隠れむものか埋む白雪

「ひえぇ~、さっむ」
「本当、冷えるね。兼さん」
 ドタバタという足音と一緒に、馴染みのある声が聞こえて来た。糠床を掻き回す手を休め、小夜左文字は間もなく姿を見せるだろう者たちを気にして背筋を伸ばした。
 玄関から屋敷に入り、一直線にこちらを目指したらしい。肩を並べて入って来たふた振りは、揃って首を竦め、両手を擦り合わせていた。
 鼻の頭に始まり、耳も、頬も真っ赤だ。いったいどこで、何をしていたのかと考えて、短刀は糠床ごと脇へ逃げた。
 ぷうん、と漂って来たのは、手元にある樽が発する臭いではない。
 原因を探って嗚呼、と頷き、少年は指先に残る滓を払い落とした。
「之定、茶ぁくれ。あっついやつ!」
 一方で大股で入って来た打刀は声を荒らげ、奥にいた男に向かって尊大に吠えた。やや巻き舌気味に捲し立てて、赤黒くなっている指先に息を吹きかけた。
 どうやら彼らは寒さに耐えられなくなって、温かいものを求めに来たようだ。
 その気持ちは、分からないでもない。だが態度が少々横柄であったため、台所を取り仕切る打刀の機嫌を損ねてしまった。
「まったく、五月蠅いね、君は。もう少し、落ち着きというものを持ったらどうだ」
 振り返り、歌仙兼定が嫌味たらしく言い返す。その右手には包丁が握られて、左手には皮を剥く前の芋が握られていた。
 毒のある芽の部分を、丁寧に削ぎ落としているところだった。それなりに集中力の要る作業を邪魔されて、口から漏れるのは溜息ばかりだった。
 呆れて、馬鹿にしている。
 そんな雰囲気がはっきり分かるくらい、滲み出ていた。他と比べて些か鈍感と言われる打刀でも勘付くくらいには、分かり易い反応だった。
「んだよ。俺はなあ、これでもしっかり、馬当番終わらせて来たんだぜ?」
「兼さんは、馬に餌あげただけだけどね」
「ちょっ、国広。それは言わない約束だろ」
 ムッとして、和泉守兼定が反論を試みた。拳を作って息巻いて、けれど横から茶々が入り、途端に声は小さくなった。
 赤くなった耳を弄っていた脇差が、満面の笑顔で舌を出した。喧嘩になりかけていたところを未然に阻止して、相棒である打刀の覇気を削いだ。
 隠しておきたい秘密を暴露されて、和泉守兼定の顔がみるみる歪んでいく。対して歌仙兼定はそらみたことか、と得意げに胸を張った。
 実に程度の低いやり取りだが、これが彼らの日常だ。一時期に比べて随分控えめになったとはいえ、両者の仲の悪さは、一向に改善が見られなかった。
 双方認める部分は認め合っているのに、意地っ張りなのか、それを巧く相手に伝えられずにいる。同じ兼定とはいえ、時代が大幅に隔たっているためにまるで似ていない両者だが、性格面では案外似た者同士だった。
 悔しそうに奥歯を噛んでいる和泉守兼定から視線を外して、小夜左文字は草履を引っ掻け、土間へ降りた。沢山並んでいる瓶のひとつに柄杓を入れて、掬った水でまず口を濡らし、余った分で手を洗った。
 早朝に汲んだ水は冷えていたが、凍る程ではない。ほう、と息を吐いて濡れた手を手拭いに包み、短刀の少年はいそいそと台所へ戻った。
「煎茶で良いね」
「はい、ありがとうございます」
 歌仙兼定はといえば脇差の少年に向けて問い、南部鉄器の鉄瓶を手に取った。そうして何の迷いもなく短刀へと差し出して、突き出された方も当たり前のように受け取った。
 ずっしり来る重みと、鉄の冷たさが手に痛い。だが文句は言わずに飲み込んで、少年は即座に踵を返した。
「湯呑みは、どれだったか」
「あ、僕がやります」
 先ほど水を飲んだ瓶から半分ほど注ぎ、聴覚は後方へと差し向ける。物音と会話が入り混じって、静かだけれど、賑やかだった。
 こんな長閑な午後は、随分と久しぶりだ。
 なにかと慌ただしかった年末年始を振り返って、小夜左文字は柄杓を置き、水瓶の蓋を閉めた。
「僕も、もらっていいですか」
「なら休憩としよう。豆餅しかないが、構わないかな」
「おっと、流石は之定。分かってるじゃねーか」
「言っておくが、ひとり、ひとつだけだよ」
 沓脱ぎ石を経て上り框に爪先を置き、背伸びをしながら呟く。
 歌仙兼定が真っ先に反応を示して、告げられた内容に和泉守兼定が食いついた。
 豆餅は、今日の八つ時の菓子だ。ただ遠征に出ている短刀が数振りいるため、僅かだが数が余っていた。
 外見は良い大人なのに、中身はてんで子供の打刀を軽く叱って、歌仙兼定は湯呑みを四つ並べると、棚の戸を開いた。
 隠してあった甘味を出して、続けて急須を取る。手際よく準備を整える彼の横で、小夜左文字は水を注いだ鉄瓶を七輪に預けた。
 火鉢代わりに暖を取るのに使っていたから、中の炭は赤々と燃えていた。断面には綺麗な菊の模様が見えて、黒と赤の対比が美しかった。
「へへ、役得。いっただき」
「駄目だよ、兼さん。先に手を洗わないと」
「いって。いーじゃねえかよ。さっき、顔と一緒に洗ったろ」
「爪の間に、馬糞が残ってるかもしれないのに。いいの?」
「う……」
 豆餅の皿の前では和泉守兼定が、早速手を伸ばそうとして怒られていた。行儀がなっていないと脇差に手を打たれ、渋い顔で目を逸らした。
 実際、彼らは獣臭かった。馬小屋で働いていたのだから当然で、この程度で済んでいるのはまだ良い方だった。
 鯰尾藤四郎に至っては、全身馬糞まみれで大変だ。そのまま風呂に行くな、と周りが毎回止めに入って、冬場でも容赦なく井戸水を浴びせられていた。
「おや、餌やりしかしていないんだろう?」
 口籠り、大人しく手を引っ込めた打刀に、歌仙兼定がここぞとばかりに問いかける。
 嫌なところを指摘された男は口を尖らせ、両手を腰に据えて頬を膨らませた。
「毛並みだって整えてやってらい」
「兼さんも、髪の毛、食べられてたけどね」
「お前はいちいち、ひと言多いんだよ!」
 馬当番の仕事は、いくつかある。餌やり、厩舎の掃除に加え、鬣を整えてやったり、適度に走らせて運動させたり。
 堀川国広にばかり任せていたわけではないと主張し、吼えるが、横からまたも茶々が入って、どうにも締まらない。逐一要らないことを報告する相棒に小鼻を膨らませ、和泉守兼定は握り拳で空を殴った。
 振り下ろした手は後ろへ伸びて、長い黒髪を鷲掴みにした。黒毛の馬に喰われた箇所を探して労わるように撫で、枝毛でも見つけたのか、苦々しい表情を作った。
「ほら、行くよ。兼さん」
 そんな打刀の手を取って、臙脂色の上下を羽織った脇差が促す。
 鉄瓶の中で水はクツクツ言っていたが、吐きだされる湯気の量はまだ少なかった。
 茶の準備が整う前に、手洗いを済ませよう。
 土間から裏庭に繋がる勝手口を指差した彼に、和泉守兼定は舌打ちの末、頷いた。
「わーったよ」
「丁寧に洗うんだよ」
「分かってるっての。俺ぁそんなに餓鬼じゃねーぞ」
「そういう事言うから、子供だって言われるんでしょ」
 軽く引っ張られ、いかにも仕方がなさそうに動き出す。そこへ歌仙兼定が余分なひと言を口にしたものだから、またしても口論に発展しそうになった。
 堀川国広が慣れた反応で割って入り、瞬時に会話を断ち切った。
 手厳しい指摘を受け、黒髪の打刀の顔が益々渋くなる。口はヘの字に曲げられて、泣きそうなのを堪えている雰囲気もあった。
 傍目には堀川国広の方が年下に見えるのに、実際はその逆だ。主導権も和泉守兼定が握っているように思われがちだが、本当に強いのは脇差の方だった。
 小さい大人が大きい子供を宥め、台所から裏庭へと連れていく。寒いのは嫌だ、だとか、冷たいのはきらいだとか、抗議の声はことごとく無視された。
 勝手口を開けて、ふたり組が外へ出た。扉が閉まるまで見送って、小夜左文字は肩を竦めた。
「騒がしいですね」
「まったくだ」
「歌仙も、大人げないですが」
「……お小夜、湯が沸いたようだ」
 毎日飽きもせず、同じようなやり取りが繰り返されている。
 いい加減懲りればいいのに、反省する気配がない。分かっていながら改めようとしない打刀にもちくりと言えば、良い具合に誤魔化された。
 確かに、鉄瓶から白い湯気が勢いよく噴き出ていた。放っておけば中身が煮え滾って、ぐらぐら揺れて、五徳から転がり落ちかねなかった。
 刀剣男士だって、火傷くらいする。そして戦場で受けた怪我以外で手入れ部屋を使うのは、情けなく、恥ずかしいことだった。
 火傷しないよう手拭いを間に挟み、少年は鉄瓶を七輪から外した。調理台では歌仙兼定が、急須に茶葉を注ぎ入れていた。
「うん。良い感じだ」
 そこに沸騰させた湯を注ぎ入れ、暫く待ち、蒸らした。余った湯は湯呑みに注いで器を温め、全ての準備が全て終わるころに、堀川国広たちが戻って来た。
 少しは色が落ち着いていた鼻の頭が、また真っ赤になっていた。
「ひぃぃぃ、さっみぃ」
「冷めないうちに、どうぞ」
「いただきます」
 鼻水を垂らした和泉守兼定に苦笑して、歌仙兼定が湯気を放つ湯呑みを手で示した。脇差は嬉しそうに顔を綻ばせ、ほんのり湿った手で器を抱きしめた。
 じんわり温かな熱が伝わってきて、それだけでほっとした。元から柔和な表情を更に解して、少年は口を窄め、息を吐いた。
「うわ、っち」
 右隣では和泉守兼定が、早速茶に口をつけ、あまりの熱さに悲鳴を上げた。赤く染まった舌を伸ばして涙目になり、呵々と笑う打刀を恨めし気に睨みつけた。
 もっとも、熱い茶を所望したのは、他ならぬ彼だ。
 文句を言われる筋合いはないと、歌仙兼定は取り合わなかった。
「食べますか?」
「気持ちは有り難てぇが、今は、ちと……」
 見かねた小夜左文字が豆餅の皿を、彼の方へと押し出した。だが繊細な部分がじんじん痛む状態で、固形物を食べるのは危険だった。
 水を飲んで冷ましたいところだが、男としての矜持がそれを許さない。
 変に気位が高い打刀に肩を竦め、短刀は拳ほどある大福をひとつ、手に取った。
 口を開け、ぱくりと齧り付いた。柔らかな餅を苦心の末に噛み千切って、唇にこびりついた白い粉は親指で払い落とした。
「ん」
 鼻から息を吐き、小さく頷く仕草は、美味いという意味だ。言葉にはせず態度で示して、残る餅をひと口で頬張った。
 指の腹に残る餅の切れ端まで舐って、もぐもぐ動く口の周りは白い粉に染まっている。気付いた歌仙兼定が自前の手拭いを取り出して、身を屈め、拭いてやった。
「ほら、じっとして」
「別に、いいのです」
 布を細く折り畳み、三角にした角を押し当てられた。嫌がって逃げるが叶わず、やや強めに肌を擦られた。
 斜め向かいからは笑い声が聞こえて、なにかと見れば、堀川国広が肩を震わせていた。
「兼さんも、あんな感じだよね」
「うっ、……せえ。んなこたぁ、ねえよ」
「本当かなあ?」
「よーし、それじゃあ俺様が、格好良い豆餅の食い方を披露してやろうじゃねえか」
「こら、食べ物で遊ぶんじゃない」
 手のかかる子供の世話を思い出して、脇差がちらりと隣を見る。水を向けられた打刀は妙なところでやる気を発揮し、正面から叱責されて頬を膨らませた。
 ようやく痛みが引いた舌で前歯の裏を舐め、和泉守兼定が豆餅を掴んだ。それは小夜左文字にとっては大きかったが、彼の手に収まると、随分小さく見えた。
 表面に塗された白い粉を軽く叩いて落とし、打刀は大口を開け、一度に全部を放り込んだ。流石に少々苦しかったが、我慢して奥歯で噛み潰して、細切れにして小さく丸めていった。
 柔らかな餅に、臼歯に磨り潰される豆の歯応えと、仄かな塩気が丁度良い。悔しいが美味い、と内心拍手を送って、背高の男は指に残る粉を皿に落とした。
「どうよ」
「自慢することか」
 口の周りに、粉は残っていない。
 綺麗に食べられただろう、と胸を張った彼に、歌仙兼定は呆れ顔で首を振った。
 小夜左文字はふたつめの豆餅に手を伸ばしており、堀川国広もひとつめを食べ終えた。幾分温くなった茶で喉を潤して、和泉守兼定もちゃっかり残る一個を取ろうとした。
「君はひとつだけだと、言わなかったか」
「あでででででっ」
 勿論、台所番長たる打刀が見逃すわけがない。
 個数制限を無視した不届き者を罰して、彼はその生意気な手の甲を思い切り抓った。
 爪を立て、引っ張り、力を込めて捩じった。骨ばかりで肉の薄い場所を攻撃されて、幕末を駆けた志士の刀は涙目になり、聞き苦しい悲鳴を上げた。
 肩を跳ね上げて手を取り返そうと足掻くものの、戦国育ちの打刀の力は凄まじい。簡単には逃してくれず、薄い皮膚を更に捩じられた。
 抵抗を封じられ、和泉守兼定の鼻の穴が大きく膨らんだ。悲壮感丸出しの表情で傍らを振り返って、頼りになる相棒に助けを求めようとした。
「くに、ひ……」
「自業自得って言葉、僕、好きだな」
「悪因苦果です」
 しかし肝心の脇差は正面を向いており、左隣に一切構おうとしなかった。それどころか茶に舌鼓を打ち、嫌味としか思えない台詞をのんびり口遊んだ。
 その真向いでは小夜左文字が、ぼそりと小さく呟いた。歌仙兼定は人好きのする笑みを浮かべ、手癖の悪い打刀を解放した。
「いっ、てぇぇ」
 抓られた場所は見事に赤く染まり、内出血まで起きていた。爪の跡がくっきり残されて、見ているだけで痛そうだった。
 たかが豆餅で、この仕打ち。
「ひとつくらい、良いじゃねえかよ。之定のけちんぼめ」
「ほう。反省が足りないようだな」
 皮が引き千切れると思うくらい、本気で痛かった。大福にも結局ありつけておらず、一方的に責められて、あまりにも不平等だ。
 腫れている場所を撫でつつ文句を言えば、歌仙兼定の眉が片方、持ち上がった。声は低く沈んで剣呑な様相を呈し、和泉守兼定も負けるものかと眼力を強めた。
 台所の調理台を挟み、火花が散った。
 取っ組み合いの喧嘩が始まりそうな雰囲気に、小夜左文字と堀川国広は、ほぼ同時にため息を吐いた。
「ほら、兼さん。お茶が冷めるよ」
「歌仙、おかわりください」
「いって。耳を引っ張るんじゃねえ」
「ああ、お小夜。なんてことだ、また粉まみれじゃないか」
 このふた振りの相性は、どうやったって良くならない。些か面倒臭く感じながら、脇差と短刀は其々の方法で、互いの打刀の意識を引き寄せた。
 利き手に続いて右耳まで痛めつけられ、和泉守兼定は完全に涙目だった。歌仙兼定も空の湯呑みを差し出されて、別のことに気を取られて膝を折った。
 大人しく顔を拭かれてやって、小夜左文字は肩を竦めた。他の刀と、自分に対する態度が百八十度異なるのはいかがなものかと思いつつ、嬉しそうにしているのを見ると、口喧しく言う気が起きなかった。
 本丸内においても、両者の関係は既に知れ渡っている。
 今更あれこれ反論しても無駄と諦め、少年は急須から注ぎ足された茶で口を漱いだ。
 咥内に残っていた餅の欠片を洗い流し、ほう、とひと息つく。
 目の前では堀川国広が、両手を合わせて瞑目していた。
「ごちそうさまでした」
 丁寧に、行儀よく。
 小さく頭を下げた彼は、食後の挨拶を述べ、顔を上げると同時に歌仙兼定を見た。慣例的なものとはいえ、感謝されるのは悪くないと満足げだった男は首を捻り、不思議そうに脇差を見詰め返した。
「なんだい?」
「お礼、というのは変ですが。まだご存じないようなら」
「ああ、あれか」
 声にも出して問えば、堀川国広が目を細めた。重ねあわせた両手を左右に躍らせて、視線を外し、勝手口の方を見た。
 それで思う所があったのか、和泉守兼定も茶を啜るのを中断し、頷いた。同じく外へと意識を傾けて、持っていた湯呑みは台に戻した。
「庭の梅の花、蕾が綻んできてました」
 ことん、という小さな音に、少年の軽やかな声が重なった。
 寒さは依然厳しく、雪は大量に残っていた。それでも陽が落ちる時間は少しずつ遅くなり、冬の終わりを匂わせていた。
 春の訪れを実感する機会は、少ない。
 そんな中で見つけた確かな変化に、堀川国広は喜びを隠し切れなかった。
 馬当番を終えて、屋敷に戻る道中に、その木はあった。
 葉は全部落ちて、丸裸で寒そうだった。幹はやや黒ずみ、枯れているのかと危惧しそうになる風体だった。
 しかしよくよく注意して見れば、枝の先に沢山の蕾があった。大半が寒さに身を竦め、丸くなっていたが、気の早い一部が外殻を突き破り、背伸びしていた。
「なんだって」
 初耳の情報に、にわかに歌仙兼定の顔が華やぐ。一も二もなく飛びついて、身を乗り出し、両手を調理台へと押し付けた。
 圧迫感が増して、和泉守兼定が反射的に仰け反った。小夜左文字も知らなかったと目を丸くして、壁の向こう側に思いを馳せた。
 もうそんな時期なのかと、驚きを隠せなかった。
 月日の経つ速さを思い知り、日々の変化に戸惑わされた。憎しみや、恨みに囚われている自分には無縁と信じていたのに、梅の花の綻びを知らされて、少なからず心が躍った。
「それは良い。早速見に行こう」
「歌仙」
 横では風流を好む自称文系が、興奮気味に捲し立てた。鼻息を荒くし、頬を紅潮させて、夕餉の下拵えもあるというのに、全部忘れて踵を返した。
 しかも何故か、短刀の手を取って。
 急に引っ張られて、面食らった。ぎょっとして抵抗すれば、見ていた堀川国広がひらりと手を振った。
「片付けは、僕たちがやっておきますから。ごゆっくり」
「行くよ、お小夜。ああ、筆と紙も取ってこなければ」
 歌仙兼定には願ったりかなったりの台詞を吐いて、完全に見送る体勢だった。その声が聞こえたからなのか、打刀は血気盛んに吼え猛った。
 短刀の都合などお構いなしで、強引に廊下へと連れ出した。小柄な少年を引きずるように進んで、歩幅は大きく、荒々しかった。
 前だけを見て、独り言は止まらない。たかが梅の花一輪、蕾が綻んだ程度で、呆れるくらいの喜びようだった。
 放っておいても、季節は進む。花は咲き、やがて散る。
 別段不思議な話ではない。自然の摂理とは、そういうものだ。
 それなのに、大袈裟だ。実に馬鹿馬鹿しい。
「……まったく」
 だというのに、叱れない。
 いかにもこの男らしくて、巻き込まれているのに、嫌な気分ではなかった。
 ぽつりと零して、小夜左文字は借りた褞袍に袖を通した。辿り着いた歌仙兼定の部屋で、いそいそと外に出る支度を整えた。
 この一年ですっかり物が増えて、壁は棚で埋め尽くされていた。畳の上にも書やらなにやらが散乱し、布団を敷くと、足の踏み場もなかった。
 もう少し広い部屋に引っ越したいが、そうは問屋が卸さない。本丸内で暮らす刀の数は着実に増えており、部屋数は、かなりぎりぎりだった。
 増築しようにも、土地がなかった。後は上に建て増しするしかない、という話だが、平屋建ての現時点でさえ大変な雪下ろしが、もっと危険なものになってしまう。
 来年は、命綱が必要かもしれない。戦闘ではなく、屋根から転落した怪我で手入れ部屋が埋まる日も、そう遠くなかった。
「よし。さあ、行こうか」
「歌仙、羽織りを忘れている」
 十枚を軽く超える短冊に、筆を収めた矢立を握って、歌仙兼定が意気揚々と立ち上がった。その格好は白の胴衣に袴だけで、防寒着の類はなにひとつ身に着けていなかった。
 そんな格好で外に出たら、凍え死んでしまう。
 梅の蕾が綻ぶところを早く見たいのは分かるが、夢中になり過ぎて他が疎かになるのは、いただけなかった。
 仕方なく衣桁にぶら下がっていたものを取り、差し出した。打刀は失念していたと頬を赤らめ、いつでも冷静な短刀に微笑んだ。
「ありがとう、お小夜」
「べつに……」
 感謝の言葉と共に受け取って、目尻を下げる。
 即座に少年は顔を背け、ぼそぼそと聞き取り辛い小声で囁いた。
 畳に直置きされていた木箱を踵で押し退け、下を向いたまま廊下へと出た。敷居を跨ぐ直前振り返れば、歌仙兼定は渡された羽織の前を閉めるところだった。
 太めの紐を絡ませて、満足げだ。膝まである大きめの羽織は濃い紺色で、裏地は紫に花を散らした鮮やかな一品だった。
 小夜左文字が羽織ると、裾が床に擦れてしまう。背丈の差をそんなところで意識して、苦々しい気持ちは奥歯で磨り潰した。
 豆餅の味が、微かに残っていた。程よい塩加減の唾を飲み込んで、少年は一足先に玄関を目指した。
 草履ではなく、自ら藁で編んだ雪沓を履き、踏み出した外は案の定、寒かった。
 思いの外、風が強い。襟巻も必要だったかと足踏みしていたら、気配もなく忍び寄った影が、ふわりと首を包み込んだ。
「お小夜も、忘れ物だ」
 締め付けることなく、ゆったり巻きつけられた。覚えのある色と感触に瞠目して振り向いて、小夜左文字は右目だけ閉じた男にばつが悪い顔をした。
 身支度を終えて、歌仙兼定が追い付いていた。その首には揃いの襟巻が、形よく結ばれていた。
 色が異なるだけで、模様も、長さもすべて同じ。
 兄弟刀でもないのに揃えるのは、本音を言えば恥ずかしかった。だのにどうしてもこれが良い、と万屋で駄々を捏ねられ、最終的に折れてしまった。
 甘やかしすぎるのは良くないのに、絆されてしまう。
 悪い癖だと自戒して、短刀は三重に巻かれた襟巻に顔を埋めた。
 堀川国広が言っていた蕾は、簡単には見つからなかった。
 厩近くと言っていたけれど、周辺に梅の木は沢山生えている。どれも葉が落ちて寒そうで、目印となるものはなにもなかった。
 分かり易く紐でも結んでいてくれたなら、どんなに良かっただろう。白い息を吐き、同じ場所をうろうろして、小夜左文字は肩を竦めた。
 枝はどれも高い位置にあり、小さい蕾を見つけるのも一苦労だ。背の低さは本丸随一の身として、上を向き続けるのはかなり厳しかった。
 日陰に残っていた雪を蹴散らし、途切れた集中力への苛立ちを発散する。疲労を訴える首を撫でて労わりたいところだが、襟巻が邪魔をして、思うように揉んでやれないのも癪だった。
 せめてあと三寸、いや、一寸で構わない。
 背が伸びる見込みはないと知っていても、祈らずにはいられなかった。
「まだ、春は遠いか」
 蕾が綻んだとはいえ、たった一輪の話だ。季節を勘違いし、早とちりしただけかもしれなかった。
 昨日から、雪は降っていない。風は強いが日差しは出ており、場所によっては暖かかった。
「うっ」
 びゅう、と吹いた突風に攫われそうになり、反射的に身を竦ませた。結い上げた髪がばさばさ音を立てて踊り、布の隙間から忍び込んだ冷気が肌を刺した。
 鳥肌が立ち、ぞぞぞ、と悪寒が走った。奥歯をがりっ、と噛んで耐えて、出そうになった鼻水は寸前で阻止した。
 ずずず、と息と一緒に吸い込んで、口から熱気だけを吐き出す。
 それを三度繰り返したところで、波立っていた心は幾らか落ち着いた。
 春は、まだ見ぬ夢だ。
 けれど着実に、距離は狭まっていた。
 足音が後ろから、少しずつ近付いて来ている。
「お小夜、あった。見つけた。本当だ。綻んでいる!」
 誘われて振り向けば紅潮した顔が現れて、小夜左文字は苦笑し、子供の無邪気さに肩を竦めた。
 息を切らし、歌仙兼定が声を張り上げた。瞳はきらきらと輝いて、宝石箱をひっくり返したかのようだった。
 両手は緩く握りしめ、上下に振れて落ち着きがない。気が急くのか足踏みを止めず、一刻も早く見せたくて仕方がない様子だった。
 宝物を見つけた顔だ。
 戦場で見せる野生の獣めいた荒々しさは、微塵も感じられなかった。
「ほら、お小夜。早く」
「分かってます。急がなくても、散ったりしません」
 急かし、手を伸ばしてくる。腕を掴まれそうになった少年は咄嗟に身を引いて、ため息を零し、先陣切って歩き出した。
 斜め後ろに置き去りにされた打刀は、直後に我に返って踵を返した。早足に追いかけて、並んで、訝しむ目ににこりと笑いかけた。
「どこですか?」
「ほら、あれ……あれ?」
 歌仙兼定が来た方角に暫く進んで、問いかけると返答が危うい。頭上を指差した男は急に目を泳がせ、身体を反転させて、その場でくるくる回った。
 三百六十度視線を巡らせて、縋るように短刀を見る。
「歌仙、どれですか?」
 当惑がありありと浮かんだ眼差しに、小夜左文字は容赦なかった。
 重ねて問いかけて、濃紺色の袖を引いた。催促された打刀は尻込みして、口籠り、助けを求めて明後日の方角を向いた。
 どれも似たような木ばかりで、際立って目立つものはない。よく注意しておかないと、現在地を見失いかねなかった。
 そんな環境だから、綻び始めていた梅の蕾も、一旦目を離したら簡単には見つけられない。
「ええ、と……」
 確かあの辺だったと人差し指で空を掻き、歌仙兼定は悲壮感たっぷりに顔を顰めた。
 口をヘの字に曲げて、必死に目を凝らして探し回っている。少し意地悪し過ぎたかと内心舌を出して、小夜左文字も周辺を見渡した。
 地表に飛び出た木の根に登り、寒さに震えている蕾を確かめていく。
 せっかちなのは誰、と心の中で問いかけて、少年は白い息を吐きだした。
「あ」
「はい?」
「あった。あったよ、小夜。ほら」
 両手を擦り合わせ、冷えた指先に熱風を浴びせた。そこに消え入りそうな声が紛れ込み、顔を上げた直後、問答無用で上腕を鷲掴みにされた。
 思い切り力を込めて、ぎゅう、と握りしめられた。その状態でガクガク揺さぶって、打刀は左手で宙を指し示した。
 沢山植えられた、梅の木の群れの中。
 風に煽られ、揺れる無数の枝の、その一本。
「ああ……」
 注意深く探さなければ分からないところに、確かに外殻を破り、花弁を紐解こうとしている蕾があった。
 同じ枝の、他の蕾はまだ硬い。五つ以上が身を寄せ合っている中で、その一輪だけが、一足早く目覚めを迎えようとしていた。
 雪はまだ残り、厳しい寒さが続いている最中だ。 
 背伸びしたい年頃なのか、あまりにも気が早過ぎる。おかしくて、見ているだけで笑いがこみあげて来た。
「消えずとも 皆淡雪ぞ 天地に こぬ春ひらく 園の梅が香」
 それはどうやら、隣で眺める男も同じだったらしい。
 早梅を詠んだ歌を無自覚にくちずさみ、歌仙兼定がうっとりと目を細めた。興奮は少し収まったのか、表情は穏やかだった。
 蕩けるような笑顔は甘く、柔らかい。寒さから朱を帯びた頬も相俟って、さながら梅の木に恋をしているようだった。
 破れかけた外殻から、白い花弁が覗いていた。咲くか、咲かぬかを躊躇する素振りで、心細げにふた振りを見下ろしていた。
 堀川国広が見つけなければ、きっと気付かぬまま樹下を通り過ぎていた。
 冬の終わりは遥か先のことに思えて、思いの外間近に迫ろうとしていた。春の息吹を体感し、少年は感慨深げに吐息を零した。
「綺麗です」
「ああ。なんて美しいんだろう。これこそ、自然が作り出す美の結晶だ。本当に、素晴らしい」
 感嘆の声を漏らせば、聞き拾った歌仙兼定が大袈裟に同意した。両手を広げ、大仰な仕草で早口に捲し立てた。
 冬のただ中に見付けた、春の芽生え。
 それこそが、彼が風流と評するものだった。
 感極まって、涙ぐんでいる。流石にそれはどうかと呆れて、小夜左文字は髪を結う紐を解いた。
「ん」
 結び癖がついた藍色の髪が、支えを失って四方へと広がった。空気を含み、ゆっくりと沈んでいく。首を振ってその速度を上げて、少年は端が擦り切れている紐を伸ばした。
 こちらもかなり癖がついていて、縛られていた部分が凹んでいた。軽く捏ねて引っ張って、短刀はそれを打刀へと差し出した。
 なんのつもりなのか、すぐに分かったらしい。
 歌仙兼定は鷹揚に頷くと、急に畏まり、両手で恭しく受け取った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 髪紐なら、屋敷に戻れば何本か予備がある。一本くらい、惜しくなかった。
 やや横柄な物言いに苦笑して、打刀は預かった紐を枝に絡めた。風で解けないよう二重に巻き付け、しっかり結び、輪を作った。
「……少し、心許ないか」
「手拭いの方が良かったでしょうか」
「なら、僕のこれを」
 けれどいざ結んでみると、紐の赤色は枝に同化した。藍色の髪の中でなら映えるのに、枯れ色の木々の中だと、驚くほど地味だった。
 しかも紐は、細い。見失わない為の目印としては、些か弱かった。
 どうしようか悩んで、歌仙兼定が懐に手を入れた。先ほど小夜左文字の顔を拭った手拭いを取り出して、広げ、縦に細く畳み直した。
「明日も、見に来よう」
「はい」
 それを、蕾を挟む格好で、小夜左文字の髪紐の反対側に括り付けた。枝が折れない程度にぎゅっと縛って、さながら寺社の御籤を結んでいるかのようだった。
 今度は、布の白さが景色に映えた。遠目からでもなにかあると分かって、遥かに見つけ易くなった。
「これで、よし」
「楽しみです」
「……おや」
 背伸びをし、浮かせていた踵を下ろして、打刀が胸を張った。両手を腰に当てて満足げな横でぼそりと呟けば、耳聡く反応された。
 珍しいものを見た顔で、驚いた様子だった。目を真ん丸にして見下ろされて、短刀の少年は居心地悪く身じろいだ。
「なんですか」
 なにか変なことを言っただろうか。
 そんな表情をされる謂れはない。訝しんでいたら、歌仙兼定は目元を綻ばせ、口元は左手で覆い隠した。
「いや。お小夜も、そんなことを言うようになったのか」
「……っ」
 復讐に固執し、仇討だけを求めていた。
 黒い感情に囚われて、悪夢に魘され、過ぎ去った日々にばかり心を砕いていた。
 薄暗い檻の中、自由を望むことなく蹲っていた。
 そんな少年が、未だ見ない景色を望んだ。いずれ来ると分かっていても、今は見るのが叶わない光景を、求めた。
 前を向いていた。
 上を、向いていた。
 指摘されて、ハッとした。意識していなかったと両手で口を塞いで、意味深に笑う打刀を睨みつけた。
 けれど眼力に迫力はなく、なんの効果も発揮しない。歌仙兼定は呵々と笑うばかりで、小夜左文字は苦々しい面持ちで頬を擦った。
 本丸での日々は、あっという間に過ぎていく。時間の経過は、さほど気にならない。だが振り返ってみれば、実に多くの経験を、この場所で得ていた。
 それまで目も向けなかった世界を、否応なしに突き付けられた。気にしてはいけない、考えてはいけない、と蓋をしようとしても、情報は五感を通じて流れ込んで、小柄な短刀を呑み込んだ。
「……いけませんか」
「まさか。嬉しいよ。君とこうして、季節を感じられるんだ」
 否定しようとしても、上手く言葉が出て来ない。仕方なく悪態をついて誤魔化せば、打刀は華も賑わう笑顔を浮かべ、幸せそうに目を細めた。
 梅の花を愛でていた時より、よっぽど甘く、蕩けていた。
 それが他ならぬ自分だけに向けられているのを感じ取って、少年は一瞬息を飲み、身を捩り、膝をぶつけ合わせた。
 不自然にならない程度にゆっくりと顔を背け、跳ねる鼓動を落ち着かせようと息を吐く。
 勝手に赤くなる頬は寒さの所為だと言い訳して、両手を押し当て、上下に擦った。
「そうですか。……別に、梅の花は、好きです」
 時の流れ、季節の移ろい云々は別にして、梅の花自体は嫌いではない。観賞するにはもってこいの花だから、それが咲くのは、悪い気はしなかった。
 あくまで一般論として、言ったに過ぎない。
 変に誇大解釈するなと釘を刺して、彼はそろり、傍らを盗み見た。
 歌仙兼定はぽかんと間抜け顔をして、瞬きも忘れて小夜左文字を凝視していた。
「どうしました」
 見事に造形が崩れていた。折角の端正な顔立ちが台無しで、ひょっとこも逆立ちして逃げ出す腑抜け面だった。
 呆然として、動かない。問いかけにもなかなか反応してくれなくて、困っていたら、ようやく瞬きを再開させた男が、取り繕うように前髪を掻き上げた。
「あ、いや。すまない、お小夜。よく聞こえなかったから、もう一度、言ってくれないか」
 目が泳ぎ、声は上擦っていた。動揺が滲み出て、隠し切れていなかった。
 風が吹いたわけでも、獣の鳴き声が混じったわけでもない。だのに聞き取れなかったと、男は言う。
 梅の花に気を取られ、ぼんやりしていたのか。想像して、小夜左文字はやれやれと肩を竦めた。
「花は、好きです」
「もう一度」
「梅の花は、好きです」
「もう一回」
「……歌仙?」
「う――」
 仕方なく言い直してやれば、強請られた。間違いなく聞こえているだろうに、再度言ってくれるよう求められた。
 なにがしたいのか、意味が分からない。
 流石に三度は繰り返さず、短刀は声を低くして目を吊り上げた。
 凄まれ、打刀は尻込みした。右往左往して、哀しそうに顔を伏して目元を覆った。
 恥じ入って、小さくなった。恰幅良い体格を限界まで縮めて、小夜左文字の前で蹲った。
 それで、理由が分かった。
 綻び始めた蕾を見上げて、少年は首を振った。
「べつに、歌仙のことじゃ」
「わ、分かっているよ。そんなことくらい!」
 好きなのは、梅の花だ。だというのに無駄に繰り返し言わせて、何が嬉しいのか。
 理解出来なくて眉を顰めていたら、しゃがみ込んだままの打刀に怒鳴られた。唾を飛ばして吠えられて、短刀は圧倒されて目を点にした。
「歌仙?」
「だって、仕方がないだろう。お小夜は、その。言ってくれないじゃないか」
 全て承知の上だったのがまた驚きで、当惑が否めない。
 惚けた顔で見つめていたら、歌仙兼定はぼそぼそ言って、膝に顔を埋めて丸くなった。
 殻に閉じこもられた。
 羽織の裾が地面に擦れているのも構わずに、籠城されてしまった。
 見た目は立派な大人だが、これでも小夜左文字より幼いのが、彼だ。普段は隠している子供っぽさが急に前面に押し出されて、段々と可笑しくなって来た。
 拗ねられた。
 可愛かった。
 こんな風に癇癪を爆発する彼を、数百年ぶりに見た。
「梅の花なら、好きです」
「ぐ」
 こみあげてくる笑いを堪え、小夜左文字は肩を揺らした。まだ咲かない花を仰ぎ、身じろいで呻いた打刀に目尻を下げた。
 審神者によって顕現させられた当時は、右も左も分からずに混乱した。黒い夢に襲われて、安眠できず、日々移り変わる景色に目を向ける余裕すらなかった。
 この身に宿る闇は、未だ消えない。永遠に取り除かれることはない。しかし一時期に比べれば、痛みは格段に弱くなっていた。
 そこで小さくなっている男は、無数に突き刺さっていた太い棘を、一本ずつ取り除いてくれた。細心の注意を払って、小夜左文字が傷つかないよう、丁寧に。
 根気の要る仕事だったに違いない。そんなことは頼んでいないと反発し、突き放したこともあったのに、辛抱強く付き合ってくれた。
 冬の終わりに春の始まりを探す。こんな楽しみ方もあるのだと教えてくれたのは、他ならぬ歌仙兼定だった。
「歌仙と見る梅の花も、好きです」
 昨年は余裕がなくて、花が咲く過程を楽しめなかった。
 今年は、違う。横に並んで、一緒に愛でてくれる相手がいる。
 光景を瞼の裏に思い浮かべ、控えめにはにかんだ。打刀はピクリと震えた後、顔を上げ、瞠目して唇を戦慄かせた。
 驚愕に染まる眼差しが、一直線に小夜左文字を射た。
 突き刺さったが、これは痛くないと苦笑して、少年は利き手を伸ばし、立つよう促した。
「歌仙は、どうですか」
 指を揃えて並べ、首を左に傾ける。
 直後。
「うわ」
 差し出した手を無視して、太く逞しい腕が飛んできた。肩を掴まれ、問答無用で引き倒された。
 ふわりと、いつもの馴染んだ匂いが鼻腔を掠めた。冬場でも温かな熱が左右から襲ってきて、一瞬だけ睡魔に誘惑された。
 気が付けば、閉じ込められていた。
 分厚い胸板に正面を塞がれ、がっしりとした腕が腰に回されていた。左肩に熱風を感じた。視界の左半分は、藤色の髪で埋め尽くされていた。
 抱きしめられた。
 立っていられなくて膝を折って、小夜左文字は仕方なく、己を束縛する男を抱きしめ返した。
「歌仙?」
「ああ。もちろんだ。もちろんだとも。決まっているだろう」
 とんとん、と赤子をあやす気分で肩を叩けば、耳元で熱っぽく告げられた。感情を込めて、興奮気味に、荒々しい語気で繰り返された。
 訊くまでもないことをと、怒られもした。それがどうにもくすぐったくて、叱られたのに、嬉しかった。
「明日も、来よう」
 感極まったのか、鼻を啜る音までした。
 いくらなんでも大袈裟だと笑って、小夜左文字は大きな癖に小さな子供の髪を、愛おしげに撫でた。
 

色よりは香は濃き物を梅の花 隠れむものか埋む白雪
聞書集 123

2017/01/15 脱稿