その後ろ姿は挙動不審で、ひっきりなしに左右を確認していた。
落ち着きがなく、気もそぞろだ。爪先立ちで足音を消し、猫のような動きだった。
こっそり盗み見られているとも知らず、早足で廊下を通り過ぎる。曲がり角に至る度に後方を確認して、目的地へと急いだ。
もっとも行き先は、つまみ食いを狙った台所でなければ、本丸全体の運営資金が納まった金庫でもない。屋外へ出るべく、靴が並べられた玄関だった。
上がり框に腰を下ろし、踵が少し高くなった沓を見つけて手元へと引き寄せる。早速右足から履こうとして、爪先を入れるべく留め具を外した。
「歌仙?」
「ぎくっ!」
そこを狙って名前を呼んで、小夜左文字は深々と溜め息を吐いた。
前方では口から出そうになった心臓を飲みこんで、藤色の髪の打刀が仰々しく振り返った。
ほんのり朱を帯びた頬は引き攣り、全体的に強張っていた。空色の瞳は瞳孔が開いて、土気色の唇はわなわな震えていた。
一度だけこちらを見た後は、目を合わせようとしない。余所を向き、右往左往して、履きかけの沓を弾みで蹴り飛ばした。
他の刀の靴を巻き添えにして、盛大にひっくり返した。その中に、江雪左文字の雪駄が混じっているのを見て、藍の髪の短刀は力なく肩を落とした。
「どこへ、行くんですか。歌仙」
空はまだ白み始めたばかりで、西の空には夜の気配が残っている。
太陽が登り切るにはまだしばらく時間がかかり、屋敷に暮らす刀の大半は未だ布団の中だった。
夜の間に空気が冷えて、肌寒さは否めない。台所では当番の男らがせっせと包丁を振るい、朝餉の準備に取り掛かっていた。
そんな早朝の時間帯、遠征任務の出発はまだ先だ。出陣を言い渡された面々も、身支度を調えている最中で、玄関先に出てはいなかった。
だのにこの男は、裏地が派手な外套までしっかり着込み、寒さ対策を万全にした上で、外へ出ようとしていた。
いったい、どこへ行くつもりだったのか。
予想し得る可能性をいくつか頭に思い浮かべ、小夜左文字は静かに返答を待った。
その眼光は鋭く、険しい。決して朗らかに緩みはせず、打刀を睨んで逸らさなかった。
突き刺さる眼差しに臆し、歌仙兼定はひく、と喉を鳴らした。咥内の空気を飲みこんで、不自然に目を泳がせた。
「いや、えっと。お小夜、これは」
「聞いていることに答えてください、歌仙」
両手を振り回して必死に言い訳を試みるものの、頭が真っ白で、言葉が碌に出て来ない。
それでもなんとか言い繕うとした彼を遮って、短刀の少年は返答を急かした。
真っ直ぐ見つめられて、歌仙兼定の顔色がひと際悪くなった。助けを求めて辺りを見回すが、残念ながら玄関先には彼らふた振り以外、誰もやってこなかった。
窮地を脱するには、自分でなんとかするしかない。
「いや、あの。ちょっと、散歩、に……」
焦り、声を上擦らせた彼が言い放ったのは、そんな苦し紛れのひと言だった。
「わざわざ身繕いして、ですか?」
「そっ、そうさ。何事も、雅であらねばいけないからね」
それが、打刀には天啓に導かれたかのように思えたらしい。
訝しげに眉を顰めた短刀相手に、男は急に勢いづいた。
両腕をばっと広げたかと思えば、不遜に笑ってうんうん頷いた。得意げに胸を張って、靴を履かぬまま玄関へ降りた。
「そうですか」
「ああ、そうだとも」
最初からそういうつもりだったと言わんばかりの態度を示し、裏返っていた草履を踏んだところで上がり框へ戻った。爪先の汚れを軽く払って落とし、短刀の反論を待って目を眇めた。
出陣も、遠征も言い渡されておらず、近侍を任せられてもいない刀は、大体が内番着で過ごしていた。
汚れても構わない上に、動き易い。勿論出陣時の衣装もそうでなければならないのだが、武具がない分軽く、気が楽だった。
だから小夜左文字も、尻端折りこそしていないけれど、いつもの内番着姿だ。襷は折り畳んで懐に入れて、いつでも取り出せるようにしてあった。
ところが歌仙兼定は、庭を散策するためだけに、わざわざ戦装束に身を包んだという。
彼なりの雅さの表現だ、と言い張っているけれど、嘘なのは明白だった。
歴史修正主義者の目的を挫くべく、時間遡行軍との戦いが始まってから、もう結構な時が経った。
審神者なる者に現身を与えられた刀剣の付喪神は、刀剣男士として日々活動を繰り広げていた。時を遡って歴史への不当介入を阻止することもあれば、畑を耕し、馬を世話し、人間と変わらないような毎日を送っていた。
その本丸で過ごして来たこれまでの時間で、歌仙兼定が散歩のためだけに身なりを整えた回数が、どれだけあっただろう。
「そう、散歩ですか」
「ああ。お小夜、そうさ。他になにがあると言うんだい?」
だがそこは敢えて突っ込まず、小夜左文字は相槌を打つだけに留めた。
俯いて小さく頷き、一気に饒舌になった男を一瞥する。
途端に歌仙兼定は怯み、嫌な気配を覚えてたじろいだ。
「では、その散歩に、僕もご一緒して良いですか」
「えっ」
長いようで短かった冬が終わり、庭の雪は全て溶けた。庭木に巻き付けていた菰は外され、正月気分はとっくに過去のものとなっていた。
寒さに耐えた植物は春の気配を受けて一斉に芽吹き、桜の花は早々に咲き始めていた。満開は間もなくで、花見好きの刀らはその日を心待ちにしていた。
昨日まで堅かった蕾が、今朝は綻んでいるかもしれない。
薄桃色に色付こうとする木々を眺めて回るには、早朝のこの時間帯はうってつけだった。
喧しい連中に邪魔されず、のんびり観賞できる。
悪くないと口角を持ち上げた短刀に、打刀は何故か困った顔で仰け反った。
再び三和土へ落ちそうになって、踵が飛び出したところで急ぎ足を戻した。簡単には転落しない安全圏まで出て、ゆっくり歩み寄ってくる短刀に目を白黒させた。
「あ、あの。お小夜」
「いいでしょう、歌仙?」
ひと振りでの散歩も楽しいが、話し相手がいた方が盛り上がるに違いない。
小夜左文字は、普段から単独行動したがる刀だ。だから彼の方からこんな申し出をするのは、とても珍しいことだった。
いつもは歌仙兼定が誘って、つれなく断られていた。その記憶があるだけに、まさかの誘いに驚いたし、拒否できるわけがなかった。
強請って擦り寄って来た短刀を、どうして押し返せるだろう。
苦渋の選択を迫られて、打刀は揺れ動く天秤を飲みこんだ。
「それとも、歌仙。まさか万屋へ、いくつもりだったんですか?」
眉間に皺を寄せた男に、小夜左文字が息を潜め、声を低くした。
「ま、まさか! そんなわけが、わけが」
それでハッとして、歌仙兼定は声を上擦らせた。動揺しているのが丸分かりの叫び声をあげて、詰め寄った短刀にぶんぶん首を振った。
緩く湾曲した毛先を躍らせ、青白い肌を懸命に誤魔化した。眼前まで迫った少年をまともに見つめ返せず、言葉はしどろもどろだった。
図星を指摘されたと、態度が告げている。
非常に分かり易い打刀に深く肩を落とし、年嵩の短刀は微かに痛むこめかみを叩いた。
「分かっているとは思いますが」
これまで散々繰り返してきた説教を、また口にしなければいけないのかと思うと辛い。
何度言い聞かせても全く反省しない打刀をギロリと睨みつけ、小柄な少年は右足を思い切り床に叩きつけた。
バンッ、と大きな音と振動を響かせて、びくついている男に向かって伸びあがる。
大きすぎる身長差を僅かでも縮めて、小夜左文字は途端に気弱な表情を作った昔馴染みに人差し指を突き付けた。
「いいですか、歌仙。万屋は、禁止です。こっそり隠れて行こうだとか、絶対に、許しません」
「お小夜……」
一言一句噛み締めて、細切れにして告げた。
気迫の籠もった説得に歌仙兼定はがっくり肩を落とし、項垂れて小さくなった。
「どうしても、かい?」
「当たり前です。歌仙、あなたは今日まで、いったいどれだけ、無駄遣いしてきたと思ってるんですか」
「けど、お小夜。あれはみんな、僕の給料で」
「そうですか。僕が立て替えた分も、歌仙の給金だった、と」
「うぐ――」
もう一度床を蹴り、朝早くから玄関で罵声を轟かせる。
頭に血が上り、興奮のあまり早口になった短刀に、打刀は萎れた花と化して膝を折った。
反論を試みたが一蹴され、打つ手がなかった。痛いところを追及されて、最早なにも言い返せなかった。
「なにか文句がありますか?」
「いや、なにも……」
ふん、と鼻息を荒くした小夜左文字に問われ、力なく首を振るのが精一杯。
溢れ出そうになった涙を堪えて、歌仙兼定はしょんぼり項垂れた。
事の始まりは、彼の浪費癖を短刀が指摘したことだ。月に一度の給金を数ヶ月分前借していると、偶然耳にした小夜左文字が、本当かどうか問い詰めたのがきっかけだ。
へし切長谷部が誰かと立ち話している時、偶々近くを通りかかって聞いた話だ。これは嘘か真か確かめなければならないと、短刀はその日のうちに打刀へ回答を求めた。
結果、噂は真実と分かった。挙げ句、小夜左文字が把握していない借金まで多数抱えているのが判明した。
もともと金遣いが荒かったが、最近益々酷くなっていた。いったいどこから資金を調達しているのか気になっていたが、よもや仲間内から手広く借りているとは、夢にも思わなかった。
打刀の部屋を調べたら、出てくること、出てくること。
見たことのない大量の茶器や壷を前にして、ついに堪忍袋の緒が切れた。
そうして布告されたのが、歌仙兼定万屋行き厳禁、の報だった。
期限は、膨大な借金が完済するまで。彼に金を貸した刀の中には、くれたものとして返却不要と手を挙げた者もいたが、そこに甘えるのを小夜左文字は許さなかった。
借用書を取ったものは勿論のこと、取らなかったものも、覚えている限り全て返済させる。
そう息巻く短刀を、いったい誰が止められるだろう。
悪いのは、どこをどう見ても歌仙兼定だ。これも止む無し、と周囲は小夜左文字の意見に同調し、誰も打刀に同情してくれなかった。
「ううう……」
「散歩、行かないんですか?」
「お小夜が冷たい」
「冷たくありません。これでも精一杯、歌仙を労わってます」
膝を抱いて丸くなった男の肩を叩くが、歌仙兼定は顔を上げなかった。下を向いたまま鼻を愚図らせて、恨み節を呟いた。
それをまたもや一蹴して、小夜左文字は捲し立てた。よしよし、と落ち込む刀を慰めて、賑やかになり始めた後方を振り返った。
布団を出た刀たちが、続々と行動を開始していた。寝間着を脱いで、着替えを済ませ、朝食を食べようと廊下を行き交っていた。
調理場からは美味しそうな匂いが漂い、つられてぐう、と腹が鳴った。
今日の献立は、なんだろう。当番が誰だったのかを思い出そうとして、余所向いていた小夜左文字は次の瞬間、指先にぐっと力を込めた。
「何処に行くんですか」
この隙に、と逃げ出そうとしていた男の悪足掻きを封じ、冷たく問い質す。
短刀の逆鱗に触れた打刀は頬をヒクリ、と引き攣らせ、かつてないほど冷徹な眼差しに竦み上がった。
「歌仙」
「だ、だって、仕方がないだろう。欲しいものは、欲しいんだから。給料が、少なすぎるのが、いけないんだ」
「給金は、皆同じです。どうして我慢出来ないんですか」
「風流を嗜むには、資金が必要なんだよ」
「そんなものがなくとも、いくらでも風流に接するのは可能です。我が儘を言わないでください」
「墨が、紙が、もうじき尽きそうなんだ。それくらい、許してくれたって構わないだろう?」
「紙も、墨も、本丸側で支給されています。歌仙が自分で買わずとも、備品倉庫に沢山あるでしょう」
「あんな低品質なものを使っていたら、僕の品位に関わる!」
ああ言えば、こう言い返す。大量の借入金も、自己投資への必要経費だと主張して、一向に譲ろうとしない。
返せないくらいに借りているのが問題だと言っているのに、そこに耳を貸そうとしなかった。このままでは首が回らなくなり、仲間内からそっぽを向かれることにもなりかねないのに、まるで意に介さなかった。
自分が用いるものは、高価で質の高いものでなければならない。
そういう拘りばかりが強くなって、意固地になっている雰囲気だった。
歌を記す紙がいかに高級品であろうと、そこに気を遣うのは歌仙兼定くらいだ。
高価な茶碗を使う茶会は、誘われても気軽に参加出来ない。茶葉を厳選したと言われても、味に関心がない刀は、その違いが分からない。
「……仕方ありません」
あれこれ拘るのは、自己満足でしかないと、何故分かろうとしないのか。
自分だけが責められ、咎められ、不公平だと的外れな苦情を吐き散らす男に、心底愛想が尽きそうだった。
「お小夜?」
起きて来る刀が増えて、玄関前は混雑し始めていた。食堂を兼ねる大座敷への通路になっているので、食事に来た仲間の大半が彼らの傍を通り過ぎた。
大声で騒ぐふた振りに、過半数が何事かと興味本位の目を向けて来た。
注目を浴びるのは嬉しくなくて、小夜左文字は根負けだ、と白旗を振った。
力なく溜め息を吐き、歌仙兼定に向き直る。
もしや許しが得られるのか、と期待した男は目を輝かせ、興奮気味に次の言葉を待った。
だが。
「なら、歌仙が万屋へ出入り禁止の間、僕も同じく、万屋へは出向かないと約束します」
「――は?」
短刀が語ったのは、打刀が期待した内容とはまったくの別物だった。
咄嗟に理解出来なくて、歌仙兼定は目を点にした。パチパチと何度も瞬きを繰り返して、真顔で佇む少年をまじまじと見つめ返した。
あまりにも熱心に見詰められて、顔の真ん中に穴が開きそうだ。それは困ると眉を顰め、小夜左文字は惚けている男の額を小突いた。
「歌仙が我慢するなら、僕も我慢する。それでいいでしょう」
「いや、よくはな……いだだだだだ」
自分だけ不公平な扱いを受けるのが嫌だ、と言うのなら、一緒に不便さを共有する仲間がいれば良いのではないか。
そんな発想から出た短刀のことばに、打刀はぽろっと言いかけて、耳を抓られて悲鳴を上げた。
捩って、引き千切られそうになった。この世のものとは思えない痛みに絶叫して、歌仙兼定は衆目の面前で悶絶した。
小夜左文字としては、断固として打刀の万屋行きを阻止しなければいけない。気に入ったものは是が非でも手に入れたがる悪癖がある男を、誘惑の坩堝へ放り込むなど、あってはならない話だった。
以前はちゃんと我慢出来ていたのに、いつからか、歯止めが利かなくなっていた。
昔はもっと利口だった。それがどうして、こうなってしまったのだろう。
「ほら、歌仙。ぐずぐずしていないで。食事が冷めます」
「お小夜が、冷たい」
「そんなこと、ありません」
結局許しを得るのは叶わず、買い物禁止令は撤回されなかった。代理を遣る、という手段まで封じられて、歌仙兼定は情けない顔で鼻を啜った。
子供のような拗ね方をして、潔くない。
今度は本気で捩じ切る、と耳朶を抓る仕草をされて、彼はようやく立ち上がった。
袴を叩いて埃を払い、憤然とした面持ちで短刀を睨みつける。
小夜左文字はそれを平然と受け流して、右の小指を差し出した。
「やりますか?」
誓いを破ったら、針千本。
指切りを催促してみたが、歌仙兼定はゆるゆる首を振った。
「そもそも、お小夜。君はあまり、万屋に用がない。この約束事に、意味はあるのか」
「それは歌仙だって、同じでしょう。足繁く通う必要がない場所だと、今、自分で認めましたね」
「君はいつから、そんな小狡くなったんだ」
両手を広げて訴えられたが、取り合わない。逆に揚げ足を取り、攻撃材料に利用すれば、打刀は話をすり替えた。
表情に僅かながら諦めが見えて、この提案に、少なからず効果はあったようだ。小夜左文字は満足げに頷くと、結局手を伸ばして来た男と指を絡ませた。
小指同士を繋いで、軽く上下に振って、切り離す。
「男に二言はないね、お小夜」
「もちろんです、歌仙」
「ちゃんと見ているからね。こっそり隠れては、許さないよ」
「分かってます」
歌の代わりに双方言い合って、小夜左文字は自信満々に頷いた。朗々と響く声できっぱり言って、歌仙兼定を喜ばせた。
「言質は取ったよ」
もしどちらかが、万屋で買い物をしたと判明したら、針千本。
もしくはそれに代わる罰を受けると誓い合って、彼らの珍妙なやり取りは始まった。
互いに相手が勝手を働かないか観察し、監視する。遠征に出る時の寄り道も、いつの間にか禁止に加えられていた。
買い食いでもしようものなら、一緒に遠征していた仲間が皆に報告する。本丸全体を巻き込んで、多くの仲間が面白おかしく実況した。
勿論小夜左文字自身も、時間が許す限り、歌仙兼定を監視し続けた。
本丸にいる間は、行動はなるべく揃えた。打刀が調理当番なら、短刀はこれを手伝う。短刀が畑当番なら、打刀も嫌々ながらこれに付き合った。
庭の散策も、馬の手入れの時も、何をするにも一緒。
書を読む時は、短刀が打刀の膝に座った。打刀が疲れて昼寝をする時は、短刀が膝を枕として差し出した。
傍目には、仲睦まじく見えたかもしれない。
けれど当人らは割と必死で、真剣に相手を監視していた。
「なー、小夜。今から万屋行ってくるんだけど、饅頭かなんか、買ってきてやろうか?」
「え?」
そんな日々の中でも、誘惑は当然のようにやってくる。
たまたま打刀が近くにいない時に話しかけられて、小夜左文字は目を丸くした。
玄関で靴を履いていた厚藤四郎が悪戯っぽく右目を瞑り、後ろの乱藤四郎はうんうん頷いた。秋田藤四郎は人差し指を口に当て、内緒だ、という仕草で合図を送った。
思わず背後を振り返り、短刀は魅力的な提案に思わずぐっと息を飲んだ。
歌仙兼定との、賭けのような約束事を取り交わしてから、既にひと月半近く。
元から無駄遣いと無縁だった刀だから、楽勝で乗り切れると思っていた。しかし自由に買い物に行けないのは、意外に不便なのを痛感していた。
日用品は本丸の備品で事足りるが、防具の交換でまず苦慮させられた。破れた分を買い替えたくても出来ないので、糸で繕うことでなんとか乗り切っていた。
愛用の筆が壊れたのも、悲惨だった。
仕方なく屋敷にあるものを借用したが、共用品なので、ずっと所持しておくわけにはいかない。必要な時に借りに行って、終わったら戻しに行く、その工程が非常に手間だった。
小腹が空いた時に軽くつまむものが欲しくても、簡単には手に入らない。
一から作るのは大変で、時間の浪費も激しかった。貴重な食糧を無断で、大量に使うのは憚られ、結局は我慢を強いられた。
自分の金で買ってしまえば、それは全て自分のものになる。
屋敷にあるもので代用が可能だ、と大それたことを言ったが、それは誤りだったとひしひし感じていた。
「でも、僕は」
「いーじゃねえか。黙っててやるからよ」
思いがけず誘われて、反射的に頷きそうになった。自分で言い出しておきながら、甘い囁きに惹き付けられ、天秤がぐらぐら揺れていた。
厚藤四郎の再度の進言が実に魅力的で、心が傾きかけた。
歯を見せて笑う残りふた振りも同じ気持ちらしく、小夜左文字に向かって首を縦に振った。
彼らは、当たり前だが小夜左文字と歌仙兼定とのやり取りを知っている。そして心情的に、短刀寄りの立場を表明していた。
「ちょっとくらい、大丈夫だって」
「そうです、小夜君。我慢は、身体に良くないです」
擦り切れてボロボロになった肌着をいつまでも着用し、八つ時の菓子も手作り以外は全て断る。
遠征で他の仲間が団子を頬張っている間は外で過ごし、決して弱音は吐かない。
元はと言えば歌仙兼定の浪費が悪いのに、小夜左文字まで巻き込むなど、酷い。そう言って憚らない彼らに背中を押され、決心が鈍りかけた。
「えっと、じゃあ……」
「お小夜」
「!」
そこまで彼らが言うのなら、強く断るのは申し訳ない。
心の中でそんな言い訳をした少年は、直後に飛んできた呼び声にドキリ、と胸を弾ませた。
頭の天辺から出かかった悲鳴を堪え、同時に首を竦めた短刀仲間から視線を逸らす。恐る恐る振り向けばそこには般若の面があり、鋭い角と牙がこちらを睨んでいた。
「か、せん」
「おやおや、厚藤四郎たちはお出かけかい?」
表面上はにこやかな笑顔ながら、心の底では笑っていない。
それが良く分かって、隠れてこそこそしていた短刀たちは一斉に冷や汗を流した。
いつから、どこで話を聞いていたのだろう。完全に油断していた彼らは頬を引き攣らせ、目を細める打刀に愛想笑いを返した。
「う、うん。じゃあ、小夜。行ってくるね~」
「すぐ戻ります」
「またな、小夜」
「はい。いってらっしゃい」
下手に誤魔化すよりは、このまま逃げた方が良い。
咄嗟に判断した粟田口の少年らに向き直って、小夜左文字は話を合わせて頭を下げた。
小さく手を振って見送り、傍まで来た打刀を仰ぎ見る。先ほどまでの恐ろしい表情は薄らいで、どことなく呆れている雰囲気が醸し出されていた。
「油断も隙もない」
「なにも頼んでなど、いません」
腕を組んで愚痴を零され、短刀は反射的に言い返した。口を尖らせ、露骨に拗ねて、身体ごと顔を背けた。
歌仙兼定に背中を向けて、歩き出す。それに僅かに遅れる格好で、打刀も後ろをついてきた。
つかず離れず、互いが見える近さを保つ。
すっかり身に馴染んだ距離に若干苛立って、小夜左文字は思い切って方向転換した。
「お小夜」
身体を反転させれば、正面に男の腰から胸元が見えた。身長差があるので、顎を引かないと顔が見えないのが悔しかった。
むすっとしたまま瞳を上向け、視界に打刀の顔を映し出す。
「ついてこないでください」
「この状況で、それを、僕に言うのか」
「……じゃあ、好きにしてください」
文句を言えば、言い返された。一ヶ月半前、散々繰り返したやり取りの攻守が入れ替わり、劣勢に立たされた短刀は不満を露わに吐き捨てた。
不味いところを見られただけに、強気に出られない。はぐらかすことも出来なくて、厚藤四郎らに倣い、今はひたすら逃げるしかなかった。
愛想悪く言って、瞬時に踵を返す。歌仙兼定は特に何も言わず、大人しく後ろを追いかけて来た。
意味もなく屋敷中をぐるぐる歩き回る間も、一定の間隔を保ち、離れていかなかった。
これぞまさに、監視だ。振り切るのは容易ではなく、終わらせるのは簡単ではなかった。
どこで立ち止まるべきか分からず、延々と続けるしかない。途中からは根競べの様相が強くなり、すれ違う刀たちは興味深そうに、或いはぎょっとして、彼らの行く末を見守った。
そうして気が付けば、結構な時間が過ぎていた。
庭に面した縁側を、もう五往復か、六往復かした頃だろうか。
通っていない場所などない、というくらいに屋敷中をうろつき回った小夜左文字の耳に、帰宅を告げる短刀たちの声が届けられた。
「ただいま~」
「あ~、楽しかった」
「ただいま戻りました!」
万屋へ出かけた三振りが、特に大きな問題もなく、無事戻って来たらしい。姿は見えないが、聞こえて来た声の調子から判断して、彼はちらりと後ろを振り返った。
「ん?」
歩調も鈍り、距離が狭まっていた。存外近くにいた男と目が合って、小夜左文字は訳もなくばっと顔を背けた。
外を見れば、陽は西に傾いている。もうしばらくすれば空一面が朱色に染まり、東から闇が迫るだろう。
動いている間は感じなかったのに、時間の経過を意識した途端、ドッと疲れが押し寄せて来た。もうこれ以上歩く気になれず、歩みは完全に止まってしまった。
「どうしたんだい、お小夜」
「いえ。ちょっと、飽きただけです」
「……飽きる」
「はい」
一方でまだまだ元気だった打刀は、そのまま足を進めようとした。
それで短刀とぶつかりかけて、慌てて右に避けた。
立ち止まった理由に若干不満そうな顔をして、数秒してから嗚呼、と頷いた。彼の中で何かが解決したらしく、拗ねた表情は一瞬で掻き消えた。
「休憩しようか。茶を煎れよう」
「では、台所に」
気を取り直し、軽やかに告げられた。願ったり叶ったりの提案を拒む理由はなく、小夜左文字は間髪入れずに首肯し、進路を変えようとした。
「いや、お小夜はここに」
それを制して、打刀が手を振った。にこやかな笑顔と共に告げて、足元――西日が眩しい縁側を指差した。
今の今まで、短刀から離れようとしなかった男が、だ。
「いいんですか?」
ろくに言葉も発さず、ひたすら後ろから見張っていたくせに、急に方針を変えた。
小夜左文字は驚き、呆気に取られてぽかんとなった。惚けた顔で問い返せば、歌仙兼定は口角を持ち上げ、うんうん、と二度頷いた。
「信じているよ、お小夜を」
朗らかに言い切って、釘を刺した。
「は、い」
肩にずしりと信頼への責任が圧し掛かって、藍の髪の少年はそう返事をするのが精一杯だった。
短刀の首肯を受けて、男は颯爽と踵を返した。足早に縁側を抜けて、美味い茶を煎れるべく、台所へ向かって駆けて行った。
それと入れ替わる格好で、縁側に接する座敷に例の三振りが入ってきた。万屋の印が入った袋をぶら下げて、どの刀も満面の笑顔だった。
「たっだいま~」
「お帰りなさい」
立っているのも疲れると、腰を下ろした小夜左文字に気付き、乱藤四郎が真っ先に声を上げた。一緒に右手をぶんぶん振って、兄弟を伴い、一直線に近付いて来た。
畳から板張りの空間に出て、膝を折って身を屈めた。厚藤四郎や秋田藤四郎も彼に倣って、左文字の末弟を三方から取り囲んだ。
些か圧迫感があるが、そこまで不快ではなかった。昔は嫌で仕方がなかったけれど、今はさほどでもなくて、状況を当たり前のように受け入れていた。
「良いものは、ありましたか?」
「おうよ。見ろよ、これ。新作だって。美味そうだろ~?」
興味惹かれて自分から問いかければ、厚藤四郎が袋をガサガサ言わせた。出て来たのは真ん中に穴が開いた菓子で、小麦を練って形成したものを、高温の油で揚げたものだ。表面には触感に変化を持たせるべく、粒子の細かい粉が塗されていた。
燭台切光忠も、たまに似たようなものを作ってくれた。だが万屋には色々な種類が売られており、新しい味付けが頻繁に追加された。
今回彼が買ってきたのは、いつもの白っぽいものでなく、黒に近い茶色をしていた。
「焦げているのでは?」
「あはは、まっさか~。それでね、僕はね、これっ」
見た瞬間ぎょっとなった小夜左文字に笑いかけ、乱藤四郎が自前の袋を広げた。現れたのはこれまた奇抜な、濃緑色をした菓子だった。
「僕は、僕と同じ色にしました」
秋田藤四郎が見せてくれたのは、彼の髪に近い桜色だった。
形状はどれも、中心部が空洞の菓子だ。どうやら使われている生地に抹茶や、なにやらを混ぜ込んで、鮮やかに色を付けたらしかった。
どれもこれも、小夜左文字が万屋に通っていた頃には売られていなかった。たった一ヶ月そこらなのに、話に全くついていけず、置いてけぼり感は凄まじかった。
知らないうちに、時間は進んでいた。屋敷を歩き回っているだけで太陽が南から西に移動したように、小夜左文字を取り巻く世界は、常に動き続けていた。
「で、小夜には、これ」
「え?」
不意に孤独を覚え、切なくなった。仲間との距離を覚えて哀しんでいたら、唐突に水を向けられ、ぽかんとなった。
乱藤四郎が腕を伸ばし、輪状の菓子を差し出していた。
真ん中の穴の向こうに、したり顔の少年が見えた。柑子色の髪を揺らして、楽しそうに笑っていた。
「僕、ですか」
「そうそう。これも新作だってよ。中に、蜜漬けの水菓子が入ってる」
「とっても美味しそうでした」
唖然としていたら、左右から同時に言われた。良く見れば生地の中に細かな粒が混じっており、それが厚藤四郎の言う蜜漬けの果実らしかった。
興奮した秋田藤四郎の鼻息が頬を掠め、思わずそちらを見た。次に厚藤四郎に向き直って、早く受け取るよう急かす乱藤四郎に焦点を定めた。
「はい、どーぞ」
「いえ、僕は……歌仙との約束が」
これを受け取ったら、あの打刀との賭けに負けたことになる。万屋で、代理を含め、なにも購入してはならないと決めたのだ。それを破るわけにはいかなかった。
だからと首を横に振り、膝にあった手をひっくり返した。掌を下にして腿に張り付け、言葉だけでなく、態度でも拒絶を表明した。
奥歯を噛み、甘い誘惑に抗った。ほんのり香る甘い匂いは魅力的で、気を抜いたら涎が垂れそうだった。
本音を言えば、食べたかった。とても、食べてみたかった。
だが指がぴくりと動く度に、先ほどの歌仙兼定の言葉が蘇った。
信じている、と言われた。
ならば絶対に、裏切るわけにはいかなかった。
「小夜は、強情だなあ」
唇を引き結び、無心の境地で意識を逸らした。目の前に呈されたのは甘く美味しい菓子ではなく、石で出来たまがい物だと信じ込もうとした。
その態度に呆れて、厚藤四郎が苦笑した。胡坐を崩し、手にした甘味をひと口齧って、その美味しさに目を細めた。
「大丈夫ですよ、小夜君。これは、たまたま、数が余っちゃったんです」
膝に落ちた欠片さえ拾って抓んだ彼の横で、秋田藤四郎が身体を揺らしながら訴えた。やや舌足らずに捲し立てて、最後ににっこり微笑んだ。
乱藤四郎も弟に同意して、深く頷いた。疲れて来た右手を一旦戻して、抹茶味のそれにぱくり、齧り付いた。
「そーそー。別に、小夜のために買ってきたんじゃないけど、残しちゃうのはもったいないよね?」
新発売が四種類並んでいて、どれも欲しくて、小遣いを出し合って買った。しかし三振りで四個は喧嘩になるので、小夜左文字に供することで妥協した。
建前としては、筋が通っている。だが果たして、歌仙兼定に通用するだろうか。
茶を煎れに行った男は、まだ帰ってこない。けれどそう時を経ないうちに現れるのは、想像に難くなかった。
「でも、……」
そんな中で三振りから勧められて、心が揺れた。背信行為にならないかとの不安と、貯め込んでいた鬱憤や欲望が鬩ぎあい、鍔迫り合いを繰り広げていた。
「僕らが良いって言ってるんだから、いいの。細かいことは、気にしない」
「それにさ、歌仙さんも。案外分かってると思うぜ?」
「この頃の歌仙さん、小夜君にいっぱい構ってもらって、すごく楽しそうですしね」
なかなかつかない決着に焦れて、乱藤四郎がやや不機嫌に言い放った。厚藤四郎は飄々とした態度を崩さず、秋田藤四郎と頷きあった。
「うん?」
その彼らの発言が、咄嗟に理解出来なかった。
どうしてそんな発想になるのかが分からない。惚けていたら、それこそ驚きだ、とばかりに粟田口に唖然とされた。
齧っていた菓子を落としそうになり、厚藤四郎が慌てて残りを口に放り込んだ。もぐもぐと顎を動かし、塊のまま飲みこんで、口の端に残る滓を指で削ぎ落とした。
「もしかして、お前、気付いてない?」
「なにが、ですか」
「歌仙さんがいっぱい買い物し始めたの、小夜が修行に行ってからだよ?」
「え?」
一斉に顔を引き攣らせた短刀仲間を順に見て、小夜左文字は目を点にした。予想だにしなかったことを言われて絶句して、もう一度、先ほどとは逆の順番で彼らを見た。
目が合った三振り全てに、深く頷かれた。
真剣な表情で見つめ返されて、背筋が急に寒くなった。
ぞぞぞ、と悪寒が駆け抜けて、左文字の短刀は竦み上がった。ヒツ、と喉から掠れた息を漏らし、予期せぬ情報に四肢を戦慄かせた。
考えたことがなかったけれど、言われてみれば、確かにその辺りからだ。歌仙兼定が後先考えず、無闇矢鱈と高級品に手を出し始めたのは。
目を見張るほどに美しい蒔絵の硯箱、螺鈿細工が見事な筆。大胆な造形の茶器に、匠の技が詰め込まれた香合など等。
得意げに見せられて、その度に彼の懐を心配した。こんなものに注ぎ込んでいないで、もっと堅実な使い方をするよう、口を酸っぱくして言い聞かせた。
すると今度は、更に豪華な品を手に入れたと、嬉しそうな顔で見せに来た。
反省の色が皆無で、説教ばかりが増えていった。
その顛末が、今のこの状況だった。
「修行から戻って来た後も、出陣ばっかりだったしね」
「寂しかったんだと思います、歌仙さんは」
「そうそう。いち兄も、最初のうちはすごかったもんな」
口々に言い合い、粟田口の刀が笑った。当時のことを思い出しているのか、手を叩き合わせ、高らかと声を響かせた。
だが小夜左文字は、一緒に笑えなかった。
呆気に取られて凍り付き、瞬きも忘れて己の掌を見詰め続けた。
そんな風に考えたことは、一度もなかった。
寂しかったから、構って欲しかったのか。相手をして欲しくて、自分の方を向いて欲しくて、小夜左文字の気を引く為に、彼は。
「僕が、怒って、ばかりだったから」
それなのに歌仙兼定の意図に気付かず、叱りつけた。打刀の方も、そこで諦めて、別の手段を講じれば良いものを、短刀をもっと驚かせるものを探して、意固地になった。
悪循環の連鎖だ。お互い相手を思いやっていたつもりで、心がずれていたのに気付かなかった。
ずっと分からなかった答えが、ストンと落ちて来た。
憑き物が取れた顔をして、小夜左文字は深く息を吸いこんだ。
「それで、小夜。これ、どうする?」
兄談義で盛り上がっていたのがひと段落して、乱藤四郎が話を振って来た。
彼の手には、例の余りだという菓子がある。それは万物の完全な形と言われる円形で、遠くを見通せる穴が中心に開けられていた。
片目を瞑って覗き込んできた彼に、感謝の念が湧き起こる。
「いただきます」
「そうこなくっちゃ」
「おや、なんだい。楽しそうだね。……お小夜?」
今度こそ有り難く受け取って、小夜左文字は顔を上げた。急須と湯飲みを載せた盆を手に、戻って来た打刀が言葉の途中で表情を曇らせた。
車座になっていた短刀を一度に見て、一番奥にいた短刀に眉を顰める。
そんな男の前で、彼は譲り受けた揚げ菓子を半分に割った。左右均等になるよう調整して、柔らかな生地を折り曲げた。
ぱらぱらと滓が落ちたが拾わず、突っ立っている歌仙兼定に向かって腕を伸ばす。
「もらいました。歌仙も、どうぞ」
購入を頼んだわけではなく、強請ったわけでもない。好意から分けて貰ったものだと強調して、囁く。
黙って食べようとしたわけではない。
同じだけの量を、ここで、一緒に。
「……まったく」
約束を盾に受け取りを拒めば、小夜左文字もこれを食べるわけにいかなくなる。
それはあまりに可哀想で、願わくば避けたかった。
「仕方がないね」
諦めて、歌仙兼定は肩を竦めた。膝を折って屈み、盆を置いて、小さな手から菓子を受け取った。
「あ、僕もお茶、欲しいな~」
「湯飲み、取ってきます」
湯気を立てる急須を見た乱藤四郎が騒ぎ出し、秋田藤四郎が率先して立ち上がった。慌ただしく駆け出して、背中はあっという間に見えなくなった。
「おや。意外と悪くない」
「へへ。今度、歌仙さんも作ってよ」
「了解した。そっちは、抹茶かな?」
早速ひと口齧った歌仙兼定に、残る粟田口がまとわりつく。
会話は軽やかで、聞いているだけで楽しかった。
「今度、一緒に、見に行きましょうか」
茶器や花器は、買わなくとも、眺めているだけで充分だ。
明日、自分から誘ってみようと心に決めて、小夜左文字は甘酸っぱい菓子を頬張った。
ひとり住む庵に月のさし来ずは 何か山辺の友にならまし
山家集 雑 948