うれしがほにも 鳴くかはづ哉

 誰かの気配がして、振り返った先。
 障子越しに影が浮かんでいるのを見て、にっかり青江は嗚呼、と頷いた。
「どうぞ」
 輪郭だけでも判別がつく小柄な体躯は、なにかを抱えて両手が塞がっていた。入室の許可を下しつつ、炬燵から足を抜き、彼はゆっくり立ち上がった。
 自力で障子を開けるのは難しいとの判断した通り、廊下に立っていた短刀は丸い盆を抱いていた。
「あ、……ええと」
「いらっしゃい。どうしたんだい?」
 だからこちらから出向いてやれば、小夜左文字は困った顔をして視線を逸らした。
 一瞬だけ目が合ったのに、なんと切ない反応だろう。嫌われることをしたか過去を振り返るが、特に思い当たる節はなかった。
 ただ、あまり話をしたことがないのは、確かだ。
 お互いこの本丸に来て長いのに、これといった接点がないまま、月日を重ねていた。意外だったと露わにした方の目を見開いて、にっかり青江はにっこり微笑んだ。
「それは?」
 まずは警戒を解こうと試みて、軽く膝を折って屈んだ。彼自身もあまり背が高い方ではないけれど、小夜左文字は短刀としても際立って小さい。背筋をまっすぐ伸ばしたままでは、身長差が大きかった。
 多くの太刀や、大太刀がやっているのを見習って、敷居の手前で低くなる。
 視線の高さが揃ったのに安堵したか、来訪者ははにかむと同時に腕を伸ばした。
「おやつ、です。脇差のみなさんの」
「ああ、そうなんだ。ありがとう」
 彼が運んできたのは、小麦色の焼き目がついた球体だった。
 短刀の拳ほどの大きさで、表面は凸凹していた。それが合計六つ、深めの皿に盛りつけられていた。
 数的に、脇差全員分だろう。言われてみれば丁度八つ時で、小腹が空く時間帯だった。
「わざわざ、持ってきてくれたんだ」
「燭台切光忠さんが、たくさん、作ってくれたので」
「へえ。不思議な形だね」
 ずっとここで本を読んでいたものだから、気付かなかった。ならばそろそろ出かけている仲間たちも、戻ってくる頃だろう。
 首を伸ばして遠くを窺うけれど、通りかかる人影はない。差し出されたものを盆ごと受け取って、にっかり青江は初めて見る菓子に目尻を下げた。
「あの。みなさんは」
「生憎と、出かけている最中だよ。じき戻ってくると思うけどね」
 燭台切光忠や歌仙兼定手製の菓子は、一度に作れる数に限りがあるため、短刀優先だ。
 それがこちらにまで回ってくるのは、実はかなり珍しい。こうして脇差たちが根城にしている空き部屋まで配達に来てくれなければ、明日になっても気付かなかっただろう。
 取り分があることの嬉しさと、不在にしている仲間たちの不運ぶりに頬を緩める。
 自分だけでも居座っていて良かったと胸を撫で下ろし、にっかり青江は不意に嗚呼、と天を仰いだ。
「そうだ。浦島君は、遠征中だったね」
「えっ」
 忘れていた事項を思い出し、肩を竦めた。それに小夜左文字は吃驚した様子で目を丸くして、ぽかんと間抜けに口を開いた。
 どうやら彼も、失念していたらしい。脇差は六振りだから六個、という大前提があって、今日は全員屋敷にいると思い込んでいたようだ。
 けれど、困ったことになった。
「ひとつ、余ってしまうねえ」
 手作りの菓子は、あまり長持ちしない。料理上手な刀たちからも、極力その日のうちに食べるよう、言われていた。
 だが浦島虎徹が戻ってくるのは、夜を過ぎてから。彼の為に残しておきたいところだが、放置し過ぎると傷んでしまう可能性があった。
「どうしましょう」
 藍の髪の短刀は動揺を隠し切れず、思わぬ失態に顔を赤くした。声は震え、上擦って、見上げてくる眼は戸惑いに染まっていた。
「そうだねえ。取り合いの喧嘩も、困るしねえ」
「……はい」
 それに相槌を打って、にっかり青江は顎を撫でた。深皿の中身を数え直して、間違いなく六つあるのを再確認し、目を眇めた。
 短刀の落ち込み具合からして、皿に選り分けたのはこの少年のようだ。遠征部隊に脇差がひと振り含まれていたのを忘れ、全員に行き渡るよう準備したらしい。
 その配慮が、争いの火種になろうとは、夢にも思わなかっただろう。
 小夜左文字の落ち込み具合に嘆息して、大脇差は右足を引いた。
「君も、食べていくと良いよ」
「え?」
 身体を捻り、室内に向き直った。こともなげに言って室内へ誘い、左手の人差し指を唇に添えた。
 目を眇め、不敵に笑いかける。少年は最初、なにを言われたか分からない様子だったが、数秒のうちに目を見張って、大慌てで首を振った。
「僕は、台所で。もう食べました」
「へえ、そうなんだ。それで、どうなんだい? たった一度で満足してしまったのかい?」
「うぐ」
 冷や汗を流して遠慮を申し出た短刀に、にっかり青江は早口で畳みかけた。同意し、疑問を呈し、小首を傾げて口角を歪めた。
 意地の悪い表情に、小夜左文字はぐっと息を詰まらせた。図星を指摘されて言葉を失い、目を泳がせ、もじもじと膝をぶつけ合わせた。
 粟田口の短刀たちは、数が多く性格もばらばらだが、そのほとんどがなかなかに図々しい。元気が良く、遠慮がなく、相手が誰だろうと馴れ馴れしかった。
 反面、左文字の短刀は思慮深く、大人しい。あまり出しゃばらず、物事に口を挟もうとしなかった。
 もっとも、だからと言って主張しないわけではない。相手の顔色を見るところから始めるので、二手も三手も遅れてしまうが、誘導してやればちゃんと意見を言える短刀だった。
 誘いかけ、試す。
「……いいんですか?」
 しばらく黙って待っていたら、案の定、彼は恐る恐る首を伸ばして来た。
 不安げな眼差しに、にっかり青江は微笑で応じた。ちゃんと伝わるよう深く頷き、炬燵の上に菓子入りの皿を置いた。
 盆は外して余所に置き、先ほど自分が座っていた場所に脚を入れた。小夜左文字は「失礼します」と一礼の後、敷居を跨ぎ、障子を閉めた。
 ここは脇差部屋区画のほぼ真ん中に位置する、誰も使っていない空き部屋だ。
 着実に数を増していく刀剣男士の居住区は、昔はもっと狭かった。部屋数が少なく、このままでは足りなくなると度々増築されて、ついに二階建てになっていた。
 部屋は刀種ごとに分けられ、短刀は短刀だけ、打刀は打刀で集められている。勿論望めば兄弟で大部屋を使えるが、その特権を利用しているのは、今のところは粟田口だけだった。
 そうして大太刀や槍、薙刀といった身体が大きい刀を抜きにして、最も所属数が少ないのが、脇差。
 今後の為にと多めに用意された部屋は、当てが外れ、現時点でも埋まり切っていなかった。
 余らせておくには惜しく、誰かが独占するのは不公平。
 ならば、と両側の部屋の住民が出した答えが、いつでもみんなで集まれる部屋にする、という案だった。
 台所や食堂などがある母屋へ行けば、もっと広い座敷があった。しかしあちらへ出るには、中庭を縦断する渡り廊を行かねばならない。ちょっと寛ぎに行くには、些か遠かった。
「炬燵、出したままなんですね」
 難点は、脇差部屋区画の真ん中にあるため、ほかの刀種が若干近付き難いことだろうか。
 粟田口派の短刀たちは、兄の鯰尾藤四郎や骨喰藤四郎がいるので気後れしないが、他の刀たちは微妙に足が遠かった。
 小夜左文字も、そのひと振りだ。初めて入ったと感嘆の息を吐き、彼は部屋の中心に陣取る四角い座卓に目を瞬いた。
「うん。なんだか別れ難くてね。火は入れてないよ」
 台座と天板の間には薄手の布団が挟まり、四方に裾を広げていた。
 にっかり青江は答えながらその布団の端を捲り、中が真っ暗なのを短刀に教えた。季節は巡り、もう冬は終わった。座敷の火鉢も撤去され、納戸へ収納された後だった。
 だというのに、ここの炬燵はそのままだ。
 脇差の雑談部屋が冬場、特に賑わっていた理由を知って、小夜左文字は緩慢に頷いた。
「お邪魔します」
「暑かったら、被らなくていいからね」
「はい」
 摺り足気味に近付いて、正座して、膝に少しだけ炬燵布団を被せる。
 義理堅いところがある子だと苦笑して、大脇差は八つ時の菓子に視線を戻した。
 先ほどより表面が窪み、小さくなっているのは気のせいだろうか。ぱりぱりした生地は所々で薄くなり、今にも破れてしまいそうだった。
「燭台切君が作ったんだよねえ」
「はい。しうくりむ、だそうです」
「しうく、りむ?」
「しうくりむ」
 灰鼠色の器を引き寄せ、興味本位で人差し指を突き立てた。途端にぐに、と皮が凹んで、そのまま戻ってこなかった。
 見た目は固そうなのに、案外柔らかい。器の分を差し引いても、結構な重みがあった。
 名前も、聞いたことがなかった。語感から異国の菓子だと推測して、力強く頷いた短刀に破顔一笑した。
 きっと彼は、台所で必死に名前を覚えたに違いない。完璧に言えるようになるまで、繰り返し練習した顔つきだった。
「へえ。おいしかった?」
「頬が落ちます」
 それで益々好奇心が擽られ、期待に胸が高鳴った。
 燭台切光忠といえば、伊達正宗に所縁を持ち、水戸徳川家へと渡った名刀だ。元主の影響を過分に受けて、西洋文化にも造詣が深かった。
 そんな男が作ったのだから、味に不満が出るわけがない。
「嬉しいねえ、だらしなく伸びてしまいそうだ」
「鼻の下がですか?」
「……頬、かな?」
 先の短刀の言葉に引っ掛けて呟けば、意外にも合いの手が入り、にっかり青江は失笑した。
 まさかの解説を加え、その頬を掻く。少々予想外な展開に戸惑いつつ、彼は改めてしうくりむ、とやらに手を伸ばした。
「これは、柔らかいねえ……」
「なかに、くりむ、が入ってるので。気を付けてください」
 掴めば、指が皮に食い込んでいく。先ほど凹ませてしまった件を思い出して、持ち上げる動きは慎重だった。
 短刀も固唾を飲んで見守って、先駆者としての助言を欠かさない。横から言われて頷いて、にっかり青江は掌に奇妙な塊を置いた。
 手を皿にして、間近から全体像を眺めた。上から、横から観察して、でっぷり丸い形状に何かを連想せずにはいられなかった。
 顎に右手を置き、言うべきか否か、少しの間真剣に悩んだ。
「噛み付きませんから、噛みついて大丈夫です」
 それを全く別の原因と解釈して、小夜左文字が小声で囁いた。
 天板に両手を置き、身を乗り出していた。
 どうやって食べるのか、その方法を考えていると想像したらしい。おおよそ見当はずれも良いところの推測に頬を緩め、大脇差はうん、と大きく頷いた。
「それじゃあ、いただこうかな」
 初めて目にする食べ物は、食べ方で困ることがある。自分なりの手段を試してみたところ、実際は大きく違っていた、というのが過去にあって、恥ずかしい思いをさせられた。
 この短刀は、燭台切光忠から手ほどきを受けたようだ。
 彼が口にした台詞は、あの隻眼の太刀が短刀に向けて放った言葉だろう。
 やり取りを思い浮かべると、自然と顔が綻んだ。なんと穏やかで、和やかな光景なのかと笑って、にっかり青江は大きく口を開いた。
 歯列を割って、舌を伸ばした。ひと口で頬張るには大きすぎるそれに、思い切って齧り付いた。
「んんっ?」
 瞬間、見た目以上に柔らかな皮がぱっくり裂けた。牙を押し付けたところからびりびり千切れて、中に詰め込まれていたものが雪崩を起こした。
 どっと押し寄せて、咄嗟に口を閉じようとした。流れ込んでくるものを堰き止めんと足掻くが、防ぎ切れない。なお悪いことに、行き場をなくした中身が唇の外へ行き先を変えた。
 顎に冷たいものを感じて、背筋がぞわっとなった。
 反射的に首を後ろへ傾けて、右手を喉の上に走らせた。
「ああ……とろっとして、口の外にまで溢れてしまうねえ……」
 唇に張り付いた分を舐め取り、指で掬った分も回収して、呟く。
 背中に冷たい汗を流して、彼は柔らかな食感と、なんとも言えない甘さと香りに吐息を零した。
 先に言われていたのに、注意を怠った。気を付けるよう忠告されていたのに耳を貸さず、もう少しで顔の下半分をべとべとにするところだった。
 舐めた指は甘く、ねっとりした感触がいつまでも残った。こそぎ落としてもまだ張り付いている気がして、べたべたして落ち着かなかった。
「でも、美味しいです」
「そうだねえ。とても……独特な食べ物だ」
 人差し指を何度も舐る彼に、小夜左文字がこくりと首肯した。あれだけ遠慮していたくせに、堂々と天辺にあった菓子を取り、少し厚みがある底の部分を支え、頂上付近を僅かに削り取った。
 半分以下になった手元の分を見れば、中は空洞だった。上に行くに従って皮は薄くなっており、底部にたっぷりと、とろみのある液状のものが詰め込まれていた。
 鼻を近づければ、癖になる匂いが漂った。
 指に残っているのと全く同じ香りで、歌仙兼定が作る菓子からは絶対しない系統だった。
「良い匂いだ」
「ばにら、だそうです。でもこれだけ舐めると、苦いです」
「へえ、知らなかった。甘くて、苦いなんて、まるで僕らみたいだねえ」
 興味深く味わっていたら、これも燭台切光忠から得た知識を披露された。案外物知りな短刀に感心して、にっかり青江は残った分を口に含んだ。
 零さないよう舌を操り、大部分を舐め取ってから、皮を噛んだ。一方小夜左文字は、上部に空けた穴から中身を啜り、小さく潰してからぱくり、と頬張った。
 果たしてどうやって食べるのが正解なのか、さっぱり分からない。
「まあいいか」
 だが零して駄目にしてしまうよりは良いと割り切って、彼は犬のように舌をくねらせた。
「ううん、確かにこれは、頬が落ちるかもしれないねえ」
 後に引く甘さは、一個ぽっきりでは物足りない。腹が膨れるまで三個でも、四個でも食べたくなった。
 そして目の前には、仲間たちへの分が合計四個。
 うっかり手を伸ばそうとして、にっかり青江は苦笑した。
 右を見れば、丁度食べ終えたばかりの小夜左文字が凄い形相で睨んでいた。まるで仇かなにかを見つけた表情で、大脇差はいそいそと腕を戻した。
「冗談だよ」
「……はい」
 勝手な真似はしないと約束して、両手を腿の下へ隠した。炬燵の中で膝を軽く曲げて、出来上がった三角形の隙間を指で掻き混ぜた。
 気が付けば口の周りを、しつこく何度も舐めていた。
 滅多に訪れない手作りの甘味が大当たりだっただけに、是非とも二度目、三度目と要望せずにはいられない。
 今夜にでも早速、料理好きの太刀を捕まえて強請ってみよう。
 ああいう洋風なものは、歌仙兼定に頼んでも無駄だ。和にこだわりがある打刀だから、土下座して頼んでも、絶対に承諾してくれない。
「帰ってきませんね」
 早速算段を練り、猫なで声で甘える練習を心の中で開始する。
 と、そこに短刀の声が紛れ込んで、燭台切光忠懐柔計画は一時中断となった。
 小夜左文字は落ち着かないのかそわそわして、しきりに室内を見回していた。物音がすればびくりとして、反応は大袈裟だった。
 菓子の配達が終わり、好意に甘えてひとつ食べた。彼がこの部屋に居続ける理由は失われ、立ち去るきっかけを探しているようだった。
「そうだね。ちょっと、遅いかな」
 鯰尾藤四郎と骨喰藤四郎は、一緒に馬当番だ。堀川国広は分からないが、和泉守兼定が部屋の掃除をしていたので、その手伝いではなかろうか。
 浦島虎徹は遠征中。物吉貞宗は、にっかり青江がこの部屋に入った時、箒を手に中庭へ歩いていくところだった。
 約ひと振りを除いて、脇差は皆、本丸の中だ。外では陽が傾き始めており、作業を終えて帰ってきてもおかしくない時間帯だった。
 誰かひと振りくらい、食べている最中に入ってくるとばかり思っていた。
 見込みが甘かったのは否定しない。室内の空気はどうにも微妙で、快適とは言えなかった。
 にっかり青江とふた振りきりだと、小夜左文字は出ていくと言い出し難かろう。居心地が良い空間を提供してやれなかったのは残念だが、引き留めて嫌な思いをさせるのも申し訳なかった。
「みんなには、伝えておくよ。ありがとう」
 菓子入りの皿を手元に引き寄せ、そこから更に、天板の中心へと移動させた。
 がりがりと木の板が削れる音にハッと顔を上げて、短刀は胸の前で指を蠢かせた。
 絡ませ、握り、広げては指先同士を貼り合わせる。
 落ち着きを欠いた仕草に小さく首肯して、にっかり青江は真後ろを振り返った。
「あの」
「うん?」
 もう帰って良い、と態度で示したつもりだった。ところが小夜左文字が不意に声を上げたものだから、瞬時に身体を捻らねばならなかった。
 長い髪が左右に踊り、暴れ、静かになった。肩の上に残ったひと房を背中に放り投げて、大脇差は頬を紅潮させた少年に眉目を顰めた。
 表情は切羽詰まっているような、鬼気迫るような。ともかく、一刻も早く立ち去りたいと思っている雰囲気ではなかった。
「なんだい?」
 またしても想定外の事態に、ほんの僅かながら声が上擦った。
 首を右に倒して問いかければ、正座から尻を浮かせた少年は、ストンと座り直し、衿の合わせ目を指で弄り倒した。
「あの、にっかり青江さん、は。畑仕事の時、髪の毛、どう、して、いますか」
「んん?」
 言葉をひとつひとつ小分けにして、息継ぎを頻繁に挟みながら訊ねられた。
 よもやそこに話が行くとは思ってもいなくて、にっかり青江は目を丸くした。
 利き手は無意識に後ろへ回り、背中に垂れる長いひと房を掬い取った。広げた指で軽く梳いて、深緑の流れを胸元に引き寄せた。
 毎朝櫛を入れているので、毛先はするすると零れ落ちた。それを二度、三度と繰り返して、彼は怪訝な眼差しを斜め前方へ投げた。
 意図を探り、小夜左文字を見詰める。
 少年は覚悟を決めたか、一文字に引き結んでいた唇を解いた。
「兄様、……あ、江雪兄様が。夏場、とても暑そうだったので」
 一度言いかけて、慌てて訂正し、付け足した。それで彼の真意が読み解けて、にっかり青江は嗚呼、と頬を緩めた。
 小夜左文字の兄である江雪左文字は、青銀の髪が美しい太刀だ。戦嫌いということで当初は浮いた存在だったが、今ではすっかり打ち解けていた。
 畑仕事や馬当番といった、他の刀らが嫌う作業も、精力的に引き受けていた。特に庭造りが好きらしく、積極的に取り組んでいた。
「確かに、彼の髪は、暑そうだねえ」
 その太刀は、髪が長い。にっかり青江に勝るとも劣らないくらいで、それをいつも背に垂らしていた。
 だが屈んだり、前のめりになったりする機会が多い作業で、その髪が邪魔になるのも事実。どれだけ後ろに掻き上げようとも、重みに引っ張られ、自然と胸元へ雪崩れ込んできた。
 結えばいいのだけれど、ただ束ねるだけでは、あまり意味がない。
 毎日のように悪戦苦闘している兄の姿を見て、なんとかしたい、と彼なりに考えたようだ。
 そんな時に、同じく髪が長い刀と話す機会を得た。
 なにか妙案がないかと問いかけられて、にっかり青江は顎を撫でた。
「ふうむ」
 薄く開けた唇から息を吐き、半眼する。
 壁に吊された暦は、これから夏に向かうと告げていた。
「そうだねえ。一番手っ取り早いのは、ぶらぶら垂れているものを切ってしまうことだけれどね……髪のことだよ?」
「他に、なにを切るんですか?」
「んん、まあ、それは置いておいて」
 暑さをしのぐ方法はいくつかあるが、簡単かつ効果的なのは髪を短くすることだ。
 純粋無垢な眼差しに苦笑で応じて、大脇差はコホンと咳払いした後、自分の髪を掬い上げた。
 細い束を肩より高い位置で揺らし、根本で結んでいた紐を解いた。途端に一箇所に集まっていたものが膨らんで、背中全体を覆い隠した。
 先端は座布団の下へ潜り込み、畳に零れた。頭頂部にあった締め付けや、重みが一瞬のうちに瓦解したのに、まだ結われているような感覚はしばらくその場に留まった。
 卵形をしている後頭部をなぞり、ひと房取って短刀に示す。
「僕らは、切ったところで手入れ部屋で元通り、だからねえ。だったら、縛ってしまうべきと思うな。……髪をだよ?」
「髪以外、どこを縛るんですか?」
「それは僕じゃなくて、亀甲貞宗君の得意分野だねえ」
「……はあ」
 淡々とした合いの手の後、小夜左文字は分かったような、分からなかったような顔をした。頭の片隅で考えて、数秒後に放棄して、話を戻そうとにっかり青江に向き直った。
 足を揃え、その上に両手を並べた。
 行儀よく畏まる短刀に相好を崩して、大脇差は両手を首の後ろへ回した。
 手櫛で軽く梳いて、一本にまとめた髪を三つに分けた。素早く手を動かして、慣れた調子で瞬く間に髪を結い直した。
「たとえば、こんな感じ」
「縄、みたいです」
「似たようなものかな。こうしておけば、髪は散らばらないだろう?」
 鏡もなしに完成させ、結い終わりは指で押さえる。
 それを肩から胸元へ垂らせば、小夜左文字は率直な感想を述べた。
 正直で、素直すぎる返答には、苦笑を禁じ得ない。甚だ失礼な意見だが、怒る気は起こらなかった。
「本当だ」
 試しに編んだ髪を上下に振り回すが、長さが足りずにはみ出た分以外、毛先は散らばらなかった。
 小夜左文字は感心した様子で頷いて、雑に結んでいるだけの自分の髪を抱え込んだ。
「君は、ちょっと長さが足りないかな」
 短刀の髪質は固く、癖が強い。解けば肩より下に届くが、編むには少々短かった。
「そうですか」
「体験していくかい? ――髪結いを、だよ」
 教えられた内容を、自分で試そうと考えたのだろう。
 それを真っ向から否定され、落ち込んだ少年に、にっかり青江は素早く言い足した。
「いいんですか?」
 途端に小夜左文字の顔がぱあっと明るくなって、声も一緒に高くなった。普段の、感情を押し殺した口調が薄れて、外見に応じた表情の完成だった。
 喜怒哀楽が大きく欠如していると思われがちな彼だけれど、しっかり備わっていた。
 珍しいものを見たと感嘆して、大脇差は深く頷いた。
「かまわないよ。どうぞ」
 今の表情だけで、練習台になる価値はある。素晴らしい報酬を先払いされたのだから、協力を惜しむつもりはなかった。
 早速炬燵から足を引き抜き、立ち上がろうとした。座布団ごと後ろに下がり、膝を畳んで腰を浮かせようとした。
 だがそれより早く、短刀が動いた。好機を逃すまいと息巻いて、小夜左文字はにっかり青江の後ろに移動した。
「おやおや」
「教えてもらえますか」
 なんとせっかちで、気忙しいのだろう。
 己のことには無頓着なのに、兄に関する事項だと、こんなにも必死になる。
 江雪左文字や宗三左文字が知れば、きっと泣いて喜ぶに違いなかった。
「君たちは、案外、仲が良いんだねえ」
「にっかり青江さん?」
「まずは根元で、ひとつに束ねる。それを、出来るだけ均等に、三つに分けてごらん?」
「はい」
 新たな事実に胸を震わせ、彼は怪訝にする短刀に指示を出した。まずは基本中の基本からと、恐らく他者の髪など結ったことがないだろう少年相手に、あれこれと思いつく限りの助言を贈った。
 櫛があれば良いのだが、生憎とこの部屋には備えられていない。
 取りに行く案は、真剣に取り組んでいる短刀に水を注すことなるので、言わずにおいた。
「あいた」
「すっ、すみません」
「良いよ、大丈夫。ああ、抜けた髪はそっちの屑入れにお願いするよ」
「気を付けます」
「丸坊主にだけは、しないでおくれよ。そうしたら、他の毛で練習してもらわないといけなくなるからね」
「ほかの?」
「おっと。今のは、お兄さんたちには内緒だよ」
「……? 分かりました」
 たまに力加減を誤って、強く引っ張られた。
 通じているのか、いないのか、微妙なやり取りを何度か繰り返し、小夜左文字はせっせと手を動かした。
 結んで、解いて、また結んで。
 最初は綺麗に三当分出来ず、太さがばらばらで、うまくまとめられなかった。
 それが回数を重ねる度に、少しずつ整えられていく。
 但し巧く出来たかどうか判定を求められても、にっかり青江の目には、方々を向いて跳ねる毛先くらいしか見えなかった。
 鏡があれば良かったのだが、そちらもこの部屋にはない。誰か取りに来てくれないかと切に願っていたら、ドタドタと、久しく途絶えていた足音が響いた。
「おっ」
「あー、疲れた。たっだいま~。っと、おやあ? 珍しいお客さんですね」
「今戻った。なんだ、来ていたのか」
「おかえり。小夜君、練習台が増えたよ」
「んん? なんですか?」
 自室へ戻るより先に、こちらに顔を出したのは鯰尾藤四郎と、骨喰藤四郎の兄弟だ。粟田口派に属する脇差で、片方は賑やかで、片方は静かで大人しかった。
 大阪城落城の際に焼け身となり、記憶が一部欠落しているという。だが鯰尾藤四郎はあまり気にすることなく、本丸での日々を満喫していた。
 障子を大きく開けて入って来た彼らからは、泥と獣の臭いがした。馬当番を真面目にやったかは疑問が残るが、両手はしっかり洗われて、綺麗だった。
「それは、なんだ?」
 にっかり青江の髪を結っていた小夜左文字から視線を動かし、骨喰藤四郎が炬燵を指差す。
 大脇差に意味深に笑われて、首を傾げていた鯰尾藤四郎も、顔を上げて目を輝かせた。
「おおっと、これはしゅーくりーむ!」
「おや、知っているんだ」
「もちろん、知ってますって。前に、燭台切さんが試作品だって、味見させてくれたんです。完成したんだ。うわあ、美味しそうだなあ」
「兄弟。初耳だ」
「あ、しまった。内緒だった」
 皿の中の菓子を見た瞬間、高らかと響いた歓声に、にっかり青江は驚き、骨喰藤四郎は表情を曇らせた。横から鋭く睨まれた脇差はハッとして口元を覆い、言わなくて良いことを声に出して首を竦めた。
 彼らがやって来ただけで、部屋の中が一気に騒がしくなった。
 物理的にも、精神的にも喧しさが増して、小夜左文字は屈託なく笑う彼らに目を丸くした。
 髪を結う手が止まり、背中に隠された。
 気配を察したにっかり青江は振り返って笑いかけ、及び腰の短刀を引き留めた。
「鯰尾君は、夏の間、愉快な髪型をしてたよねえ?」
「ふぁい?」
 炬燵の反対側に回り、早速菓子皿に手を伸ばした脇差に問いかける。
 勝手知ったるなんとやらで、特に慌てもせず、零しもせずに薄皮に齧り付いた少年は、質問に一瞬固まり、瞳を宙へ投げた。
「俺の力作だ」
「あ、あー。はいはい。乱と骨喰に、玩具にされてましたけど。それがなにか?」
 粟田口派の刀剣男士は、数こそ多いが、長髪は彼と乱藤四郎くらいだ。それが災いしてか、夏場は毎日のように髪型が変わっていた。
 団子状に丸めたり、細く編んだものを輪にしたり。
 涼しさと過ごし易さを優先させた脇差は、見た目が滑稽だろうと構わなかった。それで余計に周囲が面白がって、次第に凝ったものに変わって行った。
 忘れていた記憶を呼び覚まし、鯰尾藤四郎が首を捻る。
 得意げに親指を立てている脇差にも目を向けて、にっかり青江は珍客と言われた少年の肩を押した。
「小夜君に、教えてあげてくれるかな。お兄さんの髪を、結ってあげたいそうだよ」
「え、あの」
 突然矢面に立たされて、小夜左文字の身体がビクッと跳ねた。
 一斉に向けられた視線に竦み上がった短刀に、鯰尾藤四郎と骨喰藤四郎は顔を見合わせた。
 目と目で会話して、改めて前に立つ小柄な少年に注目する。
 両腕に鳥肌を立てて震える彼に微笑んで、にっかり青江は人差し指を立てた。
 それを頬に押し当てて目を眇め、脇差仲間から同意を引き出す。
「いいですねえ、俺は構いませんよ」
「江雪左文字か。どんな風にするのが良いだろう」
「いえ、そんな。お手を煩わせることは」
「いいの、いいの」
 使えるものは、使える時に使っておくべきだ。
 こんなところでまで遠慮しようとした短刀を焚きつけて、口角を持ち上げる。前方ではすでに脇差ふた振りが、どのような髪型が良いか検討を開始しており、今更止められそうになかった。
 事態はすでに動いている。
 にっかり青江に申し出た時点で、小夜左文字の意思は彼ひと振りのものではなくなった。
「ただ今戻りました~。あれ、賑やかですね。なにかあったんですか?」
 そうこうしているうちに、物吉貞宗が顔を出した。こちらも自室に向かうより先に、大勢で集まる共同部屋へやって来て、滅多にない来客に顔を綻ばせた。
 いつも笑顔を欠かさない少年が、髪を弄られる長髪ふた振りと、弄っているふた振りを順に見た。興味深そうに小夜左文字の手元を覗き込んで、事情を説明されて嗚呼、と手を叩いた。
「僕、太鼓鐘に頼まれて、いろんな髪飾り、作ってるんですよ。持ってきますね」
 結った髪を留めるのには、紐や、簪が必要だ。編み方が多少雑になっていても、装飾次第ではあまり目立たない。
 派手好みの弟を持つ脇差の提案に、骨喰藤四郎が妙案だと親指を立てる。
 慌ただしく廊下を駆けて行った彼と入れ替わりで、今度は堀川国広が姿を見せた。
「あれ、小夜ちゃん。珍しいですね。みなさんも、なにしてるんですか?」
「江雪左文字さんの、髪型相談会です」
「……うん? なんだかよく分からないけど、櫛と、鏡、要りますね。取ってきます」
 いつにも増して賑やかな空間に、鯰尾藤四郎の元気の良い声が響き渡る。その的を射ているようで、大筋が欠けた説明に、新撰組所縁の脇差は苦笑いを浮かべて踵を返した。
 察しが良いと感心して、にっかり青江は炬燵に深く潜り込んだ。
「お待たせしました。こういうのとか、江雪さんに似合うと思いませんか?」
「えっ、あ、……きれい、です」
「髪の手入れだったら、兼さんで慣れてるからね。なんでも聞いて?」
「ありが、とう、ございます」
「出来たぞ。こういうのはどうだ」
「――くっ」
「うわあ……」
「ちょ、ちょっと。鯰尾君。君、それでいいの?」
「残念。俺には見えません!」
 足早に戻って来た物吉貞宗、堀川国広に挟まれ、小夜左文字が動揺しながらも懸命に応対する。
 前方では鯰尾藤四郎の髪の毛がとぐろを巻き、頭の天辺に陣取っていた。
 自信満々の骨喰藤四郎に、どうしてそうなったのかとの突っ込みが四方から飛んでいく。もっともやられた当人は完全に開き直っており、鏡を見せられても目を瞑って、堂々と胸を張り続けた。
 賑やかで、騒々しく、それでいながら嫌な気分にならない。
 けたたましい笑い声に包まれて、最初は戸惑っていた短刀も、次第に表情を和らげた。
「それ、どうしたんですか?」
「燭台切さんが作ったんだって。しゅ一くりーむ」
「しうくりむ、です」
「違うって、小夜ちゃん。しゅーくりーむ」
「しう、くりむ」
「美味ければ、どっちでもいい」
 天板に陣取る菓子に気付いた堀川国広に、鯰尾藤四郎と小夜左文字が火花を散らした。
 最後は骨喰藤四郎が引き受けて、それでまた一段と大きな笑い声が部屋に響く。
 果ては隠してあった煎餅、かき餅などが次々現れ、空になった深皿はすぐに別のもので埋め尽くされた。
 二つ結びにしたり、細かく編んだものをひとつに束ねたり。宗三左文字のような編み込みで、ぐるりと頭を一周させたり。
 次々に披露される髪型に、物吉貞宗特製の髪飾りが彩りを添えた。途中からは骨喰藤四郎と堀川国広の技術対決へと発展して、簡単なやり方を学びたかった小夜左文字は、若干置いてけぼりだった。
 それでも彼は、楽しそうだった。
 熱心に脇差たちの手元を注視する短刀の横顔に目を眇め、にっかり青江は炬燵の天板に顎を沈めた。
「たまには、大勢でやるのも悪くないね。……休日の過ごし方のことだよ」

真菅生ふる山田に水をまかすれば うれしがほにも鳴くかはづ哉
山家集 春 167

2017/05/16 脱稿