だ。ぶつける先は他に存在せず、悔しさから地団太を踏み、青草に滑ってズドン、と転んだ。
 尻餅をついて、これもまた腹立たしい。
「ああ、本当に……嫌になる」
 なにをやっても巧くいかず、願う通りに事が運ばない。
 外に発奮するのが叶わない感情を抱きかかえ、陰鬱な表情を作り、小夜左文字は背を丸めて小さくなった。
 膝を三角に曲げ、その頂点に額を置いた。自分はこの世界にとっての害悪と捉え、このまま消え去りたい欲求で胸を焦がした。
 サク、と草を踏む音がしたのはそんな時だ。
 風に漂う微かな匂いに小鼻をヒクつかせ、彼は近付いてくる気配に浅く唇を噛んだ。
「見つけたよ、お小夜」
 池の端の斜面を滑らぬように進み、袴姿の男が囁くように言った。少し呆れた表情を浮かべて、赤くなった鼻の頭を掻いた。
 小夜左文字は声にピクリと肩を震わせたが、膝に顔を伏したまま、動かなかった。
 自分は路傍の石だと言わんばかりの態度を示し、聴覚も、嗅覚さえも遮断した。瞼をきつく閉ざして世界を闇一色に塗り潰し、眩い光を拒んだ。
「お小夜。顔を上げてくれないか」
「…………」
 不規則に続いていた足音が止まり、声が近くなった。防ぎ切れなかった甘い香りが強くなって、男の現在地をはっきり教えてくれた。
 真横に佇み、身を屈めてこちらを窺っている。
 衣擦れの音から判断して、奥歯を噛んだ。鼻を愚図らせ、苦い唾を飲みこんで、顔を伏したまま首を横に振った。
 もれなく身体全体が揺れた。額と腕が擦れあい、引っ張られた皮膚が軽い痛みを発した。
「お小夜」
 言葉にせずとも、答えは伝わったはずだ。歌仙兼定は幾ばくか声を低くして、溜め息を吐き、衣擦れの音を大きくした。
 カサカサと草が鳴り、よいしょ、という小さな掛け声がそこに重なった。乾いた布が短刀の肘を掠めて、どうやら彼は座ったらしかった。
 隙間から様子を窺えば、池に向かって伸びる二本の脚が見えた。
「へえ。良い眺めだ。お小夜はよく、ここへ来るのかい?」
 僅かに身じろいだのが、知られてしまったのだろう。寛ぐ体勢を取った男は軽い調子で囁いて、挫けることなく話しかけて来た。
 当然ながら、短刀は返事をしない。いや、出来なかった。
 本当は調子よく合いの手を挟み、会話に花を咲かせたかった。けれど言い出すきっかけが掴めず、顔を上げる機を窺っている間に時間が過ぎた。
 そうしてモタモタしているうちに、またさらに時間が過ぎて、完全に機会を逸してしまった。
 台所で垣間見た光景が蘇り、悔しさよりも哀しくなった。切なくなって、目頭が熱くなり、益々顔を上げられなかった。
 きっと今、みっともない顔をしている。
 とても見せられるものではない。そんな自分を恥じて、小夜左文字は首を竦め、いよいよ小さく、丸くなった。
 ところが打刀は、違う受け止め方をしたらしい。
「怒っているのかい?」
 一向に返事がないのに焦れて、声を潜め、心細げに呟いた。
「!?」
 許しを請う雰囲気が、端々から滲み出ていた。どうして彼がそんな風に言わねばならないのかが分からなくて、短刀はぎょっとなり、反射的に背筋を伸ばした。
 瞠目し、空色の瞳いっぱいに男の顔を映した。
 ようやく目が合った打刀は寂しそうに微笑んで、困った風に目を細めた。
「君を、怒らせてしまったかな」
「なに、を」
 照れたように言って、はにかむ。それが信じられなくて、小夜左文字は声を震わせた。
 意味が分からなかった。
 訳が分からなかった。
「怒っているのは、歌仙でしょう」
 酷いことをした。優しさを、優しさで返せなかった。
 生意気な態度を取った。失礼な真似をした。許されざる行為に手を染めた。
 誰に非があり、誰が責められるべきかは、一目瞭然だった。
 だというのに、歌仙兼定は首を振った。目を瞑って二秒ほど黙ったあと、額をぺちりと叩き、なんとも言えない笑顔を浮かべた。
「どうかな。僕はむしろ、嬉しいよ」
「歌仙」
「お小夜があんな風に、はっきりと、妬いてくれたんだから」
「や……っ!?」
 想定してもいなかったひと言が飛び出して、声がひっくり返った。皆まで言えず、絶句して、顎が外れそうだった。
 ぽかんと口を開き、恥ずかしそうにしている男を凝視する。その惚けた視線にさえ照れて、歌仙兼定は前髪をガシガシ掻き回した。
 彼の頭には、花が咲いているのではないか。
 どういう理屈を捏ねれば、そんな発想に至れるのか。想像を超える展開に唖然として、小夜左文字は右頬を軽く打った。
 凍り付いていた表情を力技で解きほぐし、肩を落とした。力なく息を吐いてかぶりを振って、こめかみに生じた鈍痛に眉間の皺を深めた。
「それに、君が帰ってきた時のあれは、僕も良くなかった。配慮が足りなかったと、反省している。すまなかったね」
「あれは、……あれも、歌仙は悪くないです」
「そうかな? 嫌がっている君に、無理矢理渡そうとしたんだ。どう見ても僕の落ち度だろう」
 非難されるべきは自分と、頑として譲らない。しばらく押し問答が続いて、妥協点は見つからなかった。
 そういえば彼は、頑固だった。
 不意に思い出して噴き出しそうになって、短刀は根負けだと白旗を振った。
 歌仙兼定の言い分は、一度断られたのに、無理強いした自分が悪い。台所でのことは、小夜左文字の焼き餅であるから、気にしない、と。
「別に、やきもちとか、そういうのじゃ」
「違うのかい?」
「ちが、……違わない、ような、違うような」
「なら、焼き餅だよ、お小夜。君のことなら何でも分かる、僕が言うんだから間違いない」
「なんですか、それ……」
 顔を付き合せた途端に殴りかかられたようなものなのに、怒らないのはいかがなものか。
 あまりにもご都合主義な持論に花を咲かせる男に、聞いているだけで疲れて来た。もう好きに解釈してくれて構わない、と匙を投げて、小夜左文字は自信満々な打刀に肩を落とした。
 何を根拠に、そんなことが言えるのだろう。
 真面目に取り合うのも馬鹿らしいが、胸の奥で、ぽわ、と淡い光が生まれたのは嘘ではなかった。
 呆れつつも、少し嬉しかった。
 こんなことで簡単に復活してしまう機嫌に苦笑して、ならば、と短刀はひとつ問いかけた。
「だったら、歌仙。今、僕がなにを考えているか、分かりますか」
「ああ。お安い御用さ」
 絶対当てられないと知りつつ、意地悪を投げた。すると歌仙兼定は得意げに胸を張り、渋面を作って短刀の顔を覗き込んだ。
 むむむ、と唸りながら見つめられた。ただそれだけなのに、本当に心を読み解かれているような気分になるから、不思議だった。
 笑い出しそうになるのを堪え、反応を待つ。
 やがて彼は、控えめに笑って。
「うーん。……そうだね。僕に、ぎゅっとしてもらいたい、と思ってくれていたら、嬉しいかな?」
「なんなんですか、それ」
 回答は、予想と大幅に違うもの。
 身勝手にも程がある願望を口に出されて、短刀は唖然としつつ、相好を崩した。
 思っていたものではなかったが、それはそれで、面白かった。
「もう、それでいいです」
 反論し、訂正する気力が沸かなくて、小夜左文字は肩を竦めて微笑んだ。

なかなかになれに思ひのままならば 恨みばかりや身に積らまし
山家集 恋 665

2017/06/11 脱稿