恋は世に憂き こととこそ聞け

 耳鳴りが止まなかった。
 地を震わせる咆哮が、四方八方から轟いた。圧倒的多数の悪意に晒されて、全身がびりびり痺れ、握力が一瞬鈍ったようだった。
 雨の中、ただでさえ足場が悪い。小回りの利かない馬は市街地では使えず、徒歩での移動が思った以上に体力を消耗させていた。
 戦闘中にのんびり傘をさすなど、できる訳がない。濡れ鼠という状況が、体温を奪い、疲労を増幅させていた。
 目的地までまだ遠いのに、こんなところで足止めを食っている暇はない。
 そう叫んだのは、厚藤四郎だっただろうか。
 主君の為にも、押し通る。力強く吠えたのは、前田藤四郎だったはずだ。
 視界が悪く、跳ねた泥水にも悩まされた。一撃で屠れなかった敵の反撃を受け、ばしゃりと突っ込んだ水たまりが第二の敵だった。
 細かな飛沫が目に入り、ほんの僅かな時間でも、視力を奪い、行動を阻害した。
 恐ろしく重い打撃を辛うじて受け止めたものの、がら空きになった胴を守り抜く術は、残念ながら持ち合わせていなかった。
「ふぐっ」
 短刀の胴回りくらいはある太い脚が、回転しながら襲いかかって来た。
 まるで巨大な棍棒だ。上にばかり意識が向いていた所為で、避けることも、構えることもできなかった。
 敢え無く吹っ飛ばされ、地に転がった。角の尖った砂利が肩に当たって、衝撃を二重にも、三重にも膨らませてくれた。
 そのまま泥水を巻き上げて滑り、勢いが弱まる機を狙って後ろへ跳んだ。一秒前には自分がいた場所に刃毀れが酷い刃が突き刺さり、ザクザクザク、と連続して追いかけてきた。
 他の仲間がどうなったか、なにも分からない。
 こんなに狭い道で大太刀を振り回す時間遡行軍に辟易しながら、小夜左文字は口に入った雨を吐き出した。
 爪の先ほどもない石が咥内に残り、舌の上を転がった。不快感から顔が歪み、続けて吐き出そうとしたけれど、相手はそれを待ってくれなかった。
「……くっ」
 袈裟切りに振り下ろされた刃を躱そうとしたが、ズキリと来た痛みに足が止まった。
 先ほど蹴られた時、あばら骨を痛めたらしい。
 咄嗟に動けなくて、瞬時に方針を転換した。ぎりぎりまで引きつけたところを屈んで避けて、一撃必殺を狙い、意を決して大太刀の懐に飛び込んだ。
「復讐してやる。復讐してやる!」
 折れた肋骨の痛みを堪え、感情のままに吼えた。
 己を、仲間を傷つけた者たちへの怒りを爆発させて、小夜左文字は握りしめた短刀に左手を添えた。
 狙いを定め、左脇腹へと突き立てる。
「僕を怒らせたんだ。復讐されて当然だろ」
 渾身の力を籠めて、ぶすりと突き刺した刃を上向かせた。歯を食いしばり、全神経を集中させて、怪しく輝く赤い瞳目掛けて短刀を振り上げた。
「はああああああああっ!」
 ぐおおおおお、と断末魔の声がこだまする。
 真上から放たれた大音響にビクッとして、彼は反射的に顔を上げた。
 目で確認するより先に、直感で動いておくべきだった。
 この僅かな差が、致命傷を産むことだってある。
「があっ」
 決死の覚悟を決めた大太刀が、最後の力を振り絞って華奢な肩を掴んだ。接近しないと攻撃できない短刀の欠点を嘲笑い、逃げられないよう骨を砕いた。
 バキッと、身体の内側で嫌な音がした。
 刹那、地獄の釜で茹でられているような、凶悪な熱さが突き抜けた。内臓がひっくり返り、精神の核ともいうべきものが破裂して、心臓が一瞬止まった錯覚に陥った。
 痛い、などという生易しいものではなかった。
 ビクビクと痙攣を起こした短刀に、敵大太刀がにたりと笑った。逆転勝利を確信した時間遡行軍を、小夜左文字は鋭く睨みつけた。
「死んでよ!」
 あまりにも強烈な痛みが、痛覚そのものを彼から奪った。左肩を粉砕され、指がピクリとも動かなくなってもなお、辛うじて自由が利く右腕を振るい、大太刀から引き抜いた短刀で再度貫いた。
 ぐぢゅう、と血ではなく、別の何かが傷口から噴出する。
 それを顔面に浴びながら、左文字の短刀は抵抗を止めない大太刀を引き裂いた。
 脇腹に十字の傷を作り、時間遡行軍が断末魔の叫びを放った。
 直後にふっと身体が軽くなったのは、命脈を絶たれた大太刀が砂粒となって形を失った所為だった。
 奴らは骸を遺さない。もとよりこの時代には存在しなかったものだ。細かな粒子となって飛び散って、それさえもやがて消えた。
 その瞬間だけ、あの歪で醜悪な時間遡行軍も、綺麗だと思えた。
 ただこの雨の中では、あまり風情が感じられない。がっかりしたような、ほっとしたような、よく分からない感覚が短刀の胸を満たした。
「そうだ。みんな――あぐっ」
 ようやく倒し終えて、集中力がぷつりと途切れた。
 意識が遠退きかけて、すんでのところで踏み止まった。共に出陣した仲間の行方を気にして、直後に全身を切り裂くような痛みが戻って来た。
 熱い。
 息が出来ない。
 身体のあちこちで変な音がした。だらりと垂れ下がった腕が千切れ、地面に落ちる幻を見た。
 皮一枚で繋がっている左腕が力なくぶらぶら揺れて、右手で庇いたいのに、それさえもできなかった。
「あっ、ああ、あがっ、ううううう」
 獣のように呻き、喘いだ。どっと溢れ出た汗が、元から濡れていた身体を一層湿らせていく。視界は右に、左に大きく歪んで、目を瞑っていても同じだった。
 眩暈がして、立っていられなかった。膝に力が入らず、一歩も歩けない。遠くで剣戟の音が続いており、乱藤四郎のものらしき悲鳴が空を裂いた。
 今すぐ向かいたいのに、足が動かなかった。
 一番大きく、力がありそうな敵を引き受けたが、時間をかけ過ぎた。
 頭がぼうっとして、鼻から突っ込んだ水たまりから顔を上げる余力も残っていなかった。
 辛うじて横向き、気道を確保したものの、そこから先が続かない。
「い、か……な…………と……」
 悪足掻きを止めず、横倒しの状態で地面を蹴る。しかしぬかるんだ大地では踏ん張りが利かず、爪先はずるずると後退し、浅い溝が増える一方だった。
 破れた笠に雨が当たり、跳ね返すその振動さえもが激痛を産んだ。
 意識が薄れて行くのが分かる。
 懸命に堰き止めようと抗って、小夜左文字は自然と溢れる涙に頬を濡らした。
 噛みしめた砂利は、血の味がした。

「っ!」
 背中を突き飛ばされたような衝撃が、全身に襲い掛かった。
 それで沈んでいた意識が浮上して、小夜左文字は一気に水面から飛び出した。
 乖離していた精神と肉体がぶつかり合い、目の前で火花が散った。見開いた世界が真っ白に染まって、ひと呼吸後には真っ暗闇に切り替わった。
 噴き出た脂汗は生温く、感触は不快だ。ど、ど、ど、と耳元で銅鑼を叩く鼓動に瞠目して、彼は混乱のままに瞳を蠢かせた。
 すぐそこに敵が潜んでいる気がして、恐怖が先行した。微かな灯明ひとつに照らされた室内は不穏で、却って底知れぬ闇を感じた。
 奈落に落とされたのかと勘繰り、己の呼吸音ひとつにさえ背筋が粟立つ。
 自分でも驚くほど竦み上がって、小夜左文字は必死に辺りを見回した。
 暗すぎるせいで景色は見えず、ここがどこだか分からない。
 覚えのある匂いが鼻先を掠めたけれど、惑乱した状態で嗅ぎ分けられるわけがなかった。
「あ、あ……あぐ、うっ」
 柔らかな布団の中で身動ぎ、起き上がろうとして激痛に襲われた。
 喉の奥で潰れた悲鳴を上げて、彼は少しも浮かなかった背中を敷き布団に押し付けた。
 蘇った痛みで、これが現実だと知った。傷口に触れようとした手は空中を彷徨いもせず、布団の中で身悶えていた。
 左腕は、繋がっていた。ただし指先に力が入らない。感覚も、ほとんどなかった。
 止血すべく傷口を圧迫する包帯は、二重どころか四重にも、五重にも巻きつけられていた。折れた場所には添え木を当てて、固定している。不用意に動かないよう拘束して、その上から綿入りの布が被せられていた。
 知らないうちに下穿き一枚にされ、着衣は取り払われていた。それも止む無しで、包帯が巻かれていない場所を探す方が難しかった。
 腕も、足も、胴も、どこもかしこも傷だらけだ。切り傷に加え、打ち身が酷く、無理が祟って右足は肉離れを起こしていた。
 こんな状態でよくぞ戦い続けたと、我がことながら呆れるしかない。
「いき、て……る……」
 気を抜くと持って行かれる意識を懸命に引き留めて、小夜左文字は低い天井をじっと見つめた。
 呼吸を整え、千々に乱れる心を静めた。ズキズキと止まない痛みから注意を逸らし、酸素を掻き集め、目を凝らした。
 短刀としての能力が復帰して、微かな光ひとつでも場を見渡せるようになった。天井板の木目からここが自室だと判断して、奥歯を噛み鳴らし、鼻から息を吸いこんだ。
 それがきっかけになったのか。
 部屋の隅で丸くなっていたものが膨らんで、もぞもぞと動き始めた。
「お小夜?」
 壁に寄り掛かり、眠っていたらしい。掠れた声で呼ばれた後、灯明が動き、続けてパッと部屋が明るくなった。
 行燈に火が入って、薄い紙越しに橙色の光が広がった。油皿の上で踊る炎がゆらゆらと影を作り、布団から動けない短刀を淡く照らし出した。
「か……せ、ん……?」
「具合は、どうだい」
 置き行燈を枕元へ移動させて、歌仙兼定が真上から小夜左文字を覗き込んだ。寝間着ではなく、内番着姿だったが、藤色の髪は結われていなかった。
 急いで着替えたらしく、襷の結び目がいつもより大きい。袴の襞も乱れて、おおよそ彼らしくなかった。
「ぼく、は」
「ああ、いい。喋らなくて。無理はするものじゃない」
 布団の右側に立ち、昔馴染みの打刀は顔の前で手を振った。自分で訊いておきながら失礼な態度だが、それを責める気力は短刀に備わっていなかった。
 とてつもない疲労感に、なにもかもがどうでもいい、と投げやりになっていた。
 考えることすら面倒で、男に向けようとした視線もすぐ正面へ戻した。
 そうやってまた天井を眺めて、引いてくれない痛みの波に眉を顰める。
「すまないね、お小夜。もうしばらく、我慢してくれ」
 表情の僅かな変化を悟り、枕元で灯りの位置を微調整した打刀が囁いた。
「……どう、して……」
 影の揺らぎが大きくなり、右に、左に彷徨った。暗さの所為か、男の表情も翳って見える。喉の奥から絞り出した質問に、歌仙兼定はすぐに答えてくれなかった。
 どこから説明するかで悩んでいるのが、気配から伝わってきた。
 小夜左文字自身、なにから知りたいのか、よく分からない。江戸城下で戦闘中のはずが、気が付けば本丸に戻っていた。しかも手入れ部屋に放り込まれることもなく、重傷を負ったままの状態で寝かされていた。
 時系列を整理して、途切れている記憶の谷間を覗き込む。
 溢れて止まない疑問に口元を歪めていたら、傍らからふう、と長い溜め息が聞こえた。
「君たちの窮状に、主が強制退避を命じてね。結果は、重傷五振り、中傷ひと振り。もっとも、中傷とはいえ、限りなく重傷に近い負傷度合いだった」
 訥々と語る口調は穏やかで、淡々としていた。務めて平静を装っているのが伝わってきて、告げられた内容がすぐに頭に入ってこなかった。
 彼らの背後を急襲した敵は、いつもと様子が違っていた。猛然と突き進んで、短刀たちの隊列を真っ先に乱した。
 守りの要である刀装を剥がされ、仲間と分断された。合流を急ぐこちらの心理を利用して、誘いをかけ、猛攻撃を仕掛けて来た。
 これまでの力押し一辺倒のやり方とは、明らかに違っていた。
 間違いなく、時間遡行軍に指示を出す者が近くに居た。姿は確認出来なかったけれど、そうとしか思えなかった。
 いつもとは違う道に誘導され、本来の経路から大きく逸れてしまったのが、総崩れとなった遠因だ。あそこで一度立ち止まり、冷静に対処しておけば良かったのだが、自分たちは修行を経て強くなった、という慢心が、引き際を見誤らせた。
「主は帰還後すぐに、今回の件の報告をするよう、政府に呼び出されてしまってね。手入れ部屋の鍵は開いたが、――知っての通り、主がいなければ手伝い札は使えない。君と、薬研藤四郎には、しばらく我慢してもらうことになった」
「……そう、ですか」
 己の力不足と、傲慢さを思い知らされた。
 足元を見事に掬われた格好で、言い訳のひとつもできなかった。
 時間遡行軍に統率者が在る可能性は、以前から指摘されていた。数に任せた戦い方を止め、方針を転換したとの噂が、まことしやかに囁かれていた。
 今回、それを実感した。
 あんなにも簡単に蹴散らされたのが衝撃的で、屈辱的だった。
「復讐、して……やる……」
 腹の奥底から声を絞り出し、決意を固め、奥歯を噛む。
 ガチリと音を響かせた彼に、歌仙兼定は愁眉を開いた。
「そう言えるようなら、良かったよ」
 この借りは、必ず返す。そう誓った短刀に相好を崩して、打刀は清潔な手拭いで小夜左文字の額を拭った。
 木綿のさらっとした感触が通り過ぎ、僅かだが熱が引いたようだった。錯覚とはいえほっとして、彼は深く息を吐いた。
 鉄の味がする唇を舐め、瞼を閉じる。黒一色になった視界に浮かんだのは、消滅寸前まで抗った大太刀の姿だった。
 奴らも、必死だった。絶対に歴史を変えてみせる、という強い意志が垣間見えて、圧倒された。
 向こうの方が、強い信念を抱いていた。
 その差が、今回の結果だ。
 最初から負けていたのだ。敵の戦力がどうだとか、指揮者の有無は関係ない。
 敗れるべきして、敗れた。調子に乗って、誰が一番誉れを獲得するか、というくだらない競争に興じた罰が当たったのだ。
「みん、な、は」
「呼びに来る者がないところをみると、まだ手入れ部屋だ。待てるかい?」
「……待つしか、ありません。いっつ……」
「すまない、お小夜。ああ、そうだ。痛み止めがある。飲めそうかな?」
 厚藤四郎、乱藤四郎は、折れなかったのが奇跡といえる傷の深さだった。前田藤四郎、平野藤四郎も同様だ。帰還時に意識があったのは薬研藤四郎だけで、彼が無理を押して小夜左文字を応急処置し、薬を処方してくれた。
 あの戦場育ちの短刀がいなければ、痛みはもっと酷かったに違いない。
 説明しつつ、顆粒状の薬を見せて、歌仙兼定は困った顔で微笑んだ。
 聞きはしたが、飲めるわけがないと分かっているのだ。
 首さえ碌に動かせない状態で、起き上がれるはずもない。小夜左文字は視線をスッと脇へ逸らすことで、返事の代わりとした。
 沈黙が落ちて、灯明油の焦げる音と臭いが強まった。
 行燈の灯りが一瞬大きくざわめき、一秒後には何事もなかったかのように大人しくなった。
「薬研藤四郎には、宗三左文字と、へし切長谷部が付き添っている。江雪左文字殿は、数珠丸恒次殿と江戸だ」
「……え」
「心配はいらない。戦いに行ったのではないから。――君たちが敗れ去ったことで、歴史になんらかの影響が出た可能性がある。それを調べに向かわれた」
 歌仙兼定は腰を浮かせて遠くの何かを取り、座り直した。相変わらず感情の籠もらない声で淡々と言って、首の長い水差しから玻璃の器に水を注いだ。
 そこに薬研藤四郎の指示を受け、宗三左文字が出して来た鎮痛剤を溶かし込む。
 匙で掻き混ぜなくとも、それは瞬時に溶けて消えた。底に残らず、水は僅かに白く濁った。
「少し、失礼するよ」
「お願い、……します」
 一礼した打刀に微笑まれて、小夜左文字は嗚呼、と頷いた。顎を引いて吐息を零し、喉に力を込めて咥内の唾液を飲み干した。
 それを承諾と解釈し、男は玻璃の器を持ち上げ、その中身を口に含んだ。喉仏は動かない。飲み込むのではなく、内部に溜め込んで、空になった茶器は水差しの傍らへ戻した。
 続いて身を乗り出し、前屈みになった。横たわる短刀を潰さないよう腕を柱に据えて、狙いを定め、最後まで目は瞑らなかった。
「……ん、っ」
 鼻先に微風を感じたと思った瞬間、唇を覆われた。ほんの少し角度をつけて合わせれば、用意しておいた隙間から熱い舌が潜り込んできた。
 ぬるりとした感触と、他者の熱に、ぴくりと右肩が跳ねた。それを気取り、安心させるかのように、大きな手が傷だらけの頬に触れた。
 広範囲に及ぶ擦り傷を避け、表皮を軽く撫でただけだった。それでも意外に低い体温が心地よくて、小夜左文字は流れ込んできた温い液体に喉を鳴らした。
 口の中がいっぱいになり、溢れないよう、打刀は送り込む量を調整してくれた。筒状に窄めた舌を通して少しずつ、少しずつ注いで、短刀はその度に柔らかな媚肉に牙を立てた。
 軽く噛みつき、擽って、飲み込む瞬間は口蓋との間に挟んで潰した。意図的ではなく、そうせざるを得なかっただけだが、後から思い出せば、随分と意地の悪い行為だった。
 眉間の皺を深くして、歌仙兼定が渋面を作る。
 全てを飲み干した後もしばらくちづけを解かず、舌を擦りつけて来たのは、意趣返しのつもりだったようだ。
「は、……あ」
「効くのに時間がかかる。もうしばらく、眠ると良い」
 長い口吸いを終えて、脱力感が全身を包んだ。
 僅かに乱れた布団を整えて、水差しなどを片付けに入った男に、小夜左文字は動かない手を伸ばそうとした。
「かせ――つっ、う……」
「だから言ったのに」
 完全に無意識だった。五体満足の自分を想定して身動ぎ、全身を駆け抜けた激痛に身悶えた。
 歌仙兼定は呆れ顔で、嘆息の後に苦笑した。噴き出た汗を丹念に拭ってやって、短刀の枕元から去るのを諦めた。
 水差しを安全な位置まで退避させて、布団との距離を拳ひとつ分詰めた。額だけでなく、首筋にも手拭いを押し付けて、自由が利かない短刀の身体を慰めた。
 なかなか引かない痛みに意識が掠め取られ、視界に靄がかかった。輪郭がぼんやり朧になって、打刀の姿が滲んで見えた。
 一瞬だけ気を失って、強まった痛みで目を覚ます。
 気力がじわじわ削られて、肉体まで摩耗し、薄くなっていく感じだった。
 とても眠れる状態ではなくて、時間の経過が恐ろしく長かった。普段の数十倍にも、数百倍にも感じられて、いっそ折れてしまえたらと、そんな風に考えた。
「お小夜」
 心が細り、自分が保てなくなりそうな時。
 傍にいる男が静かに名前を呼んで、頬を撫でてくれた。
 戦場で浴びた雨は冷たく、骨まで沁みるようだった。
 敵の攻撃は容赦なく、受けた傷は膿んで、芯から疼いた。このまま腕が治らなかったら、足が元通りにならなかったらと考えると怖くて、戦えない刀の行く末に胸が締め付けられた。
 痛み止めを飲んだのに、なかなか効いてくれない。
 早く、と急かせば急かす程、効能が遠退いて行く。引き裂かれ、貫かれ、粉微塵にされる己を想像して、背筋が寒くなった。
「お小夜、大丈夫だ」
「……かせん」
「夜が明ければ、主も戻ってくる。それまで、どうか」
 祈るように囁かれて、勝手に涙が溢れた。激痛に身悶える刀が目の前にいて、見守るしか出来ない男の心を思うと、余計に苦しかった。
 あそこで折れていたら、楽だった。
 生きながら地獄を味わうこともなく、誰かの悲しむ顔を見ずに済んだ。手入れ部屋に入った弟らを案じて眠れぬ夜を過ごし、後悔に喘ぎ、すすり泣く太刀の声を聞かずに済んだ。
 この痛みは、かつて小夜左文字が傷つけた者たちの痛みだ。
 山賊の掌中に落ち、私欲の為に使われた。無辜の民を襲って、数多の血を浴びてきた。
 自身にまとわりつく黒い澱みが、この結果を引き寄せた。ひとりだけ幸福になるなど許さないと、呪詛を吐き、仲間を巻きこんだ。
 守り刀としてのあるべき姿を奪った盗賊を呪った。
 決して取り払えない逸話を背負わせた、研ぎ師の男を恨んだ。
 罪に汚れた短刀に『小夜』という号を付した、名付け親を忌んだ。
 こんなに苦しまなければならないのなら、いっそ消えてしまいたい。
 大太刀に骨を砕かれた瞬間、諦めかけたのは嘘ではない。このまま折れてしまったなら、誰かを恨み、憎み、謗り、怒りをぶつけるだけの日々から解放される。
 自由になる。
 救われる。
 ずっと探し続けていた境地に、辿り着ける。
 ようやく、呪縛から抜け出せる――
 だのに最後で、抵抗した。死に物狂いで敵を倒し、仲間に加勢しに行こうとした。
 諦めきれなかった。
 捨てきれなかった。
 背負わせられなかった。
 背負わせたくなかった。
 自分が折れることで、主に、仲間に、喪失がいかなるものかを教えてしまう。ずっと小夜左文字が抱え続けていたものを、別の誰かに引き継がせてしまう。
 本丸で日々を送るうちに、気がついたことがあった。
 数百年の時を放浪した短刀にとって、ここでの時間はほんの僅かなものでしかない。瞬き一回か、二回か、せいぜいそれくらいの短さでありながら、これまで目を瞑って来たもの、逸らしてきたものを否応なしに直視させられた。
 復讐の連鎖は、自分で終わりにしなければいけない。
 だったら、手放せない。
 棄てられない。
 この黒い澱みは、最期の時のその後も、自分が地獄へ連れて行く。
「君が折れてしまわなくて、よかった」
「歌仙……」
 心を見透かしたように、歌仙兼定が呟いた。
 今にも消え入りそうな掠れ声に瞠目して、小夜左文字は嗚呼、と頬を緩めた。
「折れても、良いと。ずっと、思ってました」
「お小夜」
「でも、いざとなったら」
 雨の中で意識を失う直前、走馬灯を見た。目まぐるしく駆け抜ける記憶は、山賊に囚われた時から始まり、各地を転々とする日々へと続いた。
 やがて景色が大きく変わり、現れる顔ぶれにも変化が生じた。
 歌仙兼定、宗三左文字、江雪左文字に、今剣や薬研藤四郎。太鼓鐘貞宗や蛍丸、愛染国俊、加州清光、それ以外にも大勢が。
 次々と現れては消えて、消えては現れた。
 笑いかけられ、叱られ、褒められ、呆れられ、頭を撫でられて。
 最初のうちは戸惑いの連続だった。なぜ刀である自分が、と思いながら日々を重ね、経験を積み、仲間たちと交流を深めた。
 孤独でありたいと願っても、本丸の中にいる限り、そうはいかない。ひと振りだけで何もかも出来る、というのは傲慢であり、思い上がりも甚だしかった。
 嫌ではなかった。
 楽しかった。
 もうあそこに帰れないのではと想像して、身の毛がよだった。
 死ぬ覚悟は、常に出来ていた。そのつもりで出陣し、敵に挑んだ。
 だのにいざその瞬間に直面して、恐怖した。
 臆病になった。
 消えたくないと、切に願った。
「未練が、出来てしまったんだね」
 今思い出すだけでも、全身が震えた。汗が流れ、それが冷えて寒さを覚え、内臓から凍りついて行く雰囲気だった。
 歌仙兼定は小さく頷き、手拭いを広げ、畳み直した。湿っていない部分を表にして、動けない短刀の身体を丹念に拭っていった。
「未練」
「繋がり、と言った方がいいのかな。それとも、業だろうか」
「……わかりません」
 彼らは人の手によって産み出された、刀剣に宿る付喪神。かつての主の生きざまを映す鏡であり、想いを受け継ぐ存在だった。
 その刀身には、数多の願いが込められている。祈り、嘆き、希望、あるいは憎しみといったものが絡みつき、積み重なって、曖昧で酷く心許なかった存在を、確固たるものに変えていた。
 物事には、すべてにおいて因と縁がある。因があることにより、縁が結ばれ、それがまた新たな因となり、次の縁へと繋がっていく。
 己を中心に、織りなされた世界。その各所に交友を持った、或いはなんらかの関わりがあるものたちが配置され、広大無辺に広がっていく。
 きらきらと輝く因縁もあれば、黒く澱んでしまった因縁もあるだろう。
 業とは、それらをひっくるめたものだ。
 決して綺麗なものではない。軽いものではない。時に引き千切り、投げ捨てたくなることもある。目を背け、否定せずにはいられない時だってあるだろう。
「お小夜が、世界から切り離されなくて、よかった」
 もし彼が、すべてに疲れ、足掻くのを止めてしまっていたら。
 世界の方から、彼との繋がりを断ち切ってしまったかもしれない。
 嗚呼、と歌仙兼定は頷いた。万感の思いを込めた笑みを浮かべ、背筋を伸ばして姿勢を正した。
 そして。
「もし、君が抱いた未練の、そのひと欠片の中に」
 少し照れ臭そうにはにかんで。
「僕が含まれていたのなら、嬉しい、かな」
 華が綻ぶとは、こういう笑顔を言うのだろう。
 僅かに身を揺らしながら告げた男をぼんやり見上げて、小夜左文字は音を刻みかけた唇をきゅっ、と引き結んだ。
 確かになにかを言いかけたのに、瞬き一回分にも満たない間に見失った。どういった系統の言葉だったのかすら思い出せないのに、どうしてだか無性に気恥ずかしさを覚え、耳がかあっと赤くなった。
 喋っている間に気が紛れたか、全身を覆っていた痛みは幾分薄らいでいた。
 痛み止めの効果も、じわじわと広がり出している。瞼が自然と重くなって、回復を目論む身体は眠りを欲した。
 けれど、眠りたくない。
 今寝てしまうのは、とても惜しい気がしてならなかった。
「さあ、お小夜」
 だが思いに反し、うつらうつら舟を漕ぎ始めた短刀に、打刀が寝かしつけようと手を伸ばす。
 痛まないようぽんぽん、と軽く胸の辺りを撫でられて、藍色の髪の少年は駄々を捏ね、首を振った。
 鼻を愚図らせ、すぴすぴと音を立てて。
 ろくに身動きが取れない状況に臍を噛み、眼差しだけで男をその場に留めた。
「お小夜?」
 名を呼ばれ、先ほど言い損ねた言葉を思い出した。
「歌仙。……しましょう」
「ああ、そうだね。しよう…………――なにを!?」
「うぐっ」
 夢うつつに囁いた直後、大声で怒鳴られた。唾を散らして叫ばれて、大音響に頭がくらっと来た。
 左右から同時に平手打ちを食らった錯覚に、脳みそがぐわわん、と激しく波打った。眩暈がして、激痛が大挙して押し寄せて、背中が僅かばかり宙に浮きあがった。
 身体がくの字に折れ曲がったのは、幻だった。
 もっとも精神的にはそんな状況で、息ひとつするだけでも関節のあちこちが悲鳴を上げた。
 身体中がギシギシ軋んで、捩れ、引き千切れるようだった。
「あああ、すまない。すまない、お小夜」
 苦悶に顔を歪めた短刀に、男は土下座する勢いで頭を下げて、何十回と謝罪を繰り返した。
 その顔は青ざめ、唇は土気色だった。左右を泳ぐ瞳は動揺をありありと伝えており、両手は落ち着きなく畳の上を這い回っていた。
 慌てふためき、この後どうすればいいか分からないでいる。
 死ぬよりも辛い痛みに耐えている短刀を前に、右往左往して、心は定まらなかった。
 そういう動転ぶりが、無性に懐かしく思えた。
 痛いのに、不思議と笑いがこみあげてきて、小夜左文字は辛うじて動く手を布団から引き抜いた。
 持ち上げるのは、叶わない。腹筋に力が入らず、腕の筋肉を支えるのに不十分だった。
「……お小夜」
「し、ましょう……歌仙」
 こんな薄い掛け布団一枚すら、押し退けられなかった。それだけ重い傷を抱えながら、無理を強いて、彼は気もそぞろな男の指先をちょん、と小突いた。
 それが精一杯だった。
 掠れる小声で訴えて、ハッとなった男を見詰めた。歌仙兼定の肌に血の気が戻り、またすぐに青白くなって、横に揺れる藤色の髪で隠された。
 俯き、頭を振って、打刀は嗚咽を堪えて息を詰まらせた。
「なにを、馬鹿なことを」
「……僕、は。まじめです」
「だったら、尚更だ。自分の身体を考えてみろ。できるわけがないだろう」
 呻くように言って、反論されて吠えた。勢い任せに畳を殴って、下から来る振動で短刀を攻撃した。
 怒鳴り声ひとつでも頭に響くというのに、本当に容赦がない。そういう考えなしの、力任せなやり口は、是非とも改めて欲しかった。
 だが、叱りたくても声が出ない。
 ビリッと来た痺れに胸が締め付けられて、小夜左文字は渋面を作り、喉の奥で息を詰まらせた。
 呼吸を止めて荒波をやり過ごし、痛みが穏やかになるのを待って四肢の力を抜いた。ふー、と薄い敷き布団に全身を委ねて、怒りで肩を戦慄かせている男を仰いだ。
「歌仙」
「こんな冗談、二度と御免だ」
「……歌仙」
 吐き捨てられた台詞から、本気で機嫌を損ねているのが感じられた。
 その激情すら嬉しく思っている自分に苦笑して、復讐以外を知った短刀は目を細めた。
「でも、僕は。あなたを、……歌仙。もっと近くで、感じたい」
「お小夜」
「繋がりたい」
 言葉を重ねて行くたびに、何故か胸が熱くなった。鼓動が高鳴り、内側から熱が迸って、その意図はないのに涙が溢れた。
 どうか聞き入れて欲しい。溢れて止まらないこの想いを、否定しないで欲しい。
 祈って、再度肘を伸ばした。畳に据えられた男の手を探して指を蠢かせ、薬指で見つけた固いものにありったけの気持ちを込めた。
 擦り寄り、縒りつき、絡め取った。
 実際には表面を爪で掻いた程度だったが、その間打刀は一切動かず、瞬きひとつしなかった。
 眉間に皺を寄せ、難しい顔で唇を引き結んだ。寄る辺を求める手を掴み取るまで、短くも長い時間、彼は小夜左文字の顔を見詰め続けた。
 やがて、男は深々と息を吐いた。
「……わかった」
 それだけを絞り出して、内出血で二倍近く腫れあがっている短刀の手を取った。
 赤黒く変色し、ぶよぶよと柔らかな皮膚を労わり、布団の中へと戻した。
「歌仙」
「だが、それは君の怪我が癒えてからだ。僕は、生憎と、重傷者を甚振るような趣味はない」
「……ふふ」
 敵に向かって首を差し出すよう言い放っておいて、まるで説得力がない。
 それを敢えて指摘せず、聞き流して、小夜左文字は布団から出て行こうとする手を引きとめた。
 今度は小指を、狙って探り当てた。なかなか曲がってくれない関節に焦れつつ、爪の先で引っ掻いて、違えた時の罰を彼に伝えた。
 歌仙兼定は肩を竦め、遠くを見ながら頷いた。取り戻した手で前髪を掻き上げて、尻を浮かせて膝立ちになった。
「約束、しました」
「ああ、約束だ。お小夜」
 真上から覆い被さる影に、短刀が相好を崩す。
 間を置かずに首肯して、打刀は慎重に身を屈めた。
 先に鼻の頭に挨拶をして、すぐ横に唇を移動させた。空中を滑るように飛び移って、弾むようにくちづけた。
 浅い谷間に舌を走らせ、隙間が開いたと見るや、がっぷり食らいついた。中にあった僅かな空気を奪い取り、薬湯の代わりに己が呼気を流し込んだ。
「んっ、あ」
 温んだ粘膜を絡め取れば、そこからちゅくり、音がする。
 くにくにと柔らかな表面を捏ね回して、溢れる唾液で橋を架けた。
 透明が糸が伸びて、千切れてしまうのが悔しかった。ずっとこのまま繋がっていればいいと願って、小夜左文字はいっぱいまで舌を伸ばした。
 その表面を舐め取って、歌仙兼定が前歯を浅く突き立てた。
「ひゃ」
 軽く噛まれただけなのに、電流が駆け抜けた。短刀は反射的に身を竦ませて、ビリリと来た疼きに息を乱した。
 大粒の涙が目尻に浮かび、流れ落ちる前に掠め取られた。頬を舐る熱が心地よくて、身体も、心も、此処にあるのだと実感できた。
「お小夜。もう僕は、君を見送りたくない」
「分かって、ます。んっ。僕、も……」
 口吸いの合間に囁いて、互いに吐息をぶつけ合った。混ぜ、奪い、与え、飲み込んだ。
 自由の利かない身体で、精一杯の感情を叩きつけた。この腕が思い通りに動かせたなら、抱きしめて、擦り寄って、出来ることを全部したかった。
 足りない。
 くちづけだけでは満たされない。
「身体、直ったら……。なか、に。ください」
「承知した。もう嫌だ、と泣いて謝られても、離さない」
「上等です。根こそぎ搾り取ってあげます」
 思うままにならないのが悔しくて、負け惜しみで囁いた。近くて遠い未来の約束をして、額を重ね、至近距離で笑いあった。

死なばやと何思ふらん後の世も 恋は世に憂きこととこそ聞け
山家集 雑 1318

2017/05/03 脱稿