さしも知らじな 燃ゆる思ひを

 心地よい振動と、微かに甘い匂い。
 程よく温かな熱に包まれての微睡は、幸福としか言い表しようのないものだった。
 深く沈み込んでいた意識が波に揺られ、徐々に水面へと浮き上がっていく。薄い皮膜を破れば飛沫が散って、強い光が瞳を焼いた。
「う……」
 あまりの眩しさに呻き、開いたばかりの瞼を閉ざした。ぎゅっと力を込めれば、目尻に浅く皺が寄った。
 鼻の周りに目や口を集めて顰め面を作り、両手も強く握りしめた。首を竦め、背を丸めて、仕草はまるで産まれたての赤子だった。
 緩く折れ曲がった膝が跳ね上がり、空を蹴った末に落ちて行った。踵から剥がれた草履が足裏に舞い戻って、指をもぞもぞさせれば、鼻緒が皮膚を擽った。
 身を縮めて丸くなったまま、小夜左文字は数回息を吐いた。口を窄め、尖らせ、特色ある香りを吸い込んだ。
 覚えのある匂いだった。
 よく知っていると、夢うつつの状況下で考える。
「小夜?」
 その矢先に声が降って来て、波打ち際を彷徨う意識が陸に転がった。覚醒を促され、一度は拒んだ光を受け入れた。
 恐る恐る眼を開き、瞬きを繰り返した。ふっ、と鼻から吐息を零し、少年は指を緩めて空を撫でた。
 宙を漂う掌が、そう行かないうちに壁にぶつかった。探るように叩いて、握れば、馴染みのある匂いが一層強くなった。
 衣服に焚き染められた香が、摩擦で外へと溢れ出したのだ。
 たったこれだけで、そこに居るのが誰なのか分かった。だというのに咄嗟に名前が出て来なくて、小柄な短刀は眉目を顰めた。
「ん、ぅ……?」
 同時に身動ぎ、低く唸る。指の背で瞼を擦り、奥歯を数回噛み鳴らす。
 もごもご唇を蠢かせて、最後に細く、息を吐く。
 大きな欠伸が漏れて、もれなく身体が反り返った。伸びあがり、片腕を頭上へ掲げれば、指先は一直線に空を駆けた。
「ああ、あぶない」
 それに合わせて悲鳴めいた声が聞こえ、身体もぐらりと傾いた。ずるり、と頭から滑り落ちそうになって、急ぎ目を開き、見た世界は全てが逆さまだった。
 結い上げた髪が軒並み地上を目指し、首から上は胴より低い位置にあった。背中を支えていた柱が大慌てで肩に回されて、短い掛け声の後、上下に揺さぶらされた。
「よっ」
「……!」
 腹筋に力を込めて、男が吠えた。と同時に軽い体躯が弾んで、垂れ下がっていた頭部が正しい位置へと戻された。
 腰が沈んで、膝が持ち上がった。胎児の体勢に作り替えられて、小夜左文字は嗚呼、と強張っていた頬を緩めた。
 咄嗟に止めていた呼吸を再開させ、改めて胸元にある衿を手繰り寄せる。緩く握りしめれば、引っ張られた男が目尻を下げた。
「起こしてしまったね、すまない」
「いや……」
 花が綻んだような笑顔を浮かべ、口にしたのは謝罪だ。もっともあまり悪いと思っていないようで、口調は丁寧だが、言葉自体は軽かった。
 短刀は返答に窮して首を振り、視線を巡らせた。己が置かれている状況を整理しようと周囲を確かめ、最後に見慣れ過ぎて些か飽いてすらいる打刀を仰いだ。
 彼は今、歌仙兼定の腕の中に居た。
 どうしてかは分からないが、横向きに抱きかかえられていた。
 遠征から帰還したばかりなのか。裏地が派手な外套は外しているが、戦装束で、首を振れば鼻先が牡丹の花飾りを掠めた。
 対する小夜左文字は内番着で、尻端折りに襷姿だった。手作りの草履を引っかけ、爪先は土で汚れていた。
「どうして、歌仙、が」
 屋敷の中ではなく、屋外だった。景観には見覚えがあり、本丸の裏手に広がる畑の傍だった。
 視覚から得られる情報が増える度に、埋もれていた記憶が次々蘇っていく。今日の彼は畑当番で、水やりを終え、木陰で休んでいたのだった。
 縦横無尽に張り巡らされた水路を点検するのは大変で、疲れる仕事だった。端から端まで歩き回らなければならないし、水量の調節で樋を動かすのは、地味ながら結構な重労働だった。
 相方は江雪左文字で、彼は土を耕すのに夢中だった。
 邪魔するのも悪いと声は掛けず、休憩しようと地面に座り込んだ。良い天気だと眩しい太陽に相好を崩して、その後どうなったか、まるで覚えていない。
 気が付けば歌仙兼定に抱き上げられており、居場所も畑ではなく、屋敷へ向かう道の半ばだった。
 陽はまだ高く、空は明るい。どれくらいの間眠っていたのか気になって、少年は瑠璃色の瞳を細めた。
 睨むように見上げられて、打刀は何故か困った顔をした。即答は避けて一旦余所を向き、大人しく抱えられている短刀にかぶりを振った。
「歌仙」
「ああ、いや。木陰で眠っているのを、見つけたと」
 煮え切らない態度に苛立ち、声を尖らせる。
 強い口調で名を呼べば、恰幅の良い男は肩を竦め、降参だと白旗を振った。
 控えめに微笑んで語った内容は、分かり辛いけれど、伝聞を含んでいた。気付かれなければそのまま流すつもりでいたと解釈して、小夜左文字は半眼した。
 不機嫌に顔を顰め、青藍色の衣を手繰る。爪を立てて布を引っ掻けば、歌仙兼定は深々とため息を吐いた。
 身体を揺らし、彼は短刀を地面に下ろした。二本足で立つまで支え続け、離れていく直前、ふっくら丸い頬を人差し指で擽った。
 名残惜しそうな仕草が、なんとも女々しい。
 幾らか傷ついた顔をしているのも気になって、小夜左文字は首を傾げた。
「どうした」
「江雪殿が、ね。疲れているようだから、部屋で休むようにと仰有っていたよ。後はやっておくから、と」
「……あにうえが?」
 けれど質問は無視され、まるで別のことを告げられた。唐突に脈絡のないことを教えられて、驚き、短刀は目を見張った。
 思えばそれは、先の問いに対する答えだ。だが突然過ぎた所為で気付けず、声は綺麗に裏返った。
 驚愕を隠そうとしない少年に、男は深く頷いた。優しげで、それでいて少し哀しそうな顔をして、低い位置にある頭をぽんぽん、と叩いた。
 大きな手を広げ、ゆっくりと。
 押し潰さないよう力は加減されており、結った髪が上下に踊った。
 それがどうにもくすぐったくて、未だに慣れない。あまり得意ではないと続きは遠慮して、小夜左文字は両手で頭を抱え込んだ。
 後退しても、歌仙兼定は追ってこなかった。曖昧に微笑むだけで、いつもとどこか違っていた。
「……そう」
「昨日の出陣の疲れが、抜け切っていないんだろう」
「そんなことは、ない」
 ただその差異は酷く小さくて、巧く言葉で表せなかった。気のせいかもしれないと声に出すのを躊躇している間に、会話は先に進んで、後戻り出来なかった。
 はぐらかされた。疲労しているとの指摘にも腹を立てて言い張るが、聞き流され、相手にしてもらえなかった。
 一旦は引っ込んだ手が戻ってきて、藍色の髪から覗く耳朶に触れた。軽く抓まれて咄嗟に跳ね除けて、小夜左文字は身体を北に向けた。
 畑仕事はやることが多く、刀一振りではとても手が足りない。どう考えても戻って兄を手伝うべきだが、歌仙兼定の様子も気になって、なかなか決心がつかなかった。
「小夜」
「あにうえ、は」
「一期一振殿が手伝いに来ていたから、心配いらない。君はゆっくり、休むと良い」
「そう、なの」
「ああ」
 もぞもぞしていたら、急かされた。先回りした答えを披露されて、続ける言葉が見つからなかった。
 会話が途切れ、沈黙が落ちた。目を合わさぬまま膝をぶつけ合わせて、小夜左文字はもう一度、木々の間に見え隠れする畑を窺った。
 どれだけ目を凝らしても、そこに動く刀の影は見えない。大声を出したとしても、兄の耳には届くまい。
 迷惑をかけた。要らぬ心配をかけたし、手間取らせてしまった。
 後悔が胸を満たす。どうしてあそこで目を閉じたりしたのかと、眠りに落ちる直前の己を罵りもした。
 下唇を噛んで、拳を作る。
 ぽすん、と大きな手が降って来て、小夜左文字は首を竦めた。
「歌仙」
「部屋まで案内しよう」
「必要ない」
「駄目だよ、小夜。君がちゃんと休むまで、見張っているから」
「僕はそんなに、信用ないか」
「江雪殿に頼まれているからね」
 またか、と手首を打って跳ね除けて、声を荒立て突っぱねる。だというのに歌仙兼定は食い下がり、左文字の太刀の名を口にした。
 反発を抱くが、拒み切れない。兄弟という括りは他者から与えられたものだというのに、今や小夜左文字を程よく縛り、行動を制限した。
 弟らしく、兄の言うことを聞け。
 暗にそう揶揄されたわけで、受け入れ難いのに、従わざるを得なかった。
 家族の真似事など望んでいないのに、周囲がそれを押し付けてくる。全く以て迷惑甚だしくて、鬱陶しかった。
 ただ吐き気を催すほど嫌か、と問われれば、答えに詰まった。
 即答出来ず、顔を背けるしか術がない。
 そんな長兄の名前を免罪符にして、歌仙兼定は胸を張った。早く屋敷へ行くよう促して、穏やかに目を眇めた。
「歌仙」
「なんだい?」
 表面上は愉しげで、幸せそうだ。だというのに語る言葉がどれも薄っぺらいとでも言うのか、心からのものでない気がした。
 思い過ごしかもしれない。そうであれば良いと願う。
「……いやなことでもあったか」
「変なことを訊くんだね」
 それでも問わずにいられなかった短刀に、男は浅葱の眼を見開いた。
 否定はせず、顔を背け、答えを濁した。図星を指摘されて、自然と顔は赤く染まった。
 勘が良過ぎるのも考え物だと嘆息して、歌仙兼定は瞳を伏した。
「なにもないよ」
「歌仙」
「本当だよ、小夜。今ので、消し飛んでしまった」
「言っている意味が」
 どうして分かるのかと、不思議でならない。そんなに自分は分かり易いかと、ある意味衝撃的だった。
 それともこれは、小夜左文字特有の嗅覚なのか。
 だとすれば嬉しく、また見透かされて恥ずかしいし、情けなかった。
 つまらないことにウジウジしていた過去の己を悔いて、打刀は戸惑う少年に微笑んだ。
 畑に出向いたのは、呼ばれたからだ。一期一振に頼まれて、訪ねてみれば江雪左文字が待っていた。
 眠る小夜左文字を抱く太刀に、任せて良いか問われた。何故と訊き返せば、寝言で名前を呼んでいたからだ、と教えられた。
 自分が抱きかかえて運ぶより、貴方の方が良いらしい。自嘲気味に笑う江雪左文字に言われて、心躍ったのは嘘ではない。
 だが現実には、どうだろう。
 江雪左文字の腕の中で、小夜左文字はすよすよ眠っていた。どれだけ揺らされても、撫でられても、安心しきった顔で目覚めなかった。
 ところが歌仙兼定が彼を引き受け、いくらも行かないうちに、短刀は起きてしまった。むずがり、暴れて、降ろせとばかりに身体を伸ばした。
 その落差に、動揺した。
 愕然として、密かに傷ついた。
 寝言で名を呼んでいたという話も、信憑性が薄い。疑いたくはないが、とても信じられなかった。
 そんな胸に蔓延っていたもやもやが、一瞬のうちに掻き消えた。
 小夜左文字は、気付いてくれた。些末な心の揺らぎに、反応してくれた。
 こんなに嬉しいことはない。顔を綻ばせていたら、問答に飽きたのか、小夜左文字が肩を竦めた。
「変な歌仙」
 ぼそりと言って、颯爽と歩き出す。
 風を切って進む短刀の背筋はぴんと伸びて、凛々しく、それでいながら愛らしかった。
「ああ。待ってくれ、小夜」
「歌仙、餓鬼道への近道はどちらだ」
「台所が一番遠回りだね。なにか作ろう。何が食べたい?」
 慌てて追いかけ、声を高くする。
 あっという間に追い付いて、隣に並んだ。肘を伸ばせば指先が触れて、自然と絡まり、結び合った。

2016/1/4 脱稿