月日とともに 久しかるべし

 表が騒々しいと気付いたのは、昼餉を終えて半刻と経たない頃だった。
 部屋で休んでいた小夜左文字は、ふとした拍子に顔を上げた。聞こえて来た騒ぎ声に眉を顰め、何事かと立ち上がった。
 読みかけの本をそのままにして、襖を開け、廊下を窺った。いつもなら無視してやり過ごすところが、何故か今日だけはじっとしていられなかった。
「いち兄、帰って来た」
「なんか、怪我してるって!」
「本当ですか?」
 屋敷が賑やかなのは、いつものことだ。この本丸には合計六十振りを越える刀が集い、日々鍛錬に励み、仲間と親睦を深めていた。
 刀ごとに得手不得手ははっきりしていて、馬当番で頻繁に尻を蹴られる者もいる。毎日どこかで、誰かしらが馬鹿をやり、笑い声が絶えなかった。
「一期一振さん、が?」
 だから普段は、この程度のざわめきは意識しなかった。毎回反応していては疲れるし、下手に巻き込まれて面倒なことになるのは避けたかった。
 それなのに、珍しく動いていた。聞こえた短刀たちの会話に瞠目して、左文字の末弟は思わず敷居を踏みつけた。
 行儀が悪いと叱られそうな真似をして、脂汗を顎に垂らした。口の中は乾いているのに、唾を飲みこむ仕草を止めることが出来なかった。
「それじゃあ、まさか」
 生温い空気を喉の奥へ押し流し、唇を戦慄かせる。
 虫の知らせというものを実感して、彼は握り拳を胸に押し当てた。
 速度を上げた鼓動に、キーン、という耳鳴りが続いた。目の前で光がチカチカ明滅して、よろめき、左肩が壁に当たった。
 そのまま崩れそうになった体躯をすんでのところで支え、小夜左文字は記憶違いを疑って頭を振った。
「第一部隊。江雪兄様も、一緒だったはず」
 けれど現実は冷たく、残酷だ。昨晩のうちに通達があった編成は、今朝になっても変更されていなかった。
 厚樫山へ出撃となった第一部隊の隊長は、粟田口の長兄である太刀、一期一振。
 そして副隊長として、小夜左文字の兄である太刀、江雪左文字が指名されていた。
「まさか」
 その部隊長が、傷を負って帰還したという。ならば共に出撃している面々も、負傷している可能性が高かった。
 血みどろになり、刀を杖代わりにして歩く兄の姿が脳裏を過ぎった。全身から血の気が引いて、一瞬のうちに顔面蒼白になった。
 気候は安定し、気温も穏やかだというのに、寒気がした。足元から冷たいものが這い上がり、歯の根が合わず、奥歯がカチカチ音を立てた。
「そんな、こと。兄様に限って」
 悪い予感がどんどん膨らんで、足が震え、膝が笑った。
 カクン、と簡単に折れてしまいそうなのを、懸命に奮い立たせた。指を軽く切った程度かもしれない、と悪夢を追い払って、小夜左文字は鼻息荒く廊下へ出た。
 襖を閉めもせず、駆けた。誰かにぶつかると危ない、だとか、そういうのは一切考えなかった。
 曲がり角で九十度右に折れ、勢いを殺さぬまま突き進んだ。道中、脇差の浦島虎徹とぶつかりかけたが、お互い身軽なのが幸いし、正面衝突とはならなかった。
 謝るのは後にして、速度を緩めなかった。居住区と母屋を繋ぐ渡り廊を猛然と走り抜け、開けっ放しの木戸を潜って広い場所へと飛び出した。
「ああ、もう……よかったぁ」
「一時はどうなるかと思いました」
「ったく。びびらせやがって」
「けれど、怪我をしたのには違いないです」
「だな。いち兄より、大包平さんのが、よっぽど怪我も酷いみたいだし」
 と、そこで彼はやむを得ず足を止めた。前方に本来はない壁が出来ており、体当たりが憚られた結果だった。
 聞こえてくる会話に眉を寄せ、弾みで寄り掛かった衝立越しに様子を窺った。素足で冷たい床板を踏み、口々に語り合う粟田口の面々を右から順に眺めた。
 五虎退に、平野藤四郎、厚藤四郎と、前田藤四郎。そこに後藤藤四郎のひと言が付け足されて、少しずつ状況が見えてきた。
 最近仲間に加わった大包平は、天下五剣に対して異様なまでの敵愾心を抱き、対抗心をむき出しにする刀だった。
 先んじて本丸に至っていた天下五剣の三振りは、当然だが練度が高い。故に格下に見られるのを嫌った太刀は、一日でも早く自分の練度が上がるよう、審神者に訴えた。
 最初は渋っていた審神者だが、毎日熱烈な直訴を受け続け、ついに根負けしたらしい。
 それで護衛役として何振りかの太刀を伴わせ、時間遡行軍の動きが活発な時代へと送り込んだ。
 一期一振なら無茶な進軍はしない、との判断で隊長を任せられたのだが、率いる仲間が無鉄砲だった場合は、どうなるだろう。
 今回の出来事は、猪突猛進に敵へと殴りかかった馬鹿な男の守り役として、周りが迷惑を蒙った典型だった。
「俺たちが一緒だったら、いち兄に怪我なんかさせなかったのに」
 部隊の中に、索敵能力の優れた刀がひと振りでもいれば、結果は違ったかもしれない。
 悔しそうに唇を噛んだ厚藤四郎の肩を叩いて、薬研藤四郎は困った顔で小夜左文字を振り返った。
「手入れ部屋、お前んとこの兄貴も、もう入ったみたいだぜ」
「あ、……ありがとう」
 気付いた素振りなどなかったのに、気配を悟られていた。仲良く並んだ兄弟らに遠慮して、出るに出られずにいた短刀は、眼鏡を掛けた短刀の気遣いに感謝しつつ、手入れ部屋がある方角に顔を向けた。
 皆が集まる大広間のその奥に、例の設備は整えられていた。
 納戸や書庫へ通じる通路の少し手前で右に曲がり、進んだ先だ。使われない時は扉に鍵が掛けられており、道に迷っても入れないようになっていた。
 ここの鍵は常に審神者が所持し、必要に応じて解錠された。立ち入りは厳しく制限されて、負傷していない者は扉の手前までしか許されなかった。
 兄弟刀が傷を負ったとしても、すぐ傍で待っていてやることすら出来ない。
 大事ないとは思うが。不安は尽きず、小夜左文字は手持ち無沙汰に長着の衿を掻き毟った。
「さ、お前ら。いつまでもここにいちゃ、邪魔になるだろ。いち兄なら大丈夫だ。ほら、解散。解散」
「なんで薬研が仕切るのさ~」
 一方で薬研藤四郎はあっさり頭を切り替えて、玄関先に集う兄弟を追い散らした。不満をぶつけてきた信濃藤四郎を軽くあしらい、ひっくり返っていた靴を探して爪先を押し込んだ。
 その後を追いかけて、乱藤四郎が柑子色の髪を揺らした。
「いち兄が出て来たら、美味しいもの、食べさせてあげなきゃね」
「ああ。腹も減ってるだろうしな」
「万屋? 俺も、俺もいく!」
「あのなあ。自分らの甘味を買いに行くんじゃねえんだぞ、っと」
 出かける理由を察した少年の声に、頬を膨らませていた少年はあっさり機嫌を取り戻した。元気よく挙手して同行を求め、立ち去ろうとしていた粟田口がまたも玄関先に集合した。
 これだけの数が一気に押しかけたら、万屋もさぞや狭かろう。
 心配ばかりして悶々と過ごすのでなく、その先を見据えて行動している。
 何も考えていないようで、案外あれこれ思いめぐらせている短刀に慧眼を得て、小夜左文字は感嘆の息を吐いた。
「江雪兄様」
 手入れ部屋は四部屋しかなく、一部隊の編成は最大六振りだ。ふた振りは控えの間で痛みに耐えているはずで、そもそも彼らは、出陣以降なにも食べていなかった。
 朝餉はとうに消化され、胃袋の中は空に違いない。
 弁当を持って出てはいるが、それどころではなかっただろう。
 小夜左文字自身、過去に似たような経験がある。敵に囲まれた状態では、座ってのんびり飯など、出来るわけがなかった。
「そうだ」
 傷を負いつつも帰還した仲間を労うには、どうすれば良いか。
 万屋は混雑しているだろうから、別の方法を、と悩んだ先で、妙案を思いついた彼は両手を叩き合わせた。
 善は急げと言うし、早速取り掛かろうと歩き出した。飴茶色の床板を踏みしめて、向かったのは台所だった。
「失礼し、ま……誰もいない」
 開けっ放しの戸を潜り、軽く一礼してから中に入った。失礼にならないように、との配慮から上げた声は意味を持たず、見目幼い少年は挙動不審に左右を見回した。
 てっきりひと振りくらい、今日の食事当番がいると思っていた。だが内部は蛻の殻で、静まり返っていた。
 昼餉を終えて片付けも済んだらしく、洗った鍋や笊が逆向きに置かれていた。竈の火は消えて、釜は取り外されていた。
 ぽっかり開いた空洞から、暗闇が覗いていた。鼻に付く焦げ臭さは、今し方産まれたものではなく、壁や天井に染みついたものらしかった。
 ぴちゃん、と水滴が落ちる音が大きく響き、がらんどうの空間に思わず息を飲んだ。ゾワッと来た悪寒に耐えて背筋を伸ばし、彼は困った顔で顎を掻いた。
「米櫃は、確か」
 台所には、食事当番でない時でも、頻繁に出入りして、手伝いを買って出ていた。
 だから他の刀らよりは、内部に詳しい。どこになにが置かれているか、探し回らなくても良かった。
 記憶を頼りに進んで、今朝炊いた米を保管する櫃の蓋を取った。檜材で作った丸い桶を覗き込んで、カタカタ揺らし、溜め息を吐いた。
「ない」
 せめてひと椀分くらいは残っていると期待した。
 それがおおよそ現実的でない、机上の空論だったと気付くのが、あまりにも遅すぎた。
 櫃の中は見事に空っぽで、米粒ひとつ残っていなかった。朝にはここに大量の玄米が、ほかほか白い湯気を立てていたというのに、影も形も残っていなかった。
 洗われていなかったので、油断した。最初から空だと分かるよう置かれていたら、ここまで落胆しなかった。
「今日の当番、誰」
 中途半端に洗い残しがあるのは、許せない。
 これは是が非でも、見つけ出して復讐しなければ。
 苛立ちを膨らませて、彼は乱暴に櫃の蓋を閉じた。
 そのまま本体ごと持ち上げて、ぷんすかしながら洗い場へと持って行った。遠くに隔離されていた足台を運んで、その上に登って流し台との身長差を埋めた。
 但し洗うのは、使用済みの米櫃ではない。
「少しくらいなら」
 用済みとなった道具をその場に放置して、短刀は即座に踵を返した。
 素足のまま勝手口から外に出て、弱い日差しの下、蔵へと走った。食糧を長期保存できるよう、温度や湿度が管理されたそこに入り、大量に積まれた米俵へと近づいた。
 一番手前に置かれたものは、開封され、四角い枡が無造作に放置されていた。
 食糧は刀剣男士の体力の源であり、日々を過ごす大事な原動力だ。最初のうちは一日三食も食べるのは面倒だったが、今となっては、夕餉に何が出るかが一番の楽しみだった。
 動けば腹が減り、腹を満たせば眠くなる。渇いた心が潤い、清々しい気持ちになった。
 だが無尽蔵に食べれば身体は重くなり、貴重な糧もどんどん減って行った。先のことを考えて備蓄しているので、必要ない浪費は避けるよう言われていた。
 あればあるだけ食べてしまう刀が大勢いるので、その辺の管理は手厳しい。
 見つかったら叱られるだけで済まないと承知の上で、小夜左文字は一合枡に米を詰め込んだ。
 溢れ出た分は手で払い落とし、周囲を警戒しつつ蔵を出た。駆け足で台所へと戻って、片隅に避けられていた土鍋をひっ掴んだ。
 運んできた米をそこに放り込み、洗い場に設けられた竹筒の栓を抜いた。もれなく外に設置された樽から水が溢れ出し、底の浅い鍋の中に流れ込んだ。
 白い米粒が水流に煽られ、渦を巻いた。零さないよう注意しつつ、適当なところで栓を戻して、短刀は数回、雑に米を掻き回した。
 表面の汚れを軽く取り払い、必要分の水に浸した。
 ずっしり重くなったそれを抱え、彼が次に向かったのは竈だった。
「よい、しょ」
 握り飯のひとつでも、と思ったのに、冷や飯が残っていなかった。これでは手入れを終えた兄の腹を満たしてやれなくて、ならばと一念発起した。
 説教を覚悟で、決行した。土鍋に蓋をして、屈んで竈を覗き込む。灰の中に種火が残っているのを見つけて、鉄箸で掻き出した。
 上に乾いた小枝を広げ、火が移ってから薪をくべた。適時風を送り込み、熱風で喉が焼かれる度に咳き込んだ。
「げほ、けほっ」
 手際よく作業を進め、蓋の隙間から噴き出る湯気を見つつ、火力を調整していく。
 一段落ついたと汗を拭って、彼は片方が煤けた竹筒を抱きしめた。
「あとは、炊き上がるのを待つだけ」
 大量に釜で炊くのとは違い、時間も普段よりはずっと短い。
 焦がさないよう注意しながらそわそわ身を捩って、彼は慎重に時間を計った。
 そしていよいよ、ふっくらと米が炊きあがったと思われた頃。
「お小夜? そこでなにをしているんですか?」
「っ!」
 蓋を開けたいが、まだ早いかと思い悩んでいた少年は、突如後方から聞こえた声に、大仰に竦み上がった。
 息を止め、膝をぶつけ合わせた。爪先立ちになって背筋を伸ばし、高く結った後ろ髪を尻尾のように大きく揺らした。
 ドッと汗が溢れ、心臓が口から出そうになった。慌てて飲みこんで、入れ替わりに息を吐いて、彼は背後から近付いてくる足音に四肢を戦慄かせた。
 緊張から立ち眩みがして、重い頭がぐらりと傾いた。転びそうになって、おっとっと、と飛び跳ねて、その最中にくるりと身体を反転させた。
 明らかに動揺が見られる姿に、勝手口から入ってきた打刀は目を瞬かせた。きょとんとしながら小首を傾げ、狼狽激しい弟に目を眇めた。
「お小夜?」
「宗三、兄様……」
 左右で色が異なる瞳を細め、怪訝な視線を投げられた。
 細く薄い唇がへの字に曲げられるのを間近に見て、小夜左文字は返答に窮して真っ青になった。
 思考が停止し、言葉がひとつも出て来ない。両手を意味なく振り回すばかりで、あ、とも、う、ともつかない呻き声ばかりが漏れた。
 竈に据えた土鍋がぐらぐら揺れて、白い湯気が一直線に伸びていた。もう芯まで火が通っており、これ以上は焦げ付いて、固くなる一方だった。
 折角美味しく出来上がったものを、こんな形で駄目にしたくない。
 しかし皆に黙って貴重な米を使った後ろめたさから、短刀は一歩も動けなかった。
 瞬きを忘れて瞠目して、脂汗を流しながら見つめ返すだけ。
 さすがに宗三左文字も奇妙と思わないわけがなく、蓋の隙間から泡を吐いている土鍋も気になった。
「お小夜、それ」
「はっ」
 放っておいていいのかと言外に問い、細く筋張った指で指し示す。
 それで硬直が解けて、小夜左文字は大慌てで土鍋を、使っていない隣の竈へ移動させた。
「熱!」
「なにをやっているんです。馬鹿ですか」
 しかも急いでいたので、素手で、だ。
 真っ赤に燃え盛る炎の中から、爆ぜる直前の栗を拾うようなものだ。直後に悲鳴を上げて仰け反った弟に、宗三左文字は呆れた顔で溜め息を吐いた。
 両手の指を真っ赤にしている彼を憐れみ、冷やすための水を用意すべく流し場へ向かった。そうしてそこに放置された枡や、ぽつぽつと散らばる米粒を見つけて首を捻った。
「お小夜、あなた」
「こ、これは、その。兄様に」
「僕に? ……では、ないですね」
 腰から上だけを振り返らせた次兄が、末の弟の表情を探りながら呟く。
 もじもじしながらの上目遣いに嗚呼、と頷き、彼は得心がいったと手を叩き合わせた。
「なるほど。そういうことですか」
 江雪左文字の手入れは、もう終わっていた。後が閊えているという理由から、大包平同様、時間短縮の札が用いられていた。
 様子を見に行って、その帰りだった宗三左文字は、なんともいじらしい弟に相好を崩し、合わせたままの両手を頬に添えた。
「良いですね、お小夜。良い考えです」
「宗三兄様?」
「長谷部には言っておきます。大丈夫ですよ、これくらい」
 てっきり叱られると思いきや、賞賛された。妙案だと褒められて、小夜左文字はきょとんとなった。
 貴重な食糧を勝手に持ち出したのに、説教ではなく、太鼓判を押された。
 任せろ、と胸を叩いて、左文字の次男は帳簿の管理を任されている打刀の名前を口にした。
 へし切長谷部は何かと小うるさく、規則に厳しい。ちょっとした違反でもねちねち言ってくるので、一部の刀からは敬遠されていた。
 だが彼がいなければ、本丸の台所が回らないのも事実だ。
 昔の縁を最大限に利用する兄の姿に感嘆して、左文字の末弟は吹き零れを回避した鍋を盗み見た。
「江雪兄様に、差し入れるんでしょう?」
「え、あ。はい」
 その瞬間に話しかけられ、ビクッとなった。大仰に身を竦ませた彼を笑って、柳のように細い打刀はしどけなく微笑んだ。
 顎に指を置き、煤けた天井を仰ぐ。なにかを考え込んでしばらく沈黙して、小柄な短刀に守られた土鍋に瞳を向けた。
 あんなに勢い良かった湯気は薄まり、鍋の蓋は落ち着いていた。内部では米が余熱で蒸らされて、一層美味しくなっているに違いなかった。
「塩むすびでは、少々寂しいですね」
「兄様」
「どうせなら、中に何か入れて差し上げましょう」
「……あ!」
 半ば独り言を呟いて、不思議そうに見上げられて、言い足す。
 宗三左文字の提案に短刀は目を丸くして、それこそ妙案だ、と握り拳を作った。
 戦場帰りの兄に差し入れを、とばかり考えて、そこまで思いが至らなかった。確かに炊いた米を握っただけでは、芸がなく、味気なかった。
 あの男のことだから、塩むすびでも充分喜んでくれるだろう。けれど弟らは、それで満足出来ない。どうせなら驚かせたいし、もっと美味しいものを食べさせたかった。
「中に入れるのは、なにが良いでしょう。梅干しはありきたりですが、疲労回復に良いと言いますし」
 土間の一帯をうろうろしながら、打刀が候補を数え上げていく。
 小夜左文字は平らな桶を取り出すと、しゃもじを水で濡らした。
 充分な蒸らし時間を確保してから、土鍋の蓋を外した。途端にぶわっと湯気が噴き出て、目の前が一瞬だけ真っ白になった。
「ぷは」
 熱い風を下から受け、咄嗟に息を止めていた。視界が開け、呼吸を再開させた彼を待っていたのは、仄かに甘い匂いを放つ炊き立ての米だった。
 玄米なので真っ白とはいかないが、十二分に美味しそうだ。思わずごくりと喉が鳴ったが、誘惑に負けまいと、少年は首を振った。
 魅力的すぎる光景から一旦顔を背け、用意しておいたしゃもじを利き手に構えた。ふっくらした米と鍋の隙間に差し込んで、全体を切るようにざっくり掻き混ぜた。
 その都度湯気が立ち上り、すぐに消えた。粗熱を取り、余計な水分を排除して、軽く冷ますべく桶へと移し替えた。
 そんな風に小夜左文字が働いている間、宗三左文字も忙しく手を動かしていた。
 江雪左文字の好みを考慮し、中に入れる具材を決めた。梅干しに、野沢菜漬け、そして昆布の佃煮の三種類だ。
 どれも朝餉に出てくるものであり、それなりの量が備蓄されていた。それらを少量ずつ拝借して、打刀は慣れた調子で細かく切り刻んだ。
「兄様、これ」
「ありがとう、お小夜」
 一年前は台所に入るのさえ嫌がっていた男が、随分な進歩だ。当初は何をするのも気怠げで、物憂げで、面倒臭そうだったのに。
 ここでの生活が長くなるにつれて、本来の姿を取り戻したとでも言うべきか。馬の世話は相変わらず嫌そうだが、野良仕事は楽しそうだった。
 へし切長谷部や薬研藤四郎に世話されてばかりだった環境も、大きく変わった。彼が積極性を発揮するようになったのは、不動行光が仲間に加わった辺りからだ。
 兄を動かす起爆剤になれなかったのは悔しいが、こうして一緒に、長兄のために握り飯を作れるのは悪くない。
 織田信長に所縁を持つ刀らに心の中で感謝して、小夜左文字は充分冷ました米を差し出した。
 桶ごと渡されて、宗三左文字は苦笑した。早速両手を軽く濡らして、適量を取って左手に広げた。
「これを、ここに」
 厚みが均等になるよう手で押さえ、あらかじめ用意しておいた具を中心に置く。そこに右手で緩く握った米を、蓋する形で被せた。
 ぽすん、と左右の手を重ねあわせ、指を折って閉じ込めた。圧力を加えて隙間を塞ぎ、凹凸激しい形を整えた。
「兄様、上手」
「そうですか? それほどでもありますが」
 しっとり濡れた米は指に張り付き、ひと粒たりとも落ちて行かない。その米粒を集めながら、宗三左文字は掌の塊を器用に操った。
 ゆっくり回転させて、綺麗な三角形を作った。角はやや丸みを帯びて、持ち易い大きさに揃えられた。
 小夜左文字は俵型なら作れるものの、三角には結べなかった。他の刀らが手際よく握っていくのを横から眺め、いつも羨ましく思っていた。
 そのうち時間が空いた時に、作り方を聞こう。他の刀には恥ずかしくて出来ない質問も、宗三左文字相手なら問題なかった。
 密かに誓い、長方形の皿を出した。手製の沢庵を二切れ添えて、出来立ての握り飯を端から順に並べていった。
「まあ、こんなものでしょう」
「……っ」
 合計三つ収めたら、皿はもういっぱいだ。見た目も綺麗で、店で出しても恥ずかしくない出来栄えだった。
 良い汗を流したと、宗三左文字も満足げだ。高菜の握り飯だけ、茎の部分が表面に顔を出したが、他はきちんと内側に収まっていた。
 お蔭でどちらが梅干しで、どちらが昆布の佃煮なのかが分からない。
 もっとも食べるのはひと振りだけだから、どちらであろうと関係なかった。
「江雪兄様、食べてくれますか?」
「心配ありませんよ。あの方なら、たとえ泥団子であろうと、お小夜が作ったと言えば食べるでしょう」
「泥では、作りません」
「おやおや、それは失礼」
 残る問題は、江雪左文字がこれを食べられる状態か、どうか。
 心配になった末弟の呟きに、次兄は呵々と笑った。ものの喩えで囁いて、真顔で糾弾されて首を竦めた。
 冗談を言われたのだと気付くのに、小夜左文字は数秒必要だった。長兄に泥を食わせよう、など思ったことがなくて、ついつい額面通りに受け取ってしまった。
 声を響かせ笑い続ける打刀を前に、気まずくて仕方がない。
「あの、兄様。今のは」
「分かってますよ、お小夜。さあ。兄様が待ってます」
 何とか弁解を試みるが、言葉が上手く出て来ない。それなのに宗三左文字は弟を気遣い、皿を持つよう促した。
 沸かしておいた湯で茶を煎れて、丸盆に急須と湯飲みを用意する。これで全ての準備が整い、ふた振りは前後に並んで廊下に出た。
 洗い物は、後回しだ。竈の火こそ消したが、使った土鍋や桶、包丁の類までそのまま放置だった。
 一刻も早く、江雪左文字に届けたい。
 その一心で道を進み、小夜左文字は太刀部屋区画に足を踏み入れた。
「江雪兄様、いらっしゃいますか?」
「……お小夜? どうぞ」
 そうして辿り着いた部屋の前で、遠慮がちに問いかけた。
 閉ざされた襖の向こうに呼びかけ、間を置いて返事があったのにホッとした。次兄の言った通り、江雪左文字は手入れを終えて戻っていた。
 頬を緩め、引き手に指を掛けた。握り飯を倒さないよう注意して、慎重に敷居を跨いだ。
 宗三左文字がそれに続き、屈んで襖を閉めた。
「宗三まで。どう、しましたか……?」
 先ほど顔を合わせたばかりの弟まで一緒だったのに、江雪左文字は些か驚いた顔をした。
 彼は戦装束を解き、いつもの作務衣姿で、座布団に座って着物を畳んでいるところだった。
 足元に法衣が広げられ、武具の片付けも終わっていなかった。辛うじて刀だけが、床の間の刀掛けに据えられていた。
 前屈みだった姿勢を正し、銀髪の太刀が眉を顰める。
「兄様、これを」
 そのすぐ傍へと進み出て、小夜左文字は運んできたものを差し出した。
 四角い皿に三つ並んだ握り飯と、厚めに切られた沢庵が二切れ。そこに陶器の急須と湯飲みが追加されて、江雪左文字は目を瞬かせた。
 口調がゆったりであれば、行動もどこかのんびりだ。その彼が珍しく俊敏さを発揮して、上に、下に、視線を動かした。
 膝先に盆を置かれ、握り飯もその中に加わった。豪勢とはとても言い難い食事であったが、太刀は大袈裟に身を竦ませると、動揺した様子で弟らを見比べた。
「これは、……いったい」
 間にひと呼吸挟み、動揺が見え隠れする口調で問う。
 小夜左文字と宗三左文字は顔を見合わせると、ほぼ同時に頷いた。
「兄様のことですから、どうせ昼は食べていないでしょう、と。お小夜が」
「握ったのは、宗三兄様です」
 怪我を負って帰ってきたと聞き、不安になった。大事ないと教えられても心細さが拭えなくて、じっとしていられなかった。
 自分に出来ることを考えて、後先考えないで突っ走った。途中から宗三左文字が味方してくれて、とても心強かった。
 嬉しかった。
 気恥ずかしさと照れ臭さを押し隠し、小夜左文字は俯いた。赤く染まる頬を腕で擦って、物理的な原因なのだと誤魔化した。
「そう、ですか。私の、ために……」
「そうですよ。お小夜が頑張ってくれたのです。残さず、全部食べてくださいね」
「っ!」
 感嘆の息を吐き、江雪左文字がしんみりした表情を浮かべた。何故か暗くなりかけた空気は次兄が振り払い、悪戯っぽく微笑んだ。
 水を向けられた末弟はビクッとした後、大慌てで首を振った。
「でも、握ったのは、宗三兄様で」
「はいはい。僕も多少なりとも手伝いました。そのところ、どうぞよしなに」
「ええ。……いただきましょう」
 短刀一振りだけでは、ここまで完成度の高い握り飯を作れなかった。
 もっと小さく、形も悪く、手で持てばボロボロと米粒が落ちていくような、そんなものしか出来上がらなかった。
 本当に、あそこで宗三左文字がやって来たのは、奇跡としか言いようがない。
 偶然が作り上げた傑作に頭を垂れて、江雪左文字は合掌した。
 自然の恵みと、弟らの心遣いに感謝し、まずは右端のひとつを手に取った。
 表面には野沢菜の茎が飛び出して、自分も米だ、と言わんばかりの顔をしていた。それを両手で、底部を支えるようにして持って、彼はゆったりした動作で口元へと運んだ。
 三角の頂点に唇を寄せ、弟らが見守る中、小さく口を開けて齧りつく。
「……これ、は」
「兄様?」
「どうか、しましたか?」
 そしてその状態のまま凍り付いて、しばらくの間動かなかった。
 削り取った米を咀嚼すらせず、瞬きすらしない。これには小夜左文字らも驚いて、聞かずにはいられなかった。
 もしや米の中に籾殻か、小石が紛れ込んでいたのだろうか。塵は取り除いたつもりだが、全部を確認するには時間が足りなかった。
 あるいは、表面に少量塗した塩が、そこだけ異様に濃かったのか。
 思いつく限りの懸案事項を脳裏に浮かべ、左文字の次兄と末弟は緊張に頬を引き攣らせた。
 長兄の動向を瞬きも忘れて見守って、無意識に握り拳を作った。掌を汗で湿らせて、固唾を飲んで変化を待った。
 やがて、どれだけの時が過ぎただろう。
「おいしい、です」
 停止していた時間の流れが、ぽつりと零れたひと言により、再びゆったり流れ始めた。
「……なんですか、それ」
 息を殺していた宗三左文字は、どっと押し寄せて来た疲労感にがっくり膝をついた。
 小夜左文字はホッとしつつも、微妙に難しい顔をして、少しずつ握り飯を齧る江雪左文字に肩を落とした。
 あれこれ悪い予想をしたが、全て杞憂だった。
 長兄と自分たちとの間には、未だ容易く越えられない、壁のようなものがあるようだった。
 どうにも理解し難い一面を垣間見て、苦笑を禁じ得ない。
「とても、美味しいので……胸を打たれて、おりました」
「ああ、はい。それはようございました。お褒めいただき、ありがとうございます」
「宗三、なにやら、言葉に……棘が……」
「気のせいです、兄様。どうぞ残りも、召し上がってください」
「ええ。こちらは……塩むすび、でしょうか」
「さあ、なんでしょう。食べてみてのお楽しみですよ」
 江雪左文字は度々息継ぎを挟むので、喋るのがとても遅い。浜辺に波が緩やかに押し寄せ、引くようなものであり、ずっと聞いていると眠くなるのが難点だった。
 説教もこの調子なので、怒っていてもあまり迫力がない。
 その点宗三左文字は若干短気で、兄相手では他の刀より早口だった。
 おっとり口調との対比は面白くて、見ていて飽きない。
 こんな時間は久しぶりで、小夜左文字はごく自然と頬を緩めた。

ちはやぶる神田の里の稲なれば 月日とともに久しかるべし
千載和歌集 賀歌 635

2017/02/18 脱稿