むせ返る程の血の臭い。
累々たる屍の海に、断末魔の叫び声が轟く。
それは雷鳴のように心を抉り、佇む者に血の涙を流させた。
ぬるりと滑る手から刀が零れ落ちようとして、反射的に握り直す本能が憎い。
こんなにも苦しいのに、身体はまだ戦いを求めた。復讐を成し遂げんと、仇を欲し、探していた。
どれだけの数を屠り、葬っても、想いが満たされることはない。
そうしなければいけない、という衝動に突き動かされていた。襲い来る敵をひたすら斬り裂く、醜い鬼と化していく。
やがて仮初めに与えられた人の形さえ失って、一介の獣と成り果てて。
その先に待っているものがなんでるか、分からないわけでもないのに。
「――っ!」
ドッ、と全身を地に叩きつけられた――ような錯覚を抱いた。
血液が沸騰し、猛烈な勢いで体内を駆け回る。心臓はバクバクと爆音を刻んで、耳鳴りを引き起こした。
目の前の暗闇が現実か、幻か、咄嗟に判断出来なかった。
惚けたように開けた口から、ひゅう、と空っ風に似た音が漏れた。喉を上から押さえつけられている、そんな圧迫感に苛まれて、なにからなにまで粉々に砕かれそうだった。
潰れてしまう。
危険信号が発せられて、四肢の隅々を電流が駆け抜けた。
「うっ」
びくん、と爪先が痙攣を起こした。指が反り返り、こむら返りを起こした臑が激痛を発して掛け布団を蹴飛ばした。
綿の薄い布団が少しだけ持ち上がって、直ぐに沈んだ。その僅かな重みにさえ苦痛を抱き、小夜左文字は寝返りを打って四つん這いになった。
「っ、う……く、あ」
内側から引き裂かれる幻覚に見舞われ、脹ら脛の肉が剥き出しになる妄想に背筋が粟立った。足の指に力が入らず、膝で何度も敷き布団を叩いて、苦痛を紛らせようと両手で枕を抱き潰した。
こちらを身代わりに裂いてやろうと爪を立て、唇を噛み締める。
顎が軋むまで力を込めて、短刀は痛みが落ち着くのをひたすら待った。
声を殺し、汗を流す。
固く引き結んだ唇を解くのに軽く三分は必要で、寝間着はびっしょり濡れていた。
背中や、腋や、首筋が特に温い。あらゆる場所の汗腺が開いたようで、肌に張り付く布の感触が不快だった。
「は、あ、あ……」
違和感はまだ残るけれど、痛みは一時期より、格段に楽になった。
時間遡行軍に切りつけられるのと、どちらがより辛いだろう。
そんなことを考えて、小夜左文字は唾を飲み、力尽きて布団に倒れ込んだ。
ぼふん、と間に挟まれた空気が潰れ、或いは左右に逃げて行った。感触は固く、自らの体温と汗を吸ってあまり心地良くない。それでも我慢して目を瞑ってみたけれど、残念ながら睡魔は訪れなかった。
「今、どれくらいだろう」
外はしんとして、虫の声すら聞こえない。耳を澄ませても、鼾のひとつも聞こえて来なかった。
それもその筈で、小夜左文字の部屋の両隣は無人だ。誰も暮らしていない、というわけではなく、部屋の主が別室で眠るのを習慣にしている為だ。
今剣も、愛染国俊も、同派の刀と仲が良い。だから個室を与えられているのに、あまり居着かず、仲間たちと一緒に過ごすのが常だった。
小夜左文字にも兄がふた振りいるけれど、居室は別だ。虎徹兄弟のようにいがみ合っているわけではないが、会話が長続きしないのもあって、同じ空間にいるのが若干苦痛だった。
嫌いではないけれど、どう接して良いかが分からない。
歴史修正主義者との戦いの中、審神者によって招聘されてからかなりの時が過ぎたが、兄たちとは歯車がかみ合わないままだっだ。
噛みあわない、といえば、他にもある。
「どうしようか」
悪夢を振り払うように首を振り、呟く。
湿った前髪を掻き上げて、小夜左文字は布団の上に座り直した。
寝間着にしている湯帷子の衿を整え、深呼吸で鼓動を鎮めた。瞼にこびりついている赤黒い景色を振り払って、唇を舐め、深々とため息を吐いた。
陰鬱な気持ちを追い払い、喉の下を二度、三度と撫でる。
いがいがしたものがその辺に沈殿して、唾を飲みこむ程度では剥がれ落ちてくれなかった。
たっぷり眠った感覚はなく、身体は怠い。疲れは抜け切っておらず、何もかもが憂鬱で、億劫だった。
大人しく布団に戻りたいと思うが、夢の続きを見せられる予感がして、頷けない。
この場合どうすべきか悩んで、彼はこめかみの汗を指で押し潰した。
日が変わった辺りか、その前後。丑三つ時には届いていないと予想して、濡れた指を太腿に擦り付ける。
「喉が渇いた」
眠っている時にもたっぷり汗を流したからか、身体が餓えていた。
喉の奥に潜む不快感も洗い流したくて、意を決し、彼は立ち上がった。
こむら返りを起こした脛を庇いつつ、掛け布団を足元に退けて背筋を伸ばす。枕元に残しておいた細い灯明を頼りに進んで、障子を開けて縁側へ出る。
月は明るく、冴えていた。
これなら灯りなしでも、問題なく動き回れそうだ。但し井戸へ行く勇気は、沸いてこなかった。
こんな時間に間違って落ちようものなら、朝になるまで見つけて貰えない。そういう終わり方はあまりにも惨めだから、避けて通るべきだった。
ならばどうするかと言えば、台所に行くしかない。
あそこなら常時飲料水が、水瓶に用意されていた。
本当なら、部屋の枕元にも水差しを準備しておくのだが、今日は忘れていた。
というよりも、間に合わなかった、と言うべきだろう。彼は日暮れ直前まで、出陣で江戸に出向いていた。
今回も酷い傷を負わされて、這う這うの体で帰り着き、即座に手入れ部屋へと押し込まれた。そして後が閊えているからと時間短縮の札を用いられて、あっという間に追い出された。
お蔭で傷は治ったが、疲労が抜けていない。
あんな夢を見たのも、行動が活発化した時間遡行軍との戦いが原因だ。
奴らの動きを食い止める為、刀剣男士は必死になって戦っていた。しかしそれを嘲笑うかのように、歴史修正主義者は次々に難敵を送り込んできた。
挙げ句に検非違使まで出現して、三つ巴の戦いは一向に終わりが見えない。
自分たちは、どこへ向かっているのだろう。
終わりが見えない争いを前に途方に暮れながら、小夜左文字は角を曲がり、広い廊下に足を進めた。
母屋に繋がる渡り廊を進むうちに、どこからか、賑やかな声が聞こえてきた。
まだ起きている刀がいて、しかも騒いでいる。どうやら酒宴が催されているようで、次郎太刀らしき笑い声が姦しく響いた。
大広間は、刀剣男士らが眠る棟から離れているので、余程でない限り声は届かない。酒好きの一派もあれで気を使っていると苦笑して、短刀の少年は湯帷子の裾を払った。
腿に絡んでまとわりついて来たのを剥がし、結っていない髪を掻き上げる。
眠る時は邪魔だからと解いたそれは、癖だらけで、四方を向き、火で炙られた後のようだった。
肩よりも長さがあるのは確かだが、途中で大きく波打っており、正確にどれくらいあるかは分からない。指で梳けば簡単に引っかかって、力を込めれば何本か千切れた。
「いたた」
悲鳴を上げるが、自業自得だ。
誰も責められないと肩を竦めて、彼は指に残る藍の糸を闇に委ねた。
騒がしい場所は避けて、予定通り台所へと進路を取る。歩く度に床板はギシギシ音を立て、汗ばんだ足の裏が張りついて、引っ張られた。
「朝には、元通りにならないと」
気分転換に部屋を出たのに、物思いにふければ耽るほど、暗く落ち込んでしまう。
完全に足手纏いなのに戦場へと駆り出され、挙げ句仲が悪い刀たちの喧嘩を目の当たりにさせられた。一致団結して敵と向き合わなければならないのに、彼らは好き勝手動き回って、連携など全く望めなかった。
なんとか関係を取り持とうとしたけれど、意固地が過ぎて、会話にすらならなかった。
厄介事に厄介事が重なって、憂鬱で仕方がない。
けれど小夜左文字がそんな顔をしていたら、あの刀はきっと心配する。
「さっさと終わらせて、休もう」
心に決めて、歩幅を大きくした。広すぎる屋敷を横断して、ようやくたどり着いた台所で、彼は夜中でありながら明るい空間に眉を顰めた。
壁に据え付けた行燈に火が入り、内部を淡く照らしていた。調理台には燭台が置かれて、蝋燭の焔が不安定に揺れていた。
「燭台切光忠、さん」
「あれえ、小夜ちゃん?」
合計三つの光が、床にいくつもの影を作りだしていた。昼間程の明るさはないけれど、窓を開けて月明かりも補充して、見通しは非常に良かった。
洗い場の前には男がひとりいて、小夜左文字の声に瞬時に反応した。小声だったが、周りが静かなので意外に響いて、距離があったのに気付かれた。
しまった、と思うがもう遅い。
慌てて口を手で塞いだ少年を振り返って、大柄な太刀は隻眼を細めた。
最初はきょとんとしていたが、すぐに相好を崩した。人好きのする笑みを浮かべて、敷居の前に立ちつくす短刀をおいで、おいでと手招いた。
お互い、妙な時間に遭遇したと思っている。けれど燭台切光忠が此処にいる理由は、案外簡単に答えが出た。
大広間で展開中の宴に、酒のつまみは必須だ。足りなくなったと文句を言われて、渋々作りに来た、というところだろう。
或いは大量の食器を片付けに来たか、そのどちらかだ。
しかし彼も、元気なものだ。小夜左文字たちと隊を組み、江戸から帰還したのはつい二刻ほど前のことだというのに。
蛍丸はまだ手入れ中だろう。大倶利伽羅も、もしかしたらまだかもしれない。
歌仙兼定は、どうだろう。
ぼんやり考えて、黒装束の男を見詰める。小夜左文字は数秒逡巡した後、真っ直ぐ進んで土間へと降りた。
「大変ですね」
「ああ。でも、まあ、好きでやってることだしね」
近付きながら話しかければ、燭台切光忠は緩慢に笑った。肘まで捲り上げていた袖を伸ばして、桶に沈めた食器を小突いた。
油汚れを落とそうと、しばらく浸けてあるのだろう。真っ黒に汚れているのは、煤けているのではなく、汁状のものが垂れた跡らしかった。
洋風な料理を好む男だから、作るものもそれに準じている。時々聞いたことがない調味料を用いて、食べたことのない味付けのものが出てくるので、彼が食事担当の日は緊張させられた。
まるでどっきり箱だな、と評したのは、鶴丸国永ではなかったか。ただ燭台切光忠の料理は大体味付けが濃いので、一部の刀からは不評だった。
歌仙兼定も、そのうちのひと振りだ。
小夜左文字は食べられればなんでも良いと思っているので、味の良し悪しにはあまり興味がない。
だからどちらが美味いか、と比べるよう求められても困る。そして訊いてくるのは、大抵が昔馴染みの打刀だった。
燭台切光忠や大倶利伽羅に敵愾心を剥き出しにするのは、元主の気質を強く受け継いだ所為だろう。小さなことにまで拘りたがるので、小夜左文字は時々ついていけなかった。
「小夜ちゃんは、どうしたの?」
こんな夜更けに彼と会っていたと知れたら、あの打刀が何を言い出すか、分かったものではない。
明日のことを思って溜め息を零して、短刀は質問に顔を伏した。
「水、を。……寝付けなかったので」
言葉に迷い、躊躇してから吐き出す。
嘘を半分混ぜ込んだ説明に、隻眼の太刀は鷹揚に頷いた。
心当たりを探って、勝手に推測し、納得している。成る程、と唇を音もなく動かして、男は大きな手を短刀の頭に置いた。
「そっか。小夜ちゃんも、お疲れ様だね」
「僕なんか。みんなと比べたら」
打刀や太刀、大太刀に囲まれて、短刀として出陣した。
傷は癒えたが、気疲れが残っていると想像した太刀の慰めに、少年はふるふる首を振って逃げた。
頭を撫でられるのは、あまり好きではない。だが燭台切光忠は、何度言ってもやめてくれなかった。
半ば諦めの気持ちで後退して、最初から乱れていた髪を梳く。手櫛で雑に掻き回す小夜左文字に、隻眼の太刀はクスクス声を漏らした。
今のやり取りに、なにか面白いところがあっただろうか。
分からなくて首を捻る短刀に慌てて手を振って、男はコホンと咳払いの後、片付けられていた薬缶を持ち上げた。
底の部分が真っ黒に染まっているそれを取り、蓋を外して中に少量の水を注いだ。慣れた仕草で栓を閉めて、金属製の蓋を戻し、七輪の網を外して、入れ替わりに据え置いた。
少し前まで、焼き物をしていたらしい。中にはまだ赤い炭が残り、熱を発していた。
「眠れないのなら、良い物を出してあげよう」
「いいもの、ですか?」
「なんだと思う?」
人差し指を唇に押し当てて、格好をつけた仕草で甘く囁く。
告げられた単語に胸を高鳴らせて、小夜左文字は訊き返されて口を噤んだ。
水を飲みに来たと言った短刀の前で、湯を沸かしに入ったわけだから、恐らくは飲み物だろう。だが前に、何かの折に出された真っ黒い液体は、無駄に苦く、とても飲めたものではなかった。
珈琲という飲み物だそうだが、小夜左文字の口には合わなかった。砂糖や牛の乳を足して、甘くしないととても飲めなかった。
まさかあれか、と危惧するが、ニコニコしている男がそんな意地悪をするとは思えない。
「分かりません」
他に思い浮かぶものもなくて、正直に答える。
降参だと白旗を振った短刀に、太刀は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「とっておきだよ」
「はあ」
皆には内緒だと相好を崩し、燭台切光忠がいくつか並んだ棚のひとつの前に移動した。抽斗を開け、四角形の缶を取り出した。
大きさは、太刀の手で鷲掴みに出来るくらい。上部に嵌めこみ式の蓋があって、開けるのに爪を立てなければいけなかった。
続けて彼は、硝子製の急須を出してきた。湯呑みも同じく硝子製で、でっぷりと丸みを帯びた愛くるしい形状をしていた。
それらは伊達の刀たちの私物で、小夜左文字はあまり触ったことがない。割れやすいと聞かされており、傍にある別の器を取る時にまで無駄に緊張させられるので、あまり好きではなかった。
透明な食器は、灯明を受けてキラキラ光っていた。橙色の輝きが口縁部を駆け抜けて、角度によって見え方が少しずつ違っていた。
そんな湯呑みを盆に置いて、急須の蓋を抓んで外した。中が丸見えのその中に、缶から掬い取った茶葉らしきものを数匙入れて、クツクツ音を立てる湯をそうっと注ぎ込んだ。
「ああ……」
途端に、急須の中で革命が起きた。
乾燥して皺くちゃだったものが、水気を与えられて一斉に花開いた。底に当たって跳ね返り、波打つ湯に導かれて四方に拡散して、踊り、唄い、跳ね回った。
普段から茶を嗜んでいる身でありながら、急須の中で茶葉がどんな動きをしているか、全く気にしてこなかった。
こんな風になっているのかと、初めて見る景色に驚いた。小夜左文字は感嘆の息を吐き、不可思議な世界に目を輝かせた。
「すごい」
「どうだい?」
濃茶は美味だが、口にするのに手間がかかる。格式ばった雰囲気もあって、日常的に飲むには適していなかった。
だから普段は、ただの水か、白湯か、或いは煎じ茶で喉を潤す機会が多い。しかし燭台切光忠が出してきたものは、短刀が知る煎茶とは、些か趣が異なっていた。
なにより、匂いが違う。
「甘い……?」
急須の中で、無色透明だった水が急速に黄金に染まっていった。
更には仄かに香り立ち、少年の興味を引き付けた。
黄金糖を溶かしたような色になり、甘い匂いが鼻孔を擽った。どことなく林檎の香に似ていて、思わず喉がごくりと鳴った。
けれど目の前にあるのは、器によって自在に形を変える液体だ。
どこにも林檎などない。奇妙に思ってきょろきょろ辺りを見回していたら、堪え切れなくなった燭台切光忠がくっ、と喉を鳴らして肩を震わせた。
「カモミールだよ、小夜ちゃん」
「鴨……?」
「ハーブティーの一種だね。どうぞ。気持ちが落ち着くよ」
「……はあ」
笑いながら告げられたが、彼が何を言っているのかまるで分からない。
初耳の単語の連続に眉を顰めて、小夜左文字は緩慢に頷き、琥珀の液体で満ちた器を受け取った。
「熱いから、気を付けて」
「ありがとうございます」
太刀が片手で扱うものを、両手で大事に抱え込み、立ち上る白い湯気にそっと息を吹きかける。
匂いは間違いなくそこから漂っていて、林檎の果肉でも使っているのかと、不思議でならなかった。
「いただきます」
小さく会釈して、恐る恐る口をつける。
火傷しないよう、本当にごく少量だけを唇に含ませるが、鼻に抜ける爽やかな香りに反し、舌はあまり喜ばなかった。
味がしない。
ほんのり苦みを覚えるけれど、それ以外はこれといった特徴のない、ただの熱い湯に等しかった。
「う、ん?」
嗅覚が期待したものと、味覚から得た情報が一致しない。
確かに林檎のような匂いが口の中に広がったのに、噛み砕いた果肉から溢れる果汁は一切得られなかった。
「んん?」
頭が混乱して、動揺した。
鼻から変な声を漏らして、小夜左文字は硝子の器を目の前に掲げた。
蝋燭の光を受け、淡い黄金色が眩しい。
確認すべくもう一度口に含ませるが、どれだけ飲んでも、味は変わらなかった。
「あっ、ははは」
疑問符を並べ立て、奇怪な液体に目を白黒させる。
百面相する短刀を面白がって、燭台切光忠は腹を抱えて噴き出した。
「なんでしょう、これは」
今まで飲んできた飲み物と、根本的に違う気がする。
訳が分からないと声を高くした少年に、隻眼の男は喉の辺りを撫で、相好を崩した。
「カモミールっていう花をね、乾燥させたお茶なんだ。良い香りだろう?」
右の掌を上にして、軽やかに告げる。
得意そうに語られて、短刀は嗚呼、と首肯した。
「花、ですか」
「そう。鎮静効果があってね。気持ちを落ち着かせて、よく眠れるようにしてくれるって話だよ」
「つまり、薬湯ですね」
そこまで説明されて、ようやく納得がいく結論に辿り着いた。成る程、と肩の力を抜いて囁いて、真向かいの太刀が渋い顔になっているのには気づかない。
「それは、うーん」
植物の根や茎、葉を煎じたものを薬として用いる漢方は、歴史が古い。
これもそのひとつだと理解した小夜左文字に、燭台切光忠は否定しようとして、言葉を喉に詰まらせた。
もっと御洒落な感じで呼んで欲しいのに、通じなかった。
なかなか難しいと苦笑して、太刀は冷ましながらちびちび飲む短刀に目を細めた。
「美味しい?」
「よく分かりません」
「そっか~」
試しに訊いてみれば、感想は素っ気なかった。しかし嘘を吐くのが苦手な子だから、これは止むを得なかった。
正直な意見に苦笑して、燭台切光忠は急須の底に溜まった茶葉ならぬ、花を揺らした。
小夜左文字は半分ほど飲み干したところで顔を上げ、縁に残る唇の痕をなぞって消した。掌からじんわり広がる熱に安堵の息を吐き、確かに荒んでいた心が落ち着いたかもしれないと、薬効に頬を緩めた。
「燭台切光忠さんは、どうして」
「うん?」
「こんなにも、僕に。親切にしてくれるんですか」
そうしてふと気になって、掠れる小声で問いかけた。
真剣な表情で、真っ直ぐ太刀を見詰めて。
心の底から疑問を感じているのだと、雄弁に語る眼差しだった。口調以上に熱心な眼差しに問い質されて、背高な男は一瞬口籠もり、言葉を探して目を泳がせた。
その僅かな沈黙が、小夜左文字にも考える時間を与えた。彼はふっと頬を緩めると、濡れてもない器の縁を繰り返し撫でた。
「こんなに親切にされても。僕は、なにも。返せるものがないのに」
復讐に囚われた子供は、それこそが自分の願いであり、本懐だと信じて疑わない。
仲間を得てもそれは変わらず、『小夜左文字』という存在の軸として在り続け、決して揺らぐことはなかった。
一緒に居たところで楽しくもなく、面白い事が起きるはずもない。むしろ暗く澱んだ気配を引き寄せて、仲間を危険に晒しかねないのに。
小夜左文字には、復讐以外なにもない。
受けた恩に報いる術を、なにひとつ持ち合わせていない。
彼の持つ器が揺れていた。黄金色の茶が静かに波立ち、茶器の内側で砕けて散った。
表に現れ難い感情が、姿を変えて溢れていた。このままでは中身が零れてしまいそうで、燭台切光忠は右手を広げると、飲み口の広い器にそっと被せた。
握るのではなく、添えるだけに留めた。掴むのではなく、ただ重ねて、小夜左文字の意識を引き寄せた。
暗い場所に落ちて行こうとしたのを妨げ、防いだ。俯いていた少年はハッとなって背筋を伸ばし、眼前に佇む男を半ば呆然と見つめ返した。
「小夜ちゃん」
「……すみません」
「謝ることはないよ。それに、別に僕は、見返りが欲しくてやっているんじゃないんだ」
語り掛ける言葉は柔らかく、温かだった。甘い香りを放つ茶にどこか通じるところがあって、不思議な感覚だった。
一旦は上向かせた眼を下向けた彼に、太刀は頬を緩め、微笑んだ。ぽんぽん、とまたしても藍色の髪を撫でて胸を張り、迷うことなく言い切った。
「でも」
「そりゃね、打算で動くことも、たまにはあるよ。けど、小夜ちゃん。考えてみて。そうやって損得勘定から始まる関係っていうのは、きっと、哀しい結果にしかならない。僕は、そう思う」
食い下がる短刀には人差し指を突き付けて黙らせ、思っていることを率直に述べる。やや早口に捲し立てて、反論の余地を与えなかった。
一気に告げられた方は理解に時間がかかり、惚けた顔で小さく頷いた。その後で、そんな風に考える者もいるのかと衝撃を受けて、まだ温かい茶碗を抱きしめ直した。
相手が自分にとって都合よく動いてくれそうだから、わざと親切にして近付いて、意のままに操ろうとする。
金持ちだから、知恵者だから、権力者だから。そういう理由で距離を詰めようとする者たちの、なんと浅ましいことだろう。
そんな風に思う相手から親切にされても、きっと嬉しくない。誰かに優しくしたいという気持ちは、そもそも、無条件の慈悲の中から生まれてくるべきものだ。
もっともそういう感情を抱ける相手は、ごく一部に限られる。万民に対して生じるものではない。
ではなにが、判断基準になっているのか。
「僕は、小夜ちゃんが頑張っているのを知っているからね」
「僕が、ですか」
「そう。だから、応援したくなっちゃう」
にっこりほほ笑みながら言われたが、小夜左文字にはピンと来なかった。燭台切光忠の言葉は漠然としており、曖昧で、明確な形がなかった。
いったいなにを、自分は頑張っているのだろう。心当たりは見つからず、なにも浮かんで来なかった。
戸惑っていたら、黒髪の太刀に鼻の頭を小突かれた。
首を前後に揺らして、小夜左文字はおどけた男に眉を顰めた。
「応援、したくなるんですか」
「そうそう。それで、僕も頑張らなくっちゃって、ね。思うわけだ」
戻した腕を胸の前で組んで、燭台切光忠は自身の台詞にうんうん頷いた。
ご満悦な表情を見せられて、短刀は打たれた場所を撫で、唇を噛んだ。
「僕には、よく、分かりません」
見返りを期待しないで、誰かの為に尽くす。そんなこと、本当にあるのだろうか。
刀は器物であり、持ち主の想いに使い方を左右される。物言わず、形を持たぬ付喪神であった頃ならば、迷うことなく頷けたかもしれないけれど。
審神者によって現身を与えられ、心とも呼ぶべきものを付与された。そこから生じた感情が、短刀を戸惑わせていた。
復讐だけを追い求めていれば良かったのに、自らの足で見聞を広げ、知識を得る度に、本来は不要であるべきものが此処に産まれ、育っていった。
燭台切光忠が言いたいこと、そのすべてが分からないわけではない。けれど簡単に認められるほど、易しいものではなかった。
はっきりとした形を持たず、言葉にならないものが胸の中で渦巻いていた。
親切にされて嬉しいのに、心苦しくてならない。温情を受けておきながら、礼を返せない己の不甲斐なさが情けなかった。
同時に、自分にはここまで優しくされる資格がないとも思う。
足元からは赤黒い気配が忍び寄り、耳元ではクスクス笑う声が繰り返された。
どす黒いものに取り込まれ、沈んでいく自分なら想像出来た。望まぬ殺戮に手を染めて、屠った者たちの断末魔の叫びが消えなかった。
「小夜ちゃん」
「っ!」
手の中の茶が、どんどん冷たくなっていく。
あれだけ立ち上っていた湯気がひとつもなくなる頃、燭台切光忠が急須を揺らし、口を開いた。
「さあ、もう一杯」
硝子の器にはまだ残っているのに、温かなものを注ぎ足して、飲むように促す。
どうぞ、と掌を向けられた少年は呆然として、戻って来た温もりに吐息を零した。
嗚呼、と声が漏れた。染み渡る熱に鼻の奥がツンと来て、こみあげて来たものを堰き止めんと目を閉じた。
音立てて鼻を啜った彼を見つめて、燭台切光忠は残量が分かりやすい急須を真っ直ぐに戻した。
そうして茶碗の底を両手で支え持つ、遠慮がちな少年に相好を崩した。
「でも、そうだね。もし、小夜ちゃんがどうしても、お返しがしたいって言うんだったら。欲しいものは、あるかな」
「僕で、叶えられますか」
「ああ。勿論だよ」
小夜左文字はなにかと物騒なことを口にする、暗い刀だと思われがちだ。しかしそれは誤解で、実際は思慮深く、慎み深く、礼儀正しい短刀だった。
心根が優しいから、復讐に固執している。それが無為なことだと、本当は分かっているのに、その身にこびりついた誰かの想いを満たそうと、必死になって自分自身を押し殺している。
無私の心境で誰かの為に動いている、それは小夜左文字のことだ。
燭台切光忠は到底、その境地にまで至れない。だから羨ましくもあり、応援したくなり、不安定な彼を支えたいと願っている。
「笑って、くれないかな」
「……笑う?」
「そう」
心を押し殺し、元の主への忠義を貫こうとする短刀。
そこに染みついた黒いものを削り落として、いつか、まっさらな彼の姿を見てみたい。
万感の思いを込めて、燭台切光忠は頷いた。深く息を吸い、吐き出して、惚けた顔をしている短刀の頬を指の背で擽った。
優しく撫でて、藍色の髪を梳く。
膝を折って屈んで、下から覗き込むように見つめた。小夜左文字は藍の瞳を泳がせて、照れ臭そうにした後、たっぷり残っている琥珀色の茶に己を映した。
「……すぐ、には。難しいです」
真剣に悩んで、真顔で返された。
彼は控えめに囁いて、ゆるゆる首を振った。熱を取り戻した茶に息を吹きかけ、ひと口飲みこんだ。
こくりと喉を鳴らして、唇を舐める。
よく眠れるかどうかは分からないけれど、渇きは癒やされた。
「ゆっくりでいいよ」
「ありがとうございます。お茶、御馳走様でした」
「あれえ?」
そう言った短刀が持つ器の中には、まだまだたっぷり、茶が残されていた。
だのに唐突に、幕切れを告げる鐘を鳴らされた。
予想外の展開にきょとんとなって、男の口から素っ頓狂な声が出た。てっきりまだ話が続くものだと思いきや、小夜左文字の側から切り上げられてしまって、驚いて愕然となった。
そんな太刀の前で、少年は深々と頭を下げた。硝子の器は返却せず、胸に抱き、中身が零れぬよう水平に構えた。
「洗って、お返しします」
借り物の器だから、間違って落として割ってはいけない。
決意を込めて囁いて、口を真一文字に引き結んだ。
「小夜ちゃん?」
「僕、は。巧く笑えません。でも、僕も」
怪訝にする太刀の前で、彼は力を込めて呟いた。揺れる水面の向こう側に、此処にはいない打刀を思い浮かべて、大事な事に気付かせてくれた感謝を述べた。
笑って欲しいから、心を尽くす。
笑っていて欲しいから、心を砕く。
そんな相手が、小夜左文字にも居た。面倒なことばかり引き起こす、頑固で厄介な性格の持ち主だけれど、どうしてだか放っておけなくて、世話を焼かずにいられなかった。
この時間なら手入れ部屋を出て、いい加減私室に戻っているだろう。重傷を負わされた己の不甲斐なさに腹を立て、休まなければいけないのに、眠れない夜を過ごしているはずだ。
本当にこの茶が、安眠へと誘ってくれるのだとしたら。
これが真に必要なのは、小夜左文字ではない。
「おやすみなさい」
退室の挨拶をして、少年は深く頭を下げた。
未だ惚けたままの太刀を置き去りにして、慎重な足取りで、けれど急ぎ気味に床を蹴った。
パタパタ足音を響かせて、台所を出て、廊下を駆ける。
それも間もなく聞こえなくなって、取り残された男は開けっ放しだった口を閉じ、行き場を失った字で額を叩いた。
「そっかあー……」
復讐以外なにもないと言いながら、小夜左文字にも大事にしたいものがあったではないか。
知っていたのに忘れていたと失笑して、燭台切光忠は天を仰いだ。ふーっと深く息を吐き、四肢の力を抜いて身体をふらつかせた。
立ち上がろうとして失敗して、よろめいて腰を机にぶつけた。
「見事にふられたな」
「鶴さん」
痛みに耐えていたら、別方向から突然話しかけられた。
いったいいつから、見て、聞いていたのだろう。二重になった羞恥心に、男は顔を赤くした。
些か語弊がある言い回しが気になったが、墓穴は掘りたくない。今は触れないことにして、空の徳利を揺らす太刀に目を眇めた。
「傷心の光坊には、俺様が晩酌の相手をしてやろうじゃないか」
「はいはい。おつまみ、追加だね」
壁に寄り掛かって偉そうに胸を張る男に、燭台切光忠は呆れ混じりに言い返した。膝を起こし、今度こそ背筋を伸ばして、心優しい酔っ払いにひらひら手を振った。
気色をばあやめて人の咎むとも 打まかせては言はじとぞ思ふ
山家集下 雑 1246
2017/02/10 脱稿